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文化傳承學會

 昨日(廿九日)は、「第貳囘 文化傳承學會」。市村悟兄の呼び掛けにて固有文化について考へる會だ。
 講師・・・と云へば格好が宜いのだが、別段、講師と云ふ譯でもなく、屁理窟が小生、いさゝか優れてゐるてふ理由から謂はゞ司會進行を頼まれたやうなもの。
 固より大半は先輩なので、氣苦勞の多い役廻りと云へば役廻りだ。
 本日は福田恆存先生の『私の國語教室』を題材として諸先輩、同志諸兄と一時間半を過ごした。

 凝り性の小生、一度關心を覺えると、人に勝るとも劣らじの決意もて集中するのであるが、諸先輩はじめ、諸兄の熱中は、そは驚く可きものがある。

 ・・・と思ひきや、不圖、主催者である市村悟兄を見てみると、目を瞑つてゐる。
 然るがゆゑに、市村兄の御尊名を話しのネタに用ゐると、笑つてをられる。起きてゐた。

 ・・・・と思ひきや、今度は伊藤滿先輩を不圖見ると、何やら集中してをられぬ御樣子。
 可愛い後輩が、諸先輩の嚴しき視線を一身に浴びつゝ、懸命に話しを續けてゐるのであるから、屹度それはないだらう、と確信し最後まで頑張つた。が、小生の確信は早計であつたことを、寫眞で判明した。

 最近の伊藤先輩は宜い先輩だ。御説教と毒舌が無くなつた。だが、その分、監視の目は嚴しくなつた。懇親會で聞き耳を立てるに聞こえしは、『あいつ(河原)、日乘で好き勝手なことを云つてやがる』と。思ふに、可愛い後輩の日乘であるから、屹度小生の聞き間違ひだらう・・・・との確信は大早計である。絶對云つてゐた。


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※寫眞上。市村先輩は起きてゐた。小生の目の錯覚であつた。

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※寫眞上。伊藤先輩は小生の目の錯覺でなかつたことがこれによつて判明した。
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by sousiu | 2010-08-30 02:52 | 報告

水戸學私論、一ト休み

 廿五日、日本誠流社・貴田誠會長、同社諸賢が横濱に來訪。御連絡を賜はり、急行。今後の運動の展開について歡談した。熱かつた。

 廿六日、某雜誌に依頼された原稿に取り掛かる。締め切りが此の日までであつた爲め、專念。無事拙文を脱稿。慌てた。

 廿七日(昨日)、阿形充規先生の御厚情にて、群馬縣は桐生市へ。早朝より愛心翼贊會の山川裕克兄、門人數名と共に横濱を出發する。大日本朱光會諸賢と自然を滿喫しながら懇親を兼ねて、愛國談義に華を咲かせた。鮎盡くしが美味だつた。

 廿八日(本日)、阿形先生の御誘ひにより、都内で開かれる「時代おくれ」懇親會に參加。御芳名はやむなく伏せさせていたゞくが、諸先生の御尊話を拜聽する。勉強となつた。

 以上。偶には日乘らしく近況報告を。尤も、更新の滯つてゐる言ひ譯けが本意であることは、賢明なる御客人に最早説明を要すまい。

 御諒恕あれ。  相州大庭四阿主人 謹拜

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※頭山興助先生、阿形充規先生を圍んで(廿七日。桐生にて)
既に眼光鋭利な御方は御氣付きであらう。小生の服(作務衣)が毎日變はらぬことを。きちんと洗つてをり、風呂も毎日缺かさず入つてゐるので、念の爲め。
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by sousiu | 2010-08-28 23:55 | 報告

烈公に學ぶ  其の貳 =告志篇=

烈公、『告志篇』にて曰く、
『凡そ武士たるもの、武道を勵まずして叶はざる儀は各々も承知の事に候へども、不學文盲にては相濟まざる事と存じ候。兒童も知りたる通り、今川了俊が文道を知らずして武道遂に勝利を得ずといへるは、其の言淺きに似たれども其の旨深しと思ふ。(中畧)

 士の大節に臨みて嫌疑を定め、戰陣に臨みて勝敗を明らめ、生死を決し義理を分つ。學問にあらずしてそもゝゝまた孰れぞや。然るに當世無學の士、是非黒白のわかちもなく、士は武藝を事として死すべき場にあらでも死す。學問は書生の事也、するに足らず學ぶに足らず、せざるのみにあらず、又從つてそれを謗る。是れ皆、生をいつくしみ死を畏るる者の言葉、士とするに足らざるべし。士たらんもの、死は分内の事なり。ただ義に處するをもて難しとす。されば己れ死すべき場なりと思へる。却つて死すまじき所にや。山賊強盜のたぐひ、死を見ること歸するが如し。もし命をいつくしまぬをのみ士といはゞ、これらの人も士なるべし。(中畧)

