カテゴリ:先人顯彰( 47 )

贈從三位 賀茂眞淵大人 そのニ 

○蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 卷廿二 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『賀茂眞淵は、復古學の一大家だ。荷田東滿が、學校を建立して、多くの人材を教育するよりも、寧ろ彼一人を教育し得たるを以て、其の一大收穫とせねばならぬ。凡そ世の中に、師として大なる成功は、己よりも偉大、優秀なる弟子を持つことだ。乃ちこの意味に於て、東滿は成功者と云ふ可きである』と。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

○吉田東伍先生、『倒叙日本史 第五卷 近世紀江戸中世編』(大正二年六月廿五日「早稻田大學出版部」發行)に曰く、
『古言の學は、眞淵に先だち僧契冲あり、萬葉集[奈良朝の和歌集]を註解し、又歌詞を善くす。復古の首唱たること、漢學に於ける伊藤仁齋なり[同じく元祿の人]。然れども、海内和學の大に興るは、眞淵が「いにしへぶり」を江戸に廣めしに由るといふ』と。

○國學院大學々長、紫雲 河野省三先生、『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日「大日本明道會」發行)に曰く、
國意考一卷は、國學の泰斗賀茂眞淵が、我が國の純樸なる古風、健實なる固有精神、大らかなる國民性を發揮して、煩瑣なる漢風を排斥したる書なり。その大膽なる言論は一世を驚倒し、儒學者側の反駁續出するに至れり。然れども國學の精神は明にこゝに其の曙光を發せるを見る』と。

○立命館大學助教授、淺尾一之助先生、『國體思想史概説』(昭和十七年九月五日「錦正社」發行)に曰く、
國學が文學運動から思想運動にまで發展し、一つの思想體系として完成したのは、賀茂眞淵に始まり、本居宣長に至つてゞある。
 賀茂眞淵は、その主勢力を萬葉集の研究に注ぎ、國學の語學的研究を開拓した人であるが、その多數の著述のうちで、「國意考」は彼の思想の最も圓熟した晩年の著述である。彼は此の書に於て、我が國の古について、

 我國のむかしのさまはしからず。只、天地に隨ひて、すべらぎは日月也、臣は星也。おみのほしとして日月を守れば、今もみるごと星の月日をおほふことなし。されば天つ日月星の古へより傳ふる如く、此すべら日月も、臣の星とむかしより傳へてかはらず、世の中平らかに治れり。

 といひ、唐國の學と我が國の古道とを比較して次の如く論じてゐる。

 唐國の學びは、其始人の心もて作れるものなれば、きくにたばかり有て心安し。我すべら御國の古への道は、天地のまにゝゝ丸く平らかにして人の心詞にいひつくしがたければ、後の人知りえがたし。されば古への道、皆絶たるにやといふべけれど、天地の絶ぬ限りはたゆることなし。

 彼は儒學がともすれば形式に墮して自然を忘るゝものがあるに對して、我が國の古道が自然であるとするのである。かくて彼は我が古道の最もよく行はれてゐた古代を理想とし、それに復歸せんとする熱烈な復古思想を懷いてゐたのであるが、彼は、また、我が國の動かぬ鮮かなる國のすがたを觀じて、

凡そ天が下はちひさき事はとてもかくても、世々すべらぎの傳りたまふこそよけれ。上傳れば下も傳れり。から人の云如く、ちりも動ぬ世の百年あらむよりは、少しのどには有とも千年治れるこそよけれ。此天地の久しきにむかへては千年も萬年も一瞬にもあらねば、よきほどによきもあしきも丸くてこそよけれ。方なることわりは益なし。

 と述べてゐる。これは正しく萬世一系の 天皇に統治せらるゝ我が國のすがたを以て最上とするものである』と。


 賀茂眞淵大人に就て、多くの識者が大人の著述『國意考』に就て觸れてゐる。
 どうやら大人を識る爲めに『國意考』を避けることは賢明でないやうだ。

 大人の著書に就て、最後に、久松潛一先生の言を抄録したい。
○久松潛一先生著『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、
『眞淵によつて國學が如何に發展したか、その國學の本質は何かといふ點を考へてみたいのであるが、第一に眞淵の學問として注意されることは春滿の立場を繼承した言語と文學と古道との關連の問題である。 ~中略~

 眞淵(愚案。「春滿」の誤り乎)の學問に於て古道を闡明するために古語を先づ研究するといふ所から言語の研究と古道もしくは古代日本精神の研究とが二の大きな領域になつて居るのであるが、同時に眞淵に於ては古語といふ點と古道といふ事との外に古文學といふ點が大きな位置を占めて居るのである。 ~中略~

 かくして眞淵の學問の領域に於て古典の上では萬葉集の研究に主力をそゝいだといふ事は言へるのであるが、然し萬葉集の研究を中心として、彼の考へる國學の領域に考察を進めて居ると言へるであらう。
 さうして彼の國學の領域といふ事を考へるに就て注意されるのは五意考である。即ち五意考といふのは、
   書意考
   語意考
   文意考
   歌意考
   國意考

 である
が、この中語意考には明和六年二月の序があつてその頃成つたと思はれるが、眞淵は同年十月に七十三歳で歿して居るのを見ても晩年の著である事が知られるのである。その他歌意考、國意考も明和のはじめになつたと思はれ、書意考と文意考とは未定稿であり、文意考には廣本と略本との二種の本があるが、何れも眞淵晩年の著であることは明らかである。そこにこの五意考によつて彼の國學の領域論が知られるのであるが、この中、書意考は書物、もしくは文獻といふべき意と、かゝれてある文字といふべき點とがとかれてあり、多少曖昧であるが古語を明らめる前に、古書、もしくは古文獻の問題をとかうとして居るのである。次に語意考は言語の問題を論じたのであつて、所謂眞淵のいふ古語の研究といふ領域をといて居るのである。文意考と歌意考とは古歌古文の學といふ方面であり、いはゞ文學の方面をといたのである。たゞ文意考はいまだ古文學、古文といふ點にまで進まず、古文に見える「にきび」「をたけび」「まつり」「かなしび」誓等の語を説明するに止まつて居るが、同時にとりあげた語を通して古文のみならず、古道に通ずるものを含んで居るのである。さうして國意考に於ていはゞ古道をといて居るのである。眞淵もこの國意考に中心をおいて居り、彼の學説の中心をなして居るのである。
 かく見る時、この五意考を通して言語、文學、古道の三の方面に關する見解をとくとともにその基礎としての文獻、もしくは書籍、文字についてもといて居るのであつて、これによつて眞淵のいふ國學の領域が示されて居ると見られるのである』と。

 固より大人は萬葉集の研究にも專心された。だがしかし、野生の卑見ではそこまで幅を擴げることは出來ないので、それは將來の課題とする。
 こゝでは三月一日記「國學に就て」の流れに從ひ、先覺を通じて國學の足跡を辿るのみに止まる。

 先日、勞働基準法に抵觸する日雇ひ勞働から歸つてくると、備中處士樣から、縣居大人は、贈正四位に非らず、贈從三位なり、との御指摘があつた。幾重にも御禮申上げます。百拜千拜
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by sousiu | 2013-03-13 23:54 | 先人顯彰

贈從三位 賀茂眞淵大人 

●小澤政胤翁編『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『~上略~ (縣居大人、春滿大人に就きてより)奮勵苦學、大に古學を振起し、風俗の澆季に赴き、人情の浮薄に流るゝを匡救して、敦厚淳美の古道に復し、又歌道の淫靡風をなし、日に益々優柔惰弱に流るゝを慨嘆し、之れを矯正して以て、倜(人偏+周)儻有爲の氣象を養成するの具となさんことを期し、眠食を忘れて苦學勉勵し、螢雪の勞を積むこと殆ど十年、學成りて濱松に歸り、將に江戸に出でて大に爲す所あらんとす』と。

又た曰く、仝
『眞淵曾て曰く、吾が古學の道、契沖法師に開け、我師(春滿)に起る、たとへば稻を作るが如し、契沖師は墾闢に從事して、未挿秧をなさず、我が師は挿秧をなせしも、いまだ、收穫をなさずして逝けり、其の收穫をなして、之れを籾となし米となすものは、當に我々のなすべき所なりと』と。

又た曰く、仝
『~上略~ 世稱して曰く、眞淵翁の前には古人を見ず、後には來者を見ずと、其の詠歌初めは近古の體に從ひしが、中年に至り專ら萬葉を以て宗とし、後竟に萬葉古今の間に出入し、別に一家の體を立つ、又深く意を詩文に留む、故に當時作る所の詩に、文に大に觀るべきものあり、是れ其の國歌、國文の調格、頗る嚴正にして雄渾なる所以ならんか。
明治中興の後、朝廷特に眞淵の斯學に於ける功績の偉大なるを追賞し、正四位を贈られたり』と。


●鈴屋 本居宣長大人『玉勝間 卷六』に曰く、
『あがたゐの大人は、賀茂縣主氏にて、遠祖は、神魂神(かみむすひのかみ)の孫、武津之身命(たけつみのみこと)にて、八咫烏と化(なり)て、神武天皇を導き奉り給ひし神なること、姓氏録に見えたるがごとし。此神の末、山城國相樂郡岡田賀茂大神を以(もち)齋(いつ)く。師朝といひし人、文永十一年に、遠江國敷智郡濱松庄岡部郷なる賀茂の新宮をいつきまつるべきよしの詔を蒙りて、彼郷を賜はり、すなはち、彼新宮の神主になさる。此事、引馬草に見え、又綸旨の如くなる物あり。又乾元元年にも、詔をかうぶりて、かの岡部の地を領ぜる、これは正しき綸旨有て、家に傳はれり。かくて世々、かの神主たりしを、大人の五世の祖、政定といひし引馬原の御軍に功有て、東照神御祖ノ君より、來國行がうちたる刀と丸龍の具足とを賜はりぬ。此事は三河記にも見えたり。さて大人は、元祿十年に此岡部郷に生れ給ひて、わかゝりしほどより、古學にふかく心をよせて、享保十八年に、京にのぼりて、稻荷の荷田宿禰東麻呂大人の教をうけ給ひ、寛延三年に江戸に下り給ひて、其後田安殿に仕奉り給ふ』と。


