カテゴリ:先人顯彰( 47 )

縣居門 その十。三島景雄翁 

 愈々懸門の十二大家も十人目に至つた。
 人物紹介に始まり人物紹介に終はり、何ら資料として價値あるものではないけれども、先進を偲ぶの心もて、記述を試みることに就ては強ち無價値ではあるまい。少なくとも野生にとつて、かく云ふことが出來る。
 
 
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◎自寛 三島景雄翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

三島 景雄 自寛

生歿
(生) 二四〇五年  櫻  町  延享二年
(沒) 二四七二年  光  格  文化九年四月二六日 
(年) 六八

姓名
(通稱)吉兵衞、(字)子緯、(號)方壺、三樂庵、自寛

住所
江戸、(墓)淺草新堀善照寺



●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『景雄は、江戸の人なり。字は、子緯、吉兵衞と稱す。方壺又三樂庵と號し、後薙髮して自寛と號す。賀茂眞淵の門に入りて學び、其名時に秀づ。文化九年四月廿六日歿す。年六十八。淺草新堀善照寺に葬る』と。

●『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『三島景雄、有栖川家の御門人にてありし此、都へのぼりしに、某の大納言とかの御元へ、したしう召されて、御膝元ちかう御物語しつゝ行きかひしに、常のおましのかたへに、文車をおかせ給ひて、いろゝゝの歌書ども、多くつみ置き給へるを、ゆかしう思ひをりしに、殿しばし立ちて、おくつかたに入り給へる程、やをら、ゐざりよりてみれば、大かたは見なれし書どもなり。中に八百日集とうはがきせる書あり。いかなる公卿の御集にかあらむ。誰人のうち聽にかと、いとゆかしうてひらき見れば、はやく濱の眞砂といへる、詞寄の書なりけり。(萬四、笠女郎は、百日行、濱の眞砂も、我戀に、あにまさめれや、おきつ島守。この詞をもとにて、替名となし給へるなり)景雄あきれて、こは有賀長伯がうひまなびのあげまきらが爲にとて、物せし書にて、いさゝかも歌の事、わきまへたる人だちは、まだ見るものともなさぬ、まことあけまきのための書なり。此殿いかでかたへはなたぬ文とは、かしづき給ふらん。それだにあるを、八百日集とうはぶみの名をかへおき給ふは、長伯らが物せし詞寄の書を、かたへ、はなさずおき賜はんは、人めはづかしうおぼし給ふなるべし。いと品おくれたる御心かな。濱の眞砂をあたひなき玉と思ひ給ふ事、またこれを誠よき寶とおぼさば、うはがきも其まゝにてありぬべき事なるを、書きかへ給へるは、まけじ魂の心せばさよ。今よりは參りこじと、獨言いひてすなはち、まかり出でゝ、また參りよることあらざりしとぞ』と。



 <三島自寛翁の主なる著書>
    烟經 一卷


     
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by sousiu | 2013-04-24 00:12 | 先人顯彰

縣居門 その九。村田春郷翁 

 昨日は、幼馴染みの宅へ伺ふ。彼れに芽出度く長男が誕生した爲めだ。
 名前は「寛(かん)」君。くしくも野生が地元で呼ばれてゐるあだ名と同じだ。
 早速抱つこさせていたゞいたが、まだ誕生から九日。どのやうな精密機械に觸れるよりも愼重ならざるを得ない時期だ。
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 いつも思ふのことは、生命誕生の神祕だ。十月十日、母は生まれ出づるその子を腹に宿して生活する。その身體は一つでありながら二ツの魂となつてをり、やがて二人となるのだ。固よりかの魂も、ひとり母ありて宿れるものではない。平田篤胤大人は生命の誕生を『人の生るゝ事は、天津神の奇妙[クスシクタヘ]なる産靈[ムスヒ]の御靈に依て、父母の生なして、云々』(鬼神新論)と述べてゐる。
 寛君の今後の成長が樂しみである。

 
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◎顯義堂 村田春郷翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

村田 春郷[ハルサト]

生歿
(生) 二三九九年  櫻 町  元文四年
(沒) 二四二八年  後櫻町  明和五年九月一八日 
(年) 三〇

姓名
(名)平氏、(通稱)長藏、(名)始 忠何(タヾナリ)、後 春郷、(字)君觀、(號)顯義堂

住所
江戸、(墓)深川本誓寺



●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『春郷、姓は平氏、字を君觀といひ、顯義堂と號す。江戸の豪商なり。曾祖忠之は佛學を好み、祖忠友は儒學を信じ、父春道は神道を崇み、且詠歌を巧にす。春郷少くして賀茂翁の門に入りて學び、和歌をよくし、特に長歌に妙を得たり。春郷に及びて、四世皆世に著はる。春郷家甚だ富み、家僮數百人、邸宅數十弓。然れども、以爲らく、富貴は浮雲の如し。自ら恃むに足らざるなり。身を市井より避け、閑處に就きて以て、靜に我が道を樂まんには若かずと、是に於て、父母宗族に謀り、弟春海(※「縣居門 その二。村田春海翁」http://sousiu.exblog.jp/19227944/)をして家を繼がしめ、自ら別業に閑居し、專ら和學に心を潜め、又漢書を讀み、經史に博覽たり。兼て一貴人之れを見んと欲して招く。春郷辭して行かず。曰く、吾れ此技を以て、名をなすを欲せざるなりと。春郷人となり淡雅温厚、父母に事へて至孝なりきと云ふ。
明和五年九月十八日、年三十にして歿す。賀茂翁其死を惜み墓碑を撰し、平生を叙す。春郷家集あり世に刊行す。其のよみ歌は、よく師翁の體を得たりと云ふ』と。

●「村田春郷墓碑」全文(原文は眞名にてかけり)
村田春郷墓碑

玉川にうまし玉あり。人得がてにす。世の中に人あり。うまし人またすくなし。こゝに氏は村田、名は春郷といふ人あり。其さが高くして、へりくだり、おもひがねなごやかなり。そがつねはや、とほつおやをまつるに、いぐしのみてぐらをそなへ、春秋の花をつくし父母につかふるに、やとりのつくゑ(机)ものをさゝげ、朝夕のうるはしみをなせども、すべてたらはぬことをおそれ、うからやからにうるはしく、とも(友)がきにうるはし。家人けだしもゝ(百)たりにちかし。事あるにおよべと見直しいひなほす。神つならはしもてすれば、いへ(家)人もうつしき青人くさ(草)にならはず、とゝのひなごびにたり。このめる事は、いにしへの書[フミ]をよみ、いにしへぶりの歌をよくす。ことに長歌を得たり。また鞠[マリ]こゆるわざを得て、其すがたうるはしく立居みやひ(雅)かなり。其わざこのめる人、皆世にすくれたり(優れたり)といへり。しかはあれど、うま人のめしある時は、ゆゑをまをして(故を申して)まゐらず。左は業[ワザ]もて名をなさんことをはぢてなり。かれ曾祖父[オホオホヂ]忠之[タヾユキ]佛の法[ノリ]に入り、租(※マヽ)父[オホヂ]忠友[タヾトモ]聖のをしへをたふとみ、父春道[ハルミチ]神の道を傳へ、春郷いにしへのみやびをえて、今に四世[ヨヽ]つぎ世にたゝへられたり。こゝにして春郷おもへらく、われ市のほとりに居て、世々とめり。富はやかで(※マヽ。愚按、やがて)うかべる雲なり。うつろふさま、なにかさだまらん。今つとむべき時なりとて、市の外のなりどころにうつろひて、なりはひをながくせんことをはかり、父母にとひ、おい(老)人にはかりて、もろゝゝうつなひてのち(後)、とほつおやをまつり(祭り)、かたやきしてさだめぬ。其ふかきおもひはかり(其の深き思ひばかり)あることかくの如く。時に明和のいつとせ(五ツ年)さ月やまひ(皋月病)ありて、なが月(長月)までおこたらず、みそぢ(三十路)のよはひ(齡)にしてみまかりぬ。をちこち人、みな、いへらく、うまし玉こゝにして、しづきぬと。かなしきかも、この人。をしきかも、この玉。あはれ、いろと春海、なきていへらく、いにし人、子なし。たゞことのは(言の葉)ののこれるあり。名代[ナシロ]となすべし。其常のありさまをば、おきな(翁)がふること(古言)をもて、しるさんことをこそといへり。かれ賀茂眞淵むつましき友がきのゆゑをもて、なみだにひぢてしるす
』(寛政三年十一月『賀茂翁家集』卷之四 雜文二、所收)※括弧及び句讀點は野生による。



