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明治暗殺史録

『明治暗殺史録』(昭和四十一年十一月廿日「雄山閣」發行・中澤巠夫著)を讀んだ。
 主に山下鋭三郎、伊牟田尚平、清河八郎、相良總三、五十嵐伊織、横井小楠、そして赤報隊、神風連、西南戰爭について描かれてゐる。興味深く、二日間に亙つて熟讀した。

 此の頃、討つ可き側が明日に討たれる側となり、逆も亦た然り。
「尊皇、尊皇」と多言する者の正體が實は斯く非ず、逆も亦た然り。
 武士だけにあらず學者や文士も自づから其の身を危險の火中に投じてゐる。
 尤も、國の一大變革に際して、人命とは鴻毛の如くあるのかも知れない。
當事者が最もそれを承知してゐる。
 そしてその莫大なエネルギーの衝突が、時代を開拓したのだ。

 即今、世は不平不滿、不審と不安の聲ばかりだ。
發せられる可くして發せられたる聲であることは充分理解出來る。
然れどそこまでだ。愚癡までだ。誰かが變革してくれゝば宜いとは願つても、つまり他力本願だ。
政治家の場合は保身あるのみ而已だ。
 果して身命を賭してまで變へんと思ふ者如何ほどある。小生も自問自答せず能はぬ。
 愚癡の先は絶望だ。だから自殺者は後を斷たぬ。自殺者は「死を恐れぬ」からでない。「生を恐れる」からである。云ふなれば現實逃避だ。自分だけが宜ければそれで宜いのだ。死んで々ゝゝ死に盡す維新者のそれではない。
 戰後に跋扈し、戰後を痛罵する救國論の總てと云はざるまでも、大半は愚癡の亞種のやうなものだ。机上でしか存在の許されないものだ。誰れも死なない。誰れも死なないので、誰れも生まれない。結局、自己滿足や自己陶醉、然らずんば瓦斯拔きだ。

 刻下の「言論の自由」とは、熟々エネルギーの躍動を封じる鐵格子のようなものだと思ふ。

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by sousiu | 2010-05-27 20:09 | 小論愚案

青梅の齋庭にて  續  

 昨日の吟詠奉納、學生有志による歌唱奉納に感動したことは既記の如し。
本日、福永武志兄より掲載の許可を賜はつたことから、つゝしんでこゝに奉掲申上げたし。



 [奉納吟]

  歸還感有り
  神意深甚 測るべからず
  默々只期す 再建の業

― 青山の大和島根の島影の
 まさ目に沁みてわれ泣きにけり ―

  山河語らず 人もの言はず
  薫風萬里 青一色



 [草莽有志の歌]

一、 嗚呼城山の秋の風
   巨人のむくろふきしより
   世は寒くこそなりまさり
   維新の皇謨地に墮ちぬ

二、 妖雲暗くむらがりて
   天日ために閉されぬ
   民暗澹の日は續き
   生色長く失せにけり

三、 降(くだ)ちゆく世を九重の
   御階(みはし)の櫻そよげども
   迷蒙更に覺むるなく
   混沌遂に極まりぬ

四、 神命こゝに激發し
   神劍降る幾度ぞ
   鮮血淋漓(りんり)衂(ちぬ)れども
   權門迷ひまだ醒めず

五、 内に維新の成るなくば
   みいくさ外に徹るなし
   今こそ岩戸開くべき
   大き祭の秋(とき)來る

六、 さらば我が友丈夫の
   命きよらに禊して
   朝霜の道一筋を
   鋭刃(とば)のさやかに戰はむ

七、 よしや萬里をへだつとも
   白梅花の匂ふごと
   御民の祈り相通ふ
   心一つにいざ起たむ

八、 草莽此の身はみ吉野の
   萬朶の花と散らば散れ
   魂(たま)は留めてとこしへに
   賊殲滅の火と燃えん

九、 賊勢四方(よも)に迫るとも
   楠氏の軍に憂ひなし
   孤忠の悲願いや高く
   千早の城を守るべし

十、 見よ東(ひんがし)の空明けて
   曉雲燦とかがやきぬ
   聞けや維新の明けの鐘
   昭和維新の時至る
   昭和維新の時至る

      作詞は影山正治先生による
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by sousiu | 2010-05-26 17:33 | 先哲寶文