 能く能く文武の一致なる儀をわきまへ、兎に角に、修行專一に心懸け、何事を學ぶとも、年月を頼まず、學ばんと志さば速に學ぶべし。勤め向繁多、家事繁多と、いちゝゝ數へ立てていへば、ひまなきが如くなれども、己れの好む事するひまある事なれば、好みさへすれば何事にても大方出來ぬといふはある間敷なり。何程勇力ありても、習はぬ武藝はする事能はざるが如く、何程才氣ありても、生れのまゝにて學問せざれば、古今に暗き故、よき了簡分別も出申す間敷候。南蠻鐵も敷度の鍛へを經て名刀の名を得、白玉も磨瑳の數を經て夜光の名は得る事なれば、生れのままにさしおかず、文武とも、壯年の者は猶更精を勵み候樣に致し度候』と。

 當初水戸藩は尊皇崇幕であつた。これ、水藩の大眼目は當初から尊皇討幕であつたが、幕府の嚴重なる觀察もあり“崇幕”は方便にして本心は“反幕”であつた乎、若しくは初心にして“崇幕”ありと雖も、時流と共に“反幕”を掲げたるもの乎。
 愚案。藤田東湖先生の『弘道館記述義』を拜讀するに、水戸の最も侮蔑するひとつに、皇道を毀損した者、俗儒曲學の者とが擧げられてゐる。水戸の、固より信念が曲がらう筈も無く、亦た、忠孝を何より重しとみた水藩が、當初から討幕を掲げてゐたとは考へ難い。よつて孰れにも非ず、啻に尊皇を至上のものとしたが故の結果である。『武公遺事』(青山延于翁著述)にはかう記してある。武公とは義公の父君、七代水戸藩主・徳川治紀卿その人である。注目せられよ。

青山延于翁、『武公遺事』に武公徳川治紀卿の言を記して曰く、
『公は御平生、朝廷をことの外御尊敬被遊けり、或時景山公子へ御意遊ばれけるは、たとひ何方の養子と成候とも御譜代大名へは參り不申候樣に心得可申候、譜代は何事か天下に大變出來候へば、將軍家にしたがひをる故に、天子にむかひたてまつりて弓をも引かねばならぬ事□、これは常に君としてつかうまつる故にかくあるべき事なれども、我等は將軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなは、少も將軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり、何ほど將軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはあるまじ』と。
【參照 7/44】http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781758

『武公は御平生、朝廷を殊のほか御尊敬遊ばされ、或る時、景山公子(烈公のこと)に御意遊ばさるゝは、「たとへ何方の養子になつても、御譜代の大名へは參り申さざるやう心掛けてをらねばならない。譜代は何事か天下に大變が出來たならば、將軍家に從つてゐれば、天子に御向かひ、弓を引かねばならぬ事があるからである。これは常に君として仕ふてゐるから斯くある可きが當然であらうけれ共、我等は將軍家が如何に御尤もの事があつても、苟も天子に御向かひ、弓を引くことがあれば、斷じて將軍家に從ふことはせぬとの心得である。何程將軍家に理があらうとて、天子を敵と遊ばされ候ふては、不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはない」と』




 いづれにせよ江戸幕府の專横のもと、敬神尊皇の志を養ふことは、虎の尾を蹈むの如きであつた。而も水戸は幕府の親藩である。三家の隨一である。事實、こののち水藩は、其の志と戊午の密敕を巡り、井伊直弼一派から悉く彈壓を受け、嗚呼、水戸處士始め多くの士は夥しき其の血で土を赫に染めずんば能はず。反幕の人柱となるのである。これ世に識られる「安政の大獄」なり也。

 蓋し、學問を獎勵する水藩の一大事業は、我が國が神國であり、世界無比たる神聖の國であることを正しく傳へ、民の持つ爆發的なエネルギーを皇國中興の爲めにのみ向ける可きとの宿志であらう。尤も、もののふが文武兩道で無ければならぬは云ふまでもない。とまれかくまれ烈公の宿願と水藩有志の情熱は、多大な犧牲を被りつゝ、幕府の基礎を搖がす地鳴りを痛打した。求學の成果によつて、武魂が正しく昇華したのである。これぞ求學求道の面目躍如と云はずして何と申すべし。



弘道館賞梅花  徳川景山

  弘道館中千樹梅
  清香馥郁十分開
  好文豈謂無威武
  雪裡占春天下魁


弘道館に梅花を賞す  徳川景山(齊昭)

  弘道館中、千樹の梅。
  清香馥郁として十分に開く。
  好文、豈に威武無しと謂わんや。
  雪裡春を占む、天下の魁。

 水戸の弘道館と偕樂園は梅の名所として識られる。そは烈公の命により植ゑたるものだ。
 烈公は梅の花を民衆と樂しむ爲めばかりに植ゑさせたのではない。梅が雪の中から花の魁けをするのになぞらへて、天下の魁けたるべき精神の涵養を望んだのだ。亦た梅の實は採つて兵糧の備へとする目的もあつたさうな。
 風雲急を告げる。正氣漲るや間も無しー、そんなころの咄である。


 ・・・何だか日乘の内容では無くなつてしまつたが・・・・小生は水戸贔屓なので今暫らく、御高恕賜はらむ。
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by sousiu | 2010-08-24 17:47 | 先人顯彰

烈公に學ぶ  其の壹 =弘道館記=

 義公瞑せられ其の後、少しく文運衰へ時が經ち、水戸の志も筐底に埋もれたかに見えたが、水戸住民に備はる熱誠は烈公の世に至り、猛然、澎湃をみたことは史實に明白だ。
 水戸學に於ける、義公の功績大なるを大日本史編纂だとするならば、烈公のそれは藩學の弘道館設立である。


