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柳子新論抄  「安民第九」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「安民第九」に曰く、
『柳子曰く、魚の池に在るや、江海を思はざるはなし。鳥の樊籠に在るや、山林を思はざるはなし。是れ它なし。皆、其の自ら安んずる所なればなり。
即はち民の天下に於ける、豈に亦た然らざらんや

先王、其の必ず然るを知る。之を視ること子の如く、之を愛すること手足の如し。故に其の安んず可きを爲して、而して民、之に安んじ、其の樂しむ可きを爲して、而して民、之を樂しむ。其れ、既に安んず。又た既に樂しむ。是れを以て民の先王を視ることも、亦た猶ほ其の父母を視るが如し。孰れか其の仁に歸せざる者あらんや。詩に云ふ、豈弟の君子は、民の父母なり、と』、(※改行は、野生による。下記然り)


 上記は、民は自ら安ずる所を熱求する本性あるを指摘し、理想的政治形態の所謂る、先王の政とは、よくこの本性を知悉しそれに對處せしものなるを冒頭に述べてゐる。



●大貳先生の曰く、
『今、夫れ、浮屠の教(※浮屠之教=佛教)たるや、曰く、生きて善を爲す者は、死して樂地に入り、百福並び臻(「至」+「秦」=いた)る。其の惡を爲す者は、則はち地獄に墜ち、苦惱窮り無し、と。苟も其の説を聽く者は、駸々乎として其の善を勸めざるは無し。愀々乎として其の惡を懲らさゞるは無し。是れ它なし。其の安ずる所を欲すればなり。
夫れ天堂(※極樂のこと)と地獄は親しく見る處に非ず。而して必ず到るの地に非ざるなり。尚ほ且つ其の安樂を聞けば則はち之を喜び、其の苦惱を聞けば則はち之を懼る。豈に徒だ之を喜び懼るゝのみならんや。甚しきは則はち妻子を棄て、貨財を舍て、饑寒を患(うれ)へず、斧鑕(「金」+「質」=しつ)を怖れず、死を視ること歸するが如く、唯だ其の遄(之繞+「山」+「而」=すみや)かならざるを之れ憂ふ。是れ亦た它なし。生此の如くならずんば、則はち死安からざればなり。必ずしも得可からざるの安きを以て、忍ぶ可からざるの欲を斷つは、之を魚鳥の淵林に思ふに此するに豈に亦た甚しからずや。
且つ人は免る可からざるの患と雪(すゝ)ぐ可からざるの恥とあれば、則はち必ず曰く、死するに若かざるなり、と。
凶年飢歳に、走りて溝壑に赴く者は、免る可からざるの患を避くるなり。敗軍の將の刀を引きて自決するは、雪ぐ可からざるの恥を愧づればなり。此を以て之れを觀れば、安危苦樂の身に切なるや、死生よりも甚し』、

 こゝでは、民の「自ら安ずる所」を熱望する、死生より甚しきを例示した。





●大貳先生の曰く、仝、
『今、天下の諸侯は、國ごとに其の政を同じうせず、人ごとに其の俗を同じうせず。
而して、不學無術の徒は、徒らに目前の近利に徇(したが)ひて、經久の遠圖を忘る。賦斂措かず、法令常無く、賞罰中を失へば、則はち民は寧處に遑(いとま)あらずして、此を去りて彼れに就き、彼れを出でゝ之に入り、恟恟として唯だ其の免れんことを之れ求む。是れを以て四方の國、亡命して跡を滅する者少からず。而して土著の風變じ、群聚の俗興る。 ~中略~
嗟(あゝ)。夫れ今の刑を用ふるは、先王の法に由らずと雖も、而も其の事に處し、罪を論ずるは、必ずしも不當と爲さゞるなり。磔梟火刑の如きに至りては、則はち蠻夷の爲す所、之に加ふるに族滅を以てし、而して酷極まれり。故に一家を■(「火」+「番」)けば、則はち身既に灰となり、一禽を殺せば、則はち族頓(とみ)に赤し。彼れ若し長陵一抔の土を盜まんに、則はち吾れ未だ其の何を以て之に加へんかを知らざるなり。然りと雖も死は一なるのみ。日に其の口を減じ、月に其の戸を損するも、國其の弊を受けなば則はち已む。若し夫れ放逐して跡を削り、籍沒して死一等を減ずるは、則はち寛に似て實は太(はなは)だ酷なり。是れ唯だ割據の遺を承けて、而して苟且の策を立つるもの、要するに統一の制に非ざるなり。 ~中略~
夫れ然らば則はち窮する者日に多く、而も仁は及ばず、賊する者日に衆(おほ)く、而も刑は及ばず。既に其の安んず可きに安んぜず。又た其の懼る可きに懼れずんば、必ず覬覦の徒あるに至らん』、


 ○内容の解説に曰く、
『轉じて、現實社會の批判に移り、先づ、當代の爲政者の政治のやり方が、民の「自ら安ずる所」を顧慮せざるを難じ、ついで、刑法の不當不備を論じてゐる』、


 江戸時代に於て、幕府諸大名は、各々その封土を守る可く、兵力の保持、收税、防牒、治安の維持の爲め、藩士・百姓・町人の領外に出でることを制限し、一方では、浪人・缺落等の藩内に入ることも制限した。
 殊に農民に對しては、寛永廿年以來、移轉の自由を制限した(郷村觸書)。
 それにも關はらず、農家には郷を相次いで捨てる者が續出した。
 農民の土に對する愛着は當時も取り分け強く、それでも彼れらが離村せざるを得なかつた事情は、他の身分の者の場合よりも同情す可きものがある。
 農民離村の態樣としては、都市に吸收せられ、新田開發地に誘引され、又た他藩へ移民として招致されたもの、及び逃散が考へられる。「編民第七」參照↓↓↓
          http://sousiu.exblog.jp/17509033/

 こゝに於て問題視される可き逃散は、初期に於ては一家、又たは、數家族の逃亡に過ぎなかつたが、後には公然と行はれた。彼れらは徒黨を組み始め、畢竟、示威運動を主目的とする百姓一揆となつてゆく。
 政情の不安が社會の混亂を招來することは、畢竟、いつの世も避け難き宿命だ。

 然るに、之を、奈何とする。





●大貳先生の曰く、仝、
『且つ今、天下の士と民とは、固より其の君を愛せざるに非ざるなり。又た其の上を懷(おも)はざるに非ざるなり。然れども、苟も其の職に安んぜざれば、則はち或は奇邪の行を爲し、其の業に安んぜざれば、則はち變じて末利の利を爲す。彼は皆、此の安からざるを厭ひて、彼れの安んず可きを見るが故なり。諸(これ)を火の燥(かは)けるに就き、水の濕(うるほ)へるに就くに譬(たと)ふ。其れ曷(なん)ぞ拒ぐ可けんや。若し彼の安んず可きを以て、此の安んぜざるに易ふれば、則はち必ず然らざるなり。之を安んずるの道は奈何。
曰く、今の政を爲す者は、概ね皆、聚斂附益の徒にして、其の禍を蒙る者は、獨り農を甚しと爲す。若し能く循廉の吏を用ゐて、農桑の利を奪ふこと無くんば、則はち天下、食足らん。天下食足りて而して後に、民其の業に安んずるなり。又た循廉の吏を用ゐて、商賈の利を縱(ほしいまゝ)にせしむること無くんば、則はち天下財足らん。天下財足りて而して後に、士其の職に安んずるなり。士安んずれば則はち國強く、民安んずれば則はち國富む國強くして、且つ富むは、天下の福なり。夫れ然る後に禮樂興す可きなり。賞罰明にす可きなり。是れを之れ民を安んずるの道と謂ひ、是れを之長久の策と謂ふ』()



 農工商賈、之を民の良と謂ふ。所謂る、良なる者は、用を利し、生を厚くし、相輔け相養ひて、以て國家に益ある者なり。故に先王は師を立てゝ以て之を教へ、官を立てゝ以て之を治め、之を愛し之を親しみ、之を視ること子の如く、編伍に制有り、使役に法有り、推して以て士と相齒して之を四民と謂ふ。良たる所以なり。
 若し夫れ、倡優戯子(※倡優は役者の意。倡は女、優は男。戯子は俳優のこと)は則はち人の利に由り、人の財を受け、以て人の耳目を悦ばし、徒(いたづら)に其の口腹を養ふのみにして、人の衣食を爲(つく)る能はず。之を存するも國家に益無く、存せざるも國家に害無し。故に先王、之を斥けて四民と伍せしめず、戸籍相別ち、婚姻通ぜず。是れ其の民を視ること、愛に等あり、親に差あり、類分群聚、之をして各々其の業を專らにして、以て其の生を遂げしむるもの、仁の道在り』(「安民第九」完)と。

 天下の士民が、皆、藩主を愛し上を懷ひつゝも、奇邪の行、末利の計を爲すは、畢竟、彼れらが「自ら安ずる所」を得てゐないからであつて、その對策としては、循廉の吏を用ゐ、勸農抑商の政策を勵行せよ、とかういふことである。

 繰り返し、大貳先生は、商人擡頭を抑へねばならぬことを主張し、同時に、農事勵行を積極的に訴へてゐる。
 この時代、一般に町人から公然と租税を徴集することは行はれてをらず、農民のみが納税の義務を課せられてゐた。農民の困窮たるや想像を絶するものがあつた。「天民第六」參照↓↓↓
             http://sousiu.exblog.jp/17499454/


 基本的に、徳川幕府に始終、粘いて廻りたる苦惱の種は、經濟問題だつた。

 徳川幕府時代の經濟界は、その總てと云はざるも、概ね、殆ど米穀が主たる要素であつた。
 當時、租税といふ可き物の主なるものは、米穀であつた。即はち、將軍以下、總ての大小名より旗本、一切の侍は、單に米を食らうて生きてゐるだけでなく、社會に向かつては、米穀の供給者であつた。つまり米穀を食料とするのみでなく、米穀を衣服とし、米穀を家屋とし、或は米穀を以て彼れらに使役する家來、下男、下女とした。固より彼れらの知行からの收入、役料も多くは米穀であつた。

 米穀が食物の主要のみならず、米穀を以て報償の代用とする社會に於ては、一豐一凶の社會に與へる影響は、孰れも多大であつた。
 凶作の年は、彼れらが米穀の收入を缺乏せしめた。
 だがしかし、豐作の年も困つた。豐年で米を視ること土の如くあつては、米價は下落し、その爲めに、本來米穀によつて得らるゝ對價や貨幣が高騰した。よつて豐年では社會一般に不景氣を招致した。米價低落は武士と百姓に直接、大打撃を與へた。
 豐凶ごとに、社會には多大なる影響を與へざるを得ない。その爲め幕府は、開幕以來、米價の調節を政治の一大要目とし、その實行に苦心した。就中、凶作の明くる年が豐作、或は其の逆となりたる場合は、ことに農家にとつては深刻であつた。都度、恰も、掌を反されるが如くであつたからだ。

 大貳先生は、單なる淺薄な農本主義として、農事を獎勵し、一方には商人を抑壓せんと主張するでない。
 徳川幕府に於ける、今日から視れば特殊な社會の經濟構造に於て、かく持論に至る。
 されど、この當時の人から現代をみれば、是れ又た特殊な構造と云はざるを得ぬであらう。
 吾人は政治形態に目を奪はれるでなく、如何なる體制下にあつても、これを打開し得る可くの發想と見識もて理想を掲げねばならぬ。その基準となる可き大事として、萬世不磨の國體を戴いてをることに、民族の幸福を想はざるを得ぬ。先人の思考囘路を辿るゝに、これは一層明解である。吾人は先人の足跡を、應用せながら、辿つて行かねばならぬ。
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by sousiu | 2012-05-08 15:21 | 良書紹介

柳子新論抄  「勸士第八」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「勸士第八」に曰く、
『柳子曰く、農工商賈、之を民の良と謂ふ。所謂る、良なる者は、用を利し、生を厚くし、相輔け相養ひて、以て國家に益ある者なり。故に先王は師を立てゝ以て之を教へ、官を立てゝ以て之を治め、之を愛し之を親しみ、之を視ること子の如く、編伍に制有り、使役に法有り、推して以て士と相齒して之を四民と謂ふ。良たる所以なり。
若し夫れ、倡優戯子(※倡優は役者の意。倡は女、優は男。戯子は俳優のこと)は則はち人の利に由り、人の財を受け、以て人の耳目を悦ばし、徒(いたづら)に其の口腹を養ふのみにして、人の衣食を爲(つく)る能はず。之を存するも國家に益無く、存せざるも國家に害無し。故に先王、之を斥けて四民と伍せしめず、戸籍相別ち、婚姻通ぜず。是れ其の民を視ること、愛に等あり、親に差あり、類分群聚、之をして各々其の業を專らにして、以て其の生を遂げしむるもの、仁の道在り』、(※改行は、野生による。下記も然り)

 上記は、俳優や役者に就て云ふ。
 前半は、所謂る士農工商に就て、繰り返し述べたもの。※「天民第六」參照↓↓↓
       http://sousiu.exblog.jp/17499454/

 後半「若し夫れ、倡優戯子、云々」は、今日でいふ役者や俳優が、當時、穢多非人たるを免れた賤民として蔑視された理由を述べたるもの。

 因みに、當時の役者は、所謂る「河原乞食」(野生ぢやない)なるの呼稱を甘受せねばならなかつた。
 


●大貳先生の曰く、
『後世は則はち然らず。薫蕕器を同じくし(※原文「薫蕕同器」、善惡混在の意)、淄(三水+右上「巛」+右下「田」=し)澠(三水+「黽」=ぜう)流を一にし((※原文「淄澠一流」=區別される可きが混亂せるの意)、良雜相混じ、戚族分無く、編戸の法壞れて、先王の政、歇(や)みぬ。甚しきは則はち、倡優にして或は士祿を受け、功無くして富み、徳無くして貴く、卒に其の業を變じて、立ちて官政に服する者有るに至る。其の由る所を原(たづ)ぬるに、侫幸(※口舌を以て寵愛を得る者。「史記」に「侫幸傳」あり)嬖寵(※君主の御氣に入りの意)の輩に非ざるは無し。汲々乎として之を求め、戚々乎として之を去る。故に其の行なふや、私智を逞しくして以て王公を欺き、利欲を縱(ほしいまゝ)にして以て庶民を虐げ、讒慝諂諛、暴戻誣罔、適夫(たまゝゝ)の良家の子を賊(そこな)ふ。豈に悲しまざる可けんや』、

