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カテゴリ:先人顯彰

  • 閑話休題。 贈正五位、奧八兵衞大人。  
    [ 2012-04-26 21:14 ]
  • 山縣大貳先生と、所謂る『明和事件』  
    [ 2012-04-26 00:23 ]
  • 贈正四位 竹内式部先生評  
    [ 2012-04-24 00:10 ]
  • 竹内式部先生の受難 
    [ 2012-04-23 01:50 ]
  • 竹内式部先生と、時代背景 
    [ 2012-04-20 14:37 ]
  • 竹内式部先生と、所謂る『寶暦事件』 
    [ 2012-04-18 23:34 ]
  • 勤皇唱始 清河八郎先生  
    [ 2012-03-09 08:21 ]
  • 西野文太郎烈士  
    [ 2012-01-24 01:21 ]
  • 意識革命の先達者、山鹿素行先生  
    [ 2012-01-11 01:22 ]
  • 河上彦齋先生 
    [ 2011-10-23 14:24 ]

閑話休題。 贈正五位、奧八兵衞大人。  

●吉田松陰先生、門人入江子遠氏に與ふる書『學習院興隆ニ關スル意見書』に曰く、
『・・・然レバ學習院ノ基ニ依リ今一層致興隆候バ、何樣ニモ出來可申。扨、學問ノ節目ヲ糺シ候事ガ、誠ニ肝要ニテ、朱子學ジヤノ陽明學ジヤノト、一偏ノ事ニテハ何ノ役ニモ立不申、尊皇攘夷ノ四字ヲ眼目トシテ何人ノ書ニテモ何人ノ學問ニテモ其長所ヲ取ル樣ニスベシ。本居學ト水戸學トハ、頗ル不同アレドモ、尊攘ノ二字ハイヅレモ同ジ。平田(篤胤先生)ハ又、本居ト違ヒ、癖ナル所モ多ケレドモ、出定笑語、玉襷等ハ好書ナリ。 ~中略~ 高山(彦九郎先生)、蒲生(君平先生)、對馬ノ雨森伯陽、魚屋ノ八兵衞ノ類ハ、實ニ大功ノ人ナリ』と。※括弧は野生による。

 高山彦九郎先生に就ては、こゝ數日間、備中處士樣が御自身の掲示板で、殊に力を籠められ、筆意御雄健、文章御奉皇に努められてゐる。
  ■■嗚呼、囘天創業の首倡者・高山赤城先生。■■ほか。↓↓↓↓
   http://9112.teacup.com/bicchu/bbs

 蒲生君平先生に就ては、當日乘でも、少しく觸れたところがある。
  ■■山陵志■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16917357/
   http://sousiu.exblog.jp/16922717/

 對馬ノ雨森伯陽公とは、雨森芳洲公のこと。はからずも先日、白石氏を叱責したことに就て記すところがあつた。
  ■■新井白石公 番外 王號考■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/17401976/


 
 さて。魚屋ノ八兵衞大人に就ても、嘗て、當日乘で觸れたことがあつた。
  ■■平成の奇特な人たち■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16905302/
  ■■山陵志と今書■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16922717/

 魚屋ノ八兵衞とは、京都の魚屋河内屋の人、奧八兵衞大人、尊皇の人なり。
 奧八兵衞、後光明天皇の御宇に於て、御火葬あそばされることを哭き、ひたすら哀求、やがて雲上人に達し、朝儀に於て土葬の古に復された。明治四十年、贈正五位。


●『前王廟陵記』(卷の上)に曰く、
天子火葬の始は 持統天皇に起る』と。

●仝、「淳和天皇」項に曰く、
抑も火葬は天竺の俗なり。皇子の時、佛法、未だ我國に入らず。何の骨を散ずることこれに有らん。道昭和尚創めて宇治橋を造る、火葬は此の僧よりして始まれり。詳に續日本紀に見えたり』と。



●蒲生君平先生、『山陵志』 卷之一(享和元年正月)に曰く、
『夫れ、古の俗、其の鬼神に狎れて、齋盟を■(三水+賣)し、福を冥寞の間に求むる所以、固より民性蒙昧の爲、而、佛教の行に逮ぶ。是れに據りて衆志を■(手偏+覺)り、國權を獲、喪祭の紀を擧げて咸(みな)、之れが亂す所と爲らざるは無し。而、持統の喪より始めて火葬を行なふ。其の弊たるや、世に以て甚し。列子に、楚の南に炎人の國有り、其の親戚死す。その肉を朽して棄て、然る後、其の骨を埋む。乃ち孝子たりと成す。秦の國に儀渠の國有り、その親戚死す。紫を聚め薪を積みて之れを焚く、燻すれば則はち、煙上る、之れを登遐と云ふ。然る後孝子たりと成す。此に上以て政を爲し、下以て俗を爲す。而も未だ異と爲すに足らざるなり。夫れ然り。則はち夷蠻の喪固に是の如き者有り。而して佛の生るゝ所、身毒國或は儀渠と俗を同じうす。故に亦た火葬を行ふなり。後世、浮屠氏曾て之れを識らず。奉じて以て典章と爲す者、乃ち深く思はざるの過なり。持統帝の時、宇治の僧道昭、其の死して始めて火行を行ふ。然れども彼れは方外の士、固より怪しむに足らず。今、其の之れを大喪に用ふるに至る。亦た悲しからずや』と。



 

 恐れながら、火葬の御事に就き、先達碩學の御見識を拜記した次第であるが、關連して、もう一つ、記したいことがある。そは吾人が八兵衞先生をみて、自己を省察するところありとせねばならぬことだ。兔角、こゝ數十年か、「尊皇」てふ大旆を掲げる、所謂る運動家は、八兵衞先生に教はるところ大ではあるまいか。

 士農工商の時代にあつて、一介の商人に過ぎぬ「魚屋八兵衞」にして、尊皇の赤誠、かくの如し。
 八兵衞大人は、運動家を自稱した人ではない。國學者でもない。神道家でもない。今日の運動家と共通するところは殆ど、無い。所謂る、單なる市井の魚屋さんだ。態々他者から、尊皇家と稱されることさへ、おそらく望んでゐなかつたであらう。
 當たり前だが、ハンドマイクもない。スピーカーもアンプも、街宣車もない。キーボードもない。インターネツトだつてない。訴へる方法も手段も、共通するところ殆ど無し、と云うて宜い。
 だが、一つ、大きく共通するところがある。皇國の民であるといふことだ。もう一つ、志と情熱だつてさうだ。固より現代の 皇國民だつて、竊かに八兵衞先生に劣らぬ丈の素志を有してゐる士が存してゐると、野生は信じてこれを疑はない。

 大正デモクラシーから端を發する今日の運動を、野生は、殊更らに全面否定するものではない。
 されど、大正デモクラシー以前と以後の、所謂る「運動」概念が、大きく變化してしまつた事實も決して看過忘却してはならぬことだ。
 やればやるほど、熱心なればなるほど、失意を感じる今日の現状に於て、失意の原因は本當に「日本」にあるのだらうか。さなくば「時代」の所爲にす可きであるの乎。否、轉じて見遣れば、西洋から輸入された「運動」形態及び概念に問題があるのではあるまいか。
 一向に治療の見込みがないのであれば、そは、治療される可き側に問題があるのではなく、す可き側そのものに問題があるのか、さらずんば、す可き側の施術に問題があるのか、將た又た、す可き側の病巣の觀測に誤りがあるのだと認めねばなるまい。
 少なくとも、治療される可き側に問題なきことは、云ふまでもないからだ。何故なら、治療(坂本龍馬風に「洗濯」と云うても宜いが)される可き側とは、永遠不滅の、皇國であるのだから。







by sousiu | 2012-04-26 21:14 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(0)

山縣大貳先生と、所謂る『明和事件』  

 寶暦事件に觸れたれば、明和事件に就ても觸れねばならない。
 兩者の時間を隔てること八年。政權が武門に下る凡そ七百年の時間からみれば、八年はほゞ同時期と見て差し支へあるまい。
 此の二つの事件は發生直後から、尾鰭をつけつゝ、西へ東へ、武士から町人までの口を借りて廣範圍を驅け巡つた。よつて當時から色々な書物が有つて、面白をかしく傳へたものまであり、隨分紛はしい説があるやうだ。中には擧兵の計畫があつた如く記してある書物もあるが、公平にみても、それを斷定するにはもう少しの研究が野生に必要だ。しかしいづれにせよ、吾人は歴史を讀み解くに當たり、かうした大膽な風聞を生ぜしめた微妙な時代の變化と、人心の願望をそこに窺ひ識ることが出來る。

●文部省圖書監修官 丸山國雄氏、『勤皇烈士に學べ 東京新聞社編』(昭和十八年八月卅一日「建設社」發行)に曰く、
『世に寶暦・明和と稱するが、寶暦事件とは、一部の堂上公卿が竹内式部の學説に基いて、神書を 桃園天皇に進講し奉れることが、攝家の忌憚に觸れて處罰せられたものであり、明和事件は山縣大貳が尊皇抑霸の思想を論じて幕府の忌憚に觸れて罰せられた事件である。
 これらの兩事件は、尊皇思想を鼓吹し、朝權發揚の端緒をなすものであつて、式部、大貳共に山崎闇齋の學説に屬するものであるが、兩者は相識の間に非ず、たゞ殆ど時を同じうして尊皇抑霸思想を唱へたに止まる』と。

