カテゴリ:良書紹介( 56 )

國學關連の書に就て。 

 ゴトケン賢兄はじめ、諸兄から日乘の更新が停滯してゐることのお叱りを受ける。殊にゴトケン兄よりコメントが入つてをり、迂闊にも氣付くのが遲れ、時機を失し、放置してしまつた。
 加へてゴトケン兄より時々いたゞくメールも返信せずじまひ。しかしこれは兄に係はらず、どなたにでもさうだ。
 どうもメールは馴染めない。況や携帶電話のメールに於てをや、だ。それでも兄、地震や颱風襲來ともなると、必ず「大丈夫か」とメールを下さる。本道に有難く、兄の懷の深さに感謝してゐる。


 さて。そのゴトケン賢兄も目下、國學に興味をお持ちであるといふ。
 野生のまはりでも國學に關心を寄せる人士が少なくないが、時折尋ねられることは、「お薦めの本は何か」といふことだ。
 固より野生も勉強中の身。然も入口にあるに過ぎない。よつて野生の推薦する書籍が的を得てゐるか否か甚だ疑はしきものだ。
 たゞ一應、野生には野生の勉強の仕方がある。
 明治御一新の起爆劑の一つでもあつた『國學』の、その發展や成長の過程を先づ一通り通讀し、そのうへで野生が氣になつた人物、興味を覺えた書籍などをチヱツクしておき、改めてその著述や書籍を讀む。またそのなかで氣になつた人物や書籍名が出てくるので、再び之を繙く。人、或はかうした進め方を亞流と罵るかも知れないが、野生の場合、この繰り返しが國學に對する親しみをより増させたのは事實だ。因みに野生は『日本の古本屋』から殆ど入手してゐる。

 然るにこの場合、國學の成立と發展の過程を識ることが出來る。清原貞雄先生著『國學發達史』、久松潛一博士著『國學』、傳記學會『國學者研究』などゝゞ、この日乘でも、おほく活用させていたゞいた。
 たゞ讀めば宜いといふわけでは無いといふ御指摘は御尤もだ。謂はゞかうした作業は入口であつて、前記したるがごとく、こゝから自分の學問や思想の「師」を見付けなくてはならない。單に有名な國學者だから、埋もれ木に終はつてゐるから、といふ後世の評判によつて選擇するやうでは、一向に自分のものとならないであらうこと、至極當然だ。

 よつて冒頭の御質問に答へるべく、今囘の更新に至つた。繰り返すが淺學なる野生の答へなど、アテにならない。些か長文となるが久松博士の言を掲げ、國學に關心を持つ人士の、書籍購入の際參考に資していたゞければ幸ひである。


●久松潛一博士『國學と玉だすき』(昭和十五年九月八日「文部省教學局」編纂)に云へらく、
「~國學の學問的性格の成長と推移をたどることが國學史の考察となり、同時に國學史と國文學との關係を見ることにもなるのであるが、なほ從來國學史の扱はれた態度方法を見ると種々の態度が見られる。既に平田篤胤に於てはそれまでに完成した國學の史的考察を古道大意玉だすきに於て概觀的に行つて居るのであつて、國學史の先驅的意味を見出すのであるが、次いで清宮秀堅の古學小傳(安政四年成り、明治十九年刊)は國學史の規模を整へたものである。何れも大體に於て國學者の列傳的な扱方をして居ると見られる。これにも二つの傾向があつて、一は國學者のあらゆる人物を網羅的に列傳する態度で大川茂雄・南茂樹兩氏の國學者傳記集成(明治三十七年)はその最も著しい業績である。一は國學者の中その代表者とすべき春滿・眞淵・宣長・篤胤を中心として考察し、その他をそれらの代表者の門流として一括して、考察する態度であるが、國學史の扱方としては後者が最も多く行はれて居るのである」

「芳賀博士の國學史概論(明治三十三年刊)や藤岡博士の國學史(明治三十四年ー五年講義)、野村八良博士の國學全史等にしても主としてこの態度をとつて居られるのである。しかし進んで國學者の系統を追うて、研究する態度に對して、國學を横斷的に扱つた研究も見られるのである。河野博士の國學の研究(昭和七年五月)や芳賀博士の「日本文獻學」の如きは國學を體系的に扱つて居られるのである。この列傳的と體系的との考察はむしろ國學史概論との相違と見るべきであらう」

「更にかういふ列傳的と體系的との兩者を通じて、更に別の觀點から見る時、種々の扱方の相違が見られるのである。即ち一は神道學的な立場からする國學史の研究であつて、河野博士の國學の研究や、清原貞雄博士の國學發達史(昭和二年)の如きは、かういふ立場にたつて居ると見られる。こゝでは國學史は復古神道史といふ如き形相を示して居るのである。一は國史もしくは日本文化史的な立場にたつ扱方である。竹岡勝也氏の「近世史の發展と國學者の運動」(昭和二年九月)の如きはその著しきものであり、伊東多三郎氏の「國學の史的考察」(昭和七年二月)の如きもさういふ立場にたつて居るのである。一は國文學研究史もしくは國文學研究法的な扱方であつて、芳賀博士の國學史概論もさういふ傾向が著しく見られたのであるが、特に「日本文獻學」(明治四十年講義・昭和三年刊)は國文學研究法の立場から國學を日本文獻學として理解されて居るのである。この傾向は芳賀博士が明治三十五年頃独逸から歸られてから独逸の文獻學との比較の上から「國學とは何ぞや」といふ論文を書かれて以來、芳賀博士の一貫した態度であつたのである(この點は一人の國學者の研究ではあるが村岡典嗣氏の「本居宣長」も大體さういふ態度をとられて居るのである)。藤岡博士の國學史や野村博士の國學全史は國文學研究史としての性質を有して居るが一面には文化史的研究の一面をも備へて居るのである。

 以上は國學史が神道學や國史學や國文學の各分野から扱はれて居るために、それゞゝの立場からの色彩が濃厚となつて來るのであるが、また國學史が是等の種々の分野を學問的領域の中に併せ有して居るためでもあると見られるのである」と。


 
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by sousiu | 2014-07-17 19:47 | 良書紹介

君は百姓を以て本となす。 

●權中納言從三位 源光圀翁修『大日本史』卷之四「本紀第四」仁徳天皇項
『四年丙子、春、二月六日甲子。(仁徳帝)群臣に詔して曰く、朕、高臺に登りて以て遠くを望むに、烟氣、域中に起こらず。意(おも)ふに百姓既に貧しくして、家に炊ぐものなければならん。朕聞く、古、聖王の世には、人人(ひとゝゞ)詠徳の聲をなし、家家(いへゝゝ)康哉の歌ありき、と。今、朕、億兆に臨むこと、茲に三年なれども、頌聲作(おこ)らず、炊烟轉疎なり。即はち知りぬ、五穀登(みの)らず、百姓窮乏せることを。封畿の内、尚ほ給せざるものあり。況んや畿外の諸國に於いてをや、と。
三月二十一日己酉、詔して曰く、今より後、三戴悉く課役を除き、百姓の苦を息(やす)めん、と。是に於いて黼衣鞋履、弊盡せざれば更(あらた)め爲(つく)らず、温飯煖羹、酸餧せざれば之を易(か)へず、小心約志、以て事に無爲に從ふ。是の後、宮垣頽るれども造らず、茅茨壞(やぶ)るれども葺かず、風雨時に順(したが)ひ、五穀豐かに穰り、三年にして百姓殷富、歡聲路(みち)に盈(み)てり。
七年己卯、夏四月辛未の朔、天皇、臺(うてな)に登り、烟氣の多く起こるを見て、皇后に謂つて曰く、朕、既に富めり、復(また)何をか憂へん、と。皇后曰く、今、宮室朽壞して暴露を免れず、何をか富めりと謂ふ、と。天皇曰く、天の君を立つるは、本百姓の爲めなり。故に君は百姓を以て本となす。古昔の聖王は、一人饑寒するも、之を顧みて身を責めたり、百姓の貧しきは、則はち朕の貧しきなり。百姓の富めるは、則はち朕の富めるなり、未だ百姓富みて君貧しきものはあらざるなり、と

 前記の行き掛かり上、今日は 仁徳天皇に就て、「大日本史」から、農事に關することがらを抄録した。



 ところで話しは變はるが、野生はマスコミ流の所謂る『開かれた 皇室』に就て反對の意を唱へるものである。それ詳細を多く語るまでもあるまい。神罰を恐れぬか、甚しきはスリ師の目つきもて 皇室を見(觀察・・・と云ふ可きではなからうから)、更らにはパパラツチの如く如何はしき記事を掲載して省みることなき女性週刊誌もある。讀者の眼光又た然り。精確に云へばかくなる記事が、民の眼光の穢れることを助長してゐるのである。「報道の自由」「知る權利」の際限なき解釋と「賣らんかな主義」は、人をして神聖なるを涜さずにはをられぬものなのか。
 然れどもその一方で、恰も 天皇を「偉人」として宣傳し、啓發を試みる保守系團體もある。その氣持ちも分らぬでもないが、かやうな啓蒙には、同時に憂事が兼備されてゐることを識らねばならない。
 云はずもがな、天皇は我々地上を御照覽あそばれてをられ、世々常々吾人は忝くもその鴻恩を賜はつてゐる。
 けれども日本人は、天皇が「偉人」にあらせられるから拜してゐるのではない。觀念の誤りは、ともすれば、將來「偉人」たらねば拜することに遲疑する者を量産し難ねない。それを以てして、野生は「尊皇心の發露」と到底思へないのである。
 そして彼れらによる記述は、先帝に關することがらに集中する。先帝に對する畏敬と仰慕の念が濃厚たるゆゑのことであらうが、稍もすると「開かれた 皇室」の弊害を齎せかねない。
 今更ら乍ら、當時のあの政治體制、監視下にあつて登場した『大日本史』が如何に人心に影響を與へたか、その影響の至大を思ふとき、實に賞讚の念を禁じ得ないのである。
 然るに近年はその逆で、「言論の自由」「思想の自由」が何びとにも與へられてゐる。であるからこそ、啓蒙啓發にはこと愼重を持さねばならぬと考へる。 
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by sousiu | 2012-10-17 18:46 | 良書紹介

『帝室論』 三 

●福澤諭吉氏、『帝室論』 三に曰く、
『人或は我帝室の政治社外に在るを見て、虚器を擁するものなりと疑ふ者なきを期す可らずと雖ども、前に云へる如く、帝室は直接に萬機に當らずして萬機を統べ給ふ者なり、直接に國民の形體に觸れずして其精神を收攬し給ふ者なり。專制獨裁の政體に在ては、君上親から萬機に當て直に民の形體に接する者なりと雖ども、立憲國會の政府に於ては、其政府なる者は唯全國形體の秩序を維持するのみにして、精神の集點に缺くが故に帝室に依頼すること必要なり』と。

 これは前記に述べたものを繰り返したもの。當時の政體の持てる力の限界を指摘し、その視點から氏なりの 皇威と云はずんば、皇徳を説いてゐる。


○曰く、『人生の精神と形體と孰れが重きや、精神は形體の帥なり、帝室は其帥を制する者にして兼て又其形體をも統べ給ふものなれば、焉ぞ之を虚位と云ふ可けんや。若しも強ひて之に虚位の名を附せんと欲する者あらば、試に獨り默して今の日本の民情を察し、其數百千年來君臣の情誼中に生々したる由來を反顧し、爰に頓に國會を開て其國會のみを以て國民の身心を併せて共に之を制御せんとするの工夫を運らしたらば果して大に不可なるものありて、大に要する所の者あるを覺ふ可し。其要する所のものとは何ぞや、民心收攬の中心にして、此中心を得ざるの限りは到底今の日本の社會は暗黒なる可しとの感を發することならん。左れば帝室は我人民の依て以て此暗黒の禍を免かるゝ所のものなり。之を虚位と云はんと欲するも得べけんや、讀者も心に之を發明することならん』と。

 このあたりの筆法は、最近の時局憤慨に氣焔を吐くが如き論には到底見當る可くもない。といふよりも、近年、かうした論が少なくなつてきたやうに見受けられるも又た寂しきことである。


○曰く、『例へば一利一弊は、人事の常にして免かる可らず、寡人政治の風を廢して人民一般に參政の權を附與し、多數を以て公明正大の政を行ふは國會の開設に在ることならんと雖ども、之を開設して隨て兩三政黨の相對するあらば、其間の軋轢は甚だ苦々しきことならん。政治の事項に關して敵黨を排撃せん爲には、眞實心に思はぬ事をも喋々して相互に他を傷くることならん。其傷けられたる者が他を傷くるは鄙劣なりなど論辯しながら、其論辯中に復讎して又他を傷くることならん。或は人の穩事を摘發し、或は其私の醜行を公布し、賄賂依托は尋常の事にして、甚しきは腕力を以て爭鬪し、礫を投じ瓦を毀つ等の暴動なきを期す可らず。西洋諸國大抵皆然り、我國も遂に然ることならん。文政天保の老眼を以て見れば誠に言語道斷にして國會などなきこそ願はしけれども、世界中の氣運にして、此騷擾の中に自から社會の秩序を存し、却て人を活溌に導く可き者なれば、必ずしも之を恐るゝに足らず』と。