 後世、身分制の動搖期に於ける俳優が、官吏へ轉身する害を憂ひて述べてゐる。
 状況や背景は異なると雖も、蓮舫とかいふ、癡人の出自も似たやうなものだ。
 而、民主黨そのものが、癡人の造成所と云はずんば、受け容れ先だ。





●大貳先生の曰く、仝、
『且つ士の輕薄なる者は、毎(つね)に倡優の徒と居り、數々(しばゝゞ)雜戯の場に入り、日に其の冶容(※なまめかしく裝ひ飾ること)を見、而して其の婉言(※やさしく、美しい言葉)を聞けば、則はち人材は彼の若きもの無しと謂ひて、歆(「音」+「欠」=きん)羨歎慕、遂に廉恥の心を失し、便佞口給(※辯舌のみ巧みで誠信を缺く者の言葉)、唯だ優にのみ之れ倣ひ、壯強なる者は此老を爲し、幼弱なる者は燕支(※紅色をとる草の名。婦女の顏色に粧ふに用ひる)を爲し、久しくして之に化すれば、則はち士氣之が爲めに萎薾(草冠+爾=じ)し、鄙俚猥雜にして、以て宣淫の俗を釀成す。況んや、優伎の音を操ることは、淫哇に非ずんば則はち殺伐にして、人の心志を奪ひ、人の情性を盪(とろか)し、其の中和の徳を傷(やぶ)ること、特に鴆と斧斤とのみならざるをや。即はち今の士大夫も亦た徒(た)だ其の音を聽き、其の容を視るのみならず、動もすれば其の伎を學び、其の曲を習ひ、甚しきは、郊廟朝廷の祭祀典禮に至るまで、之を用ゐて以て韶舞に易(か)ふる有り。 ~中略~ 亦た唯だ上の好む所は、下必ずこれよりも甚しきもの有れば、則はち其の風を移し俗を易ふるは、置郵して命を傳ふるよりも疾し。諸の此の如きの類、恥づ可くして愧ぢず、惡む可くして憎まず。士氣の衰、窮まれり』、

○内容の解説に曰く、
『當代に於ける士氣頽廢の原因を求めて、漸く社會的勢力を占めた俳優との交會に着眼し、特に倡優の冶容、婉言及び操音の影響を擧げてゐる』、

 江戸初期に於て、大名、旗本等が若衆を招いて酒席の間を周旋せしめることは一種の流行であつた。
 やがて野卑放縱に流れた演劇の影響が顯著になるに及んで、幕府當局の眼は光らざるを得なくなつたのであるが、不健全な美色に恍惚とする爲めに劇場に訪れる者は年々増加した。
 官吏の遊興甚しく、その影響頗る大にして、だのに何うして下々がそれに傚はぬ道理があらうか、といふ大貳先生の悲嘆だ。
 上にあつて士氣の衰へは、即、下々の勤勞の風を侵す。豈に偶然ならんや。





●大貳先生の曰く、仝、
夫れ士は忠信に非ざれば、以て政に與(あづ)かる可からず。廉恥に非ざれば、以て事に處す可からず。
此の四者は、志以て之を固くし、氣以て之を達す。若し、志氣兩(ふたつ)ながら衰ふれば、則はち皮の存せざる毛、將た何(いづ)くにか屬(つ)かん。果して此の如くならんか
(※下記參照)。
假りに其れをして才あり藝あり、文(かざ)るに衣冠を以てせしむるも、唯だ是れ優孟なるのみ。何を以てか君子と爲さん。何を以てか士大夫と爲さん。是れ豈に編伍に法無くして、猾良を雜(まじ)ふるの弊に非らずや

 ○内容の解説に曰く、
『勸士の消極策として、士氣衰頽の原因の除去、即はち倡優の禁壓を示唆せるもの』、


※「則はち皮の存せざる毛~云々」(※原文「則皮之不存、毛將何屬、果如此耶」)
 毛は皮に附著す可きものであるのに、皮が存在しなければ毛の附く可き所はない。即はち根本が失はれたれば、枝葉のことは論ずるに足らぬとの意(左傳)。こゝでは、志氣既に衰へたれば、士の本質たる忠信廉恥の四者は到底、望まれぬと云ふ意。





●大貳先生の曰く、仝、
唯だ巫醫百工と藝苑衆技の流との如きは、則はちこれに異なるあり。何となれば則はち其の國家の用を爲すを以てなり。夫れ人の技藝に於けるや、好惡あれば斯(こゝ)に能不能あり。其の好みて能くすれば、則はち妙年にして或は奇異と稱せられ、好みて能くせざれば、則はち童習白紛たり。奚ぞ以て誣ふ可けんや。 ~云々』、

 巫醫百工、藝苑衆伎の流は、「國家の用を爲す」點に於て、前述の「國家に益無」き『倡優戯子』とは區別される可きことを述べてゐる。





●大貳先生の曰く、仝、
『見る可し。賢を好むの至驗は、影響よりも疾きことを。今の時と雖も、苟も能く之を好むこと燕王の如き者有らば、士も亦た豈に其の門に造(いた)ることを願はざらんや。唯だ夫れ科擧の法無くして、能者をして屈して伸びず、不能者をして強ひて欲せざるの事を爲さしめ、而も責むるに其の人無きを以てするは何ぞや。是れ特(ひと)り國家に益無きを揚げて、天下に用有る者を抑ふるのみ。曷(いづく)んぞ以て士を勸むるの道と爲さむ。亦た曷んぞ以て民を安んずるの道と爲さむや』(「勸士第八」完)と。


 江戸時代に於ける社會の固定化が、所謂る官家、師家の無能腐敗、布衣在野の士の鬱屈を釀成してゐることを指摘し、前段とは反對に、勸士の積極策として、人材登用を主張して本章を結んでゐる。

 現代人の我々では、何とも、當時の世俗が如何に弊害を齎せたるか理解に難い。
 況んや、士農工商、穢多非人、河原乞食なる身分制度が布されしたるに於てをや。

 吾人は歴史家ではない。
 されど復古を念願し、實際の運動を試みんとする者は、わが歴史、換言すれば 皇國史と沒交渉ではいけない。
 吾人が著眼す可きは、夫々の時代に於ける、夫々の先人の見識と思考、併せて運動であらねばならぬ。それを基礎として、現代に應用す。皇國史と齊しく、尊皇大道も亦た、斷絶される可きではないのである。
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by sousiu | 2012-05-07 20:39 | 良書紹介

柳子新論抄  「編民第七」 

 先日、柿之舍、中澤伸弘先生より、御本『美ちのさきはひ』を拜戴。ありがたし。
 三日には、兄事する、玄月書屋、有安弘吉主人より、はからずも『靖国神社の真実』第二刷が屆いた。ありがたし。

  ◆◆中澤伸弘博士『みちのさきはひ』↓↓↓
    http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1551

  ◆◆『靖国神社の真実』増刷出來。↓↓↓
    http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1553

 昨日は、新宿、阿形充規翁の事務所に伺ひ、翁より御垂示を乞ふ。氣付けば、深夜の一時を廻つてゐる。
 翁はおん年七十三。藤澤の片田舍に住む、野生の如き取るに足らぬ若輩に、何とも申し譯ないことである。ありがたし。


 さて。野生は大貳先生の續きを記さねばならない。
 愈々、後半だ。



●山縣大貳先生、『柳子新論』「編民第七」に曰く、
『柳子曰く、古は民を治むるの法に、必ず編伍あり。編伍に法無ければ、則はち民、土に安ぜず。民、土に安ぜざれば、則はち亡命多し。國に亡命多ければ、則はち盜賊並び起こる。治民の害、盜賊より大なるは莫し
近世、衰亂の後を承け、編伍法を失なひ(※下記參照、一)、戸籍明らかならず、十室の邑(※家が十戸の邑、所謂る小さい村のこと)、尚ほ相識らざる者有り。況んや通邑大都は、無頼の民(※下記參照、二)の亡命して家を破る者、歳に千を以て數ふ。然れども此を去りて彼に居れば則はち知る可からざるなり。故に潛匿して都下に在る者には、或は終身追捕を免れ、還りて安逸の人と爲り、僥倖にして業を起こし、能く千金を致す者も、亦た多からずとせず。
而して、一旦、其の籍を編列せば、則はち郷豪土著の民と、終に相別つ無し。若し乃はち窮民の生を爲す能はざる者は(※下記參照、三)、奔走して道路に乞食し、溝瀆(三水+賣=とく、「涜」也)に轉死するに至りても、曾て隣里の憐れむところと爲らず
或は薙髪(※髮を剃ること)して僧尼と爲り、四方に糊口し、或は竊盜して人を傷つけ、刑を它邦に受く。患難をも救はず、疾苦をも問はず、貴賤と無く、親疎と無く、唯だ其の冷煖をのみ之れ察すれば、則はち名は閭井(※まち、むらざと)を同じうするも、實は啻に仇視するのみならず、囂々乎として里巷の間に豕交し(※豕の如くに交はる、つまり獸と異らざるの喩へ)、嗷々乎として閭閻(※里中の門)の中に狗爭するは、豈に亦た悲しからずや』、
(※改行は、野生による。下記も然り)

 ○内容の解説に曰く、
『編伍の法あるも、それが完備してゐないために生ずる弊害に就て述べたもの』、

 ※一。近世、衰亂の後を承け、編伍法を失なひ(※原文「近世承衰亂之後、編伍失法)、云々。
 五保の制の變形として、江戸時代には「五人組」の制があつた。浪人に對する取り締まりと、耶蘇教禁止勵行の必要より、寛永以後は、特に、五人組に關する法令が多く發布されたが、寛文四年に至り、所謂る「五人組帳」が作られ、人民より法令遵守の手形をとつた。五人組は、農工商の三身分にのみ施したもので、公家、武家、其の他、穢多非人の類ひはこれに加はらず、都市と地方によつて、當然の如く、その規模を異にした。

 ※二。無頼の民(※原文「無頼之民」)
 頼りを託す可き無き者。こゝでは、戸籍不明により發生すると説明してゐる。

 ※三。若し乃はち窮民の生を爲す能はざる者は(※原文「若乃窮民不能爲生者」)云々。
 相互扶助の行はれざる事實を述べたもの。

 戰國割據時代は兔も角、好むと好まざるとは別として、一應、全國が統一された江戸時代では、罪人に對する追放刑では、社會保全の目的を達することが出來ず、却つて無宿人を増加せしめた。これが戸籍不明者だ。
 彼れらは、都會に行けば博奕、強盜などを働き、農村に行けば田畑農家を襲うた。






●大貳先生の曰く、仝、
『然りと雖も、僻邑寒郷の俗の如きは、猶ほ或は古質の風を輕蔑し、士人を威蔑し、之を觀ること嬰兒の如く、以て其の貨財を竊み、以て其の妻孥を掠め、詿誤して以て智と稱し、劫略して以て勇と稱し、徒を爲し、黨を爲し、以て自ら名號を樹つるに至る。官の制する能はざる所、法の罰する能はざる所なり。還りて之に力を假して以て佗の暴逆を制すれば、則はち彼れは自ら其の官の爲めにするを誇りて、愈々益々天下の民を侵侮す。奚ぞ其の賊に兵を借し、盜に糧を齎すの此に非ざるを如らんや。嘆す可きの甚しきなり。~云々』、

 編伍失法の弊害は、田舍のみならず、寧ろ都會に於て殊に甚しくあることを述べたもの。


 徳川幕府も、こと中期以降、政治の弛緩が、國内の隨所に滲透し、治安も亂れてゐた。
 勤勞者や正直者は、絶えずその犧牲を被り、農民は稼業を放擲し、徒黨を組み、惡事に手を染める者決して少なしとせなかつた。上記「亡命」とは、日本を脱することではない。藩を脱するものだ。藩籍を捨てるものだ。彼れらも亦た、無宿人となるか不逞の一團とならざるを得なかつた。
 それでも、稼業に一意專念する者は、幕府の政治によつて恰も奴隸の如く扱はれ、必然として一揆や騷動が多發した。
 當時は今日の如く、各所に交番があるでない。大貳先生は、かうした現状を憂ひて、地域に於ける相互扶助の關係囘復を主張したものだ。





●大貳先生の曰く、仝、
『且つや、近世の處刑たる、其の罪の死に至らざる者は、或は黥(いれずみのこと。黥刑)し、或は髠(上「髟」+下「几」=こん、髮を剃り落とすこと)し、或は苔杖を加へ(※杖で叩くこと。輕敲は五十囘。重敲は百囘、所謂る百叩)て、而る後に其の財を籍沒し、其の身を放逐すれば、則はち星散して歸する所無き者、勝げて計らふ可からず。而して其の暴惡は固より輕刑の能く懲らす所に非ざれば、則はち或は自ら其の過ちを改めて以て其の業に就く能はず。是れを以て親戚に寄らむと欲すれば、則はち擯して之を斥け、僚友に託せんと欲すれば、則はち禁して之を錮し、之をして衣食の計無く、身を容るゝの地無からしむ。則はち窮因焉(これ)より甚しきは莫し。小人窮すれば斯(こゝ)に濫す。況んや其の性の固有する所、死灰寧(いづく)んぞ復た燃えざらむや。遂に郷黨閭里の間に群聚して、竊盜攘奪、以て人の産を妨げ、剪綹(糸偏+咎=りう)誆(言偏+匡=きやう)騙(※下記參照)、以て人の生を害す。此の如き者も亦た少しと爲さず』、

