カテゴリ:良書紹介( 56 )

一艸讀後  ~靖獻遺言精義~ 四 承前  

 「靖獻遺言」について長くなつてしまつたが、これはあくまでも日乘なので、靖獻遺言の内容について記すことが本旨ではない。固より、小生が淺薄な理解力で内容を語り、不本意ながらも曲解を弘めることなきにしもあらず。從つて、諸賢に對しては御一讀を御奬めするのみとする。

 「靖獻遺言精義」を拜讀し、小生の記したかつたことは、遂ひに、今日これからのことにある。

●靖獻書屋主人の曰く、
『王政復古、明治維新後に於いても、「靖獻遺言」の一書はなほ國民の間に喜び讀まれて居つた。殊に志を君國に存する青年にとつては、愛讀といふよりは寧ろ耽讀の對象として、青年の士氣を鼓舞し、所謂節義思想の涵養に資すること大なるものゝあつたことは、明治初年に青少年期を送つたーーー嘗て君國の爲めに、自己が屬する社會に於いて夫々果敢なる健鬪をなし、今や國民の老先輩として崇敬されつゝあるーーー人々の、異口同音に唱へられるゝ所である。
 此の當時に於ける、「靖獻遺言」の使命は、幕末期に於いて果したる夫れとは、既に其の形態を異にしてゐることは見逃してはならぬ點である』

『先に尊王倒幕、王政復古の指導者となり、後には倒幕に代る節義思想鼓吹、士氣振作の教典となつた「靖獻遺言」の影響について語る時、我等が忘るべからざる一事がある。それは嘗て儒教を我が國に傳へたる支那が、自國の史籍に材を採れる此の「靖獻遺言」を翻刻し、之によつて國民精神の作興を計つたこと、これである』

『斯くて、支那國民中の賢明なる人々は、老頽自國の病弊を反省すると同時に、日本發展の原因を研究せんとする熱望に燃えた。我國より多數の教育家を招聘したる支那に於いて、或は大量の留學生を我邦に送り來りし支那に於いて、當時彼等が如何に自國甦生の爲に努力を拂ひたるかを知ることが出來る。
 自國の甦生策は、日本の明治維新に倣はんのみーーー日本史、特に維新史研究の爲に往年の留日支那學生が如何に努力を拂ひたるかは周く人の知る所。彼の中國革命の如きも日本の明治維新が遠因をなして居るーーー其の失敗に終りたる原因は國體國民の相違は勿論ながら、彼等が中途にして淺薄なるアメリカ心醉と蘇聯模倣に奔りたることにあるーーーのである。

 淺見絅齋先生の「靖獻遺言」が支那に於いて、而も北洋武備研究所に於いて印行せられたるは、實に斯かる日本、特に明治維新の指導的原理を究めんとせし、彼等の努力の一證である。之が初めて出版せられたる徳宗皇帝の光緒三十二年が、我が國が大捷を博したる日露戰爭の翌年、明治三十九年に當ることも、實に興味ある事實であるが、斯く「靖獻遺言」によりて、所謂儒教精神は遂に支那に逆輸入されるの結果となり、支那人學者も亦之によつて自國の歴史を見直さんとしたことは、現北京大學教授黄節氏等が、嘗て「國粹運動」を企てたる一事に於いても證し得る所にして、黄節氏の如き、其の著「劉因傳」(國粹學報第三册)の前後『靖獻遺言』に據つて之を書いて居るのである。
 又以て「靖獻遺言」の中外にほどこして悖らざる聖典たることを知るべきである』と。



 續く
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by sousiu | 2011-02-16 20:26 | 良書紹介

一艸讀後  ~靖獻遺言精義~ 三 承前  

 えゝと、一日目が、山崎闇齋先生について、二日目が淺見絅齋先生について、だつた。
 そこで三日目の今日は、愈々、淺見絅齋先生の代表的な一書「靖獻遺言」について、だ。

● 文學博士 井上哲次郎翁曰く、
『絅齋はいろゝゝ著述もあつたのであるけれども、其の中で最も廣く購讀されたのは「靖獻遺言」であつた。「靖獻遺言」は支那の忠臣義士にして、模範とすべき人八人を選んで、其の事蹟と其の詩若しくは文等を擧げて、且つ是れに關する議論を加へて、八卷として纏めたのである。
 その選んだ八人といふのは屈平、諸葛亮、陶潛、顏眞卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺である。いづれも人をして感奮興起せしむるやうな事蹟と文字とを遺した人であるからして、此の書を讀んで感動涕泣せざる者は恐らくは一人も無からう。若し感動涕泣せざる者があつたならば、其れは低腦兒か無神經の人であらう』

