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大橋訥菴先生に學ぶ。四  『責難録』 二 

承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君たる者、祖宗の餘澤により、衽席の上にて讓りの知行を受け、富貴安樂に生長して、爵祿衣食住、左右の使令何一つの不足もなきは、誠に榮華の至極と云ふべし。それに付き今惡口に似たりと云へども、近きことを擧て言はんに、守成の君を裸體にして、獨り者にて世に出さば、人を治める徳なき故に、誰も君とする者はあるまじ。又、藝能何如んと云ふに、俚語に所謂大名藝にて、弓馬刀槍の免状も、只よき程とに受けたるなれば、其藝能を言ひ立てゝ、高祿にあり付く種にもなるまじ。且や安佚に生長して、寒にも暑にも堪へ難ければ、縱ひ奉公したればとて、供小姓の勤もなるまじ。然らば畢竟、庸人にて、取るべき所もなきことなるに、祖宗汗馬の餘澤に依りて、大徳の人も得難き所の、安富尊榮を受けたまふは、世に比類なき大福に非ずや』

 後嗣、藩主となりて、額に汗なく手に豆なく、爵祿衣食住家臣を讓り受け、榮華富貴を極めることが出來るのは、寔に世に比類なき大福である、と。「惡口に似たりと云へども、近きことを擧て言はん」は面白い。


『扠、大福を受たる者は、必ず大禍もある理なれば、能く々ゝ畏れ謹みて、長く其富貴を失はず、祖宗の功業に瑕(きず)つけざる樣、心がけ玉はんことこそ、尤も緊要の大事なるに、大率(おほむ)ね此々に心の附き玉はざるは、深く歎息すべきこと也。そは先づ守成の人君は、堤封幾萬石と唱れども、東西幾里南北幾里あることも知り玉はず、其國の貢賦の制は、年免か定免なるかの子細も知り玉はず、封内の人民は、幾千戸幾萬人あることも知り玉はず非常の時の軍役には、機隊幾陣を出すと云ふことをも、絶えて知り玉はざる君のみ多し。かゝる事すら知り玉はねば、況して國家を治むる道は、かゝる筋などゝ云ふことは、夢にも心得られたることなく、只、我れは生まれながら貴き者ぞと思ひ居て、泰然として其位に安んじ、職業の外なる物好などに、徒らに月日を暮し、耳目の娯樂に夜を深して、畏れらるゝ心のなきは、譬へば名醫の子孫たる者、藥種の名をも辨へず、醫書の表題も覺ゑ知らず、況して治療の道などは、毫髮も曉れることなく、遊蕩懦弱に暮らしつゝ、傲然と人に對して、先生顏をなすが如し。かくては或人の言へる所の素餐(ろくつぶし)の誚も免れ難く、啻に祖宗の功業に瑕つけて、不孝の子孫たるのみならず、天より國土を預け玉へる、役義に背く者なれば、天も必ず見限りて、終には其福祿を奪ひ玉ひ、國は次第に衰廢すべし。眞に危き事に非ずや。早く塗轍を改て、天の祐助を祈り玉はずんばあるべからず

 諺に曰く「長者に二代なし」「名家三代續かず」「売り家と唐様で書く三代目」と。祖先の築いた地位やら名譽やら財産やらを、讓り受けた子孫が、苦勞を厭ひこれに甘んずれば忽ち全てを喪失するといふ戒めだ。而して、これは不孝以外の何者でもない。
 凡家に於ては一家の不幸であるが、藩主にあつては一藩そのものの不幸となる。


『~略~、扠、その天助を祈らんとするには、何事をなすが善きぞと云ふに、こは神佛に祈願して、百萬金を費したりとも、それにて得らるゝ事には非ず。只々治國安民の四字を、神佛を念する如くに、日夜朝暮に思ひつめて、道を學び道を知りて、本業職務に力を竭し、且又創業の先君の生涯戰場に身を曝して、千辛萬苦を經歴し、國家を興し玉へる所の、功勞のさまを想像し、日々我身に引較べて、忘れ玉はざるが祈祷の道なり

 國土人民を預るその任にある者、啻に百萬金を神佛に奉納するが祈祷にあらず。注目を要す可き一文だ。



『[祖先の功勞艱苦のさまを記したる記録の類、必ず其家々に懈るべからず。若し又其書あること無くんば、そは甚しき闕典なるゆゑ、急に文學の臣に命じて、羣書に散見せるを抄出せしめ、編纂して一部の書となすべし。後世の人君には、自己の祖先の功勞艱苦を、委曲に知り玉はざる君などあるは、不幸の至と云者にて識者の譏を免るべからず]かゝれば今日、席(たゝみ)の上にて、自己のせらるゝ辛勞などは、物の數にもあらぬを知り得て、精神自然に奮發すべく、奢侈遊惰なる非分の念も、萌す暇のあるまじければ、それこそ、天意に叶ふべく、天も必ず怒を回へして、其國を祐助し玉ふゆゑ、國運は長久になり行くべきなり』と。

 萬古に相通ずる謹戒だ。然も政治を擔當する者ばかりでなく、我れらとて然り。家族の概念が希薄となりつゝある今日に於ては記憶の範疇まで、精々祖父母までしか興味なからうが、遠つ祖への關心も寄せられるべきである。それありて純然たる崇祖の念は深まり、而して崇祖の念は健全たる尊皇敬神の念に相通ずるのだ。こゝでも、古へを重要とせざる能はざるの意が含まれてゐる。それ、單なる懷古趣味の發想ならぬものである。



 一昨日は私用で午前中から都内へ。夕方から新宿へ向かひ、阿形先生の事務所で深夜まで御高説を賜はる。
 昨日は一日中、發送報告。この記事を書きかけのまゝ寢てしまひ、更新が今になつてしまつた。某刑務所から嘗て天安門事件に參加した支那の士より長文の書翰を賜はる。末尾に「贈河原博史」と一首あり。漢詩の勉強もしなくてはならない・・・。全く、知らないことだらけだ。
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by sousiu | 2013-02-10 12:26 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。三  『責難録』 一 

 訥菴先生の著書は『闢邪小言』『元寇紀略』が有名だ。
 『闢邪小言』は徹頭徹尾、西洋模倣を戒めてゐる。これを以て、訥菴先生を評するに、良く云へば一本氣、惡く云へば狹見と看做す者があり。かくなる論文を一讀したことがあるが、そは訥菴先生を理解せざる者の表層的な愚見である。
 訥菴先生は決して淺識蒙昧なる今日の如き排外思想の持ち主などではない。つまり眞個たるの尊攘家である。
 外憂あつて初めて憂ひとするでなく、事理を能く辨へ、理想の大旆を掲げてゐた。否、言葉を正しくすれば、他國にどうせねばならぬか、に非らずして、皇國どうあらねばならぬか、が主眼であつた。つまり理想を求めるところ内事を主にして外事が即はち從だ。
 つらゝゝ惟みるに、叡慮を奉戴せぬ攘夷運動は、見識に裏付けられた理想や思想に據つて立つたものでなく、單に感情もて構成されたるものと見做されて仕方あるまい。今日の外交に纏る世論の澎湃が純然たる憂國者による警鐘亂打であるのだとすれば、我れらはこれに對する警笛をも吹かねばなるまい。

 話しが外れさうなので、訥菴先生に話題を戻す。
 西洋痛罵の一面のみを以て訥菴先生を解してはならぬ。その爲めにも、訥菴先生の他の著述を拜讀する必要があるのだ。

 そこで今日は、『責難録』を掲げる。
 『責難録』は『大橋訥菴先生全集下卷』(昭和十八年七月十日「至文堂」發行)に收められる。
 一言、説明を付せば、この書は舊來の諸傳に「元寇紀略責難録」と竝び記されてゐたものゝ、どこをどのやうに散失したか、長く世人の目に觸れることが無かつたらしい。その折、平泉澄先生が、とある書店より入手され、同卷に收録され、再び吾人は拜讀する機を得たのである。全集編者である寺田剛氏は、訥菴先生が當時、宇都宮藩主・戸田忠温に聘せられ同藩に道を説いたが、幼君(忠恕)に對しても、將來藩主となる際の心得としておそらく之を述したのではあるまいか、と。
 汚濁した川を澄まさむと欲すれば先づ川上から清めてゆく可し矣。組織然り。國然り。而、清める爲めに必要なるものは、罵聲に非ず、確かな見識だ。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君たる者は、何事を閣(さしをき)ても、先づ第一著に、自己は位に即くと其まゝ、重き役人なるぞと云ふことを、能く々ゝ理會し玉ふべし。後世の人君は、家老用人以下の者のみを役人なりと思はれて、自己はそれよりも重き役人なることを知り玉はず。或は偶々上よりして、土木の助役、城門の警衞、失火の防禦の類を命ぜらるれば、其事のみを役義なりと思はれて、平生の重き役義に心づき玉はざるは、甚しき誤りなり』と。

 この場合の人君とは、藩主を差したもの。
 藩主、藩主となるを以て極めて重要なる任務を負ふ可きなるに、概ねその重責は家臣に有り我に無し、と誤認するのことを指摘す。
 固より 皇國では、殿樣も又た役人の一に過ぎず。今日でこそこれを識るに難しからざるも、おそれおほくも將軍ありて天子あるを知らぬこの時代下に於ける、訥菴先生の識見、さすがと云ふほかなし。


『然らば人君の役義と云ふは、果して如何なる事ぞと云ふに、別に珍らしきこともなく、能く其國を治めて、萬民を撫で安んじ、一夫にも其所を失はざらしむるが、人君第一の當職なるゆゑ、手近く言へば、人君は民を養ひ育つべき所の、世話役と云ふ者なり