 寶暦事件は京都に於て公卿方を導かんとし。明和事件は江戸に於て多數の門人を導かんとした。前者は堂上の忌諱に觸れ、後者は幕府の忌諱に觸れた。

 だが觀察すれば、兩事件が沒交渉の干繋であつたか否かは兎も角として、嚴正に云はしめれば強ち無關係の干繋では無かつた。
 寶暦事件の舞臺に於て、その主人公とも云ふ可き竹内式部先生は松岡仲良を師とし、後、松岡氏の誘掖により彼れの師である玉木葦齋先生に就て學んだ。葦齋先生は、崎門三傑の一人、淺見絅齋大人御一門。
 一方、明和事件の主人公と云ふ可き山縣大貳先生は、加賀美櫻塢先生を師とする。櫻塢先生は、是れ又た、崎門三傑の一人、三宅尚齋大人御一門。
 つまり、兩者とも山崎闇齋先生を源流とする、崎門の學派だ。さらば、自づと、その宿志は共通してゐること分明である。
 而、この兩者の事件は、江戸時代に幕を降ろす可くの前途に齎す影響、至大といふ點に於ても、吾人は共通視せねばならぬ。


 件の概略は、山縣大貳先生が江戸に於て、多くの門人に尊皇斥霸の所説を教授してゐたことが、上野圀小幡の領主織田美濃守信邦の用人・松原郡太夫や、同家領内にある崇福寺の住職梅叟ら心なき者共の個利、保身に惡用せられ、遂に幕府の知るところとなり、明和四年八月廿一日、主動者と目された山縣大貳先生が死罪、藤井右門先生(※下記詳細)が磔刑を宣告され、翌廿二日に刑に處せられた事件である。


※藤井右門公は、赤穗淺野家家老、藤井又左衞門宗茂の長男。幼名、吉太郎。
享保廿年、十六歳で京都に遊び、竹内式部門に入る。藤井大和守忠義の養嗣子となり、吉太郎より直明と名する。
寶暦元年、從五位大和守に昇任。八十宮御家司となり、皇學所教官を兼ねた。
寶暦事件が出來、江戸に出でる。名を「右門」と改める。
著書に『皇統嗟談』。尊皇の士、その人也。



 寶暦事件により京都を追放せられ、伊勢國に寓し、蓬莱尚賢大人(※蓬莱尚賢先生。内宮權禰宜、雅樂と稱し、詩歌文章を能くし、賀茂眞淵及び本居宣長大人とも相識にて、固より尋常の人に非ず、と傳へられる)のもとで過ごしたる竹内式部先生は、八年の時を經て再び歴史の一頁にその名を連ねることゝなる。明和事件の連累者と目せられ、島流しの刑を告せられ、その途次、三宅島の伊ケ谷村にて明和四年十一月廿日、濕病を患ひ逝かれたことは前記のとほりである。


 明和事件に就ては、これ以上詳しく書かない。書く必要を見出せない。
 小人が自己の立身榮達の爲めに、偉人の遠見なる計畫を挫かむとするのことは、今日に於ても決して珍しきことではないからだ。


 さらば明和事件を通じて野生の興味を注ぐ可きことがらは、寧ろ、山縣大貳先生とその思想に歸結せねばならない。
 よつて、大貳先生の主著『柳子新論』に就て、これを記す可きであると考へる。

贈正四位 柳莊 山縣大貳先生
●『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日『大日本明道會』發行)
『昌貞、字は子明、柳莊と號す。大貳は其通稱なり。享保十年(紀元二三八五)甲斐國巨摩郡篠田村に生る。天資頴敏にして豪邁、同國の人、加々美櫻塢に就きて學ぶ。櫻塢は三宅尚齋に學び、尚齋は山崎闇齋に學びたれば、昌貞の學風の本づく所自ら明なり。寶暦六年(紀元二四一六)江戸に來り、兵學教授の門戸を張る。藤井右門、竹内式部の徒常に往來す(※竹内式部先生の往來に就ては異説あり。野生は其の事實あらざりし見解を採るもの也)。其の兵法を講ずるや、江戸城を攻むるには南風に乘じて火を品川に放つべし等の語あり(※愚案。この發言者は大貳先生に非ず。右門公にあり)。遂に幕府の注目する所となり捕へられて殺さる。時に明和四年(紀元二四二七)にして、享年四十三なり。明治二十四年正四位を贈らる』
※米印の括弧のみ野生による。

●徳富蘇峰翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『彼(※大貳先生のこと)の言論は、之を竹内式部に比すれば、頗る露骨であり、且つ過激であつた。竹内式部は、只だ、古に託して、以て今を語りたるに止まつた。然も其の要は、破邪ではなく、顯正であつた。即ち朝廷自から學を修め、徳を立てなば、天下自から之を集らんと云ふに止まつた。されど山縣大貳の議論は、寧ろ破邪に傾いてゐた。其の要は、現状攻撃であり、現状打破であつた
『併し大貳の平生に就て見るも、將た當時の事情から察するも、大貳が徳川氏討伐の擧兵を企てたと思ふ可き節は、殆ど一も見出されない。~中略~ されど彼の忌憚なき言論、及び彼の昂々然として、世に處する態度が、或は物議を釀すの種子たることは、彼自身に於ても、決して氣付かぬことはなかつたであらう。彼は此れが爲めに、一死を覺悟した乎。そは揣摩の限りではない。然も何時厄運の其身に降り來る乎は、固より覺悟の前であつたらう』と。

●史學會理事長 三上參次翁、『尊皇論發達史』(昭和十六年四月十七日『冨山房』發行)に曰く、
彼の勤皇説としては、彼は一は古書を讀み、一は山崎系統學派によりて鎌倉以來大義名分の紊れたるを概き、世間甚しきに至りては 皇室を輕んじ却つて武家を尊び本末を誤りたるものあり、是れ必ず匡救せざるべからずと憤りたり。柳子新論中に盛に彼の説を吐けり』と。





















 上記、先人も斯く申してゐることから、以降、力めて、『柳子新論』の十三篇を抄録してみたいと思ふ。さて、「腱鞘炎知らず」の出番と、オタクの本領發揮だ。
 誤記誤謬のあらば、乞ふ、御教示下さらむことを。douketusha@ever.ocn.ne.jp



by sousiu | 2012-04-26 00:23 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(0)

贈正四位 竹内式部先生評  

●香川敬三公、『竹内式部奉公心得書』(明治廿四年九月)に曰く、
嗚呼、今上ノ太政ヲ收復シ給ヒシ。慶應丁卯ノ歳ヲ距ル。一百餘年前。既ニ斯人有リ。明治中興ノ鴻業。固ヨリ  聖徳ノ然ラシムル所ト雖モ。其淵源スル所。蓋シ亦遠シ矣。予頃ロ偶マ此篇(※奉公心得書)ヲ得テ之ヲ讀ムニ。氣節凜然。忠誠ノ心自ラ言外ニ溢ル。人臣タル者ノ最モ當ニ服膺スヘキ所ナリ。反讀再三遂ニ印刷ニ付シ。以テ同朋ニ頒ツト云フ』と。


●星野恒博士、『竹内式部君事迹考』(明治卅二年七月卅一日「冨士房」發行)に曰く、
『抑、式部君の執る所は、王室の衰運を挽囘して昔日の隆盛に復し、幕府の政權を收め、萬機親裁に出でしめんと欲するの外、他念なし、然れども事本末あり、遽に其成るを求むべからず、故に先づ根本を培擁し、君臣心を一にして、古道を講究し、智を研き徳を修め、經邦治民の要を明にし、天下臣民の悦服を得、以て他日の機會を待たんとす』と。


●徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『式部は學者として、何等の永久に傳ふ可き著作を留めてゐない。されど彼の思想は、山崎闇齋に溯らねばならぬ。彼は靖獻遺言の一面に於ては、淺見絅齋の意見の代表者であり、日本書紀、中臣祓等に於ては、玉木葦齋の傳統を承くる一人だ。即ち何れにしても山崎闇齋は、竹内式部の本尊であり、祖師であり、先生であつた。~中略~ 然も深山の奧、木葉を潛る水滴の水は、やがて滔々たる長江大河となる。世に大なる支配者あるも、未だ思想の支配者程、大なる者はない。世に有力なる運動者あるも、未だ思想の傳播者程、大なる者はない。此點に於ては、山崎闇齋は勿論、其の孫弟子たる竹内式部の如きも、正しく其人だ』と。


●竹内式部先生追想一掬會編『贈正四位 竹内式部先生』(「一掬會」發行、戰前なるも發行年月は不明也)に曰く、
先生はなんとかして徳川幕府より政治を取りあげ、天皇御みづから國を治め給ふ在りがたい御代にしたいと日夜それのみ心にかけてゐられたのであるが、その忠義の志は人の眞似の出來ぬくらゐで「奉公心得書」といふものを書いて 皇室に忠義をつくすべきことをさとし門弟へ示されたこともある。その志をとげるには、先づ 天子樣に學問をしていたゞかねばならぬとかんがへられたのである。幸ひ先生の子弟としての公卿樣の中でも正親町、三條、西の洞院といふ方々がおそばにお勤めになるので、この方々から恐れ多くも時の 桃園天皇へ先生の講義を取次いで御進講申上げることになつたのである。それまでの 天子樣には御學問を遊ばさぬやうに徳川幕府がおとめ申してをつたが、それでは何日までたつても 天皇御みづから國を治め給ふといふことがおわかりにならぬので、先生は公卿樣方の力で御學問を遊ばすやうに願うたのである』と。


