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たまには短文にて

 只今、機關紙の發送作業が終はつた。今日は朝九時から、ずつと今まで掛かつてしまつたので、電子書翰を何も見る暇さへ無かつた。
 しかし、これで一つ、胸のつかへが取れた。

 が、早速一面から誤字だ・・・・

「奉體」誤
「奉戴」正

 備中處士樣の御指摘を賜はる前に・・・・・とほゝ

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by sousiu | 2010-07-31 02:41 | 報告

『神皇正統記』

『神皇正統記』について。大川周明博士の言を拜借しこゝに御説明申上げたい。

大川博士曰く、
「後醍醐天皇の建武中興は、假令囘天の偉業中道にして挫折したとは言へ、まがふべくもなき日本精神の勃興なるが故に、この精神の最も見事なる結晶として、北畠親房の『神皇正統記』が生れた。平安朝の末葉より鎌倉時代の初期にかけて、國史を等閑に附したることは、必然國體觀念の昏瞑を招き、今よりして之を想へば、到底許し難き思想が行なはれて居た。例へば慈鎭和尚の『愚管抄』に現はれたる思想である。慈鎭は關白藤原忠通の子であるが、其の著書の中には 天皇のことを皆『國王』と書き、甚だしきは禮記の百王説を其儘信受して『皇統百代限り』といふが如き妄誕至極の言をなし、實に『神の御代は知らず人代となりて神武天皇以後百代とぞ聞ゆる。既に殘り少なく八十四代にもなりける』とさへ述べて居る。八十四代と申すは順徳天皇のことにして、いま十六代にして日本の皇統は亡ぶといふ驚くべき思想である。かくの如き時代の後を承け、わが北畠親房が『大日本は神國なり』と高唱し、神胤永く此世に君臨して、天壤と共に無窮なるべきことを明確に力説したのは、正に一句鐵崑崙、虚空をして希有と叫ばしむるものである。まことに神皇正統記は、前に遠く建國創業を望み、後に遙か明治維新を呼ぶところの國史の中軸にして、此の書一たび出でて大義名分の存するところ、炳乎として千載に明らかになつた」(日本二千六百年史「第一書房」昭和十四年七月五日發行)と。

 目下の怪しげな保守派と稱するものゝ中に、日本が滅するやら、皇統がどうなるやと口に出すも穢らはしき言を放ち、惡戲に人心を煽動する輩がをる。本屋では一般に右翼と間違はれるやうな者らが、斯くなる題材を以て生計を立てゝゐる。神罰の、下るゝを識らぬ歟、とまれ當の右翼としてみればえらい迷惑な話しだ。
 彼らと此の慈鎭和尚との相違を誰れか説明する者あるよ。

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by sousiu | 2010-07-29 19:09 | 良書紹介

忠孝兩全の道

 今日は、三澤浩一先輩が事務所に來訪。
 三澤先輩は最も頼もしき先輩の一人だ。だが、アルコールが入ると、最も厄介な先輩の一人だ。
 九時以降の三澤先輩の電話は受けてはならぬ、とは既に三澤先輩を知る者達の常識だ。
 小生もこれまで散々の目に遭つてゐる。それゆゑに、極力受けないやうにする。すると留守番電話の時間の限度まで、ひとりで何か御説教をしてゐる。御説教にあらねば單なる文句だ。後々、小生ひとりそれを聽くのであるから、電話に出ても出なくても、結局は同じだ。


 扨て、昨晩は早々に床へ入り、今日に備へた。
 昨晩は『楠正成一卷之書』を、つゝしんで拜讀した。
承應三歳甲午十一月、山鹿甚五左衞門(素行)先生同書に曰く、
孝は百行の本にして、未だ父母に孝にして君に忠ならず君に忠にして父母に孝ならざるものはあらじ。蓋し忠孝二途無く、其の徳一なり。嗚呼、忠孝は士の希て勵むべきところなり』と。

