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十一月二日「山口二矢烈士五十年祭」御案内

山口二矢烈士五十年祭

[日時]
 11月2日(火)午後6時~開式(午後5時30分~開場)

[会場]
 日比谷公会堂

[参加費]
 1人1000円

[連絡先]
 山口二矢烈士五十年祭事務局
 〒105―0022
  東京都港区海岸1―6―1
    イトーピア浜離宮823号
  電話 03―3459―6555
  FAX 03―3208―0774



《山口二矢烈士五十年祭趣意》

国の為 神州男子 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に

大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心変らじ

千早ぶる 神の御世代 とこしえに 仕えまつらん 大和男子は
 
国の為 たふれし人ぞ あるこそを 今の若人 育ち来らん

しきしまの 大和男子と 生まれなば 進まん道ぞ 一ツなりける

 山口二矢烈士の辞世である。
 山口烈士は、生きては反共の鬼となり国賊と戦い、死しては護国の神となり祖国を守ってくれている。山口烈士は神州とともに不滅なのだ。
 昭和三十五年、我が国は亡国の危機に瀕していた。昭和二十年八月十五日の敗戦により、我が国は敵国による占領という祖先がかつて味わったことのない屈辱のどん底に喘いだ。昭和二十七年四月二十八日には講和条約の発効により占領という戦争状態は終結し、我が国は主権を回復したとはいえ、我が国を犯罪国家と断罪する東京裁判史観と、我が国の弱体化を推進するための「日本国憲法」なる占領基本法が、我が国を呪縛し続けた。昭和三十五年には第一次安保闘争による狂乱の嵐が吹き荒れ、赤旗の波が全国土を襲った。共産主義革命の前夜との様相を呈し、まさに亡国の危機であった。
 大東亜戦争において、我が国に神風は吹かなかった。しかし、神は我が国を見捨てた訳ではない。激戦の最中である昭和十八年二月二十二日、神は一人の神州男子を祖国防衛の戦士として遣わせてくれたのだ。山口烈士の生誕である。祖国を救う使命を帯びて生を受けた山口烈士は、若いというよりも幼いと呼ぶべき少年のうちから、国体護持の闘争に挺身し激烈に戦った。昭和三十四年五月十日、大日本愛国党に入党。昭和三十五年五月二十九日、同志らとともに脱党。同年七月一日、全アジア反共連盟を結成。山口烈士は闘争の中、国民を扇動して日本赤化に狂奔し罪悪を流している左翼指導者を倒す以外に救国の道はないとの決意を固めた。同年十月十二日、山口烈士は国賊浅沼稲次郎に対して斬奸の剣を振るい天誅を下した。浅沼の死を確認した山口烈士は同年十一月二日、「天皇陛下万歳」「七生報国」の言葉を遺して自決、十七年の生涯を自ら閉じた。浅沼は中共という侵略者の走狗となった売国奴であり、危険極まりない邪悪な存在といえた。山口烈士が浅沼を倒すことにより、我が国は亡国の危機から救われた。山口烈士は少年の姿となり、現世に現れた護国の神である。
 本年十一月二日は山口二矢烈士五十年祭である。祖国日本を愛し山口烈士を敬慕する一同が志を同じくして、御祭を仕え奉り、山口烈士に感謝と尊敬の誠を捧げるととともに遺烈を継承して戦い抜くことをお誓い申し上げる。

   皇紀二千六百七十年 平成二十二年二月二十二日
     山口二矢烈士ご生誕六十七年の日に墓前にて
               山口二矢烈士五十年祭事務局
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by sousiu | 2010-09-28 01:04 | 運動案内

十月十一日「民主黨に物申す神奈川縣大會」御案内

 我々民族派が吹鳴した“民主黨政權阻止”の警笛も功成らず、政權が委讓され、既に一年が經過しました。顧みればこの一年間の時流は急速であり、國民の期待虚しく、民主黨政權に於ける特筆す可き成績は皆無であるばかりか、以前にも増して混迷を深めてをります。斯かる失政の原因を追究すれば、一つは安易に、且つ誇大公約を掲げたこと。もう一つは同黨の路線が左翼・反日思想に汚染されてゐるからに他なりませぬ。 前者は説明を要さず萬民の識るところであり、後者に付きましては外國人地方參政權・靖國神社に代はる國立追悼施設・夫婦別姓・一千萬人移民受入等々惡戲に反日政策を煽動して國論を二分し、國民の團結を攪亂してゐることに據ります。殊に默過すべからざるは、皇室に對します不謹愼な言動に盡くることゝ存じます。 政權政黨である民主黨が、これほどまでに國體觀念を動搖してゐようとは一體誰が想像しましたでせうか。  我々は今次、戰後の破壞思想が愈々熟成、醗酵しつゝあるを痛感し、鋭意啓蒙に徹す可く、打倒!民主黨政權を旗幟し、左記要領にて集會を開催する運びと相成りました。