●吹氣廼舍 平田篤胤大人『玉襷』(嘉永三年序) 「卷の九 古學ノ神等ヲ拜ム詞」に曰く、
『大人の呼名(ヨビナ)參四(サウシ)をも改めて衞士(ヱジ)と稱(ナノ)られ。また實名政藤をも。後に眞淵(マフチ)と改められたり。此(コ)は遠江國の。敷智(フチ)郡の名より思ひよりて。負(ツケ)給へりと聞(キヽ)たり。と村田春海が語りき[銕胤云。この通称參四を。先にサンシと唱へられし由云はれしは。傳聞の誤りならむ。其(ソ)は岡部次郎左衞門の家にて。幼名を參三と書て。サウザウと呼ぶ人あまた有りと。今の次郎左衞門政美の話(カタ)れるよし、草鹿砥宣隆いへり]』と。

又た曰く、仝
『さて享保十八年に京に上りて。荷田翁の教子(ヲシヘゴ)となり給ふ。こは三十七歳になり給へる時なり。然るに元文元年七月に。荷田翁身退(ミマカ)られたり。[享保十八年より。元文元年まで。其ノ間四とせなり。~以下略~]」と。


○平田篤胤大人『入學問答』(文化十年正月)に曰く、
『賀茂眞淵翁[通名を。岡部衞士と称し。家号を縣居と云。]の出られ候て。是は荷田翁の上を。一ト層(カサ)高く見解を爲し。始めて。古の道を明らかに知らむとするには。漢意佛意を。清く捨果(ステハテ)ざれば、其眞を得がたく。歌を詠(ヨム)も。古言を解釋するも。凡て古道を明らむべき梯(ハシダテ)なる由を。言ひ誨(言偏+毎=サト)され候
此事は。萬葉集の大考。またにひまなび。また國意考などを見て知らるべく候。
後に。田安中納言に召出され。皇國學の御師範を申上られ。世に普く古學の弘まり候は。全く此翁の力にて候。明和六年十月晦日に。七十二歳にて身まかられ候。其著書すべて四十九部。卷數百卷ほど有之候』と。


○平田篤胤大人著、矢野玄道翁訂『氣吹舍筆叢 下』(明治十七年四月)に曰く、
縣居翁、鈴屋翁、ともに萬の國に比なく、世にありがたき老翁だちなるを、さは知らで、たゞに歌よむ事を教へたる人とし、或は古辭をとく事を得たる人々とのみ、思ひ居る人のみ多きは、此は譬へば、櫻の花のうるはしきを、めづるものとも思ひたらで、たゞに其枝葉を愛たしと見るに均しく、漢人のいはゆる、不賢者其ノ小ヲ識ルとかいふ類か。あはれ愚に、あさましき人々になむ』と。



●村田春海翁門、泊洦(山水+百)舍 清水濱臣翁、文化十年『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『一、縣居翁、東都へ來られて、門人あまたありけるが、入門のをり、鳥計非言(ウケヒゴト)といふものをかゝせしめられき。そは世にすなる、入門の誓詞なり。その文は、

賀茂宇志廼教賜倍婁(カモウシノヲシヘタマヘル)
皇御國廼、上代乃道遠(すめらみくにの、かみよのみちを)、己痛願斯奴倍里(おのれいたくねぎしぬべり)。故、名簿乎進良氐(氏+下に「一」=て)(かれ、なつきをまゐらせて)、其道爾赴比奴(そのみちにおもむかひぬ)。伊摩由後、教賜敞留言(いまゆのち、をしへたまへること)、遂爾遠里氐(氏+下に「一」)、許流時爾之毛有受波(つひにとほりて、ゆるるときにしもあらずば)、安駄志人爾私言勢自(あだしひとにさゝめごとせじ)。且宇志爾對比氐(氏+下に「一」)、爲耶無久異之伎心遠思波自(またうしにむかひて、ゐやなくあだしきこゝろをおもはじ)。都氐(氏+下に「一」)、此烏計比爾違波婆(すべて、うけひにたがはば)、言麻久毛恐伎 天津神 國津神多知(いはまくもかしこき あまつかみ くにつかみだち)、知志食奈毛、穴畏(しろしめさなも、あなかしこ)

                年號 月 日
                         通稱      姓      名花押
賀茂縣主大人 爾上
』と。

 先ちて入門者へ對しその心を求める、上記意を垣間見るに、縣居大人の本志いづこに存するか以て識る可し矣。



●擧樹園 河喜多眞彦翁、嘉永二年『近世三十六家集略傳 卷の上』に曰く、
『今に至りて古學の徒、其忌日には、肖像をまつり、神の如く尊尚す。英才俊傑の學士、其門に輻湊して、其學を補翼す。宣長、久老、千蔭、春海、美樹、魚彦、春郷、土滿、古道、常樹、高豐、自寛等、これを縣門の十二大家と世に稱す。又倭文子、餘野子、茂子、これを三才女といふ』と。

 こゝでいふ、「縣門の十二大家」とは、本居宣長、荒木田久老、加藤千蔭、村田春海、河津美樹、楫取魚彦、村田春郷、栗太土滿、小野小道、橘常樹、日下部高豐、三島自寛の碩學だ。
 又た、三才女とは、油谷倭文子、鵜殿餘野子、進藤茂子刀自のことだ。



 春滿大人然り。國學四大人をはじめ、かの時代を生きた國學者の學問業績は、野生の如き淺學の何萬語を以て論じても、到底、説明し盡くし得るものではない。
 こゝ最近の流れからすれば、このまゝ縣居大人、鈴屋大人、氣吹廼舍大人へと續く可きであらうけれども、無念、野生にその力なきをうらむ。
 よつて、それゞゝの高識、卓見、思想などは他に讓るとして、先人の言を拜借し、謹みて彼れら前哲の輪廓に觸れるにとゞめる。
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by sousiu | 2013-03-07 16:45 | 先人顯彰

荷田春滿大人を知る その一 

 今日は、前記した、國學の恩人である荷田春滿大人に就て觸れてみたい。
 荷田春滿といふ人に就て、淺學たる野生やウヰキペデイアなどではなく、こゝはやはり先哲先學に尋ねてみなければなるまい。

●伴蒿蹊翁『近世畸人傳』(寛政二年)に曰く、
『契冲と時を同うして、是は後輩か。彼の説はしるや、しらずや。契冲は佛者なるうへに、其人、綿密に過ぎて、泥滯せるものもまま見ゆるを、此翁は、一層登りて説をたつ。およそ、元祿年間は、諸道復古の運にあたりたる時にして、國學を唱ふるは、契冲と此翁なり。よみ歌は、主とする所にあらざれども、又凡ならず。今おぼえしは、

       けふみれば 昨日の淵は あさか潟 汐のみちひぞ 世のならひなる

など、いとめでたしや。又中世已後、淫靡風をなせるをいきどほりて、生涯戀歌を詠ぜず。その家集を見るに、當坐によせ、こひの題をさぐりては其物を雜になしてよめり。たとへば、虎によする戀を雜によめるは、

       仇むくう おもひ巴提使(はてす)に たぐへては 虎もつたなき ものとこそみれ

日本紀欽明卷の故事によりて、よまれしも、學者のしわざなり』と。


●河喜多眞彦翁『近世三十六家集略傳』(嘉永二年跋)に曰く、
翁ひとゝなり、敦厚にして、其學のみにあらず、人事においてもまた義にかたき鐵心なることは、中年諸國を漫遊し、竟に江戸に出て、あまねく學士を問て研究苦學す。時に赤穗の遺臣大高氏葉と、常に文事風流をもつてまじはる。しかるに子葉子、翁の志氣の常人にすぐれて、ことなるを知り、まじはりもつとも厚く、ゆゑに終にその密事の實を語る。爰に於て、翁其讎の邸中の圖を委かにして付するに、義統大いに益を得たりとぞ。其厚義また見るべし。翁の國學を興すにおけるや、契冲師と相對して、千古の二人とするか。當今天下古學を唱ふの士、翁を以て祖とし、其下風にあらざる稀なり。故に神のごとく敬重す』と。


●吹氣廼舍 平田篤胤大人『玉襷』(嘉永三年序) 「卷の九 古學ノ神等ヲ拜ム詞」に曰く、
『抑この大人、姓は荷田の宿禰にして、氏は羽倉と稱し[東西兩家ありて、大人は東羽倉の方なり]通名を齋宮といふ。初め信盛と云ひ、後に東麻呂と改め[東丸とあるも同じ]また春滿とも書れたり。[東麻呂、春滿ともに、阿豆万麻呂と唱ふ。○遠江の國濱松、諏訪の社の大祝、杉浦比隈滿云く、己が家に、正徳四年八月朔日、東丸漫書、と奥書ある古今集の自筆本あれば、此頃は、既に、東麻呂と改められたりき。又春滿とも書れたるは、享保元年より後の事なるべく所思(おぼゆ)と云へり。 ~中略~

偖その學業の詳なる趣(さま)は春葉集に同族荷田の信郷が後敘(おくがき)せるに、幼より學を好み、篤く 皇道復古の學に志して、國史、律令、古文、古歌、及び諸家の記傳に至るまで、該博(ひろ)く通ぜざる所なし。然れども師尚する所なく。而して其の自得發明する所極めて多し。 ~中略~

享保中に江戸に遊びて聲名あり。特(こと)に内命ありて、侍臣某をして從遊せしめて、古書を校せしめ給ふ。居(をる)こと數年にして、疾(やまひ)を得て京に歸らる。已(すで)にして伏見奉行、北條遠江の守をして、内命を傳へて、銀若干(そこばく)を賜ふ。 ~中略~