●平泉澄先生、『日本學叢書 第六卷』(昭和十四年七月十五日「雄山閣」發行)に曰く、
『先生は崎門の傳統を受けて國體の根本を究め、此の原理に立つて當時の政治制度學問思想を批判し、今日の誤を正して往代の盛時に復せんが爲には、朝廷に正學を興すを以て第一の急務と考へ、是に於いて公卿の指導に全力を傾注せられました。 ~中略~ 是に於いて朝廷の學風一變し、上下競うて國體の學を講究し、古道を明かにせんとするに至りました。これこそはやがて明治維新の大運動の先驅となつたものとして、わが國の歴史に於いて最も注意すべき所の一つであります』と。


●大久保次夫氏、『竹内式部』(昭和十八年十一月廿日「國民社」發行)に曰く、
『思ふに、式部の大義名分論に基く王政復古の志は、當路の壓迫に遭つて、これを實現するには至らなかつたが、その思想は、綿々として滅びず、明治維新の大立者岩倉具視も亦父祖の後をうけて、式部の學統に屬したものと謂はれる。明治の鴻業は、劍によつて成らず、學によつて成つたものであるが、その淵源に遡れば、水戸の大日本史、頼山陽の日本外史、又加茂、本居、平田等國學諸大人の著述による大義名分の思潮が、かの旺盛な尊王論を釀成したものである。又淺見絅齋の靖獻遺言、栗山潛鋒の保健大記等が、尊王論者の教科書となつた事も著明の事實である。併し乍ら斯くの如き大義名分論を以て、尊王の實際的運動の端緒を開いた者は、實に竹内式部を以て嚆矢とする』と。



 「竹内式部先生」措筆。







by sousiu | 2012-04-24 00:10 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(0)

竹内式部先生の受難 

(廿三日、十六時、私見を加筆)

 承前。

 かゝる徳川幕府の壓迫を一身に被りたる京都にあつて、竹内式部先生の運動は、公家方有志に幾許の自信と勇氣を齎せたことか。否、言葉を精確に用ふる可きとするならば、竹内式部先生の運動及び、垂加神道と闇齋學が、だ。

 寶暦の御代、第百十六代 桃園天皇は、御英邁の 天皇にましました。
 桃園天皇は、寶算七歳にて御即位あそばされ、十五歳にして、山崎闇齋先生の學を講じ給うたことが記録に遺つてゐる。
 寶暦事件(寶暦七、八年)では、寶算十七、八歳の交であつた。

 侍臣徳大寺大納言公城卿は、「史記」を侍讀し、而、「日本書紀」に及んだ。(徳大寺公城卿日記)
 同卿は、即はち、式部先生の御門人だ。やがて、
主上 桃園院天皇英明に御座しまし、式部の學説を側聞あらせられ、叡感の餘り深く大御心を寄せさせられた』(本多辰次郎氏『歴史講座 勤王論之發達』)
 卿の欣感、果たして如何なるものであつたらう。我れらはその身にあらざれば、この大を計ることこそ能はざるも、これが大であること丈は拜察するに六ケ敷くあるまい。

 やがて式部先生一派の有志公家方々は、垂加神道の御進講に及ぶ。

 
 古言に曰く、好事、魔多し、と。かくして青天の霹靂は訪れた。
『一方に於て、徳大寺公城等が、千載一遇として、垂加説を、桃園天皇に鼓吹し奉りつゝあるに際し、他方には、容易ならぬ猜疑の眼を放つて此の形勢を眺め、方(ま)さに一大打撃を下さんとする者あるの危機に瀕した。竹内式部門人の一味は、此れに氣付いた乎、氣付かなかつた乎。何れにしても世の中の事は、彼等の思ふ樣に、平々坦々とは參らなかつた。
 然も此の如く打撃の手を、彼等に加へたのは、關東(※幕府のこと)の手筋ではなかつた。否な寧ろ其の張本は、公家仲間であつた』(徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』)

 竹内式部先生と御門人方々に愈々壓迫の手は伸びた。壓迫者は、問題ならぬを問題とし、事件ならぬを事件せしめんと欲した。その壓迫の發起人は、關白一條道香公はじめ、攝家、兩傳奏、而して吉田神道の本家、吉田兼雄氏であつた。

○本多辰次郎氏の曰く(仝)
『抑「日本書紀」神代卷は古來白川・吉田の兩家には種々の祕説がありて、御前講には必ず此の二家の中に於て、御進講申し上げる例であるのに、今垂加流の新説を宸聽に達することゝ成つたのは、二家に取りては大事件である、加之垂加流に於ては、卜部家の神道は佛説を交へて、我國古來の惟神の道で無いと非難する故、是等の家では默止すべからざる勢に進んで參た、かてゝ加へて種々な蜚語風説も傳唱せられ、非難攻撃が式部の一身に蝟集する事と成た』と。

○徳富猪一郎翁の曰く(仝)
『吉田家は、白川家と共に、堂上に於ける神道の本家だ。特に吉田家は先世以來、神道長上と稱し、全國の神職を總管し、神學の指南家だ。當時の主は、吉田從二位神祇權大副兼雄であつた。彼が斯く運動したのは、竹内式部が、自家の繩張を侵すを、安からず思うた爲めであらう』と。


 愚案。佛法を排斥するだけでなく、崎門學の大義名分論は、やがて討幕の急先鋒たる思想となつたことからも、幕府側にとりてみれば既に危險思想と看做されてゐた。畢竟、公家方内にこれを歡迎する人があると、一方、幕府による災ひを忌避せんとこれを歡迎すべからざる人が生じたのも無理からぬこと乎。後者を單なる公家内に於ける日和見主義の現状維持派と觀するは聊か酷評とも云へなくもなし。固より吾人が爲す可きは、後者を裁定することに非ず、後者を以て當時の朝野に於ける幕府の權勢如何に猛烈なるかを察する可し。而して、この時代背景に立たされた式部先生の運動と志を識ることが出來れば、それで充分である。
 式部先生は啻に當時の堂上にのみ勇氣と自信を示されたのではない。後進たる吾人に對して遺憾なく手本と模範を示された。奇しくもおよそ百年後、彼理來航あり。世情噪がしくあつて勤皇の士、陸續として、出でる可くして、出でた。有志は皆、京へ上り、對手たる幕府側も京を固めんと上り、京都は騷然たる歴史の舞臺と變化した。皇國に於て、これが變はるには、朝廷は沒交渉でないことを、寶暦事件の犧牲から百年後の式部先生の後進(吾人からみる先進)は學び、實行したのである。
 舶來の大正デモクラシーから端を發した多數決盲信者には、皇國に於ける式部先生の偉大が理解し難からう。諸國はいざ識らず、皇國に於て、これを清らかとするに、川に喩へれば、何十年と河口を掃除しても、そは空しくある而已。革命とは、弱者、非生産者、不平者をそゝのかし數の大を以て下から上に突き上げる運動だ。皇國にあつて維新は、いつも上から下に布告されるものだ。他國による解放運動、獨立運動の「宣言」と、皇國に於ける畏れ多き維新の「王政復古の大號令」を同一視する勿れ。

 閑話休題。桃園天皇に於かれましては、反垂加流一派による再三再四の上奏と諫言にも御納得あそばされず。あくまでも垂加神道とその學説を御抛却なされなかつた。
『至尊の垂加流に對する御執心は、決して尋常一樣ではなかつた。如何に女院や、攝家や、其他の者共が、手を代へ品を換へ、之を止めさせ給はんと企つるも、決してその通りに成させられなかつた。 ~中略~ 十八歳の御若齡として、其の強毅不屈にてましますこと、實に驚き入ると申すの他はあるまい』(徳富猪一郎翁、前掲書)


 然るに無念、非難蜚語陰謀もて、遂に式部先生は糺問せられた。固より罪名もあやふやであり、取調る側が押され、時に感動すらしてしまふことは、式部先生著述の『糺問次第』にもよつても明らかだ。苦慮した攝家一列は幕府の手を借りるに至り、所謂る公家主導、武家受動の關係もて到頭、式部先生は京都より斥けられ、御門人方々は永蟄居ほかを命ぜられ、式部派は排除された。桃園天皇の宸襟は如何なるものであらせられたか。徳富翁は『惟ふに、定めて血を絞る思をなし給うて』と恐察してゐる。

 竹内式部先生の無念も如何程のことであつたらう。京都を追放された式部先生は、御内儀、御子息の主計氏、御息女のしま氏の四人で伊勢の宇治山田に住むことゝなつた。
 その四年後の寶暦十二年。桃園天皇、寶算僅かに廿二歳を以て崩御遊ばされた。式部先生、入つてはならぬと嚴命された京都へ上り、御所の御前の芝生に泣きぬれて悼みまゐらせた。(徳大寺公城卿談)