 諸先生諸先輩、同志同友の皆様に於かれましては御多忙のことゝ存じますが、御誘ひ併せの上、御參加願ひますやう御案内申上げる次第で御座います。

            記

〈 日 時 〉平成二十二年 十月十一日(月曜日 祝日) 雨天決行
□ 第一部・集 會(十四時より)横濱大通り公園(横濱市中區萬代町一)
□ 第二部・徒歩行進(十五時より)集合地點・解散地點同じ
※日章旗・旭日旗・會旗・隊旗・大會の主旨に沿つた幟、プラカード、ハンドマイク等歡迎致します。
※原則として服裝は自由ですが、華美なるものや行進に適さない服裝は御遠慮下さい。
※駐車場の用意は御座いませんので、交通機關を御利用して戴ければ幸ひです。
※一般の方、亦は御家族・隣人の方々も御誘ひ併せの上、御參加下さいませば幸甚です。

〈呼び掛け〉神奈川有志の會 (呼び掛け人代表・吉本蓮巳)
愛心翼贊會・菊水國防連合・義信塾・皇憂楠心塾・盛道烈士會・大行社相模支部・大日本勝魂社・大悲會・同血社・日本皇論社・日本誠龍社・瑞穗塾・憂國清心同友會 (五十音順)
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by sousiu | 2010-09-28 01:01 | 運動案内

十月五日「第四囘 守れ!我が領土國民決起集會」御案内

《第4回「守れ!我が領土」国民決起集会》

中国の尖閣侵略を阻止せよ!

[日時]
10月5日(火)午後6時30分開会(6時開場)

[会場]
文京区民センター3A会議室(東京都文京区本郷4-15-14/東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」/都営三田線・大江戸線「春日」)
※定員約400名・予約不要
※文京シビックセンターではありません

[登壇者]
平松茂雄(元防衛研究所研究室長)
西村眞悟(元衆議院議員)
宮崎正弘(拓殖大学日本文化研究所客員教授)
佐藤守(軍事評論家・元空将)
伊藤哲夫(日本政策研究センター代表)
山谷えり子(参議院議員・領土議連会長)
松原仁(衆議院議員・領土議連事務局長)
ほか有志国会議員
(順不同/敬称略)

[入場無料]

[主催]
日本の領土を守る会(代表・加瀬英明)
東京都文京区本郷1-28-36-301 展転社気付
電話03-3815-0721
FAX03-3815-0786
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by sousiu | 2010-09-27 22:59 | 運動案内

十月二日「シベリアハバロフスク慰靈祭報告會」御案内

《シベリアハバロフスク慰霊祭報告会》

 本年8月31日、帝国軍人60万人以上が不法にソ連によって抑留され、数十万人の尊い生命が厳寒の中、帝国軍人としての誇りも希望も奪われシベリアの大地に消えた現地で、湯澤貞靖國神社第8代宮司として慰霊祭を齋行させて頂きました。

 日本人として生まれ育ち、歴史を学び、大東亜戦争、靖國神社を知り、国家が未だに神となられた先人との約束を果たしていないことに憤りを隠せません。今回の報告会は、単なる集会とせず、今後に結び付け、1日も早く、無念のみたまにご安心いただけるよう具体的な活動を考える1歩としたいと存じます。

 公私共にお忙しいとは存じますが、支那中共の軍事的脅威に打ち勝つため、日本人の武士道復活のため、先人との約束を果たすためにご参集頂ければ幸甚に存じます。


[日時]
 平成22年10月2日(土)午後1時より

[シベリア抑留体験談]
 相澤英之先生(元衆議院議員/予定)
 他 陸士58期の方にお願いしております。

[慰霊祭報告]
 神屋宗太郎君(大東会館学生寮寮生)

[会場]
 靖國会館(偕行東の間)

[費用]
 シベリア慰霊祭に賛助頂いた方々はご招待とさせて頂きます。
 一般の方はお1人様1000円お願い致します。

[ご注意]
 お車でお越しの際は出来るだけ靖國神社有料駐車場をご利用下さい。
 駐車券は事務局までお持ち下さい。
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by sousiu | 2010-09-27 22:57 | 運動案内

九月廿九日「反中共デー東京大會」御案内

 陸續したる國辱出來、國難襲來の折柄、有志による祭事竝びに集會を下記に轉載申し上げ(原文マヽ)、諸賢の御贊同、御參列を希ふ次第である。三拜九拜


《第9回9・29反中共デー東京大会》


 本年11月2日は、山口二矢烈士の五十年祭です。山口烈士は昭和35年10月12日、国賊浅沼稲次郎に斬奸の刃を振るい天誅を下し、11月2日に自決されました。浅沼は媚中派売国奴の巨魁であり、我が国を「反日」「共産」「中華」の三悪国家である中共(中国共産党=中華人民共和国)に売り渡そうとしていました。山口烈士の義挙は、侵略者や売国奴どもへの正当防衛的反撃であり、中共の侵略を阻止する多大な功績がありました。
 昭和47年9月29日、我が国は中共との国交を樹立しました。しかし、我が国と中共との関係が正常かつ友好的であった事はありません。靖国神社に対する冒涜、歴史教科書への介入、我が国の領土および領海への侵犯…など、中共による主権侵害や内政干渉は数限りなくあります。中共の脅威は、我が国だけではありません。満州、南モンゴル、東トルキスタン(ウイグル)、チベット…などに対する侵略・虐殺・苛政。また台湾に対する侵略の野望。さらに中共に支配されている全ての人民たちの苦難。中共は、アジア全民族の脅威であり、人類の敵と断言できます。
 我々は草莽の有志として、祖国の危機を坐視する事は、断じてできません。平成14年9月29日、所謂「日中国交正常化」30年の秋、我々は中共との国交断絶を勝ち取る為、第1回9・29反中共デーを開催しました。第8回となった昨年は、東京だけではなく、北海道(札幌)でも、東北(仙台)でも、中部(名古屋)でも、関西(大阪)でも、九州(福岡)でも、反中共デー闘争は展開されています。第9回となる本年も「9・29反中共デー」の旗の下、勝利を目指して、同志道友が共に起ち上がり、共に闘う事を熱望します。