 藩主原來の職務を云ふ。


『既に萬民の世話役なれば、平生、治國安民の四字を思ひつめて、頃刻の間も忘れ玉ふべからず。故に其國貧困して、民に生業を失ふ者のあるは、其民の罪には非ずして、即ち其國君の不調法と云ふ者なり。風俗華麗奢侈にして、遊民の徒の多くあるも、亦是れ其君の不調法と云ふ者なり。凶年饑歳の變に遇て、民に凍餓する者多く、離散する者あるに至るも、亦是れ其君の不調法と云ふ者なり。其他封内に爭鬪(いさかひ)多くして、訴訟の類の絶ゑざるも、盜賊追剥數々起りて、人を惱ます事のあるも、法度禁令を犯し破りて、刑に罹(かゝ)る者の夥しきも、皆是れ國家に君たる者、自己の役義を打忘れて、粗畧(なけやり)にせらるゝが故にてあれば、其罪輕きことならんや。こは畢竟、國をも民をも、自己の物と思はるゝより、さる誤りも生ずることにて、國も民も、人君自己の物には非ず。上よりして能く其國を治めよ、能く其民を安んぜよとて、預け玉へる所の物にて、上より預け玉へるは、即ち天より預かり玉へるなり

 政治の根本義は治國安民の四字であるを云ふ。然らば藩の主はその筆頭責任者であり、この四字を委託された最も責任ある役人と云ふも可なり。擴大すれば、征夷大將軍然り。彼れは最もその責務を擔ふべき一役人なり。
 これを説明せんに、訥菴先生は例を以てして以下に説く。


『今日士大夫たらん者、君より重き寶器を預かり、そを我が私の物と思ひて、輕々しく玩弄し、遂に打碎きたらんには、其罪輕き事にはあるまじ。然らば天よりして重き國民を預りながら、そを世話すべき筈の役義を忘れ、己れが私の事に虐使して、民に安居することを得ざらしめ、或は其膏血を絞り取て、我が奢侈榮耀の費用(ものいり)に充るは、主君より預かり置たる、寶器を我まゝに玩弄して、打碎く者にも遙に過ぎたり。豈、天の冥罰なきことを得んや

 これに就て説明は無用であらう。例を以て、その責務を一層、解り易くしたものだ。編者の、同書が幼君を教育せむが爲め、といふのも頷ける。


『~略~、されども人にも智愚強弱の不同ありて、そを治る者なき時は、動もすれば爭奪して、相害する事あるを以て、扠こそ天より天下を以て、天子、將軍に預け玉ひ、其世話方を命ぜらる。然るに廣き國土のことゆゑ、其行き屆き難きを恐れて、そを又、羣候百辟に分ち、一國一郡を預け玉へる也。されば人君たる者は、天の寵愛せらるゝ所の、民を多く預り居て、天の代官を努るなれば、天地生々の心を心となし、仁を以て主となして、遍く恩澤を下に屆かせ、下情を上に達せしめて、一夫も其所を得ざることを、日夜に憂思せられんこそ本務を知れる君と云ふべく、必ず天の愛顧を受て、長く國家を保たるべきなり

 これは前言をより一層詳しく述べたもの。くどいやうだが、當時の、水も漏すまじと徹底とした幕府專制政治體制下にあつての眼識であり意見であることを忘れてはならぬ。


『苟も然ること能はずして、封内を我が私の物と思ひ、民を虐げ苦しめて、其生産を失はせ、日々に困窮に趨(をもむか)しめば、天の委任に背ける者ゆゑ、天必ず憎み怒りて、やがて其役義を取り上げ、他人に附屬せられんこと、亦是れ必然の理に非ずや。深く思ふて、本務を勵み玉はずんばあるべからず』

 幕府の、主に農民に對する酷政は過度を極めた。「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る」といふ言葉を耳にしたことがあらうと思ふ。
 無論、全ての藩ではない。しかしあからさまなる階級制度は機能し、然も士農工商とは云ひながら、それは名義のとほり機能するものでは無かつた。これに加へるに、饑饉や天變地災が起こる。これに就ても別の機會で記したく思ふが、心ない藩主は少なからず居たのである。

 『責難録』は啻に宇都宮藩主にのみ一讀せらる可き書ではない。
 幕府、いやさ古今に通じて爲政者の熟讀す可き一書である。
 餘談であるが、訥菴先生は單なる書齋的學問では滿足せず、屡々時務を建白し、上書した。
 文久元年九月、遂に幕府に到底望む可からざるを察し、愈々朝權復古の大策を持し、門人・椋木八太郎を上京せしめ、議奏正親町三條實愛公に就て、『政權恢復祕策』を上奏せしめた。その意見書に曰く、
『~上略~、そは前にも申すが如く、徳川家の武威衰へはてゝ、天下の人心全く離れ、僅かに祖宗の餘澤を恃みて、諸侯を指揮する迄なれば、一日一日に元氣憊(つか)れ、恢復すべき機と云ふ物は、萬中に一つも見えず。されば幕府の滅亡せんこと、決して遠きことにてはなく、近く十年の間にあらんこと、鏡にかけて明白なれば、誠に危殆の至りと云ふべし。~以下略~』と。

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 これより半年を待たずして所謂る「坂下門外義擧」は發生し、一年後には訥菴先生、逝いた。而して、訥菴先生の十年以内に幕府は滅亡する、とした大膽な豫言は、その實際に於て七年の後に的中したのである。

 おやすみなさい。
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by sousiu | 2013-02-07 01:56 | 先人顯彰

大橋訥菴先生に學ぶ。二  

 え~と。またゝゝ間が空いてしまつた。
 最早、氣紛れのやうに更新する日乘であるが、それでも見捨てず覗いてくれる御仁がをられるので有難いと思うてゐる。
 ま、それが「更新しよう」と思へる元氣の本でもあるし、同時に「更新せなば」と焦躁する因でもある。苦笑。

 更新が遲れてしまつたので、些か拍子拔けするけれども、一應、前囘に連動させなければならない。
 「坂下門外義擧」を記したのであれば、訥菴居士 大橋正順先生を紹介せねば、備中處士樣よりお叱りを蒙りさうだからだ。

 坂下門外義擧と訥菴先生の關係に就ては、以前にも當日乘に記したので、こゝでは省く。
   ◎從四位 大橋訥菴先生に學ぶ → http://sousiu.exblog.jp/16722972/
 又た、備中處士樣も筆意雄健、平成混迷の今日に再び訥菴先生の金言及び功勞を世に弘布せむと力めてをられる。
   ◎忘れられたる大橋訥菴先生。 → http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/18
   ◎師道、其れ嚴なる哉。 → http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t6/8

 此度び淺慮乍ら野生も又た、之に連ねるを試みる可し。
 訥菴先生の思誠塾は日本橋橘甼三丁目(後に村松甼に轉居するも安政地震で崩壞し、それからは幕府の嚴重なる監視下から逃れる爲め向島小梅甼へ)に在つた。こゝに青少年はあつまり、尊王攘夷の志操を追及、涵養していつたのだ。

 訥菴先生は坂下門外義擧の三日前(文久二年一月十二日)、南町奉行によつて逮捕され、翌日、思誠塾は幕吏によつて徹底的に捜査されることゝなる。
 訥菴先生、傳馬町の獄舍に幽閉され、その後宇都宮藩の赦免運動により半年後の七月出獄するも、旬日を經ずして同月十二日を以て、四十七歳の生涯は幕を閉ぢた。
 一方、思誠塾は訥菴先生の養子である大橋陶庵翁(御一新後は大學教授となる)、これを繼ぎ、翁明治十四年十二月廿三日、五十八歳で天壽を迎へた。

 こゝで思誠塾の氣風を識る爲めにも試みに「思誠塾生徒心得書」を拜讀してみよう。
 思誠塾に就ては、インターネツトなどでも調べることが出來るが、「心得書」は見當らない。
 よつて長文となるが參考資料として爰に原文を全て掲げるものとする。
 「訥菴先生に學ぶ」と題したことから、思誠塾の生徒となつたつもりで一讀す可し矣。
 尚ほ、原文(黒太字)は白文混じりの片假名書きであるので讀み難く、よつてこれを平假名にて變換、譯す(灰細字)。句讀點及び括弧も野生による。請ふ、變換に誤りあらば御指摘下さることを。


●思誠塾『思誠塾生徒心得書』
一、朋友ハ謙遜辭讓信義ヲ以テ可交事勿論ニ候。學業爵録年長之類ヲ挾ミ儕輩ヲ輕侮致候樣ナル事ハ堅相愼可申候。乍去忠告善導ハ朋友之道ニ候得共萬一心附候事有之候節ハ無憚幾度モ物靜ニ可被申諭候。陽ニハ棄置候而陰ニハ謗議輕慢致候樣ナル儀ハ深ク戒可申事。
   少年ハ能ク和順ニ長者之言ニ從ヒ可申候。少モ妄慢致差出ケ間敷候樣之事堅相愼可申。長者ハ少年ニよく目ヲ挂成丈過失なき樣心附可被申事。


(一、朋友は謙遜、辭讓、信義を以て交はる可き事は勿論に候。學業、爵録(※祿、乎)、年長の類を挾み、儕輩を輕侮致し候樣なる事は、堅く相愼み申すべく候。さりながら忠告、善導は朋友の道に候えども、萬一、心附き候の事これ有り候節は、憚りなく幾度も物靜かに申し諭さるべく候。陽には棄て置き候て、陰には謗議輕慢致し候樣なる儀は、深く戒め申すべきこと。
   少年はよく和順に長者の言に從ひ申すべく候。少しも妄慢致し、差し出がましき候樣の事堅く相愼しみ申すべし。長者は少年によく目を挂(か)け、成る丈過失なき樣心附け、申さるべきこと)




一、課業之儀ハ大畧半日經書半日歴史と定置候而其間ニ古今之戴籍モ博渉可致候。成丈ケ力ヲ用ひ精讀之上日々幾度モ無遠慮質問可被致候事。

(一、課業の儀は、大略、半日は經書、半日は歴史と定め置き候て、其の間に古今の載籍も博く渉り致す可く候。成る丈力を用ひ精讀の上、日々幾度も遠慮なく質問致さるべく候こと)



