カテゴリ:先人顯彰( 47 )

西野文太郎烈士  

 西野文太郎といふ人があつた。
 長州藩士であつた西野義一氏の長男。慶應元年の生まれだ。
 肉體的には貧弱そのものゝ彼れは、一方では片意地なところが多分にあつたとか。
 友人から、膽力家、勤皇家と云はれると、得意になつた、と傳へられてゐる。(參考文獻、『大事件祕録』昭和十二年十一月廿七日「錦正社」發行)

 明治廿二年二月十一日の午前八時頃、時の文部大臣、森有禮が大臣官邸に於て暗殺された。
 刺客は、廿五歳の西野文太郎氏であつた。西野氏はその場に居合せた文部七等屬、座田重秀の仕込杖による三太刀を受け、漸く首の皮一枚を殘し、絶命した。

 森有禮は極端な歐化主義者だ。慶應元年、十六歳の時、藩主島津公の命を受けて倫敦に留學。その後、米國にも渡航。耶蘇教にも強い關心を抱くやうになり、而、日本人を未開と蔑した。明治十九年十二月、文相になり各縣を巡視、學校に招かれて訓話するに曰く、『日本人は、人に對して敬禮するのに、二度も三度も、頭の地に付くほど馬鹿叮嚀な敬禮をするが、頭を餘計下げる竸走をしてゐたら際限がない。あゝ云ふ時間潰しの虚禮を廢して、唯一囘だけ輕く下げる位にした方がよい。大體文明人はあゝ云ふ敬禮の仕方はしないもので、これから外國と交際するには、日本の未開な風習は徹底的に改良しないといかん』と説いてまはつた。
 遡れば、維新直後の廢刀論は、この森が口火を切つたものである。又た當時結成された輕薄極まりなきモダンボーイの結社「明六社」も又た、森が中心人物であつた。ほかにも「國語外國化論」の首唱者でもある。
 そんな森に纏はり、伊勢神宮不敬事件が新聞紙面を賑せた。森が伊勢の皇太神宮に於て、不敬ををかしたといふものである。これは後々、デマであるとの説も浮上するが、眞僞のほどは瞭然としない。ともかく森が斯くも新聞社に疑はれるべく、同時に、その報道が讀者に容易に信じられるべくした人物であり、西野氏の義憤忽然として燃え上がらせる理由としては充分であつたことは間違ひあるまい。
 斯くして義擧は、出來するべくして出來した。
  參考、◆◆刺客 西野文太郎の傳◆◆ ↓↓↓↓
  http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781850/1


 『大事件祕録 第四篇』(仝)に掲載される、村雨退二郎氏の記述が興味深い。
 曰く、『明治の刺客と云へば、大抵相當腕の立つ人間が多く、從つてその對格等もガツシリとしたのが普通であるが、西野は身長僅かに四尺九寸、よほど小男の方だ。その上平常からあまり健康の方ではなく、友人と腕押しをやつても一番弱く、劍道等も出來なかつた。その點では明治十五年に板垣を刺した相原尚聚と共に、刺客中の例外に屬してゐる。
 併も相原は絶好の條件の下に於て三度刺して遂に致命傷一本も入れることができなかつたのに反し、恐らく體力に於ては相原以下であつた彼が、唯一刀で森有禮を死に致したといふのは、殆ど奇蹟に近いと云つて好い位だ。
 その意味では、西野は明治維新暗殺中に、類例のない特異な刺客であつたと云ふべきだらう。多くの刺客は、勿論對手の隙を狙ふことに變りはないが、西野の如く進んで敵を欺いて敵に虚を作らせ、それに乘じて一擧に之を仆すといふほどの狡智を働かした刺客は餘りこれを見ない。
 のみならず、彼は自分の體力といふものを充分に測つてみて、到底正面から刀を揮つて斬り懸つても成功しない事を心得てゐたにちがひない。彼は前から立向はないで、横から飛懸つた。人間は前後に進退することは自由だが、横に動くことはあまり得意ではない。そこに虚がある。西野は森の腰を掴み、下腹部に出刃庖丁を突刺し、然も一刀必殺の意氣込みで、打たれても蹴られても離さず、背部に刃先が突き拔けるまで抉り續けた。恐るべき執拗さである』と。


 こは、氏の信仰するものが正に涜されむとする、その純々然とした怒りの發現に他ならない。西野烈士のみならず、山口二矢烈士も、小森一孝烈士による所謂る「風流夢譚事件」も、政治鬪爭や思想鬪爭の範疇に留めて置く可きではない。
 西野烈士は、宮城前を通り掛かると、決まつて、地面に平伏して拜禮したので、友人から「立つて最敬禮する法もあるのに、態々高山彦九郎みたいな事をして着物を汚さなくてもよいぢやないか」と云はれたといふ。
 信仰心を如何に考へるかはそれゞゝあるとしても、かうした至誠至純の心がより嵩ずるの折、まゝ時代の變革を促進させることは、吾人は歴史の上からも否定するわけにはいかない。明治維新の原動力が、神道に無關係でないことは説明するまでもない。

 先般、京都市にある高山彦九郎先生像に、白ペンキを投げた癡漢がゐるといふ。單なる惡戲であるか何であるのか野生に知る由もないが、地元の住民をはじめ高山彦九郎先生を崇拜する有志としてみれば、物質的損害に猶ほ倍して餘りある心情的悲痛を感ぜざる能はざることは拜察するまでもない。
 世は閉塞の感止み難く、人心汲々以て世知辛く、このやうな世相であるからこそ、日本人は科學萬能熱より頭を冷やし、信仰するの心を見直さなければならない。
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by sousiu | 2012-01-24 01:21 | 先人顯彰