大人嘗て、國學校を創立する志ありて、上書して執事に啓するに、未(いまだ)報あらずして歿せり。其志は遂ざれども、其の言は傳ふべし。 ~中略~

大人に子なし。姪(おひ)在滿をもて嗣(よつぎ)と爲す。在滿江戸に在りて、田安の金吾君に仕ふ。學義遇せず。疾(やまひ)をもて辭して、賀茂眞淵を薦めて代らしむ』と。
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●小澤政胤翁編『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『春滿は、羽倉氏、通稱は齋宮、初名は信盛、後東丸と改め、また春滿と改む。京都稻荷山の祠官にして、父は從三位信詮の宿禰なり。兄弟四人あり。長は女子、次は春滿、次は信名、次は宗武なり。春滿、夙に古學を、振起せんとするの志ありければ、祠務を擧げて、弟信名に讓り、專ら力を、古學の研究につくす。當時、國書を説くもの、概ね垂加の流にして、或は陰陽五行の説を傳會し、或は、幽冥奇恠の説を、唱ふるものなりければ、春滿、深く之を非として曰く、我古學の道は、古書に正傳あり、何ぞ、牽強附會の假説、寓言を以て、之れを説く事を要せんやとて、憤然興起する所あり、神代卷及萬葉集に於て、發明する所あり、遂に一家の言を立つ』と。
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●山田孝雄翁『荷田東麻呂創學校啓文』(昭和十五年十二月十五日『寶文館』發行)に曰く、
『(春滿大人の)その學は主として獨創に出で、常師なけれど、古語の研究には契沖を敬慕せりと見ゆ。前後三囘江戸に下りしことは既に述べたるが享保八年よりは京に住して教授す。享保十年より十二年にかけて江戸なる下田幸太夫師古との間に學問に關する往復少からず行はれたる由なり。かくて享保十三年にかの啓(創學校啓のこと)の提出あり、享保十五年正月春滿中風症を發せしが弟道員の治療によりて癒えたり。この頃より將軍吉宗の祕藥を贈ることありし由は既にいへり。享保十八年三月賀茂眞淵上京して入門したりといふ。但し眞淵はこれより前に既に荷田家の門に出入してありし由なり。元文元年七月春滿宿痾の中風症再發して卒せり。年六十八歳なり』と。


荷田春滿大人の哥
       ふみわけよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡をみるのみ 人の道かは
(春葉集) 

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※荷田大人肖像。「荷田全集 第一卷」 官幣大社稻荷神社藏版(昭和三年十二月「吉川弘文館」發行)所收
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by sousiu | 2013-03-02 13:10 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。十一  『責難録』 九 をはり。 

 今日で『責難録』はおしまひである。
 本書は「君道雜論上」であり、下卷もあることは間違ひなからうが、前記したとほり、殘念乍ら「全集」にはこの續きが收録されてゐない。
 その爲め、ちと、消化不良の感あるを覺えるが、通讀するに訥菴先生の思想の一端を知ることが出來る。
 それ決して西洋罵倒一點張りの盲目漢などではないのである。


承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『後世の官吏は、動(やゝ)もすれば威光と云ふことを唱へて、兔角に下民を恐嚇し、聊かの事も權高(けんだか)に構へて、只管ら民を畏縮せしめ、それを以て上位の道ぞと思へるは、甚だしき謬なり。元來國家を治むる道は、恩威の二つを兼用すること、古よりの明訓なれども、恩と威とは等分の物にはあらず。恩を以て主腦となして、威をば輔翼となすべきなり。そは古より君たる者を、民之父母と稱するを見て、父母の二字を玩味すべし。父母の其の子を養ひ立つは、時として威を用ひて、或は叱り懲しもし、又は鞭撻(うつ)こともあれども、それは人並の人になれかし、不正の筋には入らせまじと愛する心の親切なるより、威をも用るに至るのみ。豈、只管らに威を主として、其の子を畏縮せしむることを、得意に思ふ父母あらんや。故に上位に立てる者も、恩愛仁慈を心の主として、萬民を視ること我子の如く、凡そ封内に在ん者は、馬天轎卒に至るまで、何とぞ無事に生育せよかし。困窮飢渇には迫らせまじと、日夜朝暮に忘るゝことなく、痛々しく思ふ心を本として、それより政事に施してこそ、民之父母と稱する所の、名目の意にも恥ざるべきなり。されば君道は廣しと云へども、仁を第一のこととなして、易には 禮仁足以長人(仁を體すれば以て人に長たるに足り) と言ひ、何以守位曰仁(何を以てか位を守る、曰く仁なり)とも言ひ、大學には 爲人君止於仁(人の君と爲つては仁に止る)と言ひ、家語には 人君先立仁於己(人の君は先づ己に仁を立す)など言へるを見ても、君たる道の本領は、恩愛仁慈に限りたること、彰然として明白ならずや。扠、上位に立てる者が、右の如く恩愛を主として、それを以て民に臨む時は、其の情自然と下に感じて、民も必ず上を戴き、有り難し忝けなしと、眞實の心より慕ひ懷きて、其の君上の爲めならば、骨を微塵に破碎するとも、決して厭はじと思ふ物が、自から生じ出して、已めんと欲するも已むこと能はず。かくてこそ上下の心が合體して、撃ても衝ても離れぬ故に、社稷は磐石の固きが如く、何つも安泰になり行くことなり』と。

 前項は税制に就て述べ、民の苦情を陳列した。本項では、主たる者の必須として「仁」を要す、と説く。


曰く、
『されども、數萬の民の中には、往々上を侮り犯して、不正をなす者もあるを以て、法律を設け刑典を立てゝ、威を示して糾さゞることを得ず。是れは右樣なる不正の民を、其のままに容(ゆる)し置ては、良民の害をなすが故に、已むことを得ず懲らす迄にて、畢竟良民を護せんと欲する、恩愛の方が根本のみ。且つ夫れ不正を威(をど)して懲らすも、要するに亦恩より發して、微罪の時に懲創さすれば、再び大罪を犯すことなく、首領を保全するに至るべければ、そが爲に威をも施すことなり。加之(しかのみならず)他の衆民どもが、それを見て恐懼の心を生し、不正の筋を犯す事は、互に深く警戒して、愼しめかしと願ふ所の、懇惻仁慈の情に本づき、威を示すにも至る義(わけ)ゆゑ、全く罪人のふへぬ樣に、源頭を塞ぐと云ふ者にて、何れも恩愛の術に非すや。~中略~

されば恩と威の二つの筋は、本來輕重の辨別ありて、決して等分の物にてはなく、恩より威をば生じ出せども、威より恩を生ずることなし。そは恩を以て主腦となして、慈愛の心が親切なれば、其の心を達せん爲に、威をも用ひざることを得ず。威を以て專主とすれば、必ず親愛の情を傷なひ、只管ら下民を畏縮せしめて、嚴刻苛察になり行くことは、古よりして然ることなり。思はずんばあるべからず。~中略~

然るに後世の官吏などが、威光威光と唱へ立てゝ、總て己れを權高に構へ、下民を遇待(あしらふ)こと牛馬の如く、瑣細の事をも必ず罵詈して、肱を張り肩を怒らし、矜伐誇張を專主とすれば、威光を増すの道にはあらで、威光を損する所行なるに、自から得たりと思へるは、憫笑すべきの甚だしきなり。元來恩愛仁慈を主として、民を吾が子の如く思へば、民は皆亦心より親しみ懷(なつ)きて、上を慕ふの情日々に深く、遂には家をも身をも忘れて、君上を守護せんと欲する心が、一統に固く凝結して、他よりは指をもさゝせぬ樣に、何つか自然となり行くことは、既に上にも云へるが如し。かゝれば威光を求めずとも、國の氣■(焔の右側+炎)は熾盛になりて、四鄰を動かすのみに非ず。天下に敵なきにも至る者ゆゑ、豈又かほどの威光あらんや。故に仁愛を主とする處が、即ち威光を増すの道にて、別に術とてはなきことなるに、後世の人は其の理を悟らず、恐嚇を事とし倨傲を務めて、一點も惻怛の心はなく、只管ら威光を貪り求めて、畏縮させんとするが故に、民みな不平の情に勝へず、陽(をもて)には命を聽て、服從するが如くなれども、陰には怨恨の心を懷(いだ)きて、竊に誹謗の惡言を發し、他邦の人などに對すれば、あらはに上位の非を數へて、敢て復た憚らず、或は君上に災禍ありても、手を袖にして傍觀して、そを憂るの心はなく、反てそれを愉快として、猶も事あれと思ふが如き、不實の民心にもなり行くことなり。かく民心が離れては、平生は命令のまゝになりて、威光あるが如くに見ゑても、國家の元氣と云ふ物は、漸くに敗れ盡すを以て、一旦緩急の時に臨めば、敢て一人も力を出さず、彼方(あち)へ避け、此方(こち)へ遁れて、己れを保全することを時務となし、君の大難を度外に見捨てゝ、絶て貧著せぬ者なり。されば民心既に離れては、泰平無事の時に當りて、縱ひ遽に滅亡せずとも、それは譬へば朽たる木などの烈風迅雷に遇ざる間は、暫く顛覆せざると同じく、聊も恃みのなきことなれば、誠に危殆の至りに非ずや』と。

 仁なく威光を笠に着る主の愚を述べる。仁あらば國運は益々隆え、則はちそれが眞なる藩主の威光と思へ、と。
 時は過ぎ、軈て明治四年の廢藩置縣が實施されたるを思へば、やはり日本及び日本人は、天皇を中心とした一君萬民の在り方が最も自然に即したものとして了知せられるのである。爲政者は百姓を胡麻の油と同一視する。天皇は民を大御寶と目され給ふ。