 刑法の誤ち、罪人の更生策の失敗を説いてゐる。前科者は一生、無頼の徒として送らねばならず、更正の機會を得なかつた。よつて、正業では糊口を凌げず、黨派を組み、惡事を繰り返してしまふ。犧牲となる可き人は年々増加し、またもや正直者が損をし、その損をした正直者が惡事に手を染め、或は不平黨を組織し、正に惡循環の極はみであつた。
 これでは年々、社會の治安が紊亂することがあつても、良好へと向かふ可く理由あるはない。

 ※剪綹誆騙
 「剪」は斬る、斷つの意。「綹」は緯(よこいと)の十縷の意。「誆」は瞞く、謬るの意。「騙」は謀るの意。





●大貳先生の曰く、仝、
是れ皆、蒼生を蟊(上「矛」+下左右「虫」=ほう。苗の根を食ふ蟲のこと)(※賊は苗の節を食ふ蟲)し、禍ひ國家に及ぶ者にして、見て以て常態と爲す可からざるなり。宜しく編伍の制を復し、戸籍の法を明らかにし、毛を戴き齒を含むの屬をして、上には管する所あり。下には由る所ありて、網擧がり目張り、掛漏の謗を容れざらしむ可し。而る後に、土着の俗成り、刑措の化、行はれむ。其の治國の道に於ける、庶幾(こひねがは)くは以て一變を爲す可きなり』(「編民第七」完)と。

 編伍を整へ、戸籍の法を完備し、匡救せしめよ、と述べたるものだ。



 江戸時代に於ける刑罰、御仕置き、成敗などの資料があるが、これは亦た他日に讓りたい。
 ともかく、この時代では、罪を犯した者が、轉向、改心を決意すれども、世に容れられる可くした制度も、機能も、風潮も無かつたので、再び犯意を抱く者が大半であつた。
 大貳先生は、是れを地域が密着し、相互關係を強めて、改心したる者への助長や、轉じて無頼の徒からの防衞を促した。

 編伍、五人組に對する長所短所は兔も角、大貳先生の主張は單に幕府の役人や政策の批判のみとせず、之に派生する諸問題を、民間の内にまで實に冷靜に觀察し、その憂ひを唱へてゐる。得てして、思想家とは、かういふものなのかも知れない。
 而、次章「勸士第八」「安民第九」と續いてゆくのであるが、そこでもやはり社會の秩序には人心の安寧に重きを置き、國家の經營には農事に重きを置く。後の章「守業第十」では、はからずも、凡そ八十年後に起こらむ「大鹽平八郎の擧」を豫言するかの如き大貳先生の見識をみることが出來る。
 テレビもインターネツトも無い、情報が極めて乏しき時代に於て、その識見にただゝゞ驚かされる秤りである。



 さて、法で治めるを過信し、刑を加へて一件落着すると考へ疑はざるは、近年も然りではあるまいか。
 確かに、應急措置の功はあらうけれども、そは所詮、應急措置に過ぎぬ。

◎今泉定助先生『講演通信』第四百十四號(昭和十四年一月廿五日「日本講演通信社」發行)「日本は所謂法治國ではない」項に曰く、
『西洋各國は法律を中心としてゐる、それであるから法治國だ、と斯う言ふ。それで日本を法治國だと思つて代々の司法大臣などが自分の部下を集めて、法治國の精神を強調しなければならぬ、などと數代言はれて居る。それは大間違ひである。日本は法治國ぢやない、開闢以來 天皇中心國家である。決して法治國ぢやありませぬ。
明治天皇も法律を色々御心配になつて向上せしめられたことは事實でありますけれども、決して日本は、法治國にはなつて居らぬ。法治國とは、法律を中心とした國家、日本は 天皇を中心として開闢以來出來た國である。斷じて法治國ぢやない。さういふ風に外の國では中心を持たぬものでありますから、力を中心としたり、宗教を中心としたり、法律を中心としたり、道徳を中心としたりして國を治めて居る。中心がなければこれは決して何ものでも治まるものではありませぬから、何か中心を求めなければならぬ。所が、日本の國家は開闢以來 天皇が中心で出來てゐる。~中略~
 イギリスでは法律が中心であり、絶對でありますから憲法の上には皇帝と雖も出ることが出來ない、憲法で決めたこと以外に行ふことは出來ない。憲法絶對、ところが日本の方はさうではない、 天皇絶對であつて、憲法絶對ではない。それであるから憲法にないことでも日本の 天皇は臨時に「斯うせよ」と思召せば、憲法以外でもすることが出來る。それであるから國家總動員法などゝいふものは實はいらぬ。あんなものがなくても一向、差支へないのであります。~中略~ あんなものを法律で拵へて置いて法律で實行しなければ出來ないなどゝいふことは、西洋民族のやる仕事であつて、決して日本精神ぢやない
 さういふやうなことが日本の國を知らない爲めに間違ふのである。惡い心持ぢやない。皆、日本の國家の爲めだと思つてやることが、日本の國家を知らない爲めに間違ふことが多い。斯ういふことが甚だ困つたものであります』と。

 大貳先生は、法と刑との誤用を指摘して、大にして日本、中にして藩、小にして邑、各々共同體としての自覺を取り戻したうへで制を設けることを主張する。この理想に到達すれば、豈に、一君萬民は觀念のみに止まる可き。


 
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by sousiu | 2012-05-06 18:41 | 良書紹介

柳子新論抄  「天民第六」 

山縣大貳先生、『柳子新論』「天民第六」に曰く、
『柳子曰く、古昔に所謂る天民なるもの、其の數、四あり。曰く士。曰く農。曰く工。曰く商
士は善く官制に服して、以て天下の義を勸め、農は善く稼穡に務めて、以て天下の食を足し、工は善く器物を制して、以て天下の用を濟し、商は善く貿易を爲して、以て天下の財を通ず。此の四者は(※下記參照)、上は天職を奉じ、下は人事を濟し、相愛し相養ひ、相輔(たす)け相成し、以て一日も相無かる可からざるものなり
先王の民を視ること、其の子を視るが如く、民の先王を視ること、其の父母を視るが如し。父母は善く子を教へ、子は善く父母を養ひて、道は其の中に存せり。是れを以て上下和睦して、怨惡あること無く、國以て治まり、人以て安かりしに、猶ほ且つ憂慮する所有り。官を立て、職を命じ、禮樂以て之を導き、號令以て之を教へ、秩祿以て之を富まし、爵位以て之を貴くし、衣冠以て之を文(かざ)り、干戈以て之を威(をど)し、之が才を量りて以て之が事を命じ、之を率ゐるに義を以てし、之を使ふに時を以てし、賞罰信あり、黜陟(ちゆつちよく)典あり。而して後に兆民之に懷(なづ)き、四國(※外國のこと)之に化しき』、(※改行は、野生による。下記も然り)

 ○内容の解説に曰く、
『江戸時代の身分をあらはす語として、從來一般に士、農、工、商なる語が用ゐられてゐるが、この段は、その由來について述べた』、

 ※ 『此の四者は、云々』。
 士農工商は、一般に身分間に存する上下の差別、本末關係を示すものと考へられてきたが、後述で理解出來るやうに、大貳先生は、四民は階級ではなく、共存の考を有してゐた、と理解することが出來る。

 以下は、大貳先生、それゞゝの職分を明らかにせんとするものだ。





●大貳先生の曰く、仝、
『是の故に士は、四民に長として、天職を共にする者なり。
士は君命を奉じて、天下に令する者なり。士は仁義を行ひて、庶政を輔(たす)くる者なり。士は忠信を體して、徳教を布く者なり
今の時に當りて、士氣大に衰へ、内には羞恥の心無く、外には匡救の功無し。上は天職を廢し、下は人事を誤り、蚩々として商賈と利を爭ひ、農を妨げ、工を傷り、殘害して以て威と稱し、飽食煖衣、逸居して以て徳と稱し、日に其の粟(ぞく)を食ひ、日に其の器を用ひて、之に報ゆる所以を知らず。驕奢俗を成し、身貧しく家乏しく、秩祿贍(た)らずして給を商賈に取り、假りて還さず、爭論並び起る。賈豎の利に黠(さと)きは、少成故の如く、習慣自然の如く、先づ勝つ可からざるを爲して、而して敵の勝つ可きを待ち、唇を彈き下を鼓し、智巧百出し、烏獲も之が爲めに怯み、莫耶も之が爲めに鈍る。況んや彼は固より是れにして、此は固より非、克たんと欲すと雖も、其れ得可けんや。且つ大商の富に於けるや、居貨萬をもつて計へ、奴婢千をもつて數ふ。居蘆、器用、錦繍珠玉、皆我が足らざる所にして、彼は則はち餘り有り。是れを以て封君も首を俛(た)れ、敬ふこと父兄の如し。先王の命ずる所の爵位安くに在りや。徳義の教輟(や)みぬ。是れ它(た)無し。官に其の制無ければなり』、

 上記の大貳先生の見は、士が士たる天職を忘却し、結局、商人の擡頭と相俟つて、當時に於ける正名が爲されてゐないことを云うたもの。當時を前後して、士と商の關係が如何なる状態であつた乎。
 因みに、其の一端を窺ふに足る可き文章として下記に付す。
◎三上卓先生、『高山彦九郎』(昭和十五年八月十七日「平凡社」發行)に曰く、
『「賤のをだ卷」に記載する次の事態は、寛政改革後また弛緩して昔に戻つた文化文政頃の状態を述べたもので、改革以前の驕奢豪遊振が、ほゞ之に依て想像される。
   「かれ等の寄合と稱する會合は、出入の料理屋を以て其場所に充て、必ずニ組も三組も贔屓
  の藝者を呼んで杯盤の間を斡旋させる。それが毎日のやうに續き、時には一日の中に二ケ所も
  三ケ所も重なる。二汁五菜には山海の珍味を選み景物や引物には此上も無い贅澤を極め、そ
  れにさへ飽いて家の者さへ餘り喜ばず、其儘腐らせてしまふ始末、芝居も交際には必要である
  と、場所も十間も十五間も廣々と打拔き、酌取には例の藝者を呼んで、明けても暮れても酒宴
  遊興、四季を通じて二日醉、其費用は一切主人持ち・・・。」
かうした留守居の腐敗、特に御用達との醜關係は、一藩を擧げての士氣民風の頽廢奢侈と相俟つて、各藩の財政を極度に逼迫させた。こゝに到つて藏本札差等と諸藩の關係は、經濟的には主客顛倒してしまつた。 ~中略~
前掲「賤のをだ卷」に、
  「さて三味線の流行りたる事、おびたゞしきことにて、歴々の子供惣領より初め次男三男、三味
  線を引かざるはなし。野も山も朝より晩迄音の絶える間はなし。此の上句、下方と云ふ者にな
  りて、歌舞伎の芝居の鳴物の拍子を、素人が寄りたかりて打つなり。其弊止みがたくて素人狂
  言を企て、所々の屋敷々々に催はしたり。歴々の御旗本、河原者の眞似をして女形になり、立
  役敵役にて立騷ぐ戲れなり」
これが三河以來直屬の將兵として幕府が其精鋭を誇つた旗下八萬騎の現状である』と。
 士官の弛緩、以て知る可し矣。(←駄洒落ぢやないよ)


 さて、次は農だ。





●大貳先生の曰く、仝、
夫れ農は能く百穀を播き、春耕し、秋穫り、草に處り、露に宿り、手足胼胝( ※ひび、あかぎれのこと)、作役以て上に奉じ、餘力以て父母及び妻子を養ひ、亹々(びゞ※つとめてやまざる貌のこと)として怠らざる者なり
 夫れ人は食なければ則はち生きず。貴は王侯たり、富は四海を有(たも)つ、而も其の司命たる者は農に非ずや故に先王は司農の食を命じて、男に稼穡を勸め、女に紡績を教へ、税斂を薄くして以て之を富まし、力役を省きて以て之を安んじ、之を親み之を愛し、嬛(左「女」+右「環」の右側)寡も咸(ことごと)く其の徳を被れり。後世は則はち然らず。~中略~
故に民の閭巷に在るや、善く鬻ぐ者は富み、善く耕す者は饑う。之を先王の典に視るに豈に異らずや。且つ其の吏たる者、不學無術にして、唯だ錢貨の貴ぶ可きのみを知り、利を見て義を廢すれば、則はち商賈の權は、上は王侯を侮り、下は朝土を凌ぎ、工を使ふこと奴隸の如く、農を視ること臧獲の如くにして、厚生の道亡びぬ。是れ它無し。官に其の制無ければなり』、

 商人の擡頭と、それを許した幕府の金銀崇拜熱と驕慢奢侈病の風潮は、結果として農家に「働けど働けど暮らし樂ならず」とした惡循環を瀰漫せしめた。
◎太宰春臺『經濟録』(享保十四年、序)に曰く、
『農業は至て艱難なることにて、終歳勞苦多くして利潤少く、嘉穀を食ふことも能はぬ故に、工商の勞苦輕くして利潤多きを羨み、農より工商に移る者多し』と。
加へて、農民には、天災が襲ふ。明和から、安永を挾んで、天明だ。天明の大饑饉も、既に眉端に迫りつゝある。

 「農は國家の大本なり」。農事を輕んじる政策や風潮はいけない。

 而して次は、工だ。





●大貳先生の曰く、仝、
『若し夫れ、工は、能く器物を製して、以て天下の用を制する者なり
而るに亦た皆、商賈と利を爭ひ、錐刀( ※わづかな利益)を是れ競へば、則はち材は皆、麁惡。器は皆、窪窳(上「穴」+下左右「爪」=ゆ、窪窳=わゆ、器に傷があるを窪と云ひ、形正しからざるを窳と云ふ)、日ならずして成り、時ならずして毀(こぼ)つ。唯だ其の售(う)り易からんことを欲して、其の堅緻を欲せず。要は爲す能はざるに非ざるなり。此を爲せば則はち富み、彼を爲せば則はち貧しきが故なり。 ~中略~
故に今の百工は即はち商賈の庸奴のみ。何ぞ以て巧拙を論ずるに足らんや。利用の道は壞れぬ。是れ它無し。官に其の制無ければなり』、