青梅の齋庭にて

 今日は早起きして一路青梅へ。

「影山正治大人之命卅一年祭」に參列。嚴かに神事が執り行はれた。
大東神社、農場はいつ來ても宜い。かくなる齋庭が未だ存在することに心から感謝申上げたい。

 奉納行事に於て、大東吟道會による吟詠奉納も然りであるが、何と云つても青年學生有志による歌唱奉納[草莽有志の歌]は素晴しかつた。
「今時の若者らは・・・」などと嘆く大人たちがあるを聽くが、我々の側こそ彼らをして「今時の大人達は・・・」と嘆息させることなきやう心得るべきであらう。清々しくも逞しき彼らの歌聲に何やら嬉しく思つた。


 直會では三澤浩一先輩、國信隆兄と活溌なる意見交換。
 學生諸君による歌唱あり。そして全員で「櫻井の訣別」を熱唱した。

 維新の息吹は脈々と受け繼がれ、確固として存在してゐる。それを確信した。

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by sousiu | 2010-05-25 23:41 | 日々所感

五月廿三日、の一日

 いやはや。。。疲れが溜つてゐたのか何と十三時間も寢てしまつた。


 澁谷に於て、十時から開始された「海軍記念日を祝ふ民族派有志聯隊運動」に參加。
 此度は、宮城縣道友による主催である。

 宮城縣の民族派陣營は熱い。彼らの熱誠によるものだ。
 こと運動に關しては小事を捨て大事に當る、黨派の垣を越えた一勢力であると云つても過言でなからう。
 雨天にも拘らず關東の團體も多く馳せ參じ、九十二名の有志が集つたと云ふ(實際にはもつと多くゐた氣がしたが・・・)。
 主催團體諸兄は日歸りだ。早朝に上京し、運動を終へると片付けをして、翌日の仕事を控へてゐる爲め、宮城縣へ歸つた。その姿勢には頭の下がる思ひである。
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※話してきました。汗。




 夜は横濱で行はれた義信塾主催の「横濱勉強會」に參加・・・・・。
と云つても小生、事情があり、勉強會には間に合はず。懇親會から參加した。汗顏。

 小生の席は山本白鳥宮司と阿形充規先生の前であつた。
 小生の坐らされた席が鬼門であつたか、テーブルを叩きながらの會話は正に終始白熱。餘談の赦されぬ空間であつた・・・・遲れた神罰を賜はつたのかも知れない。くわばら。
 だがしかし、迚も勉強になつた。
 後に弊社々員より聞くところによると、勉強會は九十名も集まりこれまた盛會であつたとのこと。
阿形先生の祝詞奏上もあつたとの由。事情さへ無ければ是非とも參加したかつた、と痛恨の極みである。
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※聞いてきました。汗。(箸も付けてをらぬ我が樣をみよ)
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by sousiu | 2010-05-24 19:18 | 報告

日露戰爭實記  捌  

 明治卅八年十二月十三日發行 第百八號「梅澤旅團 壯烈譚」所收


『七  助かる傷ではありませむ』

 明治三十八年二月十二日午前八時、近衞後備歩兵第二聯隊の戸澤大隊の松田中隊より、鈴木分隊を出(いだ)して、前哨戰なる歪頭山村の東方松林に、獨立下士哨の任に付かしめ、嚴重に敵を監視せしめたるが、時しも前方の一部落前松木堡子の村端より、約二個小隊の敵の歩兵現はれ出て、其の動作より察すれば、正に是れ斥候の任を帶ぶるものゝ如し、於是(こゝにおいて)小哨の位置に在りし、小隊長星野中尉は、喇叭手松澤磯太郎氏を傳令として、下士哨兵鈴木軍曹に、其の敵を邀撃(えうげき)すべく命じたり。喇叭手即ち旨を奉じて其任を全うし、將に歸途に就かんとせしが、敵は已に近距離に肉薄し居たれば、哨長部下の兵士と共に、忽ち壕内に散開し、急射撃の下に、敵に多大の損害を加へ、其の企圖を達しめず、遂に死傷者を遺棄して、之れを敗走せしむるに到つて、共に快哉を叫びつゝ在りし、折しも此とき前面の高地なる、敵の野砲陣地は、約八門の砲火を、此の松林中に集中したりければ、我が哨兵の損傷するもの多く、喇叭手もまた其の斷片の爲に、一は左大腿に、一は右肺上部に、共に貫通損傷を被りたるも、性來沈着にして、勇敢なる彼れは、此の重傷に屈せずして、尚ほ銃を擬して、敵を撃たれむと身構ひ居たるを、傍(かたは)らの戰友之を助けて、他に負傷せる、大澤、大川の二兵と共に、一先づ本隊に收容し軍醫をして應急手當を施さしむる事となしけるに、喇叭手は微(かす)かに其の眼を開き『軍醫殿、私は迚も助かる傷ではありませむ、唯今御懇篤なる御手當を煩はしても、やがては手術臺上に露と消え行く身ですから、何卒(どうぞ)其れよりは、此處に居る二人の戰友は、私よりは至つて輕傷の樣子ですから私を捨てゝ、早く戰友を御手當の上、速かに全治の後、再度戰場に出でゝ、花々敷(はなゞゝしき)御働きをさせて下さい』

