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「國學」とは何ぞ  

 他誌の宣傳を勝手にするやうであるが、不二歌道會の發行する月刊誌『不二』(定價四百圓、也)には、表紙に、
 「平成維新と新國學
 と書いてある。
 野生は、この文言が大好きだ。
 どちらも今日の日本に要せられるべきものだ。尤も、今日に要せられる可きものは他にも澤山あらうけれども、順位をつけるならば、やはり何を差し措いても「平成維新」と「新國學」は最優先されなければならぬ。「橋下維新塾」?そのやうなモンは、あつたつて無くなつてどちらでも宜い。むしろ、無いはうが宜い。

 我が陣營、「維新」といふことばは豫て使はれてゐた。我が陣營は全く、ブレてゐないといふことだ。
 これに加へて最近、陣營内で「國學」に就ての話題も耳にする機會が多くなつてきた。力強いことだ。勉強中の野生としては、學んだり考へたりする機會が増えたので、實に嬉しい限りだ。

 「國學とは何ぞ」と訊ねられることもある。固より識つたかぶりばかりの野生に答へられる可くもない。よつて野生の、これだ、と思ふものを、例によつて例の如く、文獻を頼り以下に掲げんことゝする。

 少々長いが、御時間許される方は是非共御一讀いたゞきたく、希ふ。


●久松潛一氏、『日本精神叢書四十三 「國學と玉だすき」』(昭和十五年九月八日「文部省教學局」發行)「國學の意義」項に曰く、
『國學は本來、國の學であり、日本に關する學問であるが、これにも歴史的に見て三の意味が考へられるのである。第一は大寶令に見える如く、古代に於て中央に大學を設け、地方に國學を設けたといふ場合の國學である。この場合の國は、地方の國司の場合の國と同樣な意味である。いはゞ日本教育史上の國學である。第二は日本に關する學問の意味である。即ち日本の政治・法律・宗教・文學・歴史等全般の文化に關する學であつて、主として研究對象の上から見て、日本に關する學問を國學といふのである。從つてこの場合は日本に關する學問であるならば如何なる立場から扱つても、國學となるわけであつて、佛教的立場・漢學的立場から扱つた場合もすべて國學であり、考證學や歌學・語學にしてもすべて國學と言ひ得るのである。かういふ意味に於ける國學はすでに古代から存在して居るのであるが、近世に於ても國學者をひろい意味にとつた場合も存するのである。この場合の國學は倭學・和學といふ名稱によつて言はれた事もあるのである。
 第三の國學はその立場の上に明確に日本的立場を以て純粹日本的なるものを闡明しようとする學問であつて、近世に於ける眞淵・宣長等を中心とする學問である。この場合には佛學等の外國的立場や影響を離れて純粹日本的なるものを闡明しようとする所から、研究對象にしても外國的影響をうけることの尠い古代文獻を主とするといふ限定をうけるとともに態度に於ても日本的立場といふ如き限定をうけるのである。方法に於ても、古代文獻による嚴密なる文獻學的方法をとるに至るのである。さうして本質に於て國家的精神を基調として居るのであり、國家的の情熱を中心として居るのである。荷田春滿が創學校啓に於て、
    國學不講實六百年
 といつたのはかういふ意味に於ける國學をさしたのである。
 以上三の中、第二と第三とは實際に於ては區別しがたい點もあるのであつて、殊に研究對象といふ上からは共通する場合が多いのである。たとへば國語學との關聯の上で言へば國學に於ては文獻を尊重する所から言語研究を重視するのであり、そこに國學者は一面には國語學者といへるのであつて、國學史と國語史は交渉して來るのであるが、しかしその場合には、國學に於ける言語研究は國語研究を終局の目的とするよりは文獻を理解するための國語の研究を行ふといふ態度をとつて居り、こゝに國學者と國語學者との相違する點もあるのである。これは歌論に於ても眞淵の歌論と香川景樹の歌論とが歌論史の上から言へば同樣の面に於て考へられるに拘らず、一方に於て景樹が第三の意味に於ける國學者と言はれない點があるに對して眞淵は歌論家であるが同時にその歌論を國學の體系の中に於て扱つて居る點に於て相違する所があるのである。もとより近世の國語學者にしても或は景樹の如き歌論家にしても、國學的精神は存したのであつて、この區別は實際的にはたてられない點があり、たゞ國學の如く自覺的に考へなかつたといふ相違にすぎないとも言へるが、しかしさういふ國學的自覺を有し、學問の目的を明確にして研究した所に國學といふ一學派としての獨自の意義も存すると見られるのである。是等の點は更に精細に論議すべき問題を含んで居るが、とにかく研究對象といふよりは學問の態度・方法・目的の上に第三の意味に於ける國學の獨自の點を有すると見られるのである。かういふ國學は一方では古文獻によるといふ所から古學ともいはれ、また文獻による所から明治以降、日本文獻とも言はれた事があるのである。こゝで意味する國學もこの第三の意味に於ける國學を中心とするのである。

 もとよりかういふ國學も最初から明確なる學問的體系を有してゐたのではなく、次第に成長し完成していつたものと思はれるのである。大體に於て國學の學問的性格の完成したのは本居宣長に於て見られるのであるが、それまでに次第に完成して行つた過程を見ると、本來國學の起つたのは中世學問に對する批判と反省から起つたと見られるのであるが、その批判の根據となつて居る點を見ると、第一には日本の歴史に對する自覺といふ事があげられると思ふ。水戸義公の大日本史編纂はさういふ自覺の明確な現れであるが、かういふ國史に對する自覺といふ事が、國學の學問的性格の第一の性質となつて居ると見られるのである。第二は古文獻に立脚し古文獻の精密なる研究の上に學問をうちたてんとする方法的自覺が國學の學問的性格の第二の點をなして居るのである。これは主として契冲によつて打ちたてられた點であるがそれ以後の國學の上に常に流れて居る性格である。この文獻學的性格はその中に書史學的性格や言語的性格・文學的性格といふ如き數々の特質を含んで居るのであり、それらが更に獨自の性格となつて發展して居るのである。第三は國史の根源としての神道もしくは古道を中心とする態度である。この國史と古道と文獻學的性格の何れに重きをおくかによつて種々の學派が生ずるのであつて、水戸學の方は國史學的性格が非常に濃厚であるに對して、國學の方は古道的性格が著しいと見られるのである。同時に方法としての文獻學的性格が著しく見られるのである。かういふ古道的性格を多く加へたのは荷田春滿であつて、この古道的性格をはじめて強くといた所に、春滿が國學のはじめであると言はれる理由もあるのである。この古道もしくは神道的性格はそれ以後も多く存して居るのである。~中略~

 更に眞淵に於てはこの古道的傾向が純粹になり、復古神道的傾向が明確になるとともに文學的傾向が著しくなつて來たのである。さうして以上の諸傾向によつて國學の學問的性格がほゞ完成して來たのであり、さういふ完成を實現せしめたのが本居宣長であると見られるのである。かくして歴史學的傾向と古道的傾向ならびに言語學的傾向、文學的傾向といふべきものが融合して居り、その中心に純粹日本的立場といふものが貫いて居るのが國學の學問的性格であり、またその意味でもあるのである。

 さうして宣長以後はかういふ國學の性格が、勤皇精神や國家的な精神に進んで來ると共にさういふ勤皇精神の實踐としての明治維新が實現したのを機として、それらの學問的諸傾向が、それぞれ分化して來たと思はれるのである。ここに明治時代に於ける國文學・國語學・國史學・神道學等の生じて來る過程が見られるのであり、芳賀博士等はさういふ國文學建設の第一歩を築かれたと見られるのである。さうして國文學が國學の中に存する文學性研究を中心として學的組織を進めてゆく所に國文學の發展が見られたのであるが、同時に國文學の中に國學の基調となる精神が存することも明らかであるのである。

 以上申して來た國學の學問的性格の成長と推移をたどることが國學史の考察となり、同時に國學史と國文學との關係を見ることにもなるのであるが、なほ從來國學史の扱はれた態度方法を見ると種々の態度が見られる。既に平田篤胤に於てはそれまでに完成した國學の史的考察を古道大意玉だすきに於て概觀的に行つて居るのであつて、國學史の先驅的意味を見出すのであるが、次いで清宮秀堅の古學小傳(安政四年成り、明治十九年刊)は國學史の規模を整へたものである。何れも大體に於て國學者の列傳的な扱ひをして居るのである。明治以後に於ける國學史の考察も大體この國學者の列傳的な扱ひ方をして居ると見られる。これにも二つの傾向があつて、一は國學者のあらゆる人物を網羅的に列傳する態度で大川茂雄・南茂樹兩氏の國學者傳記集成(明治三十七年)はその最も著しい業績である。一は國學者の中その代表者とすべき春滿・眞淵・宣長・篤胤等を中心として考察し、その他をそれらの代表者の門流として一括して、考察する態度であるが、國學史の扱方としては後者が最も多く行はれて居るのである。芳賀博士の國學史概論(明治三十三年刊)野村八良博士の國學全史等にしても主としてこの態度をとつて居られるのである。しかし進んで國學者の系統を追うて、研究する態度に對して、國學を横斷的に扱つた研究も見られるのである。河野博士の國學の研究(昭和七年五月)や芳賀博士の「日本文獻學」の如きは國學を體系的に扱つて居られるのである。この列傳的と體系的との考察はむしろ國學史概論と國學概論との相違と見るべきであらう。