 式部先生、この時の上京と、はからずも八年後に出來する山縣大貳、藤井右門先生他による『明和事件』の連累者として嫌疑を掛けられ、八丈島に流罪となる。至誠至純たる尊皇家に對する彈壓は、決して、安政の時代のみではない。立志する人は、總じて受難者たる可き宿命を避けられない。であるからこそ、その情熱は、尊い。
 式部先生、明和四年十一月廿日、途中の三宅島の伊ケ谷村にて病ひを患ひ、同年十二月五日、歿す。病名は濕病と記録に傳へられてゐる。


 以下、本多辰次郎氏の觀察に從へば、「寶暦事件」は、時代の産ましめた悲劇とも云へるが奈何。
●同氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十三日「日本學術普及會」發行)に曰く、
『此の寶暦明和の事件は、一寸見れば關白達が只管幕府の御機嫌を取ることを勉めて居て、勤王の精神の發達を挫折せしめた樣に見えるけれども、式部は強ち過激の擧動を爲る人で無くとも、其の門人たる堂上衆の中には少壯活溌の人もあり、過激に流れはせぬかといふ憂もある、若し過激に亘るやうなことが有て、幕府から先手を着けられやうものなら、隨分上御一人に迄も御迷惑を懸けるやうな畏多い始末にならぬとも限らぬ、夫故關白とか武傳とかいふ責任の位置に在る人に取りては、大事に至らぬ前に處置する必要がある。何を申すも理論は力に勝つことは出來ぬ故、幕府の激怒を招かぬやう勉める必要が有るとすれば、近衞關白の處置は先づ至當と申さねばなるまい、併しながら公家方に於ては、斯る結果に終つたのは關白始め心に快き譯ではあるまい。心中は必ず哭いて居られたに相違あるまい、まして式部の門弟となりし堂上等の遺憾は幾何であらうか、陰忍に陰忍して、表面は一應沈靜に歸した樣なものゝ、裏面は一層敵愾心を強めたに相違ない、明治維新に參與した功臣には、此の時寶暦事件に關係した家の人々に比較的多いのも注目に値する事實である』と。








by sousiu | 2012-04-23 01:50 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(0)

竹内式部先生と、時代背景 

 竹内式部先生の『奉公心得書』(ホウコウコヽロエガキ)に就て、香川敬三公は明治廿四年九月、前掲書にて斯く述べてゐる。
●從一位 勳一等 維新後樞密顧問官香川敬三公の曰く、
『奉公心得書一篇ハ。   桃園院天皇 =桃園院天皇ハ櫻町院天皇第一ノ皇子ニシテ聰明ニ渡ラセラレ[五字分墨字]頗ル  後光明帝ニ似サセラレシト云フ= 寶暦年間。權大納言言徳大寺公城。權大納言久我敏通。權大納言正親町三條公積。權中納言烏丸光胤。權中納言坊城俊逸。權中納言今出川公言。前權中納言岩倉恆具。右兵衞督高倉永秀。右中將高野隆古。少納言西洞院時名。左中辨勘解由小路資望。左中將中院通繼。左兵衞佐岩倉尚具ヲ始メ。朝紳廿餘人。王室ノ式微ヲ憂ヒ。竊カニ連署血盟シテ。王政復古ノ策ヲ計畫セラレシ時。竹内式部 =名ハ敬持、羞齋ト號ス= ナル者。同盟ノ朝紳ニ忠告砥礪スル所ノ文ナリ』と。※原文マヽ。
 香川公は、水戸藩士。維新前は神官同盟、陸援隊副隊長ほかを歴任し、皇國の中興の御爲め寄與するところ決して尠しとせなかつた人である。

 他方、史家の觀察眼もて之を尋ねるに、『奉公心得書』は如何なる價を見出す可き乎。
●徳富猪一郎翁、前掲書に曰く、
『今日より之(奉公心得書)を見れば、別段の寄説でもなく、卓論でもなく、亦た何等新異の見と云ふ可き程のものでもない』
『寧ろ餘りに平易、淡泊にして、此れが竹内事件の張本人の文字とも覺えられず。但だ天津日繼の 天皇が、神種神孫に在せば、一切を擧げて 天皇に奉仕す可しとの、所謂る 皇室中心主義を、眞甲より打出したる一點丈が、尤も聳聽するに足るものがある。惟ふに此の心得書は、僅かに彼が意見の一端を、語りたるに過ぎなかつたであらう』
『奉公心得書は、堂上方の門人に、其の朝廷に奉仕し、君側に勤務する心得を示したるもの。未だ竹内式部の學説の全豹を窺ふに足らぬ。されば他の方面に向つて、之を尋ねなければならぬ。ところが彼自からの書き殘したるものとては、殆んど無い』と。※括弧は野生による。

●大久保次夫氏の曰く、
『「奉公心得書」にしてからが、本書に彼の學説が披瀝されてあるものとは、到底考へられない。又本書は純粹な學術書では勿論ない。併しながら本書には、彼の思想、殊に 皇室に對する彼の思想が端的に示されてはある。これを知る事によつて彼の學説と稱すべきものが自らにして窺知し得るやうに思はれる。彼の本領とするところは、その學識や學説にあつたのではなく、寧ろその全人格的なひととなりの上にあつた如くであるから、この「奉公心得書」のみによつて彼の思想や、その思想的感化力を知らうとするのは、いささか的外れの感がなくもない。要するにその思想の一端を知る便宜のために、この書は理解されるべきである』と。

 上記理由に據りて、蘇峰翁は、竹内先生の御門人であつた菊地嘉典公の筆記したる『竹内式部神代卷口授』や他の資料を蒐集して、式部先生の御偉業を審らかに繙かむとする。一方、大久保氏は、竹内先生の師である山崎闇斎、淺見絅齋兩先生の思想から之を繙かむとす。※尤も蘇峰翁は、既に「近世日本國民史」で闇齋學に就て紙面を割いてゐる爲め、重複を避ける爲めに御門人に筆力を籠めたのであらうが。

 されど野生は、御兩人による研究の成果をこのうへ茲へ抄録する作業を必要としない。
 當時の世相と、式部先生の功績を掲げることが出來れば、それを諒とする。



 式部先生の偉業の一端を識るには、式部先生の生きた時代を知らねばならぬ。
 寶暦を前後とするこの時代は、一體、如何なる状態にあつたか。
●大久保次夫氏(仝)
『言ふ迄もなく家康が、馬上に天下を掌握して、征夷大將軍に任じて以來、全國の政令は一に江戸幕府に發し、上は朝臣の任免から、下は三百諸侯の陟黜に至る迄、凡て朝廷の意思の如何を顧みることなく、獨斷專行を例とし、少しでも、幕府の志に違ふやうの事があれば、嚴重なる譴責を加へたから、畏くも歴代の 天皇におかせられては、何等か爲す所あらんとしても、しかも一として叡慮の如くになす事が出來ず、如何に些細なことにでも、幕府の干渉壓迫があつたのである。

 又京都に常置せられてゐた幕府の役人達は、畏多くも、皇室に關する諸經費を一錢でも半錢でも削減することに汲々とし。また斯くて諸費用を節減する事が多ければ多い程、功績拔群といふ事になり、他日の榮進が、約束されるといふ情ない情態であつたから、從つて例へば吉野山に櫻を見たいと思召しされても、それは費用がかかるから、所司代方面からの干渉があるといふわけであつた

 皇室でさへ、斯く迄御不自由な環境に置かれてゐたのであるから、宮中に奉仕する朝臣達の生活も從つて貧弱を極め、皆内職によつて、辛くも糊口を塗してゐたといふことである。併もその内職たるや、花かるたの製造だつたといふに至つては、寧ろ憤然たらざるを得ない』


 あまりにもと云へばあまりにも。幕府の權勢、その及ぶところ、今に記すも躊躇はざる可からざるものがある。

 かくなる時代下、榮華と富貴と權力を誇つてゐた江戸にあつて、京都に於ける竹内式部先生の活動と、鐵心尊皇の志を、吾人は敬服せずば止まず。
 然も、式部先生知つてか知らいでか、前途、青天の霹靂は式部先生の頭上に降されんことを。



 この締め方だと續けぬわけにはなるまい・・・。續く。

by sousiu | 2012-04-20 14:37 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(0)

竹内式部先生と、所謂る『寶暦事件』 

 先日、新井白石を通じて正徳の時代を記した。
 それから五十年。征夷大將軍は、家宣から家繼、家繼から幕府中興の吉宗を經て、九代目の家重となつた。
 家繼の在任期間は僅か三年。その次の吉宗は、徳川家中興を成したるも、それを相續したる家重は、固より、その資格者の素質に乏しかつた。

●徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『寶暦明和の時代は、天下泰平、徳川幕府は、萬々世と祝ふ可き皮相を具へてゐた。然もそれは唯だ皮相だ。その暗流は、或は沸騰し、或は汎濫し、或は横溢せんとするの勢を生じ、且つ生せんとしつゝあつた。一言すれば、愚者には安心の持節で、識者には不安心の持節であつた。 ~中略~ (當時に於ける)國典の研究は、必ずしも直接に、幕府制度に對する打撃でもなく、脅威でもなかつた。國學者は寧ろ幕府の現状に向つて恭順であり、而して幕府の保護の下に、其の發達の若干を成就した。然も其の本質に於て、國學其物は、危險性を帶びてゐた。少くとも幕府制度と國學とは、其の根本觀念に於て、相ひ兩立し難きものがあつた。是等の事情は、國學の諸先輩も、果してそれを自覺したる乎。幕府の當局者も、それに氣付きたる乎。恐らくは當時に於ては、兩者共に無我夢中であつたであらう』と。
※括弧及び括弧内は野生による。