 この如き一節は今日の憂慮そのものである。然も注目されるは、「國會などなきこそ願はし」といふ件りだ。氏は「世界中の氣運」として取り敢へず、之を消化してゐる。國會なぞ、無きものとなる世は如何なるものぞ。こは殘念ながら未來の識者に訊ねるほかあるまい。


○曰く、『然るに爰に恐る可きは、政黨の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり。國會の政黨に兵力を貸す時は其危害實に言ふ可らず、假令ひ全國人心の多數を得たる政黨にても、其議員が議場に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し。殊に我國の軍人は自から舊藩士族の流を汲で、政治の思想を抱く者少なからざれば、各政黨の孰れかを見て自然に好惡親疎の情を生じ、我は夫れに與せんなど云ふ處へ、其政黨も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば、國會は人民の論場に非ずして軍人の戰場たる可きのみ。斯の如きは則ち最初より國會を開かざる方、萬々の利益と云ふ可し』と。

 これは戰後生まれの我々には、ちと非現實的と考へられないでもないが、明治十五年の當時に於ては必ずしも杞憂と一笑に付す可き類ひではない。


○曰く、『斯る事の次第なれば、今この軍人の心を收攬して其運動を制せんとするには、必ずや帝室に依頼せざるを得ざるなり。帝室は遙に政治社會の外に在り、軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ。帝室は偏なく黨なく政黨の孰れを捨てず又孰れをも援けず、軍人も亦これに同じ。固より今の軍人なれば、陸海軍卿の命に從て進退す可きは無論なれども、卿は唯其形體を支配して其外面の進退を司るのみ、内部の精神を制して其心を收攬するの引力は獨り帝室の中心に在て存するものと知る可し。且又軍人なる者は一般に利を輕んじて名を重んずるの氣風なるが故に、之が長上たる者は假令ひ文事理財等に長ずるも、武勇磊落の名望ありて其地位高きに非ざれば任に適せず、今の陸海軍の將校が其給料の割合に比して等級の高きも、是等の旨に出たるものならん』と。

 之は當然のことだ。この當然たる理窟が、改憲論者から生じ來たらないのは何故であらう。啻に現行憲法第九條を批判するも、達成された後の軍隊に於ける精神的支柱は如何にする。市ヶ谷に於ける三島由紀夫烈士の憂國の雄叫びも、現在の改憲論者の前では空しくあるのみ矣。


○曰く、『又亞米利加の合衆國にては宗教も自由にして、政府に人を用ゆるに其宗旨を問はずと雖ども、武官に限りて必ず其國教なる耶蘇宗門の人を選ぶと云ふ。蓋し他宗の人は兔角世間に輕侮せられて軍人の心を收るに足らざればなり。武流の人が名を重んずるの情以て見る可し。然るに今國會を開設して國の大事を議し、其時の政府に在る大臣は國會より推薦したる人物にして、偶々事變に際して和戰の内議は大臣の決する所なりとするときは、陸海軍人の向ふ所は國會に由て定めらるゝ者の如し、軍人の進退甚だ難きことならん。假令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は國會より出たるものにして、國會は元と文を以て成るものなれば、名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり。唯帝室の尊嚴と神聖なるものありて、政府は和戰の二議を帝室に奏し、其最上の一決御親裁に出づるの實を見て軍人も始めて心を安んじ、銘々の精神は恰も帝室の直轄にして、帝室の爲に進退し帝室の爲に生死するものなりと覺悟を定めて、始めて戰陣に向て一命をも致す可きのみ、帝室の徳至大至重と云ふ可し。僅に軍人の一事に就ても尚且斯の如し、我輩は國會の開設を期して益々其重大を感ずる者なり』と。

 これまた然り。民主政治に對する憂慮を軍隊との關係から説いてゐる。


 先頃、締切りを一日、延ばしていたゞかうと、「不二」編輯部に御願ひの申入れをした。
 快く(・・・か否かは不明だが)、これを承諾してくれたので、つひ氣晴しに日乘の續きを記した次第である。「不二」の原稿は兔角緊張を要するのである。
 「帝室論」も「不二」拙稿も、やうやく四分の一のところまできた。さて、これから、本氣で原稿を書き上げてゆく積もりだ。
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by sousiu | 2012-09-16 00:45 | 良書紹介

『帝室論』 二 

●福澤諭吉氏、『帝室論』 二に曰く、
『我帝室の直接に政治に關して國の爲に不利なるは前段に之を論じたり。或人これに疑を容れ、政治は國の大事なり、帝室にして之を關せずんば帝室の用は果して何處に在るやとの説あれども、淺見の甚しきものなり。抑も一國の政治は甚だ殺風景なるものにして、唯法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し、其約束に從ふ者は之を赦し、從はざるものは之を罰するのみ。畢竟形態の秩序を整理するの具にして、人の精神を制するものに非ず。然るに人生を兩斷すれば形體と精神と二樣に分れて、よく其一方を制するも他の一方を捨るときは制御の全きものと云ふ可らず。例へば家の雇人にても賃錢の高と勞役の時間とを定るも決して事を成す可らず、如何なる雇人にても其主人との間に多少の情交を存してこそ快く役に服する者なれ、即ち其情交とは精神の部分に屬するものなり。賃錢と時間とは唯形體の部分にして、未だ以て人を御するに足らざるなり。故に政治は唯社會の形體を制するのみにして、未だ以て社會の衆心を收攬するに足らざるや明なり』と。

 これは政治の個性に就て語つたもの。今日に於て特に眞新しき論でもない。


○曰く、『此人心を收攬するに、專制の政府に於ては君王の恩徳と武威とを以てして恩に服せざるものは威を以て嚇し、恩威并行はれて天下太平なりし事なれども、人智漸く開けて政治の思想を催ふし、人民參政の權を欲して將さに國會を開んとするの今日に至ては、復た專制政府の舊套を學ぶ可らず。如何となれば國會爰に開設するも其國會なる者は民選議員の集る處にして其議員が國民に對しては恩徳もなく又武威もなし、國法を議決して其白文を民間に頒布すればとて、國會議員の恩威并行はる可きとも思はれず、又行はる可き事理に非ざればなり。國會は直に兵權を執るものに非ず、人民を威伏するに足らず、國會は唯國法を議定して之を國民に頒布するものなり、人民を心服するに足らず。殊に我日本國民の如きは數百年來君臣情誼の空氣中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は唯この情誼の一點に依頼するに非ざれば、國の安寧を維持するの方略ある可らず、即ち帝室の大切にして至尊至重なる由縁なり。況や社會治亂の原因は常に形體に在らずして、精神より生ずるもの多きに於てをや』と。

 つまり、それ以前の武家政治と違ひ、當時新らたに導入された政治體制では、議員は國民に恩徳なし武威なし、一方の國民には心服なし、極めて事務的と云はずんば形體的な繋がりであるのみ、といふことを指摘したものだ。而、精神に於ける繋がりを通じて道徳的秩序を形成するは、君臣の情誼にある、と。


○曰く、『我帝室は日本人民の精神を收攬するの中心なり、其功徳至大なりと云ふ可し國會の政府は二樣の政黨相爭ふて火の如く盛夏の如く嚴冬の如くならんと雖ども、帝室は獨り萬年の春にして、人民これを仰げば悠然として和氣を催ふす可し。國會の政府より頒布する法令は其冷なること水の如く、其情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くにして、人民これを仰げば以て其慍りを解く可し、何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり。西洋の一學士帝王の尊嚴威力を論じて之を一國の緩和力と評したるものあり、意味深遠なるが如し。我國の皇學者流も又民權者流もよく此意味を解し得るや否や、我輩は此流の人が反覆推究して自から心に發明せんことを祈る者なり』と。

 當時の皇學者に樣々あり。一緒くたに淺學者の如き扱ひをす可きではないが、それは姑く措くとして、兔も角贊否いづれにせよ、興味のそゝらるゝ筆法だ。


○曰く、『例へば明治十年西南の役に、徴募巡査とて臨時に幾萬の兵を募集して戰地に用ひたることあり。然るに其募に應ずる者は大抵皆諸舊藩の士族血氣の壯年にして、然かも廢藩の後未だ産を得ざる者多し。家に産なくして身に血氣あり、戰場には屈強の器械なれども、事收まるの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや。殺氣懍然たる血氣の勇士、今日より無用に屬したれば各故郷に歸りて舊業に就けよと命ずるも、必ず風波を起す事ならんと、我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して竊に憂慮したりしが、同年九月變亂も極を結で、臨時兵は次第に東京に歸りたり。我輩は尚此時に至る迄も不安心に思ひし程なるに、兵士を集めて吹上の禁苑に召し、簡單なる慰勞の詔を以て幾萬の兵士一言の不平を唱る者もなく、唯殊恩の渥きを感佩して郷里に歸り、曾て風波の痕を見ざりしは、世界中に比類少なき美事と云ふ可し。假に國會の政府にて議員の中より政府の首相を推薦し其首相が如何なる英雄豪傑にても、明治十年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや、我輩斷じて其力に及ばざるを信ずるなり』と。

 餘談ではあるが、野生は嘗て、某自稱傲慢なる漫畫家に、天皇の美談美事を以てして 皇室崇拜の啓蒙を促すことに、差し出がましくも苦言したことがある。苟も日本人は、天皇が御英邁であらせられるから、國民の爲めに御盡力遊ばされたから、畢竟するに偉人であらせられるから仰拜し忠勤に勵むのではない。それ左右の立場的相違こそあれ、いづれも「開かれた 皇室」を謳歌する者らによる惡弊以外のなにものでもないのである。
 若しも、美事を掲げて啓蒙せんと欲するならば、上記福澤氏の如く、國民の側の、皇室を仰ぐ誠を描寫し後世に傳へることを第一とす可きである。これを以て「何故に?」と思ふ者あらば、そはその疑問は、皇威なんたるか自づと學習する動機となるのである。今は便利になつて、インターネツトを利用して、未だ多數とは云へぬまでも、愚直なまでに勤皇の基礎を固めんと只管ら研究、發表するサイトを探すことも不可能ではない。(少ないながらも我が日乘右にも學び舍を掲げてある)
 兔に角福澤氏は、具體例を以て、これを示したものだ。而して、首相にはその力なし、と。


○曰く、『又假に爰に一例を設けて云はん。天皇陛下某處へ御臨幸の途上、偶ま重罪人の刑場に赴く者ありて御目に留り、其次第を聞食されて一時哀憐の御感を催ふされ、彼の者の命だけを赦し遣はせとの御意あらば、法官も特別に之を赦すことならん。然るに此事を新聞紙等に掲げ世間の人が傳聞して何と評す可きや。我輩今日の民情を察するに、世間一般の人は彼の罪人を目して唯稀有の仕合者(しあはせもの)と云ふことならんと信ず。某月某日は「彼の罪人の爲には如何なる吉日か、不思議の事にて一命を拾ふたりとのみにて、嘗て法理云々など論ずる者なく、假令ひ之を論ずるも聽く者はなかる可し。固より罪ある者を漫(みだり)に赦すは社會の不幸にして、我帝室に於ても漫に行はせらる可き事に非ず、況や本文は唯假に例を設けて我民情を寫したるまでのことなれども、或は政治上に於て止むを得ざるの場合なきに非ず』と。

 これは引き續き、例を擧げて説明したもの。例といふより今囘は福澤氏の想像だ。而して、この通りと察せらるゝ。換言すれば、雲上は法制の社外であるといふことだ。況や、政治に於てをや、とした論法だ。


○曰く、『國法に於て殺す可し、情實に於て殺す可からず、之を殺せば民情を害するが如き罪人あるときは、帝室に依頼して國安を維持するの外方便ある可らず。故に諸外國の帝王は無論亞米利加合衆國の大統領にても、必ず特赦の權を有するは之が爲なり。我帝室も固より其特權を有せられ、要用のときには必ず政府より請願して命を得ることもあらん、決して漫然たることには非ずと雖ども、外國にても日本にても、等しく特赦の命を下して其民情に對して滑なるの度合如何を比較すれば、我日本の國民は特別に帝室を信ずるの情に厚き者と云はざるを得ず。我輩が今日國會の將さに開かんとするに當て、特に帝室の尊きを知り、其尊嚴の益々尊嚴ならんことを祈り、其神聖の益益神聖ならんことを願ひ、苟も全國の安寧を欲して前途の大計に注目する者は容易に其尊嚴を示す勿れ、容易に其神聖を用ゆる勿れ、謹で默して之を輕重する勿れとて、反覆論辯して止まざるも、唯一片の婆心自から禁ずること能はざればなり』と。

 前段はちとしつくりしないものがあるが、兔に角、第二章に於ても、氏は只管ら福澤流の 皇室の尊嚴神祕を説き、民主政の社外たる可きを説いてゐる。

 結局、全文を掲載してしまつたが、實は今日原稿の締切りなので早々に筆を措きたい。
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by sousiu | 2012-09-15 17:08 | 良書紹介