『思ふに絅齋が日本の「靖獻遺言」を編纂したい考へであつたであらうけれども、それは當時事情が許さなかつたのである。然れども今日は事情一變して、日本の「靖獻遺言」を編纂するのに何等顧慮するところは無いのである。即ち和氣清麿であるとか、それから菅公だの楠公だの、あゝいふ人を擧げ、それから徳川時代になつては山鹿素行、及び赤穗の義士、それから山縣大貳、武内式部それから吉田松陰だの、橋本左内だの、平野國臣だの、あゝいふ人々を擧げて日本の「靖獻遺言」を編纂することは最も必要なことである』と。



 淺見絅齋先生、忠臣義士の草稿を御決心なされるに曰く、
●『空言ヲ以テ義理ヲ説クモ、人ヲ感動セシムルコト薄シ。事蹟ヲ擧示シ、讀ム者ヲシテ奮然トシテ感憤興起セシムルノ愈レルニ如カズ

此書ハ忠ノ一字ヲ天下ニ宣傳スルモノナリ

此ノ書ハ、以テ天下ノ士ノ護身符トナスベシ、苟モ此ノ書ヲ讀ム者ハ、如何ナル亂離ノ世ニ遭フトモ狼狽スルコトナク、又不忠ノ念ヲ起ス者ナカラン』と。


 淺見絅齋先生、我が國の忠臣義士を綴れる初稿の擱筆に想到すれば。苦衷を吐露して曰く、
●『幕府開祖以來、楠・新田・菊池諸公ノ如キ、忠臣踵ヲ接シテ出ヅ。此等諸公ノ忠烈ヲ表顯スルトキハ、幕府ハ當然賊タラザルベカラズ。徳川將軍若シ此ノ書ノ幕府ヲ以テ賊ト爲スヲ見バ、自己ニ害アリトナシ、必ズ發行ヲ禁止シ、版木ヲ毀滅スルヤ明ラカナリ。然ラバ折角ノ志望モ、水泡ニ歸スルニ至ラン』と。

 上記の如く當時の事情を慮り、前稿の發刊を斷念せざるを得なかつたといふ。その切齒たるや小生どもの想像に倍するであらう。而して、
『如カズ、漢土ノ忠臣義士ヲ表彰センニハ』と。貞享元年(紀元二三四四年)より同四年の、四年にわたる歳月を費やし書き上げたものが「靖獻遺言」である。


 因みに「靖獻」といふ二文字は、「尚書」微子篇にある『自ラ靖ンジテ人自ラ先王ニ獻ズ』の詞に基く。

●靖獻書屋主人の曰く、
『「靖獻遺言」八卷こそは、支那文物渡來以來の直譯的儒教をして、純正日本的儒教たらしめたる山崎闇齋學派の、最も神髓とせる所を把握せる(絅齋)先生によつて、純正日本的なる、所謂皇道に醇化せる儒教の指導原理を集大成されたものと目して可なるべく、從來、幕府の理論的擁護者たりし儒教が、嚴格なる意味に於いて、最初に幕府否定の理論を提供せる、劃期的著述として擧示されるべきであらう。
 されば、此の「靖獻遺言」を措いて、皇道に醇化せる儒教を説くの不可は固より論なく、大義名分を明確にし、勤王思想を鼓吹し、王政復古を唱道し、以て明治維新の因をなせしものとしての本書の地位は、北畠親房の「神皇正統記」に繼ぎ、頼山陽の「日本外史」「日本政記」に先ち、水戸義公の「大日本史」と併稱せらるべきであらう』と。


●淺見絅齋先生の御高弟の御一人、中山專庵翁曰く、
遺言八篇ハ則チ前世未發ノ忠經、天下後世ノ人ヲシテ感奮興起シ、以テ忠ヲ竭シ、義ヲ秉ルコト有ラシム、亦百世ノ師ニ非ザルカ。
三綱ヲ千百世ノ上ニ振ヒテ、亂賊ヲ千百世ノ下ニ懼レシム、是ニ於テカ天下ノ君タル者定マレリ。其ノ國祚ニ大功アル者、震蕩磅礴、天地ト與に無朽タリ
』と。