 更にかういふ列傳的と體系的との兩者を通じて、更に別の觀點から見る時、種々の扱方の相違が見られるのである。即ち一は神道學的な立場からする國學史の研究であつて、河野博士の國學の研究や、清原貞雄博士の國學發達史(昭和二年)の如きは、かういふ立場にたつて居ると見られる。こゝでは國學史は復古神道史といふ如き形相を示して居るのである。一は國史もしくは日本文化史的な立場にたつ扱方である。竹岡勝也氏の「近世史の發展と國學者の運動」(昭和二年九月)の如きはその著しきものであり、伊東多三郎氏の「國學の史的考察」(昭和七年二月)の如きもさういふ立場にたつて居るのである。一は國文學研究史もしくは國文學研究法的な扱方であつて、芳賀博士の國學史概論もさういふ傾向が著しく見られたのであるが特に「日本文獻學」(明治四十年講義・昭和三年刊)は國文學研究法の立場から國學を日本文獻學として理解されて居るのである。この傾向は芳賀博士が明治三十五年頃獨逸から歸られてから獨逸の文獻學との比較の上から「國學とは何ぞや」といふ論文を書かれて以來、芳賀博士の一貫した態度であつたのである。(この點は一人の國學者の研究ではあるが村岡典嗣氏の本居宣長」も大體さういふ態度をとられて居るのである)藤岡博士の國學史や野村博士の國學全史は國文學研究史としての性質を有して居るが一面には文化史的研究の一面をも備へて居るのである。

 以上は國學史が神道學や國史學や國文學の各分野から扱はれて居るために、それゞゝの立場からの色彩が濃厚となつて來るのであるが、また國學史が是等の種々の分野を學問的領域の中に併せ有して居るためでもあると見られるのである』と。




 いやあ、頑張つた・・・。「腱鞘炎知らず」に感謝せねばなるまい。

 書いた野生も大變であつたが、こゝまでお付き合ひくださつた方も大變であつたと思ふ。
 若しも、關心があり、何の本を讀まうか、とお惱みの方があつたならば、折角の河原の苦勞を水に流さない爲めにも、上記(緑色にしたよ)書籍を購入してみるのも、一興と思ふ次第である。
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by sousiu | 2012-02-14 02:04 | 良書紹介

北方の警備經營を説く先人あり、その意を知る可し。 

 『寛政の三奇人』と呼ばれる一人に、林子平翁がある。
 元文三年戊午六月廿一日、江戸に生る。姉のなほ刀自が仙臺藩主の側室となつたことが縁となり、子平翁は仙臺藩の祿を受く。


○長田權次郎氏『偉人史叢 第一卷 林子平 全』(明治廿九年二月十日「裳華房」發行)に曰く、
『寛政の三士、皆、天資卓犖、天下の憂に先ちて、之が爲めに轗軻沈淪し、一も志を當時に得る者なし。抑も三士、憂國の念を同くするも、其氣象と冀望とは各殊なる者あり。仲繩(※高山彦九郎先生のこと也)は王室の式微を嘆じて、囘天の業を霸府隆盛の時に策し、秀實(※蒲生君平先生のこと也)は名分を正し、大義を明かにし、人心をして王室に嚮はしめんとせり。其志、共に偉なりと謂ふべし。子平に至りては、復た邦内權勢の歸宿する所を問はず、日本を把りて一丸とし、其勢力を強盛にして列國に對峙し、宇内に雄飛するの思想を發揮す。其氣宇唯二士に異なるのみならず、子平に先ちて起れる諸豪傑の嘗て思を經ざる所なり』と。


 子平翁をして、眼中に、宮中なく、たゞ海防重視あるのみと分析するの論ありと雖も、それ子平翁の名譽の爲めと云はず、公平にみても、不穩當なる觀察と云はねばならぬ。
 仲繩先生、秀實先生は、皇國闡明の志專らにして、強く、從つて前面に出でたるものなり。子平先生はその裏面にあり。時に先立ちて、ひたすら、神州清潔の汚されるを憤慨するに盡きる。その表裏が一體して顯現された、明治維新をみよ。
 云はずもがな、當今の、權利思想に淫された強國日本再現論とは天地の差異をば認むるべし。


○仝、『盖し仲繩秀實は、感を我古史を讀むに起す。故に志を前賢繼述の業に發し、子平は、眼を海外の書に開く。故に思を宇内竸走の事に致す。仲繩の人と爲りは壯烈。秀實は憤慨。皆世の瞶々に堪へざるが如くにして、子平は、奇矯の中、頗る天命に安ずるの、慨あり。
 三士時を同くして世に出で、其行、生時に狂視せられて、其言百年の後に驗あり。明治中興、政權王室に歸するは、是れ仲繩の志にあらずや。名分正に復して、王制粲然、百度一新す、是れ秀實の志なり。國内を統一して、外難に當り、武備を整へて、萬里の波濤を開拓す、是れ子平畢生の志にして、其業緒に就くと雖、未た大に伸ぶるに至らず、盖し二士の志は、繼述の事に屬して、子平の志は、創思の業に係り、二士の志は、既往の囘顧に發して、子平の志は、將來の計畫に起る』と。


●六無齋 林子平翁、『富國策』(天明五年乙巳)に曰く、『一年にして富を欲する者は、無用の費を闕ぎ、君臣の欲する所を省畧するに在り。五年にして富を欲する者は、市商の道を便利ならしめ、買道は、市廛に任するに在り。十年にして富を欲する者は、衣食住を定むるに在り。二十年にして富を欲する者は、農を進め、牛馬を生養し、樹を植ゑ、農民金銀を用ゐずして錢を用ゐ、五穀を以て諸品と交易すべし。五十年にして富を欲する者は、山海川澤田野の品物を宜しきに通路し、天地の産物を辨利するに在り。百年にして富を欲する者は、文武に在り。教化行れば、天下の富を保つ』と。


 安永七年。子平翁、長崎にて蘭人アーレン・ヘートとの談話にて悟るとことあり。
 蘭人の語りて曰く、『北よりして南を侵すは易く、南よりして北を略するは難し。北より南に入ること五七日なれば風土稍暖かに、産物亦多し。更に十日乃至廿日なれば、愈々暖かに愈々多し。故に人心隨つて旺し、利隨つて大なり。これ北の南を侵し易き所以なり。而して南よりするは、全く之に反す。和蘭の布哇を取り、韃靼の支那を取り、魯西亞の韃靼を取る、皆、この理に由るのみ』と。
 子平翁、北邊經營に目を轉じ、殊更らに武備の確立を主張する。
 曰く、『日本寛文の頃、莫斯哥未亞(モスゴービヤ)の女帝、[莫斯哥未亞は、即ち魯西亞なり、女帝といへるは彼得とカサリンとを混じて一とせるに似たり]大豪傑にして、五世界に帝たらむと志を振ひ起し、制を定め、令を下して曰はく、吾より後子々孫々、我が制を改めず、土地を廣くして、功を大にするを以て帝業となせよ、となり。夫より次第に韃靼の北邊を略して、終に    日本元文の頃まてに、東の限り加摸西葛杜加(※カムチヤツカと讀むべし)より東には、略すべき土地なし。故に又西に顧みて、彼千島を手に入るべき機(きざし)ありと覺ゆ。其故は、千島の極東に、ラツコ島一名クルセムと云ふ一大島あり。此島も彼が手に入りたりと覺えて近頃は莫斯哥未亞人多く住居する由なり。之を基本にして、此頃は蝦夷に近つきエドロフへ來りて交易するなり。然れども、其交易に來る本心計り難し、儻くばエドロフを呑むの志意には非らざるか』と。


 徳川氏による峻嚴なる鎖國政策、幕藩體制下にあつて、且つ、現在と比して至極情報の交通が圓滑ならざる時代にあつて、北方の領土に就て兔角論じられることが少なかつた。否、間宮休藏氏の如き一部の先見者を除き、殆ど認識すらされてゐなかつたかも知れない。後々、元治に至り、坂本龍馬、北添佶磨諸先達による「蝦夷地開拓」構想が生まれ、一方では、明治元年、舊幕軍榎本武揚や新撰組殘黨土方歳三らの「蝦夷共和國」構想を惹起せしめたのも、これひとへに北方警備、經營の未だ成らざるが爲めと認めざるを得ない。今日みられる、露西亞國による北方領土侵掠の事態を招來したことも、成らざるが爲めの一因として思ふべし。


●『海國兵談自序』(天明六年丙午)に曰く、
『海國とは何の謂ぞ。曰、地續の隣國無して四方皆、海に沿る國を謂也。然ルに海國には海國相當の武備有て唐山の軍書及ヒ    日本にて古今傳授する諸流の説ト品替れる也。此わけを知されは    日本の武術とは云かたし。先海國は外寇の來リ易キわけあり。亦來リ難キいわれもあり。其來リ易シといふは軍艦(イクサブネ)に乘じて順風を得レは    日本道二三百里の遠海も一二日に走リ來ル也。此如ク來リ易キわけあるゆへ此備を設けざれば叶ざる事也。來難シといふいわれは四方皆大海の險ある故妄リに來リ得さるなり。しかれとも其險を特(※原文マヽ。「恃」乎)て備に怠ル事なかれ』と。


●『海國兵談』卷之一「水戰」(天明七年丁未)に曰く、
海國の武備は海邊にあり。海邊の兵法は水戰にあり。水戰の要は大銃にあり。是海國自然の兵制也。然ル故に此篇ヲ以て開卷第一義に擧ル事、深意ある也。尋常の兵書ト同日の義にあらずと知べし

 昇平久キ時は人心弛ム。人心弛ム時は亂を忘ルヽ事。和漢古今の通病也。是を不[レ]忘を武備トいふ。盖武は文ト相並ンて徳の名也。備は徳にあらず、事(わざ)也。變に臨て事欠かさる樣に物を備置を云也』と。