『~上略~ 古へ嬴(えい=所謂る「秦の始皇帝」)秦の始皇も、我朝の豐太閤なども倒山翻海(山を倒し海を翻す)の威力ありて、民の怖るゝこと霹靂の如く。天下惴々として命を奉じて、頭を擧げ得る者もなかりしかども、墳土の未だ乾かぬ中に、民は悉く離れ叛きて、忽ち亡滅したるを見よ。二公の如き威力ありても、二公ほどの富ありても、惻怛仁慈の情と云ふもの、民心に感孚せる所なければ、少しく釁隙が開くと其のまゝ民は悉く寇讐の如くになりて、亡滅を救ふこと能はざるなり。[後世の儒者には、富國強兵の二項を以て、治道の根本の如くに言ふ者あれども、そは未だ大道に達せざるなり。秦の始皇も豐太閤も、富と強との二項に於ては、千古に比倫を得べからず。されども脆く滅亡したるは、全く威力を以て天下を馭して、民の心に徹する所の、惻怛仁慈と云ふものは、一點もなかりしを以てならずや。故に治道の根本は、仁慈の筋に限れることにて、民心果して上を親しみ、子弟の父兄を衞るが如くに、固結して離れざれば、富強は其の間に存する者ゆゑ、古の人も盛衰強弱之分不在兵力、而在國勢、不在財用、而在人心(盛衰強弱の分は兵力に在らずして國勢に在り、財用に在らずして人心に在り)と言ひたるなり。さるを富強の二項を以て、根本第一著と唱ふるが如きは誠に淺陋の見と云ひつべきのみ]況て二公の雄圖もなく、二公の富強もなき者が、威光威光と言ひ立てゝ、妄りに民を嚇(をど)し付け、畏縮さすることを能事とするは己れが天職を知ざるのみならず我より國脈を弱ませて亡滅を促がす筋なれば、愚駿と云はざることを得ざるのみ。されば萬民は輕きに似たれども、明者は民を重んじ畏れて、尚書には罔咈(口+弗=たがふ)百姓以從己之欲(百姓に咈て己れの欲に從ふ罔れ)と言ひ、民可近不可下(民は近く可し、下す可からず)と言ひ、可畏非民(畏る可きは民に非ずや)とも言ひ、載記には君以民存、亦以民亡(君は民を以て存し、亦た民を以て亡ぶ)と言ひ、荀子にも孔子の言を引いて君者舟也、庶人者水也、水則載舟、水則覆舟(君は舟なり、庶人は水なり。水は則はち舟を載せ、水は則はち舟を覆す)など言ひたるにて、凡そ國家の盛衰安危は、民心の叛服に由て分れ、民心叛服の分るゝ所以は上位の恩威如何にあれば、深く其の理を精究して辨澤せざれば叶はぬことなり。世の羣侯と諸有司と此の理を眞知せられたる者果して多くありや否や』と。

 秦の始皇も豐太閤も、如何に威力あり財力あつたにせよ、彼れらの逝くや、やがて民心は離反した。
 彼れらの實力に遠く及ばぬ者が、どうして未來永劫、その威光を保てる理由があるのか。領地の平定、自己の保身を求め彼れらの眞似をしたところで、いづれにせよそれは果敢無きものに過ぎない。
 秦はやがて滅亡した。日本では大阪冬夏の陣で豐臣家が籠絡しても、征夷大將軍、所謂る役人が代はるだけにとゞまり、戰爭も一部地域に限定された。皇國ならぬ地の霸者と、皇國の地に於ける霸者とを比較したのは、訥菴先生の思慮によるものであると推量する。


 『責難録』をはり。


 備中處士樣から宿題、あ、いや、參考として、いくつかの遺文に就て御提示があつた。
 されど解讀するに少々のお時間を頂戴し、訥菴先生は一旦、休んで、出直してみたいと思ふ。
 次囘の登場人物は、まだ未定だ。
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by sousiu | 2013-02-28 21:43 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。十  『責難録』 八 

承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『古へ周代の租税は、所謂る井田の法にして、十分の一を取れることゆゑ、後世に比すれば甚だ輕く、民の産の饒にして、安樂にありしこと想ふべし。それすら聖人は、稼穡の艱難を知り、民の疾苦を恤れむ事を、人君の要務とし玉ふて、周公は七月無逸等の篇を著はし、武王は康叔を戒めて、若保赤子(赤子を保んずるがごとくせよ)と言(のたは)ひ、孟子の中にも、文王視民如傷(文王民を視ること傷むが如し)などゝ云ひつるなり。然るに後世の租税の法は、古に十倍して、民の貧困甚だしけれども、人君も諸役人も、それを當然のことと思ふて、民を憐れむ心のなきは、誠に不仁の至と云ふべし。本朝の古も、租税の制は極めて輕く、大寶の令の頃は、二十分の一を取りて、[今の令は、文武天皇の大寶元年に定め玉へる所なる故、稱して大寶の令と云ふ。さて令の本文並に義解等を按するに、一段三百六十歩の田より稻五十束を穫ると定め、一束の稻を米にすれば五升になるゆゑ、五十束にては二石五斗の米なり。其中稻にて二束二把、米にしては一斗一升を、田租として上納せしめ、餘りの稻四十七束八把、米にして二石三斗九升は、民の所得とされたる趣なれば、二十分の一を取るよりも輕し。外に調庸とて、後世の夫役人足、小物成、諸運上の類の如きことありしかども、それを合せても、十分の一を税するには至らざることなり。是等の事、愚別に一書を編纂して、詳に古今の沿革を言んとす。○今は三百歩を以て、一段とすれども、そは豐臣氏以後のことにて、古の制に非ず。古は三百六十歩を一段とされたることゆゑ、此々には其の趣に記せり。讀者怪しむこと勿れ]國用とし玉へる事なりしが、皇化の陵威せるに從ひ、大寶の制も次第に頽れて、鎌倉以降に及ては、殊に重斂となりたるなり。そは鎌倉の幕府よりして、守護地頭と云ふ者を悉く諸國に置て、領主と地頭の兩方へ、租税を取ることになりしかば、[領主と云ふは、初より其の地を領し居たる京家の人々なり。守護地頭は、鎌倉より新に置たる所の武家なり]賦斂頗る重くなりて、民の困窮する權輿(はじめ)となれり。かくて室町の中世よりは、領主へ納むべき所の租税も、總て地頭が抑へ取て、將軍の威令も行はれす、凡そ天下の大小名、心まかせに其地を領して、互に戰爭を勤めとせしかば、平生數多の武士を扶持して、城内に集めて置ざることを得ず。數多の武士を養ひ置くには、過分の租税を取り上げざれば、給し難きが故を以て、遂に次第に増し取て、後世の如くになり行きたるなり。されば、後世の租税の制は、戰國の時の餘風にして、極めて重き賦額(とりたか)なるに、人君も諸役人も、古の朝制あることを知らず、税斂の多くなりたる所以をも考へず、只昔よりかく取れる物と心得て、妄りに下民を脧(月+夋)剥するは、慨歎せざることを得ざるなり』と。

 これは當時行はれてゐる租税の制に就て述べてゐる。固より野生勉強不足にして、このあたりのことに就ては十分な智識がない。よつて只管ら抄録しただけに止まる。
 一昨日の記事は、この記事を記するに際して、抄録するだけの野生の腑甲斐なさを慰めむが爲めに敢へて脱線したものだ。御笑恕くだされよ。


曰く、
『扠、古へ王制の行はれたりし時も、民皆富農のみにてはなく、貧民もありつるなれども、租税甚だ輕きが故に、纔かに一二段の田を作れば、後世の一町にも敵する程との、米粟悉く稷を得たるを以て、貧民と云へども凍餒に至らず、生計は立たることなるに、後世の租税は極めて重く、一二町の田を耕稼せざれば、古へ一二段を作れる程との、米粟を收穫すること能はず。然るに一二町の田を作ると云ふこと、小民の力には及ばぬ事ゆゑ、纔かに數段を耕耨して、終歳勤苦勞働するも、獲る所は租賦に供して、一家の口腹を養ひ難く、麥稗芋魁(むぎひゑいもかしら)の類などにて、辛く生命を維(つな)ぎ行くは、眞に薄命の至極と云ふべし。豐年すら既に然れば、一旦水旱饔(上「雍」+下「食」)饉に遇ひ、或は疾病死喪に逢ふては、禦くに術なく、逭(之繞+官=のが)るゝに地なく、兄弟妻子號泣して、溝壑に轉し、離散に至るも、亦是れ必然の勢なるのみ。されば下民と云ふ者は、古よりして艱苦なれども、後世の下民に至ては、其の艱苦の甚だしきこと古來未だ嘗て其の比類を見ず。苟も人君たる者、惻然と心を動かすべき所に非ずや』と。

 往時の税制と現在の税制との相違を述べてゐる。徳川幕府に於ける税制批判と云ふよりも、固より武家政治が行はれたる以後に布かれた税制の批判と思ふのだが、已んぬるかな、智識なきがゆゑに文面の表層を理解するに止まるあるのみ。


曰く、
『但し今日に及では、縱ひ有志の人君ありて、民の貧窶を憫恤し玉ひ、租税を半はにせんと欲したりとも、そは行はるべきことに非ず。何んとなれば、戰國以來數多の兵士を扶持し置かれて、既に常制となりたる事ゆゑ、今さら扶持を取り放して、藩士を減損せられんことは、決して遽に行ふこと能はず。藩士を減すること能はざれば、租税も亦た舊に依て厚く斂めざることを得ざるなり。且や租税の厚くなりしも、一朝一夕の故にはあらで、已に漸く久しきことゆゑ、下民も亦た慣(なれ)熟して、それ程との米粟をば、上納する筈と心得居て、苛政なりとも思はねば、賦額は當今のまゝにして、指置かれんこと勿論なれども、せめては人君たらん者、右の子細を辨へて、後世の農民ほど、苦しき者の者のなきことをば、一日片時も忘れ玉はず、常法の租税の外には、聊かなりとも、取り上げまじく、縱ひ少々づつにても、民の困苦を緩るめてやらんと、絶ゑず心にかけ玉ひ、其の筋の工夫をせられなば、民の父母たるに愧ぢることなく、有司も自然に感化して、下民を勞(いたは)り撫ることを、報效の道と心得て、君の徳を弘むるにも至るべきなり』と。