 嗟矣(あゝ)何等壯烈の言辭ぞや、軍醫は之れを聞き了つて、熟々彼れを凝視し居たるが、やがて眉間に決心の色を現しつゝ今迄堅く閉せし其の唇を破つて、
『善(よ)し判つた、汝が立派なる今の一言は、是れを我が全軍の士に聞かしめたならば、其士氣を振興する事何(ど)れ程であらうか、予は謹むで茲に汝が意志に副つて先づ二人の者に手當をするであらう、と、双頬に傳はる涙を、空拳に押し拭ひつゝ、他の二名の手當に着手すれば、彼は之れを熟視しつゝ、■[草冠+完]爾(くわんじ)と計(ばか)り笑を漏らして、
 有難う御座います種々御世話になりましたが、最早御別れを致します、中隊長殿始め、戰友諸君に宜しく御頼みいたします、私は地下より諸君の戰功を
 張り詰めし氣の急に緩みてや、ドツと一息血を吐きつゝ、芳魂遠く天に歸りて、勇敢なる此の喇叭手は、遂に白玉樓中の人と成りぬ、越えて翌日、彼れが遺骸は一片の煙りと化して、其の名は花匂嶺麓の楊樹の下に、特に手厚く葬られて、一基の墓標長(とこしへ)に、忠勇義烈なる喇叭手の名が刻せられたり。



(文中、振り假名及び、■[]()は小生による)


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by sousiu | 2010-05-22 04:53 | 良書紹介

日露戰爭實記  漆  

明治卅八年十二月十三日發行 第百八號「梅澤旅團 壯烈譚」所收


『六  酒料を生前の戰友に贈る』

 八月十五日小干河子に於て敵騎を發見するや、歩兵上等兵渡邊寅吉氏は、挺身邁往、肉薄して、大(おほい)に之れを撃破し、爲めに重傷を負ひて、遂に後送せられむとするや、此の時所屬の小隊長及び、氏の戰友等は、倶さに之れを劬(いたは)り慰め、辭を盡くして其の快癒の一日も速(すみや)かならむ事を説き、藥餌を之れに勸むるも、彼れは到底其の起たざるを自覺して、戰鬪今より幾月に渉らんも知るべからず、而して幾多の輕重傷者の生ぜむも測り難く、醫藥の料の如き多々益々其の必要を見るべきに、予等(よら)微功だもなきものゝ、是れを消耗する事、甚だ心苦しき限りなり、憾むらくは武運誠に拙き身の、やがて戰場の露とも散らで、生き存(なが)らへて、恁(かゝ)る厚意を煩はす事の口惜しさよ、と毫も其の苦痛を表はさず、後送の途中、戰友に遺言して、其の所持の金員中、一半は之れを郷里父母の許に致せ、他の一半は、聊か分隊の勞を慰むる爲め、酒料として生前の戰友に贈られむ事を、と述べ了(をは)へて、敢てまた其の他を謂はず、終(つひ)に瞑せり、友愛の情の切實なる、聞くもの感歎せざるはなし。

(振り假名は小生による)


(七)に續く
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by sousiu | 2010-05-21 21:35 | 良書紹介