蘇峰徳富猪一郎翁、『維新囘天の偉業に於ける水戸の功績』(昭和三年五月「民友社」發行)に曰く、
『何と申しましても、尊王攘夷の大本山は水戸であり、其の大宗師は烈公であつた。烈公は時としては餘りに一方に偏し、餘りに一物に熱し、餘りに一事に傾き、その爲めに心ならずも其の言は極端に趨り、自ら取り返しのつかぬ立場に立たねばならぬ始末に陷られたこともあつた樣でありますが、然も水戸學を具體化したる人は、正しく烈公であります。義公によりて唱首せられたる皇室中心觀念や、日本中心觀念は、烈公の尊王攘夷説によりて其の色揚げを致しました』と。


 烈公ー、徳川齊昭卿。徳川家最後の將軍、徳川慶喜の父君である。
 此の頃、水戸の兩“田”と稱された藤田東湖先生、戸田忠太夫先生てふ偉大な先覺者が御活躍されたことは史實に明らかだ。兩先生に、後の天狗黨の首領となる武田耕雲齋先生を加ふれば水戸の三“田”だ。更らに前掲したる會澤正志齋先生あり。安島峨興(帶刀)先生あり。他にも傑物が悉く出現し、そは將に群雄割據した時代だ。




 扨て。弘道館記には「文武岐(わか)れず」と説かれてゐる。

百川元氏、『水戸論語』(昭和十五年十二月廿日「改洋社」發行)に曰く、
『武士道は義を重んじたところに成り立つてゐたが、義と不義と判別するには學問がなければならない。いくら勇猛でも義の一字を蹈みはづした勇は匹夫の勇である。文道=學問の道=に明るくあつて初めて義を正しく守ることが出來る。武士の本分は一死奉公にあつたが、たゞ死にさへすればよかつたのではない。死は易い。逃げ道としての死は誰でも死ぬことが出來る。武士にとつては死が道である。そこに武士の一死は鴻毛よりも輕いと同時に泰山よりも重いものがある。武士は死ぬことによつて生き、武士として生きるためにこそ死ぬのである。死ぬために死ぬのは雜作がないが、生きるための死であるが故に、武士の死が武士道の上に尊いと共に、武士として死ぬことのむづかしさがある』と。


藤田幽谷先生、愛兒(東湖先生)を戒めて曰く、
文武は相待つて用を成す者。決して一方を廢するな。汝は文を學んでも腐儒と爲るな。劍を學んでも劍客に墮ちるな』と。(弘道館記述義の精神と釋義「旺文社」昭和十八年七月十六日發行より)


藤田東湖先生、曰く、
昔漢の周勃・漢嬰は文がなく、隨何・陸賈は武がなくて、皆人から笑はれた。男子は文武兩全でなければならぬ』と。(同)


 愚案。斯くなる水藩の精神は勤皇先覺の心に浸透せず能はず。されば志士豈に沈默を守らむか。水戸藩はやがて尊皇運動の火藥庫の如きと相成り、爆發的な運動を展開することゝなる。水戸天狗黨然り。櫻田義士然り。
 殊に東湖先生の畢世の心血をそゝいだ一大雄篇とも云ふ可き「弘道館記述義」に、其の面目躍如たるを解し得るなれ。
 烈公竝びに水藩の其の眼目は何。即はち皇道を明らかにせむが爲めなり也矣。
 小生はつゝしんで弘道館記をこゝに掲げらん。


弘道館記・原文(抄出)
『弘道者何。人能弘道也。道者何。天地之大經、而生民不可須臾離者也。弘道之館何爲而設也。恭惟、上古神聖、立極垂統、天地位焉、萬物育焉。其所以照臨六合、統御宇内者、未曾不由斯道也。寶祚以之無窮、國體以之尊嚴、蒼生以之安寧、蠻夷戎狄以之率服。而聖子神孫、尚不肯自足、樂取於人以爲善。乃若西土唐虞三代之治教、資以贊皇猷。献於是斯道愈大愈明、而無復尚焉。中世以降、異端邪説、誣民惑世、俗儒曲學、舍此從彼、皇化陵夷、禍亂相踵、大道之不明於世、蓋亦久矣。我東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允武允文、以開太平之基。吾祖威公、実受封於東土、夙慕日本武尊之爲人、尊神道、繕武備。義公繼述、嘗發感於夷齊、更崇儒教、明倫正名、以藩屏國家。爾來百數十年、世承遺緒、沐浴恩澤、以至今日、則苟爲臣子者、豈可弗思所以推弘斯道發揚先徳乎。此則館之所以爲設也。~』と。