 金銀崇拜熱は、各々の道の道たる所以を亡失せしめんとしてゐる。工も是れ亦た免れる可きに非ず。
 これも、名分正しからぬが故に出でたる弊害である。
 では、これらを惹起せしめたる、一因は何ぞ。
 大貳先生は、都度、官の『其の制』にあると論じてゐる。





●大貳先生の曰く、仝、
故に今の民は、身日に勞して、財日に空し。是れを以て斷然として乃はち謂へらく、耕は食に益するなく、織は衣に益するなし、と。士も亦た曰く、學は身に益する無く、業は家に益する無し、と。乃はち其の事を廢して奇邪之れ從ひ、譸(言偏+壽=ちゆう、譸張=いつはり、たぶらかしの意)張之れ務む。於乎(あゝ)、世の末を逐ふ者、何ぞ其の多くして、本を務むる者、何ぞ其の寡(すくな)きや。古に言へるあり。曰く、上の好む所は、下これよりも甚しきものあり、と。先王は其の此の如きを察す。故に徳を貴びて貨を賤しみ、以て民の邪慝を禁じたり。教令上に明にして、風俗下に美なりし所以なり。今且つ須らく官を置き、職を立て、末を抑へ本を復し、商賈の權を奪ひ、農工の業を興す可し。然る後に士氣漸く復す。各々其の生を爲す所を樂まば、則はち四民其の處を得て、天下、安きに居らん』と。(「天民第六」完)



 本章では、士農工商の身分的特質が、次第に衰へてゆく現状を憂へ、整へむと試みたるものだ。同時に、商人の抑壓を主張する。
 江戸期の商人擡頭は、今で云ふ財界が權を專らとする状態に齊しい。
 ことに、恥ぢも外聞もなく、曾ては企業がマネーゲームに狂奔し、民草も亦た、黄金崇拜熱、享樂生活病に冒されてゐた。否、過去形ではなく、現在も未だ完治する能はざる状態と看做して宜い。

 脱線するので、多くは書かないが、既に少し觸れたやうに、寶暦時代のこの後には、所謂る「田沼時代」が到來する。
 幕府、役所は賄賂の問屋となり、役人天下の時代だ。特權階級の奢侈、享樂は進行し、而、期せずして天變地異は發生する。天明の大饑饉だ。次は寛政だ。高山彦九郎先生に就ては、紹介と抄録の達人・備中處士樣の掲示板に詳しいので、野生の稚拙な文章は既に無用の長物ならぬ長文だ。

 さても、興味の盡きなくあるは歴史だ。事實は小説よりも奇なり、と云ふが、歴史の全てが然りである。
 畢竟、時代の推移を眺める能ふるは、後人の特權だ。
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by sousiu | 2012-05-04 01:23 | 良書紹介

柳子新論抄  「文武第五」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「文武第五」に曰く、
『柳子曰く、政の關東に移るや、鄙人其の威を奪ひ、陪臣其の權を專らにす。爾來五百有餘年人、唯だ武を尚ぶを知りて、文を尚ぶを知らず。文を尚ばざるの弊は、禮樂並に壞れ、士は其の鄙倍に勝へず。武を尚ぶの弊は、刑罰孤行し、民は其の苛刻に勝へず。俗吏は乃はち謂ふ、文を用ふるの迂なるは、武に任ずるの急なるに如かず、禮を爲すの難きは、刑を爲すの易きに如かず、古、何ぞ以て稽(かんがふ)るに足らん、道何ぞ以て學ぶに足らんや、と。是れ特に蠻夷の言なるのみ殊に知らず、文事有る者は、必ず武備有り、禮樂の教、強禦も當たること無き(※下記參照)は、古の簡に率(したが)ひ、道の易きに由ればなることを』、


 上記は、眞つ向から幕府の尚武卑文主義を批判したものである。
◎徳富蘇峰翁曰く、
(※大貳先生のこと)の尚文主義は、決して文弱主義ではなく、既に尚文と云へば、尚武は自から其の中に在るものと認定してゐた而して現代(※勿論、この「現代」は「明和」の當時を云ふ)の所謂る尚武主義なるものは、其名は尚武なるも、其實の甚だ之に副はざるを見て、痛罵してゐる』と。(「近世日本國民史」第廿二卷)


 上記冒頭『政(まつりごと)の關東に移るや(※原文「政之移于關東也」)』とは、云ふまでもなく、源頼朝の武家政治創始を指す。
 餘談であるが、本稿は開幕より、『爾來五百有餘年』とある。ところで頼朝の開幕は建久三年(紀元一八五二年、耶蘇暦1192年)だ。※シツコイやうであるが、野生は紀元一八四五年、耶蘇暦1185年を開幕とする今日の説には承服出來ない。
 「柳氏新論」は、古人に假託した、大貳先生の著述であることは既に述べた。それを訴へる文章は、同書の跋に記載されてあるのだが、そこには柳子新論をして、『意(おもふ)に、中葉以降の作か』『織田氏の時に在るか』と、トボケてゐる。されど、「織田氏の時」が事實であれば、本能寺に於ける信長公の死は天正十年、紀元二二四二年、耶蘇暦1582年であるから、約三百九十年となり、五百有餘年とする記述は辻褄が合はない。
 頼朝開幕に、五百有餘年を加算すれば、まがふことなく、寶暦の時代となり、畢竟、大貳先生の著述であることは明白となるのである。大貳先生のうつかりか、將た又た故意か。故意ならば、敢へて自著であることを仄めかしたのであるか、それとも、同書の主旨と關係が存するのであるか。ともかく是れ又た興味の盡きぬ一節ではある。

 『古、何ぞ以て稽(かんがふ)るに足らん、道何ぞ以て學ぶに足らんや、と(※原文「古何足以稽。道何足以學也」)』とは、今日の役人の通弊でもある。「稽古」「學道」を輕視し、現状維持、繼續主義に心奪はるゝは役人の、所謂る職業病だ。

 ※『禮樂の教、強禦も當たること無き(※原文「禮樂之教、強禦無當)』とは、「禮は身を愼む所以であり、樂は心を和らげる所以のこと。禮樂之教に對しては、如何に惡強くして善を禦ぐ者も、遂に之を阻むことは出來ない」の意。




●大貳先生の曰く、仝、
『且つ夫れ文武は、譬へば、猶ほ權衡のごときなり。一昂一低、治亂乃はち知られ、一重一輕、盛衰乃はち見(あら)はる。奚ぞ以て偏廢す可けんや。是の故に、文武の天下に於けるや、一張一弛、剛柔迭(たがひ)に擧り、一動一靜、強弱並行はる。而る後に能く四海を平均し、民其の樂を樂しみ、其の利を利とし、人今に到るまで徳を稱せざるは無きなり。 ~中略~
即はち今の人、生れて一經をも執らざる者、寐ねて思ひ、寤めて思ふとも、焉んぞ其の然るを知らんや。知らずして之を言ふは、妄に非ざれば、則はち狂、固より齒牙に掛くるに足らざるなり。然りと雖も、天下の民、■(轉記不可)々として其の鄙に勝(た)へず、恟々として其の刻に勝へざる者をば、吾れ奚ぞ坐して之を視るに忍びんや。身を殺して仁を成すは、君子の辭せざる所なり。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『この段、文武の偏廢すべからざるを説く。こゝに大貳先生の立場が明らかである。この章に強調せられる尚文主義は、決して文弱主義ではなく、又、武を以て直ちに殺伐野蠻を意味するとなすのものではない。文武一途を原理的立場とし、江戸時代が尚武に偏したことを非難したもの』と。

 鳥巣通明翁も、又た、蘇峰翁と同じ意見だ。



●大貳先生の曰く、仝、
『夫れ官の文武を分つは、其の相兼ぬ可からざるを以てなり。譬へば、牛と馬との如きなり。馬の能く遠きに致し、牛の能く重きに任ずるは、性、蓋し然りと爲す。若し、馬をして重きに任じ、牛をして遠きに致さしめんか、皆、其の堪へざる所なり。今、夫(か)の文に任ずる者は、學ぶ所は詩書禮樂なり。故に其の人と爲りや、温柔敦厚にして、慣れて以て徳と爲る。之を大にしては則はち卿相、之を小にして則はち府吏、蓋し其の能なり。假に其れをして堅を被り鋭を執り、師旅(※軍隊編制の名稱)の間に在らしむるも、亦た焉んぞ賁育の功を見(しめ)さんや。若し、其れ武に任ずる者は、執る所は矛楯鈇(金+夫=ふ)鉞(※をのと、まさかり)なり。故に其の人と爲りや、威猛精烈にして、習ひて以て性と爲る。之を大にしては則はち將帥、之を小にして則はち騎卒、蓋し其の當なり。假に其れをして纓を結び紳を垂れ、俎豆の事を行はしむるも、亦た、焉んで游夏の容を見(しめ)さんや。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『先づ、官職上、文武兼ねる能はざるを説く。但し、それは吾々の修養の問題とは別である。文事有る者は、必ず武備あり。あくまでも文武兼備を目指し、文官は尚武の精神を忘れず、武官は求道の志を捨てゝはならぬ。武人道を求めざる時、兵は文字通り兇器となり、文官、尚武の氣象を缺く時、惰弱用ふ可からざるに至る事、今日(※昭和十四年)我々の周圍に見る通りである』と。




●大貳先生の曰く、仝、
『昔は、將門關東に割據、純友(すみとも)南海に救應、尊號を強僭し、暴虐數州を傾けしとき、秀郷奮然として師を率ゐれば、則はち兇賊遁逃、叛臣首を授けぬ。惡路王(※陸奧の賊首)と稱して、東夷を劫略し、窺窬(上「穴」+下「兪」=ゆ、窺窬=きゆ、覬覦に同意)神器に及びしとき、坂君(※坂上田村麻呂)、兵を提(ひつさ)げ、遽然として東海に向へば、則はち群盜伏竄して、頑寇魂を失へり。夫れ此の二人の者は、生れて山野海島の間に在りて、日に其の勇を養ひ、月に其の智を長じ、完聚其の道を得、指麾其の法に由れり。故に、能く大敵を制して、功は海内に此なく、千歳威猛を稱し、百世驍勇を稱す。是れ古の能く武に任ぜし者なり。況んや此の二人の時に當りては、尚武の俗未だ起らず、軍閥の諸將の如き、上は兵部の制を奉じ、下は郡國の令を承けしに、尚ほ且つ勇悍精鋭にして、紀律あり、節制あり、之をして征伐の事に赴かしむれば、則はち一擧にして枯を振ふが如し。豈に其れ文事有る者は必ず武備あり、禮樂の教、強禦も當ることなきを以てに非ずや。是れに由りて之を觀れば、今の所謂る尚武なるものも、亦た特(ひとり)虚語妄説なるのみ。文武の以て相無かる可からざること其れ然らずや。其れ然らずや』、

 ○内容の解説に曰く、
『翻つて、武家政治以前に例をとり(※わざゝゞ夫れ以前に例を擧げることで武家政治否定の意が看取される)、秀郷や、田村麻呂等「能ク武ニ任ゼシ」例をひきて推獎し、當代の所謂尚武主義を痛罵するのである』、
『文武の以て相無かる可からざること其れ然らずや(※原文「文武之不可以相無也、不其然乎」)』、これが本章立論の根據である』と。




●大貳先生の曰く、仝、
『仲尼の言に曰く、之を道びくに政を以てし、之を齊(とゝの)ふるに刑を以てすれば、民は免れて恥づること無し、と。今の天下の如きは豈に特(ひとり)民をのみ然りと爲さんや。乃はち卿大夫士に至りても、亦た唯だ免れんことを之を求め、而して曲從阿諛、一に海内の俗と爲り、廉恥の心は爾然たり。又た安(いづく)んぞ君子の朝に齒(よはひ)せん。嗟(あゝ)。夫れ此の如きか。之を要するに皆、武を尚びて文を尚ばざるの弊のみ』と。(「文武第五」完)


 最後に孔子の言をひきて、文武跛行の弊を指摘し、本章を結んでゐる。
 「仲尼の言」云々、とは、「論語爲政第二」のこと。

 ○内容の解説に曰く、
『江戸時代の政治が法律の末に走り、權力を以て制せんとして、國民の道義心を養ふことを閑却した結果、孔子の所謂、民免れて耻無きのみにとゞまらず、爲政者自身も亦、法網をくゞつて耻づるなきに立到つたことを慨したものである。然もこの慨嘆は、ひとり、今より二百年前寶暦の時代にとゞまらぬこと自明であらう』と。



 野生は、この「文武第五」が好き・・・「好き」と云うたら、頗る輕薄になつてしまふ乎、反省・・・、なのである。
 「求學求道」とは云ひながら、「求學」と「求道」は別の代物に非ず。剖つ可からざるものだ。
 則はち、「求學」ありて、「求道」である。「求學」即、「求道」なのだ。畢竟、「求學」なくして「求道」は無い。
 野生は、何遍も云ふが、若かりしころ、勉強が嫌ひで嫌ひで、向學心など一毛ほども無かつたのである。これは野生の學生時代を知る者は萬承知してゐることである。
 だがしかし、この世界の住人として末席を汚すやうになつてから、歳月を重ねるにあたり、にはかに、道の途次に在るといふ自覺が芽生え始め、學ぶことの大切さを嫌といふほど思ひ知らされた。一所懸命となれば壁に突き當たる。越えて更らに進めば、亦たその先に壁がある。これを都度、越えるには、見識が必要だ。見識は、その凡てと云はざるまでも、結局學の有無に大きく影響されてしまふ。
 固より、求道者としての姿勢も、多くの先輩や先進の背中を見て、今も尚ほ學習してゐる。
 阿形先生も、御高齡でありながら、今猶ほ、各所勉強會や講演會に參加なされ、決して學ぶことを疎かとしてゐない。

 固より、本章で大貳先生は、文武不岐の重要性を政治に於て説かれた。
 今日、軍備必須を説く者は、愈々以て大貳先生に教はるところ大とせねばならぬ。
 武人の道を求めざる時、兵は忽ち兇器となる、といふは、全くその通りだ。曾て野生は、某團體への寄稿に、「赤子に拳銃を持たせたら、誰れがこれに近付くことが出來るの乎」と記した。盲目者、或は理想を知らぬ、將た又た人道の未だ教はらざる者の扱ふ兵器は、總じて兇器ならざるを得ないのである。