●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の下』(嘉永二年)に曰く、
父春道、大いに 皇國の道を尊尚[たつと]び且、謌を好み、賀茂翁の江戸に出(いで)しより直ちに翁を私邸に招堤し、これに就て教を授、頻りに作文詠哥を勉強して学ぶに、元より性、穎悟敏捷にして、大に妙を得て時に鳴。ことに長歌を能(よく)して時輩に超越す』と。

又た曰く、
翁、爲人(人と爲り)温厚にして父母に仕へて孝なり。一年父春道病(やむ)ることあり。翁、甚(はなはだ)これを慨歎して氏神に誓文を捧げて曰く、我命は朝の露夕の霜と消果(消え果て)、骸を蒼海に沈め、田野に曝すとも、さらにこれを厭はじ。唯、父の病ひ治せん事を祈誓す。人これを感嘆す。且、家に從事[つかへ]る奴婢[をとこをんな]に至るまで、能(よく)愛憐して、微[すこ]しも怒[いかりの]色を見せず。故に手足の如くに仕事して家内親族大いに和せり』と。

又た曰く、
明和五年九月十八日、三十にして歿すせり。深川本誓寺に葬る。文詞を以て追悼す。墓碑は賀茂縣居翁、これを作りて能(よく)其爲人(其の人となり)を述たり。後、弟春海竝びに濱臣等、はかりて遺稿を刻して村田春郷家集とし、世に行はる』と。



 <村田春郷翁の主なる著書>
    春郷家集 (文化八年七月、清水濱臣翁序) 一卷

       http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he02/he02_04380/he02_04380.html


     
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by sousiu | 2013-04-23 12:31 | 先人顯彰

縣居門 その八。橘常樹翁 

◎無六翁 橘常樹翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

橘 常樹

生歿
(生) 二三六四年  東 山  寶永元年
(沒) 二四二二年  桃 園  寶暦一二年一一月一九日 
(年) 五九

姓名
(名)常樹、(號)無六翁[ムツナシノヲヂ]


住所
(生地)土佐、(居住)江戸


●『賀茂翁家集』(寛政三年十一月、平(※村田)春海翁撰)卷之四 雜文二「橘常樹を悲む詞」に曰く、
常樹は土佐の國の人にて妻も子もなくて年頃江戸に來りて獨すみけり(※一人住みけり)。古今集仰古解といふもの二十卷を作り又歌文などもあまたありしを皆、盜にとられてあらずなりぬ。寶暦十六年十一月十九日、酒飮(さけのみ)て、ふ(伏)したるが其まゝみまかりにたり。年五十九にてぞありける』と。
 又た曰く、
『氏は橘、名は常樹てふ人ありき。此人もの(物)しゝ(知)れど、し(知)れりともな(無)く、酒の(飮)めれど、の(飮)めりともな(無)し。たのし(樂)めれど、たのしともな(無)く、したし(親)めれど、したしともな(無)く、うれふ(憂ふ)れど、うれふともな(無)く、まづし(貧)けれど、まづしともな(無)く。またよめる歌つくれる文らもぬす(盜)人にかどはされてな(無)し。かくばかり世にあやしければ、むつなし(六ツ無し)のをぢ(翁)とこそ名づけつべけれ。かくてこぞの霜月のなかのこゝぬかといふになやめる事もなくて、たまさへなむなくなりにける。かれ今しのびいでつゝ人々あはれみあへるをあるじてふこともなくて、むなしの世や。
    世の中は みながらなしと 見し人を ありのすさみに とふがかなしき
 (※本文マヽ。括弧及び句讀點は野生による)


●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
賀茂翁すなはちこれを悼[いた]むの詞を作りて一畸人とし其号をして、かのあれどもなき(彼の有れども無き)が如くするもの六なり、故に無六翁[ムツナシノヲヂ]とせんといふ。また謌一首を加へて曰(いはく)、よのことは、見ながらなしと、見し人を、ありのすさみに、とふがかなしき』と。
 又た曰く、
『其所著(その著はすところ)の書、古今集仰古解[かうこかい]二十卷、謌文詞の集、若干の卷あり』と。


※『慶長以來 國學家略傳』は、ほゞ、前記と同樣なり。おそらくは「家集」より引用したるかと拜察す。重複の煩を避けんが爲め省略す。




 <橘常樹翁の主なる著書>
    古今集仰古解 廿卷
    家集



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by sousiu | 2013-04-22 01:41 | 先人顯彰

縣居門 その七。日下部高豐翁 

 本日は、西郷南洲會が毎年行なつてゐる「西郷南洲翁銅像清洗式」に出席。
 雨天にかゝはらず、上野公園はおほくの參加者で賑はつてゐた。
     
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◎道堅 日下部高豐翁(縣門十二大家)


●『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
日下部高豐、通稱今藏貞右衞門、家集一卷、序校正して、近刊す

●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
高豐は、通稱を、今莊貞右衞門といふ。賀茂眞淵の門に入りて、古學を學び、詠歌に妙なり。妻もなく、子もなく、年六十あまりにして歿せり。其の著す所の書は左の如し。
山の幸
此書は、高豐の歿せんとする時、瀧川一生と、いへる人にやきすてよとありしを、一生をしみて、祕藏せしを、源道別、撰びて、山の幸と名づけたるものなりといふ
』と。


 <栗田土滿翁の主なる著書>
    日下部高豐家集 一卷
    山の幸




 高豐翁も又た、その人物及び功績を識るに六ケ敷きお一人だ。
 「縣門の十二大家」として數へられる一人であることから、精しい人は翁を御存じであらうけれども、これから知らうとする野生のやうな者では、先づ資料の蒐集からどうにもかうにも難儀してしまふ。實に惜しまれることである。本當にかうした分野を專門的に扱つてゐる人でなければ折角の尊名も最早、尊名のみとなつてしまふ惧れ、無きにしも非ず、だ。
 とは云へそれでも、インターネツトの檢索に頼れば、辛うじてその名を見られぬこともない。この點に就てはネツト普及による一つの恩惠として數へ上げなばなるまい。
 備中處士樣が「九段塾」で、なき相原修兄の年譜を事細かに記されてゐる。
    http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/1
 未見の同志にとつて、或は後々相原兄を知らむと欲する後進の有志にとつて、かうした資料が殘存されることはまことに難有いことなのである。曩の土滿翁、今度びの高豐翁を記するにあたり、人物事蹟の保存が如何に後人にとつても大切なことであるか改めて思ひ知らされた次第である。    