弘道館記・讀み下し(同)
『弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大經にして生民の須臾も離る可からざるもの也。弘道館は何のために設けたるや。恭しく惟みるに、上古神聖極を立て統を垂れ、天地位し萬物育す。其の六合に照臨し、宇内を統御する所以のものは、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。寶祚之を以て窮り無く、國體之を以て尊嚴、蒼生之を以て安寧、蠻夷戎狄之を以て率服す。而して聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず、人に取りて以て善を爲すことを樂しむ。乃ち西土唐虞三代の治教の如き、資りて以て皇猷を贊く。是に於て斯の道愈々大にして復尚ふること無し。中世以降、異端邪説、民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲學、此を舍てて彼に從ひ、皇化陵夷、禍亂相踵ぎ、大道の世に明かならざるや蓋し亦久し。我が東照宮、撥亂反正、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開き、吾が祖威公、實に封を東土に受け、夙に日本武尊の人と爲りを慕ひ、神道を尊び武備を繕む。義公繼述、嘗て感を夷齊に發し、更に儒教を崇び、明倫正名、以て國家に藩屏たり。爾來百數十年、世に遺緒を承け、恩澤に沐浴し、以て今日に至る。則ち、苟くも臣子たる者、豈斯の道を推弘し、先徳を發揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館を設けたる所以なり。~』
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by sousiu | 2010-08-23 21:37 | 先人顯彰

義公による訓言  其の貳 =西山隨筆=   

 隱退後、義公は西山(せいざん)莊にて餘生を過ごした。
 その西山隨筆五則を掲げむとする。

徳川光圀卿、『西山隨筆』に曰く、
『人、幼少にして聰明器用の名ありとも、みだりに襃むべからず。十四五歳を過ぎて志變ずることあり。よき生れつきも惡く變じ、惡しき生れつきも善くなる事多し、これ大切の時なり。其の志正しき方におもむきて移らざるを見て後、襃むべし』と。

 愚案。人を判斷するには長い年月を要すべきだ、との事由。幼少にして聰明と雖も、後、如何なるか解らぬ。逆も亦た然り。今は小人と雖も、いづれ如何ほど偉業を成すか解らぬものであるから、人の現時點而已をみて、無暗に譽めたり、輕んじてはならぬ。かういふ教へだ。
 平澤次郎翁曰く、「河原はまつたく駄目な奴だぜ」と。最早口癖となつてしまつてゐる。翁、つゝしんで義公の言に學ぶべし。



 次いで曰く、
『女子は柔にして和順なるを襃む。男子は剛にして豪氣なるを善しとする。女の勇強に、男の懦弱なる、皆天地の道理にあらず。惣じて幼きは幼きやうに、壯年は壯に、老者は老に、隱者は隱に、職人は職なるべし。是れ順なり。これにそむきたるは逆にして惡し』と。

 全く以て其の通りだ。目下、男女平等が高じて同權を主張するジエンダーフリーやらフエミニストやらの問題兒が増加し、凡ゆる社會の混亂を生じ來たらしめてゐる。義公の云はむ言を拜借すれば、天地のことはりに背くものだ。なげかはしくは、草食系男子と肉食系女子の増加といはれる今次だ。男性は男性らしく、女性は女性らしくあるべきだ。就中、妻たる人、寡默を貫き、ひたすら夫を疑ふことなく家内の守りに徹してをればそれで宜しい。我が愚妻、つゝしんで義公の言に學ぶべし。



 次いで曰く、
『人おのゝゝ用ふる所あり。一事に長ずれども、又一事に短あり。その長じたる所を採り用ふべし。一人に何事も備はらむことを求むる時は、用ふべき人なし』と。

 愚案。世に完全たる人間はゐない。若しも完全なる者を求めるのだとすれば、用ゐられる可き者は皆無だ。短所は短所として受け止め、その者の長所を採つて用ゐるべきである、と義公。總じて平澤派の諸賢、呑めぬ小生を酒席で苛める。三澤浩一先輩に至つては、小生を噛む。それを目の當たりにした時對協平澤派、止める能はず笑つてをる。彼らに小生を苛める心あらずんば、除け者にせむとする心あるの疑ひを容れない。そは、首領の平澤次郎翁の了見に違ひない。時對協の平澤派は、つゝしんで義公の言に學ぶべし。



 次いで曰く、
『司馬遷が史紀を見るに、忠臣義士、功名高き人の傳、詳しく之を載す。然れば漢の紀信は、高祖の身代りに立ちて身を火に亡ぼせり。當時、紀信なかりせば、高祖の命保ち難からん。斯程の大忠臣を何ぞ列傳に特に載せざるや。或る人、紀信は只此の一事のみにて、其の外事實知れざる故に、特に傳を立てずといふ。大なる誤りなるべし。一事とても、天下無雙の大忠節、誠に百戰百勝の功よりもすぐれたり。斯くの如きの人は蕭曹張陳が傳と竝べ立つべきものなり。傳短しとて省くべからず。萬世の教を垂る。史記、此の一傳を缺くこといと殘り多し。後の史、晉書、唐書の類はさのみ功名もなき短き傳ども多くあり、省くにはしかじ。古の儒者、荀楊王韓、皆、明儒なり。善を勸め、惡を懲らし、聖人の道を尊び、邪僻の行ひを戒む。大儒に非ずして何ぞや。其の中に性を説けるに違ひありて、議論各異れども、皆一理ある事なり。畢竟、善人なり。若し異りとて謗らば、宋儒の道統を繼ぐといふなる人、皆異見なきにしもあらず。惣じて大儒を小疵ありとてみだりに謗るべからず。楊子が莽太夫と書せらるゝ掩ふべからずと雖も、法言の名語は尊むべし。君子に惜しき疵ある事多し。其の非を捨て、その名言を取る。これ活法なり』と。