日露戰爭實記  陸 

明治卅八年十二月十三日發行 第百八號「梅澤旅團 壯烈譚」所收


『五  病院は我が死處に非ず』

 是れも同じく一聯隊第一大隊付なる輜重■[左「車」+右「兪」]卒(ゆそつ)相田傳吉氏は、出征以來暫時にして夜盲(よめくら)となり、朝鮮行軍中の如きは道路嶮惡の爲め、夜間に亙る事屡々なれば、一層其の困難を加へたるべきも、■卒(ゆそつ)は常に準備周到にして、曾つて集合に後れたる事なく、戰友は、■卒(ゆそつ)が夜中の困難を見るに忍びず、代る々ゝ相保護して、其の手を曳きて先導し、到着後も馬匹の休養及び其の萬般の事を助け居たるが、彼れは恁(か)く迄に戰友を煩はさむ事を慮り、夜間馬側を離れず、戰友勸むるに入院治療の事を以てするも、■卒(ゆそつ)が倒れて休むの決心は遂に之れを動かす能はざりき、然るに彼れは不幸にも、鳳凰城に於て風土病の侵す處となり終(つひ)に同處に殘留するの止まむなきに到り、一時本隊と離れたるが彼れは入院中も、何卒今一度本隊に復し、せめては其の任務の爲に斃れたく、『病院は我が死處にあらず……』と、切に乞うて止まざれば、軍醫も、■卒(ゆそつ)の熱誠を感じ、稍々(やゝ)其の囘復に赴けるを以て、彼れの所願を達せしむる事となしければ、彼れは雀躍(じやくやく)抃舞(べんぶ)して、本隊に來り合し『隊長殿、漸く赦されて歸りました』と、其熱心驚くに堪へたり。

(文中、振り假名及び、■[]()は小生による)

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(六)に續く
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by sousiu | 2010-05-21 01:14 | 良書紹介

日露戰爭實記  伍  

明治卅八年十二月十三日發行 第百八號「梅澤旅團 壯烈譚」所收


『四  巨彈飛來』

 沙河會戰に際し、彼我兩軍對陣中の事なりけり、一月廿九日より三十日に渉りて、敵は我が陣地の全線に向つて、總攻撃を開始せむと揚言し、廿九日の黎明より、數十里に亙る我が守備線上に、山、野、重、臼各種の火砲を集めて、砲撃を開始し、虚(すき)あらば乃ち突出せむとするの状況を示せり、而して殊に我が軍左翼前面の敵は最も優勢なるものにして、砲彈の交叉甚だ激烈を極めたり、黒溝臺の戰鬪是れなり。

 此日我が梅澤旅團の前面に於ても康大人山、康家屯石山、三城子山の各砲兵陣地より猛射せられたるが中にも、其部下第一聯隊の守備せる、歪頭山の如き、遠近の進出路を扼すに、最も有利の監視線なるを以て、砲撃を蒙る事又實に甚しく、數百發の巨彈は、嶺上嶺下を掠め來つて、危險固より謂ふ計りなし。茲に同聯隊第三中隊歩兵一等卒宮澤爲次郎氏は、此の危險の中心たる山頂の監視硝として、其の任務に服したるが、午後三時、敵は益々猛射を逞ふし、岩石碎破の斷片を飛散せしめ、頭上爆彈の彈子は、雨の如くに振り注いて進出せむとするの状況あるに依り、監視の任、一分時も之れを忽(ゆるがせ)にす可からず、而して一等卒は此の危窮の場合に處して、神色自若、遙に敵兵を睥睨(へいげい)し、其の行動の如何を監視し、身を以つて其の任務を盡さむとす、偶々巨彈飛來して、一等卒が耳邊を掠むるものあり、一等卒爲に昏倒窒息するもの數分時、戰友の巡察し來るに會し、其の救護する處と成りて僅に蘇生する事を得たるも、身體を檢すれば、右耳上に擦過砲彈創を受けて、流血淋漓たり、中隊長坂本豐吉氏、其の砲創の爲に、凍寒の身を冐(をか)すの危險あるを以て、諭して入院治療せしむる事となせり、宮澤一等卒の如きは、眞に敵前に於ける行動として、其の命令と、其任務の重大なるに係らず一身を以つて之れを全うしたるは、誠に後進の龜鑑となすに足るべきにあらずや。

(文中、振り假名は小生による)


(五)に續く
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by sousiu | 2010-05-20 23:44 | 良書紹介