    
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by sousiu | 2013-04-21 14:16 | 先人顯彰

縣居門 その六。栗田土滿翁 

 本日は、起床し 宮城遙拜を。その後、靖國神社で昇殿參拜を行なふ。
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 お堀に浮かぶ白鳥が、見る者をのどかな氣持ちにさせてくれる。よし一首・・・・と思つたが、駄目だ。浮かばない。
 又た、靖國神社で籤を引いたところ、小吉であつた。
 「みおしへ」では、景岳 橋本左内先生の玉言が記されてあつた。難有し。
 景岳先生曰く、
『氣とは、人に負けぬ心立てありて、恥辱のことを無念に思ふ處より起る意氣張りのことなり。振ふとは、せつかく自分と心をとどめて、振ひ立て、振ひ起し、心のなまり油斷せぬやうに致す義なり』と。
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◎岡廼舍 栗田土滿翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

栗田 土滿[ヒヂマロ]

生歿
(生) 二三九七年  櫻 町  元文二年
(沒) 二四七一年  光 格  文化八年七月八日 
(年) 七五

姓名
(通稱)民部、(號)岡の舍[をかのや]

住所
(生地)遠江の國城東郡平尾村。(居住)江戸



●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
土滿は、遠江國、城東郡、平尾村、廣幡八幡宮の、祠官にして、民部と稱す。從五位下に叙し、壹岐守に任ぜらる。號を、岡の屋といへり。江戸に出でゝ、賀茂眞淵の門に入り、古學を研究し、詠歌に名あり。翁歿後、本居宣長の門に遊び、研鑽怠らず、名聲益高し』と。



 <栗田土滿翁の主なる著書>
    神代卷葦茅抄 (文政二年跋) 三卷
    岡廼舍歌集 二卷
    岡廼舍祝詞集 一卷




 『近世三十六家集略傳』及び『國學者研究』ほか記載無し。
 
    

    
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by sousiu | 2013-04-20 22:04 | 先人顯彰

縣居門 その五。荒木田久老翁 

 本日は、木川智兄と東京拘置所へ。菊水國防連合・田代厚會長の面會へ伺つた。
 田代會長は頗る元氣さうで、先づは一ト安心だ。

 木川兄と別れた後は、新橋へ。おつさんがおつさんの街へ繰り出す。・・・ありのまゝを云つただけで別段深い意味は無い。

 
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◎五十槻園 荒木田久老翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

荒木田 久老[ヒサオイ]

生歿
(生) 二四〇六年  櫻 町  延享三年
(沒) 二四六四年  光 格  文化元年八月一四日 
(年) 五九

姓名
(通稱)彌三郎、後 主税、(名)正恭、正董、(號)五十槻園[イツキノソノ]


補足:出典「慶長以來 國學家略傳」
久老、氏は橋村、又、宇治とも云ふ
『文化元年八月十四日歿す。年五十九歳。四男一女あり。長子久守、家學を繼ぎ家聲を墜さゞりき


●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
常に故郷を出でて、所々を漫遊し、古典を釋きて教示す。從ひ學ぶの徒、頗る多し。凡て其説くところ、古人の跡をふまず、依然として一家の學を唱ふ。時輩、鈴屋の説を肯けざる者は、多く翁に從ひて業を受く。實に縣居門の巨擘、當時の一大家なり。詠歌は其專とする所にあらざれど、又一體の妙を得たり』と。

 又た曰く、
幼より 皇國の古典を研究す。ことに神典に於て、己が職とする所なれば、深くこれに精しからんことを欲し、專ら神代卷を究む。後、賀茂眞淵翁の門に入りて、益精力を盡し、大成す。殊に萬葉集に於いて、大に研究し、縣居翁の萬葉考に次いで、槻の落葉を著す』と。

 又た曰く、
『翁、爲人(※人と爲り)、豪放不覊にして、常に青樓に登りて、遊宴日を經、酒池肉林を以て娯樂とす。しかして其醉中、忽然として、掌を拍て曰く、古今未發の考をなせりと。かくて人に謂て曰く、江湖の學生を見るに、古語の難儀、古典の解しがたきに至つて、これを釋き得んと苦學し、机上若干の書を開きて、沉(三水+按=ちん)按したりとて、いかでか眞面目を得んや。吾學はまた異なり。棲上遊宴なし、妓婦を陪座せしめ、盃盤狼藉、しかして未曾有の奇説を發す。是れ眞の活考たり。世人の學者は、多く死物たりと』と。


●久松潛一翁、『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、
『荒木田久老は伊勢の外宮の祠官の度會家の出であるが、後に荒木田家をつぎ内宮に奉仕したのである。二十歳の頃江戸に出て眞淵に三年程學んで居る。純粹に伊勢神官に奉仕したのであり、それだけに伊勢の精神をより多く傳へて居ると見られる。文化元年に五十九歳で歿して居るから宣長よりも十六歳の後輩であるが、眞淵の精神、特に、萬葉研究の精神をよく繼承して居るのである。彼の著書を見ると萬葉集卷三の註釋である萬葉考槻落葉はその主著であるが日本紀歌廼解もあり、萬葉集を中心とする上代詩歌の研究に中心を置いて居るのである。さうして眞淵のやうに上代的な歌を好んで眞淵の萬葉研究の精神を最もよく繼承したのは久老ではないかと思はれるのである。宣長とは多少對抗したこともあつて人物は調和的でない所もあつたと見られるが、それだけひたむきな點もあつたであらう。眞淵は萬葉研究に終始して居るけれども、眼目は古事記研究にあつた事は眞淵の自らいふ所であり、その點で眞淵の眞の精神は宣長によつて繼承せられ發展せられたけれども、眞淵の實際の業績から言へばそれをよくうけついだのは久老であつたと見られるのである』と。

●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
江戸の國學者(眞淵の門人として)に對して西方を代表するものが本居宣長と荒木田久老とである。前にも云つたやうに(※村田春海翁項、參照。http://sousiu.exblog.jp/19227944/)、同じ眞淵の門人でも、江戸に於けるものは只管學問を學問として或は知識として研究したもので、殊に文學の方面に傾き或は單なる文人として立つて居つたのに對して、西方の人々は何れも眞淵の思想方面を受けたもので、宣長にも久老にも其傾向があつた。
 荒木田久老は延享三年伊勢國山田に生れた人で、元は度會家の出であるが荒木田家に養子に行つたのである。同じ眞淵の流れを汲んでは居るが獨特の見解を有つて居つて宣長とは必ずしも同型で無く自然兩者は相對峙した形であつたので、近世三十六家集略傳にも「凡て其説くところ、古人の跡をふまず、依然として一家の學を唱ふ。時輩、鈴屋の説を肯けざる者は、多く翁に從ひて業を受く。實に縣居門の巨擘、當時の一大家なり(※上記、參照)と云つて居る。然し宣長との交情は決して惡かつた譯では無く、宣長が久老の爲めに作つた「荒木田久老神主の五十槻園の詞」の中にも「四面の國よりみなと入に船こぎそふ事のごとく、あらそひつきつゝ立よりて、これの五十槻の木陰をし、あふがざらめや、頼まざらめやと、おのれはた此あろじとは同じ心に、あがたゐの大人の教をうけて、まなびの道には、はらからなすゆゑよしゝあれば、これもまたおなじこゝろにうれしみなも」とある程である』と。




