カテゴリ:先人顯彰( 47 )

橘曙覽翁の志操を想ふ 

 道の先輩である盛兄が骨折をきたし紀州某郡に入院され、お見舞ひがてら同郡某村に宿泊。
 目下兄は安靜療養の甲斐ありて順調に囘復してをるとの由、一ト先づ安心である。
 然るに兄、入院中一意專心、先人の書物をば讀み漁つてをられる樣子にして、面會するにつけ一時間、時には二時間も意見を述べられる始末、まことに精神旺盛にして氣力は健在なり。その姿勢にはただゝゞ感服せざる可からざるものである。

 野生も日頃の怠惰を反省させられ、偶には當日乘も更新せんことには、と久しぶりに書くを試みるものである。尤も、既に一年半も停止してをる日乘なれば、愈々閑古鳥も鳴き疲れるころであらうので、ブランクを取り戻すにも丁度良いといふものだ。

 而して兄の堅固なる志に觸發された野生としては、こゝで橘曙覽翁の哥を掲げたい。これでも野生、些かも微志を閑却したつもりはないのであるが、何せ處理能力乏しきがゆゑ日頃の雜務を言ひ譯に、反省す可きことがら決して少なくないのであるから。曙覽翁の哥を掲げて、今日の反省をより深きものとするものである。

 曙覽翁は越前國のひと。清貧を旨とし志至高たる翁を聘せんと春嶽公は、侍臣中根雪江を遣ひて出仕を命じたるも翁はこれを固辭。曙覽翁は清貧にしてその生涯を貫いたのであつた。『獨樂吟』の哥を拜するに翁の貧苦、思ひ至れるものあらむ。


○橘曙覽翁の哥(『獨樂吟』所收)

 たのしみは 錢なくなりて わび居るに
    人の來りて 錢くれし時

 たのしみは 雪ふるよさり 酒の糟
    あぶり食ひて 火にあたる時

 たのしみは 木の芽にやして 大きなる
    饅頭を一つ ほほばりしとき

                    


 然り乍ら翁、一ト度び敬神尊皇の志を吐露するに於て、その熱心、激甚なるものありとす。

   高山彦九郎正之
 大御門 そのかたむきて 橋の上に
    うなじ突きけむ 眞心たふと


   をりにふれて
 吹く風の 目にこそ見えね 神々は
    この天地に 神つまります


 國汚す 奴あらばと 太刀拔きて 
    仇にもあらぬ 壁に物いふ

 たのしみは 鈴屋大人の 後に生れ
    その御諭を うくる思ふ時




○正岡子規、明治卅二年三月廿四日『曙覽の歌』に曰く、
「余は思ふ、曙覽の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覽が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと。けだし彼に不平なきにあらざるも、その不平は國體の上に於ける大不平にして、衣食住に關する小不平にあらず」と。

 皇政復古の偉業成る(慶應三年十二月九日)、その約十个月後の慶應四年八月廿八日、越前福井三橋の志濃夫廼舍にて曙曙覽翁は五十七年の生涯の幕を閉ぢた。
 一年に滿たざると雖も、新代を迎へる榮に浴した翁の慶び如何許りかあらむ。


 天皇の 大御使と 聞くからに
    はるかに拜む 膝折り伏せて

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by sousiu | 2016-01-19 23:47 | 先人顯彰

大川周明博士 

 今日まで國學者に就て記するに、荷田春滿大人→賀茂眞淵大人に止まつてゐるが、折をみて續けて行かねばならない。何故ならばそれ、今日ほど、否、詳しく云へば今後ほど、近年に於て「國學」を大事にせねばならない時代は無い、と考へてうたがはないからである。

 日本人は明治時代の開國政策以降、急速度に流れる時代のなかを生きた。新らしき時代に於て、對外に於ける鎖國から開國、對内に於ける政治制度の刷新には充分愼重に歩を進める可きが穩當であつたにも拘らず、國内外の迫りくる事情がそれを許さなかつた。
 その爲め、時にその意志に拘らず、或は意志に反して、時代に流されるあるの感さへ少なくなかつた。
 明治以降の、實に奔流よりも速い時勢の推移も敗戰を經て六十年を過ぎ、漸く落ち着きつゝある。何故ならば國際社會の舞臺に於て日本は現在、半獨立國家としての機能しか有してをらず、好ましからぬことではあるけれども、完全に自立してゐない分だけ(皮肉を籠めていへば)氣樂な立場にあつたわけだ。北朝鮮が經營の爲めに腐心を抱き、日々せはしき状況より脱せられないことゝ比較すれば能く分かる。
 已むを得ず、かくなる立場に立たされた爲めに、日本は戰後、經濟活動を最優先として力を傾けることが出來た。それが良かつたのか惡かつたのか、功罪兩つながらあると思ふがこゝでは問はない。復興が成し遂げられ、それ以上を望み「金滿大國」などと揶揄されながらも經濟大國の地歩を占めたが、これまた頓挫した。
 そろそろ、明治以降の激流から、少し冷靜になる期間が必要であると思ふ。明治以降のせはしき状況に迫られ、つひ忘れてしまつたものを再び取り戻さねばなるまい。即はち「日本的大自覺」だ。それには「國學」が必要だ。

 開國にも功罪の兩つが存した。罪の最たる可きは、御一新以前に存在し得なかつた儒佛以外の多くの思想が流入してしまつたことだ。野生は今日直ぐ樣これらを追放せよ、とまで云ふではない。但し、かれらの流入により動搖してしまつた日本人の大自覺を取り戻す必要があるとは云ふ。

 これに關して、以下、大川周明博士の好例を擧げたいと思ふ。些か長文となるが、閑暇ある御方の御一讀を賜はりたい。


●大川周明博士、『日本的言行』(昭和五年十一月廿日「文録社」發行)「太宰春臺と本居宣長」に曰く、
『異邦崇拜は今日の日本に於ても甚しくある。而もキリストを崇拜し、マルクスを崇拜し、レニンを崇拜し、ガンデイを崇拜する當今の日本人と雖ども、恐らく太宰春臺が徹底して堯舜を崇拜せるには比ぶべくもないと思はれます。ひとり春臺のみならず、徳川時代の儒者は、若干の例外を除けば、概ね春臺と五十歩百歩の支那崇拜者であつたのであります。
 是くの如き時に當り、賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤等の國學者が、一代の中華心醉に宣戰して、日本思想の闡明、日本精神の確立に心碎けることは、吾等をして雄風を今日に仰がしめるものであります。わけても異邦崇拜のこゝろ、深く國民の魂に巣くひつゝある今の世に、日本主義を奉じて屹立せんほどの者は、常に感激の泉を此等先賢の精神に汲むのことを忘れてはなりませぬ

『(本居宣長大人の)警告は移して直ちに今日の歐米心醉者に加へられるべきものであります。徳川時代に學問と言へば漢學のことなりし如く、今日に於ては横文字のみが眞理の庫を開く鍵なるかの如く考へる者が居る。歐米の事とさへ言へば、巴里の横町の小料理屋の話までが、誇るべき知識とされて居る。而して神武紀元何年なるかを知らなくとも、些かの恥ともされて居ない。西洋の社會史は研究されるけれど、日本社會史の研究は少數專門家の手に委ねて顧みようともしない。社會の進化乃至改造を論ずる者も、西洋の社會と日本の社會との異同をさへ明かにせんとせず、直ちに西歐學者の唱ふる原理を日本にも適用せんとする。マルクスの思想を眞理なりとして、之を立證するために引用し來るものは總て西洋の歴史であります。試みに「マルクスの原則に從つて日本史を説明せよ」と設問すれば、日本の歴史は之を知らずと答へて平然たる爲態であります。外交上の論議に於ても、例へば米國の邦人移民排斥を論ずるに當り、ひたすら同胞の米國に於ける行動の非を擧げて、米國の立法にの止むを得ざるを辯護する學者が少なくありませぬ。まことに「皇國をばよその國の如くもてなさんとする」者であります。吾等は斷乎として此の主客顛倒を改めねばなりませぬ。而して總て日本的に思ひ且行はねばならぬと存じます』と。


 かく述べる大川周明博士をして、若年乃至壯年は、樣々な信仰及び思想を彷徨うたのであつた。博士の魂の遍歴を、順を追うて窺つてみよう。
●大川周明博士、『日本精神研究』(昭和十四年十一月廿五日「明治書房」發行)に曰く、
『精神多年の遍歴の後、予は再び吾が魂の故郷に復り、日本精神其者のうちに、初めて予の求めて長く得ざりし莊嚴なるものあるを見た』

 曰く、
『吾が心の至深處に沸き、徐ろに全我を潤ほし去れる要求に動かされ、予の若き魂は、其の一切の矛盾と撞着と熱情とを抱きつゝ、みだりに先賢古聖を思慕し、彼等の辿れる登高の一路を予もまた辿りて、親ら精神的高嶺の絶巓を摩すべく、實に踴躍して郷關を辭した』

 博士は先づ、基督教を信奉した。曰く、
『此路の嶮難は、之を蹈破したるもの等しく知る。そは深き疑あり、長き悶あり、多くの涙がある。予は小禍に頓挫し、微憂に懊惱して、救を基督に求めたこともある。何者を以てしても赦さるべくもなしと信じたる道徳的苦惱を感じたる時、而して其爲に心遲れ眼闇みて、向上の氣力盡き果てんとしたる時、基督予に來りて懇ろに教へた――「如何に微かなりとも汝の心裡に尚ほ一脈の光さへあれば、如何に困憊しても汝の精神に高きを思慕する心が聊かでもあれば、而して最後の教の叫びを擧げさへすれば、神は汝の爲に其の餘燼をして炎々と燃え立たしめ、沈み行く夕陽を轉じて新しき生命の曙たらしめる」と。予は此教に力を得て、幾多の難關を事もなく過ぎた。此時に當りて予は思つた、基督の神こそは、予の爲に寂しき時は友、傷く時は母、過つ時は師、弱き時は父、是くの如き高貴なる先達は他に求めて斷じて得られないと。
 後に至りて、予は予が其時に猶太人から與へられた丁度其ものを、法然親鸞の宗教に於て見た。遠くは印度の世親、近くは南北朝の曇鷲・道綽の淨土思想を繼ぎ、之を鮮明なる一個の宗教たらしめたる善導の信仰が、滅後五百年にして一朝法然上人の宿願を滿足せしむるや、機縁忽ち熟して日東さながら一個の淨土教國となり、南無阿彌陀佛の稱名はいろはより先に耳馴れたるものなりしに拘らず、却つて先づ基督によつて教へられたと云ふことは、予の魂が夙く故郷を出でて遍歴の旅路に出たからである』と。

 而、博士は敬天思想をも尊んだ。曰く、
『而して更に後には、儒教の見えざる根柢となりて、孔孟以來一貫脈々たる天の信仰其者に、また實に神往禁じ難い宗教意識の潛めるを見た。また其源を上代日本の信仰に發し、儒教佛教と共に國民精神の裡に鎔造化育せられ、武士の魂によつて百練千磨せられたる士道――道義と宗教とを渾一したる實踐的規範其者に於て、眞に莊嚴偉烈なる信仰を見た』と。