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 正に我ら日本人の模範は忠孝兩全の道を全うすることだ。
 これを疎かにするものが未だ完成されざる日本人だ。未完成乍らも此の道を歩まむとする人は、日本人だ。但し、斯くのごとくの道を嫌ふ者たちが、何であれ企畫する運動は大凡非日本人的運動だ。反日本人運動と云はざるまでも、非日本人運動だ。極端な例を擧ぐれば、國體を語ることなく、國旗國歌を冒涜し、道徳教育を蔑ろにする教職員組合の運動がそれだ。いづれにせよ、純正日本人運動でないことだけは分明だ。つまり左翼の運動だ。
 我らは先づ、外觀而已ならず、骨髓からにも日本人たらむと勤むる可きだ。
 それの爲めにも先哲の寶文に觸れ、日本人學の涵養に鋭意務める必要がある。

北畠親房先生「神皇正統記」に曰く、
毫釐も君をゆるかせにする心を萌すものは、必ず亂臣となる。芥蔕も親をおろそかにする形有るものは、果して賊子となる。この故に古の聖人、道は須臾も離るべからず、離るべきは道にあらずと説けり』と。

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 愚案。忠孝兩全の道を踏み外す者、知らぬ者、果して亂臣賊子となるのおそれあり。
 宛ら、政界は亂臣賊子の巣窟だ。學校は亂臣賊子の製造所だ。

 さらば現在の日本、悉く亂臣賊子の住める島と申す乎。
 左樣に非ず。多數と云ふ能はざるも、忠良臣民の未だ存在するは是れ我が國體の精華なり也。
 斯くの少數的存在ありてこそ、日本は固より世界の滅亡は囘避されてをる。疲勞困憊したる萬國の住民にとりて希望の曙光であるのだ。
 この曙光が次第に大となり、愈々萬國を包むが如く光波を放たれば、萬民忽ち生氣溌剌と一變せん。
即はち世界皇化だ。皇國の復古中興を願ふは此の爲めのものだ。

蘇峰徳富猪一郎翁曰く、
善き世界の市民は、必ずしも善き日本國民に非ず。善き日本國民は、必ず善き世界の市民である』と。
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by sousiu | 2010-07-28 23:51 | 小論愚案

好事魔多し。福田派に招かれざる客だ。

 昨日は「神奈川有志の會」懇親會であつた。
 いつも通りの喧々囂々、神奈川有志の會は、これが面白い。

 一點、いつも通りでなかつたことは、伊藤滿先輩が禁酒を斷行してゐたことだ。
 先輩曰く、『俺も福田派だ。がはゝ、豪笑』と。

 これは心強い。何せ他縣に漏れず、我が縣の民族派も酒豪揃ひ。
 そもゝゝ我が天敵の平澤派首領・平澤次郎翁は横濱を據點にしてゐる。
加之、最近の市村兄は三澤浩一先輩の如く、酒が入ると隣人の迷惑を顧みることがない。
 小生は孤軍奮鬪であつたのだ。

 備中處士樣によると、『平田篤胤先生も、下戸でした』と。
何ぞ平澤派、恐るゝに足らん。

 而も我が派には伊藤滿先輩も加はつた。小生にとつて、これほど頼もしきことはない。
 と云ふことで、これまで肩身の狹かつた分だけ、俄然挽囘せむと小生意氣込んでみたが、はて、伊藤先輩からの援護射撃がない。そればかりか、食卓を挾んだ向う側では、以前と何ら變はることなく小生をダシにしてゐるではないか。吁。
 よくゝゝ禁酒の動機を聽けば、持病である糖尿病が惡化して、醫師から酒を止められたとの由。
志があつてのことではない。本人が望んでの禁酒でもない。若しも醫師の居らずんば、今でもガブヾヾ酒が飮みたくて仕方ないのだ。結局は、仕方なく福田派に加はつた丈のこと。心福田派に非ず、平澤派のまゝだ。だから小生を庇護することなく、中締めと共に珍しくそゝくさと歸つてしまつたのだ。

 伊藤先輩は福田派の獅子心中の蟲にならむとしてゐる。
 先輩が小生の天敵であることは、以前も今後も變はりがない。

 御大事に。

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※ あの奧の一畫が、いつも不氣味だ。
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by sousiu | 2010-07-27 17:50 | 小論愚案