『帝室論』 一 

 昨日廿日は、木川青年が來横した。
 共にお勉強の時間を過ごした。
 野生も、偶にはお勉強をする。釣りばかりやつてゐるわけではない。

 その木川青年、先日の時對協懇親會で曰く、
 『僕が大學で教はつてゐる教授は左翼だが、彼れらは 皇室に對して本當に能く勉強をしてゐる。彼れらほど、皇室に就て學んでゐる者が、果して右翼にゐるだらうか』と。
 心情面では認めたくないが、こは、事實と云ふ可きである。
 「尊皇」と云うてさへゐれば我が陣營の模範生と云はずんば、資格者だといふものではない。
 「尊皇」とはなにか、これを答へる能はざるして、他者に「尊皇心が無いので貴奴は怪しからぬ」といふは何う考へても辻褄が合はない。若しもこの矛盾を矛盾とせずして滿足するならば、尊皇家と自稱するほどの人が、皇室論に於て、左翼に完敗することゝなつてしまふ。
 尤も野生はそれで滿足する能はぬ。然るが故に現在、勤皇の基礎を固める作業に著手するのである。

●頭山統一翁、昭和六十一年八月廿一日『日本皇室論』(昭和六十二年五月廿七日『島津書房』發行)に曰く、
『しかるに昭和二十年に、日本帝國が敗戰の日を迎へる暗黒の時代になつて、それまでの近代的皇室理論の不勉強が、日本國民の著しい弱點として、はつきりと現はれた。明治初期のヘコヲビ書生と同程度の反天皇制理論が横行しても、それに對して、「國民感情が同感しない」と言ふ程度の反論のほかに用意がないと言ふ極端な理論の缺如が露呈された』と。

 ところで先般、福澤諭吉氏の『帝室論』を一讀した。
 野生は、過日、「不二」紙上に於て、「維新後史觀の脱却」を訴へたのであるが、それに伴ひ、明治時代の 皇室論や議會誕生の過程に就て、如何なる意見があつたか興味を覺えた爲めだ。

 福澤氏に就ての評判は贊否兩論だ。少なくとも、氏は洋學者である。野生は「西洋事情」ほか二、三の著述を讀んだ程度で、氏の思想に詳しくはないが、どちらかと云へば宜い印象を持つてゐなかつた。
 であるからこそ、猶ほのことゝして、彼れの『帝室論』は如何なるものか、興味がそゝられたわけである。

 (野生にとつては)意外であつたが、退屈する暇もなく、通讀出來た。
 固より逐一首肯する能はざるも、今日本屋に立ち竝ぶ(やたら六ケ敷く書かれてあるが中身は希薄なる)鹿爪顏した保守論客の 皇室論よりも、讀み應へがあつたと認めざるを得ない。

 『帝室論』は、立憲帝政黨の出現に對する諭吉氏の憤慨から、皇室は政治社外であるとす可き立場に立つて、つまり之を説明したものだ。
 野生は曾て、備中處士氏に『何よりも重要な事は、先づ「疑つて讀む」こと』と教はつたことがある。
 今度びの『帝室論』も疑つて、といふより讀みながら反論す可く、讀んでみた。
 福澤諭吉の洋學者たる一面を以て好ましく思はぬ尊皇家あるならば、啻に「洋學者の云ふ 皇室論なんざくだらぬ」と云はず、論破を試みる可きが道理だ。

 この書は殊更ら緊張感を以て執筆に當つたといふ福澤氏であるが、より力瘤を入れたであらうと思はれる箇所を抄録してみる。
 諸賢も反論す可く、之を御一讀いたゞきたい。(斷わつておくが野生は必ずしも福澤氏を尊皇家と云うて過大評價して彼れを宣傳するものではない。固より福澤氏から一錢すら辯護の報酬を貰ふものでもない。尤も、諭吉が多く我が家を訪れ、諭吉で我が室が埋め盡されむを願ふにせよ)


●福澤諭吉氏、明治十五年四月廿六日、『帝室論』(明治四十四年『時事新報社』發行)一に曰く、
『帝室は政治社外のものなり。苟も日本國に居て政治を談じ政治に關する者は、其主義に於て帝室の尊嚴と其神聖とを濫用す可らずとの事は我輩の持論にして、之を古來の史乘に徴するに、日本國の人民が此尊嚴神聖を用ひて直に日本の人民に敵したることもなく、又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし。往古の事は姑く擱き、鎌倉以來世に亂臣賊子と稱する者ありと雖ども、其亂賊は帝室に對するの亂賊に非ずして、北條足利の如き最も亂賊視せらるゝ者なりと雖ども、尚且大義名分をば蔑如するを得ず。左れば此亂臣賊子の名は日本人民の中にて各主義を異にし、帝室を奉ずるの法は斯の如くす可し、斯の如くす可からずとて、互に其遵奉の方法を爭ひ、天下の輿論に亂賊視せらるゝ者は亂臣賊子と爲り、忠義視せらるゝ者は忠臣義士たるのみ。我輩固より此亂臣賊子の罪を免すに非ず、之を惡み之を責めて止まずと雖ども、這(こ)は唯我々臣子の分に於て然るのみ。遙に高き帝室より降臨すれば亂賊も亦是れ等しく日本國内の臣子にして、天覆地載の仁に輕重厚薄ある可らず。或は一時一部の人民が方向に迷ふて針路を誤ることも一時これを叱るに過ぎず、其これを叱るや父母が子供の喧嘩して騷々しきを叱るに等しく、之を惡むに非ず唯これを制するのみにして、僅に其一時を過れば又これを問はず、依然たる日本國民にして帝室の臣子なり。例へば近く維新の時に當て官軍に抗したる者あり、其時には恰も帝室に抗したるが如くに見えたれども、其眞實に於ては決して然らざるが故に、事收るの後は之を赦すのみならず又隨て之を撫育し給ふに非ずや』と。

 これは冒頭の一節だ。
 先づ氏は、日本が 皇國であることを認めてゐない者は(顯在的意識と潛在的意識の別あるにせよ)存在しない、と斷言してゐる。
 勿論、これまで、國内では囘避し難き葛藤、齟齬あり。不運にも戰亂が勃發した場合さへあつた。
 さらばそこには必然、討つ可き側と討たれる可き側の別が生ずる。されど討つ側も討たれる側も、皇室を何のやうに奉戴するかの別こそあれ、いづれも 崇拜の念皆無で無かつたといふわけだ。畢竟、日本人、皆、天皇赤子ならざるはなし、の論だ。


○曰く、(中略)『右の如く我日本國に於ては古來今に至るまで眞實の亂臣賊子なし、今後千萬年も是れある可らず。或は今日にても狂愚者にして其言往々乘輪に觸るゝ者ある由傳聞したれども、是れとても眞に賊心あるとは思はれず、百千年來絶て無きものが今日頓に出現するも甚だ不審なり。若しも必ず是れありとせば其者は必ず瘋癲ならん、瘋癲なれば之を刑に處するに足らず、一種の檻に幽閉して可ならんのみ』と。

 これには野生も同意だ。野生は何でもかでも「國賊」と罵倒することには反對の立場だ。安易に「あれも國賊、これも國賊」と輕口を發する者、一見してその者は「日本國民皆 天皇赤子である」といふ確信があるやうに見えるが、寧ろ實はその反對で、不信から生ずる發言に他ならない。これは能く能く、吾人の省察せねばならぬことである。
 福澤氏のこの論に隨へば、渡邉文樹氏など可愛いもんだ。彼れを「國賊」と呼ぶは、大袈裟にも程がある。彼れがフーテンであるか否かは定かならねど(尤も彼れは一種の檻に何度も幽閉されてはゐるが)、彼れもまた、天皇赤子の一人であることは疑ふまでもない。
 而して、以下、早くも氏は本題に突入する。


○曰く、『去年十月國會開設の命ありしより、世上にも政黨を結合する者多く、何れにも我日本の政治は立憲國會政黨の風に一變することならん。此時節に當て我輩の最も憂慮する所のものは唯帝室に在り。把も政黨なるものは、各自に主義を異にして、自由改進と云ひ、保守々舊と稱して互に論鋒を爭ふと雖ども、結局政權の受授を爭ふて己れ自から權柄を執らんとする者に過ぎず。其爭に腕力兵器をこそ用ひざれども、事實の情況は源氏と平家と爭ひ、關東と大阪と相戰ふが如くにして、左黨右黨相對し、左黨に投票の多數を得て一朝に政權を掌握するは、關東の徳川氏が關原の一捷を以て政權を得たるものに異ならず、政黨の爭も隨分激しきものと知る可し。此爭論囂々の際に當て、帝室が左を助る歟又は右を庇護する等の事もあらば、熱中煩悶の政黨は一方の得意なる程に一方の不平を増し、其不平の極は帝室を怨望する者あるに至る可し』と。

 この文章は明治十五年四月廿六日の記述だ。期せずしてその凡そ一ケ月前(同年三月十三日)に、立憲帝政黨は結黨された。
 固より、氏の同黨に對する批判の前提であることは云ふまでもない。


○曰く、『其趣は無辜の子供等が家内に喧嘩する處へ父母が其一方に左袒するに異ならず、誠に得策に非ざるなり。加之(しかのみならず)政黨の進退は十數年を待たず、大抵三五年を以て新陳代謝す可きものなれば、其交代毎に一方の政黨が帝室に向ひ又これに背くが如きあらば、帝室は恰も政治社會の塵芥中に陷りて、其無上の尊嚴を害して、其無比の神聖を損するなきを期す可らず、國の爲に憂慮す可きの大なるものなり』と。

 つまり、當時既に布かれてゐた民主政治では、皇室が直接この社中に關はることによつて、その尊嚴、神聖は大きく損なつてしまふことを危惧してゐる。
 逆言せば、民主政治の涜れたる本質を認めてゐることゝ云へなくもない。


○曰く、(中略)『帝室は萬機を統(すぶ)るものなり、萬機に當るものに非ず。統ると當るとは大に區別あり、之を推考すること緊要なり。又皇學者流が固く其守る所を守るが爲に、其主義時としては宗旨論の如くなり、苟も己れに異なる者は之を容れずして却て自から其主義の分布を妨るものあるが如し。人をして我主義に入らしめんと欲せば、之に入るの門を開くこそ緊要なれ、是等は我輩の感服せざる所なり。我輩は赤面ながら不學にして神代の歴史を知らず、又舊記に暗しと雖ども、我帝室の一系萬世にして今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは明に之を了解して疑はざるものなり。此一點は皇學者と同説なるを信ず、是即ち我輩が今日國會の將さに開かんとするに當て、特に帝室の獨立を祈り、遙に政治の上に立て下界に降臨し、偏なく黨なく以て其尊嚴神聖を無窮に傳へんことを願ふ由縁なり』と。

 このあたりの論法は、之を眞似たのか、有名人と權力者好きの、どこぞの自稱新右翼たる賣文屋の發言に似てゐるが、その内容、本質は雪と墨との相違がある。
 これにて一の項は終はる。結局九割方を書き出してしまつた。
 この書き方は「柳子新論」で懲りた筈の野生であつたが、今一度、「腱鞘炎知らず」を相棒として頑張つて續けたい。

 繰り返すが、抑もこの一書を野生が手にしたのは、今日の閉塞したる刻下状況を突破する爲めには、戰後史觀の脱却でなく維新後史觀の脱却を試みんとする爲めに繙いたのである。
 氏の論を總て鵜呑みにしたものでも、又た、鵜呑みにせよと云ふでない。
 先づ「疑つて讀む」こと、疑ふことから審神が始まる、てふ、九段塾御主人の御忠告を同志と共に活かしたく思ふものである。
 思想は良い惡いだけではない。取捨の選擇もあるのだ。良い、とか、惡い、とか既出の思想や思考を評論するだけでは、もう何うにもならぬ。そろゝゝ日本人は自身の力で考へを發展させてゆく必要がある。
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by sousiu | 2012-09-14 15:07 | 良書紹介

柳子新論抄  「富彊第十三」 

 やうやく最終章に辿り著いた。
 頑張つて毎日、更新し續けたものゝ、殘念乍ら昨日は一日外出、無念、先週中には終へることが出來なかつた。


●山縣大貳先生、『柳子新論』「富強第十三」(原文は「富彊」也)に曰く、
『柳子曰く、食足る之を富と謂ひ、兵足る之を彊(※「強」の意。以下然り)と謂ふ。
富且つ彊なるは天下の大利なり。食既に足る。兵既に彊し。而る後に國は以て虞れ無かる可きなり。
是れを以て先王は、珠玉を貴ばずして稻梁を貴び、姫妾を愛せずして黎庶を愛す。無益を以て有益を害せざるなり。故に磐石千里、富と謂ふ可からざるなり。衆人百萬、彊と謂ふ可からざるなり。
磐石は粟を生ぜず、衆人は敵を防がざればなり。地廣くして食に乏しく、民衆くして使はざれば、奚ぞ以て磐石と衆人とに異らんや。是れ特(ひと)り天下をのみ然りと爲すにあらず。諸侯の國に於ける、大夫の家に於ける、士の妻孥に於ける、皆、然らざるは無きなり。~云々』、(※改行は、野生による。下記然り)


 ○内容の解説に曰く、
『天下の大利として、富、強を掲げて説明し、聖王の治がこれを得んと努力するに對し、闇君庸主は、務めてその國を弱め、その民を貧しくし、禍亂の因を釀成するを述べた』