 然も、吾人は個々人に於てもこれを訓示とす可きを必要とする。況んや道の途次に在る者に於てをや。
 匹夫の勇者は、一日の時間があれば誰れでもなることが出來る。されど大觀者は、斯く容易ならぬものではない。求學即求道。羅馬は一日にして成らず、だ。
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by sousiu | 2012-05-03 17:23 | 良書紹介

柳子新論抄  「大體第四」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「人文第三」に曰く、
『柳子曰く、天下國家を治むる者は、先づ、其の大なるものを治めて、而して小なるものは之に從ふ。故に大利は興さゞる可からざるなり。大害は除かざる可からざるなり。何をか大利と謂ひ、何をか大害と謂ふ。
君は仁に、臣は賢にして、善人政を爲すは、天下の大利なり。君は暴に、臣は愚にして、小人事を用ふるは、天下の大害なり大利興らば則はち大害止み、善人擧げらるれば、則はち小人伏す
古語に之れ有り、曰く、權衡誠に懸くれば、欺くに輕重を以てす可からず、繩墨誠に陳(つら)ぬれば、誣ふるに曲直を以てす可からず。規矩誠に設くれば、罔(くらま)すに方圓を以てす可からず、と。
夫れ聖人の道は、權衡なり。繩墨なり。規矩なり。之を懸けて、以て輕重を正し、之を陳べて以て曲直を正し、之を設けて、以て方圓を正さば、何の利か興らざらん、何の害か除かれざらん。~云々』、
※改行は野生による。

 ○「大體第四」の解説に曰く、
『大體--。概略の謂でなく、基準大格の意。幕末の志士、平野國臣先生に、「大體辨」なる有名な紙撚字の論策があるが、これと同一用法である。本章は前章(※「人文第三」のこと)と異り、意味はよく通つてゐる』と。

 ○内容の解説に曰く、
天下國家を治むる大眼目として、大利を興し、大害を除くことを擧げ、それは正しい人物を重用することによつて可能なりとするもの。-善人擧げらるれば、則はち小人伏す(※原文「善人擧則小人伏」)- これは實に卓見である。法律制度は自ら動くものでなく、人に俟つてはじめて用を爲すものであるが故に、その人を得なければ如何ともし難く、又た運用者がたゞ名利を求むる場合には有害無益となる。さればこそ聖徳太子は、憲法十七條の第七に、「人各任有り、掌ること宜しく濫れざるべし。其れ賢哲官に任ずるときは、頌音則ち起り、姧(左の上下「女」+右「干」=かたましき)者官を有つときは、禍亂則ち繁し。世に生れながら知ること少なけれど、尅(よ)く念ひて聖を作せ。事大小となく、人を得て必ず治まる。時急緩となく、賢に遇ひて自ら寛なり。此に因りて國家永く久しくして、社稷危きこと勿(な)し。故(か)れ古の聖王、官を爲(さだ)めて以て人を求む。人の爲に官を求めたまはず」と仰せられたのであり、北畠親房公が神皇正統記に政道を論じて「一には其人をえらびて官に任ず。官に其人ある時は、君は垂拱してまします。されば本朝にも、異朝にもこれを治世の本とすと云ひ、藤田東湖先生が、彰考館總裁川口嬰卿を彈劾して「心術不正者不宜預館職(心術正しからざる者は、館職に預かる可からず)」と建白したのも亦、その爲であつた。法制が時代の推移によつて改正せらるべきは勿論であるが、我國古來の正しい教に從へば、政教の根本はあくまでも制度ではなく人である』、

 上、鳥巣通明翁の解説に留意す可し。

 餘談であるが。當時、誰れぞ知るらん、こののち、所謂る「田沼時代」が到來せんことを。大貳先生の憂慮せる、人材なくして場所あり、場所なくして人材ありの環境が、田沼意次なる小人に幕政を一層腐敗させしめたるは、後世に傳へらるゝところである。
◎醫官 喜多村直寛氏、隨筆『五月雨艸紙』に曰く、
『天明安永の頃は、田沼侯執政にて、權門賄賂の甚しく行はれて、賢愚を問はず、風潮一に此に趣きたるが、其折には長崎奉行は二千兩、御目附は一千兩といふ、賄賂の相場立ちしと申す位なり』と。
◎『江都見聞集』に曰く、
『主殿頭(田沼意次のこと)常に云るは、金銀は、人々の命にもかへがたき程の寶なり。其寶を贈りても、御奉公いたし度しと願ふほどの人なれば、其志、上に忠なること明なり。志の厚薄は、音信の多少にあらはるべしといへり。又云るは、予、日々登城して、國家の爲に苦勞して、一刻も安き心なし。只退朝の時、我邸の長廊下に、諸家の音物おびたゞしく積み置たるを見るのみ、意を慰するに足れりといへるとぞ』と。

 三河武士の氣概最早昔日の如し、既に幕府内に存せず。幕政を預かる者は賄賂の歡迎者、且つは獎勵者と墮し、幕府の屋臺骨は將さに朽ち果てんとする一方であつた。
 明和に於て、既に如何程賄賂の惡習が横行してゐたか、野生は定かな判斷を得ない。されど大貳先生による上記の道破は現代に於ても參考とす可き論であることは疑ふ可くもない。



 閑話休題。
●大貳先生の曰く、仝、
『則はち、今の政に從ふ者、自ら其の謀を出す能はず、自ら其の慮を發する能はず。率(おほむね)、先世の事に因循して、可と不可とを問ふことなく、輙(すな)はち曰く、故事爾(しか)り、故事爾り、と。事の窮む可からざるを如何ともすること無きなり。夫れ、故事の因る可きは、先王の立てし所、賢者の定めし所、歴試、政に害なく、數行、事に益あるものにして、而る後に可なりとなす。不可なれば則はち其の意を觀、其の情を察す。之を古に考へて悖ることなく、之を今に試みて戻ることなくんば、方(まさ)に以て有政に施す可し。何ぞ必ずしも拘拘として、唯だ故にのみ之れ由らんや。~云々』、

 上記は、古の歴史的考察を顧みず、啻に盲目的前例蹈襲主義を墨守し、徒らに失政に失政を重ねてゐることを批判したもの。こゝで云ふ“故事”とは、つまり幕府の因循姑息な制度、政策、傳統等に就て限定したる謂だ。古の日本の制度、政策を指して云ふてゐるのではない。
 當時の幕府は、幕府創設以降の傳統主義であり、形式主義であり、格式尊重の風潮が重きを爲してゐた。然るもそれ、本質に於いて今日の政體と何ら變はるところない。




●大貳先生の曰く、仝、
『況んや今の世は、戰亂の後を承けて、制作の時を距(さ)ること千有餘年、世其の世に非ず、國其の國に非ず。禮の因る可きものもなく、法の襲(つ)ぐ可きものなきをや。然らば則はち、其の所謂る故事なるものは、唯だ是れ割據の遺俗、戎蠻の餘風、此を以て天下の民を禦する。其の事を敗り物を蠱(こ、※そこなふ、の意)するに非ざるものと幾(ほとんど)、希(まれ)なり』、

 これは更らに徹底的に痛罵したもの。『唯だ是れ割據の遺俗、戎蠻の餘風(※原文「唯是割據之遺俗、戎蠻之餘風」)』は、如何にも痛快だ。




●大貳先生の曰く、仝、
『偶々其の不可を知りて之を改むること有るも、亦た唯だ苟且の輩(こうしよのやから 、※その場凌ぎの者、の意)、一時の利を見るのみにして、後の害を圖らざれば、則はち朝には之を是とすれども、夕には之を非とし、昨(きのふ)は則はち得なれども、今(けふ)は則はち失にして、飜覆波瀾の如く、變態風雨の如し。群聚事を議し、雜駁論を立て、曾て一事をも之れ決すること能はず、依違之を久しうし、荏苒(じんぜん、※徒らに歳月が過ぎる、の意 )時を過ごし、譏を群小に取る者、滔々として皆然り。是れを以て、其の事に從ふ者は、利を見て進み、害を見て退き、唯だ其の罪を免れんと欲するのみにして、其の身を致すことを欲せず、讒諛其の間を窺ひ、便嬖其の虚に乘じ、財を出して事を成し、貨を齎して私を求め、賄賂の俗、朝野に公行せり。故に貧者の萬善は富人の一非に勝つ能はず。而して人、其の誣罔に勝へず。且つ士の青雲に志すや、才不才を論ずるなく、善く賂ふ者は之を得、善く賄はざるものは之を失ふ。得失の際、憂懼交々に至る。是れを以て日々に權貴の門に走り、屑々乎として唯だ幸ひをのみ之を求め、甚しき者は其の産を破り、其の家を傾け、俸祿給せずして(※下記參照)、妻孥を鬻ぎ、罪惡自ら其の禍を買ふ者あるに至る、何ぞ其の不智なるや。是の如きの輩は固より經藝の一端をだに知らず、奚ぞ以て治安の策を擧ぐるに足らむや。縱(たとひ)、其れをして一官に居るを得しむるも、志す所は財利に過ぎず。財利の人を以て財利の權を執らば、財利財利、財利何れの時にか已まん。是れ皆其の害の大にして且つ見る可きもの、而も一人として其の非を知るもの無きなり。豈に愚の甚しきに非ずや』、

※『俸祿給せずして(※原文「俸祿不給」)』。俸祿だけでは足りず、の意。

 上記も、憂憤だ。固より、今日の世相にも酷似してゐる。三上卓先生の『青年日本の歌』の歌詞にも似たやうな意がみられる。畢竟、何れの世に於ても、正眼視を有する民の頭痛と心痛の種である。而、皇國に於ては社會の腐敗は大概、政界の住人から開始せられることを識る可し矣。




●大貳先生の曰く、仝、
『董仲舒曰く(※下記參照、一)、政を爲すの用は、之を琴瑟に譬ふ。不調甚しければ、必ず絃を解きて之を更張す。乃はち鼓す可きなり、と。今や天下の琴瑟不調も亦た甚し(※下記參照、二)。是れ宜しく更張す可きの秋(とき)なり。機は失ふ可からざるなり。士を擢んでて相と爲し、卒を拔きんでて將と爲すも、固より不可なること無きなり。義を以て禮を興し、禮を以て人を制し、賢良の士を擧げて諂諛の徒を誅し、賄賂の途を塞ぎて廉恥の端を開くに若(し)かず。而して後、始めて治を謂ふ可きなり。而して後、始めて道を語る可きなり。是れを之れ、天下の大政と謂ふ』と。(「大體第四」完)

 ○内容の解説に曰く、
『幕府に人なきを指摘した後をうけ、今こそ一大改新の時なりと明言し、その爲に政治の大體を述べてこの章を結んでゐる』。

※ 一。『董仲舒曰く(※原文「董仲舒曰」)』。
 漢書「董仲舒傳」のこと。この章では、「董仲舒傳第廿六」にある董仲舒の言を述べてゐる。

※ 二。『今や天下の琴瑟不調も亦た甚し(※原文「今也天下之琴瑟不調亦甚矣」)』。
 今日、天下の政治は殆どなつてゐない、の意。



 『機は失ふ可からざるなり(※原文「機不可失也」)』の一文に明らかな通り、大貳先生は、その理論を主張するに止まらず、その實踐をも主張してゐる。且つ全文を拜讀すれば、そは、幕政改革に非ずして、倒幕だ。



 愚案。・・・ぢやない、不安。
 今更らではあるが、若しかして、「柳子新論」抄は、備中處士樣しか讀んでくれてゐないのではないか。いや、ひよつとしたら、木川選手も讀んでくれてゐるかも・・・・。
 日曜日、神奈川の海法選手の曰く、「讀んでゐます」と。
 一昨日(月曜日)、大阪の志賀選手の曰く、「日乘讀んだのだけれども、語句が六ケ敷いですね」と。
 昨日深夜、熊本の鈴木田選手より電話あり。折から野生の日乘の話しとなつた。彼れに感想を求めむとするに彼れの曰く、「全然讀んでません」と。
 鈴木田選手は好青年だ。彼れの特徴は素直過ぎることだ。それは彼れの長所でもあり、同時に、短所でもある。

 
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by sousiu | 2012-05-02 11:02 | 良書紹介

柳子新論抄  「人文第三」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「人文第三」に曰く、
『柳子曰く、人生まれて裸なるは、天の性なり。貴となく、賤となく、蠢々として唯だ食をのみ之を求め、唯だ欲をのみ之を遂げ、禽獸と以て異なること無し。惟だ、鳥と獸とは、飛走を以て其の能を異にし、羽毛を以て其の文を殊にし、大小を以て其の類を分かつ。乃はち鱗介諸蟲に至りても、亦た各々其の文あり。譬へば草木の區にして以て別たるゝが如し。人は則はち然らず。飛走の異なる無く、羽毛の殊なる無く、鼻口其の體を同じうし、手足其の形を同じうし、言語其の文を同じうし、聲色其の欲を同じうす。夫れ然らば則はち等無く差無し。貴賤何ぞ別たれん。故に強は弱を凌ぎ、剛は柔を侮り、相害なひ、相傷つけ、相虐げ、相殺し、攘奪劫掠、固より親疎を之れ論ぜず。亦た何ぞ少長を之れ問はん。是れを以て穴居草處、禽獸と共に死し、草木と竝び朽ちる者、鴻荒の時は乃はち爾り。
 惟だ人は萬物の靈。靈なれば則はち神なり。群衆の中、必ず傑然たる者有り、能く自ら其の生を遂げて、以て人の生に及ぼし、能く自ら其の身を養ひて、以て人の身に及ぼし、食を作りて之れに食はしめ、衣を作りて之を衣しめ、之に稼穡を教へ、之に紡織を教へ、利用厚生、至らざる所なければ、則はち人の之れに歸すること衆星の北辰に拱するが如し。亦た猶ほ蚩々として唯だ食をのみ之れを分かち、君臣と爲し、父子と爲し、夫婦と爲し、長幼と爲す。才以て之を分かち、智愚と爲し、賢不肖と爲す。業以て之を分かち、農工商賈と爲す。 而して後、強は弱を凌がず、剛は柔を侮らずして、而して後、相害ひ、相傷つけ、相虐げ、相殺し、攘奪劫略するの俗已めり』、(改行は便宜上として、野生による)