「昭和國民讀本」より思ふ

徳富蘇峰翁『昭和國民讀本』(昭和十四年二月十一日「大阪毎日新聞社」發行)に曰く、
日本學とは何ぞ。廣く云へば、日本國民の修得すべき日本に關する一切の學問である。手近く云へば、日本國民たる可き智識と教養と修練とを與ふる學問である。即ち忠良なる日本國民たる資格を要請する學問である。凡そ辯護士及び裁判官たらんには、法律を學ばねばならぬ。醫師たるには、醫學を學べねばならぬ。國民教育に從ふには、師範學校がある。軍人たるには、仕官學校、海軍兵學校等、それぞれの學校がある。凡有る業務に從うもの、一として其の專門の學科あらざるはなし。然るに獨り日本國民の資格を修得するに於て、その學問無きは、如何にも不合理である。然もその不合理が、今日まで誰しも平氣にて、看過し去りたるは彌よ以て奇怪と云はねばならぬ』。

  ×   ×   ×

 曰く、
『古來より日本には、學問の道が開けてゐる。應神天皇以來、支那學が輸入せられた。欽明天皇以來は佛教 - 印度學 - が輸入せられた。然も我が奈良朝、平安朝を經て、未だ所謂る日本學なるものは無かつた。されば「菅家遺誡」にも、
  凡神國一世無窮之玄妙者(およそしんこくいつせいむきうのげんめうは)、可敢而窺知(あへてきちすべからず)、雖學漢土三代周孔之聖經革命之國風(かんどさんだいしうこうのせいきやうをまなぶといへども、かくめいのこくふう)、深可加思慮也(ふかくしりよをくはふべきなり)
 との一節がある。これは如何に支那學を修むるも、それにかぶれて、日本古來の國體觀念を失墜す可からずとの警告である
 又た曰く、
  凡國學所要(およそこくがくのえうするところ)、雖欲論渉古今、究天人(ろんここんにわたりて、てんにんをきはめんとほつすといへども)、其自非和魂漢才不能■(門+敢=愚案、みる?)其■(門+困=こん)奧矣(そのわこん、かんさいにあらざるよりは、そのこんあうをみるあたはず)。
 と。これは如何に學問をしても、和魂即ち日本魂が其の中核たらざれば、其の甲斐なしとするものだ漢才とは和魂の本體に伴ふ作用である。和魂漢才と稱するも、兩者自から其の輕重がある』。

  ×   ×   ×

 曰く、
『「菅家遺誡」は、恐らくは菅原道眞の所見を忖度して、若しくは道眞に假托して、後人が擬作したのかも知れない。考證の議論は姑く措き、平安朝より鎌倉時代にかけて、此の如き警告を發するの必要を來したる所以を顧れば、如何に漢學の影響が、當時の智識階級に激甚であつたかゞ想像せらるゝ

  ×   ×   ×

 曰く、
『日本に日本學と認む可き確定の學問なきに拘らず、日本國は依然として其の本來の面目を維持し來りたるは、何故である。そは日本民族は先天的に皇室の奉仕者である。日本民族は、先天的に忠君愛國者であるからだ。如何なる後天的の學問を以てしても容易にこの先天的の本質を消磨する能はざるものがあつた爲めだ。譬へば本來の沃土には、假令肥料を施さゞるも、他の肥料を施したる土地同樣に、若しくはより以上に、其の收穫の饒多なるを見るの類である。されど如何なる沃土でも、やがては肥料を必須とする機會が、到來するものだ