 そのやうな折、所謂る「寶暦事件」が出來した。

 「寶暦事件」とは何か。

●大久保次夫氏『竹内式部』(昭和十八年十一月廿日「國民社」發行)に曰く、
『寶暦事件とは何んぞや。簡單に云へば、それは、御好學にわたらせられた 桃園天皇に對し奉り、竹内式部の門弟であつた二三の近臣が、垂加流の學説を進講し、それが攝政關白などといふ上長と、幕府の忌憚に觸れ、近臣數多の解職處分と、竹内式部の追放といふ結果を來したところの、一見頗る簡單なやうで、その實勢の及ぶところ近世に於ける尊皇斥霸の實踐的運動の嚆矢をなしたといふ歴史上頗る意義深き事件の謂である』と。

 竹内式部先生に就て識る人も、殘念乍ら現代では多くあらぬのかも識れない。そは、野生にとつても、尊皇家にとつても、日本にとつても遺憾とす可きことである。竹内先生、決して國史の埋れ木に藏される可き人物でないことは、固より知る人ぞ、識る。そは、「寶暦事件」其のものの影響が、當時に與へたるその小ではなく、將來に與へたるその大なることを以て識る可しである。
●徳富猪一郎翁、同上に曰く、
凡そ徳川幕府時代を通じて、眇乎たる一個の浪人者として、竹内式部程、大なる問題を惹起したる者はあるまい。固より熊澤とか、山鹿とか、若しくは由井正雪とか、事件としては、隨分大なる波紋を時代に畫きたる者あつた。されど彼等の事は、一も朝廷には直接にも、間接にも、關係なかつた。云はゞ對幕府だけに止まつた。されど竹内事件は、朝廷の上に於ける事件だ。特に日本の近世に於ける尊皇思想の發達には、最も重大なる關係がある』と。
●本多辰次郎氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十五日「日本學術普及會」發行)に曰く、
『寶暦事件、此の事件は徳川時代に於て勤王運動の濫觴である。從來、尊王論を唱へた者は隨分ある。山崎闇齋でも、熊澤蕃山や山鹿素行でも尊王論を唱道した。加之、親藩の水戸義公なども尊王の精神の厚い事は其の言行に明かである。併しながら從來、是等諸士の論議は猶尊王、勤王と言ふに止まり、排幕斥霸といふ點までは論及して居ない。或は微妙な言外の意味までも論及すれば、排幕斥霸といふ事になるかも知れないが、兔も角表面にはソーは見えない。幕府は實權の中心として置て、扨て其の上に朝廷を尊崇し、王事に勤むるといふにある。然るに寶暦事件に至ては尊王斥霸の論鋒が鮮かに認め得られる。又單に著書や講説で説を立てたといふのみならず、多少運動と稱し得べき要素をも含んでゐる。此の二點に於て此の寶暦事件は、徳川時代に於ける勤王論の曉鐘と言はるゝのである』と。

 竹内式部先生は、山崎闇齋先生を學祖とする崎門學派に屬する人だ。殊に絅齋淺見安正先生の思想を承けられた、烈々火を吐くの大義名分論者であり、そして、尊皇家であつた。

 而して、特筆大書す可きは、竹内先生の御門人の主なる人々が、新進氣鋭の堂上公卿の諸公であつたことだ。
 一應、記録として、以下にその御尊名を拜記する。
   正親町三條帥大納言公積
   烏丸大納言光胤
   今出川中納言公言
   徳大寺大納言公城
   坊城中納言俊逸
   東久世中納言通積
   岩倉前中納言恆具
   綾小路宰相有美
   町尻三位説久
   伏原三位宣條
   植松三位雅久
   高倉右兵衞督永秀
   高野少將隆古
   西洞院少納言時名
   中院少將通維
   西大路少將隆共
   冷泉新少將爲泰
   勘解由小路左中辨資望
   日野右中辨資枝
   中御門權右中辨俊臣
   正親町三條侍從實同
   櫻井刑部權大輔氏福
   町尻右馬頭説望
   裏松左少辨光世
   岩倉左兵衞佐尚具
   船橋前右兵衞佐親賢
   六角兵部大輔知通
   高丘大藏大輔敬季
   錦小路典藥助頼尚
   七條左馬頭隆房
   他。(敬稱略)


 上記もて、竹内式部先生が、如何に、堂上に對して影響を把持したか、瞭然と云はねばなるまい。
 焉んぞ幕府の知らん、京都に於て竹内先生の點したる其の火は、やがて尊皇倒幕維新の狼煙となりて薩摩からも蝦夷からも見らるゝほどに揚がらむとは。
●大久保次夫氏、同上に曰く、
『式部が、その教育の實施に際し、四書五經、小學などの儒書の外、保健大記や靖獻遺言等を講義したことは、前にも述べた通りであるが、この間折に觸れ、時に應じて、天業恢宏の道を説き、皇室の衰運を挽囘して、これを我國本來の姿に還元せしむる爲めには、至尊を始め奉り、朝臣一統學問を勵み、古道を明かにし、治國安民の策を考究せねばならぬとの趣旨を強調したのである
『斯樣に式部の學問は、國體を重んじ、大義名分を明かにし、皇室に歸一するの思想を敷衍するにあつて、從つて彼は、單なる書齋的の學者でなく、寧ろ教育家的學者と言はるべきであつたが、既に前節で紹介した他の學者の如く、一代の文教を稗補したといふ事實は甚だ尠い。彼の面目は斯かる學説や思想を超えた人格の上に、即ちその教育者としての感化力の非凡であつた點にあるやうである』と。

 昨夜、突如、三澤浩一先輩より電話あり。不吉な豫感がしたが、幸ひにも先輩はノンアルコールであつた。
 而も珍しく、河原イヂメは無く、眞面目な話で終始。期せずして、竹内式部先生の話題となつたので、今日今度びの記事を思ひ立つた次第である。


 惜しい哉、竹内式部先生の諸門人方々に與へたる著書は、『奉公心得書』のみだ。
 これから、締切りが遲れてゐる『芳論新報』を書き上げねばならない。
 『奉公心得書』に就て、續く、か、どうかは野生の氣分次第だ。

by sousiu | 2012-04-18 23:34 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(0)

勤皇唱始 清河八郎先生  

●正三位、學習院教授、海軍中將、佐藤鐵太郎氏、大正十年天長佳節に曰く、
『天道是非の嘆あるは、眼前の成敗を以て、天意を忖度するの致す處にして、因果應報の天則は、嚴として常に明らかなり。東北諸藩たるもの必ずや、自ら省みて、首肯する處あるべきなり。而して、此時に際し(※明治御宇の初頭)最後迄王師に抗して、屈せざりし庄内が。當然嚴峻なる制裁を加へられるべきに反し、最も寛大なる處分を受けて、歸順の途に出づることを得たるは。一に、至仁至慈なる天恩の致す處なりとはいへ、抑もまた、之が因をなすものありて存するにあらざるなきを得んや。
 惟ふに。庄内の山河は、實に勤王の先驅者たる清河八郎を生めり。先生、志を當世に得ずして、常に白刃、身に薄るの危地に出入し、東潛西走、造次顛沛、安んずるの處なく、不幸終に刺客の毒刃に斃れ、恨を呑んで雄圖空しく畫餠に歸せり。人生の慘事。何物かこれに加んや。焉んぞ知らむ。天の庄内に酬るに、天朝の寛宏なる恩典を以てしたる所以のもの。實に、先生の孤忠を憐み、功を録して徳に、其郷里に報じたまへるにあらざるなきを』(大正十年天長佳節)と。(※は野生による)

●矧川志賀重昴氏、明治四十五年四月十四日、「正四位 清河八郎先生 五十年祭」(於淺草傳法院)に於て、祭壇下に立ちて述ぶるに、
『勤王論の提唱は、世人は薩長の專賣特許の如くに思ふが、焉んぞ知らむ。ずつとゞゝゝ其の以前に、而かも眞木和泉守と談じ、平野國臣、伊牟田眞風等を清河先生が頤使して薩藩に遊説せしむるに至つたのである』と。
 こは、いさゝか清河先生を見上げたものとして、他の先生を見下げた言辭であらう。清河八郎先生による『潛中始末』には、眞木紫灘先生と對面した樣子が記されてゐる。曰く、『下村より水田迄、八里の處、夜分に入りて相達す。水田と申すは、天滿宮の鎭守處にて、太宰府に續きたる九州第二天滿宮なり。則和泉守は、直弟大鳥井敬太方に蟄居せり。別に小一室を構へて、一切人に會するを得ず。併、近來は少しづゝ遊歴者などにも稀に會すると云ふ。~中略~ 思ひ寄らぬ尊客とて、此迄ありし事共、御互に相話し、自ら食物を製して、遠路を勞はる。如何樣人の信ずる程のある人物なれば、我も信の知己の如くに思はれ、西來の次第、其外とも別意なく相談す』とあるところをみれば、言辭は、畢竟、五十年祭に用意されたものであることが判る。とは云へ、過分となつた上下を足して半分で割つても、清河先生のその行動力と影響力、少々ならぬものであつたことが容易に識らされるのである。