[日時]

9月29日(水)雨天決行
午前11時~集会開始
正午~行進出発


[場所]

三河台公園
(東京都港区六本木4の2の27/六本木通り沿い/俳優座の横)


[合意事項]

超党派の運動のため、会旗など団体の旗の掲揚は禁止します。また、車輛での参加および徒歩行進に適さない服装での参加はご遠慮ください。


[告知事項]

9月29日には東京大会だけではなく、中部大会(名古屋)も、関西大会(大阪)も、九州大会(福岡)も開催されますので、奮ってご参加ください。9月26日には北海道大会(札幌)と東北大会(仙台)が開催されました。


[第9回9・29反中共デー東京大会共闘委員会]

秋山一成・荒岩宏奨・石田和久・市村悟・伊藤満・大口富美幸・大熊雄次・小曽戸清裕・加藤順一・河原博史・菊池慶雄・草壁悟・工藤正也・小針政人・坂田昌己・志村馨・杉山英雄・鈴木信行・鈴木浩己・貴田誠・武井美喜也・竹内恒夫・内藤芳弘・中上清志・中野順二・中野文勝・仲程通也・浜本英二・針谷大輔・平田佐喜雄・福田和久・福田邦宏・藤田学・舟川孝・三澤浩一・水谷浩樹・盛義一・山口一夫・山口秀明・山田一成・山田英智・横山孝平・横山幸男・吉田誠司・渡部健一(新仮名五十音順/平成22年9月26日現在)


[事務局]

TEL/FAX03-3918-9524(三澤)
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by sousiu | 2010-09-27 22:54 | 運動案内

先哲の魂魄を繼承す可し矣

●蘇峰徳富猪一郎翁『國史の鍵』(寶雲舍發行)に曰く、

○日本人が中國に對して、對立の念を生じたのは恐らくは聖徳太子以後であらうと思ふ。それ迄は中國を大國と見、文化國と見て、一目も二目も置いてゐたものであらうと察せらるる』(昭和廿二年十一月廿五日)

○『中國人の眼から見れば、日本の全島は兎も角も、九州そのものは、殆と中國に隸屬してゐたものと、考へてゐたかも知れぬ。從て元主忽必烈が、日本に向つて朝貢を促したる事も、又た明主が征西將軍懷良親王に、通信を促した事も、彼等としては、殊更に日本に對して、無禮を加へた譯ではなく、昔乍らの慣例に依て之を行ふたものと見ても差支あるまい』(昭和廿二年十一月廿九日)

○『隋書には日出の處の天子書を日沒の處の天子に致すとあり、書紀には東天皇謹て西皇帝に白すとあるだけの相違である。然し其事が何れにしても、聖徳太子の意氣込が、中國を全く對等と見て、兩敬の間柄視せられたる事は明白である。隋皇煬帝が之を見て喜ばなかつたのは、從來の中國の日本に臨みたる立場、又た日本が中國に對したる態度に比べて、彼としては寧ろ當然であつたと云はねばならぬ』(昭和廿二年十二月十二日)

○『我等は茲で初めて公式に、日本國家の自覺を見出し、日本國體の自信を發明したと言はねばならぬ。即ち聖徳太子を以て、日本歴史の一大道標となし、其の時代を以て、歴史の分水嶺となす所以のものは、之が爲めである。~中畧~
 思ふに聖徳太子が、餘りにも多藝多能、多才多智で在らせられた爲めに、却て日本の歴史上に於ける、最も偉大なる功績を、滅却とは言はぬが、朦朧たらしめたる憾みは少なくない。~中畧~
 殊に日本の凡有る宗派の佛徒は、皆な聖徳太子を、日本に於ける本尊と崇め、其の爲めに聖徳太子は、却て贔屓の引き倒しに遭つて、單に佛教のみの恩人であるかの如く思はれ、日本國家の大恩人たる事を、忘却せしむるが如き、看なしとしない。之は寔に遺憾である』(同)

○『中國は殆ど我が明治維新の中頃に至る迄、日本を對等の國とは、認めてゐなかつた。それを認めたのは日本だけであつて、事實は兩敬の間柄ではなくして、單敬の間柄であつた。然し必ずしも中國は、日本を無視したのでもなければ、輕視したのでもない。周邊の他同樣若くはより以上に、認めてゐたやうだ。端的に言へば、唐土以後に至つては、概して日本を、朝鮮の上に置いてゐたかのやうに、察せらるる。然しそれでは、日本それ自身が、滿足は出來なかつたのである。こゝに何時も兩國の間に、問題が出で來つた』(昭和廿二年十二月十九日)

