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會澤正志齋先生著述「迪彝篇」を拜讀す 貳 

●常陸國會澤正志齋先生、天保十四年『迪彝篇』(「國體第二」條)に曰く、

『天地の間に萬國あり。萬國に各(おのゝゝ)君ありて、その國を治む。君あるものは各其君を仰ぎて天とす。國々みな其内を貴びて外を賤しとすること同じき理(ことは)りなれば互に己が國を尊び他國を夷蠻戎狄とする事、是亦定れる習也。されども萬國には皆易姓革命といふことありて、その國亂るゝ時は或は其君を弑(しい)し、或は是を放ち、或は寡婦(やもめ)孤兒(みなしご)を欺きて、其禪(ゆづり)をうけ或は世嗣絶(たゆ)る時は他姓のものを以て其位(くらゐ)を嗣(つが)しむるの類にして、〔俄羅斯(おろしや)等の國に、この風俗あり〕其の君の種姓他に移る事、國として是なきものあらず。これ其天とする所しばゝゞかはる習なれば其天地といへるもみな小天地にして。其君臣といへるも小朝廷なり。萬國の中に只  神州のみは天地開闢せしより以來  天日嗣無窮に傳て一姓綿々として庶民の天と仰ぎ奉る所の  皇統かはらせ給はず。是其天とする所の大なる事、宇内(あめつち)に比なし。今この萬民天地の間に雙(なら)びなき貴き國に生れながら吾國體(くにがら)を知らざるべけんや。國の體と云ふは、人の身に五體あるがごとし。我國の體を知らざるは、己が身に五體あるを知らざるが如し。是によりてむかし北畠准后、世の亂を嘆き、神皇正統記を著して  皇統の正しきことを論ず。其畧に曰く、大日本は  神國なり ・・・・これより「神皇正統記」(神代之段)の抄出となる =以下畧=』と。
(原文のマヽ。句讀點は小生による)
 北畠親房公竝びに神皇正統記に就ては、『九段塾』「百代の國師・北畠親房公。」を御參照されたし。
   http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t33/l50

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 憚りながら申上げるに、當今の保守と稱される御仁に顯著なるは國體觀念の動搖である。
 如何に支那、南北朝鮮を分析し、而して彼らに抗ふ乎、ばかりだ。他國や他民族の批判を流暢に語らふことを救國論と云ふで無い。・・・尤も彼らは非難されて餘りある國だが。
 反民主主義、反戰後體制、反自虐史觀、反亡國憲法、反米・反露・反中・反韓・反北鮮、どれもこれも「反」其れ丈では救國の論としての効能を持さない。況や反戰、反核、反日に於いてをや。
 明治維新に於ても「尊皇」あるがゆゑに出でたのが「攘夷」であつたのだ。「尊皇」であるがゆゑに生じたのが「討幕」であつたのだ。尊皇を樹幹とすれば、攘夷はそこから派生する枝葉だ。幕末は樹幹逞しうなるにつれ、枝葉も繁茂するに到つたのだ。

 然し乍ら戰後の保守、或いは愛國的論壇に於て、かくも『迪彝篇』の如き痛快にして明瞭なる國體觀念を發見することが出來ない。否、小生の狹見たればこそ識らぬ丈に過ぎぬかも識れぬが、けれ共、皆無と云ふこと出來なくば、、僅少であること丈は間違ひなからう。
 數年前、小生は阿形充規先生の御誘掖を賜はり、はからずも保守派と稱される某漫畫家と對話の機會を得たことがある。
 某漫畫家曰く、「ガングロギヤルにも判るやう先帝の御偉業に關する資料を收集し次囘の力作とする」と。
 小生曰くは、「おそれおほくも 天皇を偉人として敬ふやう啓蒙なされる御積り乎。敢へて尋ねるに若しも貴殿のいふ偉人になかりせば奈何。現代の日本に不足してゐるのは國體觀念であり、 天皇の御偉業ではない」と。某漫畫家は默したまゝであつた。因みに小生、其の力作といふ「●●論」を未だ讀んでゐない。