 然るに博士はこれらに絶望をみる。而して博士は博士を絶望せしめたる、その因を探した。曰く、
『登山半ばにして予は越しかたを振返り、山の麓に遑々如として奔馳する多くの人々あるを見た。而して彼等が更に精神的高嶺を仰ぎもせず、從つて向上登高の志なきを悲しんだ。予は其の重大なる原因が、彼等の貧苦に在るを見、彼等の貧苦の重大なる原因が、制度の缺陷に在るを見た。予は教會の牧師が壇上より肉に死して靈に活きよと説教しつゝある間に、予の背後より醵金箱が順次に廻り來るを見て、如何にして斯かる矛盾に平然たり得るかと怪しんだ』と。

 而して、博士はマルクスを仰いだ。曰く、
『予は總じて物質を偏輕する道徳の虚僞に憤を發した。名手は鈍刀を揮つて銕尚ほ斷つ可し、而も是れ凡夫の企及すべき所ではない。現代に於ける黄金の萬能は、動かすべくもなき事實であり、宗教と言はず政治と言はず文藝と言はず、世にある總てが黄金の爲に左右されるのを目の當り見て居る者に、財寶を卑むべしと教へたところで、何の效果を期待し得るか。仁義五常の道を蹈めと人に迫る者、世の悖徳亂倫を嘆く者は多い。さりながら彼等が言ふ通りの路を進めば、忽ち貧苦の淵に陷るか、又は奸譎なる小人の乘ずる所とならねばならぬ。かくて予は社會制度の根本的改造を必要とし、實にマルクスを仰いで吾師とした』

 次いで博士は古代のギリシヤに傾倒した。曰く、
『予の魂は、或時はまた希臘の古へに旅して、プラトンと共に住んだ。予はプラトンが、皎々たる善の理想を仰ぎつゝ、之を「國家」に實現せんと勇み立てる姿に於て、基督とマルクスとを一身に兼ねたる偉人を見出だせる如く感じた。彼の國家理想を知り得たる時、予は基督もマルクスも最早吾師に非ずと思つた。
 プラトンの國家は、吾等の精神の情欲に相當する農工商、意志に相當する武士、理性に相當する統治者の三者より成る。農工商は國家の經濟的基礎をなし、其の健全なる基礎の上に、國民は安らかに善の理想を辿り行く、武士は、外・劍を執つて外敵を防ぎ、内・統治者の命令を奉じて國家の安寧に任ずる。彼等は武を練りて有事の日に備へるのみならず、心を哲學に潛めて其魂を鍛え(※マヽ)、一點私利私欲の念を抱かず、全我を擧げて公に奉ぜねばならぬ。而して統治者は、理性の體現者として、善と理想に從つて國家を統率する任務を帶ぶ。彼等は渾身の力を擧げて精神至高の努力に從ひ、實在常住の理想たる善の理念を把握せねばならぬ。其の選ばれて治者となれば、願はしき事としてに非ず國家の爲の必然の義務として主權を帶び、任滿つれば去つてまた哲學的思索に沈潛する。
 予はプラトンの國家論を讀んで、若年漢學者の塾に在りし頃、漠然と揣摩したる「王道は文を以て始まる」の深意が、初めて明瞭に會得せられたる如く感じて堪え(※マヽ)なかつた。而して予は後に儒教殊に「大學」の中に、プラトンと同一なる思想の流れを見、更に熊澤蕃山・横井小楠の思想が、其の據つて立つ所の根本精神に於て、全く符節を合するが如くなるを見た』と。

 更らに博士はアメリカの思想家やドイツの神祕主義者に釘付けとなつた。曰く、
『登山者が淋漓たる血汗を流せる後、岩角に腰下して四邊の絶景に我を忘れる時ある如く、予の魂も亦屡々同樣の歡喜を味はつた。
 予の魂は先づヱマソンに惹付けられ、ヱマソンより獨逸の神祕主義者に惹付けられた。予は彼等と共に住む間に、一切の個人を貫く一個の心あるを知り、此心の源頭に溯れば、古賢の思索せる處を思索し、古聖の感じたる處を感じ、時と處との如何を問はず、苟くも人間界の事、總じて了解せられざるなきを知つた。千の森は一個の檞(「木」+「解」=かしは、柏)の實の裡に在るが如く、一個の人間は一切を藏するを知つた。個人は實に宇宙に普遍なる心が一人に體現したるもの、從つて普遍なる心の一切の屬性は、個人の裡に在る』と。

 而して曰く、
『さり乍ら、此の道理は、既に陸象山・王陽明が道破して居た。しびれを切らしつゝ昔教はつた孟子の中にも、萬物我れに備はると書かれて居たのである。而して斯かる心裡の風光は、蘇東坡が殆ど歌ひ盡して居た。今にして思ふ、日本在來の思想信仰と縁遠かりし歐米思想、予の祖父などは言ふにも及ばず、父すらも其名を知るまじき亞米利加人や獨逸人の思想が、千年以來日本精神に浸透せる儒教思想よりも、一層以前に予の魂を動かしたのは、思想其者に非ず唯だ其の表現の清新巧緻なるに心惹かれたる故であると。
 而も此點に於て、禪門幾多の文藝が、實に花は蜀江の綿を織りて予の來るのを待つて居た。唐宋六百五十年に亙る禪門の詩文は、此種のものとして恐らく世界に比類なき文献と言はねばならぬ。中古以來吾國に弘通[ぐつう]したる以後、諸多の高僧知識が遺したる語録乃至頌古も、其の思想の深奧、文字の清新、表現の自在、氣韻の溌溂に於て、ヱマソン其他に比して些の遜色ない。乍併(※しかしながら)予の是を知つたのは後のことである』と。

 然るに今度はイタリアの哲學者、博學者に惹かれた。曰く、
『予の魂は美しき伊太利を訪ひ、わけてもダンテとダヰンチに惹付けられた。ダンテが、基督に叛けるユダと共に、シーザーに叛けるブルータスを地獄のどん底に投げ入れ、此世の王國と靈の王國とを等しく重んじて、基督とシーザーとを同功とし、ユダとブルータスとを同罪とせる思想、又は彼れの雄渾なる世界帝國建設の理想は、深刻なる暗示を予に與へた。~中略~
 または往くとして可ならざるなきダヰンチの、絢爛にして豐麗なる天才は、予をして人間精神の偉大複雜なるに驚嘆せしめ、自家の心裡、また一朝にして百花繚亂の春に遇へるが如く感ぜしめられた。そのころ東京帝國大學文科大學に泰東巧藝史を講じ、予も亦其の聽講生の一人たりし岡倉覺三師、明治年間を通じて異類の天才なりし師の風格に、ダヰンチの俤ありとして獨り喜んだこともある』と。

 さらに博士の魂はオランダを遊歴した。曰く、
『予の魂はまた和蘭に往きて「聖なる破門のスピノザ」を訪ひ、其の「倫理」を熟讀して、ゲーテと共に「かほどまで明かに此の世界を見し事なし」と思つたこともあつた。去つて近代獨逸を遍歴しては、偉大なる哲學者の群、林の如く聳ゆるを見、崇敬にも近き心を抱いて彼等の書に就いた。わけてもヘーゲルとフイフテとは最も深甚なる感激を予に與へた。予は實に日本に思想なしと思つたことさへある』と。

 やがて心は印度を放浪した。曰く、
『予の魂はまた幾年となく印度を遍歴した。殊に聖薄伽梵歌の思想信仰は、予に取りて今日尚ほ神聖なるものである。予はアンニ・ベサントが梵英對譯して出版せる掌に隱れるほどの小册を、肌身離さず持ち歩いた時代もあつた。而して其の薄伽梵歌が、予に下の如く教へたのである――「假令劣機にてもあれ、自己の本然を盡すは、巧に他の本然に倣ふに優る。自己の本然に死するは善い、他の本然に倣ふは恐るべくある」と。
 予は當初この教訓を個人の上のみ解して居た。道徳は模倣を許さずと云ふ倫理的原則、カントによつて其の精細なる論理を闡明せられたる此の原則が、逸早く此の古典に於て確立されて居たことは、予の最も會心事とせる處であつた。然るに其の後に至り、これまで專ら内にのみ向けられたりし予の眼が、漸く外にも向けられ初め(※マヽ)、政治的現象に深甚なる關心を覺へ(※マヽ)るやうになつてから、予は此の原則が個人の上のみならず、實に國民の上にも同樣に適用せられねばならぬことを切實に感じた。予をして多年の精神的遍歴より、再び魂の故郷に歸來せしめたるものは、他なし此の自覺である』と。

 大川周明博士の魂は、つひに 皇國に歸來した。曰く、
『此時より以來、予の魂は專ら祖國を跋渉した。而して其の名山大川に初めて全我の滿足を得た。げに假令劣機にてもあれ自己の本然を盡すは、巧に他の本然を倣ふに優る。如何に況んや日本の本然が、啻に劣機に非ざるのみならず、實に森嚴雄渾なるを知りたる以上、予は勇躍して予の全心身を日本其者の爲に献げねばならぬと感ぜざるを得なかつた』と。

 こゝに云ふ「自己の本然を盡すは、巧に他の本然を倣ふに優る」の「自己」とは、云ふまでもなく日本的自覺のことを差してゐる。「予は實に日本に思想なしと思つたことさへある」とまで思ひ遲疑しなかつた大川博士が日本的大自覺を抱いたとき、その信仰と思想は、これまで仰慕した凡ゆる國々の思想を遙かに凌駕してゐたことを識るのである。
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●『日本的言行』に曰く、
試みに問ふ、いづれの處にか櫻に非ず、梅に非ず、牡丹に非ざる「花」があるか。花は一個の理念としては存在する。而も此の理念は、必ずや櫻・桃・梅・菊等の特殊の花として咲き出づることによつて、初めて實在となるのである。それ故に梅花は、梅花として咲く以外に、決して花たることが出來ない。梅花として咲くことによつて、花の理念が初めて實現せられ、花の花たる所以が發揮される。こは正しく人間の場合に於ても同然である。
 拒むべくもなき事實として、一切の人間は必ず孰れかの國家又は民族の一員として生れて來る。日本人に非ず、支那人に非ず、米國人にも非ざる「人間」は、實在としては決して存在しない。そは唯だ一個の理念として存在するだけであり、而して此の理念は必ず民族又は國民として實現される。故に日本人は日本人として、米國人は米國人として、それゞゝの面目を發揮することが、取りも直さず人間の面目を發揮することゝなる。從つて眞個の國民となりてこそ、初めて眞個の人間となり得る道理である。此の順序を誤るのは抽象的論議より來る顛倒の見である。吾等日本國に生れたる者は、第一に日本人であらねばならぬ
』と。


 これ啻に大川周明博士その人ひとりのみを特例とするでなく、民族總じて斯くあらねばならず、又た、有志の立志獻身如何によつては斯くなるものと信じていさゝかも疑はない。乃はち、天竺崇拜、唐國崇拜、天國崇拜、西洋崇拜、而、個人崇拜、權利崇拜、黄金崇拜などの錯覺、醉夢、動搖より目覺め、魂 皇國の許へ歸らんことである。その爲めにも、固有にして神聖たるの思想と信仰を學び、且つ、傳へてゆかねばならぬのである。
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by sousiu | 2013-05-07 02:03 | 先人顯彰

贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿三。明和六年己丑神無月晦日 

 本日は、晴天。氣分良く起きてみれば、例の伊勢の下山君から、居留守を見破つた借金の取立て人かの如き着信の嵐。
 寢てゐる間に崩れてゐた本の山を片付け、屆いた「芳論新報」の配送作業を行なひ、而、下山青年は今、野生の隣にゐる。汗顏。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


 賀茂眞淵大人に關して記事を始めて約二个月だ。まだゝゞ書き足りず、且つ學ばねばならぬことも澤山あるのだが、取り敢へず、本日で一旦、擱筆しようと思うてゐる。
 眞淵大人は、明和六年十月卅日、おん年七十三にて瞑せられた。清宮秀堅翁の『古學小傳』上卷(安政四年)では、
『明和六年己丑/七三/  二月、語意考成。自跋アリ。宣長、西村某ガ請ニヨリ序ヲカク。○山問文神代卷刻成。○十月晦日身マカリヌ』
 とある。最晩年である明和六年にも出版を重ねてゐたのであるからして、その生涯は將さに學問、研究、發表であつたと謂ふ可きである。否、之に加へて、子弟、後進の教導にも餘念が無かつた。大人の生涯を通じたその成績は、既述したる門下の偉才によつて明らかである。



●『岡部家譜考證』(村田春海翁)「翁の歿年の事」に曰く、
『翁の年を、家譜に七十四とあるは、後人の翁の事を書きそへたる時の誤なり。翁は明和六年十月晦日に終はられて、年は七十三にてなむありし。これは春海など、をさなきときより常に翁の年の事、いはるゝをば、聞きしりたることにて、まがふべくもあらねど、世移りなば、うたがふ人もありぬべければ、今ここにくはしくいふべし。翁のよまれたる萬葉集に、手づから考とも、書きくはへられたる本の奧書に、所々年をしるされたり』と。

●清水濱臣翁『泊洦(山水+百)筆話』に曰く
『縣居翁一世の年譜行状は、別にくはしくかむがへしるさんの心ざしあればいはじ。家集は、吾師の筆記し置き給へる岡部家譜考證一卷ありて、いとくはし。墓は武藏國荏原郡品川驛東海寺地内、少林院の山上にあり。翁東都に下られてより、南郭先生といとしたしくむつびかはされつゝ、詩を先生に學ばれしに、先生は國學を翁にとはれて、互によき學びがたきにおはせしかば、先生の墓所も、此寺なるちなみに、翁も墓地をこゝにしめおかれしとぞ。墓石の正面には、芳宜園[千蔭]の書にて、賀茂縣主大人墓とあり。近來芳宜園、織錦家、兩氏相はかりて、年毎の九月はつる日、此おくつきにまうでゝ、人々と共に歌よむことゝせられしより、年ごとにまうでつゝ、今も其流をしたふ人々は、その日をさだめてまうづる事になむ。翁の正忌十月晦日なれど、菊紅葉もをかしきをりとて、九月晦日に御はかまうでとさだめられしなりけり。享和元年、芳宜園のあるじ此墓側にあらたに碑文をしるし、石にゑりて建てられたり。[此碑文は芳宜園家集に出でたれば、こゝに略せり]其をり、吾師のかく碑文たてられし事をよろこびて、よまれし長歌あり。[これも吾師の家集に入りて上木に及びぬれば、こゝに略せり]』と。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


●小野古道翁 (『近葉菅根集』卷十「雜部五」文化十一年七月、清水濱臣翁編、所收)
『 賀茂のうしをかなしむうた    古道

はしきやし、あが師の君を、しのぶれば、畏こきかもよ、いそのかみ、古き宮ぶり、したひつゝ、人をもさとし、みづからも、水ゆく川の、よどみなく、み空ゆく日の、やむごなく、學びしくれば、おのづから、心ひらけて、人みなの、言葉の花も、ならの葉の、名におふ宮の、いにしへに、さきかへりてぞ、にほふなる、さあるが中に、うつせみの、世のはかなきは、玉の緒の、ながくもがなと、祈れども、神もうけずて、いかなれば、此曉の、霧ときえけむ
      さだめなき、世とはしりつゝ、思ふこと、とはではなかなく、過しつる哉      』

●岡廼舍 栗田土滿翁 ( 仝 )
『 岡部大人の、吾嬬にてみまかり給ふときゝける時、    土滿

湊べに、舟はよるとふ、ありそべに、みるはよるとふ、いかさまに、思ひよりてか、父のみの、父にもあらぬを、父のごと、めぐまひ給ひ、祚葉の、母ならなくに、母のごと、したひなづかひ、萬代に、かくしもかもと、思ひしを、思ふかひなく、うつせみの、世の事しげみ、むら肝の、心にもあらず、足曳の、山をもへなり、みなきろふ、川さへへなり、なぐるさの、とほそぎをれど、さねかづら、後もあはむと、大舟に、おもひたのみて、荒玉の、月もへゆけば、璞玉の、年もきえゆき、神無月、しぐれと共に、もみぢ葉の、君はすぎぬと、玉鉾の、道ゆく人の、およづれを、我にやつぐる、まが言を、我やきゝつる、梓弓、おとも聞えず、玉づさの、使もこねば、せむすべの、たづきもしらに、ぬえ鳥の、うらなきしつゝ、うまごりの、あやにかなしみ、よるはも、夜のあくる極み、ひるはも、日のくるゝまで、鳥がなく、あづまの空を、くまもおちず、見つゝぞしぬ、おも父のごと』

●五十槻園 荒木田久老翁 ( 仝 )
『 賀茂のあがたゐぬしの身まかり給ひぬと聞きて、    正恭

鳥がなく、東の國の、武藏野の、大城がもとは、春花の、いざ榮ゆれば、久方の、天ともいはむ、雲井なす、たとほき國ゆ、石橋の、まぢかき里ゆ、八百萬、千萬人の、いりつどひ、いばみむれ居て、うま人は、うま人さびし、いやつこはも、やつこともどち、なすわざの、みやびもあるを、幾ものゝ、手ぶりもあるを、水沫まく、眞淵のをぢは、上つ代の、かみらの道に、村肝の、心をそみ、いそのかみ、古き宮ごとを、口からに、となへもしつゝ、あぢさはふ、晝よるわかず、ひたぶるに、思ひまかして、たなうらに、とりえしことは、ふみでもち、文にあやなし、世の人に、傳へまくせり、かくしありて年もきえゆき、久方の、月日もへなば、いさをしの、ほにあらはれて、言さやぐ、からになづめる、うつし世の、うつし心も、古へに、かへらひぬらむと、大舟の、思ひ頼みて、高山の、仰ぎしをぢは、神無月、しぐるゝ雲に、いつしかも、いかくりたまひ、きえ霜の、はやく消えぬと、玉づさの、使のいへば、いはむすべ、せむすべしらず、なく涙、ひさめとふりて、衣手は、ひづちにひぢぬ、あれだにも、かくあるものを、啼子なす、つきまとはして、朝にけに、むつびし人は、旗薄うながふしつゝ、いかさまに、い歎くらむと、出る日の、東に向ひ、照る月の、空にしぬべば、玉かづら、かげにみえつゝ、うらもなく、わすらえかねて、いよゝ悲しも
      大空に、あふぎしをぢは、いつしかも、雲がくりぬと、きくがかなしさ      』

●茅生庵 楫取魚彦翁 及 鈴屋 本居宣長翁 ( 仝 )
『 會 縣居 慕 賀茂大人 歌     魚彦

春はも、花くはし、櫻のめて、秋はも、さにつらふ、もみぢをみると、人さはに、來入をり、うたによひ、さかゑらきし、あそばひし、あがたゐの君、まさでかなし、そのあがたゐあはれ

 和 魚彦 歌     宣長

あがたゐに、人さはにきいりをり、いりをりて、酒みつぐ日も、君かめの、こほしけまくは、うべなゝゝゝ、さぶしけむよ、そのあがたゐ

 此ついでにかの大人をしぬぶ哥

神風の、伊勢のうみに、よる浪の、とこよの浪の、とこしへに、かくしもかなと、はろはろに、をろがみて、わがたのみ、つかへまつりし、賀茂のうし、そのうしはや』


●芳宜園 加藤千蔭翁(享和二年刊『朮花[うけらがはな]』)
『縣居大人、みうせまして、三十ぢまり三とせになりたまひける神無月の晦日に、竹芝のおくつきのもとに、つどひて、ふるきを思ひてよめる歌、竝短歌     千蔭

四方山の、まもりにすとふ、梓弓、末の中頃、いそのかみ、ふりにし世々の、手ぶりをば、忘れいにつゝ、もとつ世に、引きもかへさず、あまた年、經にける事を、ますらをの、弓末ふりおこし、いそしくも、思ひおこして、菅の根の、めもころゝゝに、さとはせる、世の人皆を、わがうしの、道びき給ひ、弓弦なす、たゞ一すぢに、すなほなる、すめら御國の、古ことを、傳へたまへれ、新玉の、年もへなくに、古への、學の道に、村ぎもの、心をよする、人さはに、成にけるかも、かくしつゝ、五百千々の世に、天傳ふ、日のたて日のぬき、くまもおちず、行きたらはして、古へに、立かへる世を、松が根の、遠く久しく、竹芝の、いそ山寺の、おくつきを、あふがざらめや、梓弓、もとの世しのぶ、ますらをのとも
      今よりの、千歳の後に、よの人の、しき忍ぶべき、おくつき所      』


●鈴屋 本居宣長翁 (『鈴屋集』卷六、本居春庭翁編、所收)
『 縣居大人の御前にのみ申せる詞     宣長

さまゞゝ、萬葉集にいぶかしきくさゞゝ、かきつらねて、つぎゝゞにとひあきらめ、又のりながゞ、つたなき心に、おふけなく思ひえたる事どもをも、かつゞゝかきまじへて、よきあしきことわり給へと、こひ申せる、をぢゝゞの中に、いとよきさまにしひたることゞも、これかれまじれり。今より後、かくざまのことは、つゝしみてよと、深くいさめ給ふみことを、かゞふりて、いともゝゝゝかしこみ、はぢ思ふが中に、かの集の卷のつぎゝゞ、かりごものみだれてあるを、淺茅原、つばらつばらに、わきため正し給へる、うしの御心にたがひて、これはた、おのがおもほしきまにゝゝ、ことざまにしも論ひさだめて、こゝろみに、見せ奉りし事はしも、いま思へば、いとゐやなく、かしこきわざになも有ける。かれ今のみの詞をさゝげて、かしこまりまをすことを、たひらけくきこしめさへ。又うたがはしき事は、猶はらぬちに、つみたくはひおきて、ひらく時をしまつべきものぞと、をしへ給へる、まことに然はあれども、しかうたがひつゝのみあらむに、おろかなる心は、いつかもはるく時あらまし。然るに今大人のみさかりに、上つ代の道をとなへます世に、生れあひて、雲ばなれそきをる身は、御むしろのはしつ方にも、えさもらはぬものから、其人かずには、かずまへられ奉りて、心ばかりは、朝よひさらず、御許にゆきかひつゝ、百重山、かさなる道の長手はあれど、玉づさのたよりにつけては、とひ申す事どもを、いさゝかもかくさふことなく、菅の根の、ねもころにをしへ給ひ、さとし給へば、しぬばしきいにしへの事は、ますみの鏡にむかへらむごとくに、たまぢはふ神の御世まで、のこるくまなくなも有ける。かゝるさきはひをしもえてしあれば、おろかなる心に、つもるうたがひは、おのづから、ひらけむよを、まつべきにしあらずと思へば、かつゞゝもおもひよれるすぢは、さらに心にのこすことなく、おもほしきまにゝゝ、まをしこゝろみ、あげつらふになも。そが中には、しひたるも、ひがめるもおほかるべけれど、本よりすみぞめのくらき心には、それはた、えしもわきまへしらねば、よきもあしきも、たゞ明らけきうしのことわりをまちてこそと、ひたぶるにうちたのみてなも。かれいまゆくさきも、なほさるふしのあらむには、しかおもほしなだらめて、罪おかしあやまてらむをも、神直日大なほびに、見直したまへと、かしこみかしこみまをす      』