 蕭曹張陳は蕭何、曹參、張良、陳平。荀楊王韓は荀子、楊子、王充、韓非子のこと。
 愚案。史實は、人によつては詳らかに書かれてゐたり、その逆であつたり。善きことが誇張され、或いは逆であつたり。從つて、風聞・口傳よりも、その者の業績、善惡を見通すことが大切である、と。さらば現代而已ならず近年の政治家、果して奈何。自虐史觀なぞ笑止千萬だ。ところで小生、曾て雜誌で排外主義や2ちやんねるを批判した際、小生の、批判に對する批判のスレツドが幾つか建つたことがある。曰く、「あの韓國人か」。曰く、「あのガリヒヨロか」と。いつの間にか小生で無い人間の惡口になつてゐた、噫。小生と云ふ人物、能く々ゝ識れば、屹度いい奴に違ひない。2ちやんねるの住人は、つゝしんで義公の言に學ぶべし。汗



 最後に曰く、
『儒者の異端あり。聖人の道を説きつゝ甚だ固滯にして物理に通ぜず、政をする時は民樂しまず俗和せず。その性命道徳を論ずるは高きに以て、自己今日の勤めは愚者に異らず、却つて白人に學問害をなすかと嘲らる。斯くの如き類、異端にあらずや。朱文公、陸象山、陳白沙、王陽明、各異端あれども、共に是れ千古の大儒なり。今日、其の書を學び、圓に用ふれば行ふところ皆善道となり、偏に用ふれば善行も惡くなるなり。日蓮宗三大部に固滯して、一句半言にかたより偏見をなすやうに、儒者も偏見を挾み、中和の道を失ふの徒、皆儒中の異端といふべし』と。

 愚案。その説法が如何に優れてをらうとも、現實に合致しないことには愚人の空言、机上の空論である。それゆゑに、他人から「學問は害を及ぼす」とまで嘲笑されることゝなる。優れた學問を今日の事情に則して解釋し、實學として學ぶることが必要であり、その言説をそのまゝ受け容れるならば却つて宜しからぬ結果を齎らさないとも限らない、といふことである。・・・・小生、つゝしんで義公の言に學んでみようと思ふ・・・・笑止。
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by sousiu | 2010-08-22 21:05 | 先哲寶文

義公による訓言  其の壹 =壁書=   

 前囘、日乘で義公について少しく觸れた。

 水戸黄門漫遊記を通じて巷に識られてゐる義公。が、云ふまでもなく、あれは全くの作り話であり、義公の偉業は決してテレビドラマから識る能はぬ。然れ共、義公に纏はる左樣な作り話が傳へられるに至りたるは、固より理由なきものとしない。義公は大日本史の特徴の一つとも云へる「大義名分」を重んじた。他方、人情味も殊更ら深く、世情にも詳しくあつたと云ふ。然るが故に、人々の間で斯くの如き漫遊記が生じ來たつたのではあるまいか。

 今、茲に、義公による日常教訓とも云ふ可き心得を掲げることゝする。
 此の日常教訓もそのやうな義公の御人柄を能くあらはしてゐる。

 さても當たり前へのことゝ思ふなかれ。
 若者はすべからく、肝膽に銘ず可し。
 殊に平澤派の住人、其の五を音讀するが猶ほ宜し。苦笑。


徳川光圀卿壁書

  一、苦は樂の種 樂は苦の種と知るべし
  一、主人と親とは無理なるものと思へ 下人は足らぬものと知るべし
  一、子ほど親を思へ 子なき者は身にたくらべき近き手本と知るべし
  一、掟に怖ぢよ 火に怖ぢよ 分別なき者に怖ぢよ 恩を忘るる事なかれ
  一、慾と色と酒とを敵(かたき)と知るべし
  一、朝寢すべからず 咄の長座すべからず
  一、小なる事は分別せよ 大なる事は驚くべからず
  一、九分に足らず 十分はこぼるると知るべし
  一、分別は堪忍にあるべしと知るべし
      ※()及び括弧内と、下線は(當然)小生による。

 以上。
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by sousiu | 2010-08-21 07:28 | 先哲寶文

尊皇攘夷の精神を學ぶ

 幕末の尊皇攘夷運動が如何であつた乎。
 運動の成果而已を見れば維新は薩長に負ふところが尠からず存する。
 されど其の行動の基礎となりし理論的根據は、遡れば水戸學による尊皇攘夷思想の影響が大である。
 水戸學は謂はずとしれた、義公を總裁とし始められた大日本史編纂事業を出發點とする。
 尊皇の志逞しうある水藩の一大偉業は、義公による水戸史學から烈公による水戸政教學に至り、維新の志士達の魂を燃え上がらせた。其の焔は徳川幕府にとつての業火となつた。殊に志士達の血を沸騰せしむるに至りたる其の一つとして、會澤正志齋先生の『新論』を擧げることに小生は遲疑しない。
 昨夜、日乘を記すに當つて思ふところあり。所藏せる古書を引つ張り出して、調べ、今の今まで掛かつてしまつた。調べに調べた積りだが、譯に關して誤りあらば御諒恕、御批正賜はらむことを。