 愚案。云ふなれば一昨日も昨日も、而して今日も今も、總て聖徳の沐浴を賜はつてゐることを篤と自覺す可きだ。
 戰前から戰後に掛けて我が國體は、寸分たりとも傷の加ふること許さず。戰後あれ丈、國家が未曾有の危殆に瀕してをりながら、我が國體は毫釐も磨耗せず、變身せず、肇國のまゝである。政體は確かに盡く侵された。だが國體はそのまゝだ。逆言すれば我が國體の金甌無缺たる證明だ。變はつたのは我々だ。我々の國體觀念が動搖した丈だ。我らが此の事實を默視して、現代に於ける墮落と腐敗の責任を“敗戰”に見出しては、英靈を侮辱するものと等しくある可し。左翼風に吹かれた者は“戰爭”に責任轉嫁し、さうでない者は“敗戰”に責任轉嫁す。然り乍ら現在の日本の腐敗は、國體觀念の動搖から生じ來たつたものだ。
 會澤正志齋先生だけではない。我が國體を鋭意御研究なされ、そのうへで我ら臣民如何にある可きかを説かれた先達は多く出現してゐる。
 今、小生はさうした先人の寶文、遺稿が多く失はれつゝあるをおほいに嘆き、且つ悲しまざるを得ない。
 同時に、假令、拜讀するの機會に惠まれたとて、充分之を讀み解く能はぬ己れを切齒せずにはをられない。
 畢竟、次世代の若人に託してゆかねばならないのであるが、それまで、小人と雖も小生、出來得る限りの努力を拂うてゆかうと思ふ次第である。
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by sousiu | 2010-10-30 00:18 | 先哲寶文

會澤正志齋先生著述「迪彝篇」を拜讀す 壹 

●常陸國會澤正志齋先生、天保十四年『迪彝篇 -てき-い-へん- 』(「三才第一」條)に曰く、

『天は象を垂て日月星辰上に運行し、地は形を流(し)きて、山嶽河海下に布列す。天は廣大にして、地の外を包む。大地は天氣につゝまれて中間にあり。その自然に形をなすこと、譬へば人の身に四體あるがごとく、前面あり背後あり。  神州より清(もろこし)天竺等の地形(つちのかたち)相接屬するものは、その前面なり。〔西夷はその地を分けて亞細亞洲、歐羅巴洲、亞夫利加洲と稱すれども、夷輩の私に名つくる所にして。  天朝にて定めたる稱呼にも非ず、又上古より定りたる公名にも非ざるなり。今彼が私に稱する所の亞細亞等の名を以て、  神州までをも總稱するは悖慢の甚しきなり。依てこゝに彼が私稱を用ゐず、他日  皇化益々闢(ひらけ)たらんには、大地の形によりて其名をも  天朝より賜はるべきなれば、今姑く其の總稱の名を闕て、たゞ西蕃北狄南蠻遠西或は西荒等の字面を用るも可なるべし〕海東にありて地形斜(なゝめ)に相接屬するものは其背後なり。〔此地を西夷は稱して南亞墨利加洲■亞墨利加洲と云ふ。是亦彼が私の稱呼なり。今姑く東方とか東南諸國とか或は東荒東南荒などゝ稱するも可ならんか。前面後面の諸國皆其一國々々の國名はその國々の自ら稱する所を用て可なれども總稱は西夷の私稱を用べからず〕東方はその首(かしら)にして、西方は足なり。首は貴く足は賤しきこと自然の地形也。天道に在りては東方は   天日の照臨まします其初にして、陽氣の發する所。萬物の生ずる所なり。其の人民も朝氣の鋭きが如く、春氣の發するがごとし。風俗勇猛にして和樂(やすらぎのたのしみ)愷悌(やすらか)の氣象あり。西方は   天日の光りをかくし給ふ所にして、陰氣の凝るところ、萬物の滅する所也。其人民暮氣の衰るがごとく秋冬の枯落するがことし。風俗殘忍にして陰險深刻の氣象あり。故に東方のをしへは發生を主として生前の倫理を本とす。西方の教は寂滅を主として、死後の禍福を説く。これみな天地の自然なり。人は天地の間に生れて天地と竝立て三才と稱するものなれば、天道と地勢と人情とを合せて大觀するときは大道と小道の差別自ら分明也。=以下畧=』と。
〔原文のマヽ(空白部を含む)。「水府御藏版」より抄出。但し句讀點は小生による。〕