日露戰爭實記  肆  

明治卅八年十二月十三日發行 第百八號「梅澤旅團 壯烈譚」所收


『三  此の中尉と一等卒』

 小泉中尉と田卷上等兵が、敵前に於ける悲壯なる動作は前章之れを記せり。而して茲にはまた此の中尉と、此の一等卒あり、記し來つて涙痕(るゐこん)紙に乾く間もなし。

 十月十一日に後(おく)る事十六日、此の月廿七日、後備歩兵第廿九聯隊第二大隊は、歪頭山を攻撃して、頑強なる敵と會し、戰鬪漸く酣(たけなは)なり。是に於て山岡大隊は之れが應援として、左翼に連繋動作せり。當時歩兵少尉上林五助氏は近衞後備歩兵第一聯隊第八中隊に屬して、歪頭山の西南面より、同山中央高地に向つて進めり。然るに該山は斜面急峻にして、岩角凸出し、雜草之れを掩ひて、攀登(はんと)頗る困難なれば、部下やゝ躊躇の色なきにあらず、少尉此の情を見るや、先づ自ら其の靴を脱し、大乎して曰く、余を見よ、今や靴を用ゐず、と其の意蓋し決死を示せるなり。亦之れに勵まされて、共に相助けて、一氣に敵前五十米突に近接し、盛んに敵を猛射したるも、而も敵兵頑強に死守して降(くだ)らず、戰鬪は、刻一刻より猛烈を極め、死者續出して、光景甚だ悲慘なり。少尉扼腕、同僚少尉六角三郎氏を促がし、進むで敵に突入せむとするや、一彈少尉の額に命中し、勇ましき少尉は『前へ』と叫びて殪(たふ)れぬ。之れと同時に一等卒高師三之助氏も亦、敵彈の爲に頭部に負傷せしも屈せず、少尉の繃帶を施し、之れを抱きて他に移さむとすれば、少尉は『萬歳』と叫びつゝ逝けり。少尉臨終の此の一言の、如何に彼れが心肝に徹したるか、彼れは尚ほ容易に亡き少尉が傍を去らず、涙に曇る其の聲を振り立てゝ、『少尉殿萬歳』を連呼し居たるが、やがて突撃喇叭の聲を聞くや、一等卒は蹶然突進して、衆に擢(ぬき)むでゝ先頭に在る事約三十米突、逸(いち)早くも同山の最高點たる、三聖廟に到達し、右手(めて)には乃(すなは)ち銃を携へ、左手(ゆんで)には高く帽り振り翳して敵に面して、萬歳々々と連稱し居たるが、已(すで)にして大隊の同處に到着するや、唐家屯東北高地の敵砲は、茲に三聖廟を目蒐(めが)けて、急射撃を送りしかば、孰れも皆な掩蔽(えんぺい)の位置に移りしが、獨り負傷せる彼れ一等卒のみは、是れ我が上林少尉の吊(とむらひ)合戰なりと稱し、敵の砲撃を停止する迄、居然として同位置を去らず、やがては敵の敗走兵に向つて、頻りに之れを射撃しつゝ『少尉殿、私が敵を討ちました』

(文中、振り假名は小生による)


(四)に續く
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by sousiu | 2010-05-20 22:11 | 良書紹介

日露戰爭實記  參  

明治卅八年十二月十三日發行 第百八號「梅澤旅團 壯烈譚」所收


『二  是れ等勇士』

 十月十一日の戰鬪が、如何に猛烈を極めつゝありしか、是れも同じく同聯隊の同中隊に屬する、上等兵齋藤米三郎氏、又重傷を負うて倒るゝや、怒れる眼に血を注ぎつゝ前方の樹林を睨み、『アヽ、彼(あ)の樹林、彼の樹林に突撃する事が……殘念ツ』と、あはれ千秋の憾みを呑むで、本溪湖東北方高地の露と消え果てぬ。蓋し其の前方の樹林とは、我が散兵線を隔つる五十米突(めーとる)計(ばか)り、當日敵の據る處なり。然るに茲にまた同隊の一等卒松田榮藏氏も、力戰已(すで)に數時に及むで、其の右上肢に負傷し、再び銃を執るを得ず、而も顧みれば、戰友の死するもの愈々夥しくして、今や形勢漸く危からむとするや、悲憤慨歎禁ずる能はず、自ら創面を繃帶し、痛苦を忍むで、茲に彈藥糧食の運搬に任じたりといへるに、石井上等兵(猪吉)柳川一等卒(久)等亦等しく敵の傷くる處となり相顧みて曰く、『柳川やられたか、己(お)れも喰つたぞ、だがやれゝゝ今一息だぞ今が肝腎な處だ、……』『ヨシ、心得て居る餘り皆ンナで傷られた處を見せては、味方の士氣を弱らせるから、これは隱して……』『サウだ、其の氣でシツカリ……』、戰漸く止むに到つて、隊長親しく之れ等勇士を招き殊に其の拔群の働き振りを稱して讚歎激賞せられたり。

(文中、振り假名は小生による)


(三)に續く
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by sousiu | 2010-05-20 21:27 | 良書紹介