意識革命の先達者、山鹿素行先生  

 斷つておかねばなるまいが、野生は、近年の保守層が總て似て非なる可しであるとか、或いは不見識であるとか云うて徒らに中傷するものではない。
 然るにても戰後の保守派陣營に、純然實直なる尊皇家が少くなつてきた事實は事實として認識す可きである。サンケイの如きを日本マスコミの良心と看做していさゝかも憚らぬ保守派の多くあることが、それを語つてゐるやうなものだ。
 尤も正統保守、良識派の全員が壇上より撤退したとは思はれない。或いは妖しげな自稱保守派が跳梁跋扈し大手を振つてゐるので斯く感じるのか、野生は精しく識るものではない。いづれにせよ、その一部の眞正にして生粹の有志が、今猶ほ螳螂の斧を揮うてゐることもまた見逃す可からざる事實である。

 保守を自認する人達が街頭に出てきて數年がたつ。彼れらは幟やプラカードを持ち、デモ行進に盛だ。自らを「行動する保守」と云ふ。憂慮に堪へぬ者、おのれの身を書齋の前に措くも安する能はず、街頭に出でて時には憂憤の一語も發せんとする氣にならうと云ふものだ。不安定な御時勢であれば、當然の成り行きだ。
 一方では、これまで街頭を主戰場としてゐた行動右翼が、克苦精勵、勉強に專心する者も増えてきた。何だかあべこべで面白い。
 行動右翼には熱血の士が多い。犧牲的精神も旺盛だ。驚く可き哉、贊ずる可き哉。事業に專念すれば屹度成功したであらうと思はれる人が財を惜しまず運動に時間も私財も惜しまず投じ、或いは平穩無事に生活してゐたにも關はらず一念發起憤然蹶起して囹圄の身となつた御仁も少くない。その爆發的な瞬發力や不屈の精神力、犬馬の勞も厭はぬ繼續力は、時に巨大な岩をも動かす。かうしたエネルギーの持ち主が、更らに思想、見識、理論などを研磨し保守派の論壇に加はつた時に、それ期待するところ大と云はねばなるまい。而もさうした熱血人士が研學は、いつまでも机上の理屈や書齋的空論に止る能はず。元來が活動主義の資質を有してゐるわけであるから、街頭以外の活動の場も新らたに開拓する能ふこと必至である。

 野生の道友や後輩も、志學の氣概を逞しくする人が増えてきた。圖南の翼を持した彼れらから野生は教はること決して少なしとせない。
 以謂くは戰後世代各々が、不可抗力として植ゑ附けられた戰後史觀、日教組史觀から自らが脱却を實現し、而、江湖にその呪縛からの解放を呼び掛けるものでなければならない。それ一ト口に“勉強”とは云うてみても、自己に根付いた日教組史觀を木っ端微塵にするまでには、中々大變な作業だ。一々名前を列擧することは控へるが、日乘を拜讀する限りに於て、試行錯誤や苦學の跡が伺へる人があつて、まことに敬意を表するものである。
 已んぬるかな、今に云うても仕方なきことであるが、戰後の教育界がもつと確りしてをれば、この分の勞力は、少からず省略出來た筈なのだ。

 それを考へたとき、先人は進んでゐることが識れる。およそ四百年前、已に山鹿素行先生は、徹底とした日本第一主義の信念を抱き、日本を以て「中華」「中國」とさへ明言してをられる。
 比して今、日本の保守を自稱し乍ら、支那を中國と尊稱し躊躇はず、あまつさへ耶蘇暦を愛用する人ら少からずあるをみるに、野生が冒頭の言に至るも決して無理からぬ觀測であると諒せられよ。


山鹿甚五右衞門先生、延寶三年『配所殘草』に曰く、
我等事以前より、異朝之書物を好み、日夜勤め候ふて、近年新渡之書物は存ぜず、十ケ年以前迄、異朝より渡り候ふ書物、大方殘らず一覽せしめ候ふ。之に依つて覺えず、異朝の事を諸事宜く存じ、本朝(即はち、皇國のこと也)は小國故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出來候ふと存じ候ふ。
此の段は我等ばかりに限らず、古今之學者、皆、左樣に心得候ふて、異朝を慕ひ學び候ふ。近頃初めて此に存じ入り、其れ誤りなりと知り候ふ。耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てゝ遠きを取り候ふの事、是非に及ばず。誠に學者の通病に候ふ。詳らかに中朝事實に記し候へば、大概を爰に記し置き候ふ
』と。(原文は漢文。括弧は野生による)

 素行先生の茲に云はれる「異朝の書物」を、所謂る「權利」であるとか「民主」であるとか畢竟するに西歐の思想と置き換へて現代を觀察すれば如何。誰れか、素行先生の、ひとり舊き御苦情と一笑する者あらむ。


 又た曰く、仝
『本朝は、天照大神之御苗裔として、神代より今日まで、其の正統一代も違ふ候ふこと之無く、藤原氏補佐之臣まで、世々斷えずして、攝■(「竹冠」+録=ろく)之臣相續き候ふの事。亂心賊子之不義不道なること之無く候ふ故なり。是れ仁義之正徳甚だ厚きなる故にあらずや。次に神代より人皇十七代迄は、悉く聖徳の人君相續あり。賢聖の臣補佐奉りて、天道の道を立て、朝廷の政事、國郡の制を定め、四民の作法、日用衣食、家宅、冠婚葬祭の禮に至るまで、各々其の中庸を得て、民やすく國平らかに、萬代の規模立ちて、上下の道明らかなるは、是れ聰明聖知の天徳に達せるにあらずや。況んや武勇の道を以て曰はば、三韓を平げて、本朝へ貢物をあげ、高麗を攻めて其の王城を落し入れ、日本の府を異朝に設けて、武威を四海にかゞやかす事、上代より近代迄然り
本朝の武勇は、異國までも恐れ候え共、終ひに外國より本朝を攻め取り候ふ事はさて置き、一ケ所も彼の地へ奪はるゝ事なし。されば武具、馬具、劍戟の制、兵法、軍法、戰略の品々、彼の國の及ぶ處にあらず。是れ武勇の四海にまされるにあらずや。然れば、智仁勇の三は、聖人の三徳也。此の三徳の一つもかけては聖人の道にあらず。今此の三徳を以て本朝と異朝とを、一々其の印を立て校量せしむるに、本朝遙るかに勝れり。誠にまさしく中國といふ可き所、分明也。是れ更に私に云ふにあらず。天下の公論也。上古に聖徳太子ひとり異朝を貴びず、本朝の本朝たる事を知れり。然れ共、舊記は入鹿が亂に燒失せるにや、惜しい哉、其の全書世に顯はれず』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ。括弧は野生による)