  ×   ×   ×

 曰く、
『文永弘安の役は、實に日本學の實物教育であつた。多年日本民族の心の底に潛在したる忠君愛國の精神は、俄然として蒙古襲來の刺戟によりて、一大超躍的發作を遂げた。我等は今更ら東巖和尚蒙古退治願文を誦して六百五十年を隔て、尚ほ其の眼前に擧國一體、以て國難に當りたる意氣を髣髴せしむるものがある。
  樹下石上、草衣木食、滴水寸土、無非朝恩(てうおんにあらざるはなし)、行道修善(みちをおこなひ、ぜんをおさむ)、皆歸國家(みなこつかにきす)、知恩報恩眞實行業(おんをしり、おんをほうず、しんじつぎやうごふ)。
 との願文の一節を身よ。
 又曰く、
  内證聖徳(うちにせいとくをしようし)、聖道高運(せいだうかううん)、外用大勢(そとにたいぜいをもちゐし)、獅子虎狼、四海歸徳(しかいとくにきす)、萬國怖威(ばんこくふゐ)、降伏敵國(てきこくをこうふくし)、衆怨消滅(しゆうをんせうめつせん)。
 と。この回向の文字は、今日の支那事變に、その儘採用しても、何等改作の必要を認めない。
  
   すへのよの末の末までわが國は
          よろづのくににすぐれたる國


 此の如く日本學は、學問として存在しなかつたが、歴史として存在した。當時の日本國は、日本學校であつた。當時の事件は、日本學校の教科書であつた。而して當時の日本國民は、日本學校の生徒であつた。此の如くして、精神日本は一の大なる機會ある毎に、長養、訓育、陶冶せられた。

 皇室中心主義は日本學の基調である』と。
■及び括弧()内は小生による。




 聊か引用が長くなつたが、つまり蘇峰翁のこゝで云ふ日本學とは國學のことを指して云ふ。
 翁の云はむとするところ引用にて明瞭だ。

 愚案。目下、反日隣邦による對日政策を危惧し、連日聲を上げる者達がゐる。
 そのことについての異論はない。寧ろ、其の氣概に關してのみ云へば、素直に評したい。
 だが一方蘇峰翁は、過去、外壓もて日本精神は昇華されたと分析してゐる。忠君愛國の志は飛躍したのである、と。加之、國學の發展をみた、とも。
 ならば排斥運動の澎湃と同時に、國學の研究も進んでをらねばならぬ。目下は、云ふなれば片手落ちだ。
 有體に云へば、斯くなる排斥運動・排外運動は萬國に起こり得るそれと同樣だ。故に贔屓目に見做しても、純乎たるの日本主義運動とは云へまい。

 だが其の心意氣は必ずや片手落ちを超克して、眞の日本主義運動に歸結するものと小生は信じてゐる。
 尤も小生、不肖と雖も、他者に付託し安坐するほどの傍觀者でもなければ他力本願至上主義者でもない。
 牛歩の如き歩みと批判されんとて、日一日前進でありたい。

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by sousiu | 2010-07-25 13:57 | 小論愚案

吉田松陰先生の書翰から

 留魂録に筆を執る少しく以前、江戸小傳馬町獄舍にて。

 松陰先生は松下村塾時代、高杉晉作先生より『男子は何處で死ぬ可きです乎』と問はれたことがあるといふ。
 確答出來なかつた松陰先生は、死を目前にした今、悟るところありて以下の如く高杉先生に囘答の書翰を差し出してゐる。
 
 昨日に引き續き、『吉田松陰―独り、志に生きる』より、引用したい。


松陰先生曰く、『今この獄中になつて、死の一字につき發見したことがあるので、いつかの君の質問に答へておく。死は怖れるものではなく、憎むべきものでもない生きて大業をなす見込みがあればいつまでも生きたらよい。死して不朽の見込みがあると思ふなら、いつどこで死んでもよい。要するに死を度外視してなすべきをなすが大事だ』と。

 この書翰について古川薫氏は以下のやうに記してゐる。
古川氏曰く、『これは高杉晉作の生き方を決定する重要な示唆となつた。「いさぎよく死ぬ」といふ武士の美學によつて、逃げることを恥辱と心得る人々が幕末に多く、あたら人材が消えて行く例がめづらしくなかつた。「神出鬼沒」といはれる一方ではよく逃げもしたが、晉作は「犬死」を避けて「不朽の見込み」のある死場所をさがしてゐたともいへる。松陰の門下生の中で、師の遺志を最高に實現させたのは高杉晉作だが、その行動を支へたのは、處刑寸前の松陰からさづけられたこの死生觀である。
 長州藩の藩論を討幕に確定させようとして苦鬪した松陰の悲願は、晉作による功山寺蹶起によつて達成されたのだが、それも「死して不朽の見込み」ありとして無謀とみられた擧兵の敢行がもたらせた結果であつた死を目前にした松陰のひとことが、その愛弟子を通じて歴史を旋囘させたのである」と。