~續く~

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by sousiu | 2010-10-29 22:10 | 先哲寶文

一艸獨語

 我が國の理想と、其の基となる思想を學ばむとするには國史を學ばねばならない。
 歴史について、小生の學び方は以下の通りである。
 當初から明治維新に最も興味を抱いたことから、基點は明治維新だつた。
 明治維新を詳細に識る爲めには孝明天皇の御宇を識らなければならない。孝明天皇の御宇を識る爲めには、弘化から文政に遡り、 仁孝天皇の御宇を學ばなければならない。
 すると更らに遡らなくては、仁孝天皇の御宇も明瞭とならない。更らに々ゝゝ遡行して、記紀に到着する譯である。

 餘談になるが、本來は遡行でなく、神話から學ぶ可きが本道であらう。
 而してそれは学校教育の段階で既に實施されてゐなければならない。
 小生の場合は、皆と同樣、日教組が之を怠りた。尤も日教組の所為ばかりではないが、汗。
 此の道に連なり右も左も判らぬ時分、明治維新から入つたので、逆となつてしまつたのである。
 惡き例として考へて戴ければそれで宜いと思ふ。
 但し、馬齡を重ねて四十。時間の許す限りに於て時間を遡行し、神代の地點まで到着した後、折り返へして、再び現代まで戻つてくる積りだ。


 扨て。斯うして學ばむとするに大きな障碍がある。
 遺憾ながら最近の歴史本は漠然とした事柄を羅列してあるだけであり、微細なる時代の錯節や先哲の思想的影響、葛藤、其の背景等を學ぶには充分と云へない。更らには詳細に記したものであつても、著作者の先入觀や視點が登場人物乃至舞臺に至るまで甚大なる影響を有し、二つ無き史實であるに關はらず、著作者の數とまでは云はぬが多くの曲解を現代人に提供してゐる有樣だ。尤も斯うした問題はいつの時代も書き手に委ねざるを得ぬものであり、最近に始まつたことでないが、戰後の誤謬が甚しくあることも亦た爭ふ可からずの事實だ。司馬遼太郎の作品などがそれであり、物語りとして讀むには差支へあるまいが、歴史を學ぶと云ふ觀點から讀むには餘りにも頼りない。

 そこで戰前の書物に心を奪はれる理由が發生する。ことに我が理想や思想を學ばむとするに、戰前の書物は寶の山だ。現在に於て小生の場合、これが明治、慶應、元治、文久と遡つてゐる次第だ。
 當然、遡行の進むにつれ、書物其のものゝの入手が困難となる。
 そこで徳富蘇峰翁の『近世日本國民史』は寔に重寶するのだ。
 『近世日本國民史』は織豐時代から始まる。從つて、其れ以前に遡行するには、或いは『近世日本國民史』を通讀して更らに之を補充せんとするならば、當時の遺文や文獻の資料に委ねるほかあるまい。そこで亦た障碍となるのは、讀むことが出來ない、と云ふ難題である。

 屹度、意欲逞しくあるとも、斯く難題に撞着する苦學の士は頗る多いことだと察する。
 勿論小生も勉強中だ。同志と共に此の障碍を取り除く可く、此の日乘然り、我が機關紙然り、拙稿然り、先づは正假名を用ゐてゐるのである。
 確かに。讀まれなければ意味が無い、と助言を賜はることもある。
 然り乍ら小生の拙稿の内容ごときは、他團體の機關紙と比し、劣ることあれども勝るものではない。
 學ぶの途上地點にある小生ならでは、内容も薄弱たるの謗りは免れまい。現時點に於て、以て希ふのことは、多く讀者が古人との連絡に容易なるやう、そのことだ。
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by sousiu | 2010-10-29 19:38 | 日々所感