●大貳先生の曰く、
『古に稱すらく、國に九年の蓄(たくはへ)無きを貧と曰ひ、六年の蓄無きを窮と曰ひ、三年の蓄無きを、國其の國に非ずと曰ふなり、と。夫れ其の蓄積は、豈に特り自ら養ふが爲めのみならんや。亦た將さに以て其の民を救ひ、其の難に備へんとするなり。
後世の國を保つ者、或は一年の食無く、甚しきは數歳の入を逆折するも(※下記參照)、尚ほ且つ足らずして之を大夫に取り、大夫足らずして之を士に取り、士足らずして之を妻孥に取る。豈に啻に國、其の國に非ざるのみならんや。一旦之が爵を奪ひ、其れをして盡く其の債を償はしめんか。子を易(か)へ骨を折くと雖も、吾、一飯をだも給する能はざるを知るなり。夫れ此の如くんば、則はち何を以てか能く王室に藩屏として其の封疆を固めんや。是れを以て其の士、日に窮し、其の民、日に叛き、忿怨激發して自ら陵犯の心無きこと能はず。
然れども國固より貧しく、兵固より弱く、屈彊自ら奮ふ能はず、屏息之を避くれば、則はち天下は實に慮を容るゝもの無きに似たり。闇愚の主は、乃はち以爲へらく、彼れは貧しくして我れは富み、彼れは卑しくして我れは尊ければ、則はち磐石の固きを以て、泰山の安きに居り、治平の術以て尚(くは)ふる莫し、と。
姦臣賊吏、聚斂附益して以て其の心を悦こばしめ、阿諛逢迎して以て其の言に順(したが)ひ、甚しきは則はち之を唐虞三代の治に比し、雅を爲(つく)り、頌を爲り、曾て箴規の言有ること無く、而して其れをして自ら其の智に誇り、自ら其の徳に伐り、事情を知る無く、時勢を知る無からしむれば、則はち闇き者は益々闇く、愚なる者は益々愚にして、亡びんこと旦夕に在りて、而して自ら之を知らざるなり』、


 ○内容の解説に曰く、
『翻つて、當代社會を解剖し、その富、強二つながら得る能はず、まさに存亡の危機に際會して居るにかゝはらず、爲政者の無知なる、未だそれを意識せずして、泰平を謳歌してゐるのを慨歎した』

 ※『後世の國を保つ者、或は一年の食無く、甚しきは數歳の入を逆折するも』(原文「後世有國家。或無一年之食。甚者逆析數歳之入」)
 後世とは暗に大貳先生の生を享けし當時をさすものであらう。
 幕府の財政は、三代家光の頃までは餘裕綽々たるものがあつた。家康は慶長十年十月駿府に移るに際して、從來西城に貯蓄して居た黄金三萬枚、銀子一萬三千貫を秀忠に與へたが、その隱居十年間に、金銀凡そ二百萬兩を貯へた。この二百萬兩の遺産をすべて他に讓つて一文もとらなかつた秀忠は、所謂守成の士であり、財用は依然として潤澤であつた。青山延光が、野史纂略に「前將軍秀忠、東照公の遺訓に隨ひ、崇尚節儉、故に當時の國用、二十年前の租入を用ふるに至り、府庫の富、古今罕(まれ)に有り」(原漢文)と云つたのも、さまで誇張とは思はれない。家光は約三十年に及ぶ治世の間に、島原の亂、日光廟の改築、その他の土木工事、旗本の加増、賑恤等財を散ずる事多かつたが、その財政はなほ微動だにしなかつた。然るに、この三代の蓄積も、四代家綱に至つて、明暦の大火によつて大打撃を蒙り、漸く收支均衡を失つたが、元祿時代に入り、遂に破綻を暴露し、享保、寛政の立直しの努力にもかゝはらず、次第に惡化した。諸藩の窮乏は、幕府よりも早く來た。山崎闇齋先生の談を筆録したと傳へられる「去徹問答」にも、「いつとはなく國用足らず」なつたことが指摘せられ、熊澤蕃山は「大學或問」に「諸大名諸家中身上不相應の借金にてすべきやうなければ、つよきと思ひながらも、民に取ること年々多し、」と云つてゐる。かゝる窮乏を打開するための財政策が、こゝに緊急の問題となつたのは云ふまでもない。鑛山の收入、貨幣改鑄益金の捻出、大都市の商人への御用金等の財源を有する幕府は、流石に年貢の増徴に依頼することは比較的に少なかつたが、それでも年貢加重の傾向は避けられなかつた。



●大貳先生の曰く、
『夫れ大木の折るゝや、必ず蠢を通ずるに由り、大堤の壞るゝや、必ず隙(げき)を通ずるに由る
而して之に加ふるに、疾風暴雨を以てせざれば、則はち折れず、壞れず。
然れども風雨無きを以て、其の蠢隙を危ぶまざる者は愚の至なり。且つ夫れ馬を渇せしめて之を馭するは、眞に之を馭するに非ざるなり。水草を得ば、則はち逸らん。
虎を饑ゑしめて之を伏するは、眞に之を伏するに非ざるなり。肥肉を見ば、則はち益々猛らん。是れ特(ひと)り馬と虎とのみにあらざるなり。鳥窮すれば則はち啄(ついば)み、獸窮すれば則はち攫む。尺蠖の屈するは、以て伸びんことを求むるなり。龍蛇の蟄するは、以て身を存せんとするなり

 これは、現實が表面的平靜の裡に至危を藏せることを、比喩的擧例を以て説明したもの。



●大貳先生の曰く、
『是の時に當りてや、英雄豪傑、或は身を殺して仁を成し、或は民を率ゐて義を徇へ、忠信智勇の士、誘掖贊導して以て天下を煽動せば、則はち饑者の食に就き、渇者の飲に就くが如く、奮然として起ち、靡然として從ひ、勢自ら禦ぐ可かざるもの有らん。冤を洗ひ、耻を雪ぐの心、恩に感じ報を圖るの志、勇を奮ひ義を勵まさば、則はち放伐の易き(※下記參照)、蠧を通ずるの木、隙を通ずるの堤、之に加ふるに疾風暴雨を以てするものと謂ひつ可し。此に至りて始めて嚮(さき)の所謂る泰山の安きは、特り幕燕の危ふきのみにあらざるを知るなり。是れ其の損益する所以の理、蓋し見る可くして、存亡の機は此に關せり。故に國家を有つ者、無益を以て有益を害せざれば、則はち人君の事、畢(をは)る。 ~云々』、


 ○内容の解説に曰く、
『前述の如き社會状勢は、よし爲政者が意識せざるにせよ、一觸即發の状態にあるもので、敢爲なる指導者の出現によつて直ちに且つ容易に動亂に導くことが可能であるとなし、政治の要諦について端的に述べた』

 ※『則はち放伐の易き云々』(原文「則放伐之易。云々)の説明
 鳥巣通明先生の曰く、
『こゝに謂ふところの放伐は、當代社會の改革、具體的には討幕を意味し、必ずしも直ちに國體に反するものと爲すことはできない。然しながら正名を重んずる著者にして、この語を濫用し、議論を曖昧にすることは、甚だ遺憾であると云ふべきであらう。彼の放伐是認論に就いては、すでに利害第十二の章に述べた。そして、現實社會の孕む矛盾剔抉に示された卓越せる手際、將來に對する適確なる見透し、改革を論ずるに當つての敢爲の精神にもかゝはらず、不幸にして、彼の立場が儒學思想を脱却して居なかつたことも、その折觸れて置いた』と。



●大貳先生の曰く、
『古の人は、目の見るに短なるが故に鏡を以て面を觀、智の自ら知るに短なるが故に道を以て己を正したりき。
人君の學は、身に六藝の文を修むるに在らず。口に百家の言を誦するに在らず。苟も道の信ず可きを知らば、斯れ足れり。道の信ず可きを知らば、則はち道を知る者至らん。至りて而して之を信ぜば、姦賊將さに何に自(よ)りて興らんとする。國に姦賊無くんば、則はち天下の難は已むなり、と』(本文、完。跋、略す)


 ○内容の解説に曰く、
『人君の事は、道を信ずるに在りと説いて、本章を結ぶ』

 大貳先生はこの最終章に於て、當然の如く、「柳子新論」を總括されてゐる。
 國民が食糧に不自由せぬ状態を富と云ひ、兵備の充足した状態を強と云ひ、當然のことではあるが、この富強が完備することは國家として最も利益の大なるものであると喝破してゐる。
 ところが現實はどうだらうか。幕府を始め、みな經濟的には汲々とし、家臣から、農民まで、生きること以外の目的を持つ能はざる毎日であり、民は無法を働き、或は愛兒を賣らねばならぬ始末である。畢竟、怨嗟の聲は高まり、これでは、富なく強なく、國家大安心には到底覺束ない状態である。
 あはれむ可き哉、しかし、爲政者はこゝに至つて建て直す方法を失し、夥しい負債と窮乏とに迫られるのみ。 刑と法は當を得てをらず、人心は亂麻の如くある。豈に憂ふ可からざるや。
 大貳先生の、上記、『大木の折るゝや、必ず蠢を通ずるに由り、大堤の壞るゝや、必ず隙を通ずる』とは、比喩的表現を以て、暗に討幕を主張してゐると解釋することが出來やしまいか。
 この意は後段に掛けられてゐる。曰く、『尺蠖の屈するは、以て伸びんことを求むるなり。龍蛇の蟄するは、以て身を存せんとするなり』と。こは、尺取蟲が身を屈するは、伸びんが爲めであり、龍と蛇が蟄伏するは、身を存して他日の昇天を期さんが爲めであるといふ意味だ。當時の人の世にあらぬかの如き世も、不幸を繪に書いたやうな毎日も、他日大に幸福ならんが爲めのものである、と。
 而して、大貳先生は、結論として、『苟も道の信ず可きを知らば、斯れ足れり。道の信ず可きを知らば、則はち道を知る者至らん』と述べてゐる。
 人に於ても、國に於ても、「道」なるもの踏み外す勿れ、との箴言だ。

 さて。今日の日本は如何。果して世界は如何。

 吾人は、大志を懷いて、國歩を正しき道へと善導し、只管ら修理固成を熱祷するある而已矣。
 暗澹たる世に於て吾人は、先人の國運挽囘の志と姿勢に學ぶところ多しとするものである。
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by sousiu | 2012-05-13 12:48 | 良書紹介

柳子新論抄  「利害第十二」  坤。 

~承前~

●大貳先生の曰く、仝、
『且つ夫れ刑罰は、豈に特(ひとり)民の非を爲すを禁ずるのみならんや。苟も害を天下に爲す者は、國君と雖も必ず之を罰し、克(か)たざれば則はち兵を擧げて之を伐つ。故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つも、亦た皆、其の大なる者なり。
唯だ其の天子より出づれば、則はち有道と爲し、諸侯より出づれば、則はち無道と爲す。況んや其の群下者より出づるものをや。故に善く之を用ふれば則はち君たり、善く之を用ひざれば則はち賊たり。
さきに湯武をして志、徒に其の害を除くに在り、其の利を興すに心無からしめんか、此れ亦た爭奪して己を利するのみ。何ぞ以て仁と爲さんや。是の故に湯武の放伐は、無道の世に在りて、尚ほ、能く有道の事を爲せば、則はち此は以て君と爲り、彼は以て賊と爲る。假令、其の群下に在るも、善く之を用ゐて以て其の害を除き、而して志、其の利を興すに在れば、則はち放伐も亦た、且つ以て仁と爲す可し。它無し。民と志を同じくすればなり』、

○譯文解説
『この刑罰と云ふものは、決して人民の非行をのみ罰するものではないのであつて、その法の性質上、苟も國家を害する者であつたなら一國の領主と雖も罰せずには措かないものであつて、もしその罰を受けなければ軍隊の力を以て之を討伐するのである。故に殷の湯王は、國を害する暴君であるとして夏の桀王を討ち、周の武王復殷の紂王を討つたのである。之等はその著しい例であるけれども、この樣な場合を考へて見ると、苟も一國の君主を討つのであるから、その討伐の兵を擧げる者が又一國の君主である場合には道義に適つたものとし、又之が臣下の諸侯に依つて企てられた場合には、道義に反するものとされるのであつて、まして身分の低い者に依つて企てられた場合には全く許し難い反逆であるとさへ見做されるものであるから、この國害を除くと云ふことも、その用ひ方が當を得てゐれば、君主の善行ともなり、當えお失すれば逆賊となるのである。併し乍らこの國害を除くと云ふことも、單に之を除いただけでは意味をなさないのであつて、例へば前例の湯王や武王の場合を考へて見ても彼等の意志が單に國害を除くと云ふことだけであつて、國利を増進させようとする考へが無かつたとしたらどうであらうか。これでは唯國家の支配權を奪ひ合つて、自分の利益を收めようとするのと何等異なる處がないのであつて、どうして彼等を仁君と稱することが出來ようか。彼等が仁君として後世の人々からも敬はれると云ふのも、この放伐(無道の君を放逐し、之に代つて王位に就くこと)に依つて、暴君を討ち滅ぼすと同時に、善政を布き、かゝる亂世に在つても良く國利を作興せんとしたからこそ君と呼ばれ、又討たれた桀王や紂王は賊と呼ばれるやうになつたのである。であるから假令臣下であつても、かゝる方法で暴君を斃し、國利の作興を圖れば、この湯王や武王の擧と同樣に放伐と呼ばれ、仁義の擧と云はれるであらう。その理由は他でもない、一般の國民が同じ樣に考へてゐる事を、その代表となつて實行するからである』