一、無用之雜談及諧謔之話堅相愼可申相互ニ學術文字ニ關リ候有用之話ヲ心懸可申事。

(一、無用の雜談及び諧謔(洒落や冗談のこと)の話は堅く相愼み申す可く、相互に學術文字に關はり候、有用の話を心懸け申すべきこと)



一、灑掃應對進退坐作等ハ精々氣ヲ付丁寧ニ致候樣心挂可申候。少年ハ勿論長者と雖モ此等之事ニ粗漏ニ致候ハ皆失徳之一ニシテ心術之害ニなる事忘べからざる事。
   坐敷書齋及玄關等番ヲ定置灑掃可被致候事。


(一、灑掃、應對、進退、坐作等はせいゞゝ氣を付けて丁寧に致し候樣、心がけ申すべく候。少年は勿論、年長者といへどもこれらの事に粗漏に致し候は、皆、失徳の一にして、心術の害になる事忘るべかざるのこと。
   坐敷、書齋及び玄關などの番を定め置きて、灑掃致さるべく候こと)




一、飮食ハ人之大欲存する物故可成丈質素節儉ニ致し奢侈鄙吝ニ渉らぬ樣可致事。
   飮酒之類堅ク制禁ニ候。從合他行致候節無據家ニ而被勸候共成丈相愼言行二粗忽無之樣可致事。


(一、飮食は人の大欲の存するものゆゑ、なるべくだけ質素節儉に致し、奢侈鄙吝に渉らぬやう致すべきこと。
   飮酒の類は堅く制禁に候。合しより他行致し候の節は、據なく家にて勸められ候とも、成るだけ相愼み言行に粗忽これ無き樣致すべきこと)



一、司謁之儀ハ一人宛番ヲ定置候而晝夜玄關ニ出張相勤候樣可致。若來客多人數手廻リ兼候節ハ相互ニ助ケ候樣可致事。
拙者他行致候節來客有之候ハヾ歸宅之上早速其趣無遺忘可致申聞候。
門及玄關開闔之儀ハ其日司謁之者司るべき事。


(一、司謁の儀は一人宛て番を定め置き候て、晝夜玄關に出張を相勤め候樣致すべし。もし來客、人數多く手廻り兼ね候の節は、相互に助け候樣、致す可きこと。
   拙者が他行致し候の節、來客これ有り候はゞ、歸宅の上は早速、其の趣き、遺忘なく申し聞かせ致すべく候。
   門及び玄關開闔の儀は、その日の司謁の者、司るべきのこと)




一、圍棋象棋之類制禁之事。
   但正月從元日七日迄五節句夏之土用中午後の八時迄
   右之節ハ被扱候而も不苦候事。


(一、圍棋・象棋の類は制禁の事。
   但し、正月の元日より七日まで、五節句夏の土用中、午後の八時まで、
   右の節は扱はれ候ても苦しからず候こと)




一、詩竝國歌等高吟致し又ハ謠曲之類ハあしき事ニハ無之候得共學問修業之急務ニ無之且他人讀書潛思ヲ妨候故晝之内ハ相愼申ヘシ晩餐後等ハ不苦候事。
   但路上詩歌微吟聊幽情ヲ寄候ハ格別之事ニ候得共放歌亂舞流俗ニ傚ひ候儀堅ク相愼可申事。


(一、詩ならびに國歌など高吟致し、又たは謠曲の類は、惡しき事にはこれ無く候えども、學問修業の急務にこれ無く、且つ他人の讀書潛思を妨げ候ゆゑ、晝の内は相愼しみ申すべし。晩餐の後などは苦しからず候こと。
   但し、路上で詩歌を微吟するはいさゝか幽情を寄せ候は格別の事に候えども、放歌、亂舞、流俗に傚ひ候儀は堅く相愼み申すべくこと)




一、外行之節ハ一々其趣可被申達候。近隣ニ而結髮入湯其他三度食用辨じ候外不告し而他出嚴禁ニ候。若違犯之者ハ事宜ニより輕重も有之候故其罰三等ヲ設如左。
   放逐
   禁足一月或ハ廿日
   當直五日或ハ三日


(一、外へ行くの節は、一々其の趣き、申達さるべく候。近隣に髮を結ひ、湯に入り、其の他三度食用辨じ候ほか告げずして他出するは嚴禁に候。若し違反の者は事宜により輕重もこれ有り候ゆゑ、其の罰三等を設くること左の如し。
   放逐
   禁足一月或ハ廿日
   當直五日或ハ三日)




一、外行之節初より一宿ヲ乞候儀ハ其子細一々相通し許可ヲ得而然後宿スベシ。萬一出先ニ而用事有之一宿ヲ乞候事ハ必其者紹介之者或ハ其藩重役之者より後證ニ相成候一書ヲ拙者手元迄急送し其子細委曲告らるべき樣取計可申事。
   但不告し而宿スル者禁足十日之上名牌五枚ヲ差出し可申事[十五日以前ハ其月之名牌差出以後ハ後  月之分を差出可申事以下傚之]
   過門限者ハ禁足七日之上名牌三枚差出可申事。
   他出之上一宿ヲ乞之書夜四時ヲ過候時ハ過門限者ニ準シ候得共不得已之事モ有之候故禁足七日而已之罰ヲ受べき事。


(一、外へ行くの節、はじめより一宿を乞ひ候の儀は、其の子細一々相通し許可を得て、然るのち宿すべし。萬一出先にて用事これ有り一宿を乞ひ候のことは、必ず其の者紹介の者、或は其の藩重役の者より後證に相成り候一書を、拙者の手元まで急送し、其の子細委曲告げらるべき樣、取り計らひ申すべきこと。
   但し、告げずして宿する者は、禁足十日の上、名ふだ五枚を差出し申すべきこと。[十五日以前はその月の名ふだを差出し、以後は後月の分を差出し申すべきこと。以下これに傚ふ]。
   門限を過ぎたる者は禁足七日の上、名ふだ三枚、差出し申すべきこと。
   他出の上、一宿を乞ふの書、夜四時を過ぎし候時は、門限を過ぎたる者に準じ候えども、やむを得ざるのこともこれ有り候ゆゑ、禁足七日のみの罰を受くべきこと)




一、疾病事故ニより下宿一月ヲ踰候者ハ其席一席ヲ逆退し後ニ讓リ可申事。

(一、疾病、事故により、下宿一月を踰え候者は、その席一席を逆退し後に讓り申すべくこと)



一、生徒歸省之節其席近國之者ハ廿日或ハ一ケ月遠國之者ハ一月半より二ケ月迄ハ空しく除き置其歸るを待可申事。
   但月ニ滿候得者後より順々其席の繰上ケ不苦候事。


(一、生徒歸省の節、その席、近國の者は廿日或は一ケ月、遠國の者は一月半より二ケ月迄は空しく除き置き、その歸へるを待ち申すべきこと。
   但し、月に滿たし候えば、後より順々に其の席の繰り上げも苦しからず候のこと)




一、講筵輪講ハ病ヲ除ク外鬮ヲ脱し竝闕席兩度ニ及ひ候者ハ當直一日ヲ以而其罪ヲ償べき事。

(一、講筵輪講は病ひを除くほか、鬮を脱し竝びに闕席兩度に及び候者は、當直一日を以てその罪を償ふべきこと)



一、連月他出名牌十枚ヲ盡シ候ハヾ其事故ニより至當之罸可申付候事。

(一、連月他出の名ふだ十枚を盡くし候はゞ、其の事故により至當の罸を申し付くべく候こと)



右之數條無忘失樣能々御心得可被成候。
明治四年辛未二月                      陶庵


(右の數條、亡失無き樣、よくゝゝ御心得成さるべく候。
明治四年辛未二月                      陶庵)




 思誠塾の氣風、以て識る可し矣。野生の如きなぞ、即時放逐、さらずんば禁足の罰を被るであらうが、も少し若く、若しもかういふ塾があつたなら、一度は入塾して學んでみたいものだ。
 時代の違ひもあると、何でもかでも時代、時代と云うて今日の自分を過保護としては駄目なのだ。維新前は少年から青年まで、みな、斯くの如き嚴しき環境に自ら志望して投じ、勉學と精神の向上に日々努めてゐたのだ。河原、穴があつたら入りたし。とほゝ。
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by sousiu | 2013-02-06 11:31 | 先人顯彰

閑話休題。 贈正五位、奧八兵衞大人。  

●吉田松陰先生、門人入江子遠氏に與ふる書『學習院興隆ニ關スル意見書』に曰く、
『・・・然レバ學習院ノ基ニ依リ今一層致興隆候バ、何樣ニモ出來可申。扨、學問ノ節目ヲ糺シ候事ガ、誠ニ肝要ニテ、朱子學ジヤノ陽明學ジヤノト、一偏ノ事ニテハ何ノ役ニモ立不申、尊皇攘夷ノ四字ヲ眼目トシテ何人ノ書ニテモ何人ノ學問ニテモ其長所ヲ取ル樣ニスベシ。本居學ト水戸學トハ、頗ル不同アレドモ、尊攘ノ二字ハイヅレモ同ジ。平田(篤胤先生)ハ又、本居ト違ヒ、癖ナル所モ多ケレドモ、出定笑語、玉襷等ハ好書ナリ。 ~中略~ 高山(彦九郎先生)、蒲生(君平先生)、對馬ノ雨森伯陽、魚屋ノ八兵衞ノ類ハ、實ニ大功ノ人ナリ』と。※括弧は野生による。

 高山彦九郎先生に就ては、こゝ數日間、備中處士樣が御自身の掲示板で、殊に力を籠められ、筆意御雄健、文章御奉皇に努められてゐる。
  ■■嗚呼、囘天創業の首倡者・高山赤城先生。■■ほか。↓↓↓↓
   http://9112.teacup.com/bicchu/bbs

 蒲生君平先生に就ては、當日乘でも、少しく觸れたところがある。
  ■■山陵志■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16917357/
   http://sousiu.exblog.jp/16922717/