 しかし、小生もいよゝゝ病的なオタクだなア・・・。山乃蔭兄の云はむとしたことが一寸丈理解出來た。とほゝ。


會澤正志齋先生『新論』に曰く、
『謹按  神州者大陽之所出、元氣之所始、天日之嗣、世御宸極、終古不易、固大地之元首、而萬國之綱紀也、誠宜照臨宇内、皇化所曁、無有遠邇矣、而今西荒蠻夷、以脛足之賤、奔走四海、蹂躙諸國、眇視跛履、敢欲凌駕上國、何其驕也、是其理宜自隕越以取傾覆焉、然天地之氣不能無盛衰、而人衆則勝天者、亦其勢之所不得已也、苟自非有豪傑奮起以亮天功、則天地亦將爲胡羯腥膻所誣罔然後已矣、今爲天下論其大計、天下之人愕然相顧、莫不驚怪、溺舊聞而狃故見也、兵法曰、無恃其不來、恃吾有以待之、無恃其不攻恃吾有所不可攻也、然則使吾治化洽浹、風俗淳美、上下守義、民富兵足、雖強冠大敵、應之無遺(上:竹、下:弄=さん、算?)則可也、若猶末、則其爲自遑自逸者、果何所恃也、而論者皆謂彼蠻夷也、(敵の左側=商?)舶也、漁船也、非爲深患大禍者焉、是其所恃者不來也、不攻也、所恃在彼而不在我、如問吾所以恃之者、與所不可攻者、則茫乎莫之能知也、嗟夫欲見天地之免於誣罔、將何時而期之乎、臣是以慷慨悲憤、不能自已、敢陳國家所宜恃者、一曰國體、以論神聖以忠孝建國、而遂及其尚武重民命之説、二曰形勢、以論四海萬國之大勢、三曰虜情、以論戎狄覬覦之情實、四曰守禦、以論富國強兵之要務、五曰長計、以論化民成俗之遠圖、是五論者、皆所以祈天之定而復勝人也、臣之自誓而以身殉天地者、大略如此矣』と。()及び括弧内は小生による。亦た、本文には返り點が明記されてゐるが、パソコン入力の知識不足によりつゝしんで是れを省畧させていたゞいた。


『謹んで按ずるに。神州は太陽の出づる所、元氣の始まる所。天日嗣、世に宸極を御して、終古易(かは)らず。固より大地の元首にして、而(しかうして)、萬國の綱紀なり。誠に宜しく宇内を照臨し、皇化の曁(およ)ぶ所、遠邇有るは無し。而、今、西荒の蠻夷は、脛足の賤しきを以て、四海を奔走し、諸國を蹂躙し、眇視跛履、上國を凌駕せむと欲する。何ぞ其の驕れるや。是れ其の理を宜しく自ら隕越し以て傾覆を取るべし。然れど天地の氣は盛衰無き能はず。而、人が衆(おほ)く則ち天に勝るは、亦た其の勢ひの已む能はざる所なり。苟も豪傑が奮起するに以て天功を亮らかにあらざれば、則ち天地亦た將(まさ)に羯腥膻所誣罔する所となり然る後已まむとす。今、天下の爲めに其の大計を論ずれば、天下の人は愕然相ひ顧み、驚き怪しまざる莫(な)きは、舊聞に溺れて故見に狃(な)らうなり。兵法に曰く、其の來たらざるを恃(たの)むなかれ、吾の以て之を待つあるを恃め。其の攻めざるを恃むなかれ、吾の攻む可からざる所あるを恃め、と。然らば則ち吾をして治化は洽浹し、風俗は美に淳く、上下は義を守り、民は富み兵は足り、強冠大敵と雖も、之に應じて遺(愚案・算)無くば則ち可なり。若し猶ほ未だ、則ち其の自遑自逸を爲すは、果して何を恃む所ぞ。而、論者は皆謂ふ、彼は蠻狄なり、と。(愚案・商)舶なり、と。漁船なり、と。深患大禍を爲す者に非ず、と。是れ其の恃む所は來たらずなり、と。攻めざることなり、と。恃む所は彼にあつて而、我に在らず。若し吾の之を恃む所以の者と、攻む可からざる所を問はゞ、則ち茫乎として能く之を知る莫きなり。ああ、夫れ天地の誣罔より免れむを見ると欲するも、將(はた)、何時之を期せんとする乎。臣、是れを以て悲憤慷慨し、自ら已む能はず。敢へて國家の宜しく恃む可き所を陳ぶる。一に曰く國體。以て神聖、忠孝を以て國の建つるを論じ、而、遂に其の武を尚び、民の命を重んずるの説に及ぶ。二に曰く形勢。以て四海萬國の大勢を論ず。三に曰く虜情。以て戎狄覬覦の情實を論ず。四に曰く守禦。以て富國強兵の要務を論ず。五に曰く長計。以て民を化し俗を成すの遠圖を論ず。是れ五論は、皆、天の定めて復た人に勝つて祈る所なり。臣が自ら誓つて身を以て天地に殉ずるは大略の如し


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 上記の如く。會澤先生は尊皇論を基幹とした攘夷論者だ。次項『國體上』では國體論に就て詳らかに記されてゐる。小生の勉強不足であることが口惜しく、こゝまでの作業に十時間近くも要してしまつたので、流石に目がしよぼゝゝゝ。頭痛もして來たつた。はゝ・・・汗。