 二百年以上も前に上梓された『海國兵談』を今拜讀するに當り、聊か古き感あるは否めぬも、そは産業、技術などの點に於て看れば然もあらん。けれ共、子平翁の國防に關する大志を讀み解かむとするに、國防を他國に委ね、それを最上策と信じて省みることなき刻下の日本人大多數の一體誰れが、これを古ぼけた無用の書と云ふこと出來やう歟。

 政府廣報による「北方領土の日」宣傳も、一向に空しくあるのみ。
 その原因を考察するに、やはり據つて立つところは權利思想にあり、おほくの國民が是非の分別こそ了解すれども、北方領土に權利を主張する丈の益なきを思ふが爲めである。曰く、『如何でも良いぢやん』と。曰く、『別に返つて來たからと云つて何か、そこまで得することがあるのかな』と。權利思想は、得大きを見込めれば主張し、左なくば主張の聲も萎む。尖閣諸島が、北方領土よりも關心の集まる所以は茲に存すと云うてもよいのではないか。
 已んぬるかな。政府は、領土の神聖を以て國民に「北方領土奪還」を啓蒙す可し。我れらの啓蒙の必要もこゝにこそ生じる。而して「領土の神聖」を説かむとすれば即ち、「皇土」の概念普及を念頭に置く可し矣。これ以て、日本國防の眞意も又た國民の了知するところとならむ。


●子平翁、田沼時代の士氣墮落を憤慨して曰く、
『吾、幸ひに太平の世に生れたり。存命の間さへ、干戈の事なくむば、幸甚しきなり。子孫の事は、又其時の事よと云ふ人、十に九なり。悟り拔きたる詞に似たれども、其實は、武備なきを耻ての遁辭なり。斯く云ふ人は、凡夫の上の大凡夫と謂ふ者なり』と。
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             ↑↑↑↑六無齋林子平翁肖像
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by sousiu | 2012-02-07 17:22 | 良書紹介

惡書紹介 「米國教育使節團報告書」 

 承前。

 如何に當時の占領軍が、國字の表記改惡に熱意を注いだのであるか。

 『米國教育使節團報告書』(第一次)は、第一章「日本の教育の目的及び内容」から第六章「高等教育」に分けられてある。その内の一つ、第二章を、「國語の改革」として設けてある。彼れらがどれだけ、國語表記の改造に意を逞しくさせてゐたか、この一事を以て識る可し、だ。

 抑も、米國教育使節團とは何であり、何の目的を抱いて日本を訪れたか。報告書より拔萃しこれを知らむとす。
●第一次 米國教育使節團報告書(昭和廿一年三月卅一日)「前がき」に曰く、
『本年(昭和廿一年)一月の初めに連合國軍最高司令官は、日本の教育に關する諸問題につき總指令部竝に日本の教育者達に助言を與へ、かつ協議するために二十名餘りの米國の教育者の一團を約一ケ月間日本に送つて貰ひたいと陸軍省に要求した。長期間にわたつて日本を再教育して、その方向を向け直すやうな計畫を立てる責任があるといふことについて、當時ワシントンで議論が交されてゐたので、陸軍省はその團員の最後的人選を國務省に頼んだ。個人の資格その他廣い範圍にわたつて種々な點を考へた末、更に總指令部の意向も十分取りいれて、二十七名の一團が選ばれ、ヂヨーヂ・D・ストダード博士が團長に任命された。~以下略~』と。※文中、括弧及び括弧内は野生による、以下同樣。

●仝「序論」に曰く、
『米國教育使節團は、元來聯合國軍最高司令官によつて提案されたものである。その來朝は多くの自由主義的な日本の教育者に希望を抱かしめた。これら聯合國軍の要望と民間の期待とを結んで、我々は歴史的な重大時機に嚴肅な氣持をいだいて來朝したのである。我々は、征服者の精神を持つて來朝したのではなく、すべての人間には、自由を求め更に個人的竝に社會的發展を求める測り知れない力がひそんでゐることを確信する教育經驗者として、來朝したのである。
 しかし、我々の最大の希望は子供にある。事實彼等は將來といふ重荷を擔つてゐるのであるから、重い過去の遺産に押しつぶされてはならないのである。そこで我々は、過つた教授をやめるだけではなく、子供達の心情を硬化させることなくその心を啓發するやうに、教師や、學校やの準備をして、できる限り公平に機會を與へてやりたいと思つてゐる。~中略~
 結局において國民は、國民自ら自由にならなければならない。自由は自由の實行からのみ生ずるのである。もしも禁止的指令(學科及び教科書の改惡を指す)の必要を認めない人々があるならば、我々は彼等に次のことを思ひ出させてやれると思ふ。即ち新しい教育の下にあつては、日本人は最早してはならぬ事はほとんど無く、むしろ大いにしなくてはならぬ事が何千となくあるといふことである。彈壓(戰中以前の日本のことを指す)の諸條件を除き去ることが、人間の精力を開放することなのである。「人のさまたげとなるものを除去すること」が、これが禁止の狙ひである。長い歳月が經つてみれば、それは却つて鎖を解いてやつたものとして、その眞正な姿を認められるであらう』と。

     
 さて。報告書中にある、戰後の國語表記改惡といふ一大痛恨事を惹起せしめた文章を、徳富蘇峰翁「近世日本國民史」の筆法を眞似て順次、下記に抄録す。(出典『文部時報』第八百三十四號、昭和廿一年十一月十日發行)

●仝、「第二章 國語の改革」に曰く、
『日本の子供達に對して我々が責任を感じさへしなければ、これに觸れずにゐた方が愼み深くもあり氣樂でもあつてよいと思ふ問題に、こゝに當面するのである。言語は國民生活に極めて密接な關係をもつた一つの有機體であるから、外部からそれに近よることは危險なのである。しかしこの密接な關係がまた專ら内部から行はうとする改良をさまたげてゐるのでもある。何事にも中間の行き方があるが、この場合それは立派な中庸の道になるであらう。國語の改良はどんな方面から刺戟を受けて著手してもいゝが、その完成は國内でするより外にないことを、我々は知つてゐる。我々が與へる義務があると感ずるのは、この好意の刺戟であつて、それと共に、未來のあらゆる世代の人々が感謝するにちがひないと思はれるこの改良に、直ちに著手するやう現代の人々に大いに勸める次第である。深い義務の觀念から、そしてただそれだけの理由で、我々は日本の國字の徹底的改良を勸めるのである』と。
 これがGHQ側の自分で取り繕うた立場だ。彼れらは、あくまで、日本にとつて懇切であり、親身なる保護者と云はむばかりだ。だがそれ、眞相は慈善ではなく、僞善だ。詐欺師は詐欺師の言辭を發する能はず。然も、彼れらの僞善は、此の日に始められたるものではない。それ、終戰及び東京裁判然り。況んや開戰及び其の過程に於てをや。

『日本の國字は學習の恐るべき障害になつてゐる。廣く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に過重の負擔をかけてゐることは、ほとんどすべての有識者の意見の一致するところである。小學校時代を通じて、生徒はただ國字の讀方と書き方を學ぶだけの仕事に、大部分の勉強時間を割かなくてはならない。この初期數年の間、廣範圍の有用な語學的及び數學的熟練と、自然界及び人類社會に關する主要なる知識の修得に充てられるべき時間が、この國字習熟の苦しい戰ひのために空費されてゐるのである。漢字の讀み書きに過大の時間をかけて達成された成績には失望する』
 これは全く御節介な申し分だ。しかのみならず、獨斷と偏見に滿ち、凡そ事實に反してゐる。つまり彼れらの調査では、日本の學生は漢字と假名を覺える爲め、小學校の教育過程に於ける大半の時間を要せねばならぬ、と。無學の野生が中年の硬化しかけた腦味噌で、完全とは云ひ難くあるも正統表記を解した事實を鑑みれば、福田恆存翁の言に俟たざるも、この調査は事實に反してゐること明瞭に過ぎると云ふものだ。蓋し、この調査が、名義のみのものであるといふことを自白したやうなものである。いづれにせよ、彼れらは我れらに手を差し伸べると云はんか、手を加へる丈の理由を陳列した。

『小學校を卒業しても、生徒は民主的公民としての資格には不可缺の語學能力を持つてゐないかも知れない。彼等は日刊新聞や雜誌のやうなありふれたものさへなかなか讀めないのである。概して、彼等は現代の問題や思想を取扱つた書物の意味をつかむことができない。殊に、彼等は卒業後讀書を以て知能啓發の樂な手段となし得る程度の修得さへ、でき兼ねる(難ねる、の誤り乎)のを常とする』
 これも彼れらによる當時の日本の教育に對する觀察眼だ。固より、我れらが要人乃至は關係者も、この一方的な報告に首肯するよりほかは仕方が無かつたであらう。尤もその理由は、侵掠者の日本の教育に對する觀察が正鵠を射てゐたからではない。侵掠者の鋭利な眼光で觀察されてゐるのは自分達の反應と態度であるといふことを充分認識してゐたのだ。

『中等學校に入學する十五パーセントの兒童にとつても、依然として國語問題は解決されぬ。これら年上の少年男女は、相變らず國字記號の修得といふ果てしない仕事に骨を折るのである。何れの近代國家に、かやうなむづかしい時間のかかる表現と傳達の、ぜいたくな手段を用ひる餘裕があるであらうか。
 國語改良の必要は、日本においてすでに長い間認められてゐた。著名な學者達がこの問題に多大の注意をはらひ、政論家や新聞雜誌の主幹をふくむ有力者の中には、實行可能な方法を種々研究したものが多い。約二十に上る日本人の團體が、今日この問題に關係してゐるといふことである。大體において、三つの國字改良案が討議されつつある。第一は漢字數の制限を求め、第二は全然漢字を廢止して、ある種の假名を採用することを要求し、第三は漢字も假名も完全に廢棄して、一種のローマ字を採用することを要望する』
 愈々彼れらは彼れらの本旨を露出せしめた。彼れらが好む順序は、モア、ベター、ベストだ。精しくはこの場合、第一よりも第二、第二よりも第三だ。