 <年譜>  出典『國學者傳記集成』
    延享三年、 一歳、 生ル。
    寶暦三年、 八歳、 外祖父秀世ノ嗣子トナリ、權禰宜職ヲ承ギ主殿ト稱ス。後、故
                 アリテ離縁シ、中書ト改ム。
    同十三年、 一八歳、 從五位上ニ叙ス。
    明和四年、 二二歳、 正五位下ニ叙ス。
    同  八年、 二六歳、 從四位下ニ叙ス、齋ト改ム。
    安永二年、 二八歳、 位記ヲ返上シ、職ヲ辭シテ、荒木田求馬久世ノ嗣トナリ、久
                  老ト改ム。内宮權禰宜ニ補ス。
    同  三年、 二九歳、 五十槻と改稱ス。
    同  八年、 三四歳、 從五位上ニ叙ス。
    同  九年、 三五歳、 正五位下ニ叙ス。
    寛政元年、 四四歳、 從四位下ニ叙ス。
    文化元年、 五九歳、 八月一四日歿ス。



 <荒木田久老翁の主なる著書>
    續日本紀歌解 (天明八年) 一卷
    万葉考槻乃落葉 三四五卷附記附 (天明八年序刊) 八卷
    竹取翁歌解 (寛政十一年刊) 一卷
    日本紀歌解槻乃落葉 (寛政十一年) 上中下一卷
    酒之古名區志之考 (寛政十二年) 一卷
    難波舊地考 (寛政十二年刊) 一卷
    校正頭註 豐後風土記 (寛政十二年刊) 一卷
    信濃漫遊 (享和元年) 一卷
    校正頭註 肥前風土記 一卷
    祝詞考追考 一卷
    古言清濁辨論 一卷
    邇飛麻那微 校訂 一卷
    歌意考 校訂 一卷
    文意考 校訂 一卷
    古器考 校訂 一卷
    古事記歌解 二卷
    播磨下向日記 一卷
    播磨漫祿 一卷
    五十槻園集



         天地の 神もうづのへ われなくば
                     誰かとかむよ あたら古語





※江戸時代の書物に関して、刊行年月日の甚だ明確ならざる物が多く、一應、念入りに調べてゐるつもりではあるが、我れながら疑はしい點も少なくない。識者の御指摘を請ふ。
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by sousiu | 2013-04-19 23:56 | 先人顯彰

縣居門 その四。加藤美樹翁 

 縣門四天王の最後の一人は加藤美樹翁だ。

 縣門四天王に就ては、『近世三十六家集略傳』に以下のやうに記されてゐる。
 『賀茂翁の門に入りて、古學を研究し、詠歌また妙所に至る。當時江戸にして、千蔭、春海、美樹、魚彦の四翁を、縣居の四天王と稱す。しかして多く、其詠歌の躰、異に一風をなせり。千蔭は詞姿はなやかに、艶なるを好み、春海はさびたるさまの、こまかなるを意となし、魚彦はひたすら、古調を好みて、古語を自由にせんことを修す。此翁(※美樹翁のこと)は、また賀茂翁の晩年の口調の秀■して、絶て及ぶべからざる風致を志して竟に其妙を得たりと謂ふべし』と。

 美樹翁に就ては、魚彦翁よりも更らに資料が少ない。少なくとも野生の所持する書物に於ては。
 當面、必要と思はれる箇所を抄記するにとゞめ、後々機あらば書き加へていくことゝする。

 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


◎靜廼舍 加藤美樹翁(縣門十二大家、縣門四天王)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

加藤 藤原 美樹[ウマキ] 宇萬伎

生歿
(生) 二三八一年  中御門  享保六年
(沒) 二四三七年  後桃園  安永六年六月一〇日 
(年) 五七

姓名
(姓)藤原氏、(通稱)大助、(名)美樹、又 宇萬伎、(號)靜の舍、(法號)了嚴院義洞勇徹居士

住所
江戸淺草三筋町、京都、(墓)京都三條三寶寺

學統
眞淵 ―― 美樹 ―― 上田秋成』


●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『美樹姓は藤原、通稱は大助、美樹は其名にして、或は宇萬伎に作る。靜の舍と號す。幕府の大番騎士にして、祿二百苞を領し、淺草三筋町に住す。賀茂翁の門に入りて學び、特に古風を唱へて和歌に妙なり。縣門の巨擘と稱せらる。美樹多くの著述ありけれども、多くは祕して人に示さず。毎に京攝に勤番せしとき、門に入りて教を受くるもの甚だ多し。上田秋成は、其高足弟子なり。寶永九年大阪の勤番の時官金を盜みしものありしかば、その嫌疑を受けて、美樹も公廷にめされて審理せられしが、後其犯人發覺しければ、美樹は全く青天白日の身となりきとぞ。
後安永六年、京師二條城勤番の時、偶病を得て此歳六月十日、溘焉として二條の客舍に歿す。年五十七、三條三寶寺に葬る。法諡を了嚴院義洞勇徹居士といふ。養子正樹(通稱善藏)家を繼ぐ。父の志を繼ぎて和歌に名あり』と。

 又た曰く、
『ある日、一人の法師(或は建部綾足なりと)美樹の門を叩き喋々、五十音反切を以て、古言延約の説をなして曰く、彼の「きり」と「かきろひ」とは、もと同じ語なるべし。そは「かき」を約むれば「き」となり、「ろひ」を約れば「り」となるなりと。さもしたり顏にいひければ、美樹笑を忍びながら曰く、もし君の説の如く、語の延約をなすならば、「たか」は「つばくら」と同じ鳥となるべし。如何となれば、「つば」を約むれば「た」となり「くら」をつゞむれば「か」となればなりといひしかば、法師も、詞なくしてやみしとぞ。以て其古言に明らかなりし一斑を知りぬべし』と。

●皆川淇園翁『日本諸家人物志』(寛政十二年三月改刻)に曰く、
『本姓は加藤、稱は大助、或は静舎と称す。東都の人。業を真淵に受く。近来浪華の某氏、此人の咏を■(※「竹冠」+「日」+「大」+「水」)めてしづやの家集と題して、真淵のあがたゐの家集とゝもに合刻す』と。




 <加藤美樹翁の主なる著書>

    雨夜物語だみ詞(安永六年) 上下一卷
    靜舍歌集[志都屋のうた集](寛政三年) 一卷
    靜舍雜著 一卷
    假字問答 一卷
    土佐日記注 上下一卷


         春がすみ 立たるを見れば くゞもりし
               神代の昔 思ほゆるかな


    

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by sousiu | 2013-04-18 19:53 | 先人顯彰

縣居門 その三。楫取魚彦翁 

◎茅生庵 楫取魚彦翁(縣門十二大家、縣門四天王)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

楫取 伊能 魚彦

生歿
(生) 二三八三年  中御門  享保八年三月二日
(沒) 二四四二年  光  格  天明二年三月廿三日 
(年) 六〇

姓名
(姓)伊能氏、楫取氏、(通稱)茂左衞門、(字)初・景良、後・魚彦[ナヒコ]、(號)青藍、茅生庵

住所
(生地)下總香取郡、(居住)江戸濱町茅生[チブ]庵、(墓)下總香取郡牧野村觀滿(※原文マヽ)寺(※現、千葉縣佐原市牧野「觀福寺」)


●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 六』(嘉永二年)に曰く、
『ここに賀茂縣居翁、大江戸にありて、昌んに古學を起し、普く有志の士を誘ふ。翁、やがて其門に入りしより、皇國風の直く正しき道をしり、大に日本魂を振起して、日夜古道を修學す。ことに萬葉集を尊び、頻に古言の奧旨を究む。其平生、詠み出づる歌にも、少しも後世の言を交へず。好んで上古の調をのみ貴み、頗る自在に遣ひ、しかしてまた新意を出せり。翁また催馬樂調を作るに、妙所に至りて、實に千載の古調の如し』と。