○『我國の使臣は勿論、其の留學生若くは留學僧なども、若干の除外例はあつたとしても、何れも日本人たることを自覺し、其の位置を辱かしめざらんことを期した事は、彼我の文獻に徴して、知ることが出來る。素より彼等も、對等の立場を、維持することは出來なかつたが、然し決して僕々爾たる者でもなかつた。例へば我が副島種臣が、明治の初期に、使節として北京に乘り込んだる時に、叩頭三拜九拜の禮を強制せられたるに對し、慨然それに反對し、遂に我が所志を達し、列國の使臣も亦たそれに倣うた程の、意氣込はなかつたとしても、尚も日本國の品位を保つ點に於ては、決して遲疑する所はなかつた』(昭和廿二年十二月廿一日)

○『我が明治維新の改革なども、云はば日本書紀の主張したる精神が發揮せられ、若くは爆發したるものと言ても差支あるまい。要するに日本人は、中國との交通に依て、更に言へば、正式交通に依て、初めて自己を見出した。一面中國の文化に殆と陶醉したが、他面には、彼れ何者ぞ、我れ何者ぞと云ふ氣魄を喚び起し、自ら進んで、日本の存在を、自覺したるばかりでなく、其の特質、切言すれば、支那に對してさへ、優越する所を見出さんと欲し、此の如くにして、茲に日本書紀なるものは出で來つたのである。言ひ換ふれば、國内に於ては、徹底的に日本を、皇室中心として統一し、日本國民に向つて、皇室が中心であり、同時に又中心とせざる可らざる所以を示し、中國に向つては、一寸の蟲にも五分の魂、日本は決して、中國の外藩でもなければ、屬邦でもない。日本は自ら日本であつて、日本固有の獨立國であり、如何に中國の文化を注入しても、日本本來の面目は、決して失墜してゐないと云ふ事を示したものである』(昭和廿二年十二月廿二日)と。




 愚案。支那の思ひ上がりは最近に始まつたものでは斷じてない。加之、我が國の弱腰外交も、必ずしも現代の流行病ひなどではないのだ。
 さて。吾人の本領、歴史に試さるゝは此れからである。これを撥ね返す丈の健全たる國民精神の昂揚、以て擧國一致。これを實現出來る乎、否乎。それには蘇峰翁も仰せられる、國體明徴の志を我々國民が囘復することだ。しつこく云ふやうであるが、一に攘夷、後れて尊皇ではない。一に尊皇である。こは懼れながら名目而已の“尊皇”であつてはならない。尤も、“攘夷”に就いても“攘夷”であつて“排外”であつてはならない。

 謹んで恐察するに。我らの先人も古より、今日の我々が抱く苦惱を共有してゐた筈である。
 個人主義に染まる今日に比ぶれば、其の葛藤、煩悶たるや吾人の比較にならぬやも識れぬ。
 されど、先進は痛快にもこれを打破し給うた。そは國史に如實だ。
 汝、今、國を思ふとに、嘆傷と悲哀を覺ゆれば。これを脱せんとするに、偉大なる先人の遺しましたる偉業を乞ひ習ふべし。
 熟々もて我らが仕合せは、先人が凡ゆる艱難辛苦を乘り越えられ、其の先鞭を實證し歴史に遺してくれたことではないか。
 歴史に確りと先哲は呼吸してあられるぞ。これを忘れ、繙くことなく、ひとり苦惱する勿れ。
 國歩の行く、盤根錯節に撞着したる時は、迷ふことなく、我らが先人に尋ぬるべし。
 屹度先人は快刀亂麻を斷つの手掛かりを我らに授けてくれやうぞ。
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by sousiu | 2010-09-26 03:22 | 日々所感

志士のすゝめ

 蔓延元年三月三日。奸賊原の中心人物井伊直弼、當時の江戸城櫻田門外に於て、水戸の藩士を主とした義士一團によつて誅せらる。
 井伊の後任者は安藤對馬守信正であつた。安藤は久世大和守重之を推薦し、こゝに久世安藤政權が確立された。
 この時の状況について徳富蘇峰翁の文言に詳しい。
蘇峰徳富猪一郎翁曰く、
『~井伊から排斥せられたる久世が、井伊の死後再び老中部屋に出で來たりたるは何故であつた乎。此れは安藤が己れ一人では、幕閣を支持するに不足なれば、信用ある人物を、其の仲間に引入れんが爲めに、故らに彼を推薦して、己が上席に据ゑたのであらう。されば井伊以後の幕閣は、久世、安藤聯合内閣とも云ふ可き歟との説をなす者もある(福地源一郎著 幕末政治家)。併し更らに立入りて見れば、久世は名で、安藤は實。云はゞ安藤の頭に、久世の帽子を著けたるものと云ふが適當であるかも知れない』(『近世日本國民史 第四十五卷 ~久世安藤執政時代~』昭和九年四月一日「民友社」發行)