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 續・・・・いてもいい?汗。
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by sousiu | 2011-02-15 16:22 | 良書紹介

一艸讀後  ~靖獻遺言精義~ 一   

●靖獻書屋主人・法本義弘先生『靖獻遺言精義』(昭和十八年十月卅日「國民社」發行)に曰く、
『馬上天下を獲たる徳川幕府の、庇護獎勵に依りて、燦然として我邦に咲いた漢唐宋の所謂儒教文化は、徳川初期に於いては、馬上に獲たる徳川の天下を口舌を以て治めるために、換言すれば徳川幕府擁護のために、重大なる役目を果した。此の時に當つて、儒教そのものは完全に幕府の御用學に墮して居たものゝ如くに考へられる
 上下主從を規矩することに於いて、徳川幕府擁護の具たりし儒教が、幕府馬上の權の衰ふるや、一轉して儒教本來の革命的指導原理「王霸の辨」となり、王たる天朝のために霸たる幕府を打倒すべしとの理論を提供し、幕末維新時にかけて、王政復古將來への指導的地位を獲得せることは、日本史の示す通りである

『「林家の學」が其の意識せると意識せざるとを問はず、御用學なる象牙の塔に在つて、學問的にも思想的にも、且又實踐的にも、算術的發展を辿りつゝあつたに反し、處士學たる「崎門學」は、自由、活溌なる其の幾何學的發展乃至は飛躍によりて日本的ーーー皇道に醇化せる儒教を樹立し、幕末維新に當つては、儒教各派中、眞つ先に理論的中樞的なる指導的地位を鬪ひ取つた。從つて、日本的儒教ーーー即ち皇道に醇化せる儒教を説くに當つて、此の「崎門の學」は先づ其の首位に置かるべく、之が創始者たる山崎闇齋の名の永遠に銘記せらるべきは、固より言ふを俟たぬ

『山崎闇齋の「内外華夷の辨」とは、當時、儒者を風靡しつゝあつた支那崇拜思想ーーー支那崇拜の餘、支那を中國とし我邦を夷狄とする拜外自屈思想ーーーに鐵槌を下せるものとして、即ち文學博士佐伯好郎先生の所謂「大日本國民が『自我』の聲を揚げたもの」として永遠に重大なる意義を有する』

『支那文物の渡來以來、「文化的には專ら支那思想と支那儒教との指導に服した」我が邦人が、「精神的にも宗教的にも、藝術的にも、文字の上でも衣食住の上でも、多く支那文化を崇拜して止まなかつた」ことが歴史的事實なる限り、直接支那文化を取扱ひ、之が紹述の任に當つた儒者達が、支那崇拜に趨り、之を批判するに遑なかつたことは、寧ろ當然過ぎる當然であつたかも知れぬ。
 斯く、孔孟を措いて聖賢なしとせし時代の儒生達に向つて、孔子ヲ以テ大將トナシ、孟子ヲ以テ副將トナシ、我ガ邦ヲ來リ襲フアラバ如何」と問ひ、諸生の敢へて答へざるを見て、「我ハ奮戰、孔孟ヲ擒ニシテ以テ國恩ニ報ゼン、是レ即チ孔孟ノ道ナリ」と喝破せる闇齋に於いて、我等は日本化したる儒教精神を見、儒者山崎闇齋の聲ならぬ、日本國民しかも完全なる「自我」に目覺めたる日本國民の聲を聞くの思がするのである

『既に闇齋の學が日本的儒教なる限り、崎門に於いて紹述されたる儒教の指導的原理は、幕府擁護理論であり得る筈なく、當然幕府打倒の指導原理であり、章句の如何よりも實踐躬行を眼目となせる崎門の學なる限り、其の教理は單なる机上の學説たるに止まり得る筈なく、此の徒によつて紹述せられたる幕府打倒の指導原理は、やがて幕府倒壞への實行運動となり、白刃と鮮血とを以てする果敢なる尊王倒幕運動となつたこと勿論である』と。
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by sousiu | 2011-02-09 04:26 | 良書紹介

『山口二矢供述調書』

 十一月十日。

 本日は午前中から展轉社へ伺ひ、「山口二矢供述調書 ー社會黨委員長淺沼稻次郎刺殺事件ー」(平成廿二年十一月二日『展轉社』發行)の封詰め、及び發送作業に精を出す。
 三澤浩一、福田邦宏兩先輩と荒岩宏奨兄、弊社の藏重貴總君の五人だ。