 異論もあらうかと存じ上げるが、野生は「大鹽平八郎の擧」が、幕府に弓を引くその嚆矢として、或は後に及ぼしめたるその影響必ずしも輕からざるものとしていさゝかの關心ありとするも、「大鹽平八郎」その人とその思想に關しては、然程の關心を有してゐない。かの擧に際して絹袋に入れられた「天より被下候村々小前のものに至迄へ」と題された檄文には、確かに『神武帝御政道之通 寛仁大度の取扱にいたし遣』であるとか頻りに大義を説きたる文言が散見されるが、その本質に於ては「救民」であり、謂はゞ「不條理」に對する決起の域を脱し得ないと感じるからに他ならない。
 愚案。皇國に於て、時代の變革を促しめたるものは、「正義至上主義」や「救民至上主義」ではない。云ふなれば「尊皇至上主義」である。誤解を招かぬ爲めに一言を添へるが決して大鹽中齋翁、その人を貶しめるでなく、過小評價してゐるのではない。固より批判してゐるのでもない。・・・これ以上の脱線は止めておく。いづれにせよ、訥菴先生のこの『責難録』は已にこれまで一讀して明白なる如く、饑饉があらうが無からうが、記されたに違ひなきものだ。訥菴先生は大義名分を正さんとする、その一志あるのみだ。


曰く、
『さて又農民の方に於ても、後世は租税の筋に種々の詐計を運(めぐ)らして、逃れんと欲する者のあるは、憎むべきに似たりと云へども、畢竟上位に立てる者、民を撫育するの心なくして、視ること土芥の如きを以て、下民も亦それに應じて、己れが痛苦を遁れん爲に、上を欺かんと欲するのみ。苟も上位に在る者、赤子を保するの心を以て、民の艱苦を劬(いたは)り行けば、下民のそれに感動して、身をも骨をも惜むことなく、力を其の君に竭すことは、影響よりも捷(はや)き者ゆゑ、反求すべき所なるに、後世の人は其の理に通せず、民を恤れむの心なきより、常法の租税の外にも、種々樣々の事を工夫し、只管ら聚斂を勤めとなして、少しも饜(上「厭」+下「食」)足することを知らず。偶々君に仁心ありてそれを緩めんと欲しても、下なる役人が從はず。或は役人に仁心ありても、上よりしてそれを許されず。只下々の膏血を絞り取るを能事となして、恬然たる國もありと云ふは、嗚呼、亦た如何なる政事ぞや』と。

 是れ又た現在の状況を述べ、憂慮を吐露したるもの。主が民を恤むも役人がそれを喜ばず。役人に仁心ありても主がそれを許さず。當時の武家政體の、最早限界を暴露したる言だ。當初は兔も角、不健康なものが沈着すればやがては血管が動脈硬化を起こし、外力が加はり續ければやがては金屬も金屬疲勞を起こす。焉んぞ政治體制のみ其の弊より免れんや。今日に於てもまた然りと謂ひつ可し矣。


曰く、
『既に上にも論ぜし如く、常法の租税にてすら、仁人は忍びぬ所にして、緩るめんと欲することなるに、後世は増す事のみにて、絶て減すると云ふことなく、且つ樣々のかゝり物など年々に多くなり行けば、民は益々困窮して、逋負(みしん)の積累を償ひ難く、竟に其の家斷絶して、田畝の荒蕪に至る者、處としてあらざることなし。さて其の家は斷絶しても、其の家に附きたる貢賦の額(たか)をば、上より免除することなく、一村の者に割り付けて、必ず上納せしむる故に、餘の農民も亦た窮して、後には耒耜を放擲して、他國の城市へ奔り行き、商賈となる者少なからず。或は其の子多くあれば、一人には業を繼がせて、農夫の家を立さすれども、其の餘は悉く城市に遣はし、工商の家に奉公せしめて、遂に工商になりなどするゆゑ、農民の戸口は日々に減して、廢田荒野次第に多く、郷村年々に衰弊すること、後世各國の通患なり。是に於て法を立てゝ、民の兄弟子孫の類を、他國へ出し遣はす事をば、嚴しく禁制する國もあれども、そは源頭を澄しもせずして、交流を浚(さら)ふに等しきゆゑに、其の禁令も屆き難く、農民の戸口の減することは、依然として改らざる國のみ多し。況てや後世の俗吏の風は、只目前の利のみを計りて、末々の事をば考へざるゆゑ、其の年の租税の類だに、聊も多く收納すれば、それにて事は足れりとして、民の痛む所以んを思はず、其の民痛みて凋弊すれば、國脈それより傾きて、亡滅の根基となることをも、■(立心偏+?)然として、曉覺せざるは、痛哭するにも堪へざることなり。人君果して心ありて、國家を保持せんと欲し玉はゞ、省察せられずんばあるべからず』と。

 解説が疎かならざるを得ぬので、今囘は省略せず全文を記した。
 古賢の遺文に觸れることは決して無駄ならぬと云ふでなく、寧ろ重要視される可きことは、既に申した。
 次は愈々、最終項だ。とは云へ此度び掲げた『責難録』は卷之一に止まり、以下が刊行されたことは言を俟たぬ。しかしながら本稿の所收される『大橋訥菴先生全集』にも、殘念ながらそれ以降が收められてゐないのである。既記したが、『責難録』は偶々平泉先生が卷之一の版本を入手されたことにより吾人の拜讀する機を得たが、それ以下の本は如何なるものか、不明であるとの由。こゝにも又た、尊き先人の遺文が失せるといふ、現代求學者にとつての不幸事をみなければならぬ。殘念至極と云はざるを得ない。
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by sousiu | 2013-02-24 19:52 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。九  『責難録』 七 

 さて。氣を取り直して、『責難録』の續きを記さねばならない。


 承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君の大患は、下民の艱苦を知らずして、下民の情に通達せられざるにあり。總じて淫佚驕奢になり行くも、放僻柔惰に流るゝも、其由來する所を云へば、下民の艱苦を知ざる故にて、下民の艱苦を知ざるは、人君百病の根原なれば、扠こそ周公は無逸を著はし、又七月の篇を作りて、成王に進め玉へるなり。古より國を興して、創業の元祖と言はるゝ人は、大率ね微賤に生長して、千辛萬苦を備さに嘗められ、飽くまで知慮を磨ける上に、下民の艱苦を知り盡して、下情に明らかなりしかば、明君賢主と仰かれて、美名を遺すに至れるなり』と。

 諺に曰く、「若い時の苦勞は買つてでもせよ」と。訥菴先生は、創業の元祖は概ね微賤に生まれ育ち、世の千辛萬苦を嘗め、下の者らの艱苦を自ら經驗することによつて會得し、明君と仰がれて美名を遺した、といふ。
 なるほど、今日の政界には探すも困難至大であるが、嘗ては學歴すらなき大臣あり。溯れば明治新政府の要人と雖も出自を辿れば、必ずしも惠まれた者達ばかりでは無かつたのである。更らに溯り木下藤吉郎をみよ。
 逆に今日の政界をみれば。二世三世などてふ者が、如何に信を託せぬか。如何に愚物なるか。
 凡家の一に生まれたる吾人にとつて、忘れてはならぬこと、それ貧乏も苦勞もみな、毒にも藥にもなるといふことである。願はくは艱苦を藥とし、希望持つて家名を興されんことを。


『扠、其の子孫の君となれば、幼稚の時より深宮に長じ、婦人女子に介保せられて、著る所は綾羅綿繡(糸偏+肅=しゆう、ぬひとり)食らふ所は珍膳美羞、起ても居ても不自由なくして、饑餓凍餒の艱苦を知られず、況て君たる位に即けば、見る所は膝行頓首、聞く所は唯々諾々四方八面諂諛のみにて、困心衡慮の事などには、毫髮ほども逢ひ玉はず。故に開くべき知も開かずして、渾沌の人とならるゝは、歎すべきの至に非ずや

 藥とす可き貧困も勞苦も辛酸も嘗めずして、人の頭に立ちたる者の見るは概ね膝行頓首、聞くは概ね阿諛追從。如何でか渾沌の人とならぬ道理やあらん。


『或は偶々心ありて、下民の状(さま)を臣下に問ふても、臣下は大率ね諛諂に熟して、敢て藥石の言をば進めず、必ず巧みに辯を飾りて、下民は山野に心を遊ばせ、身を勞して飽食すれば、長壽を享る者多し。長壽は人の志願なるに、彼れ等は其の志願を得れば、幸福の者と云ふべしなどゝ、君の前にて説き立てゝ、君も其の言に惑はされ、實に然りと思はるゝは、言語道斷の愚騃(馬偏+矣=おろかの意)なり。大厦高堂雕牆は、人情の樂しむ所なれども、人君は常にそれに居れば、敢へて亦た樂しみとせず。珍膳美味膏粱は、人情の悦ぶ所なれども、人君は常にそれを食へば、敢へて深く悦びとせず。是れは平生馴れ過ぎて、珍らしきことに非ざる故なり。綿衣玉食廣堂すら、馴(なる)れば樂しみとはならぬを以て、下民の情を推て見たまへ。平生晝夜山野に在て、雨にも雪にも休まぬ者が、豈、其風色を樂んや。人君平日深宮に居て、偶々山野の間に遊び、其風色を喜て、それを以て下民の心を見るは、大に戻れりと云ふべきのみ。況んや下民は霜雪を冒し、山岳を攀て薪を採り、風雨の日にも露體(はだか)にして、曠野に出でゝ、草を刈り、或は馬に秣ふなど、其艱苦の甚だしきこと、一朝の筆舌には盡すべからず

 その臣下も亦た、主の耳目に優しき言動を扮飾する者多かりしかば、一層、主は改心を得るに難し。飽食煖衣はいつの間にやら當然の如く思ひ違へ、山林に生活する下民の情を知る能はず。民を愛撫するの心を失せん、哀れなる哉。