御無沙汰してをります。河原です。

 何と一週間以上も御無沙汰してしまつた。
 『同血社主人の一艸獨語』などてふ名前の此の日乘。
 主人が留守で、客人を待たせること一週間である。御客人皆樣には御無禮のほど何卒、御高恕賜はりますことを。
 虚け者樣の御來場にて小生も虚けが移つた。・・・・・のではいので惡しからず。


 打ち合はせが重なつたことも然り乍ら、專ら機關紙「天地無邊」の草稿に掛かりきりであつたが爲めの事情による。
 その「天地無邊」は、必然的に日中間のことについて多く記するところがあつた。
 昨日漸く脱稿。ありがたくも、御指導と御鞭撻を惜しみなく供してくれる福田邦宏主幹には、本道に心から感謝してゐる。(←この一文で少しは氣が收まつてくれるだらう、・・・・といふ他意はないので惡しからず)

 日中間については書きたいことが山ほどあるが(決して、悲觀熱にうかされての妄言や近視眼による怒氣ばかりではなく)、弊紙の執筆を終へたばかり。同じ時期に同じ内容を記すことになるであらうから、拙稿よりも先人の文章を掲げむことゝする。
 「久し振りに客と接して、先人の文章を拜借するのか」と痛罵を賜はりさうであるが。一週間と雖も小生、リハビリの時間を欲して已まない。


●蘇峰徳富猪一郎翁、『慨世私言』(昭和十年七月廿四日)「民友社發行」に曰く、
『 甘言は毒、苦言は藥。癪に障る惡口雜言でも、我が内省の資料とすれば、強ち無益ではない。最近倫敦の一雜誌に、バートランド・ラツセル(Bertrand Russell)が、日本と支那とを比較して、斯く云うてゐる。

  當今に於ては、支那内地の共産黨以外には、支那に於て、何人も日本に反抗し得るものは無い。けれども予は確信する、百年の後は、支那は隆興し、日本は衰亡することを。一時は支那を征服することは出來る。けれども永久には不可能だ。老子は曰く、大なる征服者は戰はずして克つ、能く人を用ふるものは能く人に下ると。二千年以來支那の繁榮は、其の大部分に於て、無抵抗主義の賜物である。但だこれが如何に生産主義と飛行機とに對して有效に使用せられる可き乎、否乎は、未判の問題だ。

 誰も支那に對しての觀察は、大同小異だ。必らずしもラツセルを俟つて之を知る必要はない。けれども百年後に於ける日支の豫言に就ては、我等は合點が行かない。支那が隆興すると否とは、姑く措き、支那が隆興すれば、日本が衰亡す可き理由は安くにある。
 けれども如何に此の豫言が、亂暴なる豫言にせよ、言ひたい者には之を言はしめよ。我等は之を一笑に附すよりも、斯る非常識の盲斷でも、採つて我が藥石とするに、何の差支があらう。我等は他より追從輕薄にて、煽て上げらるゝよりも、却て斯る無稽の盲斷を驩迎する。藥を毒とするも、毒を藥とするも、其の受用者の如何による。
 個人にしても、國家にしても、自己陶醉より危險なるは無し。信長や、秀吉も、これが爲めに致された。但だ之に鑒みたるからでもあらうか、家康のみは、最後まで自己陶醉の厄難を免れた。
 我が日本帝國は、世界に對して重大なる使命を授けられてゐる。徒らに眼前の小功利に沒頭して、其の小成功に陶醉するが如きは、決して此の使命を達成する所以でない。國家として自己陶醉病に罹りたるもの、前に支那あり、中に英國あり、後に獨逸あり。而して今や獨逸は漸く其の陶醉より覺醒し來りつゝある。然も其の代價は極めて不廉であつた』と。


 以上はラツセル氏の發言に對する、蘇峰翁の感想だ。而して七十五年後の久しき我ら、果たして兩者の發言に對する、如何なる感想を抱く可き。
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by sousiu | 2010-10-28 22:03 | 報告

墮落の六十五年を猛省する秋なるぞ 貳

 ~承前~ 斯くなる價値觀の急轉換を選擇し、一方では經濟成長てふ功を收めたかに見える。
 然れども、一方では罪を重ねた。
 斯く功罪は總合して益であつたか、害であつたか。