   權門上に傲れども國を憂うる誠なし
 とは、三上卓先生による哥だ。哥詞の如き有樣は過去も現在も何も變はらない。憂國の士が政界にあらぬので、國歩を雙肩に擔ふ丈の人物を育てることが出來ないのだ。要するに政界には人材が頗る缺乏してゐるのだ。人材無きが爲め、保身に走る痴漢どもが斯樣な策を凝らし、畢竟、政道を誤らせるのだ。まつたく以て今も昔も同じだ。


 その久世安藤政權の成績は果して奈何。

勝海舟翁「開國起原」にて曰く。
『是より後、久世、安藤等の諸閣老政柄を執り、群小比黨、賄賂の風も益盛にして、務て從前大老の非政を彌縫し、嚴に檄徒を糺察し、彌天下の人望を失す
 ・・・現在と全く同じだ。

 曰く。
『顧ふに櫻田の奇禍は、國家の大變にして、嘆ずべきの至といへども、此機に乘じ、改過自新、廣く衆言を納れ、人材を拔擢し、弊政を一變せば、或は志士の憤恨を慰し、輿望を收るの道なきにあらず
 ・・・近年の未だ大禍こそなかるとも。未來に於て長久、彼らに禍なきこと誰れぞ保障する者あらん。神ならぬ身の者の知る由もなし。然るに政界に身を置く者は歴史を眞摯に學ぶ可し。先進の言に耳を傾ける可し。

 曰く。
『事此に出ずして、依然舊轍を改めず、摸稜、姑息、彌衆怒を激し、其極終に幕威地に墜ち、囘復すべからず、惜哉
 ・・・因果は應報す。禍たるもの賢者は能く避け、愚者は避け難く。

蘇峰徳富猪一郎翁、同上の書にて曰く。
此の時代を一貫したる幕府の政治は、一言すれば糊塗、摸稜、姑息、曖昧と云ふの外は無かつた。安藤は才氣あり、久世は老練であつた。されど彼等は一時の苟安を偸取する以外には、別に確乎たる經綸も無ければ、抱負も無かつた


 斯くの如くある安藤であるが。押し寄せる外國軍艦の威壓に於て以下の如き抵抗を試みた。
 外國軍艦の入港の際、相互で祝砲を交換する習ひに應じぬ幕府は、亞米利加國公使ハリスより詰問を受けたのであつた。
 其の樣子を、「幕末外交談」(明治卅一年)から識ることが出來る。
田邊太一氏、「幕末外交談」に曰く、
『斯て歳月を經て遣米の使節、歸朝に及びたれば、我國人も海外の風光を觀、幾許か悟るところ有る可し。最早今迄の如き頑論もあるまじと亞國公使は閣老と面談の際、再び祝砲の事に及びしに、猶國俗の驟かに變ずべからざるとの口實は、依然として、其の昔の如くなりしかば、公使も、今は然云はれまじ、貴國の軍艦の我が桑港に著せし時は、廿一發の祝砲を放たれしは事實也。これ既に其の國俗を變ぜられしものならずや、と論詰せしに、安藤對馬守は自若として、さればなり、貴國は祝砲を放つの習俗あるにより、我が軍艦も其の地に在らば其の俗に從ひ放つて、これが禮となせるは固より怪しむべきなし。我國固より然る習無し。我軍艦の我宿習を棄て貴國の禮に從ひしこと果して理ありとせば、貴國の軍艦の我國に來るものも亦其の自國の習を用ゐず、祝砲を打放せざることこそ、相互の禮式に協ひ然るべきにあらずや、と答へられしには流石のハリスも再び口を開くことなく止みし。是たゞ一時口舌上の詭辯なれども、安藤閣老の警敏にして應答に巧みなると、外人に歩を讓ることなかりし一端を見るべし』と。

 要するに。手短に云へば、
 ハリス氏「日本の軍艦が我が桑港(サンフランシスコ)に入港する際には、廿一發の祝砲を放つのであるから、頑迷固陋とならず、我が軍艦入港の折にも祝砲を放つべし」
 安藤氏「貴方の國では祝砲を放つの習慣があるのであるから、我々が其の地に赴かば其れに從ふのみ。しかしこゝは日本である。日本には其の習慣は無い。我が國の習慣によつて御迎へすることこそ禮を表することである」
 田邊氏「流石のハリスも閉口した」
 と、かういつたことだ。一應、御尤もの言ひ分だ。第三國者の誰れが聽いても日本側に理なしと思ふまい。


 愚案。天下志士の、今や沸點に達せむとする赤熱の如き激情と。それに加へ、頭と胴とを別たれた井伊直弼を識るの安藤信正は、恐れを抱き、寒心に耐へざるがゆゑ、祝砲交換を拒否したのかも識れぬ。若しくは小人にも五分の魂、我が國を訪れたからには、假令大國の使者であらうとも、我が國の習ひに順じていたゞかう、との純乎たる誇りと意地からであつたか。