 續きは折をみて、いつか更新致したい。
 
 おやすみなさい。九拝
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by sousiu | 2010-08-19 07:58 | 先哲寶文

市民團體に對する小生の見解と、彼ら個人に對する誤解

 いやはや、すつかり殘暑を告げる蝉の聲に聞き入り、日乘の更新が遲れてしまつた。
まつたく面目ない。

 十四、十五日のことも書きたかつたのであるが、御清覽くださる皆さんと畧ぼ氣持ちは同じであると思ふ。
であるからして、兩日に賜はつた出會ひについてしたゝめたい。


 十四日は、「反ヤスクニ」と申す連中のデモを粉碎せむと、主に憂國清心同友會の呼び掛けにより、有志が集まつた。彼らのデモ出發地點は出來る丈人數を分散せず、我らは幟を立て、演説を行なひ乍ら、彼らの使用する會場・社會文化會館傍の交叉點で待つに至つた。その時のこと。
 在特會と稱する市民團體が日章旗・旭日旗・幟を持參し到來した。
 小生は在特會を識らない。個人的にわづかな知人はゐるが、其の會なるものゝ運動については詳しく識らぬ。たゞ、排外主義を掲げてゐる印象を持つてゐる。

 小生は排外思想は持つてゐない。
 何處ぞの保守派の講演でか、日本人は元來、“尊皇攘夷”の思想が備はつてゐると云ふ者があつた。でもそれは精確を缺いてゐる。“尊皇”は先天性のものだ。これは紛れもない眞實だ。だが、“攘夷”は元來備はつてゐるものではない。攘夷を日本人本來の思想と斷定するには多くの無理がある。上代より大和民族に排外思想なぞ、何處を見渡しても立證出來ぬ。寧ろ逆だ。進取の歴史だ。その進取が行き過ぎて、他國を無用に崇敬視するの餘り、彼らから輕んじられ侮られたことはあつた。その折には、古人の賢者は修正に務めた。
 聖徳太子の煬帝に當てたる書翰然り。伴天連禁制然り。鎖國然り。これらの一時點而已に注目して攘夷の先天性を説くのは明らかなる謬見であり、そもゝゝ斯くの如き政策・實行に至らしめたる因由を遡行して考へれば、誰れしも我が民族が排外思想を抱いてゐると斷定する能はぬ。
 そればかりか大和民族は多くの民族を同化してゐる儼然たる事實がある。この事實と如何樣に對峙す可き。。そは、皇謨の偉大と理會す可きだ。だのに義憤を抱くのは誤りだ。斯くの狹見は、世界皇化の人類誕生以來、無比にして壯大なる我が大事業の障碍と成る可き感情だ。
 
 但し、一ト度び攘夷の叡慮を賜はらむとき、途端に一轉、日本は全土に一氣千里、攘夷の熱風で覆はれるのだ。それは皇業を翼贊せむとする日本人の先天的性質がはたらく爲めだ。それが幕末、孝明天皇の御宇だ。けれ共、明治元年、明治天皇より五箇條の御誓文を賜はると、攘夷熱は息むに至つた。『智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ』。
 つまり、“攘夷”あつての“尊皇”ではない。“尊皇”あつての“攘夷”であつたことを、後世の我らに解き明かす何よりの證左だ。
 果して今上陛下の叡慮奈何と心得る可き。


 忌憚なく白状するが、然るが故に、小生は彼らの運動には好感を持つてゐない。
 小生とて日本人たるのひとり。雲上に攘夷の御心あらば、排外主義の急先鋒ともならう。狂人ともならう。鬼とだつてならう。一體、誰れに憚る可き。如何で遲れを取る可き。


 いさゝか長文になつたが、斯くの如く彼らを見てゐた小生、十四日の現場で彼らに御挨拶をされた。
 小生も挨拶で應へた。多少の會話も交へた。意外にも、まともであり、眞面目な人達であつた。
 彼らも去り際に、我々を指し「案外、禮儀正しい人達だな」と云つてゐるのを聞いた。

 大詔奉戴日には若者が「在特會の者です。いつも日乘を觀てゐます」と小生に聲を掛けて來た。
 この若者も意外にもまともであつた。その後も複數名、境内で在特會と稱する若者に聲を掛けられた。どちらかと云へば人物としては好感の持てる人達であつた。

 意外にも、とは甚だ失禮であるが、これは小生の先入觀による素直な感想だ。
 嘗て、小生、弊社機關紙や、他社機關紙でも彼らを批判したことがある。
 週刊誌や日刊紙でも市民運動の排外主義を批判した。その數倍、小生もネツトで叩かれたが…、苦笑。

 今尚ほ、上記理由に基き、小生は現時點での彼らの運動を決して日本主義に立脚したものと認める能はず。而、その運動には自づと限界があると考へ、期待することはおろか、好感を持つにも至らぬことは毫も變はりは無い。
 