『~略~。且つ夫れ下民の勤勞は、生計に驅(から)るゝ故にてあれば、三伏の暑にも泥土に坐し、三冬の寒にも氷雪に立ちて、手足胼胝(あかぎれ)、百體疲憊し、日夜昏且休息せざるは、毫釐も養生の道には適(かな)はず、況て彼れ等が食する飯は、麥、稈(ひえ)、菜葍の葉などを糅(まじ)へて、米粒は甚だ少なく、湯茶の類をそれに灌ぐも、温むるに暇を得ざれば、多くは冷ゑたるを用る如きを、飽食などゝは云ふべからず。かくまで終歳勤苦しても、賦税或は給せざれば、忽ち官吏に笞抃せられ、或は囹圄(ろうや)に繋がるゝことあり。是に於て慟哭しつゝ、田畝を賣り妻子を鬻ぎて、纔に苦しみを免るゝも、憂悲哀戚心を攻て、往々命期を縮むれば、民は必ず長壽なりと云ふべけんや。縱ひ幸にして長壽なりとも、右の如き憂悲に遇ふては、只其の早く死せざることを遺恨とするのみ。豈、其長壽を喜ばんや。人君是れ等の情状を深察せられず、下民は氣樂なる者などゝ、妄に思ひ玉ひなば、俗に所謂る冥理を知らぬと云ふ者にて、皇天の誅罰を免るべからず。天の誅罰は目立たぬ者ゆゑ、世の人多くは悟らざれども、人君の兔角に短命なるも、或は肝症の病を發して、遂に廢人とならるゝも、或は妻妾に實子なくして國家を他人に附屬するも、恐らくは 皇天の罰を與る所ならん。能く々ゝ思ひたまふべきことなり』と。

 前述の如くある藩主は、皇天の誅罰を免る可からず。そは短命なるか、廢人となるか、或は子寶に惠まれず他に禪讓せざるを得なきことゝなるか、いづれにせよ訥菴先生にしてみれば、それらは 皇天の誅罰にあらざるはなし。
 時代は、全盛期と云はざるも未だ幕威少々ならず。徳川幕府は天下の爲めに存してゐるものではなく、天下は徳川幕府の爲めに存するものと自認してゐた。少なくとも幕府側の者に於ては。
 當初から幕府は、旗下八萬騎の勢力を笠に着て、宇内を壓した。幕府に忠誠を誓ひ心服する者には氣前良き反面、一毛ほどの不安を與へてくる者には容赦無きこと、家康以來の家憲と云うても宜い。
 かくなる時代の渦潮にあり、恐れる可きは將軍の逆鱗に觸れるが爲めに被る減封・轉封・改易にあらず、皇天の懲罰であると幼君に説諭したことに、訥菴先生の眞面目を垣間見るべきである。
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by sousiu | 2013-02-21 00:18 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。八  『責難録』 六 

承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君も萬民も、均しく是れ人にして。耳目鼻口、四肢百體絶て異なる所なければ、貴賤の差別はなき筈なり。然るに同じき人を分けて、人君は高位に居り、萬民は下位に居て、貴賤の懸(はるか)に異なるは、果して何如なることぞと云ふに、こは才徳の異なる故のみ。其才徳衆に秀でゝ、君たるに耐へたる器量あれば天より國家をそれに付託(あつけ)け、治安の職に任せしめ、萬民の撫育を命せられて、扠こそ貴賤は分れたるなり。されば國家に君として貴き位に居る者は、衆に超ゑたる才徳なくては、其職に叶はぬことなれども、後世の君は多くは然らず。才も徳も凡庸にて、臣民にも劣れる身を以て、高官高位に居らるゝは、全く祖先の餘澤にして、恐れ多きことと云ふべく、安心してはすまざる筈なり』と。

 人君(こゝでは藩主を云ふ)も萬民も均しくこれ人、と申す。つまり一君萬民だ。明治御一新の眞面目は、この一君萬民たる國體の明徴であつた。本稿では訥菴先生が鋭意藩主を説くものであるから、未だ討幕の主意を感じ取ることは出來ない。當時、時代はまだそこまで來てゐないのだ。されど訥菴先生の、かくの如く日本を熟知せる見識ありて、それはやがて時代の要求と共に後進に「討幕」の運動を釀成させることゝなる。


『然るにそれを何とも思はず、恬然として位に安んじ、我は貴き者ぞと自滿し、臣民を賤しめ輕んずるは、思はざるの至極と云ふべし。衆に超ゑたる才徳なくては、君位に居ても君位の實(せふみ)なく、唯其萬民に異なる所は、宮室衣冠の類なるのみ。そは外飾の附け物なれば、民に束帶衣冠をさせて、高堂大厦の上に坐せしめ、君に敝衣を穿たしめて、隴畝の間に立しむるも、誰れか其別を知ることを得ん。さすれば君と民との貴賤は、錦衣玉食、高堂大厦と敝衣糲飯の故にはあらで、才徳の有無に係れること、彰然として明白ならずや

 訥菴先生は繰り返し繰り返し、藩主を諭さんとする。暗昧昏愚の君は國(當時でいふ藩)の一大不幸であり、愈々ともなれば修正し難き大禍であるからだ。
 訥菴先生の生まれは文化十三年(西暦1816年)。廿歳で佐藤一齋の門に入りたることは既記した。つまり天保の時代だ。訥菴先生が廿歳のころは、江戸四大饑饉の一つ、「天保の大饑饉」が襲つた眞つ最中だ。將軍は徳川家齊。家齊の政策に就てはこゝでは省くが、失策失政の相次ぎたるころだ。如何に訥菴先生の憂ひが深かつたか、時代背景を無慮してはならない。


『さて凡庸不徳の君をも、臣民どもは尊崇して肅々として服事するは、是れ其君を慕ふには非ず。祖先の餘澤を感載して、離畔するには忍びぬ故なり。然るに君はそれを悟らず。我に才徳あればこそ、彼れ等は服從するよと思ひ、許多の臣民の其中には、才器徳量衆に秀でゝ賢者能者のあることをも知らず、傲然と自から高ぶりて妄りに臣民を虐使(つかひまはす)は、其愚、益々甚だしく天の譴罰を免るべからず。されども天の譴罰は、銖々寸寸に度(はか)ることなく、今日天職を忘却すれば、今日罰すと云ふほどに、嚴急苛察には非ざる者ゆゑ、人君兔角に油斷して、戒愼恐懼の心もなく、うかゝゝとして居らるゝは、萬民よりも不幸と云ふべし。萬民は賤しき者にて、今日耕稼の業に怠り、耒耜を捨てゝ手にせざれば、其産忽ちに衰へて、生活し難きのみならず、租税の逋負(みしん)に窮迫(ゆきつまり)て、郡守縣令より罪を獲るゆゑ、終歳それを憂ひ恐れて、雨をも風をも厭ふことなく、田畝に服して懈ることなし。是れ農民の家に生れて、稼穡の筋を知ざる者は、一人もなき所以なり。萬民の上に立て、君たる位に居りながら、治國の道を知ざる者は、農民の家に生れて、農事を知ざると同樣なれども、天より其罪を正さるゝは、唯今目前に來らざるゆゑ、多くは天職の重きことを思はず、天の明威を恐れずして、驕奢淫佚に流れ行くより、終には天に見離されて、祖先相承の社稷を失ひ、汚名を傳ふるにも至るののみ。豈恐れずして可ならんや。若し是れをしも恐れずんば、端章甫して大厦に坐するも、農民には劣れる人と云ふべし

 これも更らに戒めたるものだ。思ひ上り傲慢となり、人を使ひ囘す愚を説く。
 現代にも、亦た我れらの身近にも云へることなるべし。
 天の譴罰は必ずしも速やかなるものでない。氣付くも遲し、人や國の榮枯盛衰、その端緒は案外、小さな誤りから生じる。賢人、この不心得を過ちの小と認めて自省する能ふも、凡庸不徳の愚人にとつては決して小ならず、大なり。驕奢淫佚、増上慢は將さに毒藥と均しきなり。



 本日は早朝から、防共新聞社諸兄がこちらに襲撃に來るといふ。早起きして彼れらを迎へ撃たんと待ちつゝ、急ぎこの記事を書き上げた。粗略となつたが、御寛恕下されよ。
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by sousiu | 2013-02-15 06:31 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。七  『責難録』 五 

 承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君の職は天職なれば、國も私の國にてはなく、悉く皆天の國なり。民も私の民にてはなく、悉く皆天の民なり。天より國と民とを付託て、治安の職を命ぜられ、國家の君となれるなれば、其天職を勤る程との、徳器なくしては叶はぬ筈なり』と。

 繰り返すがこの場合の「人君」とは「藩主」の意なり。云ふまでもなく、當時藩主たるもの藩内で絶對無二の權力を保持してゐた。征夷大將軍は、更らにその頂上たるものだ。民も亦た、天下に將軍あるを知りて 天子あるを知らなかつた。將軍畏れるを知りて、天子尊ぶを知り得なかつた。將軍と云はず、彼れら大名に比ぶれば國家に於ける今日の内閣總理大臣なぞ、權威、實力兩つながら到底足下にも及ばぬ。
 之に對して上記の如き發言は、訥菴先生が能く々ゝ日本の眞相を理解してゐたと認めざるを得ない。


然るに人君其理を思はず、己れが一個の私意に任せて、政事に力を竭くすことなく、天の民を虐げ苦しめ、天の職を曠しくさるれば、天必ず罰を降して、其君の位を奪ひ、更に徳ある人を擇びて、國家を付屬(あづけ)たまふことは、萬古を經ても動かぬ理なり。そは古より國家を興して、始て天の職を受け、祖先祖宗と言るゝ君は、必ず才徳器量ありて、種々の艱苦を經歴せられ、賢者を尊び、能者を聘し、臣を勞(いたは)り民を愛して、天意に背きたる事なきにて見るべし