 今月七日に尖閣諸島沖で支那漁船衝突事件を惹起し、公務執行妨害の罪を問はれた船長の詹其雄を釋放する旨、那霸地檢が發表した。
 日中關係の考慮を理由とした事實上の超法規的措置だ。こは第三國者の誰れが聽いても日本側は理非に疎いと思はぬ者はあるまい。“日中關係の考慮”は、即はち、“中共への阿諛”を意味し、それを世界に廣告した。
 一歩の後退は十歩の後退を肯ふ。十歩の後退は百の後退を要求される。
 この場合の“後退”は“讓歩”と書き換へても宜しい。“諂諛”と云うても宜しい。だが、小生も日本人。切齒扼腕すれども、其の語を用うるに躊躇せず能はぬ。恰も“占領軍”を“占領軍”と呼ばず、敢へて“進駐軍”と呼んだ當時の人達の心境に似れるものかも知れぬ。
 軟弱外交の極はみ、と、後世の嘲笑をかふ幕末でさへ安藤對馬守信正の如く、小なり微なりと雖も抵抗を試みた。果して未來の國民は今の時代を如何なる言葉もて形容すべき。
 戰後に於ても今後に於ても世界に向ひて、我が國威を闡明するに期待の託せる人物が政界に存在するを、口惜しけれども小生は識らない。

 だが、小生同樣、彼らに對して悔し泣きする御仁は、安藤の如き小人でさへも、僅かばかりの抵抗を止む能はざるに至らしめた草莽の士となるを志すべし。政界に人材無きと同樣、在野にも人材無きと思はしむる勿れ矣。
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by sousiu | 2010-09-24 23:50 | 日々所感

餘暇のすゝめ

 またゝゝ更新を怠けてしまつた。

 日ごろ御世話になつてゐる防共新聞社の福田主幹には内密の話しであるが、偶には休暇も必要と感じ、御笑ひや拳鬪の觀覽に興じてをつた。
 兎に角、湘南地方の住民でありながら今夏は猛暑であつたにも關はらず、一度も海には行つてゐない。潮風と觸れ合つてすらない。ま、昨年も然りであるが・・・・。
 そのやうな譯で、少々羽を伸ばした次第だ。

 だが無論、皺寄せもあつた。主たるものには、防共新聞社に寄せる原稿の締め切りが確か十五日だつたことだ。罰であるのか毎日毎時、胸の痛むを忘れることは無かつた。嘘つぽいが本當だ。
 されど福田先輩には内證だが、御笑ひの舞臺を見てゐると、本當に面白可笑しくなつてしまひ、すつかり息拔きが出來た。
 流石に今朝、福田先輩に御詫びの電話を入れた。氣のせゐだとは思ふが、聊か不機嫌だつたやうに感じた。
 然るに小生、それから一氣に書き上げ、本日めでたく、胸のつかへを一つ取り除くことが出來た。

 亦た、囹圄の身となつてゐる獄中同志に對して御送りするはずの書籍も溜つてしまつた。
 何か事情が無い限り、成る可く小生、一週間に一度は同志へ書籍や書翰を差し入れることにしてゐる。
 これも全て封詰めが終はつた。一つづゝ、胸が樂になつてゆく。
 餘談であるがこゝで一つ、自慢話しを披露致したい。小生、封筒作りにはいさゝか自信を持つてゐる。
 段ボールでも包裝紙でも紙袋でも、紙といふ紙はアツと云ふ間に封筒にしてしまふ。そは我ながら手慣れたもんだ。下の寫眞も全て小生の手作り封筒による。
「それに費やす時間を考へると、新しい封筒を使つた方が宜い」との御意見もいたゞいた。勿論、節約の意味もあるが、それよりも米の一粒も殘さない感覺に近いかも。平澤次郎翁の眞似から始まつたことだ。

 さうさう。もう一つ、胸のつかへがあつた。
 此の日乘だ。
 これを以てして全ての胸のつかへが取り拂はれたことになる。
 間も無く訪れる巨大な胸のつかへ、そは機關紙・・・・。それまでしばし何物にも縛られぬ時間を謳歌したい。

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by sousiu | 2010-09-23 22:57 | 日々所感

時代遲れのすゝめ

 嘗て「和魂漢才」或いは「和魂洋才」と標し文明の大量輸入を計企したはずの我が國であつたが、時俟たずして「漢魂漢才」「洋魂洋才」に染まりたるは自然の成り行き乎。

 であるとするならば、この誤謬が大禍を招來し、その大禍を祓はむと努める人の生じ來たつたことも是れ亦た自然の成り行きなる歟。自然と云はんよりは、健全の成り行きである。

 彼ら健全者は、すべからく純日本的なものをもとゐとして行つた。
 そして侵入文化・思想・宗教への野放圖な陶醉を戒めるに至り、同時に侵入したる大禍を祓ひ清めるに至つた。
 この古の賢者、義人について笹川博士についての言を拜借したい。