 過日、顯彰事業として弊社電腦瓦板でも有志を募つた「『山口二矢供述調書』出版ご協贊の御願ひ」にて、御協贊を賜はつた方々に御進呈する爲めのものだ。今日で全ての發送を終へた。
 御發送が遲れてしまひ、各位にはひたすら深謝申上げます。
 小生宛てに御問ひ合せもあり、皆樣方に於かれましては、何卒、御寛恕あらむことを。

 亦た、「山口二矢供述調書」は全國の書店で販賣される爲め、同志の皆樣には御一讀を御奬めするものである。
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 夕方戻り、二、三の所用を濟ませて、先程、來月號の「芳論新報」を脱稿。原稿の發送をコンビニに御願ひした。
 内容は本日、取り調べを受けた海上保安官の映像流出問題から、民主黨政權について、だ。三千字。
 一昨日から寢てゐないので、漸くこれからゆつくりと寢ることが出來るのだ。

 おやすみなさい。
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by sousiu | 2010-11-11 03:36 | 良書紹介

『宣戰の大詔』より抄出 貳  

  承前
●徳富猪一郎翁、『宣戰の大詔』第十三項「日本の攘夷と正當防禦」にて曰く、
『これは正しく云へば、積極的攘夷と云つても差支あるまい。日本は何故に蝦夷を平げたる乎。何故に熊襲を平げたる乎と云へば、我が大八洲は天孫の治しめす地域であるに拘らず、其地を侵略せられ、若しくは其地に蟠居し、皇化に服せざるが故であつた。元の來寇に當つても亦た同樣である。
 即ち朝鮮問題に於いて、初めに支那と相戰ひ、後に露國と相鬪つたのも、朝鮮は所謂る我が外府にして、日本の治安を保つ爲には、外國の勢力を此處に入れる事が、絶對に不可であつたが爲である。
 今日の大東亞戰爭の如きも、我等が米英兩國に向つて、侵略するのでは無い。彼等が百年來東亞の土地を侵略し、東亞十億の民族をして、其生を保ち、其業に安んずることを得ざらしむる爲に、我國は自ら大なる犧牲を拂つて、我が東亞の同胞の爲に、此の外來の勢力を掃攘するものであつて、如何なる場合に於いても、日本の攘夷は正當防禦の範圍を越えた事は無い。 但だ正當防禦なるものは、消極的ばかりの防禦では、防禦の實を成す事が出來ない。防禦の完全を期するには、攻むるを以つて守るとし、戰ふを以つて和するとせねばならぬ。我等はそれ以上に出た事は無い。
 然も我が皇國が如何に連戰連勝したりと雖も、我等は米國の大陸を占領して、其の内地に踏み込み、其の土地を我に分割せんとする者ではない。これは同時に又た英國に對しても然りである。但だ我等の言ふ所は、『汝等速かに本來の面目に立還れ』といふに外ならない。攘夷の意味は全く其通りであつて、此の精神は神武御東征以來、今日迄毫も變更するところのものが無い。更に溯つて云へば、出雲讓國以來の事である。
 同じく攘夷をするにも、出來得可くんば、平和的の攘夷が必要である。故に我等は大東亞戰爭の開始に先んじ、長く且つ久しく平和談判を、アングロ・サクソン人に向つて仕向けたのである。然も彼等が増慢、我が恭謙の態度を濫用して、愈々暴壓慢侮を逞しくし來つたが故に、我等は已むを得ず干戈に訴へるに立至つたのである。
 これは聖敕に明白に掲げられてあつて、恰も日月の天に麗るが如く、明白である』と。
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by sousiu | 2010-11-10 01:19 | 良書紹介

『宣戰の大詔』より抄出  

●蘇峰 徳富猪一郎翁、『宣戰の大詔』(昭和十七年三月八日「東京日日新聞社」發行)第十ニ項「明治維新と尊皇攘夷」に曰く、
日本の國體は皇室中心であり、日本臣民の道は 皇室に向つて忠を盡す事であり、其他の事は總て此の大本、大體より割出し來るところの條目である。今日では君と云へば、天皇陛下で在すといふことは、國民學校の生徒さへも、能く承知してゐる。然るに明治の初期頃までは、尚ほ君と云へば、藩主の外には無いものと思ひ、例へて云へば、藩主が父であり、將軍は祖父であり、畏れながら 天皇を以つて曾祖父に擬したるものさへあつた。然るに其の舊來の陋習を一新する事が出來たのは、全く明治維新の賜物と云はねばならぬ