 

 嗚呼。素晴しきなるかな哉、素晴しきなるかな哉。この師にありて、この門弟にあり。
 この先進に對して、果して後進の我らは奈何。
 高杉晉作先生、松下村塾御門弟のみ而已ならず、我らも先達に學ぶところ大にしてある可し矣。
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by sousiu | 2010-07-24 00:15 | 先哲寶文

吉田松陰先生「留魂録」 ②

「留魂録」第八節を、『吉田松陰―独り、志に生きる 』(平成五年「PHP文庫」發行) にて古川薫氏の現代語譯を下記したい。
 
古川氏曰く、
『今日、死を覺悟した私の平安な心は、春夏秋冬を循環する四季を考へることによつて到達し得たものである。つまり農事を見るに、春に種をまき、夏に苗を飢ゑ、秋にそれを取り入れ、冬には收穫した穀物を貯藏する。秋冬に至れば人は汗を流して働いた成果を喜び、酒をつくり、甘酒をつくつて村中に歡聲が充ちあふれるのだ。
 私は今年三十歳になつた。まだ一事の成功を見ることもなく死を迎へようとしてゐる。これは穀物がまだ花をつけず、實らないのに似て、口惜しい限りだ。しかし、私の身についていふなら、今が花咲き結實のときなのである。何を悲しむことがあらう。なぜなら、人の壽命といふものは、定まつてゐないからである。穀物のやうに、必ず四季をめぐらなければならないわけではない。
 いふならば十歳で死ぬ者は、その十歳の中におのづから四季を存し、二十歳は二十の中に、三十歳は三十の中に四季があり、五十、百はおのづから五十、百の中に四季を有するはずである。
 十歳で短すぎるといふのは、ヒグラシをして長生の樹木たる靈椿たらしめんとするやうなものであらう。また百歳をもつて長いとみるのは、靈椿をしてヒグラシたらしめんとするに似て、いづれも天から與へられた壽命に達しないといふべきだ
 私は三十歳、四季はすでに備はつてゐる。花も咲き、三十歳の實も結んだ。たゞ、その實が單なるモミガラなのか、粟であるのかは、私の知るところではない。
 同志の君たちのなかには、私のさゝやかな眞心を憐れみ、私の志を繼いでやらうといふ人がゐるのなら、それはのちにまかれるべき種子が絶えないで、穀物がつゞけられて行くことを意味するのだ。同志よ、どうか私のいはむとするところを、よく考へてほしい』と。

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「留魂録」は、死刑を覺悟した松陰先生が畢生の筆を揮つた遺書である。
「留魂録」は全部で十五節と末尾の和歌五首で構成されてをり、約五千字で盡されてゐる。執筆は安政六年十月廿五日に始められ、翌日の廿六日に書き上げられてゐる。松陰先生今生最後の一日、つまり處刑される前日である。

 冒頭にとつゞられてゐるは、

身はたとひ 武藏の野邊に朽ちぬとも 留置し大和魂

 世に識られるうたである。
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by sousiu | 2010-07-23 17:20 | 日々所感

吉田松陰先生「留魂録」 ①

 昨日は展轉社に赴き、打合はせ。其の後、夕方から新宿へ行き、阿形先生の事務所へ。
亦たしても遲くまで御邪魔してしまつた。
 遲れつゝある機關紙の仕上げに全力投球し、一昨日から不眠であつたので展轉社にゐる時から朦朧としてゐた。平澤派現象だ。ノンアルコールでの酩酊だ。

 それにしても酷暑だ。まつたく大暑だ。
 以前は夏の到來は嬉しきものであつたが、いつからか、夏に心躍ることも尠くなつた。
 さう云へば、若いころは少々の不眠不休でも何でも無かつた。既に中年に差し掛かつてゐる證據だ。(突つ込み無用)
 不圖考へてみると小生の今生、季節で云へば、そろゝゝ秋頃乎。それとも未だ夏だらう乎。