 對馬ノ雨森伯陽公とは、雨森芳洲公のこと。はからずも先日、白石氏を叱責したことに就て記すところがあつた。
  ■■新井白石公 番外 王號考■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/17401976/


 
 さて。魚屋ノ八兵衞大人に就ても、嘗て、當日乘で觸れたことがあつた。
  ■■平成の奇特な人たち■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16905302/
  ■■山陵志と今書■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16922717/

 魚屋ノ八兵衞とは、京都の魚屋河内屋の人、奧八兵衞大人、尊皇の人なり。
 奧八兵衞、後光明天皇の御宇に於て、御火葬あそばされることを哭き、ひたすら哀求、やがて雲上人に達し、朝儀に於て土葬の古に復された。明治四十年、贈正五位。


●『前王廟陵記』(卷の上)に曰く、
天子火葬の始は 持統天皇に起る』と。

●仝、「淳和天皇」項に曰く、
抑も火葬は天竺の俗なり。皇子の時、佛法、未だ我國に入らず。何の骨を散ずることこれに有らん。道昭和尚創めて宇治橋を造る、火葬は此の僧よりして始まれり。詳に續日本紀に見えたり』と。



●蒲生君平先生、『山陵志』 卷之一(享和元年正月)に曰く、
『夫れ、古の俗、其の鬼神に狎れて、齋盟を■(三水+賣)し、福を冥寞の間に求むる所以、固より民性蒙昧の爲、而、佛教の行に逮ぶ。是れに據りて衆志を■(手偏+覺)り、國權を獲、喪祭の紀を擧げて咸(みな)、之れが亂す所と爲らざるは無し。而、持統の喪より始めて火葬を行なふ。其の弊たるや、世に以て甚し。列子に、楚の南に炎人の國有り、其の親戚死す。その肉を朽して棄て、然る後、其の骨を埋む。乃ち孝子たりと成す。秦の國に儀渠の國有り、その親戚死す。紫を聚め薪を積みて之れを焚く、燻すれば則はち、煙上る、之れを登遐と云ふ。然る後孝子たりと成す。此に上以て政を爲し、下以て俗を爲す。而も未だ異と爲すに足らざるなり。夫れ然り。則はち夷蠻の喪固に是の如き者有り。而して佛の生るゝ所、身毒國或は儀渠と俗を同じうす。故に亦た火葬を行ふなり。後世、浮屠氏曾て之れを識らず。奉じて以て典章と爲す者、乃ち深く思はざるの過なり。持統帝の時、宇治の僧道昭、其の死して始めて火行を行ふ。然れども彼れは方外の士、固より怪しむに足らず。今、其の之れを大喪に用ふるに至る。亦た悲しからずや』と。



 

 恐れながら、火葬の御事に就き、先達碩學の御見識を拜記した次第であるが、關連して、もう一つ、記したいことがある。そは吾人が八兵衞先生をみて、自己を省察するところありとせねばならぬことだ。兔角、こゝ數十年か、「尊皇」てふ大旆を掲げる、所謂る運動家は、八兵衞先生に教はるところ大ではあるまいか。

 士農工商の時代にあつて、一介の商人に過ぎぬ「魚屋八兵衞」にして、尊皇の赤誠、かくの如し。
 八兵衞大人は、運動家を自稱した人ではない。國學者でもない。神道家でもない。今日の運動家と共通するところは殆ど、無い。所謂る、單なる市井の魚屋さんだ。態々他者から、尊皇家と稱されることさへ、おそらく望んでゐなかつたであらう。
 當たり前だが、ハンドマイクもない。スピーカーもアンプも、街宣車もない。キーボードもない。インターネツトだつてない。訴へる方法も手段も、共通するところ殆ど無し、と云うて宜い。
 だが、一つ、大きく共通するところがある。皇國の民であるといふことだ。もう一つ、志と情熱だつてさうだ。固より現代の 皇國民だつて、竊かに八兵衞先生に劣らぬ丈の素志を有してゐる士が存してゐると、野生は信じてこれを疑はない。

 大正デモクラシーから端を發する今日の運動を、野生は、殊更らに全面否定するものではない。
 されど、大正デモクラシー以前と以後の、所謂る「運動」概念が、大きく變化してしまつた事實も決して看過忘却してはならぬことだ。
 やればやるほど、熱心なればなるほど、失意を感じる今日の現状に於て、失意の原因は本當に「日本」にあるのだらうか。さなくば「時代」の所爲にす可きであるの乎。否、轉じて見遣れば、西洋から輸入された「運動」形態及び概念に問題があるのではあるまいか。
 一向に治療の見込みがないのであれば、そは、治療される可き側に問題があるのではなく、す可き側そのものに問題があるのか、さらずんば、す可き側の施術に問題があるのか、將た又た、す可き側の病巣の觀測に誤りがあるのだと認めねばなるまい。
 少なくとも、治療される可き側に問題なきことは、云ふまでもないからだ。何故なら、治療(坂本龍馬風に「洗濯」と云うても宜いが)される可き側とは、永遠不滅の、皇國であるのだから。
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by sousiu | 2012-04-26 21:14 | 先人顯彰

山縣大貳先生と、所謂る『明和事件』  

 寶暦事件に觸れたれば、明和事件に就ても觸れねばならない。
 兩者の時間を隔てること八年。政權が武門に下る凡そ七百年の時間からみれば、八年はほゞ同時期と見て差し支へあるまい。
 此の二つの事件は發生直後から、尾鰭をつけつゝ、西へ東へ、武士から町人までの口を借りて廣範圍を驅け巡つた。よつて當時から色々な書物が有つて、面白をかしく傳へたものまであり、隨分紛はしい説があるやうだ。中には擧兵の計畫があつた如く記してある書物もあるが、公平にみても、それを斷定するにはもう少しの研究が野生に必要だ。しかしいづれにせよ、吾人は歴史を讀み解くに當たり、かうした大膽な風聞を生ぜしめた微妙な時代の變化と、人心の願望をそこに窺ひ識ることが出來る。

●文部省圖書監修官 丸山國雄氏、『勤皇烈士に學べ 東京新聞社編』(昭和十八年八月卅一日「建設社」發行)に曰く、
『世に寶暦・明和と稱するが、寶暦事件とは、一部の堂上公卿が竹内式部の學説に基いて、神書を 桃園天皇に進講し奉れることが、攝家の忌憚に觸れて處罰せられたものであり、明和事件は山縣大貳が尊皇抑霸の思想を論じて幕府の忌憚に觸れて罰せられた事件である。
 これらの兩事件は、尊皇思想を鼓吹し、朝權發揚の端緒をなすものであつて、式部、大貳共に山崎闇齋の學説に屬するものであるが、兩者は相識の間に非ず、たゞ殆ど時を同じうして尊皇抑霸思想を唱へたに止まる』と。

 寶暦事件は京都に於て公卿方を導かんとし。明和事件は江戸に於て多數の門人を導かんとした。前者は堂上の忌諱に觸れ、後者は幕府の忌諱に觸れた。

 だが觀察すれば、兩事件が沒交渉の干繋であつたか否かは兎も角として、嚴正に云はしめれば強ち無關係の干繋では無かつた。
 寶暦事件の舞臺に於て、その主人公とも云ふ可き竹内式部先生は松岡仲良を師とし、後、松岡氏の誘掖により彼れの師である玉木葦齋先生に就て學んだ。葦齋先生は、崎門三傑の一人、淺見絅齋大人御一門。
 一方、明和事件の主人公と云ふ可き山縣大貳先生は、加賀美櫻塢先生を師とする。櫻塢先生は、是れ又た、崎門三傑の一人、三宅尚齋大人御一門。
 つまり、兩者とも山崎闇齋先生を源流とする、崎門の學派だ。さらば、自づと、その宿志は共通してゐること分明である。
 而、この兩者の事件は、江戸時代に幕を降ろす可くの前途に齎す影響、至大といふ點に於ても、吾人は共通視せねばならぬ。


 件の概略は、山縣大貳先生が江戸に於て、多くの門人に尊皇斥霸の所説を教授してゐたことが、上野圀小幡の領主織田美濃守信邦の用人・松原郡太夫や、同家領内にある崇福寺の住職梅叟ら心なき者共の個利、保身に惡用せられ、遂に幕府の知るところとなり、明和四年八月廿一日、主動者と目された山縣大貳先生が死罪、藤井右門先生(※下記詳細)が磔刑を宣告され、翌廿二日に刑に處せられた事件である。


※藤井右門公は、赤穗淺野家家老、藤井又左衞門宗茂の長男。幼名、吉太郎。
享保廿年、十六歳で京都に遊び、竹内式部門に入る。藤井大和守忠義の養嗣子となり、吉太郎より直明と名する。
寶暦元年、從五位大和守に昇任。八十宮御家司となり、皇學所教官を兼ねた。
寶暦事件が出來、江戸に出でる。名を「右門」と改める。
著書に『皇統嗟談』。尊皇の士、その人也。



 寶暦事件により京都を追放せられ、伊勢國に寓し、蓬莱尚賢大人(※蓬莱尚賢先生。内宮權禰宜、雅樂と稱し、詩歌文章を能くし、賀茂眞淵及び本居宣長大人とも相識にて、固より尋常の人に非ず、と傳へられる)のもとで過ごしたる竹内式部先生は、八年の時を經て再び歴史の一頁にその名を連ねることゝなる。明和事件の連累者と目せられ、島流しの刑を告せられ、その途次、三宅島の伊ケ谷村にて明和四年十一月廿日、濕病を患ひ逝かれたことは前記のとほりである。


 明和事件に就ては、これ以上詳しく書かない。書く必要を見出せない。
 小人が自己の立身榮達の爲めに、偉人の遠見なる計畫を挫かむとするのことは、今日に於ても決して珍しきことではないからだ。


 さらば明和事件を通じて野生の興味を注ぐ可きことがらは、寧ろ、山縣大貳先生とその思想に歸結せねばならない。
 よつて、大貳先生の主著『柳子新論』に就て、これを記す可きであると考へる。