●本居大平翁 (『藤垣内集』卷三、藤垣内集翁著、所收) 
『 賀茂眞淵大人の像によみてかける歌     太平

古ことの、學のわざを、はし弓の、始めいざなひ、諸人を、教へましける、縣居の、大人の功は、鳥がなく、東の國に、名かゞせる、富士の高ねの、天そそり、高きが如く、彌高に、あふぎかしこみ、しぬびまつらむ
      ふるごとの、まなびの親と、よろづ世に、いひつぎゆかむ、縣居の大人      』


●佐々木信綱博士『賀茂翁百五十年祭を迎へて』(大正七年十月)
『今や、前古未曾有の世界的大戰爭も、漸う終を告げようとしてゐる。社會すべての方面にわたつて、戰爭諸々の變動が生ずべきことは、今日より想像するに難くない。その新しい形勢に際して處してゆくべき我が國將來の時局の重大であるべき事は、固より想像するに難くない。
 國家の將來に關するこれらの大きな複雜な問題に就いて論及しようといふのは、固より吾人の目的でない。併し、ここに考へざるを得ない一事は、國民の間に、更に新たなる國家的自覺の生ずべきであらうし、また生ぜしめなければならないといふことである。しかしこれとともに、特に述べたいことは、我等が祖國の研究といふことが、この期に臨んで當に興るべきであるといふことである。しかしてこの研究こそは、上記の自覺の基礎とならなければならぬものである。
 かく考へてくると、吾人として特に想起せざるを得ないのは、吾人の先輩たる江戸時代の國學者の事業である。契沖春滿に興り、眞淵宣長篤胤等と繼承したこれらの學者の國學上の功績に就いては、こと新らしく述べるまでもないが、それらが實に祖國に對する學問上の立派な研究であつて、この研究にもとづいた自覺が、明治の維新の源となり、やがて今日の盛代の基となつたことは、吾人の忘れてはならぬことである。吾人は、今日に於いて、實にこれらの先輩の精神を發揮するの大いに必要なるを感ぜざるを得ないのである。
 しかして今年今月は、特にこの先輩中でも最も強い光を放つた一人なる縣居賀茂眞淵翁の百五十年に當るのである。眞淵翁の透徹した識見と、凜乎たる意氣とが、その學問と相俟つて後人を激勵し感奮せしむるものの多いことは、その著作の一篇をだに讀まば、何人も感得し得べきところである。しかしてこの、眞淵翁の人格と學識とが、宣長をも生み、篤胤をも生んだのである。その更に、新たなる力となつて、新たなる祖國の研究に一大刺激を與ふべきことは、いふまでもない。かく考へ來れば、今次の百五十年祭は、決して尠少ならざる意義を有すると言はねばならぬ。
 翁の五十年祭は、今より百年の昔なる文政元年に、翁の終焉の地たる江戸、及び郷里なる濱松に於いて行はれた。江戸では、翁の學統を承けた清水濱臣、高田與清等が、品川東海寺なる少林院で、追悼の會を催した。濱松では翁の養家の梅谷家を祭場として、門弟内山眞龍を主とし、宣長門下の遠江の學者等が事に當り、歌會の催しもあつた。この時の結果として、後年岡部郷の賀茂神社の境内に、縣居靈社が建設された。斯くの如く五十年祭は相應に盛んではあつたが、なほ郷士的性質を帶びたものであつた。濱松に於ける百年祭は、更に注意すべきものがあつた。そは前々年から計畫されて居たが、恰も慶應戊辰の年に當つたので、鳥羽伏見の戰報にうながされて、遠州の國學者及び土豪等が、翁の靈社の前に盟を結んで、報國隊を組織して國事に盡くした。かくて百年祭は、當時の時勢にふさはしい別なる形式を以て營まれた觀をなした。  
 今や眞淵は、固より郷土的の人物でなく、實に國家的偉人である。しかして吾が國は昔の日本でなく、世界の日本である。この國家的偉人をば、廣く國民と共に記念したい』と。
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by sousiu | 2013-05-02 18:36 | 先人顯彰

贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿二。松坂の一夜 

 賀茂眞淵大人と本居宣長大人の會見は、後の國學發達に寄與せしめること大であつた。
 この模樣は、佐々木信綱博士の筆にお委せするが賢明であらうと思ふ。
 全文を掲げむが爲め、長文となるが、大體を知る上に於て有益となるであらうから、御一讀を請ふ次第である。

●佐々木信綱博士『松坂の一夜』(昭和九年十二月二日「弘文社」發行『賀茂眞淵と本居宣長』所收)
『時は夏の半、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひつれてゆくお伊勢參りの群も、春さきほどには騷がしからぬ伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舖柏屋兵助の店先に「御免」といつて腰をかけさせたのは、魚町の小兒科醫で年の若い本居舜庵であつた。醫師を業とはして居るものゝ、名を宣長というて皇國學の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧主[とくい]であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ殘念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、先ほどお立よりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここに」といつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は「何でも田安樣の御用で、山城から大和とお廻りになつて、歸途[かへり]に參宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫[むくみ]が出たとやらで御逗留、今朝はまうおよろしいとのことで御出立の途中を、何か古い本はないかと暫らくお休みになつて、參宮にお出かけになりました」。舜庵、「それは殘念なことである。どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の樣子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、平生町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて次の宿なる垣鼻[かいばな]村のさきまで行つたが、どうもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて來た。
 數日の後、岡部衞士は神宮の參拜をすませ、二見が浦から鳥羽の日和見山に遊んで、夕暮に再び、松坂なる新上屋に宿つた。もし歸りにまた泊られることがあつたならば、どうかすぐ知らせて貰ひたいと頼んでおいた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使を得た。樹敬寺の塔頭なる嶺松院の歌會にいつて、今しも歸つて來た彼は、取るものも取あへず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は廿五、その弟の春海は十八の若盛で、早くも別室にくつろいでをつた。衞士は、ほの暗い行燈の下に舜庵を引見した。
 賀茂縣主眞淵通稱岡部衞士は、當年六十七歳、その大著なる冠辭考、萬葉考なども既に成り、將軍有徳公の第二子田安中納言宗武の國學の師として、その名嘖々たる一世の老大家である。年老いたれども頬豐かなるこの老學者に相對せる本居舜庵は、眉宇の間にほとばしつて居る才氣を、温和な性格が包んでをる三十四歳の壯年。しかも彼は廿三歳にして京都に遊學し、醫術を學び、廿八歳にして松坂に歸り醫を業として居たが、京都で學んだのは啻に醫術のみでなくして、契沖の著書を讀破し國學の蘊蓄も深かつたのである。
 舜庵は長い間欽慕して居た身の、ゆくりなき對面を喜んで、かねて志して居る古事記の注釋に就いてその計畫を語つた。老學者は若人の言を靜かに聞いて、懇ろにその意見を語つた。「自分ももとより神典を解き明らめたいとは思つてゐたが、それにはまづ漢意を清く離れて古へのまことの意を尋ね得ねばならぬ。古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。古への言を得るには萬葉をよく明らめねばならぬ。それゆゑ自分は專ら萬葉を明らめて居た間に、既にかく年老いて、殘りの齡いくばくも無く、神典を説くまでにいたることを得ない。御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば必ず成し遂げられるであらう。しかし世の學問に志す者は、とかく低いところを經ないで、すぐに高い處へ登らうとする弊がある。それで低いところをさへ得る事が出來ぬのである。此むねを忘れずに心にしめて、まづ低いところをよく固めておいて、さて高いところに登るがよい」と諭した。
 夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門[かど]のみな閉ざされ果てた深夜に、老學者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律儀者で、いつも遲くまで夜なべをしてをる。今夜もとんゝゝと桶の箍をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
 舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳藏の仲介で名簿[みやうぶ]をさゝげ、うけひごとをしるして、縣居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾來松坂と江戸との間、飛脚の往來に、彼は問ひ此[これ]は答へた。門人とはいへ、あおの相會うたことは纔かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
 今を去る百五十餘年前、寶暦十三年五月二十五日の夜、伊勢國飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老學者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が國學史の上に、不滅の光を放つて居るのである。

 附言   余幼くて松坂に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの數節等をあざなひて、この小篇をものしつ。縣居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、當夜宣長と同行せし者[尾張屋太右衞門]ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。
     以下、「和泉和麿の宣長評」まで十篇は、大正六年四月以前の執筆にかかる』
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 次に、大人を訪ひたる、鈴屋大人御本人からお訊きせねばなるまい。

●鈴屋 本居宣長大人『玉勝間』(寛政五年起筆)卷二「おのれあがたゐの大人の教をうけしやう」に曰く、
『宣長、縣居大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき。その後はたゞしばゝゞ、書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける。そのたびゝゞ、給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつと、とらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬる。云々』と。

●  仝  「あがたゐのうしの御さとし言」に曰く、
『宣長、三十あまりなりしほど、縣居大人のをしへを、うけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむとのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われも、もとより、神の神典[ミフミ]をとかむとおもふ心ざしあるを、そはまづ、からごゝろを清くはなれて、古のまことの意をたづねえずばあるべからず。しかるに、そのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ。さるゆゑに、吾はまづ、もはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでに、いたることえざるを、いましは、年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし。たゞし世中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず。まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり。此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところには、のぼるべきわざなれ。わがいまだ、神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ。ゆめしなをこえて、まだきに高き所をな、のぞみそと、いとねんごろになん、いましめさとし給ひたりし。此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよゝゝ、萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問たゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものゝ、神の御ふみ説る趣は、皆あらぬ漢意のみにして、さらにまことの意ばえ、えぬものになむ有ける』と。

 これは古今にしてゆめ忘れる可からざるの金言だ。固より我れらもしかと銘記す可き戒言だ。
 何事も理解せず、固まらぬまゝにして「敬神尊皇」てふスローガン、熟語さへ世人に訴へ出れば良とする、果して之を啓蒙と云ふ可きであらうか。先づ、己れの勤王、殉皇の精神を固めること、これが大切であり、必須たる可きことがらであるのだ。