●遡ること、寛文の九年、素行先生、『中朝事實』序文に草して曰く、
『~略~ 愚生、
中華(皇國のことなるべし)文明の土に生まれて、未だ其の美を知らず、專ら外朝の經典を嗜み、■(口+「謬の右側」=かう)々其の人物を慕ふ。何ぞ其れ放心なる乎、何ぞ其れ喪心なる乎。抑も妙奇なる乎。將た尚異なる乎。夫れ
中國(しつこいやうだが、皇國のこと)の水土、萬邦に卓爾し、而して人物は八紘に精秀す。故に神明の洋々、聖地の綿々、煥乎たる文物、赫乎たる武徳、以て天壤と比す可き也』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ)



 嘗て林道春(羅山)といふ痴れ者があつた。道春は徳川の御用儒者だ。而、骨髓まで汚染された慕夏主義者だ。道春は、我が相模國の痴漢、廉恥も教養も將た又た神罰をも識らぬ中巖圓月なる僧が主張したる「天□中國人説」に同調した腐儒者の極はみだ。
 しかしながら斯くの如き道春が、幕府御用學者の權威を擅恣したその一事實を以て、如何に當時の學問が歪みに淫してゐたか察せられよう。當時幕府による嚴しい統制下にあつた時代を鑑みれば、今日の日教組の影響と同日の論ではあるまい。
 素行先生は弱冠九歳にして、この道春の門下に遊んだ。されど聰明なる素行先生は、克苦求學を累ね、遂に道春と當時瀰漫してゐた支那崇拝思想、事大主義に一大斧鉞を加へた。
 素行先生の學統には後の吉田松陰先生あり。松陰先生の高弟に維新の傑物が續出したことは何びとも識るところである。



●蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 徳川幕府上期 下卷 思想篇』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)に曰く、
『彼れ道春は、我が 皇統を以て、或は呉の太伯に、或は夏の少康に繋いでゐる。而して彼が此の思想は、彼の子春齋の、本朝通鑑を編するに至る迄、蹈襲せられ、日本の始祖を、呉の太伯の胤と特筆するに至つた。
 惟ふに道春父子の此の思想は、必ずしも史實に根據したる、確乎たる見解にあらず。唯だ其の胸中に充滿したる慕夏思想よりして、斯く判定したるものであらう。是れ尚ほ今日の日本に於て、故らに白皙人種を崇拜するの餘り、日本人を以て、異色人種にあらず、白皙人種なりと云ふの類であらう。而して素行の中朝事實は、此の慕夏思想に向つて、一大正面攻撃を與へたものである。素行は單に日本と支那とは、水土の殊なるが爲めに、支那流儀を、その儘日本に應用す可からずと云ふに止まらず。直ちに日本を以て、中華とするものである

 又た曰く、
後來、會澤安(正志齋)の新論の如きも、其の感化を、一般社會に及ぼしたる點は、中朝事實に比して、數倍乃至數十倍なる可きも、其の日本第一主義、日本至上主義の鼓吹者としては、固より此の中朝事實に、數歩乃至數十歩を讓らねばなるまい。彼の前にも、彼の後にも、諸般の思想を把持した者はあつたに相違ない。然も未だ彼が如く張膽明目して、之を闡明、論究したものは無かつた。此點に於ては、彼れ山鹿素行は、確かに同時代の第一人者であつた』と。

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by sousiu | 2012-01-11 01:22 | 先人顯彰

河上彦齋先生 

 過激な攘夷家と云へば、河上彦齋先生を忘れることが出來ない。
 肥後の彦齋先生を記する忘れるならば、もつこすゞきだ君から苦情が寄せられてしまふ。
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 勝海舟翁の談話に曰く、
 『澤山な刺客に會つたが、河上彦齋丈は恐ろしかつた』と。如何に當時の要人をして恐怖せしめてゐたか窺ひ識れる。

 亦た、河上彦齋言行録をみるに、
 『彦齋の長州に在る時、桂小五郎と一見舊知の如し後、彦齋、小五郎と京都に會し、共に手を握つて時事を談す。小五郎説稍々攘夷の爲すべからざるを云ふものゝ如し。彦齋忽ち髮立ち眦裂け直ちに起つて(怒つて、乎)小五郎の鼻を捻み大喝これを叱して曰く、足下も此説をなすか、と。小五郎は只默然として已むと明治四年小五郎朝命を奉して歐洲に航するや竊かに玉乃世履を招きて之に託して曰く、足下肥後の藩士河上彦齋と云ふ者を知らずや。彼洵に一世の豪傑と云ふべし。然れども今猶攘夷の説を唱へ頑として動かすべからざるものゝ如し。思ふに他日國家に■(不明)毒を流し文明の針路を支ふる者は別人にあらすして必す彦齋ならん。足下願くは吾の未だ歸朝せざるの前に於て之を除くの計をせよと。世履も亦之れを然りとして退いた、と』とある。括弧及び括弧内、野生による。