●清水濱臣翁、『縣門遺稿第四集 楫取魚彦家集』(文政四年)序に曰く、
『伊能魚彦は下總國楫取あがたの人なり。つねの名をば茂左衞門といひき。明和といふとし(年)のすゑつかた(末つ方)此大江門にまゐ來て(參來て)、縣居翁に名簿をたてまつり翁の住める濱まち(町)といふ所に軒をならべ、朝夕にしたがひむつひで學の道に心いれつゝ、よく、ふる言の葉のおくがをきはめられしかは、常につみいでらるゝことくさ(言葉)いさゝかも後の世のをまじへず、心のまゝにふること(古言)もて、あたらしきことどもいひとられにけり。かくて天明の二とせ(年)、やよひばかりに、よはひ(齡)六十にて濱まち(町)のやどり(宿)にみまかられぬ(薨られぬ)今もそのうから(其の親族)伊能を氏にて楫取にあるか、その家につたへもたる家集一卷あり。みづからの筆にて安永五年と六年と二とせのをかきたるのみなりけり。猶こゝにうつし(寫し)つゝ、かしこにちりのこれる(彼處に散り遺れる)あるべきを、何かはかくてのみと、此ぬしのみやびに思ひあがれる心のほどはしらるゝを、あながちにおほきをもとめむは、えうなきことゝして、とかくよみかうがへて、板にゑらせたるなりけり』と。
http://books.google.co.jp/books?id=Bda6KcsXtmQC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

●皆川淇園翁『日本諸家人物志』(寛政十二年三月改刻)に曰く、
『本姓は稲生、稱は茂右衞門。下總楫取の人なり。古雅を真淵に學んで、古言梯を著す。旁ら画を好んで、常に梅花を画く。同門に○(※原文マヽ)倭文女あり。國學を真淵に學んで、和歌を咏ず。家集文布あり 』と。

 魚彦翁を知る資料は乏しい。
 傳記學會・伊藤貫一代表も、その大著『國學者研究』(昭和十八年一月卅日「北海出版社」發行)に於て
 『魚彦の傳記を知るべきものとしては、前記の「三十六家集略傳」と「古學小傳、下總舊事考」の外、「香取四家集」の末に、清宮秀堅の書いたものはあるが、その何れもが簡に過ぎ、しかもその記す所相同じで、史料として何等發明する所が無い』とその多からざることを憾んでゐる。


●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『魚彦は、通稱を茂右衞門といふ。初名は、景良、下總香取郡の人なるを以て楫取ともいふ。又稻生と書けるは、其音訓相通ぜるを以てなり。青藍、又茅生庵とも號せり。父は景榮、母は土子なり。魚彦、六歳にして、父を喪ひ、專母の鞠育を受く。幼より讀書筆札を好み、又丹青の妙所を得、法を古に求め、姿形を目前の寫生にとり、自ら一家の風をなせり。就中梅と鯉魚とを寫すに、深く意を用ゐ、庭前に數株の梅樹を栽ゑ、又許多の鯉魚を小池に養ひ、其形勢を、熟視して寫生す。故に人之を賞して頗る其繪畫を需む。會々眞淵の江戸に在りて、昌んに古學を唱へ、普く有志の士を誘導するを聞き、魚彦も其門に遊び、日夜研■(石+賛)して怠らず。 ~中略~ 中古以來假字用格甚混亂して、初學の人はいふに及ばず名高き學者も之を知らず。臆斷を以てして之を誤れることを慨歎し、日本書紀、萬葉集、和名抄等の書より古き假字を抄出して、古言梯を著はしゝより後進の士に裨益を與ふること少からず。假字用格の古に復せしは實に魚彦と契冲の力にして、其功決して歿すべからざるなり。明和二年、家を其子景序に讓りて自ら江戸に出でゝ、濱町に卜居し其居を茅生庵と號す。六年十月、眞淵翁歿しければ、其徒魚彦に從ひて學ぶもの益々多く、遂に二百人に餘れり。特に酒井侯、奧平侯、戸田侯等禮を厚くして延聘し、奧平侯は俸米若干を賜ふといふ。又上野の法親王の寵遇甚渥かりき』と。




 <楫取魚彦翁の主なる著書>

    古言梯[ふることのかけはし](明和二年)
    續冠辭考(明和七年九月)
    冠辭懸緒(安永八年)
    萬葉集千歌
    ならの葉
    百人一首略傳
    筆のさきこと



     すめ神の 天降(あも)りましける 日向(ひむか)なる
           高千穗の嶽 やまづ霞ならむ
    

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by sousiu | 2013-04-17 20:18 | 先人顯彰

縣居門 その二。村田春海翁 

 昨日、廿一時ころ、北海道より歸宅。
 夕方から夜にかけて見る飛行機からの眺めはロマンチツクで最高であつた。・・・隣が山口會長でなければ。吁。
 歸つて暫くして就寢。いつの間にか十二時間も寢てしまつた。
 今度びの北海道行きでは、山口夫妻に頗るお世話になつた。只管ら、御禮を申上げたい。
  
 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


◎錦織齋 村田春海翁 (縣門十二大家、縣門四天王)

○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

村田春海

生歿
(生) 二四〇六年  櫻町  延享三年
(沒) 二四七一年  光格  文化八年二月一三日
(年) 六六

姓名
(姓)平氏、(通稱)平四郎、(字)士觀[サチマロ]、(號)琴後翁[コトジリノオキナ]、錦織齋[ニシゴリノアルジ]


住所
(墓)江戸深川本誓寺』

●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の下』(嘉永二年)に曰く、
『初め服部仲英に從ひ、後、鵜殿士寧に就き、また京師に出てゝは皆川淇園にも就て疑ひを問ふ。普く有名の儒家と交りて、博學淹通、和漢に通ず。故に文章を作るにいたりては、趣意を漢土に取り、詞を 皇國にもとめて、別に一体を闢[ヒラ]きたり
 又た曰く、
『伯、春郷(※春海翁の實兄)と倶に縣居の門に入り、古學を勉め、また歌に妙なり。其文詞においては、實に近世に超出して、一家の妙を究む』と。
 又た曰く、
『翁、家に一の古琴を藏して、これを珍とす。依て琴後の號あり』 と。



●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『春海、姓は平氏、字士觀[サチマロ]、通稱を平四郎といひ、錦織齋、又琴後翁と號す。春道の第二子なり。兄春郷と同じく、賀茂翁の門に入りて古學を修め、歴史、律令、文辭の學に長じ、和歌、文章に妙なり。兄、春郷の家を避くるや、春海代て家道を督す。性豪放にして財利に澹なり。家世々江都の富豪を以て稱せられしも、竟に之れを蕩盡す。然れども恬として顧慮するところなく、心を文事に委ね、老年に至りて益々其の精を極む』と。
 又た曰く、
當時加藤千蔭と名を齊うし、並に江都和學者の泰斗と稱せらる。從學の徒、甚だ多し。東國に和學の盛なるに至りしは、實に春海と千蔭の力なりと云ふ』と。

 こゝに出てくる村田春道とは、春海翁の父のことである。
 通稱、平四郎、後に次兵衞といふ。初名を忠興、後に春道に改める。號を尚古堂とす。子に春郷、春海あり。江戸の人なり。
○『家世々商を以て業とす。家道甚富む。春道幼より文雅を好み、賀茂翁の江戸に來るや、之れを居宅に招きて、自身及び子弟をして、國學を學ばしむ』(「慶長以來 國學家略傳」)