●  仝  「師の説になづまざる事」に曰く、
『おのれ古典[イニシヘブミ]をとくに。師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことゝ思ふ人おほかめれど、これすなはち、わが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも、師の説にたがふとて、なはばかりそとなむ、教へられし。こはいとたふときをしへにて、わが師のよにすぐれ給へる一つなり。大かた、古をかむがふる事、さらに、ひとり二人の力もて、ことゞゝくあきらめつくすべくもあらず。又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤もなどかなからむ。必わろきこともまじらではえあらず。そのおのが心には、今はいにしへのこゝろ、ことゞゝく明らかなり。これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむがへも、いでくるわざなり。あまたの手を經るまにゝゝ、さきゞゝの考のうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎゝゞにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならず、なづみ守るべきにもあらず。よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふがひなきわざなり。又おのが師などの、わろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者、その説にまどひて、長くよきをしるごなし。師の説なりとして、わろきをしりながらいはず、つゝみかくして、よざまにつくろひをらんは、たゞ師をのみ尊とみて、道をば思はざるなり。云々』と。

 縣居大人は、鈴屋大人に學問の方向のみならず、その姿勢に就ても教ふること多大であつた。
 その主なる一つとしては、我が説に誤りあらばそれを師の説であるから面目を穢すまいとして無理強ひして肯定するでなく、その誤りを天下後世に傳へよ、といふものであつた。
 「ルカによる福音書」(第六章四十節)には『弟子は師に勝るものではない。しかし誰れでも十分に修行を積めば、その師のやうになれる』と書かれてあるが、我が國學の先達は、弟子に「師を越えよ」と申してをるのだ。
 この度量の廣さ、志の高さが後の國學者に活力を與へ、又た、國學は大いに進歩發展を遂げることが出來たのである。
 然もこの發想は啻に學問のみに對して云ふでなく、廣汎なる、道に生くるべき後進に對して云ふ可きことばだと野生は思ふ。
 而して縣居門の鈴屋大人、いかでか己れの門人に我が説を泥むやう諭すべき。

●  仝  「わがをしへ子にいましめおくやう」に曰く、
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむがへのいできたらむには、かならず、わが説にな、なづみそ。わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ。すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし』と。


 最後に、鈴屋門の氣吹廼舍大人の言を抄録す。

●大壑 平田篤胤大人『玉襷』卷の九に曰く、
『(前文省略)江戸より上れりし人の、近き頃出たりとて、冠辭考といふ書を見せたるにぞ。縣居の大人の御名をも始めて知りける。かくて其ふみ、始めに、一とわたり見しには、更に思ひもかけぬ事のみにして、餘り事とほく異しきやうに覺えて、更に信ずる心は有らざりしかど、猶あるやう有べしと思ひて、立ちかへり、今一とたび見れば、まれゝゝには、實に然もやと覺ゆるふしゞゝも出來ければ、又立ちかへり見るに、いよゝゝげにと覺ゆること多くなりて、見るたびに、信ずる心の出來つゝ、終に古ぶりの心ことばの、實にさる事を悟りぬ。かくて後に思ひくらぶれば、彼の契冲が萬葉の説は、なほ未だしき説のみぞ多かりける。己が歌學びの有しやう、大かたかくの如くなりき』と。

●  仝、
『偖、また道の學びは、まづ始めより、神書といふすぢの物、古き近き、これやかれと讀みつるを、二十ばかりの程より、わきて心ざしありしかど、取りたてゝ、わざと學ぶ事は無りしに、京に上りては、わざとも學ばんと、志は進みぬるを、かの契冲が歌よみの説に准へて、皇國の古への意を思ふに、世に神道者といふ者の説く趣きは、みな甚く違へりと、早く悟りぬれば、師と頼むべき人も無りし程に、吾いかで、古へのまことの旨を、考へ出むと思ふ心ざし、深かりしに合せて、かの冠辭考を得て、かへすゞゝゝ讀み味はふほどに、いよゝゝ心ざし深くなりつゝ、此の大人をしたふ心、日にそへて、切なりしに、一と年此うし、田安の殿の仰せ事をうけ賜はり給ひて、此いせの國より、大和山城など、こゝかしこと、尋ねめぐられし事の有しをり、此の松坂の里にも、二日三日、とゞまり給へりしを、然ること露しらで、後にきゝて、いみじく口惜かりしを、歸るさにも、また一と夜、やどり給へるを伺ひ待て、いとゝゝ嬉しく、急ぎ宿りにまうでゝ、始めて見え奉りたりき。偖つひに名簿を奉りて、教をうけ賜はる事には成たりきかし、とあり。かくて、其の始めて見給ひし時に、古事記の注釋を物せむと、思せる志しを述られけるに、縣居の大人の諭し給へる御語は、既に上に記せるが如し(※上=前文は省略)。なほ玉がつまに、おのれ縣居の大人の教を受しやう、師の説に泥まざる事。などある條々、また鈴屋集なる、縣居の大人の御前にのみ申せる詞。とあるなどを見て、縣居の大人に教を受られたる趣と見るべし』と。
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by sousiu | 2013-05-01 19:06 | 先人顯彰

贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿一。藏書目録 

 近代國學に於ける縣居大人の功績は頗る大である。
 これまで綴つてきた偉大なる先哲を輩出したことは、固より大人の卓拔なる見識及び學識と、大人の生涯を通じて學問に對するその熱烈なる姿勢の産物であつた。
 茲で參考として、大人の藏書を掲げむとする。その人を研究する場合、その人が如何なる書を藏してゐたかを識ることは、その學説が成立する過程に於て、或は系統を推し量る意味に於ても興味の深いものである。

 下記は佐々木信綱博士の著書『賀茂眞淵と本居宣長』(昭和九年十二月二日「弘文社」發行)[六五頁]を出典としたものである。
 佐々木博士曰く、
『今度、堤朝風の隨筆朝風意林の中にある賀茂眞淵翁の藏書目録を、森銑三君から示されて見ることを得た。これは、翁の歿後二年を經た明和八年三月七日に、門弟の尾張黒生、伊能魚彦、村田春海の三人が、遺書の目録を作つたもので、それまでに散佚した書物も或はあつたかも知れぬが、大體に於いて、翁の藏書の範圍を知るに足り、從つてその學問の由つて來るところを知るに足る、云々』と。



縣居藏書目録

    第一番
 萬葉集 [一二之卷欠]   廿卷
 無點萬葉集 [自一至八四册入此笥餘六册入第五番]  廿卷[合爲十册]
 日本書紀  卅卷[合爲三卷]
 日本書紀  卅卷[合爲十三卷]
 古事記 [古板]  三卷
 古事記 [上卷古板、中下卷鼇頭本]  三卷
 假名書古事記 [上卷欠]  下一卷
 風土記  一卷
 風土記春滿考  一卷
 延喜祝詞式 [大本]  同
 令義解 [卷ノ一末卷一册、卷ノ六並欠]
 令義解 [卷ノ五欠]  十卷
 令義解 [卷ノ十]  一卷
 和名類聚鈔  八卷
 土佐日記  二卷
 梁塵愚案抄  二卷
  同       二卷
  同 [合册]  二卷
 催馬樂譜  一卷
 催馬樂譜   同
 神樂譜  同
 東遊神樂  同
 東遊風俗  同
 職原抄  同
  同 [上卷欠]  下一卷
 鎌倉右大臣家集 [上卷欠]  二卷
 古今集  二卷
 古今集  二卷
 古今六帖  九卷

    第二番
 檜山拾葉集  二卷[合册]
 勢語竄論  二卷
 勝地吐懷篇  同
 古今集序傳説 [縣主自筆]  一卷
 律職制 [衞禁]  一卷
 類聚雜要  三卷
 佛足石碑銘  一卷
 和字正濫鈔 [卷一二、二册欠]  五卷
 神名帳 [小册]  三卷
 大和めぐり  一卷
 淨土三部抄  六卷
 朝野羣載  同
 名例律  一卷
 歌林類案、童子問  合一卷
 古日記  同
 古今六帖  八卷
 古今六帖 [大本、卷一欠]  六卷
 令集解  十五卷
 萬葉語類  十六卷
 日本紀語類  十卷
 古今集助辭  一卷

   第三番
 源氏物語 [素本湖月本合爲一部][内目録一卷、一、二、十二、十三、四十、四十一、四十七、
                四十八、四十九、五十、五十一、五十三、總十二卷闕]  四十三卷
 湖月抄 [青表紙、唐草模樣]  十四卷

   第四番
 御考私記 奉對案竝雜案  一卷
 田安 奉對案[皇朝度量權衡小考大饗差物八種考]  一卷
 [延享戊辰田安]奉對案第四  同
 眞淵雜録  同
 後撰和歌私考  同
 對問 [淨土三部抄考]  二卷
 [桃華蘂葉中之考八條、御作服飾管見抄書一條][賀茂眞淵奉命答辨八條、御作服飾漫語抄
                                書六條]  合一卷
 續萬葉古諷  一卷
 帛御禮服之辨  一卷
 さいばりもの譜  同
 車服拔萃 [縣主自筆]  同
 御考之答 [みいむすび平手つがひの御考云々]  同
 高橋若狹守對問ノ案記  同
 源氏裝束抄 [縣主自筆]  同
 百人一首考序 [同上]  一卷
 百人一首古説卷二 [同二明和二年十月再考]  一卷
 祝詞考 [上卷]  一卷
 語意  一卷
 權衡小考 [自筆]  一卷
 自筆青表紙小册  同
 萬葉新採 [上卷欠]  二卷
 延喜式祝詞解 [卷六出雲國造神壽詞]  一卷
 應問稿 [自筆]  一卷
 [寛保三年九月金吾君]再奉答  一卷
 古事記私記  一卷
 机案臺ノ三ツ云々 [自筆]  同
 奉對金吾君案 [正月七日七種ノ内五形ノ事云々]  同
 伊勢物語古意 [數本雜亂非全本有缺脱]  七卷
 古今歌集序凡考 [再考]  一卷
 新採古今百首  一卷
 古今集拔萃 [小册]  同
 古今和歌集考一  同
 古今集私記序  同
 古今集注  同
 よの中に云々  同
 古今集古注論、國歌臆説  合一卷
 物具裝束抄  同
 裝束飾抄  同
 大儀殿庭裝束圖、大儀禮服冠圖  合一卷
 撰塵裝束抄作者考 永綱裝束抄  一卷
 雅輔裝束抄  二卷
 裝束口訣  一卷
 西宮抄  三卷
 百練抄  四卷
 古寫著聞集  二十卷
 古筆朗詠  一卷
 田安御考裝束類雜書 [並在滿奉對案、倭文子紀行等]  三十四卷
 江次第箚記  一卷
 縣主自筆反古  一包

   第五番
 延喜式 [内二卷欠、祝詞之卷入第一番在滿考訂本]  五十卷
 三代實録 [在滿考訂本]  十卷
 文徳實録 [考訂本]  五卷
 令義解  八卷
 無點萬葉集  六卷