   ×  ×  ×

 明治維新の改革運動は、全く尊皇攘夷の題目に依つて出で來つた。尊皇に就いては、固より天壤無窮に治しめす天皇を尊ぶ事であつて、天皇の外に君は無いといふ、即ち一君萬民の本來の面目に立戻る事であつて、それ以外に説明する必要も無ければ、それ以上に研究する必要も無い。
 併しながら攘夷の問題に至つては、多少の解釋が必要である。攘夷と云へば、夷狄を追ひ拂ふといふ意味であつて、之を排外思想の表現視するは免がれぬ所であるが、それは支那流の攘夷である。支那が即ち支那の周邊に群がる東夷西戎、南蠻北狄と稱する者に對する防禦を意味するものと、明治の大改革を請來したる攘夷とは、大いに趣を異にしてゐる。
 日本の攘夷は決して排外では無い。排外どころか日本は凡有る外國の人でも物でも、之を招撫し、之を綏服せしむる事を事としてゐた。即ち世界萬國の民をして其所を得しめ、世界萬國の民をして其堵に安ぜしめんとするが、即ち我が皇道であつて、排外は我が皇道とは絶對に相容れないものである。

   ×  ×  ×

 從つて日本の攘夷は、排外でない事は明白である。日本の攘夷は即ち外國の勢力を以つて、日本を侵略し、日本の國體を冒涜し、若しくは日本の國權を蹂躙し、若しくは日本の國利民福を阻害するものに對して、之を掃討するの意味である。
 即ち蝦夷の亂を平げたのも、攘夷である。熊襲の亂を平げたのも攘夷である。元軍百萬の兵を討掃したのも攘夷である。而して廣義に云へば、明治二十七八年戰役も、三十七八年戰役も、乃至は滿洲事變、支那事變も、又た大東亞戰爭も、皆な攘夷の意味を擴充したるに外ならない
と。

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by sousiu | 2010-11-09 00:06 | 良書紹介

理想的田舍漢のすゝめ

 小生は田舍者である。
 自宅は神奈川縣藤澤市といふところなり也。田畑も多く、狸と遭遇することも希有ではない。
 小生は幼稚園兒のころ、横濱市より藤澤市に轉居し、爾來、現在に至る。
 最近こそ兔も角、少年時分、近所には本當に何も無かつた。『やまか』といふ小さな店があつたのみである。
 それを餘り不便と感じなかつたことが、田舍者の田舍者たる證明である。

 今でも田舍者であることに聊かも劣等感なぞ抱いてをらぬけれ共、昨夜拜讀した『靜思餘録』(徳富猪一郎先生著、明治廿六年五月一日「民友社」發行)にて、田舍者に關する記述があり。思ふところありしが爲め、こゝに紹介したい。全國の田舍者よ、田舍者であるをおほいに自信持つ可し。

徳富蘇峰翁曰く、
人の常に輕蔑するは田舍漢なり。彼れ武骨なり、木強なり、王侯貴人の爲に悦ばれざるなり。貴女の爲に愛せられざるなり。彼は小説の世界に於てすら贔負少なき人物なり。況んや現實の交際社會に於てをや。一杯の葡萄酒も彼の爲に酌む者あらざるなり、一片の笑渦も彼の爲に獻する者あらざるなり』と。

・・・・いや。汗。翁の言も多少過ぎたるに。現在而已ならず、明治の御代に於ても、果して田舍者がこゝまでの扱ひを受けたる乎、否乎、眞相は識らない。
 而して翁は健筆を重ねられる。


 曰く。『~維新の革命に際してや、其の戰勝者たる月桂冠は何人の頭上に屬せしか。彼の楊枝以て箸と爲し、蜆の殼を以て椀となし、一粒の米を截分して之を喫する竹取姫然たる公卿、大名、若くは月代狹くして黒髮漆の如く、金銀作りの太刀を着け優倡然たる徳川武士にあらずして、却つて寒山霜を蹈んで狡兔を追ひ、茅屋に月を帶びて夜書を讀む所の西郷隆盛及び、彼を奉戴したる所の薩摩武士にあらずや』。