贈正四位 柳莊 山縣大貳先生
●『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日『大日本明道會』發行)
『昌貞、字は子明、柳莊と號す。大貳は其通稱なり。享保十年(紀元二三八五)甲斐國巨摩郡篠田村に生る。天資頴敏にして豪邁、同國の人、加々美櫻塢に就きて學ぶ。櫻塢は三宅尚齋に學び、尚齋は山崎闇齋に學びたれば、昌貞の學風の本づく所自ら明なり。寶暦六年(紀元二四一六)江戸に來り、兵學教授の門戸を張る。藤井右門、竹内式部の徒常に往來す(※竹内式部先生の往來に就ては異説あり。野生は其の事實あらざりし見解を採るもの也)。其の兵法を講ずるや、江戸城を攻むるには南風に乘じて火を品川に放つべし等の語あり(※愚案。この發言者は大貳先生に非ず。右門公にあり)。遂に幕府の注目する所となり捕へられて殺さる。時に明和四年(紀元二四二七)にして、享年四十三なり。明治二十四年正四位を贈らる』
※米印の括弧のみ野生による。

●徳富蘇峰翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『彼(※大貳先生のこと)の言論は、之を竹内式部に比すれば、頗る露骨であり、且つ過激であつた。竹内式部は、只だ、古に託して、以て今を語りたるに止まつた。然も其の要は、破邪ではなく、顯正であつた。即ち朝廷自から學を修め、徳を立てなば、天下自から之を集らんと云ふに止まつた。されど山縣大貳の議論は、寧ろ破邪に傾いてゐた。其の要は、現状攻撃であり、現状打破であつた
『併し大貳の平生に就て見るも、將た當時の事情から察するも、大貳が徳川氏討伐の擧兵を企てたと思ふ可き節は、殆ど一も見出されない。~中略~ されど彼の忌憚なき言論、及び彼の昂々然として、世に處する態度が、或は物議を釀すの種子たることは、彼自身に於ても、決して氣付かぬことはなかつたであらう。彼は此れが爲めに、一死を覺悟した乎。そは揣摩の限りではない。然も何時厄運の其身に降り來る乎は、固より覺悟の前であつたらう』と。

●史學會理事長 三上參次翁、『尊皇論發達史』(昭和十六年四月十七日『冨山房』發行)に曰く、
彼の勤皇説としては、彼は一は古書を讀み、一は山崎系統學派によりて鎌倉以來大義名分の紊れたるを概き、世間甚しきに至りては 皇室を輕んじ却つて武家を尊び本末を誤りたるものあり、是れ必ず匡救せざるべからずと憤りたり。柳子新論中に盛に彼の説を吐けり』と。
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 上記、先人も斯く申してゐることから、以降、力めて、『柳子新論』の十三篇を抄録してみたいと思ふ。さて、「腱鞘炎知らず」の出番と、オタクの本領發揮だ。
 誤記誤謬のあらば、乞ふ、御教示下さらむことを。douketusha@ever.ocn.ne.jp
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by sousiu | 2012-04-26 00:23 | 先人顯彰

贈正四位 竹内式部先生評  

●香川敬三公、『竹内式部奉公心得書』(明治廿四年九月)に曰く、
嗚呼、今上ノ太政ヲ收復シ給ヒシ。慶應丁卯ノ歳ヲ距ル。一百餘年前。既ニ斯人有リ。明治中興ノ鴻業。固ヨリ  聖徳ノ然ラシムル所ト雖モ。其淵源スル所。蓋シ亦遠シ矣。予頃ロ偶マ此篇(※奉公心得書)ヲ得テ之ヲ讀ムニ。氣節凜然。忠誠ノ心自ラ言外ニ溢ル。人臣タル者ノ最モ當ニ服膺スヘキ所ナリ。反讀再三遂ニ印刷ニ付シ。以テ同朋ニ頒ツト云フ』と。


●星野恒博士、『竹内式部君事迹考』(明治卅二年七月卅一日「冨士房」發行)に曰く、
『抑、式部君の執る所は、王室の衰運を挽囘して昔日の隆盛に復し、幕府の政權を收め、萬機親裁に出でしめんと欲するの外、他念なし、然れども事本末あり、遽に其成るを求むべからず、故に先づ根本を培擁し、君臣心を一にして、古道を講究し、智を研き徳を修め、經邦治民の要を明にし、天下臣民の悦服を得、以て他日の機會を待たんとす』と。


●徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『式部は學者として、何等の永久に傳ふ可き著作を留めてゐない。されど彼の思想は、山崎闇齋に溯らねばならぬ。彼は靖獻遺言の一面に於ては、淺見絅齋の意見の代表者であり、日本書紀、中臣祓等に於ては、玉木葦齋の傳統を承くる一人だ。即ち何れにしても山崎闇齋は、竹内式部の本尊であり、祖師であり、先生であつた。~中略~ 然も深山の奧、木葉を潛る水滴の水は、やがて滔々たる長江大河となる。世に大なる支配者あるも、未だ思想の支配者程、大なる者はない。世に有力なる運動者あるも、未だ思想の傳播者程、大なる者はない。此點に於ては、山崎闇齋は勿論、其の孫弟子たる竹内式部の如きも、正しく其人だ』と。


●竹内式部先生追想一掬會編『贈正四位 竹内式部先生』(「一掬會」發行、戰前なるも發行年月は不明也)に曰く、
先生はなんとかして徳川幕府より政治を取りあげ、天皇御みづから國を治め給ふ在りがたい御代にしたいと日夜それのみ心にかけてゐられたのであるが、その忠義の志は人の眞似の出來ぬくらゐで「奉公心得書」といふものを書いて 皇室に忠義をつくすべきことをさとし門弟へ示されたこともある。その志をとげるには、先づ 天子樣に學問をしていたゞかねばならぬとかんがへられたのである。幸ひ先生の子弟としての公卿樣の中でも正親町、三條、西の洞院といふ方々がおそばにお勤めになるので、この方々から恐れ多くも時の 桃園天皇へ先生の講義を取次いで御進講申上げることになつたのである。それまでの 天子樣には御學問を遊ばさぬやうに徳川幕府がおとめ申してをつたが、それでは何日までたつても 天皇御みづから國を治め給ふといふことがおわかりにならぬので、先生は公卿樣方の力で御學問を遊ばすやうに願うたのである』と。
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●平泉澄先生、『日本學叢書 第六卷』(昭和十四年七月十五日「雄山閣」發行)に曰く、
『先生は崎門の傳統を受けて國體の根本を究め、此の原理に立つて當時の政治制度學問思想を批判し、今日の誤を正して往代の盛時に復せんが爲には、朝廷に正學を興すを以て第一の急務と考へ、是に於いて公卿の指導に全力を傾注せられました。 ~中略~ 是に於いて朝廷の學風一變し、上下競うて國體の學を講究し、古道を明かにせんとするに至りました。これこそはやがて明治維新の大運動の先驅となつたものとして、わが國の歴史に於いて最も注意すべき所の一つであります』と。
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●大久保次夫氏、『竹内式部』(昭和十八年十一月廿日「國民社」發行)に曰く、
『思ふに、式部の大義名分論に基く王政復古の志は、當路の壓迫に遭つて、これを實現するには至らなかつたが、その思想は、綿々として滅びず、明治維新の大立者岩倉具視も亦父祖の後をうけて、式部の學統に屬したものと謂はれる。明治の鴻業は、劍によつて成らず、學によつて成つたものであるが、その淵源に遡れば、水戸の大日本史、頼山陽の日本外史、又加茂、本居、平田等國學諸大人の著述による大義名分の思潮が、かの旺盛な尊王論を釀成したものである。又淺見絅齋の靖獻遺言、栗山潛鋒の保健大記等が、尊王論者の教科書となつた事も著明の事實である。併し乍ら斯くの如き大義名分論を以て、尊王の實際的運動の端緒を開いた者は、實に竹内式部を以て嚆矢とする』と。



 「竹内式部先生」措筆。
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by sousiu | 2012-04-24 00:10 | 先人顯彰

竹内式部先生の受難 

 承前。

 かゝる徳川幕府の壓迫を一身に被りたる京都にあつて、竹内式部先生の運動は、公家方有志に幾許の自信と勇氣を齎せたことか。否、言葉を精確に用ふる可きとするならば、竹内式部先生の運動及び、垂加神道と闇齋學が、だ。

 寶暦の御代、第百十六代 桃園天皇は、御英邁の 天皇にましました。
 桃園天皇は、寶算七歳にて御即位あそばされ、十五歳にして、山崎闇齋先生の學を講じ給うたことが記録に遺つてゐる。
 寶暦事件(寶暦七、八年)では、寶算十七、八歳の交であつた。

 侍臣徳大寺大納言公城卿は、「史記」を侍讀し、而、「日本書紀」に及んだ。(徳大寺公城卿日記)
 同卿は、即はち、式部先生の御門人だ。やがて、
主上 桃園院天皇英明に御座しまし、式部の學説を側聞あらせられ、叡感の餘り深く大御心を寄せさせられた』(本多辰次郎氏『歴史講座 勤王論之發達』)
 卿の欣感、果たして如何なるものであつたらう。我れらはその身にあらざれば、この大を計ることこそ能はざるも、これが大であること丈は拜察するに六ケ敷くあるまい。

 やがて式部先生一派の有志公家方々は、垂加神道の御進講に及ぶ。

 
 古言に曰く、好事、魔多し、と。かくして青天の霹靂は訪れた。
『一方に於て、徳大寺公城等が、千載一遇として、垂加説を、桃園天皇に鼓吹し奉りつゝあるに際し、他方には、容易ならぬ猜疑の眼を放つて此の形勢を眺め、方(ま)さに一大打撃を下さんとする者あるの危機に瀕した。竹内式部門人の一味は、此れに氣付いた乎、氣付かなかつた乎。何れにしても世の中の事は、彼等の思ふ樣に、平々坦々とは參らなかつた。
 然も此の如く打撃の手を、彼等に加へたのは、關東(※幕府のこと)の手筋ではなかつた。否な寧ろ其の張本は、公家仲間であつた』(徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』)