 これによつて春海翁の、縣居門を叩いた經緯は分明だ。つまり父・春道によるものである。
 縣居翁が江戸で遊んだ當初、縣居翁は村田春道宅に寄寓した。そこで感化を受けた春道は自身と、子息を縣居門生となつたのである。
 餘談であるがこの頃、古學を教へ説く縣居の名聲頗る盛んとなるにつれ、當時の町奉行は、幕府が禁物としてゐる新規の説を流布する學派としてこれを警戒。與力であつた加藤枝直をして入門者に化けさせ、その説を伺はしめた。謂はゞ今でいふ潛入搜査である。ところが與力・枝直は忽ち、縣居翁に心服、その説にも敬服し、搜査としてではなく本當に入門してしまふ。枝直直ちに、眞淵翁を自分の家(北八丁堀)の附近に移らせ、その子をも入門せしめた。その子が先日、記した千蔭翁である。
 春海、千蔭兩翁は、それゞゝの父によつて眞淵門となつたわけである。それにしても案外なる思想及び學問との出會ひによつて、意外なる人生の方向轉換となる例は決して少なくない。思想や學問とは實に面白い。


 さて。春海翁の性行に就ては豪放磊落とする見方と傲慢無禮であるとする見方の批評がある。
 序でながら之れも資料として加へたい。
●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の下』(嘉永二年)に曰く、
『性、豪放にして、財利に淡く、竟に家産を失ふ。しかれども和漢の學、文章に富み、其名を天下に振ひ、猶千載の後葉に傳へん。されば家産を失ふもまた非ならずと、人稱すと』と。

●『琴後集』(文化七年刊)緒言に曰く、
『翁若くして、なりはひの道にうとく、遂に家をはふらかして、百千の寶を失ひ、はては事たらぬがちに、年月を送られしかど、老てのち、言の葉にとみ、學に富まれたり。いでや、百千の寶は、只しばし生けるが程の富なり。言の葉と學とは、とこしへになき跡なでの富なり。翁たからに貧しく、おはせしかど、言の葉と、學とに富まれたり。誠に天の下の寶の玉とは、翁をこそいふべけれ。誰かはうらやまざらむ。誰かは慕はらざらむ。今此言の葉のふみ、世にあまねく、廣ごりてあひだおかず、學の書ども板にしられゆかば、我翁を天の下の寶の玉なり。といふことの僞ならぬこと知られぬべし』と。

●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『元來春海は其才に任せて幾分か氣を負ふ風があつたやうで、泊洦(山水+百)筆話(※下記參照其の一)に春海が常に、契冲真淵を其當時の人々が非常に偉い人のやうに云ふが、彼も人なり吾も人なり、自分は必ずしも之等に比して其才が劣つて居るとは信ぜぬ、只身體が虚弱であつたために之等の人々程根氣よく勉強する事が出來なかつたためであると云つた、と云ふ事が見え、又太(※)田晴軒の訓蒙淺語(※下記參照其の二)に、晴軒の父錦城の所に遊びに來た春海は畫家芙蓉と共に盛に人を譏り、二人共「人の惡口は鰻驪の蒲焼よりも好物なり」と云つたと云ふ事が見えて居る』と。

※參照其の一
清水濱臣翁(春海門)、『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『吾師の常にいはれしは、契冲阿闍梨、縣居翁などを、今の人の心よりは、四目兩口もありし人のやうに思へど、さらに今の人にことなるにはあらず。彼も人、我も人なり。みづからほこるにはあらねど、契冲阿闍梨、縣居翁、まのあたり本居氏などの如き、その才氣をたくらべば、われも此三人におとれりと思はず。絶えておよばぬ事は、三人のひとだちは、精神すくやかにして、若きより、老の身にいたるまで、學の道にうむ事をしらず、きはめて、つとめし人だちなり。われは幼よりほしいまゝに、おひたちて、酒色にふけるのみにして、物につとむるといふ事をなさず。~中略~ これ身のおこたりとはいひながら、まことは生れだちのかよわく、病におかさるゝ事、常にして、物をつとむるにたへぬが故なり。此三人の人だちは、つねに文机のもとをはなれぬ身なればこそ、人はさもおもはね』と。

※參照其の二
太田晴軒翁、『訓蒙淺語』に曰く、
『我十五六歳の頃、和歌師春海、畫工芙蓉の兩人、亡父(※太田錦城のこと)と懇意にて、毎度宅へ來りしが、兩人共に、舌は轆轤の如しとも言ふべき辯者にて、至極面白き人物なり。併し、兔角譏話は好物にて、兩人共に人の惡口は、鰻驪の蒲焼よりも旨しと言はれしに付、亡父跡にて、あれは散散不徳の事と云へり。我等も亡父の傍にて、毎々兩人の興に乘じて、譏話するを聽きしに、人の陰私までも、一々披露に迨(之繞+台=およ)び、聽くにも聽きにくき事共あり』と。



 そして、肝心なる、春海翁の學風とはこれ如何に。
●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『春海又心を漢學に潛め、好みて詩文を作る。初め服部仲英に師事し、仲英死して後は、鵜殿士寧に從ひ、中ごろ京師に如きて、皆川伯恭(※淇園のこと)に就きて學び、後吉田學儒、安達文仲と友とし善し、博雅淹通にして、學和漢を該ね、其國文を作るや、法を漢文に取りて、別に一派を開く(葛因是、琴後集叙に其文を評して唐宋八家の風ありと云ふ)。當時の和學者推して及ぶべからずとなす(本居翁曾て曰く、京師に歌人蘆庵あり、江都に文人春海あり、余が企て及ぶ所にあらずと)。春海曾て道を論じて曰く、我邦の道とする所は、周公孔子の道なり、周公孔子の道を舍きて、別に道を我太古に取るは、吾れ未だ之を聞かざるなり。故に和字は、我字にあらず。漢字を假りて、我が音に充てたるなり。衣服、冠冕は皆隋唐の制度なり。百官、有司は、皆唐制を學びて、稍や是れを變更したるものなり。律令、格式も、亦皆唐制を■(「莫」の下に「手」)倣したるものなり。博士は明經文章、天文、陰陽、律、算、音の諸科を立つれども、和學、歌學の博士をたてず、いはゆる和歌博士と云ふ者は、大江匡房の戯稱より出でたるものにして、和學、歌學の名目は、之れを古に考ふるに、いまだ之れあるは聞かざるなり。和學者は、儒者の、本朝の典故、言辭に通ずるものなるのみ。 ~中略~ 本朝、制度文物己に皆周公、孔子の遺法を奉じて、而して、其の佛を信ずるものも、亦多し。本朝の俗、少うして儒、老ひて佛を信ず。中世より以來盡くしかり。是に由りて之を觀れば、儒にあらざれば、則佛なり、此の二道をすてゝ、而して別に道を建つ、吾れ未之を聞かざるなり。今の和學者、我邦の別に道なきを耻ぢ、牽強附會して、妄に我古史を引き、人を欺き、己れを欺く、吾れいづくんぞ、之を辨ぜざるを得んや』と。
 同樣のことは、九華山房 角田簡翁の『續近世叢語』、河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳』にも書かれてゐる。
 さらば縣居の高弟と稱されるを疑はしいと感じるだけでなく、その門人であつたことさへ疑はしく思はれるのである。
 それ春海論では、啻に縣居の古道思想を承け繼がなかつたのみならず、寧ろ之れに反對の立場を取つてゐる。縣居大人はおろか、當時その萌芽を見せつゝあつた國學者一般の思想に反する。以爲らく、春海翁が初めに儒學を深く學んだことに由るものと思はれる。
これを河喜多眞彦翁は、春海翁は、先人があまりにも異國を貶しめ、聖賢を卑しめてゐることを憤つてのことであると解釋する。