 本旨を暴露せしめた彼れらが、次に披露したるは本音だ。
『これらの諸案(三者擇一のこと)の中、何れを採るべきかは、容易に決定することができぬ。然し、史實と教育と言語分析とを考へあはせて、使節團は、早晩普通一般の國字においては漢字は全廢され、そしてある音標式表現法が採用されるべきものと信ずる。かやうな表現法は比較的修得に容易であり、また全學習過程を大いに簡便にするであらう。この表現法によつて、辭書、カタログ、タイプライター、ライノタイプ機、及びその他の言語補助の用法が、簡單になるであらう。更に大切なことには、この表現法によつて日本の大衆は、藝術、哲學、科學、及び技術學上の自國の文書中に存在する知識と智慧に、一層親しみ易くなるであらう。それはまた日本人の外國文學研究を容易ならしめるであらう』
 いくらなんでもこの助言(の名を借りた強制)には無理がある。タイプライターが使ひ易くなるから、自國の言語表記を一切やめて、一層のこと羅馬字表記に變へた方が宜いといふ。何んなに高額な羽毛布團を賣り附ける惡徳營業人でも、これほどいゝ加減な親切言を用ゐることはあるまい。

『漢字といふものの中に存するある審美的その他の價値が、音標法では到底十分に表はせないといふことは容易に認められる。然し、一般の民衆が國の内外の事がらに良く通じて、はつきり意見が述べられるやうになるべきであるとすれば、もつと簡便な讀み書きの手段が與へられなくてはならぬ。統一された、實施可能な計畫の完成には、時日を要するではあらうが、然し今こそ著手の好機であると思ふ。
 使節團の判斷では、假名よりもローマ字に長所が多い。更に、それは民主的公民としての資格と、國際的理解の助長に適するであらう』
 小さな親切大きなお世話と云はんよりも、全く迷惑千萬な話しだ。加へて吾人の憾むらくは、占領下に乘じて、戰前より棲息した一部の羅馬字論者が、頭を擡げ來たつたといふことだ。

 さて、鐵面皮たる米人は益々その面の皮を厚くと申さんか、固くした。而して當時の我れらは、やはり、俎上の魚たるの立場を認めざるを得なかつた。曰く、
『必然的に幾多の困難が伴ふことを認めながら、多くの日本人側のためらひ勝ちな自然の感情に氣付きながら、また提案する變革の重大性を十分承知しながら、しかもなほ我々は敢て以下のことを提案する。
一、ある形のローマ字を是非とも一般に採用すること。
二、選ぶべき特殊の形のローマ字は、日本の學者、教育權威者、及び政治家より成る委員會がこれを決定すること。
三、その委員會は過渡期中、國語改良計畫案を調整する責任を持つこと。
四、その委員會は新聞、定期刊行物、書籍その他の文書を通して、學校や社會生活や國民生活にローマ字を採り入れる計畫と案を立てること。
五、その委員會はまた、一層民主主義的な形の口語を完成する方途を講ずること。
六、國字が兒童の學習時間を缺乏させる不斷の原因であることを考へて、委員會を速かに組織すべきこと。餘り遲くならぬ中に、完全な報告と廣範圍の計畫が發表されることを望む。
 ~中略~ 今は國語改良のこの重要處置を講ずる好機である。恐らくこれ程好都合な機會は、今後幾世代の間またとないであらう。日本國民の眼は將來に向けられてゐる。日本人は國内生活においても國際的關係においても、新しい方向に動きつつある。そしてこの新しい方向は文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とするであらう。また同時に、戰爭が多くの外國人を刺戟し、日本の國語と文化を研究せしめてゐる。この感與を持續せしめ、育くまうとすれば、新しい書記法を見出さなくてはならぬ。國語は廣い公道たるべきもので、障壁であつてはならない。世界に永き平和をもたらさんとする各國の思慮ある男女は、國民的な孤立と排他の精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこはす必要のあることを知つてゐる。ローマ字採用は、國境をこえて知識や觀念を傳達する上に偉大な寄與をなすであらう』と。
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 危機一髮、かくも累卵の危機に晒されながら、日本に於ける羅馬字表記は囘避された。
 米國が日本人に對して、終戰以前の歴史との訣別を熱望したことは固より明白だ。
 なほ、桑港條約締結後、國内では、當然起り得る可きことゝとして正統表記を復元させようとする運動が高まつた。されど惜しい哉、實る能はず。これには樣々な要因が擧げられようが、主なる理由として、日教組ら教育者による脅迫的反對運動があつたことを吾人は忘れてはならない。だが、それ以上に忘れてはならぬのことは、當時、俎上の魚となるも國語を守らむと螳螂の斧を揮ひ戰つた人たちのあつたことだ。我れらは國語といふ文化防衞の恩人である彼れらに對して、啻に我れらの爲めと云はんよりも、寧ろ日本の爲めに敬意を表さねばならぬ。

●福田恆存翁、『私の國語教室』(平成十四年「文藝春秋」發行)に曰く、
かうして幾多の先學の血の滲むやうな苦心努力によつて守られて來た正統表記が、戰後倉皇の間、人々の關心が衣食のことにかかづらひ、他を顧みる餘裕のない隙に乘じて、慌しく覆されてしまつた。まことに取返しのつかぬ痛恨事である。しかも一方では相も變らず傳統だの文化だのといふお題目を竝べ立てる、その依つて立つべき「言葉」を蔑ろにしておきながら、何が傳統、何が文化であらう。なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか』と。

●市川浩氏、仝、「解説」に曰く、
『敗戰後一年半にも滿たない昭和二十一年十一月十六日、「現代かなづかい」と「當用漢字」(以下、新かな・新字と略記)が内閣告示として制定された。此の日は日本國憲法の公布から十三日目に當り、時を同じうして憲法と國語といふ、國と民族の根幹に重大な改變が、加へられたのである。此の結果、日本は、それまでとは全く異る國家、種族へと變容した。此の半世紀の間、變容は成功したかに見えた。しかし同胞の努力で實現した繁榮もバブルの崩潰と共に束の間に消え去つた今、あの變容の中には聯合軍の企畫した「日本弱體化」も組込まれてゐたのではなかつたか、其の原點の再吟味と辨別が、民族の再生のために要請されてゐる』と。
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by sousiu | 2012-01-17 19:18 | 良書紹介

山陵志と今書  

 承前。

 『前王廟陵記』『諸陵周垣成就記』『山陵志』などを繙くに、御歴代の山陵の變遷に就て識ることが出來る。
 それ、上古は山陵の制度が未だ備らず、神武天皇から 孝元天皇まではたゞ丘に塚を築かされたのみであること。開化天皇の御時以降、漸く定つた一つの制度が出來ましたこと。それ、先づ 垂仁天皇から 敏達天皇までの廿三代は、山に陵を御營みになられまして、その大小高低は樣々であり、亦たその向きも一定してをらず。けれ共、その形は前方後圓墳である。
 次に 用明天皇から 文武天皇までの十代は圓墳であられますこと。奈良時代になると再び古い制度に復し山に陵がつくられ、前方後圓の形も行はれるやうになつたこと。

 こと『山陵志』では、茲に佛教が渡來しその影響頗る濃厚となるや、上古の風がすたれ、持統天皇の御時より初めて御火葬が行はれ、加之、その御火葬の場所が決して陵と定められたものではなく、御毛髮などを納められた石塔などを御陵と定めるといふことを、蒲生先生力めて序文に著す。
 忝くも、これは雲の上人による、葬を薄くして、國家の財や人民の勞を出來得るだけ負擔せない爲めの思し召しであらせられたことゝ恐察するものである。その反面、一方には、寺院は陸續造營され、國の費は大に消せられ、民力を盡して伽藍は壯麗を極めるといふわけで、已矣哉、これ、佛教及び佛教徒の盛んなりしことをあからさまに物語つてゐるのである。而して、蒲生先生は佛教の勢力強大が、おそれおほくも御陵に於ける古來の制度を破する近因となつたことを確信する。一事が萬事。豈にそれ御陵のみと云ふ可き。蒲生先生は政治に於ける、制度に於ける、民心に於ける、果たして 皇國に於ける輸入宗教の弊害を看破されたのである。※御火葬佛式の御儀、御取止めに奔走した奧八兵衞先生、通稱、魚屋八兵衞の衷情に蒲生先生が感激した逸話は、十二月三日付、「●蒲生先生、能く能く同志に語るに曰く」の項に記す。