 彦齋先生は狂人のごとく、「人斬り彦齋」として恐れられてゐた、と傳へられてゐるが、果して奈何。



●澤田和一氏、『死もまた愉し 勤皇志士河上彦齋の生涯』(昭和十七年八月「長谷川書房」發行)に曰く、
『文久、元治から慶應年間にかけて、彼の手にかゝり最期を遂げたものは、かの佐久間象山を始め十數人に上つてゐるといはれてゐる。そこで、世間の一部では、東の近藤勇(徳川方、新選組の隊長で後官軍の手で斬らる)に對し、西の中村半次郎(後の桐野利秋であり、陸軍少將となつたが西南の役で戰死)とわが河上彦齋を『殺人三人男』と稱し、或はまた薩摩の田中新兵衞(姉小路暗殺の嫌疑を受け自殺)と土佐の岡田以藏(武市半平太の門人で獄中で同志の祕密をしやべつて沒落したといふ)それに河上彦齋を加へて、殺人の三名人といひ、さらにまた河上彦齋に對しては「人斬り彦齋」などゝいふものがあるが、それは大衆小説などが興味本位に取扱つただけのことであり、彦齋は他の四人はいざ知らず、故なくして人を斬るやうなことは一度もなかつた。尊王の大義を阻止するもののみを狙つたのである』と。括弧及び括弧内、原文マヽ。

 彦齋先生は、單なる狂犬にも似た攘夷家ではない。正しく尊皇攘夷の士であつた。


●太田天亮翁、『維新史料』(「野史臺」發行)に曰く、
『彦齋、人と爲り白哲精悍、眼光人を射る躯短にして齒出つ。人に接する恰も婦人の如し。幼にして奇氣を帶び常に謂て曰く「大丈夫雄を亞細亞の中央に稱へずんば當さに獄に倫龍の府に繋がれんのみ」と。其氣宇の豪邁斯の如し』と。

●元治元年七月十一日、祇園社前の榜にある斬奸状に曰く、
『松代藩 佐久間修理
此者元來西洋學を唱ひ交易開港之説を主張し樞機方へ立入 御國事を誤候大罪難捨置候處 剩へ奸賊會津彦根二藩に與同し中川宮へ事を謀り恐多くも九重御動坐 彦根城へ奉移候義を企 昨今頻に其機會を窺候大逆無道 不可容天地國賊に付即今日於三條木屋町加天誅畢
但斬首可懸梟木に之處白晝不能其儀者也
元治元年七月十一日
皇國忠義士』
(この者、元來西洋學を唱へ交易開港の説を主張し、樞機方へ立ち入り、國事を誤り候大罪捨て置き難く候ところ、剩へ奸賊會津・薩摩二藩に與黨し、中川宮へ事を謀り、恐れ多くも九重を御動坐、彦根城に移し奉り候義を企て、昨今頻りに其の機を窺ひ候大逆無道、天地に容るゝ可からざる國賊に付き、今日三條木屋町に於て、天誅を加へぬ。但し斬首して梟木に懸く可きのところ、白晝其の儀に能はざるものなり)

●吉武定夫氏『河上彦齋』(昭和二年三月「河上彦齋建碑事務所」發行)に曰く、
『先生が象山を暗殺したのは單に開國論者と云ふばかりでなく、遷都を企て討幕の計畫を破壞したのが主因であつた』と。


●彦齋先生、林櫻園先生の門に入りて皇學を修め、感激して曰く、
『國體の大本に通ぜざれば敬神尊王の道を全うするを得ず。敬神尊王の道全うして始めて世道を興し人心を正しうし以て邦家の治平を永遠に保維することが出來るのである』と。


 さて。慶應四年正月十五日、明治天皇は御年十七歳にして元服を加へ玉ひ、新政府の組織成ると共に、施政の大方針を天下に宣し給ふた。而して同年三月十四日、紫宸殿に御しまして、維新五箇條の御誓文を御宣誓あらせられた。彦齋先生この時は獄中。

●澤田和一氏は『彦齋若し自由の身であつたならば(慶應四年三月十四日の時)、欣喜躍雀として錦旗の下に大いに翼贊し奉り、幕軍を惱ましたであらうのに・・・。獄舍にある彦齋としてはどうすることも出來なかつた。只獄卒どものさゝやきを聞いてはこの空氣を知り、端然として 皇居の方をふし拜み、大業の完成をひたすら祈るのみであつた』と記してゐる。

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 犧牲者は時代變轉の前にばかりあるものではない。變轉後にもあるのである。
 皮肉にもかくもおほくの、尊皇攘夷を唱へる先達によつて、皇國の中興は遂げられ、今又た再びこの一大事業を必要としてゐる。
 これから栃木縣へ向かはねばならぬので、尻切れ蜻蛉の感があるが、彦齋先生の攘夷運動に就ては他日又た、機を得て愚論を記したく思ふ。
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by sousiu | 2011-10-23 14:24 | 先人顯彰

從四位 大橋訥菴先生に學ぶ  

 體調が芳しくなく、またゝゝ更新が遲れてしまつた。
 いつまでも若い積もりでゐるものゝ、野生も本年は大厄。あつちが痛くなればこつちが痛くなるはで、集中力も缺けてゐる。
 これでは日乘ではなく、週乘だ。・・・面目ない。

 今週は大橋訥菴先生の『闢邪小言』を拜讀。大橋訥菴先生は幕末に於て、野生の頗る關心を懷かずにはをられぬ御一人である。『闢邪小言』は、野生の豫てから是非、一度拜讀したいと思うてゐた書籍にて。今度び、比較的安價で入手する機を得たので、雀躍し、一氣に拜讀した。
 訥菴先生は云ふまでもなく所謂る急激な尊攘家。幕末の尊皇攘夷運動に少からずの影響を與へ、所謂る「坂下門外の變」で著明な先覺の士である。