 曰く。『西郷隆盛は固より田舍漢たりしなるべし。彼れ未だ曾て西洋料理を喫するの法を知らざりしなり、聞く彼は實に斯の如き大口を開き小兒が梨を喫するがごとく麺包を喫したりと。彼は實に斯の如き人たりしなり。然れども斯の如き人たりしと雖も、彼も其一世の元勳たるに差支へざりしなり』。

 曰く。『田舍漢は何が故に斯の如く天下の大事を負擔するに堪ゆるか。彼れ爲す可き所を知れはなり。彼れ爲す可き所を行へはなり。彼れ道行きに頓着せされはなり。彼れ直截なれはなり。眞摯なれはなり。一氣奔注すれはなり。堅忍不拔なれはなり。紛々たる邪念俗慮の彼を煩はすものなけれはなり。失敗を恐れされはなり。成功に滿足せされはなり』。

 ふむふむ。更らに翁の言は進む。

 曰く。『吾人は嘗て化石谷なる者あるを聞く、其の谷に投すれば、木葉を投するも、木片を投するも、蟹を投するも、魚を投するも、總て忽ち石に化すると云へり。而して世に腐敗谷と云ふ者あり、一度ひ之れに投する時には、如何に頑石の如き田舍漢も、忽ち豆腐よりも柔かなる物體と爲る者なきにあらず。 ~中畧~ 吾人は我邦現今の都人士に對して更らに一言する所なし、然れとも世の田舍漢にして都人士を學ぶ人に向ては、一言せざる可らざる者あり。彼等は何が故に都人士を學ぶや。何の必要ありて都人士を學ぶや。何の欲する所ありて都人士を學ぶや。何の耻る處ありて田舍漢たるを欲せざるか。卷煙草を薫せされは以て一國の人民たるの資格には不足するか。葡萄酒を飮まざれば以て一國の國民たる資格には不足するか』。

 翁曰く。『彼れ田舍紳士よ、何ぞ都人士を學ばんとするや。彼れ田舍書生よ、何ぞ都人士を學ばんとするや。吾人は今日に於て變生都人士の日にまし増加するを見て、轉た浩歎に堪へざるなり。吾人か斯の言をなす所以のものは何そや。吾人か都人士を重んするの少きにあらず、田舍漢を要するの多ければなり』。

 翁結語にて曰く、『彼れ田舍漢なる者は、身健にして氣剛なり、彼は上帝の外恐るべきもの有るを知らず、彼は眞理の外服從すべきもの有るを知らず。彼の心は純白なり。彼の擧動は質樸なり。彼は冠冕の榮たるを知らず。麥藁帽子の何たるかを知らず。彼は何事の大事なりやを知らず、又た何事の小事なるやを知らず。彼は唯た日常爲さゝる可らざることを行ひ、自家の着歩する所よりして、歩一歩づゝ前面に向て進行するのみ。 ~中畧~ 彼は其の己に向て媚るを悦びず、何ぞ況んや彼に向て媚るを悦ばんや。彼は其の己に向て腰を折るを欲せず、何ぞ況んや人に向て腰を折らんや。彼の智識は深遠なるに非らず、然れとも適切なるなり。彼の辨舌は流暢なるに非らず、然れとも眞率なるなり。其の行くや風のごとく、其の止るや山のごとく、其の天眞爛漫たるや烈火の燃るが如くなり。清泉の迸しるが如くなり。嚴角屼立、朽葉積々たる地にも、尚ほ清泉は迸しり出るなり、焦土山をなし、炭塊堆を爲す時に於ても、尚ほ猛火は炎々として燃ゆるなり。彼の容貌風采は粗硬なり野鄙なりと雖も、其の光々明々たる精神は、之を透して、美絶、壯絶たらすんはあらず。吾人は斯の如き人を以て單に田舍漢とは謂はず、然れども之を以て理想的の田舍漢と謂ふ』と。
(※太字は蘇峰翁御自らによる)


 先日、火の國の住民たる志友と電話で會話したらんに、小生、彼に關東への移住を獎めた。
 固より輕い氣持ちの會話であり、彼も本氣にするまいが、それでも上記した蘇峰翁の文章を御借りして訂正せねばなるまい。
 翁も火の國の住民。加之、理想的の田舍漢だ。かの國に於て大江義塾も設立した。

 田舍漢は理想的田舍漢を志す可きである。

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by sousiu | 2010-09-17 00:30 | 良書紹介