 上記は、國家の發生に際して、即はち殆ど禽獸と異なることなき時代から、人が人倫の道を確立したことを説かれたもの。
 固よりこの御説には異論のある方もをられよう。



●大貳先生の曰く、
『因りて、其の禮を制し、差等分る。因りて其の職を命じ、官制立つ。因りて其の服を作り、衣冠成る。之を作る者之を聖と謂ひ、之を述ぶる者之を賢と謂ひ、之を率ゐる者之を 君と謂ひ、之に從ふ者之を公卿大夫と謂ひ、之に由る者之を士と謂ひ、之に化する者之を民と謂ふ。故に、上は、天子より下は庶人に至るまで、冠有らざるはなく、衣有らざるはなく、而して鳥獸と群を爲さず。是れ其の天性分かるゝ所有ることなくして夫の制者を待つこと有るなり』、

 段々と大貳先生の云ふ國家の發生が成つて來た。されど、この文章には留意す可き點を要する。以下に、例によつて解説文を記する。
○内容の解説に曰く、
『こゝに見えたる國家社會發生の理論は、全く支那思想、特に「孟子」の倫理成立に關する説の祖述であり、わが古典に表はれたる國民的信念、即ち、國土民人が 天祖によつて創生せられた太初より、わが君臣關係は嚴として定まり、國祖と國民の父子的關係が成立したとなすものと、顯著な違ひがある』と。
 この點に就て、解説者は斯く分析する。
『大貳先生は、恐らくは十八歳頃まで、所謂、崎門三傑、三宅尚齋門下に在りて出色と稱せられた加賀美櫻塢に業を受け、後、江戸に出てからも、櫻塢との交誼は永くつゞいたが、又、太宰春臺の高足五味釜川の指導下に入つて、蘐(草冠+下左「言」+下右「爰」)園の流を汲み、益友を以て稱せられた。三宅尚齋が崎門の三傑とたたへられつゝも、遂に師説の蘊奧を理解することができず、谷秦山先生によつて完膚なきまでに反駁せられたのは、「秦山手簡」に明らかであるが、加賀美櫻塢も亦、少しく歌道國學を學んだとは云へ、熱烈なる朱子の崇拜者であつたこと、尚齋と變りはない。五味釜川は、安民を以て其の學、即ち「先王の道」の眼目となし、「革命者」であつたころの古聖人の道を、我が江戸時代に再制作せんとしたかの徂徠の流を汲むもの。その主張に、日本人としての眞の自覺が見られなかつたのは周知の事實である。然して大貳先生の思想はその間に育まれたのである。この章に限らず柳子新論の瑕瑾と思はるゝものは、職としてかゝる理由にもとづく』と。

 だがしかし、大貳先生の眼目と「柳子新論」に見る可き要點はこゝに非ず。あくまでも徹底したる名分論である。何處まで行つても、名分の一點張りのところにある。即はち、正名が、主、だ。




●大貳先生の曰く、仝、
『故に服は身の章(あや)なり、冠は首の飾なり。身に章なく首に飾なき、之を蠻夷の俗と謂ひ、以て聖人の民と別つ。今夫れ日月の照らす所、舟車の通ずる所、斯くの人有らざるはなし。而も唯だ其の風化の及ぶ所のみ、斯の文を同じうし、斯の章を同じうし、而して後、能く其の制を承け、能く其の徳を被るなり。故に衣冠は、特(ひと)り其の寒を拒ぐのみにあらず、裸且つ跣、禽獸と別つことなきを恥づるが爲めなり。冠を制しては、以て其の首を掩ひ、衣を制しては、以て其の身を掩ひ、裳しては、以て其の脛を掩ひ、履しては、以て其の足を掩ふ。禮に之れ有り、曰く、渉らざれば掲げず、敬事有るに非ずんば敢て袒裼せず、君子は死しても其の冠を免ぜず、と。豈に皆、其の醜を恥づるが爲めに非ずや。且つ夫れ衣冠は、豈に特り其の醜を恥づるが爲めのみならんや。亦た豈に特り身首を文(かざ)るのみならんや。位官職事此に由りて分たれ、禮樂刑罰此に由りて行はれ、風俗此に由りて移り、政令此に由りて布かれ、國家此に由りて治まり、四夷此に由りて服す。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
衣冠の制の意義について述べ、それが單なる裝飾或は實用に止まらずして、正教と關連あるを云ふ』、

 ○『日月の照らす所、舟車の通ずる所』の意。
 全世界のこと。

 ○『位官』
 官位に同じ。官とは、朝廷の諸職をいひ、位は朝廷より親王諸臣に賜ふ位階を云ふ。即はち、大臣以下書吏を官、一品以下初位以上を位と云ふ。




●大貳先生の曰く、仝、
『若し夫れ、無道の君は則はち然らず。衣冠を以て桎梏と爲し、禮樂を以て虚文と爲す。是を以て其の政を爲すや、唯だ刑と法とに之れ任じ、遂に亂階を結構す。豈に亦た異ならずや。或は衰亂の後を承けて、古を稽(かんが)ふるに及ばざれば、則はち服は之を存すと雖も、制は其の制に非ず、文は其の文に非ず、貴賤等無く、尊卑分無く、唯だ其の有無に之れ由るのみ。 ~中略~ 若し乃はち士庶人の服する所も、亦た唯だ有無に之れ由れば、則はち富者は帛を以てし、貧者は布を以てす。富者は常に美にして、貧者は常に惡(みにく)し。貴賤是に於てか亂る。 ~中略~ 禦侮の意、競ひて其の美ならむことを求め、驕者是れに於てか長ず。豈に徒だに然りと爲すのみならんや。貴賤其の等を失なひ、而して禮俗攘る。士民其の貧を患へ、而して徳義廢る。驕奢其の欲を縱(ほしいまゝ)にし、而して禍亂興る。凡そ此の如きの類、其の害、勝(あ)げて計るべからず。是れ皆、衣冠、制無くして、文物足らざるが故のみ』、

 この一段は、衣冠の制の無視輕視が、社會に於ける種々の混亂、墮落を惹起するを説く。即はち名分の正しからざる弊害避け難きを説くものだ。
 二百五十年の時を隔てゝ尚ほ、現代に一聽可きことがらでもある。




 而、大貳先生は、亦た反す刀で、當代の世相を斬らんとす。固より當時にあつては、自身の壽命と引き替へにしなければならない。
●大貳先生の曰く、仝、
『且つや今の卿大夫、祭祀天禮の時に當たりては、或は尚ほ能く其の冠を冠し、其の服を服す。しかも■(馬+芻=すう)從輿隸の屬、裳を■(かか)げ、衣を掲げ、臀腰掩はず、大に其の手を掉り、高く其の足を踏み、疾走して威を示し、狂乎して行を裝ひ、慣れて風を爲し、狃れて俗を爲す。我其の此の如きを見るや、夏畦も愧づるに足らざるなり。於乎(あゝ)、足利氏の天下に於けるや、末世已に斷髮の俗有りしも、亦た唯だ武人、戰士の徒の、僅々便に隨へるのみ。其の一たび變ずるに至りては、則はち官は公卿に任じ、職は將相に補するも、亦た皆斬髮頂露、方鬢(はうびん)月額(さかやき)、加ふるに無制の服を以てす。則はち所謂る、衣冠の風は、化して戎蠻の俗と成れり。醜も亦た甚しからずや。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『衣冠の制の確立と國家の秩序の不可離の關係を一般的に述べた後をうけて、敢然として、當代に於ける我が衣冠の制を問題とした』、

 ○『今の卿大夫』の意。
 云ふまでもなく、江戸時代の大名のことである。

 ○『~狂乎して行を裝ひ』の意。
 時代劇などでみられる、「下~に~、下に~」のアレである。

○『夏畦も愧づるに足らざるなり』の意。
 夏畦、とは、夏月炎天に田畑を耕すを云ひ、甚だ苦勞にして下賤なるをさす。
 要するに、この前後の文章は、くだらぬ大名行列に加はるくらゐならば、下賤なる農夫になりたい、との意味だ。たとひ、『柳子』なる、在らぬ人物に假託した論文とは云へ、當時の支配下にあつて、この發言を以てして幕府から要注意人物と目されぬ方が、寧ろ不思議といふ可きものよ。
 されど大貳先生による反幕の氣焔は、やがてその身に迫るであらう後難を慮らぬばかりか、更らに止まる可きところすらをも知らない。啻に第一項に掲げたる、自己の正名論に隨ひ驀らに筆を進めるあるのみ而已矣。




●大貳先生の曰く、仝、
今の人を以て、今の服を著し、今の朝に立ちて、今の政を行なふ、其の威儀無きや固よりなり。亦た奚ぞ夫の天下の陶鑄するの道を知らんや。夫れ此の道の如くんば、寧ろ以て治平の術となさんか、將た以て衰亂の俗となさんか、寧ろ以て中國の教へと爲さんか、將た以て夷狄の風と爲さんか、吾、未だ其の何を以て之を處するかを知らざるなり。 ~中略~ 即はち、我邦の俗の如きは、縱令(たとひ)賢聖の君有りて、古禮を行ひ、古樂を奏し、官政舊に率(したが)ひ、衣冠再び擧がるも、亦た惟だ斷髮の俗、裸跣の習、馴致の久しきに非ずんば、奚ぞ能く中士の人に似んや。士は必ず桎梏に勝(た)へず、民は必ず鬱冒に勝へざらん。是れ其の之を如何ともすべからざるものなり。澆季の弊、一に此に至れるか。長歎無からんを欲すと雖も、得可からざるなり』(「人文第三」完)

 つまり、當時江戸時代の衣冠の制の紊亂を掲げて、夷狄の風なりと痛罵した後をうけ、支那の歴史に目を轉じ、その俗の洗禮を承けてしまつてゐるが爲め、一洗、復古せねばならぬ次第を述べるも、斯くの如き汚染の進むを顧慮すれば、矯正の容易ならざるを長歎されてゐるわけである。「澆季」とは、風俗の輕薄になる末の書のこと。


 日本が諸國より到來する習ひに敏感で、これに拒絶反應を示すことは強いが(當時に於ける耶蘇教など)、一ト度び、之れを受け容れると、忽ち感染するといふ害に陷る。これは古今にみられる通弊だ。


 果して現代は奈何。西歐文明の輸入から、西歐崇拜、昂じて西歐萬能の盲信病を患ひ、百數十年に垂んとしてゐる。
 時こそ異なれ、場合こそ同じからざれ、本質的には現代も、その通弊の例に漏れたるはなし。
 而、大貳先生は、如何にしてこの深刻なる病ひから、日本を治癒す可きと考ふるのであるか。『柳子新論』も漸く、三分の一に差し掛からうとしてゐる。


 ・・・・今更らであるが、この[良書紹介]の構成の仕方は失敗したな。しんどくてタマラン。
 「三日坊主」ならぬ「三篇坊主」の氣分になりつゝある。
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by sousiu | 2012-04-30 10:25 | 良書紹介

柳子新論抄  「得一第二」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「得一第二」に曰く、
柳子曰く、夫れ天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、王侯は一を得て以て天下の貞と爲るといへり。豈に特(ひとり)天地と王侯をにも然りと爲さんや。丈夫も一を得るに非らずんば、則はち、以て其の家を治むべからず。士も一を得るに非らずんば、則はち、以て其の妻孥を養ふべからず。庶人も一を得るに非らずんば、則はち、以て其の身を安んずべからず。父も以て其の子を教ふべからず、子も以て其の父に事(つか)ふべからず。故に、天に二日無く、民に二王無し。忠臣は二君に事へず。烈女は二夫を更(あらた)めず、と』、

 ○内容の解説に曰く、
『一といふことを貴び、天地より萬物に至るまで、一を得ることによつて、はじめて成立し、その本然の面目を保つ事ができるとするもの。こゝに一とは、一元論的な道の謂であり、從つて、得一とは名分を嚴正にすることを意味する』、




●大貳先生の曰く、仝、
弟子請うて曰く、願はくは其の詳を聞かん、と。曰く、今かの衰亂の國は、君臣其の志を二にし、祿位其の本を二にす。故に名を好む者は彼れに從ひ、利を好む者は此れに從ふ。名利相屬せずして、情欲分る。即はち、我が徒、將さに安(いづ)くにか依らんとする。富を頒(わか)つ者は貴からず、貴を賣る者は富まず、富貴相得ずして、威權分る。即はち我が徒、亦た將さに安くに依らんとする。 ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『一切のことを通じて、得一が根本問題であるとなし、一貫せる原理の必要を力説した後をうけて、この段に於ては、現實に眼を轉じ、江戸時代が政治的に二元制なるを忌憚なく指摘し、そこに釀成される社會の亂離を描いてゐる』、

 ○『衰亂の國~』の意。
 皇國のこと。明言を避けたのである。

 ○『君臣其の志を二にし、祿位其の本を二にす』の意。
 朝廷と幕府に分れて相對し、朝廷は名譽の源泉として位を授け玉ふが、經濟的には全く無力であり、人々の俸祿は幕府によつて給與される。即はち祿位が一を得てゐない。故に名を好む者は、朝廷に從ひ、利を好む者は幕府に從ふ有樣である。

 ○『我が徒、亦た將さに安くに依らんとする』の意。
 朝廷と幕府、そのいづれかにつかんとするのであるか、といふ意。これは岐路に立つて出處進退に迷ふ者の嘆息ではなく、躊躇を許さゞる實踐への決斷を迫る意である。本文、以下、同じ意。
 當時、正名を論じ、尊皇思想を懷く者は少くなかつたが、公武一和を基調とし、國民に對して我が國體の本源を認識し、皇室の尊ぶ可きを教へるにとゞまり、幕府の存在に就ては、その發生の史的事實より、これを必然的なものとして肯定するか、或は全然この問題に觸れなかつた。それを大貳先生は、こゝに於て敢然として取り上げたのである。倒幕の志は、正名第一に見た以上に明らかであらう。