●文久紀元辛酉九月、大橋訥菴先生の上書した意見書に曰く、
『~前略~ されば當今の朝廷は、御微弱に似て實は強く、關東の幕府の方は、外面強大に似たりといへ共、其實は人心離れて、衰弱殊に甚だしく、朝廷は天の眷顧を得たまふて、勃興あるべき氣運に向ひ、幕府は皇天に見離されて、斃るるに近き時節なれば、少しも猶豫狐疑するに及ばず。天下の義士を奮興せしめて、天祖へ報答ある可きことなり。今まで微弱にましましつる、天朝の御威光も、是より古に復せられて、寶祚の無窮に至らんこと、瞭然として火を觀るが如し。誠に愉快のことに非ずや。是某が巨罪を忘れて、かゝる鄙論を艸定し、若し芻蕘に詢ひ玉ふの時もあらば、速に身を闕下に致して、策を獻ぜんと欲する所以なるのみ』と。


○蘇峰徳富猪一郎翁、昭和九年七月卅日『近世日本國民史 文久大勢一變上篇』(明治書院發行)に訥菴先生を評して曰く、
大橋訥菴の眼中には、固より幕府なし。彼は決して公武合體など生ま温き意見にて滿足す可きではなかつた。彼は倒幕と攘夷を以て、其の旗幟としてゐる。其の目的が攘夷にありて、其爲めの倒幕である乎。將た倒幕の爲めの攘夷である乎。恐らくは彼の本志は前者であつたであらう。彼は心からの攘夷論者であつた。然も同時に彼は勤王論者であつた』と。



 訥菴先生は單に攘夷の氣勢を四方に發し、啻に義徒の蹶起を煽動せんとするものではなかつた。
 寧ろ血氣にはやる義弟、淡如翁をはじめ宇都宮、水戸の義士、他、草莽志士の老中安藤信正要撃計畫の軍師に推さるゝも是れを再三固辭してゐる。曰く、『時期尚早、いづれ朝廷から、攘夷の大詔煥發せられんこと遠くはあるまい。その際には諸君は淡如(義弟)を主將として、宮の御供いたされよ。我自らは上京して、西國の諸大名に遊説し、京都に於て義旗を擧げん』と。訥菴先生の本旨は、京都に上書し、攘夷の大詔が煥發されて羲兵を擧げることであつた(近世日本國民史、仝、參考)。
 されど騎虎の勢ひ止まる能はず。訥菴先生、同志の相次ぐ必死懇願に、遂に安藤要撃の斬奸趣意書に筆を加へ、同盟規約書を作つたことが禍因となり、幕吏の網に罹る。而して、同志の動搖と憤慨は、「坂下門外の義擧」へと行き著く。
 結果的にみれば、時代の大變革といふもの得てして、橋本景岳先生や吉田松陰先生、そして訥菴先生のやうな犧牲者の存在が必要とされるかも識れない。

 さて。『闢邪小言』は、元(總論)・亨(西洋は窮理を知らず、西洋は天を知らず)・利(西洋は仁義を知らず、西洋は活機を知らず)・貞(或問)の四卷から成り、終始只管ら西洋を罵倒したものである。加へて、當時の儒學者、大家が、西洋かぶれしてゐることを憤慨して、これをも罵倒してゐる。
●思誠塾 大橋訥菴先生、安政四年丁巳春王正月『闢邪小言』(江都思誠塾)に曰く、
『近世は西洋の學と云もの、盛に天下に行はれて、人の貴賤となく、地の都鄙となく、拂郎察(ふらんす)の、英吉利(いぎりす)の、魯西亞(をろしや)の、共和政治のと言ひ噪はぎて、我も我もと其學を治め、競ふて戎狄の説を張皇するは、聖道の爲めにも、天下の爲めにも、彗孛にまされるの妖■(「上」薛+「下」子=げつ、禍ひの意なり也)と云べし。されども一人も其邪説たるを辨明して■(手偏+「右上」立+「右下」口=ほう)撃攻討する者なく、滔々として日に其途に趨くは、歎すべく憂ふべきの至にして。さて其説を奉する輩の無識なるは深く憫れむべきことなり。其初は疇人醫師の類など、洋説の新奇なるに喫驚して、彼れ是れと唱へつる程の事なりしに、後は次第に滋蔓して其風武士に浸淫し、兵法も器械も、西洋の制ならでは實用に非ずなど云ふほどこそあれ。やがて儒生と號稱して悍然と百家の上に位する者どもゝ、其妄説に雷同して、彼徒の狂■(「左」“稻”の右側+「左」炎=解讀不能)を助くる輩のあるは、誠に如何なることにや。~中略~ 今の西洋の學の如きは、邪誕妖妄の尤なる者にて、其説天下に盛なれば、生民の耳目を塗り、人を汚濁に溺らして、自然と社稷の命脉を壞り、聖人の大道を榛蕪せしむることなるに。それにも心の附かざるは、今まで多年の間、何事を講求して、聖學と思ひつるかと其識見の程も量られて、憫笑嗟歎に堪へざる也』