 廿年ほど前の金滿大國神話が崩壞して、判明したこと。蓄財の殘らず、曾孫の代まで膨大な借金を遺した事實を考ふるに、如何やら國家として正しい金の遣ひ方をしてこなかつたと丈は云ふも可なり也。
 一家に喩へれば、假令大黒柱である夫が收入多くあると雖も、妻が家庭と無關係なる浪費を繰り返へすならば、そは家族にとつては不幸そのものであり、そは罪以外の何ものでもない。
 三思せば、戰後日本の金の稼ぎ方が正しかつた乎、否乎すら疑はしきものである。

 志を喪失して得せしめた金は國家としての惡錢である。身に付かう道理はない。
 國を思ふ純情熱血なる人達は正しき金の遣ひ方も、大計有するがゆゑに蓄財の必要も心得てをられやうが、彼らから何ら學ぶことをせず、訓言を聽くことすら能はず、たゞ利に突つ走つた終着點が刻下の出口なき迷路である。こは國家の、登山で云へば遭難である。

 我々は事態を決して樂觀視せず、戦後の誤りを檢出し、之を素直に認め、而して猛省し、戰中戰前の學ぶ可き事柄豐富なる方々より、國想ふ誠を今一度敎はる必要がある。

 とはいへ氣付けば戰後も六十五年。戰前派の、愈々鬼籍に入る秋である。
 これまでは、政府、マスコミはじめとした不義の徒らにより、恰も時代の遺物として前人未踏の竹林に追放されし如くあつた人達であつても、其の眼光は決して光を失はず、時には街頭で、時には書籍で、我々戰後世代に叱咤激勵を投じてくれてゐた。まことに難有きことではないか。
 さうした方々が退場される。先生方の叱咤下にあつても、戰後日本は此の爲體だ。斯くなればこの墮落と腐敗は益々加速してゆくこと考へるに難しくない。

 我々は戰後の腐敗に精神も頭腦も浸かつてゐる。
 石の上に置かれたる種は發芽しない。元來我々日本人は一ト度び開花せば、何國の人をも夢境に入らしめるだけの見事な種だ。加之、其の實りも多大にして、萬物靈長たるに相應しき世界秩序を實現し、自然一體とを供與せしむるものである。但し遺憾に耐へぬ事ながら、刹那的であり、個人主義である戰後の價値觀は、この石だ。如何に素質を有した種子も、開花せねば塵とも同樣だ。而して戰前は沃土だ。戰前の沃土に我が身を投ずることによつて、きはめて開花することが出來るのである。
 戰中派の御尊話に注目す可し。其の機會を得られずんば、難有くも書籍が殘つてをる。
 正坐し眞の日本精神涵養に努むる可し。


 市村悟兄の司會進行によつて、斯くなる話しもて有志と共に有意義な時間を過ごした次第である。
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by sousiu | 2010-10-19 01:46 | 報告

墮落の六十五年を猛省する秋なるぞ 壹

 十月十七日、日曜日。

「文化傳承學會」の日であつた。既に先月、市村悟兄に、此の日に開催するてふ連絡を入れるやう申付けられてゐたが、すつかり忘れてしまひ、いつも御參加賜はる皆樣には大變申譯ないことをしてしまつた。
 日乘を通して御詫び申し上げたい。どうか御諒恕賜はらむことを。

 と云ふ譯で、此度びは雜談形式で行はれた。
 尤も、一文の價値無き小生の愚論を二時間近く聽くよりも、餘程其の方が宜しい。
 福田恆存先生も仰るとほり、正假名は占領假名遣ひの讀み書き出來る人ならば、難なく覺えることが出來るのだから。。
 雜談の御蔭で神奈川縣維新協議會諸兄の情熱もおほいに識ることが出來た。