 この一節にて注目せねばならぬことは、「放伐是認論」といふことである。

 出典した譯文の著者、飯塚重威氏は以下の如く、之を解説してゐる。
○『柳子は例を支那の歴史中に求め、爲政者たるの資格を喪失した者は、當然負ふべき運命に從つて、直ちに滅せられるとして政權推移の一形態「放伐」に就いて述べてゐるが、然もこの「放伐」は、政治の大理想である國家を利さんとする意圖の許に行はれるなれば、「放伐も亦た且つ以て仁となすべし」と論談してゐるのである。此處に於て彼は、幕府も爲政者たるの資格を喪失してゐる以上當然「放伐的」形式に依つて、之を打倒せねばならぬ事を暗示してゐるのであるが、同時に幕府の甚しい内的腐敗は、「その窮るや必ず自ら滅すに至るのみ」と述べ、必らずやその自壞作用に依つても崩壞し去るべしと推論してゐる』と。

 勿論、上記、大貳先生の言は、倒幕を暗示してゐる以外の何物でもない。
 だが、されど吾人は、「倒幕」の名の下に於ては、何でもかでも諒とするに、聊か躊躇ふものがあらねばならぬ。
 そこには、思想性を無視する譯にはならないのである。
 曾て、陣營の諸先輩は、凡そ街頭に赤旗が潮の如くあつたとき、これを撃退するに、假り初めにも「反共」を標榜する者であれば何でもかでも握手するといふやうな、破廉恥な振る舞ひはせなかつた。「勝共連合」などと云ふいかゞはしき團體とスクラムを組む能はざりし先輩の矜恃あつたことを、野生は今でも誇りに思うてゐる。

 出典した校訂の著者、鳥巣通明先生の解説は以下である。
○曰く、『放伐論は、支那に於て、既に古くより思想界を賑はした題目で、我が近世の儒者によつても熱心に討議された。けだし、儒教に於ては、爲政者の、政治上の職分を規定して、先王の道を繼述して、仁政即ち善政を布くべき道徳的義務の荷擔者であるとする。從つて、もし主權者がその政治的職分を果さず、民心が彼より離れ去る時は、直ちに爲政者たるの地位に關はるものと解せられ、孟子一度湯武を肯定してより、革命是認の説が強く、我國に於ても自國の傳統を無視し、支那文化に追隨した人々によつて雷同せられた。これに對して山崎闇齋先生が湯武放伐を論じ、拘幽操を表章して放伐否定の態度を明らかにせられた事は有名であるが、その高弟淺見絅齋先生、又拘幽操を講じて「桀紂ニモセヨ、誰ニモセヨ、讒ヲ用フルニモセヨ、ドチヘドウシテモ、唯イトヲシイヨリ外ナイ。天命ニ順ヒ、人心ニ應ズルト云樣ナコトガ、イマイマシウテドウモナラレヌ所ガ至徳ニテ云々」と喝破し、爾來放伐論は、垂加神道を奉ずる人は云ふまでもなく、絅齋先生の學脈をつぐ人々に於て、最も明白に否認せられたのである。然るに、山縣大貳が、崎門の學統を受けつゝも、放伐是認の言説を洩してゐるのは、すでに文武第三の章に於て觸れた如く、所謂崎門三傑(この人選には僭越ながら、私は根本的な疑義をいだいてゐる)に數へられつゝも、實は、闇齋先生の精神を理解することができず、むしろ反駁の態度に出た三宅尚齋の流を汲み、又革命を是認した徂徠學の影響下にあつたためであらう。勿論、大貳の説くところは、幕府の存在を正當化せんが爲めに御用學者によつて唱道された放伐肯定と區別さるべきであり、彼が武家政治を否定し、主觀的には 皇政復古を目ざしたことも亦認められるべきであるが、その革新の原理、立場は、人文第三の章に於て指摘せる如く、不幸にも未だ儒學思想を完全には脱却してゐなかつたのである』と。

 さすがは、平泉澄先生の御講義を受講なされ、垂加神道、崎門學を研究なされた鳥巣先生である。
 而、鳥巣先生の辛辣な意見は續く。

○『~承前。前述の如く、政治の要諦として彼が「正名」を説き、「得一」を主張し、「大體」を論ずるのは確かに傾聽すべき卓見である。然しながら、それは志向態度の正しさであつて、「正名」、「得一」「大體」等が如何なる實質的主張内容をもつかは自ら別問題である。こゝに見る如く、柳子新論は、その點を檢討することによつて破綻を暴露するかに思はれる。「其間忠義ヲ奮ヒ命ヲ殞シ節ニ赴ク者アリドモ、君臣ノ義ニ於テ練達講磨スル所或ハ精シカラザレバ心私ナシトイヘドモ、義ニ悖リ忠ヲ失フ者皆是也」とは淺見絅齋先生の語であるが(靖獻遺言講義上)、心私なく、眞摯國を憂へ、勇敢に時弊を解剖し、その革新に邁進した山縣大貳は、君臣の義に於て練達講磨するところ精しからざりしが故に、換言すれば、國史を云爲しつゝも革新の原理を外國思想に求めしが故に、無意識の中に大いなる過誤を犯し、義に悖り忠を失つたものであらう。まことに傷ましき悲劇。吾々としては嚴正に然も同情を以てこの點、柳子新論を辨析すると共に、今日の問題として深思すべきであらう』と。

◎九段塾 ◆◆崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。↓↓↓
             http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50


 難しき哉、面白き哉、學問は。
 こと崎門學の深さ、野生の如きに到底測る能はざるも、奧の深くあること丈は識れるのである。
 日本に思想なし、とは戰後のことだ。
 戰前は、然程、譽められたものではないかも知れないが、あつた。
 況して、明治維新前は、きら星の如く光を發する思想が、おほくあつた。已んぬるかな、今は筐底に祕せられた如くであることが、兔も角悔まれてならぬ。

 野生は先々月、「三百年前の日本」を記して、一應、覺束なきも、當時の思想的状況に就て述べて來た。
 まづは、新井白石に就て簡單に述べた。
 大貳先生は、尚齋先生の門戸を叩くも、徂徠の思想的影響も亦た存してゐた。
 官學の影響は、かの大貳先生をしても少々の混亂を生ぜしめ、鳥巣先生の批判を誘發した。

 因みに寶暦事件と明和事件の關係在りしを斷定したのは、野生の一讀した九册の古書にあつて、先に引用した飯塚重威氏の著作『山縣大貳正傳』のみであつた。他は、無し、とするも、明白ならずとするも、兔に角、肯定してゐない。
 野生も肯定せなんだは、竹内式部先生は、淺見絅齋先生の學統だ。たとひ崎門學と一括りしても、上記にある如く、その距離は決して近きに非ず。共に倒幕の蹶起を企てたるとは、到底思へない。
 その差は部分的に止まるにせよ、距離は甚だ遠くなることを、思想運動を行ふ吾人は悟るところありとしたいものである。

 だが「柳子新論」に教はるところは是れ丈に止まらぬ。
 それを説明せんに、又た々ゝ鳥巣先生の意見を先に掲げねばならぬ。
○曰く、
『(徳川中期の當時に於て)尊王論の發展に貢獻したと云はれる國學者等も、古典に通じ古道に明らかではあつたが、幕府の存在を否定するに至らず、 ~中略~ かくの如く痛烈に武家政治を批判したのは、柳子新論の意義を大ならしむるものである。その思想に純正ならざりし點はあるにせよ、この功績は高く評價しなければならぬ』と。

 神道が世に隆盛を誇つた佛教、儒教との關係に交錯せられながら時と共に、先達の究學によつて益々純化され、遂には復古神道が世に廣告された。國學も亦た同樣だ。大貳先生の柳子新論も、其の過程にあつたと見做さねばならぬ。又た、その過程と云はんか、歩を進めたといふ點に於て、柳子新論、山縣大貳、明和事件は、多大なる貢獻者と見做さねばならぬ。
 鳥巣先生のごとく見識眼の持ち主は別として、後世の盲目者たる野生が之を批判する譯にはゆくまい。

 愚案。今日の卓見も、百年後、二百年後の識者からみれば、缺陷、乃至は不足たる可きことがらが發見されるであらう。否、發見されてこそ、國學は發達したと斯く云へるわけであり、それをば、喜びとせねばならない。
 嘗て野生は、不二歌道會發行の機關誌『不二』の表紙に書かれてある『平成維新と新國學』なる言葉が好きであることを述べた。亦た、啻に野生が好むだけでなく、目下、日本に必要であることを述べた。
 國學に就ては、是れ亦た不勉強で恥かしき限りであるが、現代の吾人は、研學を重ねて、國學の發展に寄與せねばならぬと思ふのである。
 陸續として出來せる時局問題に取り組むことを決して無意義とせない。さりとて、それに始終して滿足してもならぬ。野生はかく思ふのである。先達の古書は、吾人の、何よりの生ける教科書だ。





●大貳先生の曰く、仝、
『是れに由りて之を觀れば、天下國家に長たる者は、文有りて而る後に武、言ふ可きなり。禮樂有りて而る後に刑罰行ふ可きなり。然らずして、徒に刑と罰とに之れ任ずれば、則はちかの人の戕(「爿」+「戈」=しやう)賊するに非ずして何ぞや。哀しいかな、衰世の政を爲す者、文無く、武無く、禮刑並び廢して、たゞ其の利を興すに心無きのみならず、又た其の害を除くに心無きなり。夫れ其の利を興すに心無き者は、必ず以て自ら利し、其の害を除くに心無き者は、必ず以て人を害す。人を害して自ら利する、虐孰れは焉(これ)より大ならん。是れを以て、亂國の君は力めて其の國を利して、以て人の國を害し、大夫は力めて其の家を利して、以て人の家を害し、士は力めて其の身を利して、以て其の僚友を害す。
甚しきは則はち、君も亦た、自ら其の身を利して、以て其の民を害し、大夫自ら其の身を利して、以て其の家を害す。是れを以て自ら屠る、と謂ふ。
其の極や、必ず身を滅すに至りて而して、後に已まむ。故に我が東方の政は、壽治の後、吾れ取ること無きなり。聖人其の此の如きを憂へ、禮を制し、樂を作し、中を立て、和を道(い)ひ、務めて其の利を興し、務めて其の害を除き、衆庶保つ可く、此屋封ず可くして、以て永(とこしな)へに天下の福を致す。
詩に曰く、於戯(あゝ)前王忘れられず、と。其れ唯だ此を以てなるか。
嗚呼、夫れ、今の時の如きは、依然として軍國の制を承け、滔々乎として反るを知らざるもの、歎息せざらんと欲すと雖も、其れ得可けんや』


 譯文解説の必要は、前記で既に終はつたので、從來通りに戻すことゝする。野生も愈々疲れたり。
 ○内容の解説に曰く、
『再び禮樂と刑罰の關係の問題にかへり、衰世の一般的樣相を掲げ、國史上壽治以後、即はち武家政治の世を亂國と明言し、當代社會について歎息する』、




●大貳先生の曰く、仝、
『然らば則はち之を如何にせん。
曰く、是れ唯だ人を得るに在り。人を得るは難きに非ず(※下記參照)、人に獲らるゝを難しと爲す。
昔は荊靈細腰を好み、民、食を約して死する者有りき。越王、勇力を好み、一鼓して、士焚舟を避けざりき。夫れ食を約して死すると、焚舟に赴くとは天下の至難なるものなり。然るに上の好む所は、令せずして之を爲す。它なし。人に獲らるゝの難くして、而して之を欲すること甚しきが爲めなり。況んや其の至難に非ざるものをや。
苟も能く之を好まば、趾を重ねて至らんのみ。此を爲さずして彼を爲すは、要するに利を興すに心無きものなるかな』と。(「利害第十二」完)



 ○内容の解説に曰く、
『前段に見たやうな禮刑並び廢してゐる現状の打開策を求めて、「是れ唯だ人を得るに在り」となし、人材を得る方法を論じたもの』

※「人を得るは難きに非ず(原文「得人非難」云々)」
禮刑並廢してゐるにしても、時代を救ふ人物は必ず存在するの意。幕末の志士、眞木和泉守も蔓延二年三月「野宮定功卿に上りし書」に、「人材と申も、おのづから其國を治め候だけの人才は、いつも御座候ものにて、古人も才を異代に不求と申候へば、只今にても 神武帝の珍彦を漁父よりあげ、饒速日を降人より取り、 天智帝の鎌足公と■(「革」+「菊」)場にて交を結び、旻法師高文理を異端他邦より擧げ玉ひし如く致候はゞ、いか樣の人もいか程の物も出可申」と云つてゐる。今日人がないといふがこれは愚劣の見解で、人物はあるが、たゞ、それを用ゐないだけである


 結局、今囘は、抄録ならぬ、全文を掲げるに至つた。

 誤解を避けんが爲め斷わらねばならぬが、野生は、「柳子新論」に些かも傷を付けんとするものではない。
 寧ろ本書から學ぶ可きこと多しを微力乍ら宣傳するものである。
 そは、明治維新を遂げた尊皇論の發展に寄與したといふ點に於てのみ是れを云ふでなく、思想を唱へるに際して決して閑却す可からざるを學ぶ教本としてのみならず、固より、大貳先生の社會と時代を大觀する其の視點を通じて、吾人の目となれ感性となれ今後の吾人の研鑽の爲めにも吸收するところ大と確信して憚らないものである。
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by sousiu | 2012-05-11 20:58 | 良書紹介