笹川潔博士、「大觀小觀」(明治卅九年三月十五日「弘道館」發行)にて曰く、
『然り而して尚又た之れと同時に、地勢の此くの如くなりしが爲めに、外國傳來の急進的文明が、中央の大都會にこそ勢を逞ふしたれ、地方には其割合に波及せざりしことも、日本文明史上大に留意を要す可き點なりと謂はざる可からず、方今東京に於ける男女風俗の流行は一週間ならずして、忽ち京都大阪にも傳播し、仙臺にも福岡にも滔々として蹈襲せらるゝことなれど、然かも一千餘年前の日本に在りては決して左樣早くは變用せられず、縱令青丹よし寧樂の都は非常なる「ハイカラ」式にても、縱合平安は大の「モロコシ」風にても田舍は依然として太古の社會也、神代式の世の中也、案外にも貴族的文明とは同化せざりし也。
無論佛教の勢力は衝る可からざる形況なりき。聖武帝は國分寺を置きたりき。天武天皇は毎戸持佛を設くるの制を立てたりき。僧侶は山を開き道を通じたりき、或は片假名平假名の發明も有りたりき、然れ共地方人民は未だ容易に外國文明の有難味を感ぜざりし也。彼等は朝廷の優遇せる歸化人をも穢多として賤みたり、或時は外國の使節をも屠らんとしたりき。中央政府が文事に憧れ風流に荒みつゝある間に、其或者は筋骨を鍛へ武術を練りたりき、佛壇に額く前に神棚に敬することを忘れざりき、約言すれば彼等は外國文明の爲めに俄に其志を奪はれざりし也、其風俗習慣を破壞せられざりし也、彼等の間には何處にか日本人の健全なる思想殘りし也。主我的觀念保たれし也。純粹の日本文明傳はりし也』と。

 亦た曰く。『是を以て支那文明は寧樂と平安とをして心醉せしめ、謳歌せしめたれども、地方には其急進的勢力は次第に緩和せられて斬新的の者と變じたり、參考的のものと爲れり、斯くの如くして初めて北條時宗の如き快男兒も出で日蓮の如き兎も角世界統一の理想を有する傑物も生れ、豐太閤も顯はれ家康も起りたり、是れ皆な要するに地方の産物也、奈良平安の當時に在りては赤毛布的田舍漢を以て目せられし者の子孫也』。


 先日の蘇峰翁、今日の笹川博士の云はんとするは、田舍こそ純日本的魂を備ふるに最適の環境であつた、と。其の地に育てられた漢が時代の騏麟兒となるは決して考ふるに難しくはない。

 愚案。そは疑ふ可き餘地なきことゝ存ず。凡ゆる地方人の集會場たる都會と異なり、田舍には地域に根ざしたる風土、文化、傳統が代々より受け繼がれてをり、俗に云ふ○○人氣質などと云ふものも是れによる結果なりけり。
 だがしかし、時代は變はつた。殊に情報の傳達は、此の五十年にして著しく變化を遂げるに至りた。情報の氾濫は時間と距離の隔を取り拂つた。
 更らに交通の便宜は地方と都會の往來を容易ならしめ、嶮難の山も川も、俗惡文化・思想・宗教の流入を遮る、或いは村人の流出を困難たらしめる城壁の役割りを持つ能はず。要するに、總てとは云はざるも、田舍は盡く近代に汚染されるを餘儀なくし、風景而已その純粹を殘すに漸くの地域夥しくあるとみて宜いのではないか。

 然るに今後に於ける騏麟兒の誕生を小生は、單なる田舍人士而已に望むものではない。
 況んや、時代の後を連なるに驀地の者に於てをや。

 懼らく次代に要求されるは、俗に云はれる“時代遲れ”の者であらうと思はるゝ。
 尤も、田舍は頗る時代遲れだ。だが、小生の茲で云ふ時代遲れは、服裝の好みや遊びの仕方のことではない。
 先日掲げたる蘇峰翁と本日の笹川博士の云はむ田舍漢を、“時代遲れ”に置き換へてみよ。
 斯かる場合の時代遲れは、都會の住民にも居るのである。
 今後は“時代遲れ”の人士が騏麟兒となる。一見、矛盾に思へけるとも、愈々の時代の閉塞は、時代遲れの士でなければ突破解決する能はぬ場合がある。況んや、我が日本に於てをや、だ。

 諸賢よ理想的“時代遲れ”たれ。


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by sousiu | 2010-09-19 01:27 | 小論愚案

理想的田舍漢のすゝめ

 小生は田舍者である。
 自宅は神奈川縣藤澤市といふところなり也。田畑も多く、狸と遭遇することも希有ではない。
 小生は幼稚園兒のころ、横濱市より藤澤市に轉居し、爾來、現在に至る。
 最近こそ兔も角、少年時分、近所には本當に何も無かつた。『やまか』といふ小さな店があつたのみである。
 それを餘り不便と感じなかつたことが、田舍者の田舍者たる證明である。

 今でも田舍者であることに聊かも劣等感なぞ抱いてをらぬけれ共、昨夜拜讀した『靜思餘録』(徳富猪一郎先生著、明治廿六年五月一日「民友社」發行)にて、田舍者に關する記述があり。思ふところありしが爲め、こゝに紹介したい。全國の田舍者よ、田舍者であるをおほいに自信持つ可し。

徳富蘇峰翁曰く、
人の常に輕蔑するは田舍漢なり。彼れ武骨なり、木強なり、王侯貴人の爲に悦ばれざるなり。貴女の爲に愛せられざるなり。彼は小説の世界に於てすら贔負少なき人物なり。況んや現實の交際社會に於てをや。一杯の葡萄酒も彼の爲に酌む者あらざるなり、一片の笑渦も彼の爲に獻する者あらざるなり』と。