 清河八郎正明先生とは。
 毎度の如く、徳富猪一郎翁の『近世日本國民史』から引用することを試みたい。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第四十六卷 ~文久大勢一變 上篇~』(昭和九年七月卅日『民友社』發行)に曰く、
『抑も浪人有志の中にて、尤も較著なる働きを做したるは、清河八郎、田中河内介を擧げねばならぬ。その中にも、清河の運動を以て、最も效果的とせねばならぬ。清河八郎は天保十年、羽前國東田川郡清川村に生る。本名は齋藤元司。自から地名によりて清河八郎と稱した。少にして不羈、弘化四年十八歳のとき、家を脱して江戸に赴き、東條一堂に學ぶ。而して同門の士、安積五郎と相得、兄弟の義を結ぶ。嘉永元年、東海道を經て京都に赴き、闕を拜し、勤王の志を起し、大阪、岡山、廣島等を巡遊し、歸途は高野、奈良、山田等を經、其の見聞を廣め、其の志氣を養うた。~中略~』

仝『九州の有志をして、決然として起たしめたるには、清河八郎の遊説の功、與りて最も大であつた。清河は當時の志士中にて、劍客であると同時に、學者でもあつた。~中略~
 彼は有馬新七、若しくは眞木保臣の如き主義の人と云ふよりも、寧ろ戰國時代の縱横、傾危の士と云ふ可き類にして、彼の志は尊皇よりも攘夷が主であつた。彼は固より其の目的の爲めには、手段などを頓著する漢ではなかつた。而して其の言行を見れば、誇大妄想狂者とも猜せらるゝ點が無いでも無かつたが、然も亦た決して非常識漢では無かつた。彼の意見は、九州の義士を募り、薩藩の力に頼りて、京畿に義旗を掲げ、主上を擁して、攘夷を斷行するにあつた』と。
 蘇峰翁も、誇大妄想狂者とは、これまた辛口であるが、されど、かく缺點をして若しも値引きされたとしても、如上の如き稱贊は清河先生の非凡たるを聊かも損なふものではない。寧ろ、これに華を添へるものである。
 それにしても、上記の言にはいさゝか補足が要せられねばならない。清河八郎先生は、「尊皇より攘夷」ではなく、時勢の趨くところ、清河先生の攘夷の炎が餘りにも激甚を極はめたるが故に、斯く見えたるに過ぎない。つまり、尊皇の志逞しくあるが爲めの攘夷だ。孝明帝の御心を奉戴したるが爲めの、必着すべき「攘夷」であつた。清河先生の、文久二年四月八日に御兩親に認めたる書翰によつて野生は斯く觀じるに至ることが出來る。
○清河先生、書翰に記すに、
今や夷狄、其外を侵す、幕府之を征する能はず。而して屡ば詔旨に違ふ矣。是に於て乎、天下士民始めて王權の衰廢を憂ふ。皆な徳川氏に背き、皇室を戴くの心有り。此乃天の此の際會を生ずる、誠に偶然ならざる也。陛下、善く此の際會に乘じ、赫然として奮怒せば、數百年頽廢の大權、復興す可き也。百姓數百年の罪、複謝す可き也』と。
 この書翰は所謂る「寺田屋事變」(文久二年四月廿三日)の約二週間前のもの。つまり世情も事態も切迫してゐた頃だ。よし清河先生がたとひ妄想狂患者であつたとしても、誰れしも感ずることなくんば能はぬ張り詰めたこの空氣の中で、覺悟した士の言に不實はあるまい。

 島津久光公上京に伴ひ計企された義擧は、からくも潛伏先の大阪薩摩藩邸内で祖語が生じ、清河先生は離別。爲めに寺田屋事件の遭難を免れたが、その後も油然として、尊皇攘夷の大旆を掲げるに至る。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第五十二卷 ~文久元治の時局~』(昭和十一年八月十日『民友社』發行)に曰く、
『清河八郎は、何れかと云へば創業の才の勝ちたる漢であつた。九州を遊説して、九州の志士を蹶起せしめ、之を驅りて上國に來り集らしたるも、專ら清河及び田中河内介等の力であつた。されば相當の順序から云へば、寺田屋事變には、彼は當然參加す可き一人であつたが、その以前に彼は仲間離れをして、却て其爲めに其の厄難を免かれた。彼は決して難を避くる怯夫では無かつた』と。




 野生は、清河八郎先生を敬慕する餘り、これを過分に宣傳するでない。又た、淺識を趣味的にひけらかすつもりでもない。
 固より、清河先生を山師や繪圖師、將た又た妄想狂患者と看做すが限界の、「勤皇」なんたるかを解し得ぬ人に向うて當て付けるでもない。
 野生が清河先生から學ばむとする、それ、尊皇が觀念上に止らず、つひに勅許なき日米修好通商條約調印、和宮親子内親王御降嫁の問題が尊皇志士を奮ひ立たせ、つまり尊皇が觀念から實行に及び、畢竟、勤皇へと移行した時代にあつて、その時代に躍動した一人、清河先生の赤心と勇氣、行動と覺悟を學ばんとするものである。
 時代が人をつくるのか、人が時代をつくるのか、野生には何とも答へることが出來ない。
 されど、時代の變節に於て、傑物が要せられる可きは答ふるまでもない。

 さて。尊皇から勤皇へと異動せらる次の時機到來は果たしていつなのだらう。
 その到來に、吾人が備へておく可きは何であるか。
 今日記したる日乘は、今月四日の記事からからうじて一筋の繋がりを持たせてゐる積もりである。(ほめ殺されさうになつたことゝ、セレブマンシヨンの廣告は別として)

 野生は猶ほ、清河先生に就て、少しく記す可きところがあらねばならぬ。
 野生の筆力乏しきが爲め、文章の前後不覺に就ては諒せられ給へ。乞ふ不明及び不足な點は、書肆で入手する能ふ御本によつて之を充足せられむことを。


 







by sousiu | 2012-03-09 08:21 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(2)

西野文太郎烈士  

 西野文太郎といふ人があつた。
 長州藩士であつた西野義一氏の長男。慶應元年の生まれだ。
 肉體的には貧弱そのものゝ彼れは、一方では片意地なところが多分にあつたとか。
 友人から、膽力家、勤皇家と云はれると、得意になつた、と傳へられてゐる。(參考文獻、『大事件祕録』昭和十二年十一月廿七日「錦正社」發行)

 明治廿二年二月十一日の午前八時頃、時の文部大臣、森有禮が大臣官邸に於て暗殺された。
 刺客は、廿五歳の西野文太郎氏であつた。西野氏はその場に居合せた文部七等屬、座田重秀の仕込杖による三太刀を受け、漸く首の皮一枚を殘し、絶命した。

 森有禮は極端な歐化主義者だ。慶應元年、十六歳の時、藩主島津公の命を受けて倫敦に留學。その後、米國にも渡航。耶蘇教にも強い關心を抱くやうになり、而、日本人を未開と蔑した。明治十九年十二月、文相になり各縣を巡視、學校に招かれて訓話するに曰く、『日本人は、人に對して敬禮するのに、二度も三度も、頭の地に付くほど馬鹿叮嚀な敬禮をするが、頭を餘計下げる竸走をしてゐたら際限がない。あゝ云ふ時間潰しの虚禮を廢して、唯一囘だけ輕く下げる位にした方がよい。大體文明人はあゝ云ふ敬禮の仕方はしないもので、これから外國と交際するには、日本の未開な風習は徹底的に改良しないといかん』と説いてまはつた。
 遡れば、維新直後の廢刀論は、この森が口火を切つたものである。又た當時結成された輕薄極まりなきモダンボーイの結社「明六社」も又た、森が中心人物であつた。ほかにも「國語外國化論」の首唱者でもある。
 そんな森に纏はり、伊勢神宮不敬事件が新聞紙面を賑せた。森が伊勢の皇太神宮に於て、不敬ををかしたといふものである。これは後々、デマであるとの説も浮上するが、眞僞のほどは瞭然としない。ともかく森が斯くも新聞社に疑はれるべく、同時に、その報道が讀者に容易に信じられるべくした人物であり、西野氏の義憤忽然として燃え上がらせる理由としては充分であつたことは間違ひあるまい。
 斯くして義擧は、出來するべくして出來した。
  參考、◆◆刺客 西野文太郎の傳◆◆ ↓↓↓↓
  http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781850/1


 『大事件祕録 第四篇』(仝)に掲載される、村雨退二郎氏の記述が興味深い。
 曰く、『明治の刺客と云へば、大抵相當腕の立つ人間が多く、從つてその對格等もガツシリとしたのが普通であるが、西野は身長僅かに四尺九寸、よほど小男の方だ。その上平常からあまり健康の方ではなく、友人と腕押しをやつても一番弱く、劍道等も出來なかつた。その點では明治十五年に板垣を刺した相原尚聚と共に、刺客中の例外に屬してゐる。
 併も相原は絶好の條件の下に於て三度刺して遂に致命傷一本も入れることができなかつたのに反し、恐らく體力に於ては相原以下であつた彼が、唯一刀で森有禮を死に致したといふのは、殆ど奇蹟に近いと云つて好い位だ。
 その意味では、西野は明治維新暗殺中に、類例のない特異な刺客であつたと云ふべきだらう。多くの刺客は、勿論對手の隙を狙ふことに變りはないが、西野の如く進んで敵を欺いて敵に虚を作らせ、それに乘じて一擧に之を仆すといふほどの狡智を働かした刺客は餘りこれを見ない。
 のみならず、彼は自分の體力といふものを充分に測つてみて、到底正面から刀を揮つて斬り懸つても成功しない事を心得てゐたにちがひない。彼は前から立向はないで、横から飛懸つた。人間は前後に進退することは自由だが、横に動くことはあまり得意ではない。そこに虚がある。西野は森の腰を掴み、下腹部に出刃庖丁を突刺し、然も一刀必殺の意氣込みで、打たれても蹴られても離さず、背部に刃先が突き拔けるまで抉り續けた。恐るべき執拗さである』と。