              右明和八年三月七日 集録
                          黒主   魚彦   春海
  
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by sousiu | 2013-04-30 16:56 | 先人顯彰

縣居門 その十五。進藤筑波子刀自 

 本日は、皇國志士連合有志とともに謹みて多摩御陵、武藏野御陵を拜す。
 昨年同樣、都下は青天。嗚呼、時は進みて止らず、とか。既に平成生まれの人達が社會に活躍する現在、有史來、未曾有の激動と困難を乘り越えた 先帝の御宇を、吾人は忘れてはならぬ。而して、吾人は平成中興の歩を僅かでも進め、當時の恐察するもおそれおほき 先帝の御心を安んじ奉るを以て報皇とせねばならぬ。
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◎進藤筑波子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

進藤 筑波子 茂子

系圖
進藤正幹養女、徳川幕府侍臣土岐頼房妻

學統
眞淵門三才女の一人


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『茂子は、又筑波子ともいへり。進藤正幹の養女にして、徳川幕府の侍臣、土岐頼房の室なり。幼より、學を好み、賀茂眞淵の、門に入りて學び、詠歌を、よくするを以て名あり。其筑波子の名は、かの筑波山は山しげ山といへる、古歌によりて、賀茂翁の、つけられしなりと云ふ。歌は、翁の高きふしをうけて、調とゞこほらず、しかも女らしき歌口なりき。故に翁も其歌をめでゝ、天暦の、女房の、調なりといはれき。縣門に、女子の歌よみ、少からざりしといへども、余野子、倭文子、及茂子を稱して、縣門三才女と、稱しきとぞ。其筑波子歌集は、後年、清水濱臣の、撰集せし所にして、縣門遺稿の内に收めたり』と。

●清水濱臣翁『筑波子歌集』(文化九年)序に曰く、
『筑波子、又しげい(茂)子(※愚案。「しげるこ」と讀むは誤りなり)ともいへりき。筑波山は山、茂山といへる古歌の詞によりて、通はしおほせたる名なるべし。進藤正幹ぬしの、養ひ子にて、土岐頼房ぬしの妻なり。縣居の翁に物學びて、歌よむわざをよくせり。限りなく、來れども同じ、とよめる初春の歌に評せられて、天暦の頃の、女房の口つきとおぼゆなど、翁もほめきこえられたりけり』と。

●清水濱臣翁『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『       はるのはじめのうた
   かぎりなく、來れどもおなじ、春なれば、あかねこゝろも、かはらざりけり


此歌縣居翁の評に、天暦の此の女房の口つきなり。と評せられき。また、

       みつ(三つ)になりけるをさな(幼)子の、なくなれるをり、
   いはけなく、いかなるさまに、たどりてか、死出の山路を、ひとりこゆらむ


たゞ言ながら、心のほど思ひやられて、このうた見るたびに、おぼえず涙ぐまるゝになん。又、
       商人を
   わたらひの、こゝろぼそさも、しられけり、いとうる賤の、たえずくるには


女の歌、誠にさこそおぼゆれ。みづから書きつめおける歌どもに、縣居翁の點合をおかれたるを、故ありておのがもとにもたれば、過きし享和のみとせ、清くかきあらためて、はし書などものし置きしを、文化十年の春、つひには板にもゑらせたりき』と。



       をとこにおくれぬる頃
   歎くとも、こふともしらで、いかならむ、方にのどけく、君は住らむ
   みし夢の、さめぬ程にし、きえもせば、今のうつゝに、物ハ思はじ


      かくいふ程に、雪のうち散れば
   見る程も、あらずなりぬる、雪ならで、消殘るとも、おもひける哉

      いとけなき子のうせし頃
   結びつと、みそむる程も、あらなくに、はかなく消し、草の上の露
   なきたまの、あるをこひしと、思ひせば、夢路にだにも、立歸らなむ
   いわけなく、いかなるさまに、たどりてか、死出の山路を、獨こゆらむ

                    
                             ※『筑波子歌集』所收
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by sousiu | 2013-04-29 17:47 | 先人顯彰

縣居門 その十四。鵜殿餘野子刀自 

◎鵜殿餘野子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

鵜殿 餘野子

生歿
(生) 二三八九年  中御門  享保一四年
(沒) 二四四八年  光  格  天明八年 
(年) 六〇


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『餘野子は幕府の麾下鵜殿左膳[名は孟一、號は士寧、漢學を能くして、當時に名あり]の妹なり。幼にして學を好み、兄に從ひて漢籍を學び、殊に詩に巧なり。後賀茂翁の門に入りて古學を修め、遂に縣居門の三才女[茂子しづ子とともに]と稱せらるゝに至る。元來漢學の力あるを以て、詠歌文藻世に比なく、千蔭、春海の諸輩も、此の人をば心にくしといひあへるとかや。餘野子若き時より、紀侯の殿中に奉仕して、名を瀬川といへり。後仕を辭して他に嫁せず、尼となり風月を弄して、身を終へぬ。其の老後住居せしところを凉月院と云ふ。天明八年、年六十にして歿す。遺稿あり凉月遺艸と云ふ。梓行して世に行はる』と。

●清水濱臣翁、文化十年『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『縣居翁の門人、いとおほかりし中に、女の歌よみすくなからざりき。殊にすぐれたりしは、よの子、茂子、しづ子の三女なりけり。餘の子[紀伊殿に仕へて、瀬川と呼ばれ、のちに凉月院と申されき]は、鵜殿孟一[字 士寧、通稱 左膳、南郭門人]の妹にて、漢學にさへたどゝゞしからず、からうたよくつくられけり。兄おとゝのざえを、其身ひとつに集めたりと、孟一つねにいはれしとぞ。翁あるやむごとなき御方より、女房の手本ともすべき、十二月の消息文かきてよと、おほせごとかうぶられたるをり、よの子にかかせられしが、いとめでたくつゞけたりければ、やがて其まゝにて奉られけりとぞ。近き此、芳宜園のあるじ、此消息を自から筆とりて、かき清めて、板にゑられしもあれば、大かた人もしれり。歌もよきがいといとおほく、岐蘇路記といふ、旅日記をかしうつゞれるあり』と。

●小山田與清翁、文化十一年『松屋叢話』に曰く(昭和三年四月卅日「日本隨筆大成」第二期卷一、所收)、
『よの子といへるは、紀の殿につかへまつりて、瀬川とぞ呼ける。さほ川と號し、歌集一卷有り。そは初に水上月と云る題にて、
    古里の、佐保の川水、流れても、世にもかくこそ、月はすみけれ
といふうたあるによれる名也。また木曾路の記とて、寛保八年五月、紀ノ國へまかりける時の紀行一卷あり。江戸を出たつ時、人のもとより、ことにしたはしうおもひて、
    君がゆく、わかの浦わに、ゐるたづの、たづきもしらず、我やなりなん
といひおこせしに、その返し、
    世の中の、たづゝゞしくは、思ひやれ、雲井のよそに、ひとりなく音を』と。

●村田春海翁、寛政五年八月『凉月遺草』に曰く、
『昔縣居の翁に、物まなべりし女房、あまた有しなかに、志氣子、余野子との二人をば、其頃、ふる事しのぶ人々の歌がたりに、たれゞゝも、心にくきかたになん、いひあへりける。さるはやむごとなきあたりの、をすのうちにて、花紅葉につけつゝ、いどみ事あるふしなど、歌人のえらみには、翁もつねにこの二人をしもぞ、とりいてられたりける。又よの子は、から學びのかたも、たどゝゞしからで、唐歌をもよくつくりてなんありける。そはそのせうと、鵜殿の孟一のぬしは、世に名高き博士なりければ、をさなきほどより、かたはらにありて、まねびたりとなん。おのれわらはむりし此、文よむとて、つねに鵜殿のぬしの家にゆきかひたれば、余野子のつくれるから歌など、をりゝゝ見しこともありき。なまゝゝの博士は、はづかしかりぬべき口つきとぞおぼえし。この此、縣居の翁の集どもより、しらぶるついでに、ほうごの中より、此二人の言葉どもの、かつゝゝ散殘りたるをみいでたれば、いかでふくつめおかんとするに、茂子か集はもたる人ありといへば、そを得たらんとき、かさねてものしつべければ、先よの子のをとりて、二卷とはなせり。文も歌も猶あまたありつらんを、その家集などいづちいにけんとは、もとむべきよしのなきこそをしけれ。さてよの子、又の名は瀬河ともいへり。わかゝりける時より、紀の殿につかうまつりて、つかへをしぞきてすみける所をば、凉月院とぞいへる。天明八とせの秋、よはひ六十あまりにもなん、身まかりける』と。


 <鵜殿餘野子刀自の主なる著書>
    岐蘇路記
    さほ川
    凉月遺草

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by sousiu | 2013-04-28 01:03 | 先人顯彰

縣居門 その十三。油谷倭文子刀自 

 本日は、獄中同志をはじめ、書簡を綴ること一日。
 字の汚いことは野生の大きな劣等感とする一つだ。ペンダコは成長しても、野生の字は決して上達しない。出來得べくんば習字をならひに行きたいと思つてゐる。


  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


◎油谷倭文子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

油谷 倭文子 [シヅコ]

生歿
(生) 二三九三年  中御門  享保一八年
(沒) 二四一二年  桃  園  寶暦二年七月一八日 
(年) 二〇

住所
江戸京橋弓町、(墓)深川本誓寺


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『倭文子は、江戸京橋弓町、伊勢屋平右衞門の女(むすめ)なり。家世々武門の身なりしが、祖父の代に商賈となりぬ。倭文子は享保十八年を以て生る。幼より、世の童女に秀拔して、才氣超越、容貌端麗にして、閉月羞花の美あり』と。

●『近世三十六家集略傳 卷の上』に曰く、
『倭文子は其先は伊勢の國人なりしが、祖父江戸に出て住り。倭文子、幼より文雅[みやび]を好む。父の家ゆたか(豐か)なりしかば、深窗にして文事[みやび]を學ばしむ。特[こと]に歌文章を好みて學ばん事を請ふに依て、父これを許す。しかして賀茂眞淵翁の門に入しめ、學ぶに爲人(人となり)怜悧穎悟にして、よく師の教を授、世人[よのひと]に超越[うちこえた]り。且、温順柔和にして、父母によく仕事[つかへな]し、朋友[ともがら]によく交り、家に出入[いでいり]する奴婢[しもべ]に至るまで、よく愛憐す。故に人これを賢少女[さかしをとめ]と稱す。父母頻りに愛して掌中[たなごころ]の金玉とす。且、花顏[かんばせ]嬋[いと]娟[うるはし]かる美少女[をとめ]なり

 又た曰く、
『十五歳にして或侯の女夫人[おくがた]に仕ふ。十八歳にして家に歸り、母と共に上野の國、伊香保[いかほ]の温泉[いでゆ]に行(いく)。この時いかほの紀行あり。其文体の妙たるや、絶て處女[をとめ]の作意にあらず。專門の學士[はかせ]たりとも、又およばざるの風致[おもむき]ありて、寛弘の古昔[いにしへ]上東門院の女房、比すべくなど人稱す。其奇才、實に見るべし。縣門の三才女の一なり