・・・・いや。汗。翁の言も多少過ぎたるに。現在而已ならず、明治の御代に於ても、果して田舍者がこゝまでの扱ひを受けたる乎、否乎、眞相は識らない。
 而して翁は健筆を重ねられる。


 曰く。『~維新の革命に際してや、其の戰勝者たる月桂冠は何人の頭上に屬せしか。彼の楊枝以て箸と爲し、蜆の殼を以て椀となし、一粒の米を截分して之を喫する竹取姫然たる公卿、大名、若くは月代狹くして黒髮漆の如く、金銀作りの太刀を着け優倡然たる徳川武士にあらずして、却つて寒山霜を蹈んで狡兔を追ひ、茅屋に月を帶びて夜書を讀む所の西郷隆盛及び、彼を奉戴したる所の薩摩武士にあらずや』。

 曰く。『西郷隆盛は固より田舍漢たりしなるべし。彼れ未だ曾て西洋料理を喫するの法を知らざりしなり、聞く彼は實に斯の如き大口を開き小兒が梨を喫するがごとく麺包を喫したりと。彼は實に斯の如き人たりしなり。然れども斯の如き人たりしと雖も、彼も其一世の元勳たるに差支へざりしなり』。

 曰く。『田舍漢は何が故に斯の如く天下の大事を負擔するに堪ゆるか。彼れ爲す可き所を知れはなり。彼れ爲す可き所を行へはなり。彼れ道行きに頓着せされはなり。彼れ直截なれはなり。眞摯なれはなり。一氣奔注すれはなり。堅忍不拔なれはなり。紛々たる邪念俗慮の彼を煩はすものなけれはなり。失敗を恐れされはなり。成功に滿足せされはなり』。

 ふむふむ。更らに翁の言は進む。

 曰く。『吾人は嘗て化石谷なる者あるを聞く、其の谷に投すれば、木葉を投するも、木片を投するも、蟹を投するも、魚を投するも、總て忽ち石に化すると云へり。而して世に腐敗谷と云ふ者あり、一度ひ之れに投する時には、如何に頑石の如き田舍漢も、忽ち豆腐よりも柔かなる物體と爲る者なきにあらず。 ~中畧~ 吾人は我邦現今の都人士に對して更らに一言する所なし、然れとも世の田舍漢にして都人士を學ぶ人に向ては、一言せざる可らざる者あり。彼等は何が故に都人士を學ぶや。何の必要ありて都人士を學ぶや。何の欲する所ありて都人士を學ぶや。何の耻る處ありて田舍漢たるを欲せざるか。卷煙草を薫せされは以て一國の人民たるの資格には不足するか。葡萄酒を飮まざれば以て一國の國民たる資格には不足するか』。

 翁曰く。『彼れ田舍紳士よ、何ぞ都人士を學ばんとするや。彼れ田舍書生よ、何ぞ都人士を學ばんとするや。吾人は今日に於て變生都人士の日にまし増加するを見て、轉た浩歎に堪へざるなり。吾人か斯の言をなす所以のものは何そや。吾人か都人士を重んするの少きにあらず、田舍漢を要するの多ければなり』。

 翁結語にて曰く、『彼れ田舍漢なる者は、身健にして氣剛なり、彼は上帝の外恐るべきもの有るを知らず、彼は眞理の外服從すべきもの有るを知らず。彼の心は純白なり。彼の擧動は質樸なり。彼は冠冕の榮たるを知らず。麥藁帽子の何たるかを知らず。彼は何事の大事なりやを知らず、又た何事の小事なるやを知らず。彼は唯た日常爲さゝる可らざることを行ひ、自家の着歩する所よりして、歩一歩づゝ前面に向て進行するのみ。 ~中畧~ 彼は其の己に向て媚るを悦びず、何ぞ況んや彼に向て媚るを悦ばんや。彼は其の己に向て腰を折るを欲せず、何ぞ況んや人に向て腰を折らんや。彼の智識は深遠なるに非らず、然れとも適切なるなり。彼の辨舌は流暢なるに非らず、然れとも眞率なるなり。其の行くや風のごとく、其の止るや山のごとく、其の天眞爛漫たるや烈火の燃るが如くなり。清泉の迸しるが如くなり。嚴角屼立、朽葉積々たる地にも、尚ほ清泉は迸しり出るなり、焦土山をなし、炭塊堆を爲す時に於ても、尚ほ猛火は炎々として燃ゆるなり。彼の容貌風采は粗硬なり野鄙なりと雖も、其の光々明々たる精神は、之を透して、美絶、壯絶たらすんはあらず。吾人は斯の如き人を以て單に田舍漢とは謂はず、然れども之を以て理想的の田舍漢と謂ふ』と。
(※太字は蘇峰翁御自らによる)


 先日、火の國の住民たる志友と電話で會話したらんに、小生、彼に關東への移住を獎めた。
 固より輕い氣持ちの會話であり、彼も本氣にするまいが、それでも上記した蘇峰翁の文章を御借りして訂正せねばなるまい。
 翁も火の國の住民。加之、理想的の田舍漢だ。かの國に於て大江義塾も設立した。

 田舍漢は理想的田舍漢を志す可きである。

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by sousiu | 2010-09-17 00:30 | 良書紹介