 然れども、「在日外國人の特權を許さない」。この主張は正しい。
 大いに實行を促す可きである。然るにても、此の特權を許す主犯は我が政府にあることを忘れてはならぬ。
 たゞいま日本が病んでゐると見做すならば、その治療法は外科ではない。内科だ。つまり我が國政府の誤れるが爲めの病魔なのだ。
 罪人の主は我らが選良だ。特權を要求する在日外國人は好まざる客であることには間違ひないが、主ではない。主客顛倒すること勿れ矣。

 そして、彼ら個人々々は、決して異端兒でも無ければ、必ずしも常識や情熱なきものでもなかつたことは小生の偏見であつたことゝ、真摯に認めねばなるまい。市民運動の現段階が、五里霧中ではなく、紆餘曲折の状態であるのだとすれば、眞乎たるの日本主義的方向性を發見した時に彼ら若者は、偉大な力となり得るかも識れぬとさへ認識を改めた。
 求學求道に精勵していたゞき、彼らはその熱誠を勤皇に活かしていたゞきたいと希ふ。
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by sousiu | 2010-08-18 20:15 | 日々所感

言ひ譯けします

 書きたいことが澤山あるのに、ゆつくり筆を、否、キーボードを叩く時間に惠まれない。
 そのうへ、寢不足が續き頭も冱えない。汗
 横着するやうであるが、近況報告は、弊社日乘・・・といふよりも寫眞の貼付けだけであるが・・・にて。
http://douketusya.exblog.jp/


 當日乘を御清覽下さいます諸賢皆樣には何卒、御諒恕あらむことを。

 今後も鋭意、筆を振るうて(果して語が妥當乎、否乎)まゐりますので何卒よろしく御願ひ申し上げます。九拜
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by sousiu | 2010-08-15 21:53 | 小論愚案

たれか止むるものある、皇運を、衰微に向かはしむる者の暴走を。

神皇正統記に曰く、
『第十五代神功皇后は、息長宿禰の女、開化天皇四世の御孫なり、息長足姫の尊と申す、仲哀立てゝ皇后とす、仲哀神の教に依らず、世を早くし給ひしかば、皇后憤りまして、七日ありて、別殿を作り、齋こもらせ給ふ、この時應神天皇はらまれさせましゝゝけり、(中畧)かくて新羅、百濟、高麗=此三ヵ國を三韓と云ふ、正は新羅にかぎるべきか、辰韓、馬韓、辨韓をすべて新羅と云ふなり、然れどもふるくより百濟高麗をくはへて三韓といひならはせり、=を代(愚案、伐)ち隨へ給ひき、海神形を顯し、御船をはさみて守り申しゝかば、思ひの如くかの國を平げ給ふ、神代より年序久しく積れりしに、かく神威を顯し給ひける』と。

 同じく曰く、
『第十六代第十五世應神天皇は、仲哀第四の子、御母は神功皇后なり、胎中の天皇とも、又は譽田の天皇とも名づけ奉る、庚寅の年即位、大倭の輕島の豐明の宮にまします、この時百濟より博士をめし、經史を傳へらる、太子以下これを學び習ひ給ひき、この國に經史及び文字を用ゐる事はこれより始まれりとぞ、異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後なりといふといへり、かへすゝゝゝあたらぬ事なり、昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に燒き捨てられしなり、天地開けて後素戔鳥の尊、韓の地に到り給ひきなど云ふ事あらば、かれらの國々も神の苗裔ならん事、あながち苦しみなきにや、それすら昔より用ゐざる事なり、天地神の御末なれば、なにしか代下れる呉の太伯が後にはあるべき、三韓震旦に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき、秦の末、漢の末、高麗百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇の御末と混亂せしによりて、姓氏録と云ふ文をも作られき、それも人民にとりての事なるべし、異朝にも人の心まちゝゝなれば、異學の輩の云ひ出せる事か、後韓書よりぞ、この國の事をばあらゝゝしるせる、符合したる事もあり、又心得ぬ事もあるにや』と。(「校正 標柱神皇正統記」明治廿四年七月三日出版)



 小澤一郎も然り。菅直人も然り。現時の政治家もみな然り。總じて我が國の政治を擔當する者は、先づ我が先人よりつゝしんで歴史を學ぶことから始める可きである。左なくば彼より出で來たる志、總じて志と呼ぶに値する能はず。凡ては亡國の所以である。
 何ぞ日韓併合百年。三韓征伐の神託より一千七百十年であることこそ彼の國民而已ならず、我が國民も忘るゝ勿れ矣。



『帝國小史 甲號』(明治廿九年六月「文學社」發行)に曰く、
『斯くて、(神功)皇后は、武内宿禰といへる智勇ある大臣と謀りて、いよゝゝ御心を定め給ひ、御身には甲冑を着、劍を帶び、弓矢をたづさへて、男のすがたを裝ひ、船に乘り、兵を率ゐて、新羅に押し寄せ給へり。不意の事なれば、新羅の王驚きをそるゝこと大方ならず、我が軍の前に降參して、たとひ太陽西より出で、河水さかさまに流るゝことありとも、永く日本の屬國となりて、貢を奉ることは、かはることあるべからず」と誓ひけり』と。※()及び括弧内は小生による

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 皇運扶翼・皇業翼贊のこゝろなき者達による外交、げに哀しむ可し。げに口惜しむ可し。
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by sousiu | 2010-08-10 22:33 | 小論愚案