家庭小訓

 徳富蘇峰翁の『家庭小訓』を拜讀。
 風來坊の小生には耳に痛き話しの盛澤山であつた。
 書き留めておきたい小話しがあつたので書き留めて置くことにした。

『家庭小訓』(大正十三年二月廿五日「民友社」發行)〔書物の外にも學問あり〕項に翁の曰く、
『學問とて、六ヵ敷書物を讀み、六ヵ敷數字を識り、六ヵ敷理窟をいふことのみに限らず。總て智慧を殖し、徳を磨き、身を潔うし、品を高うし、立派なる人間となるは、學問の道と知る可し。故に何人にても、學問に心掛けねばならぬなり』

 曰く、『(中畧)凡そ目より入り耳より來るもの、何物か學問の材料たらざる可き。世界は大學校なりとは、洵に此上なき名言にあらずや。若しその心掛けあらば、下女の言葉にても、車夫の話にても、小兒の無邪氣に爲す事にても、皆な我が學問の材料とはなるなり』

 曰く、『(中畧)平たく云へば、心掛けの善きとなり。病人に接しては、看護の法を學び。小兒に接しては、育兒の法を學び。家に於ては、家事經濟を學び。臺所に於ては、料理法を學び。下女下男を使うては、人情を學び。その他日々の出來事、皆な學問とならざるはなし』と。


 ……成程。

 他の項では〔手紙の事〕抔、巨大なペンダコを養育してゐる小生にとりて頷ける項目もある一方、〔健全なる身體、健全なる家庭〕〔堪忍〕〔家庭教育〕〔一家の秩序〕抔等、訓み進むにつれ、概して小生の心中を暗くさせるものばかりであつた。
 例に擧ぐれば、『朝起きをなし、夜深しをするなと云ふことなり』と。かうしてゐる今も小生、事務所にゐて、煎餠と煙草を交互に、時は既に三時だものなア。汗。
 まア、『家庭小訓』であるから小生の耳が切なくなるのも仕方ないか。とほゝ。

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『家庭小訓』。附箋の餘りにも尠きを見給へ。“蘇峰翁とて小生を變へるに容易ならざる”てこと。苦笑。
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by sousiu | 2010-08-08 03:17 | 良書紹介

日出る國

 本日も聊か長文となるが、閑暇の折、諸賢の御一讀賜はりますことを。

清原貞雄博士『日出る國』(昭和四年十月十五日「精華房」發行)[東洋文明の淵叢]項に曰く、

『我が天孫民族がその大なる包容力と同化力とを以て多くの異民族を包容同化して大和民族と呼ばるゝ一大民族を構成した事は既に述べた所である。我が國民がその大なる包容力と同化力とを示す事が出來たのは啻に他の民族的要素に對してのみでは無い。他の種々の文化的要素に對しても同じ能力を充分に示して居る。

(中畧)我國は大陸の東端、島嶼の上に國を成して、航海術の發達せざる古代に於て永く孤立の有樣にあつた結果、文化の發達は、大陸諸國に比して遙かに後れて居つたのは止むを得ない事であつた。支那かぶれの一部儒學者が論じたやうに、支那の文化を輸入する前の我が國民は全く禽獸に等しき生活を營んで居つたと云ふ事は誤つた觀察であるにしても、支那に於て既に聖人の道開け、文字を使用し、天文學發展し、音樂を樂しみ、整備せる制度存し、或は指南車を用ゐ、或は萬里の長城を築く等驚くべき文化の發達を見た時代、印度に於て、廣大無邊なる佛教哲學の發達した時代、我國は未だ文字の使用を知らず、獸皮を着、穴に住む習俗尚ほ一部に殘つて居ると云ふ有樣であつたのである。
 然るに、それら進んだ大陸文明が我國に輸入せらるゝや、我國民の強烈なる研究心と、驚嘆すべき理解力と、大なる容包力と、換骨奪胎、之を自家藥籠中のものたらしむるに勝れたる特殊の才能とは、新しく輸入せられた大陸文化を忽ちに同化し、我固有の文化と融合せしめてこゝに一種の新しき日本文化を構成するに至つた。