 では春海翁が江戸で、或は縣門として名を馳せた理由は他にあらねばならない。

●松屋 小山田與清翁(春海門)、『松屋叢話』(文化十一年)に曰く、
『賀茂眞淵のは力山をゆくばかりに、打見るまゝに、眼ひらかるれど、古きに過ぎてことばおだやかならず。はた體のおきてかなはざるも見ゆ。この外、かしこにことばをおこし、こゝに筆を下すものあまたなりと雖もまさしきすぢを思ひあきらめしはたえてぞなかりける。わが師、村田春海、ひとり此むねを得て詞を古へにとり心を今にもうけ體をからくにゝかりて錦をおり繡(糸偏+肅)をさへよそほへて、文かく道のはしだておこされしは今むかしにたぐひなき功なりけり』と。

●棠陰 清宮秀堅翁、『古學小傳』(安政四年)に曰く、
『博雅淹通にして和歌及和文に堪能なりき、其和文をかけるや、法則を唐宋八家にかり、詞をこゝにとりて一家の體をなせり、時人及ぶものなし、紀氏以來の能文なり』と。

 畢竟、春海翁は、眞淵大人の門人として、古道思想ではなく、その文學の後繼者として師を辱めなかつたものである。
 これに就て、清原貞雄翁は『國學發達史』でかく論じてゐる。曰く、
『國學發達史上、何れの點から云つても眞淵は劃期的の地位を有するものであつて、其門戸の盛なる事に於ても亦其以前の何人も到底眞淵に比すべきものは無い。而して眞淵は才氣縱横、一方には萬葉の語學的研究を遂げ、又それに依つて古道の論を立て、他の一方に於ては其豐かな文才を以て盛に擬古文を綴り、萬葉風の和歌を詠じ、夫々一家の風格を備へたのである。自然其門弟等には主として其文の側を傳へたものと、主として其學の側を傳へたものとの二樣の別がある。
 江戸に於ける諸門弟は多くは其文藝の側を嗣ぎ、上方地方に於けるものは大抵其學の側、特に其古道の精神を承け繼いだ事は、故藤岡(※東圃藤岡作太郎翁のこと也)博士が既に指摘したやうに、繁榮を極めた江戸の城下に於て皷腹撃壤して現世に不平なき人々と、上方地方に在つて 皇室の痛ましい有樣を目撃して王朝の盛時を懷しむ人々との間に釀された氣分の違ひから來るものであらう。それは同じ漢學者に在ても江戸の學者が何れも幕府を謳歌して居るのに對して京都の學者――山崎闇齋一派の如き――が勤王の大義を唱へて慷慨悲憤の氣に滿ちて居るのと同一轍であると思ふ』と。

 東西の士に於ける、かくの如き相違は何ぞ。東に於て眼前にある物質、文藝その他の滿足である一方、西に於て眼前に映るは 皇室の式微也矣。
 但し、これを以て千蔭、春海翁を縣居門人として落第と看做す可きではない。それは後世の一方的な價値觀であつて、國學の發達が歌學の發達に決して沒交渉ならざるものたれば、當時に於て兩大人の功はやはりその分野に於て大と申す可きであらう。猶ほ吾人が感嘆す可きは、縣居賀茂眞淵大人の、東西に於ける人士の養育、歌學と國學に關して一級の見識と指導力を兼ね揃へてゐたことに盡きる。
 人を知るにはその師をみよ、と云ふが、人を知るにはその門下生をみよ、と言ひ換へることも出來る。今日の道ゆく人、常、肝膽に銘ず可し矣。





 <加藤千蔭翁の主なる著書>

    五十韻辨誤(寛政五年) 一卷
    假字大意抄(享和元年) 一卷
    雅俗辯の答(享和三年)
    琴後集 (文化七年) 十五卷
    歌がたり(文化五年)
    假字拾要(蔓延元年) 二卷
    椿太詣記 一卷
    歌苑古題類抄 廿卷
    かさねの色合 一卷
    涼月遺艸 一卷
    作文通弊 舊名時文摘批 一卷
    和學大概
    齋明記童謠考後按 一卷
    字合稱呼考 一卷
    神道志 一卷
    與稻掛大平書 一卷
    重與稻掛大平書 一卷
    錦織雜記
    西土國習考 一卷
    不問語 一卷
    字鏡考證 一卷
    わかゝつら 二卷
    明道書 三卷
    歌語 一卷
    怜野集拾遺
    古人贈答歌抄
    仙語記 一卷
    筆のさが 一卷
    織錦齋隨筆



 春海翁の門人には、文學者・清水濱臣、萬葉學者・岸本由豆流、考證家・小山田與清の諸賢が最も有名である。
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by sousiu | 2013-04-16 23:00 | 先人顯彰

縣居門 その一。加藤千蔭翁 

 昨日は何ともエライ目にあつた。
 野生はグリーンパイソンなる蛇を飼つてゐる。彼れ、野生の膝下に訪れて已に七、八年經つのであるが、これが中々どうにも愛想が宜くない。
 昨夜、餌(餌が何であるか、こゝでは云へない)を與へようとし、ふと他所見(煙草の火を消してゐた)したところ、チクツといふ痛みを感じた。視線を戻すと、彼れはいつの間にやら水槽から身を乘り出し野生の指を噛みついてゐたのである。
 幸ひ直ぐに離してくれて水槽に戻つてくれたから良いやうなものゝ、痛みの割りに案外出血が多い。

 野生も食ひしん坊であるが、彼れも又た相當の食ひしん坊だ。なにせ野生を食べようとしたのであるから。
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↑↑↑野生の蛇だ。いつも野生を見てゐるが、まさか食べようと思つてゐたとは。蛇心圖り難し、だ。
  
 
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 さて冗談は兔も角。(蛇に噛みつかれた話しは冗談ぢやないのだけれどもね)

 三月十三日に記した、徳富蘇峰翁の言を今一度茲に掲げねばなるまい。
 蘇峰 徳富猪一郎翁曰く、『凡そ世の中に、師として大なる成功は、己よりも偉大、優秀なる弟子を持つことだ』と。

 荷田春滿大人に對する、賀茂眞淵大人であるやうに、賀茂眞淵大人も又た、本居宣長といふ國學の一大恩人を輩出した。
 しかしながら、鈴屋 本居大人があまりにも世に聞こえた爲め、本居大人と比し、他の縣居門生をば注目、研究するの機會に乏しく感じられてしまふのは 野生の偏見といふものであらうか。さなくば、頗る遺憾であると申さねばならぬ。實に當時、江戸に於ける縣居門戸は、勢ひ愈々盛んにして、一世を風靡した。所謂る「縣門十二大家」をはじめ、後學に寄與せしめたもの決して少々としない。

 縣居大人の學統を承け繼ぐ御門人を知ることで、より一層縣居大人の理解を深めることも出來るのではないかと、茲に縣門諸賢の一遍をものせむと試みるものである。


 縣門先學を語る前に話しが前後するが、縣居大人の江戸で門戸を構へ、然る後に於ける足跡を簡單に記しておく。

 眞淵大人が京都に上り、春滿大人の門に入つたのは三十七歳(享保十八年)。必ずしも早い方ではない。今日に至つても知られる昔時の學者には、その時勢の自然の結果として、晩成であることが少なくない(餘談であるが、荻生徂徠が古文辭學に目を開き提唱させたのは實に五十歳のころである)。
 然るに春滿大人に師事すること四年が經ち、元文元年、春滿大人は歿した(時に春滿大人おん年六十八、眞淵大人おん年四十)。