 こは、氏の信仰するものが正に涜されむとする、その純々然とした怒りの發現に他ならない。西野烈士のみならず、山口二矢烈士も、小森一孝烈士による所謂る「風流夢譚事件」も、政治鬪爭や思想鬪爭の範疇に留めて置く可きではない。
 西野烈士は、宮城前を通り掛かると、決まつて、地面に平伏して拜禮したので、友人から「立つて最敬禮する法もあるのに、態々高山彦九郎みたいな事をして着物を汚さなくてもよいぢやないか」と云はれたといふ。
 信仰心を如何に考へるかはそれゞゝあるとしても、かうした至誠至純の心がより嵩ずるの折、まゝ時代の變革を促進させることは、吾人は歴史の上からも否定するわけにはいかない。明治維新の原動力が、神道に無關係でないことは説明するまでもない。

 先般、京都市にある高山彦九郎先生像に、白ペンキを投げた癡漢がゐるといふ。單なる惡戲であるか何であるのか野生に知る由もないが、地元の住民をはじめ高山彦九郎先生を崇拜する有志としてみれば、物質的損害に猶ほ倍して餘りある心情的悲痛を感ぜざる能はざることは拜察するまでもない。
 世は閉塞の感止み難く、人心汲々以て世知辛く、このやうな世相であるからこそ、日本人は科學萬能熱より頭を冷やし、信仰するの心を見直さなければならない。





by sousiu | 2012-01-24 01:21 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(2)

意識革命の先達者、山鹿素行先生  

 斷つておかねばなるまいが、野生は、近年の保守層が總て似て非なる可しであるとか、或いは不見識であるとか云うて徒らに中傷するものではない。
 然るにても戰後の保守派陣營に、純然實直なる尊皇家が少くなつてきた事實は事實として認識す可きである。サンケイの如きを日本マスコミの良心と看做していさゝかも憚らぬ保守派の多くあることが、それを語つてゐるやうなものだ。
 尤も正統保守、良識派の全員が壇上より撤退したとは思はれない。或いは妖しげな自稱保守派が跳梁跋扈し大手を振つてゐるので斯く感じるのか、野生は精しく識るものではない。いづれにせよ、その一部の眞正にして生粹の有志が、今猶ほ螳螂の斧を揮うてゐることもまた見逃す可からざる事實である。

 保守を自認する人達が街頭に出てきて數年がたつ。彼れらは幟やプラカードを持ち、デモ行進に盛だ。自らを「行動する保守」と云ふ。憂慮に堪へぬ者、おのれの身を書齋の前に措くも安する能はず、街頭に出でて時には憂憤の一語も發せんとする氣にならうと云ふものだ。不安定な御時勢であれば、當然の成り行きだ。
 一方では、これまで街頭を主戰場としてゐた行動右翼が、克苦精勵、勉強に專心する者も増えてきた。何だかあべこべで面白い。
 行動右翼には熱血の士が多い。犧牲的精神も旺盛だ。驚く可き哉、贊ずる可き哉。事業に專念すれば屹度成功したであらうと思はれる人が財を惜しまず運動に時間も私財も惜しまず投じ、或いは平穩無事に生活してゐたにも關はらず一念發起憤然蹶起して囹圄の身となつた御仁も少くない。その爆發的な瞬發力や不屈の精神力、犬馬の勞も厭はぬ繼續力は、時に巨大な岩をも動かす。かうしたエネルギーの持ち主が、更らに思想、見識、理論などを研磨し保守派の論壇に加はつた時に、それ期待するところ大と云はねばなるまい。而もさうした熱血人士が研學は、いつまでも机上の理屈や書齋的空論に止る能はず。元來が活動主義の資質を有してゐるわけであるから、街頭以外の活動の場も新らたに開拓する能ふこと必至である。

 野生の道友や後輩も、志學の氣概を逞しくする人が増えてきた。圖南の翼を持した彼れらから野生は教はること決して少なしとせない。
 以謂くは戰後世代各々が、不可抗力として植ゑ附けられた戰後史觀、日教組史觀から自らが脱却を實現し、而、江湖にその呪縛からの解放を呼び掛けるものでなければならない。それ一ト口に“勉強”とは云うてみても、自己に根付いた日教組史觀を木っ端微塵にするまでには、中々大變な作業だ。一々名前を列擧することは控へるが、日乘を拜讀する限りに於て、試行錯誤や苦學の跡が伺へる人があつて、まことに敬意を表するものである。
 已んぬるかな、今に云うても仕方なきことであるが、戰後の教育界がもつと確りしてをれば、この分の勞力は、少からず省略出來た筈なのだ。

 それを考へたとき、先人は進んでゐることが識れる。およそ四百年前、已に山鹿素行先生は、徹底とした日本第一主義の信念を抱き、日本を以て「中華」「中國」とさへ明言してをられる。
 比して今、日本の保守を自稱し乍ら、支那を中國と尊稱し躊躇はず、あまつさへ耶蘇暦を愛用する人ら少からずあるをみるに、野生が冒頭の言に至るも決して無理からぬ觀測であると諒せられよ。


山鹿甚五右衞門先生、延寶三年『配所殘草』に曰く、
我等事以前より、異朝之書物を好み、日夜勤め候ふて、近年新渡之書物は存ぜず、十ケ年以前迄、異朝より渡り候ふ書物、大方殘らず一覽せしめ候ふ。之に依つて覺えず、異朝の事を諸事宜く存じ、本朝(即はち、皇國のこと也)は小國故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出來候ふと存じ候ふ。
此の段は我等ばかりに限らず、古今之學者、皆、左樣に心得候ふて、異朝を慕ひ學び候ふ。近頃初めて此に存じ入り、其れ誤りなりと知り候ふ。耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てゝ遠きを取り候ふの事、是非に及ばず。誠に學者の通病に候ふ。詳らかに中朝事實に記し候へば、大概を爰に記し置き候ふ
』と。(原文は漢文。括弧は野生による)

 素行先生の茲に云はれる「異朝の書物」を、所謂る「權利」であるとか「民主」であるとか畢竟するに西歐の思想と置き換へて現代を觀察すれば如何。誰れか、素行先生の、ひとり舊き御苦情と一笑する者あらむ。


 又た曰く、仝
『本朝は、天照大神之御苗裔として、神代より今日まで、其の正統一代も違ふ候ふこと之無く、藤原氏補佐之臣まで、世々斷えずして、攝■(「竹冠」+録=ろく)之臣相續き候ふの事。亂心賊子之不義不道なること之無く候ふ故なり。是れ仁義之正徳甚だ厚きなる故にあらずや。次に神代より人皇十七代迄は、悉く聖徳の人君相續あり。賢聖の臣補佐奉りて、天道の道を立て、朝廷の政事、國郡の制を定め、四民の作法、日用衣食、家宅、冠婚葬祭の禮に至るまで、各々其の中庸を得て、民やすく國平らかに、萬代の規模立ちて、上下の道明らかなるは、是れ聰明聖知の天徳に達せるにあらずや。況んや武勇の道を以て曰はば、三韓を平げて、本朝へ貢物をあげ、高麗を攻めて其の王城を落し入れ、日本の府を異朝に設けて、武威を四海にかゞやかす事、上代より近代迄然り
本朝の武勇は、異國までも恐れ候え共、終ひに外國より本朝を攻め取り候ふ事はさて置き、一ケ所も彼の地へ奪はるゝ事なし。されば武具、馬具、劍戟の制、兵法、軍法、戰略の品々、彼の國の及ぶ處にあらず。是れ武勇の四海にまされるにあらずや。然れば、智仁勇の三は、聖人の三徳也。此の三徳の一つもかけては聖人の道にあらず。今此の三徳を以て本朝と異朝とを、一々其の印を立て校量せしむるに、本朝遙るかに勝れり。誠にまさしく中國といふ可き所、分明也。是れ更に私に云ふにあらず。天下の公論也。上古に聖徳太子ひとり異朝を貴びず、本朝の本朝たる事を知れり。然れ共、舊記は入鹿が亂に燒失せるにや、惜しい哉、其の全書世に顯はれず』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ。括弧は野生による)


●遡ること、寛文の九年、素行先生、『中朝事實』序文に草して曰く、
『~略~ 愚生、
中華(皇國のことなるべし)文明の土に生まれて、未だ其の美を知らず、專ら外朝の經典を嗜み、■(口+「謬の右側」=かう)々其の人物を慕ふ。何ぞ其れ放心なる乎、何ぞ其れ喪心なる乎。抑も妙奇なる乎。將た尚異なる乎。夫れ
中國(しつこいやうだが、皇國のこと)の水土、萬邦に卓爾し、而して人物は八紘に精秀す。故に神明の洋々、聖地の綿々、煥乎たる文物、赫乎たる武徳、以て天壤と比す可き也』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ)