(中畧)たゞそれは一面の眞實を含むまでゞある。之れを其のまゝ承認して我日本文化の價値を否認し去らんとするが如きは甚しき謬想である成る程我國は多くの外來文化を採り入れて居る。もし之をたゞ模倣的に採用したゞけであつて何等國民的色彩を之に施す事が出來なかつたならば日本の文化史には何等の價値もないと云へるであらう。然るに我國民の優秀なる精神力は決して斯樣な事を以て滿足したのでは無い。如何なる外來文化も、その強大なる同化力を以て必ず日本的のものたらしめなければ止まない。一面に於ては次々に押し寄せて來る外國文化の流れを悉く攝取して一も排斥せず、悉く之れを日本文化發達の資材たらしむる事に於て多々益々辨ずる事は我が國史上の一偉觀であつた。而も之に壓倒せられて在來固有の文化を養ふといふやうな事は決してなかつた
 斯くして廣大なる東洋の文化は、千數百年の歳月を經て悉く我が日東帝國に合流し、こゝに東洋文明の一大淵叢を作つたのである。

(中畧)固より歴史上の事實としては、外來の文化的要素を採り入るゝにその態度を誤り、無自覺なる模倣を事とした事がなかつたとは云へない。然し大體に於て吾等の祖先はよく國民的自主精神を把持し、外來文化に征服せらるゝ事なく、よく之を征服する事が出來た結果、上述の如く我國をして東洋文明の淵叢たらしむる事が出來たのである。
 明治維新以後、泰西文明を新に輸入する事になつてからは、新の綜合的東洋文明に加ふるに、新に全く性質を異にした所の文明を添加した。此新しき要素は輸入開始以來既に六十年餘年を經過した今日、幾分之を同化して、新日本文化の内容たらしむる事が出來て居るとは云ひながら、混一融合と云ふ點に於て未だ十分であると云ふ事は出來ない。國民の中には往々にしてその外來文化に征服せられんとして居るものもないとは云へない吾等は吾等の祖先に學び、新に輸入せられつゝある西洋文化をも完全に征服する事に依つて從來の如き、綜合的東洋文化の把持者から、更に躍進して必ず綜合的世界文化の把持者となる事を期し、十分なる自尊と自信とを以て奮勵努力する所がなければならぬ』と。

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by sousiu | 2010-08-04 18:21 | 良書紹介

『神皇正統記』

『神皇正統記』について。大川周明博士の言を拜借しこゝに御説明申上げたい。

大川博士曰く、
「後醍醐天皇の建武中興は、假令囘天の偉業中道にして挫折したとは言へ、まがふべくもなき日本精神の勃興なるが故に、この精神の最も見事なる結晶として、北畠親房の『神皇正統記』が生れた。平安朝の末葉より鎌倉時代の初期にかけて、國史を等閑に附したることは、必然國體觀念の昏瞑を招き、今よりして之を想へば、到底許し難き思想が行なはれて居た。例へば慈鎭和尚の『愚管抄』に現はれたる思想である。慈鎭は關白藤原忠通の子であるが、其の著書の中には 天皇のことを皆『國王』と書き、甚だしきは禮記の百王説を其儘信受して『皇統百代限り』といふが如き妄誕至極の言をなし、實に『神の御代は知らず人代となりて神武天皇以後百代とぞ聞ゆる。既に殘り少なく八十四代にもなりける』とさへ述べて居る。八十四代と申すは順徳天皇のことにして、いま十六代にして日本の皇統は亡ぶといふ驚くべき思想である。かくの如き時代の後を承け、わが北畠親房が『大日本は神國なり』と高唱し、神胤永く此世に君臨して、天壤と共に無窮なるべきことを明確に力説したのは、正に一句鐵崑崙、虚空をして希有と叫ばしむるものである。まことに神皇正統記は、前に遠く建國創業を望み、後に遙か明治維新を呼ぶところの國史の中軸にして、此の書一たび出でて大義名分の存するところ、炳乎として千載に明らかになつた」(日本二千六百年史「第一書房」昭和十四年七月五日發行)と。

 目下の怪しげな保守派と稱するものゝ中に、日本が滅するやら、皇統がどうなるやと口に出すも穢らはしき言を放ち、惡戲に人心を煽動する輩がをる。本屋では一般に右翼と間違はれるやうな者らが、斯くなる題材を以て生計を立てゝゐる。神罰の、下るゝを識らぬ歟、とまれ當の右翼としてみればえらい迷惑な話しだ。
 彼らと此の慈鎭和尚との相違を誰れか説明する者あるよ。

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by sousiu | 2010-07-29 19:09 | 良書紹介