 さて。戰前戰中を小生が詳らかに識る由もないが、少かるとも小生の識る、卅年ほど以前から今を見渡しても人心の腐敗は歴然だ。
 戰前の方々は其の幼兒期より、御國の爲めにと一心健全に育てられた。將來の夢は海軍大將といふ人達も多かつた、と。我こそは軍神となりて歴史に名を刻むとさへ志す兒童も少くなかつたと恐察する。而して億萬長者を夢見る人なぞ、皆無とまでは云はねど僅少であつたことも亦た事實であつたと思ふ。いづれにせよ、國家國民死生巖頭の際に於て日本精神は斯く純度を極はめ、且つ高調をみた。
 ところが戰後は一變した。國防を嘗ての敵國に委ね、兎に角經濟復興に專念した。
 こゝまでは兎も角。

 戰後政治の冷酷は、斯うした日本精神と共に生き、そして死するの人々を弊履を捨つるが如くとして仕舞つた。其の人達は、志逞しくある一方、利に聰い筈もなく、戰後の經濟成長に活躍の場を見出す能はなかつた。國民も國家の危殆に瀕するに、餘程彼らを英雄視したが、平時に於ては金儲けの巧みな者の下に相ひ寄り添ふた。

 誤解すること勿れ。金儲けを宜しくないと極論する積りは毛頭ない。だが、御國の爲めに、といふ志に價値を認めない戰後の極端なる方向轉換は多いに憤慨するものである。
 そは巨大なる情報提供機關である新聞社をはじめ、其の豹變振りには節操の微塵も認めるわけにゆかぬ。こと朝日新聞社は甚しい。
『日本週報』(日本週報社發行)第百六十四號(昭和廿五年十一月一日發行)、百八十一號(昭和廿六年七月一日發行)などに、人心一變して嘗ての皇軍兵士に對する、仕打ちともとれんばかりの文章が掲載されてゐるをみると、何とも暗澹たる思ひを禁じ得ない。~續く~

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※寫眞。「日本週報」表紙。
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by sousiu | 2010-10-18 23:58 | 報告

おほやまと

 昨日に引き續く内容として、且つ、福田大兄のコメントに連なる可く、北畠親房公の玉文を謹んで拜借致す。

●神皇正統記(平安處士擧■(左上「木」+左下「豆」+右「木」)園河眞一先生評註校正版)序論に曰く、
大日本(やまと)とも大倭(やまと)とも書ことは此國漢字傳て後、國の名をかくに字をば大日本と定めてしかも耶麻土と讀せたるなり。大日■(「雨」の下に「口」+「口」+「口」其の下に「女」=おほひるめ)の御(しろしめす)國なれば、その義(こゝろ)をもとれるか。また日の出るところにちかければ然(しか)いへるか。義はかゝれども字のまゝに日のもとゝは讀ず耶麻土と訓ぜり。我國の漢字を訓(くん)ずることをほくかくのごとし。おのづから日のもとなといへるは文字によれるなり。國の名とせるにあらず。また古へより大日本とも若は大の字を加へず日本とも書り。州(くに)の名に大日本(おほやまと)豐秋津といふ。懿徳孝靈孝元(いとくかうれいかうげん)等の御諡皆(おくりな)大日本の字あり。垂仁天皇の御女(おんむすめ)大日本姫(やまとひめ)といふ。これ皆大の字あり。天神饒速日尊(あまつかみにきはやひのみこと)天(あめ)の磐船(いはふね)にのり大虚(おほそら)をかけりて虚空見(そらみつ)日本の國と宣ふ。神武の御名神日本磐余(かんやまといはれ)彦と號し奉る。孝安を日本足(やまとたらし)、開花(かいくは)を稚日本(わかやまと)とも號し、景行(けいかう)天皇の御子小碓(をうすの)皇子を日本武(やまとたける)尊と名付奉る。これは大を加へざるなり。かれこれ同じくやまとゝ讀ませたれど、大日■(「雨」の下に「口」+「口」+「口」其の下に「女」=おほひるめ)の義をとらば、おほやまとゝ訓てもかなふべきか。その後、漢土(かんと)より字書を傳ける時、倭といひて此國の名に用ひたるを即領納してまたこの字を耶麻土と訓して、日本のことくに大を加へても又除きても同じ訓に通用しけり』と。※句讀點は小生による。振り假名は版本のまゝに從つた。
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by sousiu | 2010-10-17 05:26 | その他