 斯くの如く愚考しながら、吉田松陰先生の「留魂録」を思ひ出した。


吉田松陰先生、江戸の小傳馬町の牢内にて「留魂録」第八節に曰く、
今日死ヲ決スルの安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬藏ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ爲リ村野歡聲アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ

吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス實ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀實ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ經ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ靈椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ靈椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ

齊シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦實其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ繼紹ノ人アラハ乃チ後來ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ
』と。
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by sousiu | 2010-07-23 15:56 | 日々所感

維新の秒針

 必ず、現在の日本主義運動は、言の葉の問題に撞着致すであらう。
換言すればそれ、避けて通れぬ問題と申す可き。
 而、さう遠くの將來になきことゝ愚考す。更に云へば、遠きことであつては餘りにも困ることである。

 この問題を突破する能ふに、大きな飛躍と前進が期待できること明々白々なり也矣。
 何故ならば。元來、日本人は頭腦明晰、見識廣大にして。
突破口さへ拓かるれば、必然として新國學への摸索、研究期に突入する。
 國學は變革の曙光だ。それ無き變革は指導原理なき變革だ。アテの無い變革だ。いづれにせよ、日本を惡戲に改造してしまふものだ。
 國學を放擲して、幾ら政黨批判してみても、そは中々現状打開は困難である。況はんや、維新をや、だ。囘天をや、だ。

 多くの有志が國學に關心を寄せ、學究に努めるならば、賢明な我が日本人なればこそ、現代の橋本左内先生や、吉田松陰先生他多くの、學問而已ならず見識や人格を兼ね揃へたる大人物が期せずして日本に現れよう。諸先生が登場すれば、亦たしても必然たることゝして、現代の藤田小四郎先生、久坂玄瑞先生、中岡愼太郎先生、坂本龍馬先生の如き情熱家が誕生する。そして西郷隆盛先生、相樂總三先生も今に現はるゝ。我らが眼前に登場するのである。小生はさう確信しやまない。
 斯くして時代は正しく始動し、再起を重ねる。表面にて動き始めるのだ。

 さう。さればこそ、今は底面にての運動を嫌がらず、避けるでもなく、行なふ可きである。
底面での運動、とは、極左どもの地下に潛ることに非ずして。つまり、人目に觸れる能はず、地味で目立つこともなく、個人の成績として數へられることなく、しかして評價の得られぬ、さうした運動のことである。

 現在もて世相の潮流を説明すれば、そは戰鬪期に非ず。然りとて黎明期にも非ず。黎明期の以前ではないか歟。
 これを一日にして喩へるならば、肉體を勞使す眞晝に非ず。然りとて夜明けにも非ず。勿論落日にも非ず。謂はゞ丑の刻あたりではないだらうか歟。思ふに六十五年前の敗戰は落日のころだ。然れども、日は亦た昇る。日の本の國號をいたゞく我が國は尚ほ更ら尤もの御事だ。
 逆言すれば、國民の多く、とまでは云はぬまでも、有志の多くが學究へと努めて、初めて本格的な黎明期への幕開けである。つまり、“維新黎明期”である。

「國體護持」「尊皇討奸」「敬神崇祖」をスローガンで終はらせてはならぬ。
 亦た、それらを口喧しく、或いは口癖の如き唱へたところで國歩の哀運は毫も變はらぬ。
 敗戰によつて封印された我が國學の道統に連なるものでなければならぬのだ。
 それには戰前の寶文を自らが讀み解く力を養はなければならない。占領軍による鬼謀の鐵鎖を破壞し、眞乎たるの言葉を我がものとして歸さねばならぬ。英語を習ふなんざ、後でも宜しいではないか歟。言葉が輸入されたるもの乎、否乎の論議は國語學者に任せれば宜しいではないか歟。維新を招來せんとする者は運動家の本分を先づ、全うす可きなのだ。“木を見て森を見ず”に陷ること勿れ、だ。憚りながら、他國の言葉を解讀することや、言葉の正體を追究することは小生の本義ではない。當面の小生の第一義は、小生を含めて多くの國民が、先哲の學問と思想を讀み解き理會することにある。それには、とても「現代假名づかひ法」が邪魔なのだ。
 