●大貳先生の曰く、仝、
夫れ、獸に比肩あり、鳥に比翼あり。兩々相依りて、飛走始めて得る。若し其れ、相離るれば則はち病(※止む、乎)む。是れ其の性たるなり。奚(いづくん)ぞ、かの燕雀と犬羊とに若かんや。且つ人、此の二物を見ば、必ず怪しみて曰はん、支離(しり)なりと矣。人にして此の如くんば、將さに之を何と謂はんとするや。今かの二物の如きは、支離なるは、則はち固よりなり。~中略~ 上に事(つか)ふるに貳(「二」の意)なれば、則はち不義、先王常刑有り。下を使ふに貳なれば、則はち不仁、兆民從ふことを肯んぜず。且つや今の人、婦に二心有りと聞かば、則はち、必ず曰はん、淫なり、と。臣にして二心有らば、其れ之れを如何せむ。夫れ誠に此の如くならんか。婦にして貞なる者は則はち多し。士にして忠なる者は、吾れ其の必ず有ること無からんを知るなり。~云々』、

 案ずるに、上記は説明を要すまい。讀んで文の如く、全く以て、その通りである。返す言葉が見當らない。




●大貳先生の曰く、仝、
國の爲めに計らば、亦た惟だ官制を復して、以て其の名を正し、禮樂を興して、以て其の實を示すに如かず。君臣貳無く、權勢一に歸し、令すれば行はれ、禁ずれば止み、而る後、君子位に在り、小人歸する所あるなり。是れを之れ得一の道と謂ふ』と。(「得一第二」完)

 ○内容の解説に曰く、
『上述の如き、皇國の亂脈に對する匡正策、即はち「得一之道」を述べて、本章の結語となす』と。

 ○『惟だ官制を復して、~』の意。
 征夷大將軍は、その本來の面目に歸して、夷狄を攘ふ武官となし、政治の大權は、これを 天皇に奉還す可きである、との意



 愚案。
 徐々に、大貳先生の本旨が見え出して來たつた。「大政奉還」「皇政復古」だ。
 「柳氏新論」の脱稿より凡そ百年後は、長州藩士を主として、一部(百年後とて、未だ一部、だ)過激な志士達によつて、倒幕の狼煙が揚げられた。「禁門の變」は百五年後に當たる。
 その頃であれば、「柳氏新論」は、既に「新論」と名付けられる可き内容ではなかつたかも知れぬ。
 況して「言論の自由」によつて思想を失なひつゝある現代人にとつてみれば、寧ろ、滑稽な論として一笑に附されるかもしれない。

 案ずるに、倒幕運動の大旗が掲げられたる百年前にあつて、大貳先生の見識は、少なくとも百年先にあつたと看做して宜い。
 大貳先生の、敬意に價す可きは、見識だけではない。死の避ける可からざるを知りながら、その殉教者に齊しき決意はどうだ。

 「柳子新論」を拜讀し、平成の今日に於ても、壓倒されるの感がある。紙上に於て斯くの如きであるのだから、大貳先生その人に門人の多數があつたことは疑ふまでもない。
 今日、保守派陣營から、馬に喰はせるほどの「國家改造論」が叫ばれ、之れが安賣りされてゐるが、思想と呼べるほど高尚なものがあるを殘念乍ら野生は識らない。云ふまでもないが、「批判」はそれ丈では決して「思想」たり得ないのだ。

 戰前戰後を通じて、皇國は幾多の紆餘曲折を經て、今日を迎へた。
 天皇機關説は跋扈し、次いで社會主義思想は潮の如くとなり、次いで黄金萬能思想に毒せられ、やがてこれ等の思想では現状維持の力すら無きを思ひ知つた。後悔と反省は、猶ほも民主主義思想の發展飛躍といふ、正しからぬ方向を選擇した。ゆとり教育、人權尊重、平等主義など唱へ子供達まで捲き込んだ。國家よりも國民を第一とする民主黨が、民の絶大なる期待を集めて政權を獲得したことを以て見ても、如何に國家國民が毒され、今日をこそ見れ將來の見据ゑる能力が欠落してゐるか容易に察することが出來る。
 當然たる結果として、秩序の維持に困難が生じて來た。西歐的民主主義の副産物である個人主義思想とは、畢竟、反社會思想と同じなのである。極言すれば、秩序崩壞思想だ。これを金科玉條としつゝ秩序を維持せんとするならば、法力と權力に委ねるほか處置あるまい。
 以謂く、戰後史觀ではなく、維新後史觀からの脱却があらぬ限り、いかに藻掻かんとするも、暗中模索の延長に過ぎぬ。

 明治維新後は、功利を手にせず、維新を更らに完全ならしめむと戰つた先人達があつた。
 さうした先人の意志は、勿論維新前に培はれたものだ。この志を繼續する爲めにも、維新前の先達を再び、平成の御宇に於て學ぶことに、野生は決して意義なきものとしないのである。明治維新百五十年は、もう間近であるのだ。
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by sousiu | 2012-04-28 23:45 | 良書紹介

柳子新論抄  「正名第一」 

 『柳子新論』の論評に就ては、野生の稚拙、蒙昧な説明を避け、他の書に之を委ねる可きであらう。

●本多辰次郎氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十五日「日本學術普及會」發行)
『大貳の學識と意見とは、彼れが畢生の心血を濺ぎたる「柳子新論」に就て見ることが出來る、其の尊王・正名の大主張は今日猶凜として正氣あるを覺ゆ、「靖獻遺言」や「中興鑑言」や「保建大記」等の書を喜ぶ者は亦此の「柳子新論」を一讀すべきである、正名は其の首章で有て、大意は申すまでも無く、名分上の主權者たる朝廷の外に、實力上の主權者たる幕府の存立は正に僭僞である、國體に背反するものであるといふ決論を隱約の間に顯したものである』。

●『日本國粹全書 第四輯』(大正五年十一月廿八日『日本國粹全書刊行會』發行)
『(柳子新論は)山縣昌貞が、時人の我が國體の何物たるを知らずして、往々、名分大義を謬り、王室を忘れ、武門を尊び、冠履顛倒、輕重、當を失するものあるを慨し、名分大義を正し、王綱を恢弘せんことをはかり、幕府の粃政を難じ、經國の大事を論じたるものにして、「正名」以下、編目を設くること十三。所論、卓拔にして剴切、識見、高邁にして、遠く時流を抽く。この編、もと、徳川氏の盛時に編せられたりしかど、諱むところありて、久しく世に出でざりしといふ』。

●『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日『大日本明道會』發行)
『柳子新論十三篇は山縣昌貞の先人が、享保の初年、其の故宅を開墾したりし時、石凾中より發見して之を謄寫し置きたるものといふ(※下記に説明)。其の内容は、武士の跋扈を憤り、富家の專横を怒り、民産の平均すべきを説き、人才の進路を開くべきを論じ、時弊を改革するは、王政を復古して、大化改新の精神を徹底せしむるに外なきを斷じ、遂に幕府の顛覆に論及せるものにして、徳川の中世に於ける内國の弊習を憤慨したるものゝ著述たること疑ふべからず。蓋し昌貞自ら著す所にして、嫌疑を避けんが爲に故らに其蹤跡を晦ましたるものなるべし』

 『柳子新論』は、その内容を當時の幕府が看過默認す可からざる事情があつた。固より『柳子新論』は大貳先生の自著であるが、大貳先生は同書を古人の作に假託して、自跋の中で之をトボケて説明してゐる。(このやうに古人に假託した例は、當時に於て決して少くはない)
 因みに、本來の書名は『新論』であつたといふ。しかし後人が、水戸の會澤正志齋先生の『新論』と區別する爲め、大貳先生の號であつた柳莊から思ひ付いて、『柳子新論』と名付けたものである。文中の『柳子曰く~』とは、云ふまでもなく、大貳先生御自身のことである。



 『柳子新論』は、漢文だ。然も奧が深い。
 徳富蘇峰翁も、前掲書に於て、
『抑も此の柳子新論は、文章から云へば、徂徠學派の修辭の餘を承け來つたもので、其の手際はとても、滔々たる雜學者の及ぶ所ではない。何人も之を一讀する者は、山縣大貳の漢文修辭の上に、造詣の淺くなかつたのに驚くであらう。 ~中略~ それよりも、此の論文にて見る可きは、山縣大貳其人の意見である。否な山縣大貳其人の意見と云ふよりも、其人によりて代表せらるゝ、當時の或部分に行はれた意見である。即ち、時代精神の萌芽である
 と感嘆を隱さない。



 野生の癖で、譯文や解説書を一書讀んで滿足する能はず、解説書に就ても複數書を拜讀したのであるが、『日本學叢書 第六卷』(監修解説/平泉澄先生、校訂譯注/鳥巣通明先生、昭和十四年七月十五日「雄山閣」發行)が理解するのに最も適切であると信じ、之を頼り、若干修正しつゝ、筆ならぬキーボードを打ち進めてみたい。
※原文は漢文。振り假名は野生による。




山縣大貳先生、『柳子新論』(寶暦九年三月脱稿)「正名第一」に曰く、
柳子曰く、物には形無くして、名有るものが有り。形有りて名無きものは未だ之れ有らざるなり。名の以て已むべからざるや、聖人之に由りて以て教へを其の中に寓せり ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『正名第一。皇國には古來、刑、刑律、刑法等の觀念は存在したが、維新の當初に至るまで、未だ「民法」なる語は勿論、權利、義務の如き用語すら無かつたので、明治時代に於ける法典編纂に際し、非常な困難を體驗せねばならなかつた。この一例によつても東洋と西洋の政治思想の相違が觀察される。事實、西洋に於ては、國政が道徳そのものとはせられず、却て力を依據とする法治とせられ、力と正義とが對峙し、徳と法が別原理の上に立つと考へられたのに對し、東洋では、道徳を治國平天下の根本としたのであるこゝに、政治の要諦は「正名」にありとの古人の主張が生まれる。山縣大貳先生が、燃ゆるが如き改革の熱情をいだきつゝものした本書に於いて、直ちに、忙はしく制度政策を論ずることなく、この正統的な東洋政治思想をうけて、「第一」に「正名」に筆を起されたのは、その着眼の高く、立意の正しきを示すもので、後進の當に心すべき點であらう』、




●大貳先生の曰く、仝、
我が東方の國と爲すや、神皇基を肇め、緝熙穆々。力めて利用厚生の道を作(おこ)したまふ。明々たる其の徳、四表に光被する者、一千有餘年。衣冠の制を立て、禮樂の教を設く。 ~中略~ 保平(保元、平治)の後に至りて、朝政漸く衰へふ。壽治(壽永、文治)の亂、遂に東夷に移り、萬機の事、一切武斷、陪臣權を專らにして、廢立其の私に出づ。此の時に當つてや、先王の禮樂、蔑焉として地を掃ふ。室町氏(足利氏のこと)繼いで興り、武威益々盛んにして、名は將相と稱するも、實は南面の位を僭す。然りと雖も、先王の明徳、深く民心に浹合したれば、則ち、強暴の臣も尚ほ忌憚無き能はず。是を以て神器移らず、皇統、綫(わづ)かに存す。數世の後に逮(およ)び、豪傑交々起りて、各々一方に據り、龍驤、虎奔、相奪ひ相害し、窮り已むこと有るはなし。姦賊事を謀り、戎蠻是れを簒(うば)ひ(※近世日本國民史、勤王文庫などでも是れを「慕ひ」と誤記する書多し。原文は「簒」)、首に巾帽無く、衣に領袖なく、驕傲徳を稱し、暴虐功に伐(ほこ)れり。此の時に當たりてや、一、二の或は其の民を憂ふる者も、亦た惟だ戰國の弊を承け、苟且の政、荏苒日を送れり。何ぞ名教の由る所を知らんや。即ち民の蚩々たる者も、將た焉んぞ其の土に安んぜんや。又た將た焉んぞ其の身を安んぜんや』、

 ○内容の解説に曰く、
『支那の思想家に例をとり、轉じて日本に於て、それが如何なつてゐるかを問題となし、先づ歴史的檢討を企てしもの。蓋し、革新に際しては、革新原理を純正明確ならしむると共に、當代社會の適確にして具體的な認識を不可缺とするが、その原理を明徴ならしむる爲めには、歴史的反省が必須であり、又た當該社會の正しき把握は、單に其の時代に於ける政治經濟思想等々の現實の構造を明らかにするのみで得られるものではなく、改革す可き事態發生の歴史的因由が究明されねばならぬからであらう』、

 ○『神皇基を肇め~』の意。
 天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふわが國體の事實をさす。日本書紀に、天孫降臨を 神武御東征前百七十九萬二千四百七十餘歳と記してあるのは、われ等の祖先が、日本のはじめを 神武天皇の御即位におかずして、更に無限の過去に溯らしめて居たことを示すものである。安政二年四月、大國隆正大人がその著「本學擧要」の中に、皇紀を中興紀元と稱したのも、かゝる考へにもとづくものであらう

 ○『遂に東夷に移り、~』の意。
 東夷は、征夷大將軍をさす。徳川家康が最も尊敬した幕府政治の創始者・源頼朝を東夷と稱することは、當代の將軍、徳川氏をも亦た東夷と貶することは、當時に於て、死を決した者によつてはじめて發し得る言葉である