『然るに今の西洋は、諸邦を呑噬蠶食して、豹狼に均しきのみにはあらで、久く異志を蓄へて、覬覦の念ある賊にあらずや。覬覦の念ある賊なれば、即ち國家の大讐なり。假令ひ戎狄に非ずとも優恕すべき理りあることなし。況てや純然たる戎狄なれば、苟も丈夫たらん程の者は、常に敵愾の心を懷きて、彼(西洋戎狄)を唱ふるだも、口を汚すと思ふべきに、今は冠履を倒置して、戎狄大讐を惡むことを知らず。彼れが説を尊崇して、甘んじて腥羶の奴隸となり、或は彼が服を服し。或は彼が言を誦し。或は彼が名を戴き。彼が説を張皇して、揚々として恥ざるは、心に於て安しとするや、それを安しとする心なれば、廉恥の種子の絶えたる者にて。化して異類となれるに近し』と。
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 大橋訥菴先生の痛罵は、單に西洋戎狄のみに非ず、歐風邪説のみに非ず、これを心醉し聊かも疑はない幕府要人や學者に激しく向けられてゐる。訥菴先生の思誠塾が、彼れらからみて不逞浪士の巣窟と要注視され常に監視されてゐたのも決して理由なきものとしない。
 訥菴先生の西洋に對する罵倒の内容は暫く措くとして。野生が訥菴先生の攘夷論を拜して時下の排外思想や運動に與みする可からざる理由を茲に掲げんに、先人の過激な攘夷論者は訥菴先生のごとく、皇國の本領の涜れることを憂ひてのことであつたことに對し、今日流行せる攘夷と自稱する思想運動は、全員とまで云はざるもその生ずる可く動機が國益死守であるとか、權利擁護であるとか。つまり、他國にみられる排外思想と何ら大差なく、皇國固有の思想や眞面目より生じた攘夷論、即はち、他國にあり得ざる動機からなる固有の攘夷論ではないのである。往年來の支那や、嘗ての獨逸の如きも民族淨化、排外思想は鼓舞された。しかし、皇國の攘夷には、先人の玉文や和歌に鮮明に記される如く、戀闕の情に溢れてゐる。この“戀闕”こそが、日本人の日本人たる所以であり、この情によつて必然として沸き起こる眞なる攘夷運動の澎湃を熱祷してやまない。

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by sousiu | 2011-10-22 22:08 | 先人顯彰

烈公に學ぶ  其の貳 =告志篇=

烈公、『告志篇』にて曰く、
『凡そ武士たるもの、武道を勵まずして叶はざる儀は各々も承知の事に候へども、不學文盲にては相濟まざる事と存じ候。兒童も知りたる通り、今川了俊が文道を知らずして武道遂に勝利を得ずといへるは、其の言淺きに似たれども其の旨深しと思ふ。(中畧)

 士の大節に臨みて嫌疑を定め、戰陣に臨みて勝敗を明らめ、生死を決し義理を分つ。學問にあらずしてそもゝゝまた孰れぞや。然るに當世無學の士、是非黒白のわかちもなく、士は武藝を事として死すべき場にあらでも死す。學問は書生の事也、するに足らず學ぶに足らず、せざるのみにあらず、又從つてそれを謗る。是れ皆、生をいつくしみ死を畏るる者の言葉、士とするに足らざるべし。士たらんもの、死は分内の事なり。ただ義に處するをもて難しとす。されば己れ死すべき場なりと思へる。却つて死すまじき所にや。山賊強盜のたぐひ、死を見ること歸するが如し。もし命をいつくしまぬをのみ士といはゞ、これらの人も士なるべし。(中畧)

 能く能く文武の一致なる儀をわきまへ、兎に角に、修行專一に心懸け、何事を學ぶとも、年月を頼まず、學ばんと志さば速に學ぶべし。勤め向繁多、家事繁多と、いちゝゝ數へ立てていへば、ひまなきが如くなれども、己れの好む事するひまある事なれば、好みさへすれば何事にても大方出來ぬといふはある間敷なり。何程勇力ありても、習はぬ武藝はする事能はざるが如く、何程才氣ありても、生れのまゝにて學問せざれば、古今に暗き故、よき了簡分別も出申す間敷候。南蠻鐵も敷度の鍛へを經て名刀の名を得、白玉も磨瑳の數を經て夜光の名は得る事なれば、生れのままにさしおかず、文武とも、壯年の者は猶更精を勵み候樣に致し度候』と。

 當初水戸藩は尊皇崇幕であつた。これ、水藩の大眼目は當初から尊皇討幕であつたが、幕府の嚴重なる觀察もあり“崇幕”は方便にして本心は“反幕”であつた乎、若しくは初心にして“崇幕”ありと雖も、時流と共に“反幕”を掲げたるもの乎。
 愚案。藤田東湖先生の『弘道館記述義』を拜讀するに、水戸の最も侮蔑するひとつに、皇道を毀損した者、俗儒曲學の者とが擧げられてゐる。水戸の、固より信念が曲がらう筈も無く、亦た、忠孝を何より重しとみた水藩が、當初から討幕を掲げてゐたとは考へ難い。よつて孰れにも非ず、啻に尊皇を至上のものとしたが故の結果である。『武公遺事』(青山延于翁著述)にはかう記してある。武公とは義公の父君、七代水戸藩主・徳川治紀卿その人である。注目せられよ。

青山延于翁、『武公遺事』に武公徳川治紀卿の言を記して曰く、
『公は御平生、朝廷をことの外御尊敬被遊けり、或時景山公子へ御意遊ばれけるは、たとひ何方の養子と成候とも御譜代大名へは參り不申候樣に心得可申候、譜代は何事か天下に大變出來候へば、將軍家にしたがひをる故に、天子にむかひたてまつりて弓をも引かねばならぬ事□、これは常に君としてつかうまつる故にかくあるべき事なれども、我等は將軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなは、少も將軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり、何ほど將軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはあるまじ』と。
【參照 7/44】http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781758

『武公は御平生、朝廷を殊のほか御尊敬遊ばされ、或る時、景山公子(烈公のこと)に御意遊ばさるゝは、「たとへ何方の養子になつても、御譜代の大名へは參り申さざるやう心掛けてをらねばならない。譜代は何事か天下に大變が出來たならば、將軍家に從つてゐれば、天子に御向かひ、弓を引かねばならぬ事があるからである。これは常に君として仕ふてゐるから斯くある可きが當然であらうけれ共、我等は將軍家が如何に御尤もの事があつても、苟も天子に御向かひ、弓を引くことがあれば、斷じて將軍家に從ふことはせぬとの心得である。何程將軍家に理があらうとて、天子を敵と遊ばされ候ふては、不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはない」と』