 實は蒲生君平先生、啻に山陵の存在を江湖に報せむが爲めのみ『山陵志』を著述したのではない。
 蒲生先生の本懷は、『九志』を世に供することであつた。
 その第一が『神祇志』、第二が『山陵志』、第三が『姓族志』、第四が『職官志』、第五が『服章志』、第六が『禮儀志』、第七が『民志』、第八が『刑志』、第九が『兵志』である。
 蓋し 皇國の禮は祭よりも大なるはなく、古來、御歴代天皇の誠敬を御盡しになつて來たことによるので先づは『神祇志』、神祇の祭祀を崇び、御歴代の山陵を仰がぬ道理はなき爲め『山陵志』。皇國は古來氏族制度の國であり、神を祭り祖先を祀るにも必ず氏或いは家毎におこなふことから、神祇や山陵の歴史を明らかにした以上、次にはこの氏族制度の歴史を明らかにしなければならぬ、よつて『姓族志』。氏族制度は古來自然に存するところの社會の秩序であるが、猶ほこの秩序を正しくせんが爲めには一定の官職がなければならず、亦たそれを正常に機能させる爲めにもその歴史を明らかにせなばならぬ、よつて『職官志』。古への考へによれば一定の位や官職には、必ずそれに應じた衣服や、馬、俥、果ては乘輿に至るまで別といふものがなければならないとした。從つて、職官志の次は『服章志』。次に社會生活に要せられる可き樣々な行爲の規範を明らかにせねばならないので、『禮儀志』。これまでのことは服章でも禮儀でも大體に於て國家の上位にある者や政を執り行ふ可き位にある者に對して一讀す可き論であつたが、今度は治められる者に對して、その職業、生活の樣式を調べて正さねばならぬ、よつて次に考へねばならぬのこと『民志』。刑は廣く云へば法律であるが、古への考へ方によれば刑は寧ろ禮と竝ぶものであつたといふ。即はち禮をやぶる者を禁ずるものが刑であつて、當時の民は無智蒙昧多く在るがゆゑ禮儀のみで治めることは覺束ない、よつて次は『刑志』。最後は『兵死』、つまり軍事志。民は法律によつてよく治め得ても、國外より襲來する夷狄はこの兵によつて防衞せねばならない。經國の爲めには必ず治兵がなければならぬ。それには民は國防の重要に就て猶ほ識る可きであつて、古來の外征軍事の歴史から學ばねばならぬ、從つて『兵志』。以上、『九志』。
 惜しまれる哉、蒲生先生は『山陵志』『職官志』を上梓し、殘りの七志は未完成となつたまゝである。
 ・・・ところで、餘談であるが、吾人はこの『九志』に就て氣付かねばならぬことがある。
 蒲生先生に限つたことではないのであるが、この頃の、即はち維新囘天の黎明期にある思想家に概ね共通してみられる特徴として、内を整へることを優先順位としてゐることである。所謂る、修理固成(つくりかためなせ)といふことだ。決して、『兵志』を第一義としてをらぬところに、戰後の我れらは深く考究すべきことがらの多くあること、認めねばなるまい。


●柴田實氏、『蒲生君平の山陵志』(昭和十七年九月十五日「日本放送出版協會」發行)に曰く、
『かやうに見て參りますと九志といふものは首の神祇志から尾の兵志までの間に首尾一貫した一つの思想體系のあることがはつきりするでありませう。それは申すまでもなく儒教の思想を根柢とするところのひろい意味の政治理論でありまして、神祇、山陵、姓族等種々の事柄に就いて過去の歴史を調べますことも、窮極はこの政治の理想を明かにせんがためでありました。儒教ではこの政治の理想を聖人の道とも王道とも申し、周公や孔子にその範を求めようとして居りますが、蒲生君平はむしろそれを我が國の歴史に就いて明かにしようとしたのであります。彼は或友人に與へた手紙の中で「夫所謂王者之道豈復他求也、豈復他求也」といひ、自分は二十年來本朝の意を留め國初より、二千年の事蹟に就いて一々之を禮經に照して考へ、その名分を正したいがために九志を著すのであると述べて居ります。彼はまた九志の序文において更に積極的に我が國の秀れた所以を説き、その國土は南北の中間に位して寒暖の和を得、水土は産物に宜しくして五穀豐穰であり、文教よく行渡り、武威普く、然も太初以來名分正しく、民皆忠敬を致し、古く聖制あつて備らざるものがない。事は時と共に移り、物は世と共に變るが、然もなほ古に通じようと思ふならば書物も數ふべきほどあると申して居ります。
 ~中略~ 「山陵志」をもこめて、九志の根柢に存するところの根本思想は要するに歴史的なるものの中によるべき道を見出さうとする歴史主義であり、過去に理想をおくところの復古主義といはれませう』と。※夫所謂王者之道豈復他求也=それ所謂る王者の道を豈に復た他に求めんや


 さて、蒲生君平先生の初めての著述は『今書』である。蒲生先生、廿五六歳の著述と傳へられてゐる。『今書』とは、要するに、當時の政治上、社會上に露はれ始めた種々の問題を明らかにし、その修正案、解決策を古への歴史から導き出さうと試みたものである。蒲生先生の復古主義はこの『今書』に既に見えてゐるのだ。


●柴田實氏の曰く、仝、
『現今の時弊に對して上古の則るべきところは總じて何處にあるか、逆にいへば、上古の治世が何が故に現今の如く遷移したか、といへば、上古はすべて名が正しかつたが、時代と共にその名が亂れて來たのであつて、嘗ては社會の利益であつたところのものが、弊害となるのも時の勢の然らしむるところであるとして、古來、名と勢との移りかはるところを評論して居ります。昔から義を好むものは名に順ひ、利を好むものは勢に就く。しかも義を好むものは寡く、利を好むものは多いが故に名は勢に勝てない。しかしながら利をもつて義に易へるのは君子の道ではない。忠憤慷慨の士といふものは必ず寡をもつてよく衆に敵するものであるとて名の勢よりも重んずべきを力説してゐるのであります。ここに復古主義は同時に正名主義であることが明かとなるでありませう。彼が賦役や姓族に就いて論じてゐるところを見ますと、九志としては遂に出來上らなかつた民志なり、姓族志なりの内容も、若しそれが書かれてゐればどんなものであつたかがおよそ推測がつくのであります』と。



 『今書』に就ても觸れたいのであるが、少々くどくなるので、また今度だ。
 時對協の忘年會に於て、國信、坂田、木川三兄に圍まれ、ふと「寛政の三奇人」を書かうと思ひ附いたものゝ、餘りにも長くなつてしまつた・・・・。最早、日乘ではないな、これ。でも、この内容をツイツターつていふの?あれで連載するよりはまだマシだらう。
 今日は、夕方から阿形充規先生の事務所で御教示を賜はる。先程、歸宅。← 一應、日乘なので。苦笑。

 今度は殘る奇人の御二人、高山彦九郎、林子平先生に就て記してみたい。

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by sousiu | 2011-12-07 23:54 | 良書紹介

前王廟陵記  

●『勤王文庫 第三集 山陵記集』(大正十年七月廿日「大日本明道館」發行)の序に曰く、
『帝王の葬、山の如く、陵の如し、故に山陵といふ、とは、律の謀大逆の疏義に出て居る説で、今日現存の山陵を見ても、實に此説の通で、往昔朝廷に於て、如何に帝王の葬を重んぜられたかゞ、推知せられる。隨て、古昔の陵制は嚴重なもので、帝陵は申すに及ばず、皇族の御墓、さては外戚の墓さへ、守戸陵戸を置いて、守護せしめ、朝には諸陵寮を設けて管理せしめ、又年終毎には荷前奉幣の制もありて、陵墓其物も中々宏大なものである。然るに世移り物替り、政權は朝家の手を離れ、社會の風習も大に變化を來し、剩へ足利氏の季世、苅菰と亂れて、神宮さへ、皇居さへ、頽破するも、容易に修理出來ざる程で、懷ふも語るも涙の種となる有樣、陵墓の事などは、何處に在るやら、如何の状態に成果てたやら、更に知る人も無いやうな次第で、誠に恐懼の至で有つた。
 然るに大運轉換と言はうか、窮すれば即ち通ずと申さうか、元和寛永の頃より、世態漸く太平に歸し、國民も平和的氣分を味ふやうに成つた。時勢の暗遷默移といふ事は、恐ろしいもので、諸種の廢典も復興せられるやうになり、長い間、世人の念頭に浮ば無かつた山陵の事なども、逐々注意を惹くやうになり、松平直政や、曾根吉正の如く、荒陵を修理する人もあり、又黒川道祐などの如く、墳墓調を爲す人も現はれて來た。元祿時代と言へば、偃武以後既に七八十の星霜を經て、平和的氣分は益々濃厚となり、文藝も復興し來り、從來兔角圓滿を缺いて居た朝幕の御間柄も大に緩和せられたのも、一原因であらう歟。民間のみならず、幕吏の間にさへ、山陵の事を憂ふる人が輩出した。松下秀明や、細井知名、知愼兄弟の如きは、其翹楚である』と。



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●元祿九年、平安城、西峰山人 松下見林翁『前王廟陵記序』に曰く、
仁賢天皇の聖敕に曰く、忍んで陵墓を壞らば、誰を人主として、以て天の靈を奉ぜんと。藤原ノ吉野の諫言に曰く、山陵は、猶宗廟のごとし、縱し宗廟無くんば、臣子何の處をか仰がんと。誠なるかな其の訓や。是を以て、謀つて山陵を毀るは、八虐の一に處す。律の原(ゆる)さゞる所。兆域陵地陵戸守戸を志し、兆域の内には臣庶を■(草冠+死+土=ソウ)埋し、及び耕牧樵採することを得ずとは、令式の急務なり。荷前祈祷の禮、其の遠を追ふの心、貴ぶ可く法る可きのみ。此の如く善政備れりと雖、盜賊陵を發(あば)く者絶えず。況んや、 皇綱紐を解くに及び、諸陵司職を廢して、人をして犁きて田園と爲し、壑に完柩無からしむるに至る。余、微賤なりと雖、之を思ふ毎に涙を草莽の袖に沾す』と。見林翁の悲憤、則はち忠良臣民餘すところなく共有するもの也。恐懼に堪へぬ心、必竟するに在朝在野の別はなし。