 又た曰く、
『惜ひかな、年二十にして寶暦二年壬申七月病て終る。臨死(死に臨みて)父母に先だつことを悲しみ、父母の意を慰むとて歌を作て曰
きりのはの、こよなとひとは、いふめれど、しばしばかりや、いそぐなるらむ
遠近の文人墨客、これを嘆惜[なげきおしみ]て歌文章の金玉をつらねし追悼す。縣居翁、墓碑の銘文を作り、且長歌二首を作りてこれを惜悲[おしかなし]む。父母其悲痛に不堪、故に平生處女[をとめが]作るところの歌文詞の遺稿を輯[あつ]めて卷となし、文布と名称して刊刻し世に流布せしむ』と。
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●縣居大人『倭文子をかなしめる歌』(『賀茂翁家集』卷之二「長歌」所收)に曰く、
ちゝのみの、父にもあらす、はゝそばの、母ならなくに、なく子なす、われをしたひて、いつくしみ、おもひつる兒は、初秋の、露に匂へる、眞萩原、ころもするとや、まねくなる、尾花とふとや、鹿子じもの、ひとりいでたち、うらぶれて、野べにい[去]にきと、聞しより、日にけにまてど、うつた[偏]へに、こともきこえず、ちゝならぬ、われとやとはぬ、はゝならぬ、身とてやうとき、こひしきものを。

初風の、吹うらかへす、秋の野の、荷のうら葉の、うとぶれて、いにしその子は、はぎ見にと、行やはしつる、霧わくと、まどひやはせし、うつし身は、かなしきかもよ、かへりこぬ、道に過ぬと、家人の、告つるものを、おいらくは、おほしきことを、ひたふるに、おもふがまゝに、わするべき、わざならぬをも、たつきりの、まどひけらしな、まとひつゝ、あらばあらまし、なにすとか、まさかをしりて、さらゝゝに、ににひものごと[新喪如]も、なげきしぬらむ。

萩か花、見れば悲しな、逝し人、かへらぬ野へに、匂ふと思へば
あらきする、にひもの秋は、立霧の、思ひ惑ひて、過しだにせじ
』と。


●「倭文子刀自墓碑銘」(『賀茂翁家集』卷之四『倭文子か墓の石にかきつけたる』所收)
をみなあり。名をばしづ子といふ。しづ子はいにしへのしづりにあらずして、心のみやびいにしへにもとづけり。しづ子はいにしへのしづりにあらずして、すがたのまぐはしさ、いまにすぐれたり。其たゞに心のみやびのみなるにあらず、ふみにも歌にもいにしへなり。其すがたのまぐはしかるのみにあらず、したしきにもうときにもにきびたり。しつこ[倭文子]はしつ子[賤兒]にあらずして、父はゝにつかふるには家のしづ兒[賤兒]なせり。中々にそのしづこ[賤婢]をかへり見るには、はたしづ[賤]とせざらまくせり。いはんや、せにしたがひ、またうからやからをしたしむをや。かれその家のにきぶることもうつはたのごとく、やがてしる、いにしへのしつりは、今のよきゝぬにまされることを、またうなゐはなりの時より、ふみをかゝまく思ひて、ことを父母にまをせり。父母うつくしとおもひて、われにつぐ。われもとつはたおらむことをろしへて、まだあまたとしならぬに、いにしへのあやをおることをさとりき。其かけるものは、伊香保の記[ふみ]、ともがきにおくりこたへたる文など、ともにかりはたなりけり。いふならく、いにしへのしづはた帶たれしかまさりなんや。あはれかなしきかもや、年の名は寶の暦の二のとし。秋の風はじめておこる時に、はたちといふよはひにて身まかりぬ。まかるとき歌よみせり。これもまだ、たゞに父母をなごさんするこゝろのみなり。そのよめる歌

人の世に、先だつ事の、なかりせば、桐の一葉も、ちらずやあらまし

と。(※原本は眞名にて書けり。句讀點は野生によるものとす)



 <油谷倭文子刀自の主なる著書>
    文布
    伊香保紀行
    倭文子歌集
     仝  遺集

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by sousiu | 2013-04-27 00:33 | 先人顯彰

縣居門 その十二。本居宣長翁 

●久松潛一翁、『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、
『眞淵の國學はその學問のすべての領域にわたり、かつそれを全一的にといたといふことが出來るが、この眞淵の國學の學問的見取圖ともいふべきものが一層精密にまた多少分析的に考察される事によつて、國學の學としての完成を見られるのが宣長の國學であつたのである

『眞淵によつて言語と文學と古道といふ三の方面が萬葉集といふ一の古典を中心としてとかれたのが、古事記と源氏物語といふ二の古典によつてとかれるとともにそれゞゝが一層精密に考察されて居り、また眞淵に於ては「ますらをぶり」もしくは心の直さといふ一の精神によつて「をたけび」と「にきび」とがともにつゝまれて居つたのに對して、宣長に於ては神ながらの道と「もののあはれ」といふ二の精神に分れてとかれたのである

『それだけに精密になつたのであるが、この二の精神の關係は多少分化して居る。ことに神ながらの道と「もののあはれ」とが古道と文學といふ二としてとかれたために眞淵學説のやうな統一が多少離れて來たとも見られるのである。然しこの兩者は彼の國學の體系の上では統一的に見られて居るのであり、この兩者を如何に統一づけ、體系づけようとしたかに彼の國學の完成がありまた眞淵の國學からの發展があるとも言へるのである』と。


●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
復古國學に於ける最高峯は前にも云つたやうに本居宣長であると認むべきであらう。徳川時代の末期に澤山に現はれた復古國學反對者、殊にそれは儒學者が主であつたが、眞宗の僧侶等にも少くなかつた。それ等は何れも宣長を目の敵にして居るのを見てもそれが判るのである。違つた意味に於ては宣長よりも篤胤の方が學者として偉大であつた點もある。然し乍ら純正國學と云ふ立場から見る時はどうしても宣長を推す方が正しいと思ふ』と。


 偉大なる國學の恩人、本居宣長大人に就てこれを記さんとするも、野生の如き無知では到底力及ばず。
 よつて大人の眞價に精しく接することは今後に與へられた野生の課題としてしばらく措き、今はともかく、大人の事蹟を追つて行くにとゞめる。

 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


◎鈴屋 本居宣長翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

本居 宣長

生歿
(生) 二三九〇年  中御門  享保一五年五月七日
(沒) 二四六一年  光  格  享和元年九月二九日 
(年) 七二

姓名
(母姓)村田氏、(幼名)小津富之助、(通稱)彌四郎、後 健藏、春庵、中衞、(名)始 榮貞、後 宣長、(字)君觀、(號)鈴屋、(諡)秋津彦美豆櫻根大人、(墓標)本居宣長之奧津紀

住所
(生地)伊勢國飯高郡松坂本町、(居住)同上、紀伊國和歌山、(墓)伊勢松坂山室山

學統
(儒道)堀    景 山――┐
(國學)賀 茂 眞 淵――┼― 宣長
(醫道)武川幸順法眼――┘ 


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●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『宣長、姓は平氏、初の名は榮貞、小津富之助と稱す。後小津氏を改めて、本姓本居氏に復す。通稱を彌四郎、又健藏と改め、春庵(或は舜庵に作る)と改稱し、更に中衞といふ。鈴の屋は號なり。權大納言頼盛の後裔、本居縣判官武秀四世の孫なり。父を定利といふ。定利子なきを嘆じ、大和吉野の水分神に祈請し、享保十五年五月七日を以て宣長を伊勢國飯高郡松坂に生む。幼にして頴異、群童と嬉戯せず。性至考なり。好みて書を讀む。強記絶倫にして、一たび目を過ぐれば、忽ち之を記す

 又た曰く、
『はやく父を喪ひけれども、母其の才を愛し薫陶怠らず、十二歳の時、初めて四書を學ぶに勉勵衆を超え、加ふるに強記の資を以てし、等儕に秀拔して嶄然頭角を顯はす。故に人以て神童となす。後數年の間自ら詠歌を習ひ、壯なるに及びて、京師に出で、堀景山に就きて儒學を修め、又典樂、武川幸順に從ひて醫道を學ぶ。居ること數年、皆之をよくす。一日友人と相會し誓ひて曰く、吾れ學を以て天下に冠たらずんば、再び足下を見ずと。後伊勢に歸り醫を以て本業とす』

 又た曰く、
『初京師に在りし日、契冲師の著せる百人一首改觀抄、古今餘材抄、勢語臆斷などを見て、こゝに始めて古典を研究するの念を起し、尋ぎて賀茂翁の著せる、冠辭考を見て、益古典を研覃せんとするの念を鞏固にし、翁を慕ふこと切なりしが、偶翁の田安侯の命を奉じて伊勢、大和、山城等を歴游し、歸途松坂に宿するにあたりて、之れに相會し、名簿を送りて門人となり、翁の江戸に歸りし後は、屢(尸+婁=屡、しばしば)書信を通じて古典の疑義を質し、遂に和歌物語より、正史、雜史、記録、律令、格式の類に至るまで、研精琢磨して一も通曉せざることなかりき。されども本業の醫は之れを廢することなく、治療を乞ふものあれば、直に應じ、來診を乞ふものあれば、駕を命じてゆく。駕中亦少時も手に卷を釋てず、餘暇あれば著書に從事し、遠近の門人を教育し、其名次第に世に高くなりぬ』

 又た曰く、
かくて古典の講究に餘念なかりしかば、自ら大に發明する所あり。遂に年三十五の時より、古事記傳の稿を起せり。初め宣長の、賀茂翁に謁するや、翁曰く、予疾くに神典を解釋せんとするの意あり、然れども、之れ至難の業にして、能く、古言に通じ、古意を得ざれば、以て其解をなすこと能はず。故に專萬葉集を研究したり。されども年已に老境に達し、其志業を果すこと能はず。子は春秋に富めり。黽勉以てこの事に從ひなば、これを果さんこと難きにあらざるべし。子其れ勗めよやと、宣長のこの著ある、蓋し翁の此言あるに因るなり。古事記は我が國史中最古のものにして、卷中に古傳、古語を存し、絶えて漢臭を交ふることなし。故に其貴重なること他書の比にあらず。然れども漢字を以て、國音を記載したれば、難解の語甚多くして、容易の釋すべきものならず。先輩も往々其解釋を著はさんとして、中道にして困頓し、遂に其功を竣へざりき。宣長、日夜焦心熟慮して、之れに從事し、或は古書に考へ、或は古傳に徴し、考證の難儀に至りては、寢食を忘るゝこと、數日に及ぶも屈することなく、殆畢生の力を之れに注ぎ、遂に三十五年の星霜を經て、全部四十八卷、全く功を竣れり。其考證の精核なる其識見の卓拔なる、能く千古霽れざるの雲霧を拜し、以て赫々たる天日を仰く事を得しめたる、其功實に偉大なりといふべし。我が古史を研究するの關鍵は、この書の外またあるべからずと云ふも、決して溢言にあらざるなり