 その翌年(元文二年)、眞淵大人は一度郷里に歸へり、翌元文三年、東遊の志を立て江戸に下つた。蓋し當時京都は、學藝の中心を離れ、春滿大人歿してからといふもの殆ど人材に不足してゐる状況であつたらしい。一方、江戸は政治の發源地であると共に、元祿時代を經て、學藝は盛んに發達、今や中心となりつゝあつたのである。
 而、縣居大人は、門戸を構へた。訪れる門人は日に増してゆく。

 延享三年(縣居大人おん年五十)。大人は田安公に仕へる事となつた。一説には、これまで田安宗武公の寵愛を受けてゐた荷田在滿翁が、その著『國歌八論』を巡り田安公と意見を異にし、雙方相讓らず、在滿翁は公に仕へるを辭し、代はりに縣居大人を公に推擧したといふことである(異説あり。在滿翁が『大嘗會便蒙』を刊行し、朝廷の祕事を著はし公の忌憚に觸れたともいふ)。

 いづれにせよ、縣居大人は田安公より信任と寵愛を受け、その後、十五年間仕ふることゝなる。

 寶暦九年。縣居大人おん年六十四、老衰の故以て、致仕す。
 恩師、春滿大人の廿五年祭を齋行。

 寶暦十三年。縣居大人おん年六十八、門人數名を連れて山城、大和、伊勢などを漫遊す。本居宣長大人が入門したのはこの時である。

 縣居大人、再び、江戸に戻り、明和六年十月卅日(おん年七十三。家譜に七十四とあるは誤也)、歿す。晩年は專ら門人指導と著述活動に從事した。『五意考』は全てこの頃上梓されたものである。




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◎芳宜園 加藤千蔭翁(縣門十二大家、縣門四天王)

○大川茂雄翁著、『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

加藤 橘 千蔭

生歿
(生) 二三九五年  中御門  享保廿年
(沒) 二四六八年  光  格  文化五年九月二日
(年) 七四

姓名
(本姓)橘氏、(通稱)幼・要女、後・又左衞門、(字)徳與麿[トコヨマロ]、常世麿[トコヨマロ]。(號)朮園[ウケラゾノ]、芳宜園[ハギゾノ]、耳梨山人、逸樂窩、江翁

住所
江戸、(墓)本所回向院



●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
『(千蔭翁)年十四にして、加茂縣居翁の門に入らしむ。ここにして千蔭と名を改め、別名を常世丸といふ。こは橘氏によれるなり』
 又た曰く、
『(千蔭翁の)父、賀茂翁とは方外の友たり。翁、その志を嗣いで、日夜賀茂翁に就いて、古學を研究し、詠歌を修し、終に其精妙にいたる。若年の時は、吏務の暇なきも、父の教示をまもりて、學を廢せず、寸暇を索めて、これを勉む。
 ~中略~ 年五十五にして、仕を致してより、ますゝゝ精力を盡し、他事なく、古學詠歌のことを專門としぬ。ここに於て、其名大に振ひ、權門貴族より、下、花街の婦女に至るまで、爭ひて翁の門に入り、教を受くるもの頗る夥し。縣居門の中、詠哥に於ては、翁を以て冠とす。當時、江都に出て、先歌の事を談じ、其人を問へば、童子といへども、千蔭、春海の二翁を稱す』と。

●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『幼より、父枝直に詠歌の業を受け、年十四の時より、賀茂翁に從ひて古學を修め、書は松花堂、又入木堂の風を摸し、畫は建部綾足に學ぶ。後、父の職を承ぎて、町奉行與力となり吏務叢委すと雖も、尚且歌學を研覃して懈らず。人となり温和にして物と競はず。清原雄風、本居宣長、楫取魚彦、小澤蘆菴、清水濱臣、荷田御風、三島自寛、荒木田久老、賀茂季鷹、加藤宇萬伎等と友とし善し。
 ~中略~ 千蔭兼て墨妙を以て稱せらる。其揮洒する所、片紙斷簡といへども、人爭て珍重とす。關東に古學の道の廣まりしは、實に千蔭と春海との力によれりと云ふ。文化五年正月、展墓の時、自ら橘千蔭之墓の五字を書して、寺僧に授け、身後之れを以て我墓と表せよと、是年九月二日、溘焉として逝く』と。


 これらによつてみれば、隨分と、江戸市中でその名が知られてゐたと看做す可きであらう。

 だが一方では、冷靜な意見もある。
●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『(千蔭翁は)歌學に就てはあまり造詣は深く無かつたのであるが、其著「萬葉集略解三十卷は最も名高く、其當時一般にもてはやされ、自然それが將軍家にも聞えて一部獻上を命ぜられ、其賞として白銀十枚を賜つた事は本居大平が千蔭に贈つた書面(帝國文學八ノ六、關根正直氏の萬葉集略解編成の事情所引)にも見えて居り、其歌集「うけらが花」にも見えて居る。然し乍ら之は別に千蔭が萬葉に對して新しい研究を試みた譯では無く、契冲や眞淵の研究を採り、傍ら本居宣長に絶えず書を送つて其説を求めつゝ執筆したので、深切にして温厚な宣長は其度毎に返書を出して一々丁寧に其考を披瀝した結果、畧解が大成したのである。
 ~中略~ 要するに萬葉集略解は、萬葉研究として特に云ふべき程のものでは無いが、萬葉を普及せしめた上に尠からぬ功績を認めなければならぬ。千蔭の門人としては清原雄風、加茂季鷹等何れも歌人として有名である』と。

 清原博士の意見は、千蔭翁が萬葉集を弘めた點に於て大にその功績を認めてはゐるが、研究の成果に關しては御世辭にも高得點を著けてゐるとは云ひ難い。その評價は前二書とは評價内容の懸隔がある。これは一體どうしたものか。
 この理由を知る意味に於て吾人は眞淵翁の偉業を改めて解することが出來ると共に、時代と環境の相違を感じさせられるのである。その理由は次囘、縣門 村田春海翁で説明することゝする。春海翁も又た、江戸の住人だ。
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 <加藤千蔭翁の主なる著書>
    香取日記[かとりの日記] (寛政六年五月) 一卷
    古今和歌集序 (寛政九年序) 一
    大歌所御歌記 (文化十四年刊) 一卷
    東歌 父枝直集 (享和元年) 三卷
    朮花[うけらがはな] (享和二年)、仝 二編 (文化五年刊) 合計八卷
    新百人一首 (享和三年) 一卷
    萬葉新採百首 (享和三年) 一卷
    新撰月百首 (文化元年) 一卷
    月並消息 (文化五年刊) 一卷
    萬葉集畧解 (文化九年刊) 卅卷
    玉霰論 (文化十二年刊) 一卷
    玉川記行 一卷
    ゆきかひぶり 三卷


    むさし野や 花かずならぬ うけらさへ
                つまるゝ世にも あひにけるかな



 千蔭翁の門人として名高くあるのは、清原雄風、加茂季鷹などの諸賢である。



                      ※乞ふ、誤りあらば御指摘下さらむことを。  
 
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by sousiu | 2013-04-12 08:56 | 先人顯彰