●『前王廟陵記 卷之上』、畝傍山の東北(うしとら)の陵は畝傍橿原の宮にあめのしたしろしめせし 神武天皇の項に曰く、
東北の陵は百年ばかり以來壞ちて糞田と爲し、民其田を呼びて神武田と字す。暴汚の所爲痛哭すべし。數畝を餘して一封と爲し、農夫之に登るも恬として怪と爲さず、之を觀るに及びて寒心す。夫れ 神武天皇は、神代草昧の蹤を繼ぎ、東征して中州を平げ、四門を闢きて八方を朝せしむ。王道の興、治教の美、實に此に創まる。我國君臣億兆當に尊信を致すべきの廟陵なり。澆季此に至る、噫哀い哉』と。聽くにも讀むにも耐へ難し。見林翁による、山陵の、明らかにせんとするの志、後世の吾人をして猶ほ感謝するところありとせねばならぬ。

●仝、高野の陵は平城の宮に御宇せし 稱徳天皇の項に曰く、
『大和國添の下の郡に在り。兆域東西五町、南北三町、守戸五烟。
續日本紀に曰く、神護景雲三年八月丙午、高野天皇を大和の國添の下郡佐貴の郷高野の山陵に葬ると。
今按ずるに、御陵山の西北の陵、若しや是か。往年、人有り此陵を發き、陵中の財を奪ふの黨身腫れ苦死す。觀者恐れて財を本の處に還すと云ふ』と。尤、神罰なり也矣。

●『前王廟陵記 卷之下』、二條院の項に曰く、
『~中略~ 二條院の御墓は、舟岡の北の麓に在り。所謂香隆寺の艮の野といふは是か。上に五重の石塔有り。近世茶を嗜む千の利休九輪を取りて、己が塔と爲し、聚光院に立て、又塔の穿■(上「穴」+下左右「瓜」)める處を手水鉢と爲す。幾くならずして利休禍に逢へりと』と。是れ又た利休の切腹、梟首、成る可くして成つた末路と看取す可し歟。



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 愚案。『前王廟陵記』によつて端緒を得た山陵の研究は、以降、細井知愼翁著『諸陵周垣成就記』、昨日述べた蒲生君平翁の大著『山陵志』、本居宣長翁著『菅笠日記』、伴林光平翁著『野山のなげき』、北浦定政翁著『打墨繩』、谷森善臣翁著『山陵考』などゝゞの名著大作を世に呈することゝなつた。
 當時、交通手段に惠まれてをらず、無論、道路の整備も造されてをらず。且つ乏しき情報の中で御歴代御陵の實地踏査するといふのは、至難を極める業であつたこと考へるに六ケ敷くない。深山幽谷、山道も凡そ獸道の如くあり、外燈なぞある筈も無し、車はおろかコンパスすら無い。研究が進むに從ひ、前王廟陵記をはじめ、記載された御陵に誤りあることも發見されてゆくのであるが、それは寧ろ當然と云はねばならぬもので、見林翁も地下で諒としてゐるに違ひない。
 固より野生は、地理や考古學に就ては無智同然であり、よつて山陵に向けられた先人の努力と研究から學ぶことゝは、その動機たる可き、皇祖皇宗を仰ぐの志であらねばならないとする。


●『山陵記集』序の末尾に曰く、
『終に一言して置かねばならぬ事は、是等の著書は皆單に山陵其物を學術的に研究するといふのではなくて、畏くも宗廟に準ずべき、歴代の帝陵が、徒らに荒廢を極め、或は耕されて田畠となり、僮僕牛馬に汚され、或は棺槨の、盜兒に破壞せられて、露出すといふやうな恐れ多い状態にあるのを憤慨して、自ら措く能はず、陵墓修理の急を絶叫して、天下に訴へたので、其消息は書中に散見する。之を讀む者も、山陵の智識を得ると同時に、勤王心を鼓舞策興せらるゝことであらう』と。




 餘談ではあるが、昨日は愛倭塾の山口秀明會長が御内儀と共に來訪。
 また變はつた人が來た。御内儀はとても素晴しい人なのだけれど。
 因みにヤフーの辭書で『奇人』と調べてみると、奇人とは、
 一、性格や言行が普通とは異つてゐる人。變人。
 であるとの由。
 先日、時對協の總會で、山口秀明會長の副議長再任が決定した。
 時對協は奇特な人が多い。その副議長たるの山口會長、單に偏屈者としての奇人であるのか、それとも蒲生君平先生の如き偉大なる奇人であるのか、憚りながら興味の盡きないところである。愚案、變な名前を名乘つて可愛い後輩の日乘を荒してゐる場合ではない。
 
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by sousiu | 2011-12-04 14:53 | 良書紹介

北朝鮮抑留記  

 過日、北朝鮮に拘留されてゐた杉嶋岑さんより賜はつた著書を拜讀。
 杉嶋さんは、かつて日經新聞記者として御活躍なされ、舊東獨逸、舊ソ連、支那などを渡り、北朝鮮には二年二ヵ月もの間、拘束された。
 さうした經驗を綴つたのが、草思社より刊行された『北朝鮮抑留記』である。
 杉嶋さんと初めてお會ひしたのは、野生の主宰する「草莽崛起の集ひ」にて、四宮正貴先生をお迎へした時に御參加下さつてからだ。
 貴重な御經驗が江湖に弘められ、日本を見直す良い一助となれば幸ひである。
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 野生の卑見による感想ではなく、杉嶋さんからの玉翰を抄録し、一讀を御奬めする。
 曰く、『・・・はつきり見えた事は、金日成といふ男には、大日本帝國と 天皇陛下が餘程、眩しく榮光に滿ちたものに映じてゐたでせう。・・・略。拙著でも萬世一系の日本の 天皇陛下は、歐米の霸道の霸者と違ひ、倫理的、文化的、非黨派的、超越的存在であり、天皇と國民との間に對立概念は無く、五穀豐穰、天下泰平を共に祈る祭祀共同體の祭り主が、すめらみことであると論じました』と。
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by sousiu | 2011-07-26 04:18 | 良書紹介

いはゆる、「ん」

 小生の機關紙「天地無辺」は振り假名(ルビ)を觸つてゐる。

 何人かの親しい仲間から、小生の機關紙をみて、「三」「金」「心」「任」等のルビは「ん」ではないのか、と問はれたことがある。小生、三(さむ)、金(きむ)、心(しむ)、任(にむ)と、ルビを觸つてあるからだ。
 質問を賜はつた場合ひ、明朗賢答ではないにせよ、都度その説明をしてゐる。

 大阪の道友である、志賀智仁君の發行する機關紙「實踐」も、新春號より振り假名の記載に鋭意着手。
 はからずも阿形充規先生の仰せにより小生、惡戰苦鬪、振り假名の記載を始めたことは再三申し上げたが、今更らながらこれが實に苦勞を倍して猶ほ餘りある宜い勉強となつてゐるのだつた。

 さて。本日、御惠投いたゞいた「かなづかひ」第十號(「正かなづかひの會々報」平成廿三年二月十一日發行)を拜讀。
「ん」についての記載があつたので、こゝに謹寫申し上げる。


●松岡隆範氏『國語の基礎(第二囘) ――「ン」「ん」に就て―― 』に曰く、
『「いろは」四十七文字に撥音を表す「ん「」は無い。「いろは」に於ては此の音は「む」の中に含まれてゐると考へられてゐるからである。
 五十音圖は片假名の形で成立したものであるが、「ン」は五十音のどの行にも歸屬し得ないので欄外につけ加へられてゐる。
 平假名「ん」の字源は无(無)の草書體とされてゐる。
 片假名「ン」の字源は「尓」の下略の形だとされてゐる。共に初めは撥音の記號であつて文字とは見なされてゐなかつたが、後に文字として扱はれるやうになつたのである。
「ん」「ン」と云ふのは日本語の音韻にあつては非常に特殊なものなのである。

 幸田露伴はその「音幻論」の中で「ン」を取上げて論じてゐる。
 まづ「ン」だけを讀む時は「ウン」と二音に讀んでゐる。
 マ行すなはちm系のものか、ナ行すなはちn系のものか、どちらとも言へる不明瞭なものだと言つてゐる。此の字はム・ン・ウ・ニ等の音の性質を兼ねてゐると認めてゐる。
 全く口を閉ぢて舌を收め、口腔の運動を閉塞せしめても出し得る音で母音とも子音とも云ひ難い音であると言つてゐる。
「アイウエオ」の母音以外の音、例へば「カ」は、カの音は最初の一瞬だけで後は「アー」と云ふ母音しか殘らない。カ行音、サ行音以下すべてさうである。
 ところが「ン」は、口を閉ぢ、口腔運動をしないで、ただわづかに鼻腔から息を漏らすだけで「ンー」と連續的に發音することが出來る。
 即ち元來假名文字では表せない音なのである。
 以上が幸田露伴の「ン」に就ての論である。

 次に橋本進吉が「文字及び假名遣の研究』の中で「ン」の發音と字源に就て陳べてゐるのでそれを紹介する。
 先づ發音に就て。「山」も「三」も今日我々は「サン」と發音してゐるが、古くは「山」はsan、「三」はsamと發音してゐた。因・巾・斥・身・人はin、kin、sin、jinであり、音・金・禁・心・任はom、kim、kim、sim、nimであつた。
 此のnとmを如何に書き表してゐたかと云ふと、nには通常「ニ」の假名、mには通常「ム」の假名を用ゐてゐたのであると言つてゐる。
 さうして字源としては「ん」は无(無)の字から、「ニ」は「尓」から出てゐるとしてゐる。

 こゝでは「ん」「ン」が日本語の音韻の中で極めて特殊なものであると云ふ事を、幸田露伴と橋本進吉の論を參考として觸れたのである』と。
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by sousiu | 2011-03-06 21:30 | 良書紹介