●大貳先生の曰く、仝、
今且く其の大なるものを擧ぐれば、官制を特に甚しと爲す。夫れ文は以て常を守り、武は以て變に處するは古今の通途にして、天下の達道なり。今の如きは、官に文武の別なければ、則ち變に處する者を以て常を守る、固より其の所に非ざるなり。且つ夫れ、諸侯は國君なり。各々方土を受け、世々其の爵を襲(つ)ぎ、社稷を有(たも)ち、民人を愛し、尚ほ且つ將校を以て自ら處(を)り、專ら無文の令を出す。乃ち計吏宰官の類の如き、終身武事に與らざる者に至りても、亦た皆、兵士を以て自ら任じ、一に苛刻の政を致す。其の治道に害あるもの、一なり。~中略~ 尾、大にして掉はざるに非ずんば、即ち冠履倒置、唯だ權之を凌ぎ、唯だ威之に乘ず。是れ其の尊卑の序を失ふもの、三なり。且つや、古の人は相呼ぶのに必ず名字を以てし、或は兄弟の行を稱せり。輓近以來、卿大夫は一に其の官を稱して其の名を問はず。乃ち士庶民の職無き者に至りても亦た皆、妄りに内外の官號を犯し、兵衞、衞門、助、丞の類、農、工、商賈、奚奴、輿隸の卑きよりして、戯子、雜戸、丐兒、非人の賤しきに及ぶまで、毎々必ず是に於てす。夫れ律の法有るや、官を私し、官を犯す者は、皆罪して赦すことなし。今若し、法を以て之を糾さば、天下に幾(ほとんど)遺る民無からん。是れ其の淆亂、之を如何ともすべからざるもの、四なり。凡そ此の如きの類、俗を成し風を成せるは、固より一朝一夕の故に非ざるなり。殿、樣、御、候、仕、致、之、等、言語は別に一家を成し、文字は別に一義を生ず。乃ち、■(手偏+晉=しん)紳諸士の間、日用意を通ずるも、亦た未だ其の何の義たるかを知らず、事事皆、爾(しかり)。物物皆な爾。豈に笑ふべく、嘆くべきの甚しきに非ずや。 ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
 『歴史的考察より轉じて、現實社會の解剖に移り、名分の亂が、政治及び社會の混亂を惹起してゐる顯著にして具體的な例を論じてゐる』、


 愚案。名分を糾さんとする大貳先生の痛憤は、現代の吾人の痛憤であることを深く認識せねばならぬ。
 ことにマスコミの名分の亂脈は甚しきものがある。野生の如き凡夫に寄せられる書翰にも「河原樣」と記されてあるが、畏れ多くも 天皇、皇族に對して、河原の如きと同じく「樣」を愛用し已まぬこゝ百年間の歴史には疑問を抱かざるを得ない。非道い例ともなると、呼び捨ては最早論外とするも、「●●子さん」を以て憚らぬ。これをたかが名稱と侮る勿れ。中井洽の如き癡漢が政界に出現するも、畢竟、この名分を大きく誤つてゐることに、抑も起因の一つを看るのである。
 これより前、羅山があらうことか徳川に「大君」の稱を獎め、白石が「國王」と獎めたことに、憤慨した一部の識者があつたことは、既記したるとほりだ。斯くなる名分を辨へぬ白癡の暴擧をいかでか赦し置く可し。雨森公の『僕一たび之を聞き、且つ驚き、且つ痛む』と憤慨したるの言葉は、時を隔てゝ吾人が心境と相等しくあらねばならぬ。
 されど吾人は、今日も知らず識らず、羅山や白石を笑ふ能はざる人になつてゐまいか、兔角、自己點檢す可きを閑却してはならない。
◎北畠親房卿『神皇正統記』卷六に曰く、
言語は君子の樞機なりと云へり。白地(あからさま)にも君を蔑ろにし、人に驕ることはあるべからぬことにこそ、さきに記し侍りし如く、堅き氷は霜を踏むより至るならひなれば、亂臣賊子といふ者は、その始め心言葉を愼まざるより出で來るなり』と。

 大貳、親房兩大人の言を列記するまでもなく、皇國の興起を志した先人は、變革者として觀念に於ける其の基礎がきちんと確立されてゐたことを識るものである。
 餘談となるが、明治維新は、武家が政權を返上したあの時點に於て、一端の達成をみた。その直後に於て、頓挫に頓挫を重ね、遂に迷妄し現代に至る。從つて、現代からみるに、最も近しき 皇國大變革の成功例は、明治維新であつて、その後に未遂や計畫こそ陸續出來したるも、凡ては不成功に終はつてゐる。よつて單なる「戰前囘歸」では、皇國の中興は期し難くあること云ふまでもない。吾人が、皇國の中興を志すとき、そは、取り敢へず成功を收めた明治維新の先達の姿勢と道程に手本たるべきものがあると考ふるが至當と思ふ。而、さきの維新前の識者から、畏れ多くも、天皇に「陛下」とお呼び奉らずして「樣」などとお呼びする例など、殆どみない。大正、昭和の一桁に如何に「天皇機關説者」や「日蓮主義者」が跋扈してゐたか、思ひやらるゝではないか。




●大貳先生の曰く、仝、
政(まつりごと)の未だ地に墜ちざる、蓋し二千有餘年、久しと謂ひつ可し。是れを以て其の化の海内に被及する、廣しと謂ひつ可し。其の徳の民心に浹合する、深しと謂ひつ可し。其の衰ふるに及びてや、白龍、水を失ひ、制を小魚に受け、千里を跋渉し、露に暴(さら)し、雨を冒す、亦た難しと謂ひつ可し。此の時に當たりてや、一、二の忠臣、或は能く其の位を復したてまつるも、亦た且つ富める小國の君に若(し)かざる也。然りと雖も、此の如くにして、尚ほ能く其の宗廟を保ち、百世廢せず、今に到るまで四百有餘年、權は下に移ると雖も、道は其れ斯(こゝ)に在らざらん乎(や)。先王の大經大法、自ら律令の見る可き有り、若し能く民を愛するの心有らば、名、其れ正す可からざらん乎。禮樂其れ興す可からざらん乎。刑罰其れ措く可からざらん乎。哀しい哉、天下其の人有ること無き也。既に盡(ことごと)く其の古に復する能はず。亦た盡く其の舊を變ずる能はず。其の盡(つ)くさざる所有るは何ぞや。豈に其の物を尚ぶを知りて名を尚ぶを知らず。己の爲めにするを知りて天下の爲めにするを知らざるが爲めか。抑も亦た、學政行はれずして、術智及ばざる所有るなり』と。(「正名第一」完)

 ○内容の解説に曰く、
『最後に建武中興を囘顧し、忠臣が親を滅しての盡忠奉公によつて、よく國家を護持した爲め、朝廷は衰へたりと雖も、今なほ名致の根源であらせられ、又た律令によつて、古代の正しき制度もこれを見ることが出來るとなし、もし志さへあれば、王政復古の必ずしも不可能ならずを述べ、然も實際問題に移さんとすれば、天下にその人なきを歎じ、無限の感慨を寓しつゝ、正名第一の章を結んでゐる』と。

 ○『白龍、水を失ひ、制を小魚に受け、千里を跋渉し、露に暴(さら)し、雨を冒す、亦た難しと謂ひつ可し。~』の意。
 龍が、時に利あらずして水を失ふや、くだらぬ魚の爲めに制せられ、その生得の飛躍が困難であるやうに、幾千年連綿たる 皇室も、一度衰へたまふや、くだらぬ幕府の爲めに抑壓せられるとの意乎。

 愚案。この文章に於ては、大貳先生、云はんと欲するも果して云ひ得ず。
 しかし何度も當日乘で繰り返すが、當時の状況下に於て、かうした文言は、正に命と引き換への覺悟を要することであつた爲め、その底意の看取を讀者に託した謂ひ囘しなのかもしれない。
 而して、その底意は、十三篇の第一項で既に、幕府に對する不平に留まらず、批判に留まらず、積極的に否定してゐることからも、これを看取するに決して六ケ敷くはない。




 ところで、大貳先生は二度、結婚をしてゐる。前妻は、甲州龍王町齋藤左膳氏の娘で、次郎兵衞なる一子を擧げ、寶暦八年八月晦日、病死した。後妻は、上州那波郡馬見塚村の深町半彌の妹、多加刀自であつた。多加刀自との間では、寶暦十三年二月十五日、第二子の長藏氏を擧げた。御子息である長藏はやがて醫師となり、のちに、大正天皇が皇太子にまします時代の侍醫となつた今村長順翁その人である。多加刀自は、温良貞淑の婦人であつたらしい。男兒にも惠まれ、家内は頗る圓滿、家庭的幸福の滿潮期であつた。

 何を思はれたか、大貳先生は翌年の明和元年、突然、多加刀自と二歳の長藏氏を生家に歸らしめた。
 大貳先生が後難を慮つた爲めであるか、そは推測の域を出でぬ。兔も角、大貳先生の就縛の際には、宅に大貳先生の身の切れと申す可き人は、一人もゐなかつた。
 前記したが、大貳先生に擧兵の具體的計畫が存したか、果して野生は詳しく識らない。『慶安の變』に於ける由比正雪公の如き罪名もて幕吏が大貳先生を縛し、刑に處したのであれば今日に分明であるが、その宣告文を一讀すれば、『不敬の至、不屆至極に付、死罪を申付る』と結ばれてゐるに過ぎず、罪状も内容も全文を通じて甚だ曖昧である。要するに、幕府に向かつて大貳先生は、暗鬪はされたが明爭したり或は明爭を企圖した記録が無いのである。如何に幕府の監察が取り調べや聞き取りを行なつても、無きものが出で來よう筈もない。固より、この事件も寶暦事件同樣、心なき陰險者による密告から始まつたものなのだ。

 獄中に於て大貳先生は、處刑される明和四年八月廿二日の一週間前、十五夜に下の一首を詠じてゐる。

     くもるとも なにか恨みん 月今宵
             晴を待つ可き 身にしあらねば



 大貳先生が、既に一死を御覺悟なされてゐたこと想像するに難くない。大貳先生は、果して、いつの頃から命懸けの人生となつたのであらう。
 少なくとも「幕府」を「東夷」と看做した時には、既に斯くなる心得が定つてゐたものと察せねばなるまい。
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by sousiu | 2012-04-27 22:23 | 良書紹介

『靖国神社の真実』 

 當日乘でも度々御發言を投じられる備中處士樣が、一兵士こと泉水隆一翁の遺稿を鋭意編輯され、今度び、芽出度く、洛風書房より『靖國神社の眞實 ― 靖國神社正統護持のために― 』と題した御本を上梓された。

 泉水隆一翁は映畫「凛として愛」の監督として知られる。
 以謂、泉水翁は「凛として愛」を通じて、靖國神社に對する近年の謬れる國民認識を江湖に匡し、返す刀で戰後史觀を成敗せんとの志であつたのであらう。何となれば、スクリーンの映像のみならず、隨所での御發言、而、インターネツトまでをも活用し「一兵士」の名もて保守系の掲示板に登場し、螳螂の斧を揮はれたことからも、翁の衷情と素志を拜察することが出來るのである。

 有體に云へば、日本の現状は解剖分析に盡されたと思うてゐる。戰後も幾星霜經過したと思ふか。戰後に欠落したるもの、乃至は缺陷したるものに就て、これ以上、詮議するの時間が果たして必要なのであらうか。極言すれば、戰後日本の惡因究明にはひとつの達成をみたと云うても過言にあるまい。
 日教組史觀が日本の將來にとつて益あるなぞと、組合員以外に誰れが信じてゐるのか。否、組合員の激減に齒止めが掛けられないことからも、當該者すら益無きことを認めてゐるのであらう。固より自身の益なきことが主なる原因であるにせよ。
 朝日新聞が偏向報道を行つてゐることも萬承知だ。占領憲法が平和憲法であるのか否かの議論はもう飽食氣味だ。結果は明瞭なのである。民主黨がよいのか、自民黨の方が良かつたのかなどといふディスカツシヨンにも興味がない。東京裁判が裁判に名を假りた日本民族の去勢であつたことは、我れらの先輩が風雨の街頭に立ち、或いは獄中からも發信して國民に訴へ續けてきた。先輩からバトンを託された我々は、その次の工程に著手してこそ後進だ。これからは一轉、これまでの分析に費やしてゐた時間を、囘復の爲め、修正の爲めに積極的に有用することが求められてゐる。
 泉水翁は、屹度、この國民的大自覺に立つ先知者の一人として、日々、御發言を繰り返されてゐたのであらう。それあまりにも翁が先頭に過ぎて、悲しむ可きことに、一部の保守派と稱する後知者達から批判され、甚だしきことゝしては某掲示板で罵詈雜言の集中豪雨が浴びせられた。
 滑稽であるは、批判者の側だ。「凛として愛」と「泉水隆一監督」を絶讚し、その同じ口で「一兵士」を散々批判したのであるから、どうにも保守と自稱する者の中には、妖しむべき者らが雜じつてゐるやうだ。畢竟、本質を見拔く眼力に乏しく、權威に擦り寄ることを好むと云はむばかりだ。そは全くの亂視である。
 その中にあつて、備中處士樣、ほか極く小數の有識者は、その他大勢より睨まれ連累することを承知で、「一兵士」なる人の御發言と志操を終始一貫師事してをられた。そこで誕生したものが『九段塾』であらう。

 泉水翁は既に顯界の住人ではない。されど、今後び刊行された御本を拜讀するに、野生は頁をめくる度び恰も紙上に翁の聲ある心地がするのである。

 巷に保守を自稱する書籍や雜誌が増えてゐる。あれが惡い、これが怪しからん、と、さすがに能く調べてあつて、感心することも少くない。
 しかし、それら憂事や惡事の陸續出來せる因由を突き詰めて、その原因を修復することに務めねば、土龍叩きゲームのそれと何ら變はることはない。野生はくづれた化粧を嘆き、怒り、而して直す、之を以て世直しとは思はない。化粧せなくとも美しき表情になる、これぞ眞の世直しと思ふものである。
 泉水翁の言や、將さに日本人の皮相を修正せんとするものに非ず、血肉骨髓を清淨せんとするもの。
 乞ふ、有志諸賢の御一讀を。
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◆◆九段塾藏版『泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』頒布。
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1509
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●「靖国神社の真実」著者‐泉水隆一、編輯‐玄月書屋主人 有安弘吉、發行‐洛風書房
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by sousiu | 2012-02-26 16:27 | 良書紹介