 竹内式部先生と御門人方々に愈々壓迫の手は伸びた。壓迫者は、問題ならぬを問題とし、事件ならぬを事件せしめんと欲した。その壓迫の發起人は、關白一條道香公はじめ、攝家、兩傳奏、而して吉田神道の本家、吉田兼雄氏であつた。

○本多辰次郎氏の曰く(仝)
『抑「日本書紀」神代卷は古來白川・吉田の兩家には種々の祕説がありて、御前講には必ず此の二家の中に於て、御進講申し上げる例であるのに、今垂加流の新説を宸聽に達することゝ成つたのは、二家に取りては大事件である、加之垂加流に於ては、卜部家の神道は佛説を交へて、我國古來の惟神の道で無いと非難する故、是等の家では默止すべからざる勢に進んで參た、かてゝ加へて種々な蜚語風説も傳唱せられ、非難攻撃が式部の一身に蝟集する事と成た』と。

○徳富猪一郎翁の曰く(仝)
『吉田家は、白川家と共に、堂上に於ける神道の本家だ。特に吉田家は先世以來、神道長上と稱し、全國の神職を總管し、神學の指南家だ。當時の主は、吉田從二位神祇權大副兼雄であつた。彼が斯く運動したのは、竹内式部が、自家の繩張を侵すを、安からず思うた爲めであらう』と。


 愚案。佛法を排斥するだけでなく、崎門學の大義名分論は、やがて討幕の急先鋒たる思想となつたことからも、幕府側にとりてみれば既に危險思想と看做されてゐた。畢竟、公家方内にこれを歡迎する人があると、一方、幕府による災ひを忌避せんとこれを歡迎すべからざる人が生じたのも無理からぬこと乎。後者を單なる公家内に於ける日和見主義の現状維持派と觀するは聊か酷評とも云へなくもなし。固より吾人が爲す可きは、後者を裁定することに非ず、後者を以て當時の朝野に於ける幕府の權勢如何に猛烈なるかを察する可し。而して、この時代背景に立たされた式部先生の運動と志を識ることが出來れば、それで充分である。
 式部先生は啻に當時の堂上にのみ勇氣と自信を示されたのではない。後進たる吾人に對して遺憾なく手本と模範を示された。奇しくもおよそ百年後、彼理來航あり。世情噪がしくあつて勤皇の士、陸續として、出でる可くして、出でた。有志は皆、京へ上り、對手たる幕府側も京を固めんと上り、京都は騷然たる歴史の舞臺と變化した。皇國に於て、これが變はるには、朝廷は沒交渉でないことを、寶暦事件の犧牲から百年後の式部先生の後進(吾人からみる先進)は學び、實行したのである。
 舶來の大正デモクラシーから端を發した多數決盲信者には、皇國に於ける式部先生の偉大が理解し難からう。諸國はいざ識らず、皇國に於て、これを清らかとするに、川に喩へれば、何十年と河口を掃除しても、そは空しくある而已。革命とは、弱者、非生産者、不平者をそゝのかし數の大を以て下から上に突き上げる運動だ。皇國にあつて維新は、いつも上から下に布告されるものだ。他國による解放運動、獨立運動の「宣言」と、皇國に於ける畏れ多き維新の「王政復古の大號令」を同一視する勿れ。

 閑話休題。桃園天皇に於かれましては、反垂加流一派による再三再四の上奏と諫言にも御納得あそばされず。あくまでも垂加神道とその學説を御抛却なされなかつた。
『至尊の垂加流に對する御執心は、決して尋常一樣ではなかつた。如何に女院や、攝家や、其他の者共が、手を代へ品を換へ、之を止めさせ給はんと企つるも、決してその通りに成させられなかつた。 ~中略~ 十八歳の御若齡として、其の強毅不屈にてましますこと、實に驚き入ると申すの他はあるまい』(徳富猪一郎翁、前掲書)


 然るに無念、非難蜚語陰謀もて、遂に式部先生は糺問せられた。固より罪名もあやふやであり、取調る側が押され、時に感動すらしてしまふことは、式部先生著述の『糺問次第』にもよつても明らかだ。苦慮した攝家一列は幕府の手を借りるに至り、所謂る公家主導、武家受動の關係もて到頭、式部先生は京都より斥けられ、御門人方々は永蟄居ほかを命ぜられ、式部派は排除された。桃園天皇の宸襟は如何なるものであらせられたか。徳富翁は『惟ふに、定めて血を絞る思をなし給うて』と恐察してゐる。

 竹内式部先生の無念も如何程のことであつたらう。京都を追放された式部先生は、御内儀、御子息の主計氏、御息女のしま氏の四人で伊勢の宇治山田に住むことゝなつた。
 その四年後の寶暦十二年。桃園天皇、寶算僅かに廿二歳を以て崩御遊ばされた。式部先生、入つてはならぬと嚴命された京都へ上り、御所の御前の芝生に泣きぬれて悼みまゐらせた。(徳大寺公城卿談)

 式部先生、この時の上京と、はからずも八年後に出來する山縣大貳、藤井右門先生他による『明和事件』の連累者として嫌疑を掛けられ、八丈島に流罪となる。至誠至純たる尊皇家に對する彈壓は、決して、安政の時代のみではない。立志する人は、總じて受難者たる可き宿命を避けられない。であるからこそ、その情熱は、尊い。
 式部先生、明和四年十一月廿日、途中の三宅島の伊ケ谷村にて病ひを患ひ、同年十二月五日、歿す。病名は濕病と記録に傳へられてゐる。
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 以下、本多辰次郎氏の觀察に從へば、「寶暦事件」は、時代の産ましめた悲劇とも云へるが奈何。
●同氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十三日「日本學術普及會」發行)に曰く、
『此の寶暦明和の事件は、一寸見れば關白達が只管幕府の御機嫌を取ることを勉めて居て、勤王の精神の發達を挫折せしめた樣に見えるけれども、式部は強ち過激の擧動を爲る人で無くとも、其の門人たる堂上衆の中には少壯活溌の人もあり、過激に流れはせぬかといふ憂もある、若し過激に亘るやうなことが有て、幕府から先手を着けられやうものなら、隨分上御一人に迄も御迷惑を懸けるやうな畏多い始末にならぬとも限らぬ、夫故關白とか武傳とかいふ責任の位置に在る人に取りては、大事に至らぬ前に處置する必要がある。何を申すも理論は力に勝つことは出來ぬ故、幕府の激怒を招かぬやう勉める必要が有るとすれば、近衞關白の處置は先づ至當と申さねばなるまい、併しながら公家方に於ては、斯る結果に終つたのは關白始め心に快き譯ではあるまい。心中は必ず哭いて居られたに相違あるまい、まして式部の門弟となりし堂上等の遺憾は幾何であらうか、陰忍に陰忍して、表面は一應沈靜に歸した樣なものゝ、裏面は一層敵愾心を強めたに相違ない、明治維新に參與した功臣には、此の時寶暦事件に關係した家の人々に比較的多いのも注目に値する事實である』と。
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by sousiu | 2012-04-23 01:50 | 先人顯彰

竹内式部先生と、時代背景 

 竹内式部先生の『奉公心得書』(ホウコウコヽロエガキ)に就て、香川敬三公は明治廿四年九月、前掲書にて斯く述べてゐる。
●從一位 勳一等 維新後樞密顧問官香川敬三公の曰く、
『奉公心得書一篇ハ。   桃園院天皇 =桃園院天皇ハ櫻町院天皇第一ノ皇子ニシテ聰明ニ渡ラセラレ[五字分墨字]頗ル  後光明帝ニ似サセラレシト云フ= 寶暦年間。權大納言言徳大寺公城。權大納言久我敏通。權大納言正親町三條公積。權中納言烏丸光胤。權中納言坊城俊逸。權中納言今出川公言。前權中納言岩倉恆具。右兵衞督高倉永秀。右中將高野隆古。少納言西洞院時名。左中辨勘解由小路資望。左中將中院通繼。左兵衞佐岩倉尚具ヲ始メ。朝紳廿餘人。王室ノ式微ヲ憂ヒ。竊カニ連署血盟シテ。王政復古ノ策ヲ計畫セラレシ時。竹内式部 =名ハ敬持、羞齋ト號ス= ナル者。同盟ノ朝紳ニ忠告砥礪スル所ノ文ナリ』と。※原文マヽ。
 香川公は、水戸藩士。維新前は神官同盟、陸援隊副隊長ほかを歴任し、皇國の中興の御爲め寄與するところ決して尠しとせなかつた人である。

 他方、史家の觀察眼もて之を尋ねるに、『奉公心得書』は如何なる價を見出す可き乎。
●徳富猪一郎翁、前掲書に曰く、
『今日より之(奉公心得書)を見れば、別段の寄説でもなく、卓論でもなく、亦た何等新異の見と云ふ可き程のものでもない』
『寧ろ餘りに平易、淡泊にして、此れが竹内事件の張本人の文字とも覺えられず。但だ天津日繼の 天皇が、神種神孫に在せば、一切を擧げて 天皇に奉仕す可しとの、所謂る 皇室中心主義を、眞甲より打出したる一點丈が、尤も聳聽するに足るものがある。惟ふに此の心得書は、僅かに彼が意見の一端を、語りたるに過ぎなかつたであらう』
『奉公心得書は、堂上方の門人に、其の朝廷に奉仕し、君側に勤務する心得を示したるもの。未だ竹内式部の學説の全豹を窺ふに足らぬ。されば他の方面に向つて、之を尋ねなければならぬ。ところが彼自からの書き殘したるものとては、殆んど無い』と。※括弧は野生による。