柳子新論抄  「利害第十二」  乾。 

 昨日は、時局對策協議會の定例會。
 その後の懇親會では、日本誠龍社・貴田會長の御説法を賜はる。

 さて、「柳子新論」も遂にあと二囘だ。
 今度びは「利害第十二」。尤も、力を入れて書かねばならぬところだ。
 國學に於けるひとつの系譜に就て、兔角、注目せねばならぬのところと考へる。

 少し長くなるが、讀み易くする爲めに、今囘、句讀點、改行を多く用ゐることゝする。
 而、今囘は更らに、譯文(參考文獻「山縣大貳正傳」昭和十八年十一月廿日「三井出版商會」發行)を掲載するので、注釋や語の説明を省きたい。

 諸賢、希はくは、御時間の許されませば御一讀下さらむことを。


●山縣大貳先生、『柳子新論』「利害第十二」に曰く、
『柳子曰く、政を爲すの要は、務めて其の利を興し、務めて其の害を除くに過ぎざるなり。
利とは己を利するの謂に非ず。天下の人をして咸(ことごと)く其の徳を被り、其の利に由り、而して食足り、財富みて、憂患する所無く、疾苦する所無からしめ、中和の教、衆庶安んず可く、仁孝の俗、比屋(ひをく)封ず可き、是れを之れ大利と謂ふ。
其の之に反するときは則はち害あり。害除かざれば則はち利、興らず。故に善く國を治むる者は、務めて之を興し、務めて之を除き、而して後に民、之に由る』、(※改行は、野生による。下記然り)

○譯文解説
『柳子が云ふ。政治を爲すのに最も重要なことは、國家の利益を増し、國家に害あるものを除くと云ふ一事に盡きるのである。
利益は勿論、私利であつてはならない。その利益の恩惠に國民全體が均霑し、生活が保護せられ、經濟が豐かになり、何の憂ひも心配もない樣になり、「中庸」と云ふ書物にある樣に、正しく節に適ふ教へに從つて、人々は正しい生活觀に安んじ、仁義・忠孝の道徳がどこの家でも行はれる樣な利益を云ふのであつて、之を國家の利益と云ふのである。
之に反するものはすべて國家を害するものであり、その害を除かねばこの國家利益と云ふものは興らないのである。從つて、善い政治を行ふ者は、この國家の利益を作興することに務め、專ら害あるものを除き、かくして民は此の爲政者を信頼する樣になるのである』


 政治を爲すの要務として、興利、除害の二綱領を掲げ、その謂ふ所の利、害を説明したもの。
 固より反論の出でる餘地もない。





●大貳先生の曰く、
之を興すの道は如何。曰く、禮樂なり、文物なり。
之を除くの道は如何。曰く、政令なり、刑罰なり。
夫れ此の二者は、惟(た)だ、君、自ら率ゐ、惟だ君、自ら戒めて、而して後に民、之に從ふ。啻に君自ら率ゐるのみならずして、實に天の職を奉ずるなり。
昔は、禹、自ら諸軍を率ゐて、以て有苗を征して曰く、蠢たる茲の有苗、昏迷して恭しからず、侮慢して自ら賢とし、道に反(そむ)き徳を敗り、君子野に在り小人位に在り、民棄てゝ保せられず。天、之が咎を降す。肆(ゆゑ)に予(われ)、爾衆士を以て、辭を奉じて罪を伐つ、と。
又た、湯桀を伐ち、乃はち誓ひて曰く、台(われ)、小子敢へて亂を稱(あ)ぐるを行ふに非ず。有夏罪多し。天命じて之を殛(「歹」+「亟」=きよく)す、と。
湯既に夏に克(か)ち、自ら其の位を有る。其の天、大に旱するに方(あた)りて則はち曰く、夫れ爾、萬方罪有らば、予一人在り。予一人罪有るも、爾萬方を以てするなけん、と。身を以て犧牲と爲すを憚らず。是れ皆、以て其の富貴を求め、其の福祿を干(もと)め、其の心志を安んじ、其の耳目を樂ましむるに非ざるなり。務めて天下の利を興し、務めて天下の害を除くのみ。古の聖君賢主、孰か其れ然らざらんや。
然りと雖も、務めて其の利を興すは、其の道に非ざれば則はち興らざるなり。其の害を除くは、其の道に非ざれば則はち除かざるなり。由る可きを之れ道と謂ふ。禮は以て中を教へ、樂は以て和を教ふ。中和の至、天地位し、萬物有す。豈に利を興すの道に非ずや。
惟だ民の蠢蠢たる、或は其の由る所を失して、禍亂自ら取るときは、則はち從ひて之を罪す、是れ其の害を除くの道なり。夫れ然る後に、其の惡を懲らして其の害を勸む。善を爲す者多く、惡を爲す者寡ければ、則はち天下の利興る』、

○譯文解説
『然らばこの國家の利益を作興する方法とは何であらうか。
それは禮儀であり文化である。又國家の害を除く方法は命令であり刑罰の法である。
この二つの方法こそは一國の君主のみ、自ら統率し、自ら實踐すべきものであり、國民は之に傚つて遵守するのである。君主が自ら統率すると云ふばかりではない。君主が天から授與せられたる任務として行ふのである。
昔支那の禹王が軍隊を率ゐて北方の蕃族有苗を征伐した事があつたが、その時云ふのに、「虫けらの如き有苗は、人徳なく恭順の心をも持たず、世を侮り慢心して自分では賢いと思つてゐる。そして、人の踏み行ふ仁義の道に反し、人の守るべき徳教を紊してゐる。一體君子が世に出ないで、小人が天子の位を履んだ處が、人民は之を認ないからその位を保つことが出來ない。之則ち天がその專斷を憎んで咎を降すからである。今や天は予に命じて汝等家來と共に行つてこの憎むべき有苗を伐たしめるのである」と。そして彼は天帝の命令を奉じて、有苗の罪を討つたのである。
又湯王が桀王を伐つ時に誓つて云ふのに、「私は決して内亂を起さうとしてゐるのではない。夏が多くの罪惡を犯したから、天命が之を殛するのである」と。
湯は夏を亡ぼして天子の位に就いた。或時、非常な旱天が續いたが、その時に湯王は、「國中に何か罪惡が有つたのなら、その責任は自分一人に在る。もし自分一人に罪惡があつたとすればその累を國中に及ぼさずに、自分一身を犧牲にしても構はない」と云つた。これは決して自分一個の富貴を願ひ、福利を專有し、氣樂にして、自分だけが樂しまうと云ふのではないのであつて、一心に國家の利益を作興し、國家の害毒を除かうとしてゐるのである。昔から聖君と云はれ賢主と云はれる人々は、總て皆この樣な人々ばかりなのであるけれども、如何に一心に國家の利益を作興しようとしても、その方法が當を得てゐなければ不可能であり、又害毒も同樣であつて適切な方法に依らなければ除く事は出來ないのである。この以て依るべき方法を道と云ふのである。即ち、道徳に依つて中正の生活を教へ、文化に依つて和樂の生活を教へ、この中正和樂と云ふ大きな調和が即ち天地宇宙の根本理念であり、この天地の調和した氣を享けて、森羅萬象が生れ出づるのである。これこそ國家を利すると云ふことの究極に於ける精神であり、從つてこの道徳と文化の生活こそは、その大いなる國利作興への道、即ち方法なのである。
然し人民は天性無智であり、時にその生活の目標を見失ひ、自然に世を紊すやうになり、國家を害するに至るのである。從つて、國家を害する者を除くと云ふことも、別に改まつた方法があるのではなく、その根本的な意味からすれば、國利作興への道に勵ませるやうにすることが取りも直さず害を除く方法であると云へるのである。であるから、惡を懲すと云ふこともそれだけで良い譯ではなく、善を獎勵すると云ふ事の前提條件であるに過ぎないのである。かくして善を爲す者が多くなり、惡を爲す者が寡くなれば、國家の利益が振興される譯である』


 上記は書經、虞書や湯誓等、古の支那の書からの言を用ゐて説明してゐる。
 このころ、專ら、支那の學問が一般に流布せられたが爲めに、當時の書物には、支那の史實や人物、發言を引用されることは珍しくなかつた。
 先日、備中處士樣より電話あり。曰く、「當時の人達は、當時のかうした書物を讀んで理解してゐたのであるから、それは大したモンだ」と。
 まつたくその通りである。
 今日のやうに、娯樂や作り物の小説、ビニ本が氾濫してゐた時代ではなく、國内外問はず(國外の書物は殆ど支那、一部に朝鮮、和蘭あり)思想書や宗教に關する書物、國史、傳記などが主であつたらうから(十返舍一九の「東海道中膝栗毛」などもあつたが。苦笑)、かの時代、克苦勉勵を重ねた人には、天下を動かす可くした偉傑の出でたるも至極當然である。

 實は、これまで、「柳子新論」の省略した割合は、全體の二割強ほどである。この割愛した大半は、支那の書からの引用文である。讀者の混亂を避ける爲め、割愛したものだ。その理由無きにしも非ず。追々野生はこの理由を掲げねばならぬ。




●大貳先生の曰く、仝、
禮樂は文の具なり。刑罰は武の事なり。文は以て常を守り、武は以て變を制す。文は以て治を致し、武は以て亂を撥(をさ)む。是の故に文は順にして、武は逆なり。順にして利を興し、逆にして害を除き、順逆互ひに用ゐて以て能く天下を陶鑄す。善く此の道に任ずる者、之を徳と謂ひ、善く此の道に任ぜざる者、之を不徳と謂ふ。善く此の道を知る者、之を賢と謂ひ、善く此の道を行はざる者、之を不仁と謂ふ。故に所謂る仁者も亦た能く其の利を興し、能く其の害を除く者を謂ふなり。
若し夫れ世降り國衰へ、上に賢聖の君無く、下に忠良の臣無くんば、則はち禮涜れ、樂淫にして、而して刑罰勝(あ)げて用ふ可からず。徒(いたづら)に害を除くの道を知りて利を興すの道を知らず、徒に變を制するを知りて常を守るを知らず、徒に亂を撥むるを知りて治を致すを知らず、又た何の仁か之れ有らん。又た何の徳か之れ有らん。是れ奚ぞ能く政を爲すと爲さむや』、

 この一節の譯文は要しまい。野生も疲れてきたから。
 さて、以下に注目せられよ。

 續く。
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by sousiu | 2012-05-11 20:55 | 良書紹介

柳子新論抄  「通貨第十一」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「通貨第十一」に曰く、
『柳子曰く、食を足すの道は、農事を勸むるより先なるは莫く、貨を通ずるの計は、物價を平にするよりも先なるは莫し。
税斂を厚くせざれば則はち農勸む。商利を縱にせざれば則がち價平なり。古の時、帝王能く其の農を勸めたりき。 ~中略~
輓近以來、邦國の租、或は什に五六を收め、加ふるに調と庸とを以てしたれば、則はち稼穡の力は、卒に其の費を償ふ能はず。是れを以て田野、日に荒れ、農事日に怠る。怠れば斯に窮し、窮すれば斯に濫し、濫すれば斯に軼(いつ)す。軼して復へざれば、則はち年穀登(みの)らずして食足らず。唯だ夫の商賈のみは則はち然らず。
價賤しければ則はち居し、價貴ければ則はち廢し、廢居己に在りて、利は掇(手偏+「女」×4=ひろひと、拾ふの意)るが如し。且つ大商の人を食ふや動もすれば千百に至り、奴隸藏獲、帛を衣(き)、肉を食ひ、徒手肆(し)に居る。擧止、亦た何の勞か之れあらん。況んや其の用ふる所の凡百の器玩、鏤金彫玉、貳なく雙なきもの、府に實(み)ち庫に充ち、娥眉皎齒、容有り姿有る者、坐に滿ち席に盈(み)つ。其の餘の金帛は、藏して發せず、納めて出さず、倚疊して山の如く、委積して丘の如し。地を買ひ宅を買ひて、一夫或は千戸を私し、房を賣り舍を賃して、一人或は鉅萬を占む。 ~中略~
夫れ然らば則はち天下の貨は之が爲めに足らず。而して財は之が爲めに通ぜず。
是れを以て萬世古錦の美なるものは、方寸或は千金に値し、刀鐶の精なるものは、一枚或は萬石に當る。故に士の祿秩有る者も、終身其の美を服する能はず、而して累世其の精を用ふる能はず。豈に翅(たゞ)に衣服器玩を然りと爲すのみならんや。薪蒭魚鹽五土の利より、鍛冶陶鑄百工の事に至るまで、一に商旅の占むる所となりたれば、則はち物價の騰躍、端倪す可からずして、天下の幣は悉く市鄽(「广」+「墨」+邑-おほざと-=てん)の間に集まれり。故に今の世は、公侯百里の國も以て其の獨孤を恤むに足らず。卿相萬戸の封も、以て其の矜寡を憐むに足らず。大夫も以て其の家事を治むるに足らず。士も以て其の妻孥を養ふに足らず。農工も皆以て其の債を償ふに足らず。足らざれば之を商賈に假る。一歳の息、或は其の母に倍蓰(草冠+「徙」=し)(※下記參照、一)、衣を■(「貝」+ひとやね)+示=しや)し、財を典し及び妻孥を質と爲す者有るに至る。天下の不利孰れか焉(これ)より大ならん。
此の時に當りて、俗吏の政を爲すや、群議終日、卒に一策をも得る能はず(※下記參照、二)。徒に聚歛附益を務めて、此に取りて彼を忘れ、忽々として東西に奔走すれども、曾て一賈豎をだに制するを得ず。亦た何ぞ一朝の食に益あらんや』、(※改行は、野生による。下記然り)