變態かな?・・・ぢやないよ、「變體がな」だよ  

 昨日は、時對協定例會。

 また新らしい同志も來遊し、いつもこの會は賑やかである。
 福田邦宏議長の御高配により、はからずも愚論を披露する時間をいたゞいた。
 おほけなくも「靖獻遺言」の大功と現代の觀察について持論を少々。

 われながら拙い持論であつたが、諸先輩、同兄は眞意を察して下さり、頷いてくれてゐた。その後はそれを敲き臺として、福田議長、丸川仁道兄をはじめ多くの意見が出された。今度は小生が頷いてゐた。忽ち二時間が經ち、閉會。丸川道兄曰く、「(時間が經つのが)早いな」と。
 しかれども。かうした話題で盛り上がるといふのも、諸兄が相當奇人であることの證左である。
 ちよつと、なかゝゝかういふ話題で終始盛り上がる會合も多くはないのではあるまいかと思ふ。

 戻り大阪の時對協メンバーである日本實踐奉仕團・志賀兄と電話で語り合ふ。
 電話を終へると深夜の二時半であつた。彼れもまた、ひとかたならぬ奇人だ。仙臺の坂田兄同樣、既に、一見してそれだ。二人とも、彼女がゐると小生に主張し、モテるとまでは云はずとも一般の好男兒の如く裝ふが、小生、それすら嘘だと見拔いてゐる。

 ・・・といふわけで、今日は昨日上つた話題に關連して、書籍を一册紹介する。
 ↓ ↓ ↓ ↓
 http://www.nobarasha.co.jp/
 ■■「野ばら社」→表紙畫面下「書道」→208「変体がな入門」

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by sousiu | 2011-03-04 14:17 | 良書紹介

『夢醉獨言』を讀む 下  

 承前


おれは一生の内に無法の馬鹿な事をして年月を送つたけれども、いまだ天道の罰もあたらぬと見えて、何事なく四十二年かうして居るが、身内にきづ一つも受た事がない、其外(そのほか)の者は、或はぶちころされ、又は行衞(ゆくへ)がしらず、いろゝゝの身に成た物が數しれぬが、おれは高運だとみえて、我儘のしたい程して、小高の者はおれの樣に、金を遣つたものもなし、いつもりきんで配下を多く遣つた、衣類は大がひ人のきぬ唐物、其外の結構の物をきて、甘(うま)いものは食ひ次第にして、一生女郎は好に買ひ、十分の事をしてきたが、此頃に成て、漸く人間らしく成て昔の事を思ふと、身の毛が立(たつ)やうだ。男たるものは、決ておれが眞似をはしないがいゝ。孫やひこが出來たらば、よくゝゝ此書物を見せて、身のいましめにするがいゝ。今は書(かく)にも氣のはづかしい。是と云も無學にして、手跡も漸く二十餘に成て、手前の小用が出來るやうに成て、好(よい)友達もなく、惡友計(ばかり)と交つた故、よき事は少しも氣が付ぬから、此樣の法外の事を英勇ごふけつ(豪傑)と思た故、みな心得違(ちがひ)して、親類父母妻子に迄いくらの勞を懸けたかしれぬ。かんじんの旦那へは、不忠至極をして、頭取扱も不斷に敵對してとふとふ今の如くの身の上に成た。幸に息子が能つて、孝道してくれ、又、娘がよくつかへて、女房がおれにそむかない故に、滿足で、此年まで無難に通(とほつ)たのだ。四十二に成て、始て人倫の道かつは君父へつかへる事、諸親へむつみ、又は妻子下人の仁愛の道を少ししつたら、是迄の所行がおそろしく成た。よくよく讀(よん)であちあふ(味はふ)べし。子に孫にまであなかしこ』


おれが此一兩年始て外出を止られたが、毎日毎日諸々の著述物の本、軍談また御當家の事實いろいろと見たが、昔より皆々名大將勇猛の諸士に至るまで、事々に天理を知らず諸士を扱ふ事、又は世を治るの術、亂世によらずして、或は強勇にし、或はほふ惡く、或はおこり女色におぼれし人人、一時は功を立てるといへ共、久しからずして、天下國家をうしなひ、又は知勇の士も、聖人の大法に背く輩は、始終功を立(たて)ずして、其身の亡びし例をあげてかぞへがたし。和漢とも皆々天理にてらして、君臣の禮もなく、父兄の愛もなくして、とんよくきようしや故に、全き身命を亡し、家國をもうしなふ事、みなゝゝ天の罪を受くる故と、初めてさとり、おれが身を是までつゝがなく、たもちしは、ふしぎだと思ふ、と。いよゝゝ天の照鏡をおそれかしこみて、なかゝゝ人の中へも顏出しがはづかしくして出來ずと思ふは、去(さり)ながら、昔年暴惡の中よりして、多くの人を金銀をもおしまず、世話をしてやり、又人々の大事の場合も、助けてやつたから、夫故に少しは天の惠みがあつた故、此樣にしてまづあんのんにしているだらふと思ふ。息子がしつまい故に、益友をともとして、惡友につき合(あは)ず、武藝に遊んでいておれには孝心にしてくれて、よく兄弟をも憐み、けんそにして物を遣はず麁服にもはぢず、麁食し、おれがこまらぬよふにしてくれ、娘が家内中の世話をしてくれて、なきもおれ夫婦が少しも苦勞のないよふにするから、今は誠の樂隱居になつた。おれのよふな小供の出來たならば、ながく此(この)樂はできまいと思ふ。是もふしぎだ神佛には捨られぬ身と思ふ。孫や其子はよくゝゝ義邦の通りにして、子々孫々のさかへるよふに心がけるがいゝぜ。男は九歳からは外の事をすてゝ、學文して武術に晝夜身を送り、諸々の著述本をみるべし。へたの學問よりははるかに増(まし)だから。女子は十歳にもなつたらば、髮月代を付習ひ、おのが髮も、人手にかからぬよふにして縫はし、十三歳ぐらひよりは、我身を人の厄介にならぬよふにして、手習などもして、人並に書く事をすべし。他へかしても事をかゝず、一家を治むべし。おれが娘は十四歳のときから、手前の身の事は、人の厄介になつた事はない、家内中の者が、却々(なかゝゝ)世話になる。男子は五體を強くして、そしきをして武藝骨をり、一藝は諸人にぬき出ていを逞ましくして、且(かつ)邦の爲に極忠をつくし、親の爲には極忠をつくし、親の爲には孝道を專らにして、妻子にはしあいし、下人には仁慈をかけつつかひ、勤をばかたくして、友達には信義をもつて交り、專らにけんやくしておごらすたらずそふくし、益友には篤くしたひて、道をきゝ、師匠をとるなら、業はすこし、次にしても道に明らして、俊ほくの仁をゑらみて入門すべし。無益の友とは交るべからず。多言を云事なかれ。目上の仁は尊敬すべし。萬事内輪にして愼み、祖先をまつりてけがすべからず。勤は半時早く出べし。文武を以て農事を思ふべし。少しも若き時は道々を學ぶべし。ひま有(ある)時は、外魔が入て身をくづす。中たちの遊藝にはよる事なかれ。年寄は心して、少しはすべし。過ればおれのよふになる。庭へは諸木を植す畑をこしらへ、農事をもすべし。百姓の情をしる、世間の人情に通達して、心にをさめて外へ出さず守べし。人に藝の教授せば、弟子を愛して誠を盡し、氣に叶ぬものには猶々丹誠を盡すべし。ゑこの心を出す事なかれ、萬事に厚く心を用ひ、する時は天理にかなひておのれの子孫に幸あらん。何事も勤と覺(さと)らば、うき事はなかるまじ。第一に利慾は絶つべし。夢にも見る事なかれ。おれは多慾だから、今の姿になつた。是は手本だ。高相應に物をたくはへて、若(もし)友達か親類に不慮の事があつたならば、をしまずほどこしやるべし。縁者はおのれより上の人と縁組べからず。成丈にひん窮より相談すべし。おのれに勝るとおごりかつて家來はびんぼう人の子を仕ふべし。年季立(たち)たらば分限の格にして片付てやるべし。女色にはふけるべからず。女には氣を付べし。油斷すると家を破る。世間に義理をばかくべからず。友達をば陰にて取なすべし。常住坐臥ともにうはにして家事を治め、主人のいかうをおとすことなし。せいけんの道に志して、萬愼みて守るときは、一生安穩にして、身をあやまつ事はなかるまじ。おれは是からは、この道を守、心だなんにしろ學問を專用にして、能く上代のをしへにかなふようにするがいゝ。隨分して出來ぬ事はないものだ。それになれるとしまひにはらくに出來る物だ。理外の道へいることなかれ。身を立(たて)名をあげて家をおこす事はかんしんだ。譬へばおれを見ろよ、理外にはしりて、人外の事ばかりしたから、先祖より代々勤めつゞけた家だが、おれがひとり勤めないから、家にきづを付た。是が何寄(なにより)の手本だは。今となりて覺ていく樣も後悔をしたからとて、しかたがない。世間の者には、惡輩の樣にいはれて持(もつ)てゐた金や、道具はかしとりにあいて、夫を取にやれば、隱居が惡法で拵らへた道具だから、何返すに及ずといふし、金もまたその心持で居るから、ろくに挨拶もせずによこさぬは、吾(おれ)は向ふが尤(もつとも)と思ふ。よいかよふの事が出ても、人をばうらむものではない。みんなこちらのわるいと思ふ心がかんじんだ。怨敵には恩を以てこたへば、間違はない。おれは此度も頭よくおしこめられてから、取扱のものともをうらむだが、よくゝゝ考へて見たらば、みんなおれが身より火事を出したと、氣がついたから、まいばんまいばん、罪ほろぼしには、ほけ經をよんで、蔭ながらおれにつらく當つたと、おれが心得違だ、仁々(ひとゞゝ)は、りつしんするよふに祈つてやるから、其せいか、此ごろは、おれの體も丈夫になつて、家内のうちになにもさいなんもなく、親子兄弟とも、一言のいさかひもなく、毎日毎日笑つてくらすは、誠に奇妙なものだと思ふから、子々孫々もこふしたら、よからうと、氣がつゐた故にあかし折々出付た善惡の報(むくひ)をよくゝゝあぢはふべし。恐多くも、東照宮の御幼少の御事、數年の御なんせん故に、かくの如くに太平つゞき、萬事さかへるうれひ忘れ、妻子をあん樂にすごし、且は先祖の勤苦思ひやるべし。夫より子孫はふところ手をして先祖の貰た高をうけて、昔を忘れて美服をき、美味をくらひ、ろくの御奉公をも勤めざるは不忠不義ならずや、ここをよくおもつて見ろ、今の勤めは、疊事だから、少しもきづかひがないは、萬一すべつてころぶ位の事だ。せめては朝は早く起き、其身の勤めにかゝり、夜は心を安じて寢て淡泊のものを食し、おごりをはぶひて、諸道に心をつくし、不斷のきるいは破れざれは是として、勤の服はあかのつかざれば是とし、家居は雨もらざればよしとし、疊きれざれば是として、專らにけん素にして、よくはすべからず。儉吝の二字を味をふてすべし。數卷の書物をよんでも、心得が違ふと、やらふの本箱字引になるから、こゝを間違ぬよふにすべし。武藝もそうたふころの業を學ぶと、支體かたまりて、やらふの刀掛になる故、其心すべし。人間になるにも、其通りだ。とくよく迷ふと、うはべは人間で、心は犬猫もどふよふになる。眞人間になるよふには心懸るが專一だ。文武諸藝とも、みなゝゝ學ぶに心を用ひざれば、不殘(のこらず)このかたわとなる。かたわとなるならば、學ばぬがましだ。よくよくこの心を間違ぬよふに守が肝要だ。子々孫々ともかたくおれがいふことを用ゆべし。先にもいふ通り、おれは之までもなんにも文字のむづかしい事はよめぬから、こゝにかくにも、かなのちがひも多くあるから、よくゝゝ考へてよむべし。天保十四寅年の初冬、於鶯谷庵かきつゞりぬ。
           左衞門太郎入道
                            夢醉老』