●大久保次夫氏の曰く、
『「奉公心得書」にしてからが、本書に彼の學説が披瀝されてあるものとは、到底考へられない。又本書は純粹な學術書では勿論ない。併しながら本書には、彼の思想、殊に 皇室に對する彼の思想が端的に示されてはある。これを知る事によつて彼の學説と稱すべきものが自らにして窺知し得るやうに思はれる。彼の本領とするところは、その學識や學説にあつたのではなく、寧ろその全人格的なひととなりの上にあつた如くであるから、この「奉公心得書」のみによつて彼の思想や、その思想的感化力を知らうとするのは、いささか的外れの感がなくもない。要するにその思想の一端を知る便宜のために、この書は理解されるべきである』と。

 上記理由に據りて、蘇峰翁は、竹内先生の御門人であつた菊地嘉典公の筆記したる『竹内式部神代卷口授』や他の資料を蒐集して、式部先生の御偉業を審らかに繙かむとする。一方、大久保氏は、竹内先生の師である山崎闇斎、淺見絅齋兩先生の思想から之を繙かむとす。※尤も蘇峰翁は、既に「近世日本國民史」で闇齋學に就て紙面を割いてゐる爲め、重複を避ける爲めに御門人に筆力を籠めたのであらうが。
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 されど野生は、御兩人による研究の成果をこのうへ茲へ抄録する作業を必要としない。
 當時の世相と、式部先生の功績を掲げることが出來れば、それを諒とする。



 式部先生の偉業の一端を識るには、式部先生の生きた時代を知らねばならぬ。
 寶暦を前後とするこの時代は、一體、如何なる状態にあつたか。
●大久保次夫氏(仝)
『言ふ迄もなく家康が、馬上に天下を掌握して、征夷大將軍に任じて以來、全國の政令は一に江戸幕府に發し、上は朝臣の任免から、下は三百諸侯の陟黜に至る迄、凡て朝廷の意思の如何を顧みることなく、獨斷專行を例とし、少しでも、幕府の志に違ふやうの事があれば、嚴重なる譴責を加へたから、畏くも歴代の 天皇におかせられては、何等か爲す所あらんとしても、しかも一として叡慮の如くになす事が出來ず、如何に些細なことにでも、幕府の干渉壓迫があつたのである。

 又京都に常置せられてゐた幕府の役人達は、畏多くも、皇室に關する諸經費を一錢でも半錢でも削減することに汲々とし。また斯くて諸費用を節減する事が多ければ多い程、功績拔群といふ事になり、他日の榮進が、約束されるといふ情ない情態であつたから、從つて例へば吉野山に櫻を見たいと思召しされても、それは費用がかかるから、所司代方面からの干渉があるといふわけであつた

 皇室でさへ、斯く迄御不自由な環境に置かれてゐたのであるから、宮中に奉仕する朝臣達の生活も從つて貧弱を極め、皆内職によつて、辛くも糊口を塗してゐたといふことである。併もその内職たるや、花かるたの製造だつたといふに至つては、寧ろ憤然たらざるを得ない』


 あまりにもと云へばあまりにも。幕府の權勢、その及ぶところ、今に記すも躊躇はざる可からざるものがある。

 かくなる時代下、榮華と富貴と權力を誇つてゐた江戸にあつて、京都に於ける竹内式部先生の活動と、鐵心尊皇の志を、吾人は敬服せずば止まず。
 然も、式部先生知つてか知らいでか、前途、青天の霹靂は式部先生の頭上に降されんことを。



 この締め方だと續けぬわけにはなるまい・・・。續く。
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by sousiu | 2012-04-20 14:37 | 先人顯彰

竹内式部先生と、所謂る『寶暦事件』 

 先日、新井白石を通じて正徳の時代を記した。
 それから五十年。征夷大將軍は、家宣から家繼、家繼から幕府中興の吉宗を經て、九代目の家重となつた。
 家繼の在任期間は僅か三年。その次の吉宗は、徳川家中興を成したるも、それを相續したる家重は、固より、その資格者の素質に乏しかつた。

●徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『寶暦明和の時代は、天下泰平、徳川幕府は、萬々世と祝ふ可き皮相を具へてゐた。然もそれは唯だ皮相だ。その暗流は、或は沸騰し、或は汎濫し、或は横溢せんとするの勢を生じ、且つ生せんとしつゝあつた。一言すれば、愚者には安心の持節で、識者には不安心の持節であつた。 ~中略~ (當時に於ける)國典の研究は、必ずしも直接に、幕府制度に對する打撃でもなく、脅威でもなかつた。國學者は寧ろ幕府の現状に向つて恭順であり、而して幕府の保護の下に、其の發達の若干を成就した。然も其の本質に於て、國學其物は、危險性を帶びてゐた。少くとも幕府制度と國學とは、其の根本觀念に於て、相ひ兩立し難きものがあつた。是等の事情は、國學の諸先輩も、果してそれを自覺したる乎。幕府の當局者も、それに氣付きたる乎。恐らくは當時に於ては、兩者共に無我夢中であつたであらう』と。
※括弧及び括弧内は野生による。

 そのやうな折、所謂る「寶暦事件」が出來した。

 「寶暦事件」とは何か。

●大久保次夫氏『竹内式部』(昭和十八年十一月廿日「國民社」發行)に曰く、
『寶暦事件とは何んぞや。簡單に云へば、それは、御好學にわたらせられた 桃園天皇に對し奉り、竹内式部の門弟であつた二三の近臣が、垂加流の學説を進講し、それが攝政關白などといふ上長と、幕府の忌憚に觸れ、近臣數多の解職處分と、竹内式部の追放といふ結果を來したところの、一見頗る簡單なやうで、その實勢の及ぶところ近世に於ける尊皇斥霸の實踐的運動の嚆矢をなしたといふ歴史上頗る意義深き事件の謂である』と。

 竹内式部先生に就て識る人も、殘念乍ら現代では多くあらぬのかも識れない。そは、野生にとつても、尊皇家にとつても、日本にとつても遺憾とす可きことである。竹内先生、決して國史の埋れ木に藏される可き人物でないことは、固より知る人ぞ、識る。そは、「寶暦事件」其のものの影響が、當時に與へたるその小ではなく、將來に與へたるその大なることを以て識る可しである。
●徳富猪一郎翁、同上に曰く、
凡そ徳川幕府時代を通じて、眇乎たる一個の浪人者として、竹内式部程、大なる問題を惹起したる者はあるまい。固より熊澤とか、山鹿とか、若しくは由井正雪とか、事件としては、隨分大なる波紋を時代に畫きたる者あつた。されど彼等の事は、一も朝廷には直接にも、間接にも、關係なかつた。云はゞ對幕府だけに止まつた。されど竹内事件は、朝廷の上に於ける事件だ。特に日本の近世に於ける尊皇思想の發達には、最も重大なる關係がある』と。
●本多辰次郎氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十五日「日本學術普及會」發行)に曰く、
『寶暦事件、此の事件は徳川時代に於て勤王運動の濫觴である。從來、尊王論を唱へた者は隨分ある。山崎闇齋でも、熊澤蕃山や山鹿素行でも尊王論を唱道した。加之、親藩の水戸義公なども尊王の精神の厚い事は其の言行に明かである。併しながら從來、是等諸士の論議は猶尊王、勤王と言ふに止まり、排幕斥霸といふ點までは論及して居ない。或は微妙な言外の意味までも論及すれば、排幕斥霸といふ事になるかも知れないが、兔も角表面にはソーは見えない。幕府は實權の中心として置て、扨て其の上に朝廷を尊崇し、王事に勤むるといふにある。然るに寶暦事件に至ては尊王斥霸の論鋒が鮮かに認め得られる。又單に著書や講説で説を立てたといふのみならず、多少運動と稱し得べき要素をも含んでゐる。此の二點に於て此の寶暦事件は、徳川時代に於ける勤王論の曉鐘と言はるゝのである』と。

 竹内式部先生は、山崎闇齋先生を學祖とする崎門學派に屬する人だ。殊に絅齋淺見安正先生の思想を承けられた、烈々火を吐くの大義名分論者であり、そして、尊皇家であつた。

 而して、特筆大書す可きは、竹内先生の御門人の主なる人々が、新進氣鋭の堂上公卿の諸公であつたことだ。
 一應、記録として、以下にその御尊名を拜記する。
   正親町三條帥大納言公積
   烏丸大納言光胤
   今出川中納言公言
   徳大寺大納言公城
   坊城中納言俊逸
   東久世中納言通積
   岩倉前中納言恆具
   綾小路宰相有美
   町尻三位説久
   伏原三位宣條
   植松三位雅久
   高倉右兵衞督永秀
   高野少將隆古
   西洞院少納言時名
   中院少將通維
   西大路少將隆共
   冷泉新少將爲泰
   勘解由小路左中辨資望
   日野右中辨資枝
   中御門權右中辨俊臣
   正親町三條侍從實同
   櫻井刑部權大輔氏福
   町尻右馬頭説望
   裏松左少辨光世
   岩倉左兵衞佐尚具
   船橋前右兵衞佐親賢
   六角兵部大輔知通
   高丘大藏大輔敬季
   錦小路典藥助頼尚
   七條左馬頭隆房
   他。(敬稱略)


 上記もて、竹内式部先生が、如何に、堂上に對して影響を把持したか、瞭然と云はねばなるまい。
 焉んぞ幕府の知らん、京都に於て竹内先生の點したる其の火は、やがて尊皇倒幕維新の狼煙となりて薩摩からも蝦夷からも見らるゝほどに揚がらむとは。
●大久保次夫氏、同上に曰く、
『式部が、その教育の實施に際し、四書五經、小學などの儒書の外、保建大記や靖獻遺言等を講義したことは、前にも述べた通りであるが、この間折に觸れ、時に應じて、天業恢宏の道を説き、皇室の衰運を挽囘して、これを我國本來の姿に還元せしむる爲めには、至尊を始め奉り、朝臣一統學問を勵み、古道を明かにし、治國安民の策を考究せねばならぬとの趣旨を強調したのである
『斯樣に式部の學問は、國體を重んじ、大義名分を明かにし、皇室に歸一するの思想を敷衍するにあつて、從つて彼は、單なる書齋的の學者でなく、寧ろ教育家的學者と言はるべきであつたが、既に前節で紹介した他の學者の如く、一代の文教を稗補したといふ事實は甚だ尠い。彼の面目は斯かる學説や思想を超えた人格の上に、即ちその教育者としての感化力の非凡であつた點にあるやうである』と。
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 昨夜、突如、三澤浩一先輩より電話あり。不吉な豫感がしたが、幸ひにも先輩はノンアルコールであつた。
 而も珍しく、河原イヂメは無く、眞面目な話で終始。期せずして、竹内式部先生の話題となつたので、今日今度びの記事を思ひ立つた次第である。