 又た曰く、
『寛政六年、年六十五歳のとき、領主紀伊侯の召に應じて、仕途に就き、屡々君前に於て、古典歌道の事等を進講す。侯其の學問該博にして、識見の卓絶なるを喜び、俸祿若干を給し、奧醫師の班に列す。蓋し其の用ゐる所は、文學にあるも、其本業は醫たるを以てなり。初め某侯、宣長の古典に精しきを聞き、俸祿三百石を給して、招聘せんとす。紀侯この事を聞きて召す。宣長遂に之れに從ふ。けだし其の産地松坂は、紀侯の封内にして世々其の澤を蒙むるを以て、敢て祿の厚薄を問ふに遑あらず。直に召に應ぜしなりといふ』

 又た曰く、
『後故郷、松坂に歸り、專子弟の教授と、著述とに從事せしが、門人等の請により京師に上り、四條烏丸の東に寓せしかば、古典に志すもの、四方より來り、其門に集る。是に於て宣長の名、益々重く、當時臺閣縉紳、或は殿内に招して其講を聽き、或は微服し來りて其説を叩くに至る。今其おもなるものを擧ぐれば、中山大納言、三條大納言、園大納言、花山院右大將、日野一位、大炊御門中納言、綾小路中納言、芝山中納言、富小路三位の諸卿にして、其の門墻を望みて赴き趨るもの、前後五百餘人の多きに及べり。故に其門より出でゝ名をなせるもの頗る多し。今世國書を講じ、歌文を學ぶ者、皆宣長の恩澤を受けて、以て其の流を汲まざるものなし

 又た曰く、
『この時に當り、滔々たる天下皆儒學に心醉し大に内外本末を誤り、其弊延いて、遂にわが國体(マヽ)を汚し、大義名分を謬まらんとするを慨嘆し、之れを矯正せんと欲し、直日靈、玉櫛笥、玉鋒百首等の書を著はして、我神國の古道を發揮せしが、江戸の人市川某といへるもの、末我廼比禮といふ書を著はして直日靈を論難す。然れども宣長其の書の説く所、兒戯に類するを以て齒牙に掛くるに足らずとなし、措て顧みずといへども、門人等、大に激昂し、強て宣長に反駁せんことを請求す。依て止むことを得ず二三夜の間に、葛花二卷を著はして、之れを排斥す。又藤貞幹といふもの、衝口發といふ書を著述して、以て宣長の學風を辨難攻撃せしかば、宣長其の説く所の大義名分に關し、施て國家を誤らんことを憤り、忽ち鉗狂人を著はして、以て僻説を打破して、天下の耳目を聳動せり。宣長の京師にあるや、當時の攝政の命を奉じて、馭戎慨言と云ふ書を著はして之を進呈し、以て尊内卑外の意を辨明したりき。この書、遂に攝政の計らひを以て、乙夜の覽に供へしと云ふ。又玉櫛笥別記二卷は、紀侯の國政を諮詢するにあたり、呈せしところの意見書にして、此等諸書は皆其當時の弊風を一洗して、以て我神國の元氣を振起し、世夢を攪破するに必用なる方便なりしなり

 又た曰く、
『然れども爾後漸く國學者と漢學者と、門戸を別ちて互に譏笑するの勢を逞うするに至りしは、甚だ嘆惜に堪へざる事なりき。又古歌古人の解釋をなし或は之れを批評し、又音韻の學を釐正し、文法語格を整正し、其用例等を明示して先人未發の説甚多し。宣長もとより、歌文を以て名をなさんことを欲せしにあらざれども、其文章は快利にして意義明晰なり。和歌雜文は、詞藻富瞻にして語句艶麗なり。實に宣長は、春滿、眞淵の學統を承きて、之れを大成し、以て國學の大道を開きて、後人に嘉惠する所甚多しといふべし。故に世人宣長と、春滿、眞淵とを、併せて國學の三大人と稱するは、決して偶然にあらざるなり

 又た曰く、
宣長、佛に侫するの人にあらずといへども、父定利佛を信ずる事、極めて厚かりしにより、父歿して後、其の命日には、必朝夕靈前に香花を手向け、讀經したりといふ。
又醫を學びしは、母の命に依るを以て、終身此業を廢せず。偶々講堂にありて書を講する時に際して、人の迎ふるあれば、直に講を輟めて之に應ぜしと云ふ。又以て其の孝順の至れるを想ふべきなり


 又た曰く、
『享和元年九月十八日、病に罹り、此月廿九日家に歿す。享年七十二。門人等相會し、禮を厚くして山室山上の墓所に葬る。遺命により、墓標には松櫻の二株を植え(※マヽ)、前に石を植て、本居宣長奧墓と誌す。之れ宣長の自筆に係れり。門人等私に謚して秋津彦美豆櫻根大人と曰ふ。宣長艸深氏を娶り二男、三女を生む。長男春庭、次男春村出でゝ他家を繼ぐ。長女ひだ子、二女みの子、三女のと子、或は他家を嗣ぎ、或は嫁し、或は早世す。而して春庭眼疾を患へて遂に明を失ふに至る。依て門人稻掛大平を養ひて子とし、家を嗣がしむ。宣長不世出の、英才を以て、荷田、縣居の學統を承ぎ、有益の書を著はして、古學を大成し、古道を發揮し、以て尊王愛國の志氣を養成したり。實に其の功の顯著なる天日と光を爭ふべし。宜なる哉、明治十六年二月、朝廷特に正四位を贈りて以て其功を追賞せられたり』と。
(※注。本記事の典據たる『慶長以來 國學家略傳』が發行されし二年後の明治卅五年十一月十八日、鈴屋大人には從三位を贈られたり






 <本居宣長翁の主なる著書>
    石上私淑言 [いそのかみのささめごと]
    手枕 [たまくら]
    古今選 [こきんせん]
    國號考 [こくがうかう]
    紫文要領 [しぶんえうりやう]
    古事記傳 [こじきでん]
    草庵集玉箒 [さうあんしふたまははき]
    國歌八論斥非評語
    直毘靈 [なほびのみたま]
    紐鏡 [ひもかがみ]
    菅笠日記 [すがかさのにつき]
    字音假字用格 [じおんかなづかひ]
    馭戎慨言 [からおさめのうれたみごと]
    萬葉集玉小琴 [まんえふしふたまのをごと]
    詞玉緒 [ことばのたまのを]
    葛花 [くずはな]
    尾花がもと
    於裳飛倶佐 [おもひくさ]
    くれの秋のさうし
    臣道
    鈴屋詩文 [すずやしぶん]
    手向草 [たむけぐさ]
    眞暦考 []しんれきかう
    漢字三音考 [かんじさんおんかう]
    鉗狂人 附水草の上の物語 [けんきやうじん]
    玉匣 [たまくしげ]
    呵刈葭[あしかりよし]
    祕本玉匣 [ひほんたまくしげ]
    神代正語 [かみよまさごと]
    新古今集美濃家苞 [しんこきんしふみののいへづと]
    玉霰 [たまあられ]
    玉勝間 [たまかつま]
    結び捨てたる枕の草葉
    出雲國造神壽詞後釋 [いづものくにのみやつこのかむよごとごしやく]
    紀美の惠 [きみのめぐみ]
    大祓詞後釋 [おほばらへのことばごしやく]
    天祖都城辨々 [てんそとじやうべんべん]
    源氏物語 玉小櫛 [たまのをぐし]
    古今集遠鏡 [こきんしふとほかがみ]
    家譜集撰 [かふしふせん]
    初山踏 [うひやまぶみ]
    鈴屋歌集文集 [すずやかしふぶんしふ]
    吉野百首 [よしのひやくしゆ]
    古訓古事記 [こくんこじき]
    歴朝詔詞解 [れきてうせうしかい]
    神代紀髻華山蔭 [じんだいきうずのやまかげ]
    枕の山(一名櫻三百首) [まくらのやま]
    地名字音轉用例 [ちめいじおんてんようれい]
    疑齊辨 [ぎさいべん]
    眞暦不審考辨 [しんれきふしんかうべん]
    本末歌 [もとすゑのうた]
    仰瞻鹵簿長歌 [ぎやうせんろぼちやうか]
    尾張連物部連系圖
    美濃の家苞折添
    源氏物語年紀考 [げんじものがたりねんきかう]
    言語活用抄稿
    伊勢二宮さき竹の辨 [いせにくうさきたけのべん]
    後撰集言葉の束緒 [ごせんしふことばのつかねを]
    答問録 [たふもんろく]
    本居氏系圖 [もとをりしけいづ]
    家の昔物語 [いへのむかしものがたり]
    御國詞活用鏡 [みくにことばくわつようせう]
    漢委奴國王金印考 [かんのわのなのこくわうのきんいんかう] 他


     
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by sousiu | 2013-04-26 00:10 | 先人顯彰

縣居門 その十一。小野古道翁 

◎小野古道翁(縣門十二大家)



●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
古道氏は長谷川、謙益と稱す。初め醫を業とせしが、壯年に及びて眼疾を患ひ、終に明を失ふに至る。是に於て專ら鍼灸按摩の術を學び、其の奧妙を極む。乃招く其の治術を受くるもの頗多く、名聲都下に鳴る。古道、業餘心を古學に潛め、特に作文、詠歌の妙を究めんと欲し、嘗て賀茂翁の江戸に出づるを待ちて、忽ち名簿を納れて、其の門に入り、教を受けて精勵勉學す。盖賀茂翁の江戸に出でゝ門戸を開きし以來、其の門に入りて、學ぶの徒、數百輩に至ると雖、然れども、古道を以て其最初とすと云ふ。明和中歿す。遺稿あり、世に行はる。之を古道家集といふ』と。

 又た曰く、
『寶暦二年夏五月、萬葉集の竟宴せし時、謹て賀茂大人に詠て上る長歌とてあり。其人となりを知らんが爲にこゝに擧。
あをによし、なら(奈良)のみやこの、いにしへゆ、きこえつたへし、言の葉の、よろづそなはる、そのふみの、ありとはいへど、いそのかみ、ふりにふりたる、みちなれば、まどへるものを、はしきやし、賀茂のうしはも、おもふにも、かたじけなしや、まなぶにも、いとふことなく、をしふ(教ふ)にも、うめることなく、春のひの、こゝろのとけ(心長閑)く、秋のつき、くまなくさやに、ときたまひ、さとしたまへば、あきらけき、日月のかげを、みるがごと、なりまさりつゝ、八とせ(年)あまり、まなびし來つゝ、ほとゝぎす、なくやさつきの、けふ(今日)しこそ、ことなりにけれ、みなひとも、はなたちばなの、かくはしき、こゝろつたへて、よろづよに、はなも實をも、かたりつぎ、いひつぎゆかむ、あまざかる、あがたゐのうしぞ、たふとかりける
   こゝろさへ、すゞしくもあるか、まつかげの、をかべのみちは千代もかよはむ、

頃年遺稿を校して梓刻し世に流布をしむ』と。

 <小野古道翁の主なる著書>
    古道家集



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 縣門の十二大家も殘すところ僅か一人となつた。
 明日に記す可き御一人は、云ふまでもなく、鈴屋大人その人だ。


    
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by sousiu | 2013-04-25 00:29 | 先人顯彰