 ・・・・何處で分斷して宜いか迷うたが爲め、長くなつてしまつた。汗。


 文中に出で來る御子息「義邦」とは、麟太郎、則ち、勝海舟翁のこと。千代田城の無血開城を果たし、徳川執政二百六十年を終局するに至らしめた幕臣である。夢醉翁は、その勝海舟翁の御尊父だ。
 世に用ゐられることなきまゝ其の一生を終へられるも、斯くみれば、「不良旗本」として周圍に恐れられた夢醉翁、單なる不法者、風來坊の人ではなかつた。

 放蕩三昧を繰り返した翁の戒め言には、言葉は亂暴粗雜と雖も、生氣が溢れ、思はず考へさせられるものが多くある。
 小生のほかにも、一讀を要する放蕩者がをられるものと察し、此の度び苦勞して抄録した次第である。苦笑。
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by sousiu | 2011-02-28 23:15 | 良書紹介

『夢醉獨言』に思ふ 上  

 嘗て江戸時代の武士に勝左衞門太郎惟寅なる放蕩者があつた。
 惟寅、幼名は龜松。勝家の養子となり小吉。隱退の後は夢醉と號す。祿高は四十一石。小普請組に屬してゐた。
 
 今日は、その彼れが四十二歳のころ著はした、『夢醉獨言』を抄録する。

 別段、深い意味も無いもので、寢る前に御時間餘まる方の、御暇つぶしに御一讀いたゞければそれで宜しとする。
 但し、夢醉翁による、相當の誤字が認められる爲め、能く々ゝ御注意のうへ御一讀されたし。
 括弧及び括弧内は小生による。



●天保十四年、夢醉翁四十二歳、『夢醉獨言』に曰く、


氣はなかくこゝろはひろくいろうすく
 つとめはかたく身をはもつべし

まなへたゝゆふへにならふみちのへの
 露のいのちのあすきゆるとも


 おれほどの馬鹿な者は、世の中にあんまり有まいと思ふ。故に孫やひこの爲にはなしてきかせるが。能く不法もの馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。おれは妾の子で、はゝ親が親父の氣にちかつけ、おふくろの内(家)で生れた、夫(それ)をほんとふのおふくろが引取て、うはてそだてゝくれたが、がきのじぶんより、わるさ斗(ばかり)して、おふくろもこまつたと云ふ事だと。夫におやぢが日きんの勤め故に、内には居ないから、毎日々々わがまゝ計りいふて強情故、みんながもてあつかつたと、用心の利平治と云(いふ)ぢゞいが話した。其時は深川のあぶら堀と云ふ所に居たが、庭に汐入の池が有て、夏は毎日毎日池にばかりは入(い)つてゐた。八ツにおやぢが御役所より歸るから、其前に池より上りしらぬ顏で遊んで居たが、いつもおやぢが池のにごりてゐるを利平ぢゞにきかれると、あいさつに困つたさふだ。おふくろは中風と云(いふ)病ひで、立居が自由にならぬ。あとはみんな女計りだから、ばかにしていたづらのしたいだけして、日をおくつた。兄きは別宅してゐたから、なにもしらなんだ。おれが五ツの年、前町の仕事師の子の長吉と云(いふ)やつと凧けんくわをしたが、向ふは年もおれより三つばかり多きい故、おれが凧をとつて破り、糸もとりおつた故、むなぐらを取て、きりいしで長吉のつらをぶつて故、くちびろをぶちこはして、血が大そう流れてなきおつた。そのとき、おれが親爺が、庭の垣根から見ておつて、侍を迎ひによこしたから、内へかへたら、親父がおこつて、人の子にきづをつけてすむか、すまぬか、おのれのよふなやつはすておかれずとて、縁の柱におれをくゝらして、庭下駄であたまをぶちやぶられた。いまにそのきづがはげて、くぼんでゐるが、さかやきをする時は、いつにても、かみそりがひつかかつて血が出る、そのたび長吉の事を思ひ出す。
 おふくろがほふぼふより來たくわし(菓子)をしまつておくと、ぬすみ出して食てしまふ故、方々へかくしておくを、いつもぬすむ故、親父にはいはれず困つた、逸體はおふくろがおれをつれて來た故、親父には、みんなおれがわるいいたづらはかくしてくれた。あとの家來は、おふくろをおそれて、親父におれが事は少しもいふことはならぬ故、あばれほふだいだつた』

『おれが名は龜松と云、養子にいつて小吉となつた。夫から養家には、祖母がひとり、孫娘がひとり、兩親は死んだ後で、不殘(のこらず)深川へ引取り、親父が世話をしたが、おれがなんにも知らずに遊んでばかり居た。此年にたこにて、前町と大げんくわをして、先は二三十人ばかり。おれはひとりでたたき合、打合せしがついにかなはず、干かばの石の上に、はおいあげられて、ながさをで、したゝかたゝかれて、ちらしがみになつたが、なきながら脇差を拔きて、きりちらし、諸せんかなはなく思たから、腹をきらんと思ひ、はだをぬいで、石の上にすはつたら、其脇に居た白子やと云ふ米屋がとめて、内へおくつて呉れ、夫よりして近所の子供がみんなおれがてしたになつたよ。おれが七つの時だ』

 夢醉翁は幼年時代から斯くの如く、やりたい放題、亂暴三昧であつたと云ふ。

 少年へと成長してからも、夢醉翁の亂暴は一向に收まらず、そればかりか放蕩も加はり更らに不孝者となつてゆく。翁は再三、「武者修行に行く」と云つては家を飛び出し、放蕩に明け暮れ借金を拵へては戻つてくる。このころの記述は長文であるので、割愛する。
 夢醉翁の兄は困まり果て、三疊の部屋を座敷牢にして、翁を閉ぢ込めた。夢醉廿一歳の秋から廿四歳の冬までの約三年間である。これによつて翁の少年、青年時代の放蕩が如何に家族を惱ませたかが察せらるゝ。當時を振り返り、夢醉翁の曰く、『~内へ歸つたら、座敷へ三疊のをりを拵へ置て、おれをぶちこんだ。それから色々工夫をして、一日もたゝぬ内、をりの柱を二本ぬけるやうにして置いたが、能々考た所が、みんなおれがわるいから起たことだと氣がついたから、をりの中で手習を終て、夫から色々軍書本も毎日みた。友達が尋て來るから、をりのそばへ呼で、世間の事を聞て頼(たの)しんで居たら、二十一の秋から二十四の冬迄をりの中へはいて居たが苦しかつた』と。

 その後も翁の放蕩は絶えることなく、續いた。凡ゆる放蕩生活、浪人生活を繰り返し、社會の辛甘を嘗め盡した。
 しかし放蕩者・夢醉は晩年に至り、突如、我が身を省みる。而してこの「夢醉獨言」は書き綴られた。
 「夢醉獨言」は上記の如く、夢醉翁半生の懺悔録だ。以下は達觀後の彼れの子孫に宛てた戒め言を抄録したい。

 ~續く~
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by sousiu | 2011-02-28 20:02 | 良書紹介