 惜しい哉、竹内式部先生の諸門人方々に與へたる著書は、『奉公心得書』のみだ。
 これから、締切りが遲れてゐる『芳論新報』を書き上げねばならない。
 『奉公心得書』に就て、續く、か、どうかは野生の氣分次第だ。
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by sousiu | 2012-04-18 23:34 | 先人顯彰

勤皇唱始 清河八郎先生  

●正三位、學習院教授、海軍中將、佐藤鐵太郎氏、大正十年天長佳節に曰く、
『天道是非の嘆あるは、眼前の成敗を以て、天意を忖度するの致す處にして、因果應報の天則は、嚴として常に明らかなり。東北諸藩たるもの必ずや、自ら省みて、首肯する處あるべきなり。而して、此時に際し(※明治御宇の初頭)最後迄王師に抗して、屈せざりし庄内が。當然嚴峻なる制裁を加へられるべきに反し、最も寛大なる處分を受けて、歸順の途に出づることを得たるは。一に、至仁至慈なる天恩の致す處なりとはいへ、抑もまた、之が因をなすものありて存するにあらざるなきを得んや。
 惟ふに。庄内の山河は、實に勤王の先驅者たる清河八郎を生めり。先生、志を當世に得ずして、常に白刃、身に薄るの危地に出入し、東潛西走、造次顛沛、安んずるの處なく、不幸終に刺客の毒刃に斃れ、恨を呑んで雄圖空しく畫餠に歸せり。人生の慘事。何物かこれに加んや。焉んぞ知らむ。天の庄内に酬るに、天朝の寛宏なる恩典を以てしたる所以のもの。實に、先生の孤忠を憐み、功を録して徳に、其郷里に報じたまへるにあらざるなきを』(大正十年天長佳節)と。(※は野生による)

●矧川志賀重昴氏、明治四十五年四月十四日、「正四位 清河八郎先生 五十年祭」(於淺草傳法院)に於て、祭壇下に立ちて述ぶるに、
『勤王論の提唱は、世人は薩長の專賣特許の如くに思ふが、焉んぞ知らむ。ずつとゞゝゝ其の以前に、而かも眞木和泉守と談じ、平野國臣、伊牟田眞風等を清河先生が頤使して薩藩に遊説せしむるに至つたのである』と。
 こは、いさゝか清河先生を見上げたものとして、他の先生を見下げた言辭であらう。清河八郎先生による『潛中始末』には、眞木紫灘先生と對面した樣子が記されてゐる。曰く、『下村より水田迄、八里の處、夜分に入りて相達す。水田と申すは、天滿宮の鎭守處にて、太宰府に續きたる九州第二天滿宮なり。則和泉守は、直弟大鳥井敬太方に蟄居せり。別に小一室を構へて、一切人に會するを得ず。併、近來は少しづゝ遊歴者などにも稀に會すると云ふ。~中略~ 思ひ寄らぬ尊客とて、此迄ありし事共、御互に相話し、自ら食物を製して、遠路を勞はる。如何樣人の信ずる程のある人物なれば、我も信の知己の如くに思はれ、西來の次第、其外とも別意なく相談す』とあるところをみれば、言辭は、畢竟、五十年祭に用意されたものであることが判る。とは云へ、過分となつた上下を足して半分で割つても、清河先生のその行動力と影響力、少々ならぬものであつたことが容易に識らされるのである。



 清河八郎正明先生とは。
 毎度の如く、徳富猪一郎翁の『近世日本國民史』から引用することを試みたい。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第四十六卷 ~文久大勢一變 上篇~』(昭和九年七月卅日『民友社』發行)に曰く、
『抑も浪人有志の中にて、尤も較著なる働きを做したるは、清河八郎、田中河内介を擧げねばならぬ。その中にも、清河の運動を以て、最も效果的とせねばならぬ。清河八郎は天保十年、羽前國東田川郡清川村に生る。本名は齋藤元司。自から地名によりて清河八郎と稱した。少にして不羈、弘化四年十八歳のとき、家を脱して江戸に赴き、東條一堂に學ぶ。而して同門の士、安積五郎と相得、兄弟の義を結ぶ。嘉永元年、東海道を經て京都に赴き、闕を拜し、勤王の志を起し、大阪、岡山、廣島等を巡遊し、歸途は高野、奈良、山田等を經、其の見聞を廣め、其の志氣を養うた。~中略~』

仝『九州の有志をして、決然として起たしめたるには、清河八郎の遊説の功、與りて最も大であつた。清河は當時の志士中にて、劍客であると同時に、學者でもあつた。~中略~
 彼は有馬新七、若しくは眞木保臣の如き主義の人と云ふよりも、寧ろ戰國時代の縱横、傾危の士と云ふ可き類にして、彼の志は尊皇よりも攘夷が主であつた。彼は固より其の目的の爲めには、手段などを頓著する漢ではなかつた。而して其の言行を見れば、誇大妄想狂者とも猜せらるゝ點が無いでも無かつたが、然も亦た決して非常識漢では無かつた。彼の意見は、九州の義士を募り、薩藩の力に頼りて、京畿に義旗を掲げ、主上を擁して、攘夷を斷行するにあつた』と。
 蘇峰翁も、誇大妄想狂者とは、これまた辛口であるが、されど、かく缺點をして若しも値引きされたとしても、如上の如き稱贊は清河先生の非凡たるを聊かも損なふものではない。寧ろ、これに華を添へるものである。
 それにしても、上記の言にはいさゝか補足が要せられねばならない。清河八郎先生は、「尊皇より攘夷」ではなく、時勢の趨くところ、清河先生の攘夷の炎が餘りにも激甚を極はめたるが故に、斯く見えたるに過ぎない。つまり、尊皇の志逞しくあるが爲めの攘夷だ。孝明帝の御心を奉戴したるが爲めの、必着すべき「攘夷」であつた。清河先生の、文久二年四月八日に御兩親に認めたる書翰によつて野生は斯く觀じるに至ることが出來る。
○清河先生、書翰に記すに、
今や夷狄、其外を侵す、幕府之を征する能はず。而して屡ば詔旨に違ふ矣。是に於て乎、天下士民始めて王權の衰廢を憂ふ。皆な徳川氏に背き、皇室を戴くの心有り。此乃天の此の際會を生ずる、誠に偶然ならざる也。陛下、善く此の際會に乘じ、赫然として奮怒せば、數百年頽廢の大權、復興す可き也。百姓數百年の罪、複謝す可き也』と。
 この書翰は所謂る「寺田屋事變」(文久二年四月廿三日)の約二週間前のもの。つまり世情も事態も切迫してゐた頃だ。よし清河先生がたとひ妄想狂患者であつたとしても、誰れしも感ずることなくんば能はぬ張り詰めたこの空氣の中で、覺悟した士の言に不實はあるまい。

 島津久光公上京に伴ひ計企された義擧は、からくも潛伏先の大阪薩摩藩邸内で祖語が生じ、清河先生は離別。爲めに寺田屋事件の遭難を免れたが、その後も油然として、尊皇攘夷の大旆を掲げるに至る。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第五十二卷 ~文久元治の時局~』(昭和十一年八月十日『民友社』發行)に曰く、
『清河八郎は、何れかと云へば創業の才の勝ちたる漢であつた。九州を遊説して、九州の志士を蹶起せしめ、之を驅りて上國に來り集らしたるも、專ら清河及び田中河内介等の力であつた。されば相當の順序から云へば、寺田屋事變には、彼は當然參加す可き一人であつたが、その以前に彼は仲間離れをして、却て其爲めに其の厄難を免かれた。彼は決して難を避くる怯夫では無かつた』と。
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 野生は、清河八郎先生を敬慕する餘り、これを過分に宣傳するでない。又た、淺識を趣味的にひけらかすつもりでもない。
 固より、清河先生を山師や繪圖師、將た又た妄想狂患者と看做すが限界の、「勤皇」なんたるかを解し得ぬ人に向うて當て付けるでもない。
 野生が清河先生から學ばむとする、それ、尊皇が觀念上に止らず、つひに勅許なき日米修好通商條約調印、和宮親子内親王御降嫁の問題が尊皇志士を奮ひ立たせ、つまり尊皇が觀念から實行に及び、畢竟、勤皇へと移行した時代にあつて、その時代に躍動した一人、清河先生の赤心と勇氣、行動と覺悟を學ばんとするものである。
 時代が人をつくるのか、人が時代をつくるのか、野生には何とも答へることが出來ない。
 されど、時代の變節に於て、傑物が要せられる可きは答ふるまでもない。

 さて。尊皇から勤皇へと異動せらる次の時機到來は果たしていつなのだらう。
 その到來に、吾人が備へておく可きは何であるか。
 今日記したる日乘は、今月四日の記事からからうじて一筋の繋がりを持たせてゐる積もりである。(ほめ殺されさうになつたことゝ、セレブマンシヨンの廣告は別として)

 野生は猶ほ、清河先生に就て、少しく記す可きところがあらねばならぬ。
 野生の筆力乏しきが爲め、文章の前後不覺に就ては諒せられ給へ。乞ふ不明及び不足な點は、書肆で入手する能ふ御本によつて之を充足せられむことを。


 
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by sousiu | 2012-03-09 08:21 | 先人顯彰