 いづれにせよ江戸幕府の專横のもと、敬神尊皇の志を養ふことは、虎の尾を蹈むの如きであつた。而も水戸は幕府の親藩である。三家の隨一である。事實、こののち水藩は、其の志と戊午の密敕を巡り、井伊直弼一派から悉く彈壓を受け、嗚呼、水戸處士始め多くの士は夥しき其の血で土を赫に染めずんば能はず。反幕の人柱となるのである。これ世に識られる「安政の大獄」なり也。

 蓋し、學問を獎勵する水藩の一大事業は、我が國が神國であり、世界無比たる神聖の國であることを正しく傳へ、民の持つ爆發的なエネルギーを皇國中興の爲めにのみ向ける可きとの宿志であらう。尤も、もののふが文武兩道で無ければならぬは云ふまでもない。とまれかくまれ烈公の宿願と水藩有志の情熱は、多大な犧牲を被りつゝ、幕府の基礎を搖がす地鳴りを痛打した。求學の成果によつて、武魂が正しく昇華したのである。これぞ求學求道の面目躍如と云はずして何と申すべし。



弘道館賞梅花  徳川景山

  弘道館中千樹梅
  清香馥郁十分開
  好文豈謂無威武
  雪裡占春天下魁


弘道館に梅花を賞す  徳川景山(齊昭)

  弘道館中、千樹の梅。
  清香馥郁として十分に開く。
  好文、豈に威武無しと謂わんや。
  雪裡春を占む、天下の魁。

 水戸の弘道館と偕樂園は梅の名所として識られる。そは烈公の命により植ゑたるものだ。
 烈公は梅の花を民衆と樂しむ爲めばかりに植ゑさせたのではない。梅が雪の中から花の魁けをするのになぞらへて、天下の魁けたるべき精神の涵養を望んだのだ。亦た梅の實は採つて兵糧の備へとする目的もあつたさうな。
 風雲急を告げる。正氣漲るや間も無しー、そんなころの咄である。


 ・・・何だか日乘の内容では無くなつてしまつたが・・・・小生は水戸贔屓なので今暫らく、御高恕賜はらむ。
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by sousiu | 2010-08-24 17:47 | 先人顯彰

烈公に學ぶ  其の壹 =弘道館記=

 義公瞑せられ其の後、少しく文運衰へ時が經ち、水戸の志も筐底に埋もれたかに見えたが、水戸住民に備はる熱誠は烈公の世に至り、猛然、澎湃をみたことは史實に明白だ。
 水戸學に於ける、義公の功績大なるを大日本史編纂だとするならば、烈公のそれは藩學の弘道館設立である。


蘇峰徳富猪一郎翁、『維新囘天の偉業に於ける水戸の功績』(昭和三年五月「民友社」發行)に曰く、
『何と申しましても、尊王攘夷の大本山は水戸であり、其の大宗師は烈公であつた。烈公は時としては餘りに一方に偏し、餘りに一物に熱し、餘りに一事に傾き、その爲めに心ならずも其の言は極端に趨り、自ら取り返しのつかぬ立場に立たねばならぬ始末に陷られたこともあつた樣でありますが、然も水戸學を具體化したる人は、正しく烈公であります。義公によりて唱首せられたる皇室中心觀念や、日本中心觀念は、烈公の尊王攘夷説によりて其の色揚げを致しました』と。


 烈公ー、徳川齊昭卿。徳川家最後の將軍、徳川慶喜の父君である。
 此の頃、水戸の兩“田”と稱された藤田東湖先生、戸田忠太夫先生てふ偉大な先覺者が御活躍されたことは史實に明らかだ。兩先生に、後の天狗黨の首領となる武田耕雲齋先生を加ふれば水戸の三“田”だ。更らに前掲したる會澤正志齋先生あり。安島峨興(帶刀)先生あり。他にも傑物が悉く出現し、そは將に群雄割據した時代だ。




 扨て。弘道館記には「文武岐(わか)れず」と説かれてゐる。

百川元氏、『水戸論語』(昭和十五年十二月廿日「改洋社」發行)に曰く、
『武士道は義を重んじたところに成り立つてゐたが、義と不義と判別するには學問がなければならない。いくら勇猛でも義の一字を蹈みはづした勇は匹夫の勇である。文道=學問の道=に明るくあつて初めて義を正しく守ることが出來る。武士の本分は一死奉公にあつたが、たゞ死にさへすればよかつたのではない。死は易い。逃げ道としての死は誰でも死ぬことが出來る。武士にとつては死が道である。そこに武士の一死は鴻毛よりも輕いと同時に泰山よりも重いものがある。武士は死ぬことによつて生き、武士として生きるためにこそ死ぬのである。死ぬために死ぬのは雜作がないが、生きるための死であるが故に、武士の死が武士道の上に尊いと共に、武士として死ぬことのむづかしさがある』と。


藤田幽谷先生、愛兒(東湖先生)を戒めて曰く、
文武は相待つて用を成す者。決して一方を廢するな。汝は文を學んでも腐儒と爲るな。劍を學んでも劍客に墮ちるな』と。(弘道館記述義の精神と釋義「旺文社」昭和十八年七月十六日發行より)


藤田東湖先生、曰く、
昔漢の周勃・漢嬰は文がなく、隨何・陸賈は武がなくて、皆人から笑はれた。男子は文武兩全でなければならぬ』と。(同)


 愚案。斯くなる水藩の精神は勤皇先覺の心に浸透せず能はず。されば志士豈に沈默を守らむか。水戸藩はやがて尊皇運動の火藥庫の如きと相成り、爆發的な運動を展開することゝなる。水戸天狗黨然り。櫻田義士然り。
 殊に東湖先生の畢世の心血をそゝいだ一大雄篇とも云ふ可き「弘道館記述義」に、其の面目躍如たるを解し得るなれ。
 烈公竝びに水藩の其の眼目は何。即はち皇道を明らかにせむが爲めなり也矣。
 小生はつゝしんで弘道館記をこゝに掲げらん。