 占領軍による沒收・燒却といふ大難を辛うじて逃れた先哲による書は、埋もれ木となり、ほとんど誰れの目に止まることなく、日々靜かに朽ちつゝあるではないか歟。これを國家の損失と云はずして何と云ふ可し。
 遺憾ながら和本や古書は年々、消えて無くなつてゐる。先人の大遺産を疎かとして如何して先人を敬つてゐるなぞと云へやうか乎。

 それには先づ、言葉を正さねばならぬ。先哲の貴き聲を無價値となしたるは、そこに書かれてゐる文字を外來語の如き見做してゐるが爲めだ。然り乍ら、世に言葉を修理せよ、と訴ふるのであれば御自らが先づ苦學することだ。

 さう。これは小生が己に向かつて放つてゐる苦言と精勵の言だ。
 先の「草莽~」では假名遣ひの誤用も指摘された。學ぶことが多くあつた。
 だが小生、無智を恥ぢとせぬことは既記のとほりである。幸ひにも同志や先輩に惠まれてゐる。

 果して小生の今生で寅の刻を迎へる乎、否乎はわからない。
 だが、同志と共に維新の秒針を少しでも進めてゆきたい。


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by sousiu | 2010-07-20 05:32 | 日々所感

無名民艸の近況報告 

 オタクと雖も多忙の日がある爲め、日乘の更新が遲れてしまつた。

 十五日、木曜日。午前中より所用の爲め、横濱と藤澤を行つたり來たり。廣島より國信隆士氏上京の一報を受け、夜は新宿へ向かひ一杯飮みながらの憂國談義。
 勿論、福田派である小生は烏龍茶。何と閉店まで福田派たる節操を守り、烏龍茶。福田派の模範生だ。

 十六日、金曜日。またも午前中からあちらこちら、と。阿形充規先生に時局問題を拜聽す。深夜まで先生の事務所に御邪魔してしまつた。

 十七日、土曜日。これまた午前中から横濱市内を徘徊。夕刻から「草莽崛起の集ひ」。講演後、懇親會。講師に御招きした中川先生の御講演が素晴しく、懇親會も隨分盛上がつた。既に周知の御約束とも云ふ可き眞つ赤な顏をした市村悟兄の「二次會」の強要、でなく、御誘ひがあつた。因みに兄の赤ら顏は恥じらひのそれではなく、酩酊のそれだ。毎度のことゝ知る流石の參加者はそれゞゝ巧みに脱出した。勿論、小生も、だ。講演會の内容については他日に感想を述べたい。
 夜は宮城縣から來た鈴木達也兄、大阪府から來た志賀智仁兄が弊社に宿泊。明け方まで鼎談。彼らは相原修兄の飮み殘した酒で、小生は『お~いお茶』で。話しも盡きぬ。

 十八日、昨日。午後に鈴木兄を驛まで御送りした。彼は此度びの講演を拜聽しに、仙臺の坂田兄と共にバスでやつて來た。諸兄は皆と同じく灼熱の如き赤心を有する好青年である。朝、鈴木、志賀兩兄は起床し寢惚け眼のまゝ、早速運動や言擧げについて話しの續きをしてをる。睡夢でまで討論してをつたことに疑ひを容れない。その求學心は敬服に値ひする。
 送り屆けた後、志賀兄は一人で厚木に向かひ皇國同志會の演説會へ。小生は殘り機關紙製作の續きに取り掛かる。
 演説から歸つて來た志賀兄と憂國談義。彼の場合、自家用車で參上したので歸りの時間は自由だ。

 十九日、なんと先ほどまで、志賀兄と言靈についての意見交換。彼は強烈な持論を持つてをり、それを披露する。結局まるゝゝ一日半、彼と彼の持論とに向き合つてゐたことゝなる。彼は今ごろ、眠々打破を飮みながら東名高速道路を下つてゐる。運轉しながら、ひとり車内で喋つてゐればそれは最早、彼は深刻な病氣の持ち主だ。
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by sousiu | 2010-07-19 06:15 | 報告