 これまでの章に於て「食」を足す策として勸農を縷々述べられた大貳先生が、次に訴へんとするは、物價を平らかにする必要に就てである。

 勸農を實現する爲めには、農民からの年貢を緩和させねばならない。
 因みに、歴史上、農家からの税制を概觀するに、奈良平安時代は十に對し、約二を徴税してゐた、とある。
 鎌倉時代に入ると、四公六民(收穫の四割を領主、六割を農民の所得とする税法)、乃至は五公五民(簡單に云へば50㌫)。
 室町時代は三公七民、四公六民、五公五民など、一定せなかつた。
 豐臣氏時代では二公一民。
 江戸時代では豐臣氏の二公一民は廢され、五公五民の法によつたと云はれるが、實際上租率は一定してゐなかつたと傳へられる。寶暦では、大體四公六民、或は五公五民であつたと推定される。
 固より幕府は、「百姓は飢寒に、困窮せぬ程に養ふ可し」(昇平夜話)の考へもて、農家に接した。
 「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり也」と。

 いづれにせよ、前章にある如く、各農村は次々に疲弊し、農民人口は減少し、畢竟、武家の窮乏につれて從來の年貢のみならず、賦役・雜税が逐次加税され、農民の負擔は殆ど全餘剩に達し、その生活は苛酷を極めた。
 加之、商人擡頭によつて、物價は操られ、貧富の格差は益々以て擴大した。

◎山鹿素行先生、寛文年間に著したる『山鹿語録』に曰く、
『帝都公城の繁昌なる地にては、人多く相あつまるを以て、諸色のあたい日々に増減ありて、奸曲の商賈、利を逞しくすること多し。その故は、財寶を豐にたくはへたる商賈、その中間ひそかに相通じて、その時やすきものをかいこみ、そのきるゝを待て世間に出して、あたひを高くし、云々』と。

 既に寶暦よりもはやく寛文に於ても、町人が物價を左右したこと、然もそれが禁令であつたにも關はらず公然と行はれてゐたこと明瞭ではないか。

 よつて大貳先生、民を安ずる社會の爲めには、勸農と、そして通貨の計たる平物價を主張したものだ。

 ※參照、一。「一歳の息、或は其の母に倍蓰(草冠+「徙」=し)し、(原文「一歳之息倍蓰其母)」の意。
 高利貸の暴威に就て述べたるもの。一年間の利息が、元金の數倍に及び、遂に返濟出來ず、農民の場合には土地喪失、零細農家、小作人化の選擇しかなく、或は子女弟妹を質とし差出さねばならなかつた。

 次いで「妻孥を質と爲す」とは、寧ろ子供や弟妹を質に入れ、金錢を借用すること。
 何れにせよ、悲境の極はみである。

 ※參照、二。「此の時に當りて、俗吏の政を爲すや、群議終日、卒に一策をも得る能はず(原文「當此之時。俗吏之爲政。群議終日。卒不能得一策」)
 江戸時代、まさに然りであつた。役人の無能、不知、糊塗、甚しきは商賈と密月の關係があつた者まで少々ではない。
 そのやうな彼れらが、どうして農村問題を論じて根本的解決策を講じ、且つ、商人の暴利を統制しようものか。得てして、彼れら幕吏も亦た、おのれ一個の安泰と保身のみであつた。誰れぞ之を知るらん、無策はやがて、自身の禍難となつて下つてくることを。田畑の荒廢は幕府の自滅を齎す遠因だ。されど、彼れらの眼中に經綸無し、皆々おのれ一人一家の繁昌を願ふある而已。



●大貳先生の曰く、
『然らば則はち之を如何にせん。
曰く、商は天下の賤民なり。天下の賤民にして、天下の豪富に居り、肥を食ひ、輕に衣るは、固より其の所に非ざるなり
而して(ほしいまゝ)に天下の財を廢居し、天下の貨を出納するは、罪亦た大ならずや。何ぞ、其の官を建て、其の法を立て、之をして農と共に食ひ、工と共に居らしめ、凡百の玩好、一切之を禁じ、高閣重門、一切之を止め、從はざる者は之を刑し、改めざる者は之を罰せざる。之を賣る者多くして之を買ふ者少ければ、則はち居する所の者は必ず廢し、而して聚(あつ)むる所の者は必ず散ぜん。散ずる者多ければ、則はち售(う)れず。售れざれば則はち必ず其の價を減ず。
而して後に能く其の眞贋を辨じ、能く其の精粗を明にし、利多き者は之を征し、蓄多き者は之を賦す。此の如くんば、則はち物價、自ら平にして、貨財自ら通ぜん。 ~云々』、


 こゝでも大貳先生は商人の統制を主張する。
 元來、武士は武力及び學問の力によつて社會の秩序維持に貢獻し、農工は生活の必需品を生産し、社會に貢獻する。
 而して商は、士農工の間に在つて周旋し、小にしては各人の生活の爲め、大にしては國家の經營の爲め、流通を圓滑ならしめるが本分である。だがその分を越えて、商人がひとり營利を最高の目的とし、爲めに物價を調整するに及んでは、これを賤民と呼ばざるを得ない。
 商の分を越えたところに問題を指摘し、こゝでもやはり大貳先生は、正名論を堅持し主張する。




●大貳先生の曰く、仝、
『然らば則はち天下の大利は豈に之に止まるのみなるか。曰く、否、然らず。
今、天下の士大夫、請を託して官を得、賂を納れて貴を取れば、則はち饕餮の族(※貨財及び飮食を貪る者のこと)、廟堂の上に盤桓し、貧賺の俗(※「貧」はむさぼる、「賺」は欺き騙す、の意)、輦轂の下に羅織(※罪無き者に罪を織りなす、のこと)す。故に士庶人の贄、或は一家の産を破り、卿大夫の贈、率ね一歳の俸を傾く。之を贈る者多くして、之に酬ゆる者寡(すくな)ければ、則はち貨は皆、威權の門に娶る。
則はち士大夫の其の身を立てんと欲する者は、十室の邑憺石の俸、奚ぞ以て其の妻孥を養ふに足らんや。是れを以て其の仕進を志す者は、唯だ其の富を欲し、其の利を羨み、貧慕(たんぼ)の情一たび萌して、而して廉恥の心罷む。其の教化に害あるもの、一なり』、

 これは、財通ぜず、貨足らざる原因を、官吏の腐敗にあるとし、大害を五ケ條に及んだもの。
 其の一は、官吏の志、墮し、金銀に眩惑されることを指摘したもの。


●其の二也。
『又た其の權貴に居る者、必ずしも無欲ならず、而も之に贈る者、必ずしも無辭ならざれば、則はち已むを得ずして之を受く。數贈り、數受くるに及びては、則はち必ずしも囘護無き能はず、而して之を薦め之を擧ぐるに、必ずしも其の賢愚を問はず。是れ名は人を選ぶと稱して、而して實は官を賣る者たり。其の政事に害有るもの、二なり

 賄賂が、人事の左右するに至るを指摘したもの。


●其の三也。
『且つ士大夫の官に在る者、己、賂ふ者をば之を好み、善く賂はざる者をば之を惡む。宦官、官妾之に乘じて以て其の利を貪り、以て其の欲を達し、忠信の士、退きて、貧戻の俗進む。是れ其の風俗に害あるもの、三なり

 當然の如く、富める佞人は有用され、貧せる傑士は疎んじられる。人世の金銀に制せられつゝあることを痛罵したものだ。


●其の四也。
事を求むる者は唯だ彼れの欲に乘じ、之に啖(くら)はしめて、以て己が事を濟せば、則はち權勢の家に轍迹絶えずして、罷官の門に雀羅設く可し。是れ其の人情に害あるもの、四なり

 賄賂がモノを云ふ時代に於て、權力を有する者の家には訪問客は賑はうけれ共、一端、官をやめるとなれば既に用はなく、雀羅(雀をとる網)を設けねばならぬほど、絶えて訪れる者もゐなくなる樣子を説明したもの。人間關係を利害得失に化せしめる賄賂横行の世を悲嘆する。


●其の五也。
『權勢の家、其の臣妾の寵が有る者は、固より論なきのみ、僮僕奴婢の屬に至るまでも、亦た皆、其の私を受けて、而して其の財を富まし、肉を食ひ、帛を衣、逸居終歳、奢侈其の分に過ぐ。是れ其の制令に害あるもの、五なり

 「分」は、東洋に於ける社會生活の基礎となる考へである。二宮尊徳翁の『分度を守る』の教を例に出すまでもない。


●大貳先生の曰く、仝、
『五つのものは、皆天下の事に害あり。而して、財之が爲めに通ぜず、貨之が爲めに足らず。豈に禁ぜざる可けんや。
敢へて、望むらくは、公侯以下の常制を立て、聘幣數有り、問遺禮を以てして、饕餮の族を却けて、貧賺の俗を移し、犯す者は之を刑し、違ふ者は之を罰せんことを。則はち高貴なる者は必ず廉にして、卑賤なる者は必ず直ならん。夫れ然る後に公侯能く其の社稷を守り、卿大夫能く其の祿位を保ち、士と庶人と能く其の身を安んじ、以て其の妻子に及ばん。
是れ誠に天下の大利なり。俗吏の計は此に出でずして、一切に打算費用の法を行ひ、朝を汚し士を浼(三水+「免」=けが)し、濫りに民と利を爭ひ、上は勢利の人に付き、下は制を賈豎に受け、天下の財をして日に通ぜず、食をして日に足らざらしめ、而して身、自ら窮するは、至愚と謂ひつ可し

 こゝに官吏の腐敗として指摘された文章は、必ずしも二百年前のことゝして等閑にすることは出來ない。頻々として續出する高位高官の疑獄事件を見れば、吾人はこれを昔日の問題として決して笑ふことは出來ぬ。





●大貳先生の曰く、仝、
『客に政治を議する者有り。曰く、財を通じ、食を足すの道は、既に命を聞くを得たり。敢へて敬從せざらんや。唯だ夫れ物の貴賤有るは、必ずしも多寡に由らざるが如く然り。古は米石に二兩にして、尚ほ且つ以て太(はなは)だ貴しと爲さず。今や價其の半に過ぎずして、而して饑乏は之に倍し、民に菜色有り、野に餓莩(草冠+「孚」=へう、飢ゑ死の意)有り。敢へて問ふ、其の故は何ぞや、と。
曰く、是れ亦た知り易きのみ。夫れ食貨の軒輊有るは、猶ほ權と衡との如きか。多ければ則はち賤しく、寡(すくな)ければ則はち貴きは、理の必ず然る所なり。而も且つ之に反するものは、抑も亦た説有り。今、年穀の登(みの)らざるは、將に古に倍せんとす。是れを以て死者亂麻の如く、而して錢貨の通ぜざるも、亦た且つ古に三倍せり。則はち食は之れ足らずと雖も、其の數は實に貨よりも多し。是れ物重くして權輕きの然らしむるに非ずや。 ~中略~
財貨の通ぜざるは、抑も亦た人爲の然らしむるなり。之を久しうして變せず、聚斂云(こゝ)に盡くすに至りてが、則はち石一錢に直(あたひ)せざるも、亦た猶ほ以て饑歳と爲す。是れ其の豐儉に關せざるものなり。是れ其の貴賤に繇(謠の右側+「系」=よ)らざるものなり。食貨の政、無かる可からざる所以なり』と。(「通貨第十一」完)


 ○内容の解説に曰く、
『轉じて、物價(當然、米價が當面の問題となる)の高低必ずしも、物の多寡によらざる理由を明らかにし、食貨の政の必要なるを説く』。


 たとひ固定化された士の俸祿と雖も、多くの武士は、その米を賣つて金に換へるほどの餘剩は無かつた。
 然も、祿米の換金は、藏宿と呼ばれる商人の仲介を必要とし、武士は手數料を取られた。
 藏宿は祿米買入れとして金銀の貸付けをする代はりに、その利子として、一割乃至二割を取り、武士の困窮は益々促進された。
 吾人が識る、所謂る士農工商などてふ階級は、實質上、名分のみであつて、その實力は既に其の名分に從ふものでは無かつた。
 大貳先生は、首尾一貫、正名を基調として當時の世相を批判してゐる。而も、繰り返すが、この四民は階級に非ずして、平等の關係とする。
 大貳先生の思想の輪廓が明白になつてきたではないか。
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by sousiu | 2012-05-10 01:03 | 良書紹介