 これは以前にも述べられたることだ。「徳ある人を擇び國家をあづけたまふ」は「萬古の通理」であるといふ。 果たせる哉、幕府はその後、訥菴先生の言に順へば、天の罰を降されることゝなる。而して、天は「才徳器量あり種々の艱苦を經歴し、賢者を尊び臣を勞り民を愛し、且つ、天意に背かぬ」雄藩に罰の與へんことを命ぜられた。これ皮肉と申す可き乎。
 然るにゆめ忘れる勿れ、訥菴先生の申す、これ萬古に通ずる道理である、と。


『さて其子孫に至ては縱ひ或は凡庸にても、甚しき暴虐なければ、天も俄には罰を降さず。其まゝにして置るゝことゆゑ、才徳器量もなき身を以て、人君の位に居る者多し。是は祖先の功徳にめでゝ、天も憐愍を垂れ玉ひ、姑く寛恕し玉ふにて、豈其君を愛するならんや。故に後世の人君は、能く此の道理を辨へて、我今不徳の身を以て、臣民の上に立ち、數萬石の地を食むは、毫髮も我が力に非ず。全く祖先の餘澤なれば、祖先の法には背くまじ。祖先の意には悖るまじと、寐ても寤ても愼しみ恐れて、萬事に氣を著け玉ふべし

 我にその力なきことを忘れ、いつの間にやら思ひ上がつてしまふ愚をいふ。
 才徳器量なき者の恃むは人の心だ。その者、人心離反せば、榮華は短命ならざるを得ないことを云ふ。
 要するに罰を被り、自滅するは、畢竟、己れにあること。感謝と共に謹愼たる心持ちを決して忘れることなかれの意。これまた下々たる吾人も常、留意す可きことがらだ。文末、注視を要す。


『かゝれば拔羣の才徳なしとも、皇天必ず恤れみて、見離し玉ふこともなく、臣民上を怨みずして、國家も安泰なるに至らん。是れ一つには天に對して、永命を祈るの道。一つには祖先に對して、厚恩を報ずる道なれば、忽(ゆるかせ)にせらるゝ事には非ず。然るを暗昧昏愚の君は、右の道理を悟ることなく、祖先の餘澤を忘れはてゝ、忝じけなき事とも思はず、我れかく無學文盲なりとも、賢者能者に下らずとも、治國安民の道を知らずとも、大名は何つも大名よと、安心して居らるゝ故に、遂には怠惰奢侈ともなり行き、暴政聚歛の筋にも歸して、滅亡の種を蒔きつけらるゝは、嗚呼、亦何の心ぞや。かくて或は僥倖にして、其一生を全くせられ、遽に滅亡には至らざるも、相傳の國を困窮ならしめ、一藩の士氣を懦弱になし、臣民に離畔の心を起させ、祖先の餘澤を削り、減らして、それを我子に與れば、子も亦父の風を學び、孫も亦祖の跡を蹈むゆゑ、國の紀綱は次第に壞れて、緩急遲速の差別ありとも、滅亡せざれば居らぬことなり。こは只、天職を曠癈して、天より咎めを獲るのみに非ず。我が祖先の靈に對して、大不孝の所行(しわざ)なるゆゑ、祖先の神も憤恚せられ、天怒と祖譴と相會して、終には亡國に結果するのみ。恐れ玉はずんばあるべからず』と。

 訥菴先生は、藩主の無學無見識によつて生ぜらるゝ自己過信や怠惰奢侈は、職務を怠りたるがゆゑ、人心離間し、天譴を玉はるだけではなく、祖先の餘澤を潰し、名譽を涜す不孝でもあることから、天譴、祖譴、兩つながらに被るであらうことを云ふ。
 このあたりが訥菴先生の、一般の腐儒者と異なる一つとして見なければならない。啻に職務の名分を正さんと理窟をこねるだけでなく、尊皇、崇祖の念の富めるあることを何びとにも了知せられるのである。
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by sousiu | 2013-02-14 00:40 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。六  『責難録』 四 

 昨日は午前中から福島縣の役所に所用あり。あちらこちらへ電話を廻され、遂に半日を費やしてしまつた。
 と云つて勘違ひされても困る。頭の惡い所謂るクレーマーとは違ひ、ま、これも勉強のやうなものだ。しかし役所に對する手續きの面倒臭いことには閉口した・・・・。
 やはり野生はコツヽヽ抄録してゐる方が、性に合ふ。


  * * * * * * * * * * * *


承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君は治國安民の職任なれば、其職の筋にだに明なれば、其他の技藝は拙くとも、絶て恥とすべきには非ず。古へ宋の徽宗帝は、書畫に清妙なりしかとも、終に其國祚を蹙められ、我朝の足利義政は、茶の湯の譽れ高しと云へども、天下を亂壞したるを以て人君の技藝に勘能なるは、少しも取るには足らざるを見るべし。且や瑣末なる技藝を好て、精神をそれに注ぎ玉へば、本業當務の治國の筋には、必ず粗略なる者ゆゑ、知らざるが知れるに優れることにて、人君の技藝に不巧者なるは、反て巧者と云ふ者なり』と。

 藩主の任務は治國安民にある可し。技藝に秀でなくとも可。逆言して、如何に技藝に秀でても、その職を完うすることあらずんばこれ、主として取るに足らざる者と謂つ可し矣。足利義政を引き合ひに出したところなども決して理由なきものとしない。
 みなこれ訥菴先生の名分を正さんとしたものだ。又たそれ、ひとり藩主にのみ言ひ得ることゝ思ふこと勿れ。
 眞に 皇國の中興を志す者、求學求道に精進するを以て諒なるも、あれこれ技藝を欲し、他界の事情通となり、見當違ひに心注ぎたればこれ、盲目者といさゝかも變はらず。他のことがらや事情に暗く、無力なるも、ひたすら道に順じ驀らたる者をまことの晴眼者と申す可し。


『尤も劍槍射騎の如きは、知らざれば叶はぬ藝にして、頗る緊要の事にはあれども、是も大■(上「既」+下「木」)を心得たまはゞ、其餘奧儀の處などは、一藩の諸士の任せられて、一々究め玉ふには及ばず。そは本と臣下と云ふ者は、君の手足股肱なれば、一人に敵する業は、君自から善くせられずとも、手足の臣下を勵まして、各々其性の近き所を得せしめ、多く武藝者を作り玉へば、それが即ち君の藝にて、國家の爪牙となればなり。獨り國を安んずる道に於ては、君一人の專業として、其道を知る方法と云へば、只學問に限れることゆゑ、學問は臣下に任かせ置て、それにてすむべき事には非ず。人君自から心志を苦しめ、聖經歴史を玩味せられて、古聖賢の跡を慕ひ、修身齋家の理を窮め、治國平天下の道を求めて、治亂の源頭を知りてこそ、始て職任を盡すことを得べく、國務を隆盛ならしむるにも至るべし。此々が古より明君賢主は、何事を指置ても、學を講じ道を聞くことを、先務とし玉へる所以んなり』

 茶の湯は扠措き、劍槍射騎などを修めるは國家として肝要なことである。さりながら臣下は元來、君の手足股肱であるから、諸士に任せることも出來るのだ。藩主は藩主の役目を完全ならしめる可きだ。それが治國平天下であり、大義名分だ。この職務と名分を能く知る爲めにも、學問が不可缺であるといふこと。
 昨日記した、『學問と云ふ物は、何の爲にかするぞと云ふに、暗昧昏懦の病を去りて、聰明にならんが爲に非ずや』と併はせ讀む可し。


然るに後世の俗吏の論には、學問と政事は別なる物にて、縱ひ學問をせずと云ふとも、政事の筋だに心得れば、國は治むべしと言ふ者あり。是は甚しき謬見にて、人君を昧ます邪説なれば、痛く辨ぜずんばあるべからず

 今日、若しも“復古維新(世直しといふも可)と學問は無縁”と思ひ違へる御仁あらば、その者の能く一讀す可き文言なるべし。


『先づ能く心を靜にして、政事の根本主意と云ふは、如何なる物ぞと思ふて見るべし。其事(そのわざ)は樣々多端なれども、畢竟主意の約(つゞま)る處は、理非邪正を切り捌きて、國を錯置(あつかふ)することに非ずや。~中略~ 扠其理非と云ふ物が、學問をなさずして分るべきか。學問をなさずして理非を捌くは、譬へば尺度(ものさし)を持せずして、長短を度らんとするが如く、盲瞽(めくら)搜しと云ふ者なれば、誠に危ふきの至りと云ふべし。されなこそ俗吏の政事を爲すを觀るに、大率ね理非を顛倒して、肯綮(かなめのところ)を失へる事のみなれども、下位に在る識者は傍觀して、口を鉗(つぐみ)て居るを以て、俗吏は自からそれを知らず、政事に非なしと思へるのみ。若し識者をして俗吏に對し、一々其理非を問はしめば、俗吏は忽ち閉口して、一言半句の答もあらんや。さすれば俗吏の政事と云ふは、理非を切り分つことにはあらで、只其權柄權威を恃みて、推しすくめて置くと云ふ者なり。推しすくめて置くことを以て、治道などゝ思へばこそ、俗吏が政權を執れる國は、士風を弱まし、庶民を虐げ、君の國家を困窮せしめて、人心離叛の種を蒔(まき)つけ、飾る所は外見のみにて、只管ら町人を欺き賺(すか)し、金幣を借ることを專務として、一日凌ぎに等しき所の、拙き事(わざ)をなすに非ずや。かゝる拙き事(わざ)をなして、國は治まる物ならば、誰にても容易になし得る事にて、古聖賢の論せる所は、悉く虚妄と云ふべきのみ

 正しき學問によつて裏打ちされたる正しき見識無くんば、何事をも成し得ざることを説く。
 政治に於て、無學無見識の盲目者或は迷妄者の統治者でも治國平天下が成し遂げられるならば、如何なる愚人でも統治者たり得、まさに古への聖賢は悉く空しくあるのみ。
 今日の身近に置き換へ、いたづらに“敬神敬神”“尊皇尊皇”“忠義忠義”と口角沫を飛ばし、言靈の靈威を忽諸にし、いたづらに言葉を記號機械へと墮せしめ、それでも事足るといふならば、和氣公、菅公、楠公も悉く空しくあるのみ矣。