弘道館記・原文(抄出)
『弘道者何。人能弘道也。道者何。天地之大經、而生民不可須臾離者也。弘道之館何爲而設也。恭惟、上古神聖、立極垂統、天地位焉、萬物育焉。其所以照臨六合、統御宇内者、未曾不由斯道也。寶祚以之無窮、國體以之尊嚴、蒼生以之安寧、蠻夷戎狄以之率服。而聖子神孫、尚不肯自足、樂取於人以爲善。乃若西土唐虞三代之治教、資以贊皇猷。献於是斯道愈大愈明、而無復尚焉。中世以降、異端邪説、誣民惑世、俗儒曲學、舍此從彼、皇化陵夷、禍亂相踵、大道之不明於世、蓋亦久矣。我東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允武允文、以開太平之基。吾祖威公、実受封於東土、夙慕日本武尊之爲人、尊神道、繕武備。義公繼述、嘗發感於夷齊、更崇儒教、明倫正名、以藩屏國家。爾來百數十年、世承遺緒、沐浴恩澤、以至今日、則苟爲臣子者、豈可弗思所以推弘斯道發揚先徳乎。此則館之所以爲設也。~』と。


弘道館記・讀み下し(同)
『弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大經にして生民の須臾も離る可からざるもの也。弘道館は何のために設けたるや。恭しく惟みるに、上古神聖極を立て統を垂れ、天地位し萬物育す。其の六合に照臨し、宇内を統御する所以のものは、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。寶祚之を以て窮り無く、國體之を以て尊嚴、蒼生之を以て安寧、蠻夷戎狄之を以て率服す。而して聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず、人に取りて以て善を爲すことを樂しむ。乃ち西土唐虞三代の治教の如き、資りて以て皇猷を贊く。是に於て斯の道愈々大にして復尚ふること無し。中世以降、異端邪説、民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲學、此を舍てて彼に從ひ、皇化陵夷、禍亂相踵ぎ、大道の世に明かならざるや蓋し亦久し。我が東照宮、撥亂反正、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開き、吾が祖威公、實に封を東土に受け、夙に日本武尊の人と爲りを慕ひ、神道を尊び武備を繕む。義公繼述、嘗て感を夷齊に發し、更に儒教を崇び、明倫正名、以て國家に藩屏たり。爾來百數十年、世に遺緒を承け、恩澤に沐浴し、以て今日に至る。則ち、苟くも臣子たる者、豈斯の道を推弘し、先徳を發揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館を設けたる所以なり。~』
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by sousiu | 2010-08-23 21:37 | 先人顯彰

徳富蘇峰翁、文章報國のひと 

 晴れ。今日は暖い。この頃、起きてみないことには暖いのか寒いのか皆目見當が付かぬ。
 服など一切氣に留めない小生には凡そ縁の無き惱みが、殊に若い人たちには毎朝生じてゐるのではないかと考へ少々氣の毒であると思ふ。


 今年に入つて夢中になつて讀んでゐる本がある。
 徳富蘇峰翁の『近世日本國民史』だ。
 織豐時代から始まり、徳川權勢、孝明天皇の御代を經て明治時代で完結する。
 全部で百卷ある。文庫本も出てゐるやうなので、入手は難しくない。しかし小生はどうも現代假名遣ひは味氣なく感じるので、專ら古書に限定し讀んでゐる。その爲め、思ふやうに入手する能はず、なかゝゝ意の欲するやうには讀み進むことが出來ない。
『近世日本國民史』は、登場人物の日記や書翰なども豐富に掲載し、詳細に亙り歴史を檢證してゐる爲め、非常に讀み堪へがある。
 驚く可きは、蘇峰翁の膽識よ。昭和廿七年、頽齡九十、第百卷を以て完結した。同史に注いだ筆力、百五十字詰原稿用紙で延べ二十三萬枚といふ。


渡部昇一氏『眞の戰鬪者・徳富蘇峰』にて敬意を表して曰く、
『「近世日本國民史」はまことに驚くべき歴史である。それは、間違ひなく日本が世界に誇つてもよい著述の一つである。蘇峰は最初「明治天皇御宇史」を書くつもりであつたが。ところが明治史を書くためには幕末を書かなければならない。つまり「孝明天皇御宇史」が必要である。しかもそのためには徳川時代を知らねばならず、徳川時代を知るためには豐臣時代を知らねばならず、豐臣時代を知るためには信長を知らねばならぬ、と言つた具合で、建武の中興あたりが明治維新の遠因になるとした。しかしそこから始めたのでは明治まで書くことができないから、取りあへず信長の時代から書き出したといふわけである』

『そして大體の腹づもりで本論の明治天皇御宇史に五十卷を當て、その序論に當る孝明天皇御宇史に二十卷、序論たる織田・豐臣・徳川篇に三十卷を當てる豫定であつた。ところが實際には孝明天皇崩御篇までが六十二卷なのであり、殘りが明治の最初の十一年間のための三十八卷といふことになる。序論六十二卷、本論三十八卷の歴史を獨力で書いた人間がこの世にゐることを私は寡聞にして知らない。この明治天皇の御宇史に寄せた彼の異常な熱情とエネルギーが、結局は新聞人としての彼を失敗に終はらしめたのである』(『生誕百三十年記念 徳富蘇峰』平成五年三月十五日「財團法人 蘇峰會」刊行に所收)と。


 その徳富蘇峰翁、『近世日本國民史~織田氏時代・前篇~ 第一卷』(昭和九年九月十日發行「明治書院」版)冒頭の「修史述懷」にて曰く、
『予は本年五十六歳である。文章報國は、予が晩節の天職である』と。
そして、
若し予が私史にして、我が大和民族の精神的食糧となり、我が大日本帝國興隆の不盡的泉源となるを得ば、予が渾身の肝血を、此に向て絞り盡すも、肯て悔ゆる所はない』と。

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by sousiu | 2010-04-19 17:52 | 先人顯彰