柳子新論抄  「守業第十」 

 やうやく第十まで、來た。
 若しも、途中で休息や道草をせなんだらば、今週中には『柳氏新論』から解放され・・・いや、完了する。名殘惜しき哉。

 竊かに望まむとすることは、「河原の抄録や解説なぞアテにならんので、自分で拜讀してみよう」と試みる御仁の一人でも二人でもをられることに他ならない。野生の微衷は、則はち、以て之より它無し。(←大貳先生風)
 かくなれば、野生の骨折りも、木川選手より贈られたる「腱鞘炎知らず」も、寔に甲斐多きものとして之を幸ひとするものである。
 然も、日教組教育による患者がこの稚拙な日乘をみて、若しも、山縣大貳先生や「柳子新論」の名をば覺え親しまれたとしたならば、それ丈を以てして野生の幸甚は至大と謂はねばなるまい。




●山縣大貳先生、『柳子新論』「守業第十」に曰く、
『柳子曰く、夫れ民の業に居るや、父子相承け、世世變ぜず、各々其の土に安んじ、各々其の事を治むるは、先王の治なり。是れを以て上古の民は、能く其の道を知り、而して其の業に力めたり。
 食は此を以て足り、器は此を以て堅く、財は此を以て通じ、之を用ふる者は損無く、之を爲(つく)る者は乏しからず』、(※改行は、野生による。下記然り)


 守業、即はち、職業の世襲を以て先王の治なりとなし、先づは理想を述べたもの。

 知られるとほり、江戸時代では、身分は原則として、代へることが出來なかつた。
 そして同一身分内に於ても、格式や家格は大概、生得的なものであつた。世襲制度が社會を構成してゐたのだ。
 世襲の贊否はともかく、長所を擧げれば、家督の相續者は、子供の時分より親の業を見習ひ、或は教はつてゐるが故に、よく之に通じてゐる。農家の子供が成人となる頃には既に一人前であり、漁師の子然り、鍛冶屋の子然り、所謂る凡ゆる分野の英才教育が、各家庭で夫々行はれてをり、日本の産業、技術は進歩せる可き理由があるのである。これが守業だ。

 だが。



●大貳先生の曰く、
季世は則はち然らず。士の祿は、農の利に如かず。農の利は、工商の富に如かず。工商は巫醫に如かず。巫醫は浮屠に如かず。而して俳優倡伎は、別に一封彊を得、幾何外道は、更らに一乾坤を開く。
即はち民の汲汲乎たる、孰か能く其の業に循(したが)ひて、而して其の事を守る者ぞ。利を逐ひて走り、欲に隨ひて變じ、昨は耒耜を荷(にな)(※「耒耜」は農具の名。「耒耜を荷ふ」は、農業に從事する義のこと)、今は則はち販鬻し、朝には鑪鎛(「金」+博の右側=はく)を執り(※「鑪はくを執る」とは工業に從事する義、夕には則はち咒詛し、■ (「曷」+「鳥」=かつ。雉に似たる野鳥の意。色黒褐にして尾、長し。侵す者あらば直ちにたゝかひ、死ぬまで止まず。故に其の尾は、古、武人の冠の飾とする)冠の士、忽ち倡優の態を羨み、息心の侶、或は耶蘇の教を奉ず。彼れは其れ庸夫、固より是非の辨を知らず、亦た奚ぞ其の邪正を問ふに遑あらんや。此に居れば則はち危ふく、彼に入れば則はち安し。此を爲せば則はち窮し、彼を爲せば則はち達す。利を見て進み、害を見て退くは、衆人の情なり。即はち今の俗吏、何を以てか能く禁ぜん』、


 こゝでは、現實の問題を取り上げ、職業間の利害の差が甚しく、稼業を捨てゝ、或は轉業の多きを指摘してゐる。
 「從來の職業に從事して居れば、生活は窮乏し不安であるが、轉業すると裕福になり生活も樂になる」と考へる人々の増加に齒止めが掛けられないのである。

 世襲制度が社會を構成してゐたと前述した。畢竟、世襲制度が幕府を支へてゐたのである。
 その幕府は上から使役する末端の役人まで生産力を有さない。生産者、勞働者からの徴集に依存してゐる。
 職の名分が正されずば、勞多くして益少き職域が極端なる人工不足となるは必然だ。そは主なるものとして、農業だ。
 同時に、濡れ手に粟、一攫千金を夢見る不埒者も續出するは火を見るよりも明らかだ。事實、この後に所謂る「田沼時代」が到來することを先日述べたが、濡れ手に粟を目論む徒は、上、田沼意次ひとりに非ず。民間では平賀源内ら所謂る山師が隆起する。この場合の山師とは、單に金山とか、銀山とか、銅山とか、鐵山とか握る秤りでなく、凡ゆる利用厚生の道に關與し、而、發明し、金を稼ぐ者だ。つまり、才覺がモノを云ふ時代が開かれようとしてゐた。如何でか農民、重い年貢を課せられ、夏畦の愧づるに足らざると懷ふ可し矣。




●大貳先生の曰く、仝、
『且つや大邑通都の如きは、邸第官舍、甍を連ね城を繞(めぐ)り、飛閣天に接す。
卿相居り、侯伯朝し、駟を結び、騎を連ね、絡繹として斷えず、轂撃肩摩、襟袂幕を爲す。俳優、雜劇、舞妓、侲(人偏+「辰」=ち)子の屬より、以て使熊、狙工、支離、盲聾の徒に至るまで、視る者、堵墻の如く。巫覡の符章、浮屠の念誦、乞ふ者踵を接し、求むる者趾を累ね、糈(「米」+「胥」=しよ)を賽すること土の如し。之を居するものは貢せず、之を賣る者は征せず。異服を之れ譏せず、異言を之れ察せず。
市は波斯の觀を縱にし、府は金帛の美を積み、茶肆酒肆は簷(のき)を接し、地に青草無きもの數十里。是れを以て天下の民、郷を去り國を去り、競ひて之に歸する者、猶ほ蟻の羶に著くが如く、日に其の數を知らず。則はち人、益々多くして、士、益々狹く、城闕の外、率歩一人容れず。是れ皆、末を逐ひ、利を侔(つと)むるの徒のみ。
耕職して本を務むるの民に至りては、則はち掃然として聞ゆる無し。是の故に都下の衣食を給する、日に鉅萬を盡くし、金を餐とし、玉を薪とし、猶ほ且つ以て慊らずと爲す。乃はち關外四野の民、輸運千里、力を盡くし財を竭くし、行役數歳、田は蕪(ぶ)し、野は荒れ、夫は其の鋤を廢し、婦は其の機を罷め、唯だ末をこれ逐ひ、唯だ利をこれ求む。亦た何ぞ其の妻孥を恤(あはれ)むに暇あらんや。
古人言へる有り、曰く、一夫耕さざれば、天下に其の饑を受くるものあらん、一婦織らずんば、天下に其の寒を受くるものあらん、と。乃はち窮民の無聊なる者、或は異術を挾(さしはさ)みて、愚人を眩惑し、或は憤怒激發して(※下記參照)、正長を劫掠し、甚しきは則はち壘を踰(こ)え城に登り、其の主に逼り訴ふる者有り。亦た皆、之を爲せば則はち得、爲さゞれば則はち失ふが故のみ』、


 ○内容の解説に曰く、
『都市の發展に伴ふ人口の都市集中の傾向が、農民の場合には、轉業を意味する農村、それと關連し相表裏する田畑荒廢、及び百姓一揆等の農村問題を惹起することを述べた』、


 事實、當時の江戸は、世界的大都市であつた。
 鎖國政策下にあつて、世界的大都市とは、可笑しな謂ひであるが、こは、人口に於てである。
 當時、江戸の人口は、盛時に於て、百三十から百四十萬人を算へたと云はれる。歐州に於て最大都市と稱せられた倫敦が、西暦1700年前後(元祿九年頃、寶暦九年の當時から數へて約六十年前)で五十萬乃至七十萬人、西暦1801年(享和元年、寶暦九年の當時から四十年後)では約八十六萬五千人であつたと云ふかのだから、如何に江戸が盛況を極めてゐたか分明である。因みに京都は、江戸中期に人口五十萬を越え、大阪は安永八年に人口四十萬五千であつたと云ふ。

 大貳先生は、人口の都市集中の原因が、都會の繁華、享樂生活の誘惑に見出してゐる。
 その實態は、大半が地方農家からの轉住だ。それはつまり、田舍の過疎化を促進することだ。田畑の荒廢は、食の不安定を促すばかりでなく、前記したる如く、米穀を以て通貨同樣と見做したる社會では、深刻も激甚ならざるを得ない。

◎本居宣長大人、『玉くしげ別本』(天明七年)に曰く、
『百姓は困窮年々に募り、未進積り々ゝて、竟に家絶へ、田地荒れば、其田地の年貢を村中へ負する故に、餘の百姓も又堪がたきやうになり、或は困窮にたへかねて農業をすてゝ、江戸大阪城下々々抔へ移りて商人となる者も次第に多く、子供多ければ、一人は詮方もなく百姓に立さすれども、殘りはおほく町人の方へ奉公に出して、竟に町人になりなどする程に、いづれの村にても、百姓の竈は段々にすくなく成て、田地荒れ、郷中次第に衰微す』と。

 男子は田を耕し天下の食物を生産し、女子は機織、衣服の生産に力むる可きであるのに、都市の風に感染して、勤勞をやめ、商工に專心し、利益を追及したのである。
 今日に於ても、亦た、同日の論とせねばならない。

 ※「或は憤怒激發して(原文「或憤怒激發」)」
 所謂る百姓一揆の強訴、越訴を云ふ。
 強訴とは、徒黨を組み、暴力によつて武士を脅迫し、或は村役人、富豪等に暴力を行使してその主張を貫徹せむとしたもの。
 越訴とは、當時に於ける訴訟及び訴願に關する手續きをふめば大半は途中で握りつぶされてしまつたので、已むなく自己の領主家老に、或は將軍幕府要路に、或は他頷の領主へ訴願するもの。


 因みに、百姓一揆に關しては。「革命性」如何が論據の對象となつてゐるが、鳥巣通明氏によれば、農民は彼等を抑壓してゐる社會制度が動かす可からざるものであるとする奴隸的屈從を斷乎として抛棄したが、社會變革の明確な目標を有したのではなく、これは極度の生活の不安による絶望的な爆發と見る可きである、としてゐる。

 いづれにせよ、社會の紊亂は極度に達せむとしつゝあつた。
 そは、理想を得せしめむが爲めの騷動ではなく、困窮より救はれむが爲めの騷動であつたことを鑑みれば、極度に達せんとしつゝあることに疑ひを挾む餘地はない。




●大貳先生の曰く、仝、
今の俗吏の如きは、生まれて輦轂の下に在り、唯だ此の富み足れるをのみ見て、未だ彼れの窮乏を知らず。輙(すな)はち曰く、古今の盛世なり、天下の美士なり、と。
 殊に、陰陽泰否變易居らずして、此に益すれば則はち彼れに損するは、天地の至理なるを知らず。
一旦、不測の難有りて、旌旗目を掩ひ、金鼓耳を駭(おどろ)かし、矛戟前に當り、矢石後に接し、騎卒並び奮ひて、水火之に乘ぜんか、其の將に何の謀に出でんとするかを知らざるなり。 ~中略~
況んや士人の使ふところなる奴隸輿夫の賤しき者は、亡命無頼、恩無く義無く、或は刀鋸の餘に出でゝ、傭力して口を糊し、寄寓して生を爲す者なれば、尚ほ何ぞ其の曲解を爲すえお望まむや。此を以て緩急に使ふ可しと爲すは、亦た愚の甚しきにあらずや。是れ皆、一時の小利を見て、後患を慮らず、人窮し民憂へて、禍根を培養するもののみ』、



 人口の都市集中、僻邑擴大の弊を禦ぐ施策もなき幕府であるが、動亂の兆が既に萌してゐるにも關はらず、有效策無きばかりか、おのれ特權階級であることに驕り、事態の深刻さを全く理解してゐないことを語つてゐる。
 幕吏の不知、況んや農民の困窮をや、だ。
 得てして、今日のエリートやキヤリアと稱される者らも然りだ。學歴、階級あれども、畢竟、總じて無智無能のひとだ。




●大貳先生の曰く、仝、
故に古の天下を治ろしめし者は、務めて其の利を平にし、務めて其の窮を贍(すく)ひ、廣く四國に及ぼし、推して四表に達し、而る後に民は其の土に安んじ、人は其の業を專らにせり。
是れを以て、世は長(とこしな)へに清平にして、國は日に富庶なりき。
書に曰く、偏すること無く、黨すること無くして、王道は蕩々たり、黨すること無く偏すること無くして、王道は平々たり、と。
民を治むるを之れ蕩と謂ひ、國を治むる之れ平と謂ふは、豈に偏すること無く、黨すること無きの謂にあらずや。
今の政を爲す者は其れ蕩々を爲すか、其れ平々を爲すか』と。(「守業第十」完)


 ○内容の解説に曰く、
『當代の社會が、表面平穩にして然もふかく危機を藏するを論じた後をうけ、その打開策を述べて、本章を結んでゐる』。

 この段は、はからずも八十年後、天保八年の「大鹽の擧」の豫言となつてゐる。大鹽中齋公の擧の鎭定に當つた役人の態度その他に就て、劍客、齋藤彌九郎が、藤田東湖先生に報告した記録によれば、その實情は「柳氏新論」に云へるところと全く同じである。吾人は大貳先生の識見に驚嘆せざる能はざるものである。

 而して、愈々、「柳子新論」も殘すところ三である。
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by sousiu | 2012-05-09 10:33 | 良書紹介