『然るに其拙きをば悟ることなく、揚々自得の色ありて、我れは學問をせずと云へども、あつはれ政事を爲すと言ひ、國を治むると思へるは、俸腹するにも堪へざることなり。若し又俗吏が政權を執りて、倫理を明らかにし、風俗を厚ふし、國を富し士氣を張りて、隆盛になしたる例(ためし)あらば、其説も立つべきことなれども、開闢以來今日まで、然る例(ためし)あることなければ、俗吏の説の妄たることは、章々乎として火を觀るが如し。人君一たび惑ひ玉はんには、次第に社稷の傾覆を招きて、竟には救濟し難きにも至るべし。懼れ戒めずんばあるべからず』と。


 訥菴先生が單なる血氣に逸つた攘夷の猪武者でなきことは既に理解出來ると思ふ。
 こゝでは『責難録』記載に集中せむが爲め、訥菴先生その人物や志操に就て記す可きではない。
 しかし申せばその思慮は遙るかに博く、深く、そして篤いものであつた。それが餘りにも博識、深慮であり、篤學篤信であつたが爲めに當時凡人の到底解する能はざるものであつたかも知れぬ。
 何は扠て措き、も少し『責難録』と付き合はねばなるまい。
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by sousiu | 2013-02-13 00:24 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。五  『責難録』 三 

 昨日は、紀元節奉祝式典實行委員會による「紀元節奉祝式典」が千代田區永田「星陵會館」で行はれ、これに參加。
 福永武兄が齋主となり、嚴かに紀元節祭が執り行なはれた。
 記念講演は、京都産業大學名譽教授のヴルピツタ・ロマノ氏、演題は「日本とローマ - 二つの紀元節」。

 この日、以前に木川兄から御紹介を受けた皇學館大學の學生某君が上京。
 「星陵會館」を後にして、木川兄と某君とで新橋の「天狗」へ。
 人に知られては困るので他言は御無用に願ひたいが、この「天狗」こそ、時對協の祕密のアジトなのだ。
 某君は木川兄を慕ふだけあつて能く勉強をしてゐる。專ら、崎門の學と平田國學を學んでゐるといふ。古神道にも興味があるらしい。
 彼れからおみやげに、と、近藤啓吾先生著『若林強齋先生』(拾穗書屋藏版)、皇學館大學神道研究所發行『垂加神道未公刊資料集一』をいたゞいた。
 人の縁とは不思議なもので、惡縁が惡縁を重ねてゆくやうに、良縁もまた良縁に結ばれてゆくものだ。最近の若者には教はることが頗る多い。話題は、崎門、鈴屋、氣吹廼舍から饑饉に就てまで、幅廣きに亙つた。
 紀元節の佳き日に相應しき一日を過ごすことが出來た。感謝、である。


  * * * * * * * * * * * *


 さて。訥菴先生に話しを戻さねばなるまい。


●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『醫師の職にありて、治療の道を知ずんば、是を醫師と云ふべからず。御人(うまのり)の職に居て、馭馬の術に昧くんば、是を御人と云ふべからず。然らば人君の位に居て、治國安民の道を知ざる者も、亦只君の名ある迄にて、眞の人君とは云ひ難し。早く治安の道を知り得て、天職を盡し玉はずんばあるべからず。扠、其治安の道を知るには、別に方法と云ふ者あることなく、只學問に限れること故、學は人君第一の急務と云ふべく、他の技藝の類などゝ、同日に論ずべきには非ず』

 これまた、例を擧げて説明したもの。幼君のみならず、野生のやうな無知暗昧にも解し易し。


『されども後世の學問には、正學俗學の差別ありて、均しく皆學問と稱すれば、能く其路徑を辨擇して、入る所を愼まずんば、却て大害となること有らん。是れ又吟味すべきことなり。今其差別を辨ぜんとするに、そは一言にも説き難けれども、姑く大畧を撮て言はゞ、後世の學問する者には、詩文などを作り覺ゑて、汲々として懈ることなく、それ等の技藝に巧妙なれば、學問は畢ると思へる者あり。或は讀書を事とするも、字義文義を穿鑿して、是れはかゝる意味の字なり。此々はかく説かねば合はぬと、言語のことのみに貧著して、そを終身の事業となして、學は成れりと思へる者あり。或は歴史のみを讀て、許多の故事を記するを務、古人の履歴を話柄(はなしくさ)に供して、そを學問となす者あり。或は稗官野史とも云はず、手當り任せに書を讀て、種々樣々の事を記憶し、星貨舖(ほしみせ)の如くに陳列して、それを學問となす者あり是れ等が何れも俗學にて、畢竟大道に眞志のなき者、人に博識才子と喚(よば)れ、己れが鼻を高くして、利祿を釣んと欲する所の、名聞の心より爲すこと多く、縱ひ或は然らざるも、生涯道には通ずることなく、一個の藝者となる迄にて、人倫治道に益なきことは、香花茶の湯に類せる物なり。草莽微賤の士なりとも、眞實大志ある者の、事となすべき學にあらねば、況て國家に君たる者をや。而るに人君それ等の學を、眞の學問と思ひ違へて、一たび蹈こみ玉はんには、先入やがて主となりて、終身道を知ること難く、或は少しく才氣ありて、驕慢し易き君などは、反てそれが病を長じて、人品を傷るにも至るべければ、嚴に戒め愼て、決して近より玉ふべからず

 いづれも、もの學びの心得にあらざるを云ひ、その誤ちに陷らざることを諭したもの。「技藝に巧妙なれば、學問は畢ると思へる者あり」のくだりは、二月に一囘行なはれ參加してゐる「不二歌道會」の「歌道講座」でも眞由美先生が口が酸つぱくなるくらゐ説くところと相合する。
 訥菴先生は廿歳のとき、佐藤一齋の門に入り愛日塾々生となつた。訥菴先生は寢食を惜しんで刻苦勉勵を重ね、忽ち同輩を凌ぎ、門下の偉才を以て目された。そのころ、當時の書生が頼山陽先生の學の流行に從ひ、その大義に關することは捨てゝ顧みず、徒らに詞章のみを模倣するに至つたことを堅く戒めたたといふ。曰く、
大丈夫道に志し、豪傑の士たらんと欲せば宜しく詞章を事とすべからず』と。(參考文獻:『大橋訥菴先生傳』昭和十一年十一月十日「至文堂」發行)
 誤り易きは人君ばかりでない。學を修め業を習ひ以て智能を啓發せむと志す吾人も然り。耳痛き保守派人士、おほくある可し矣。
 では、訥菴先生の説く正學とは一體、如何なるものぞ。


『さらば、眞の正學と云ふは、如何なる事をか爲すぞと云に、是れ亦容易にも説き難けれども、畢竟は道を求むることにて、道理と云ふ物をはきと知り拔き、聖賢とならんと心掛て、天地の心はかゝる物、人道の源頭はかゝる物、天下の立つは此々の處、治亂盛衰は此々より分れ、善惡邪正は此々より岐し、君子小人王霸義利は、此々の加減と云ふ類より禮樂刑政の主意に至るまで、白日に我が掌紋を視るが如く、明快に認(みとめ)んことをひたと願ふて、古聖賢の深旨奧義を、手に握らんと勉めて行くが、眞の正學と云ふ物にて、大人君子の從事すべきは、只此正學に限れることなり。~中略~、されば、人君たらん者、能く正俗の制を辨じて、心を正學に苦しめ玉ひ、久きを經て倦賢否正邪を誤ることなく、忠を喜て佞を惡み、言路は開け士氣は張りて、國脈の隆盛に至んことは、萬々疑ひのなきことなり。務め玉はずんばあるべからず』

 上記を以て正學の正學たらんことを説明する。
 訥菴先生は攘夷家としてだけではなく、いち早く王政復古を唱へた勤王家としても知られてゐる。さうした人物が學問の大事を説くところに、吾人は悟るところあらねばなるまい。


『但し俗學は骨折り少なくして、面白き意味を知ることは早く、正學は骨のみ折れて、面白き意味を知る迄には、俄に至り難ければ、艱苦に慣(なれ)たる書生すら、大率(おほむ)ね正學の難きに畏れて、俗學に走る者のみ多し。汎て人君は富貴に長して、我まゝ勝手の癖を著けられ、むつかしき事、苦しき事には、堪へ玉はぬが多き者ゆゑ、果して正學をせんとならば、豫め能く熟慮して、覺期(かくご)なくんばある可らずそは本と學問と云ふ物は、何の爲にかするぞと云ふに、暗昧昏懦の病を去りて、聰明にならんが爲に非ずやかくてむつかしく苦しき事をば、兔角に厭ひ嫌ふと云ふは、それが即ち病根にて、暗昧昏懦の種なれば、其病根を相ひ手にして、蹈み破らねば置まじと、烈しく進む勇ありてこそ、始て正學は成るべきことなり。~以下略』

 克己克苦を獎勵す。學問に對するこの姿勢がそのまゝ時を隔てゝ變はることなく、曩に記した「思誠塾生徒心得書」にも表れてゐるのである。だがこれ思誠塾のみにあらず。當時の尊王家は概ね、かうした姿勢を持し、見識を深めていつたのであると察する。『果して正學をせんとならば、豫め能く熟慮して、覺期なくんばある可らず』の一文を注視す可し。

 續いて、當時の儒者に對する批判を交へつゝ、師範とす可き人物乏しきを語り、その對策を述べてゐるが、こゝでは省略する。

 ・・・因みに野生は此度び『責難録』を、一項目づゝに分けて記事を更新してゐるのであるが、この書き方は大變だ。まだ半分にも達してゐない。
 目がしよぼしよぼするし、腱鞘炎になるやうな氣もするし、時間も掛かるし、眠くなるし・・・。おつと、克苦勉勵、克苦勉勵。
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by sousiu | 2013-02-12 09:24 | 先人顯彰