 嘗て林道春(羅山)といふ痴れ者があつた。道春は徳川の御用儒者だ。而、骨髓まで汚染された慕夏主義者だ。道春は、我が相模國の痴漢、廉恥も教養も將た又た神罰をも識らぬ中巖圓月なる僧が主張したる「天□中國人説」に同調した腐儒者の極はみだ。
 しかしながら斯くの如き道春が、幕府御用學者の權威を擅恣したその一事實を以て、如何に當時の學問が歪みに淫してゐたか察せられよう。當時幕府による嚴しい統制下にあつた時代を鑑みれば、今日の日教組の影響と同日の論ではあるまい。
 素行先生は弱冠九歳にして、この道春の門下に遊んだ。されど聰明なる素行先生は、克苦求學を累ね、遂に道春と當時瀰漫してゐた支那崇拝思想、事大主義に一大斧鉞を加へた。
 素行先生の學統には後の吉田松陰先生あり。松陰先生の高弟に維新の傑物が續出したことは何びとも識るところである。



●蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 徳川幕府上期 下卷 思想篇』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)に曰く、
『彼れ道春は、我が 皇統を以て、或は呉の太伯に、或は夏の少康に繋いでゐる。而して彼が此の思想は、彼の子春齋の、本朝通鑑を編するに至る迄、蹈襲せられ、日本の始祖を、呉の太伯の胤と特筆するに至つた。
 惟ふに道春父子の此の思想は、必ずしも史實に根據したる、確乎たる見解にあらず。唯だ其の胸中に充滿したる慕夏思想よりして、斯く判定したるものであらう。是れ尚ほ今日の日本に於て、故らに白皙人種を崇拜するの餘り、日本人を以て、異色人種にあらず、白皙人種なりと云ふの類であらう。而して素行の中朝事實は、此の慕夏思想に向つて、一大正面攻撃を與へたものである。素行は單に日本と支那とは、水土の殊なるが爲めに、支那流儀を、その儘日本に應用す可からずと云ふに止まらず。直ちに日本を以て、中華とするものである

 又た曰く、
後來、會澤安(正志齋)の新論の如きも、其の感化を、一般社會に及ぼしたる點は、中朝事實に比して、數倍乃至數十倍なる可きも、其の日本第一主義、日本至上主義の鼓吹者としては、固より此の中朝事實に、數歩乃至數十歩を讓らねばなるまい。彼の前にも、彼の後にも、諸般の思想を把持した者はあつたに相違ない。然も未だ彼が如く張膽明目して、之を闡明、論究したものは無かつた。此點に於ては、彼れ山鹿素行は、確かに同時代の第一人者であつた』と。





by sousiu | 2012-01-11 01:22 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(0)

河上彦齋先生 

 過激な攘夷家と云へば、河上彦齋先生を忘れることが出來ない。
 肥後の彦齋先生を記する忘れるならば、もつこすゞきだ君から苦情が寄せられてしまふ。


 勝海舟翁の談話に曰く、
 『澤山な刺客に會つたが、河上彦齋丈は恐ろしかつた』と。如何に當時の要人をして恐怖せしめてゐたか窺ひ識れる。

 亦た、河上彦齋言行録をみるに、
 『彦齋の長州に在る時、桂小五郎と一見舊知の如し後、彦齋、小五郎と京都に會し、共に手を握つて時事を談す。小五郎説稍々攘夷の爲すべからざるを云ふものゝ如し。彦齋忽ち髮立ち眦裂け直ちに起つて(怒つて、乎)小五郎の鼻を捻み大喝これを叱して曰く、足下も此説をなすか、と。小五郎は只默然として已むと明治四年小五郎朝命を奉して歐洲に航するや竊かに玉乃世履を招きて之に託して曰く、足下肥後の藩士河上彦齋と云ふ者を知らずや。彼洵に一世の豪傑と云ふべし。然れども今猶攘夷の説を唱へ頑として動かすべからざるものゝ如し。思ふに他日國家に■(不明)毒を流し文明の針路を支ふる者は別人にあらすして必す彦齋ならん。足下願くは吾の未だ歸朝せざるの前に於て之を除くの計をせよと。世履も亦之れを然りとして退いた、と』とある。括弧及び括弧内、野生による。

 彦齋先生は狂人のごとく、「人斬り彦齋」として恐れられてゐた、と傳へられてゐるが、果して奈何。



●澤田和一氏、『死もまた愉し 勤皇志士河上彦齋の生涯』(昭和十七年八月「長谷川書房」發行)に曰く、
『文久、元治から慶應年間にかけて、彼の手にかゝり最期を遂げたものは、かの佐久間象山を始め十數人に上つてゐるといはれてゐる。そこで、世間の一部では、東の近藤勇(徳川方、新選組の隊長で後官軍の手で斬らる)に對し、西の中村半次郎(後の桐野利秋であり、陸軍少將となつたが西南の役で戰死)とわが河上彦齋を『殺人三人男』と稱し、或はまた薩摩の田中新兵衞(姉小路暗殺の嫌疑を受け自殺)と土佐の岡田以藏(武市半平太の門人で獄中で同志の祕密をしやべつて沒落したといふ)それに河上彦齋を加へて、殺人の三名人といひ、さらにまた河上彦齋に對しては「人斬り彦齋」などゝいふものがあるが、それは大衆小説などが興味本位に取扱つただけのことであり、彦齋は他の四人はいざ知らず、故なくして人を斬るやうなことは一度もなかつた。尊王の大義を阻止するもののみを狙つたのである』と。括弧及び括弧内、原文マヽ。

 彦齋先生は、單なる狂犬にも似た攘夷家ではない。正しく尊皇攘夷の士であつた。


●太田天亮翁、『維新史料』(「野史臺」發行)に曰く、
『彦齋、人と爲り白哲精悍、眼光人を射る躯短にして齒出つ。人に接する恰も婦人の如し。幼にして奇氣を帶び常に謂て曰く「大丈夫雄を亞細亞の中央に稱へずんば當さに獄に倫龍の府に繋がれんのみ」と。其氣宇の豪邁斯の如し』と。

●元治元年七月十一日、祇園社前の榜にある斬奸状に曰く、
『松代藩 佐久間修理
此者元來西洋學を唱ひ交易開港之説を主張し樞機方へ立入 御國事を誤候大罪難捨置候處 剩へ奸賊會津彦根二藩に與同し中川宮へ事を謀り恐多くも九重御動坐 彦根城へ奉移候義を企 昨今頻に其機會を窺候大逆無道 不可容天地國賊に付即今日於三條木屋町加天誅畢
但斬首可懸梟木に之處白晝不能其儀者也
元治元年七月十一日
皇國忠義士』
(この者、元來西洋學を唱へ交易開港の説を主張し、樞機方へ立ち入り、國事を誤り候大罪捨て置き難く候ところ、剩へ奸賊會津・薩摩二藩に與黨し、中川宮へ事を謀り、恐れ多くも九重を御動坐、彦根城に移し奉り候義を企て、昨今頻りに其の機を窺ひ候大逆無道、天地に容るゝ可からざる國賊に付き、今日三條木屋町に於て、天誅を加へぬ。但し斬首して梟木に懸く可きのところ、白晝其の儀に能はざるものなり)

●吉武定夫氏『河上彦齋』(昭和二年三月「河上彦齋建碑事務所」發行)に曰く、
『先生が象山を暗殺したのは單に開國論者と云ふばかりでなく、遷都を企て討幕の計畫を破壞したのが主因であつた』と。


●彦齋先生、林櫻園先生の門に入りて皇學を修め、感激して曰く、
『國體の大本に通ぜざれば敬神尊王の道を全うするを得ず。敬神尊王の道全うして始めて世道を興し人心を正しうし以て邦家の治平を永遠に保維することが出來るのである』と。


 さて。慶應四年正月十五日、明治天皇は御年十七歳にして元服を加へ玉ひ、新政府の組織成ると共に、施政の大方針を天下に宣し給ふた。而して同年三月十四日、紫宸殿に御しまして、維新五箇條の御誓文を御宣誓あらせられた。彦齋先生この時は獄中。

●澤田和一氏は『彦齋若し自由の身であつたならば(慶應四年三月十四日の時)、欣喜躍雀として錦旗の下に大いに翼贊し奉り、幕軍を惱ましたであらうのに・・・。獄舍にある彦齋としてはどうすることも出來なかつた。只獄卒どものさゝやきを聞いてはこの空氣を知り、端然として 皇居の方をふし拜み、大業の完成をひたすら祈るのみであつた』と記してゐる。



 犧牲者は時代變轉の前にばかりあるものではない。變轉後にもあるのである。
 皮肉にもかくもおほくの、尊皇攘夷を唱へる先達によつて、皇國の中興は遂げられ、今又た再びこの一大事業を必要としてゐる。
 これから栃木縣へ向かはねばならぬので、尻切れ蜻蛉の感があるが、彦齋先生の攘夷運動に就ては他日又た、機を得て愚論を記したく思ふ。





by sousiu | 2011-10-23 14:24 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(2)