バカモリコウニナル

 昨夜、所藏する沖志樓主人著『維新御布告往來』(明治五年九月/思明楼蔵版)を探し出し、改めて拜讀した。
 理由は目下、苦心してゐる振り假名について學び度くある爲めだ。

 防共新聞社・福田邦宏主幹の曰く、「訓讀みが純然たる日本語だよ」と。
 思へば故神屋先生に正假名遣ひを申付けられ、阿形先生に振り假名を觸るやう申付けられ、今度は申付けられた譯ではなくとも福田賢兄が斯く仰る。小生が斯う云うては萬事御仕舞ひであるが、「天地無邊」て、果して讀者がゐるの乎、不安と疑念を禁じ得ない。
 尤も、福田兄の云はんとするは正論である。然らばまづ「防共新聞」から着手す可き、是れは小生の心の内に藏ふ可き言葉である。汗。

 さて、『維新御布告往來』に話を戻す。
 この書の内容は書名のとほりであるが、此度びは内容の爲めに取り出したのではない。
 御丁寧にも漢字に振り假名を振つてあるのだが、音訓共に振つてあるのだ。
 尤も訓讀みと云つても著者である沖志樓主人流が目立つのであるが。

 例へば『復古』(音、ふつこ)(訓、ムカシカヘリ)
  『公明』(音、こうめい)(訓、アキラカニシテ)
  『舊弊』(音、きうへい)(訓、ムカシノワルクセ)
  『陋弊』(音、ろうへい)(訓、イヤシキクセ)
  『書記』(音、しよき)(訓、カキヤク)
  『御大政』(音、ごたいせい)(訓、ゴセイダウ)
  『異教』(音、いけう)(訓、ワルキヲシヘ)と。

 なかゝゝ面白いでせう。苦笑。

 よつて小紙の振り假名の參考資料として取り出した次第だ。


 ところが。別なる意味で面白き振り假名があつた。
  『文明開化』。
 音讀みでは(ぶんめいかいくは〔わ〕)である。
 さて。沖志樓主人は是れを何と讀ませる。

  バカモリコウニナル

 だ。
 
 明治五年と云へばかういつた解釋をなされる御仁少かるまいと承知してゐるが、幾ら何でも「ばかもりこうになる」とは奈何。
~ザンギリ頭をたゝいてみれば、洋魂洋才の音がする、乎。
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※寫眞『維新御布告往來』


 因みに、『神皇正統記』(慶應元年再刻版本)をみると、
  『大日本』(おほやまと)とありつゝも、

  『異朝』(いてう)
  『根本』(こんほん)
 とある。
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※寫眞上『神皇正統記』

 福田賢兄の御言葉は、小憎らしい後輩を苛めるー、もとゐ、可愛い後輩への叱咤激勵として、言葉だけ難有く賜はることゝしよう。
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by sousiu | 2010-10-16 02:31 | その他

北陸道での三日間の零れ話し

 阿形先生の健脚下、散策した三日間であつたが、御土産は近江町市場で買つた幾許の日本海の幸と、神奈川に見る能はぬ寫眞と、樂しい思ひ出と、今尚ほ續く筋肉痛だ。熟々、小生の運動不足を思ひ知らされた次第である。思へば既に馬齡を重ねること四十。ん?阿形先生、同行された水野、淺野兩先生も七十を越えるおん年だ。こと阿形先生は以前會津に連れて行つていたゞいた時もさうだが、兎に角、優れた體力を御持ちだ。此度びの最終日、兼六園に入る前は十五時ころであつたか既に我々は一萬歩近くを歩いてゐた。未だ先生は疲れた御樣子は毫も是れ無く。判つてゐたことだが、驚いた次第だ。


 出發前、三日間久々に夜はゆつくりしようと考へ、書籍を持參した。
「熱血史談 維新の人々」と「靖獻遺言」卷之一、二、三。
 なにせ神奈川に歸れば、機關紙製作の忙しき重勞働が待つてゐる(つまり今がさう)ので、この時ばかり、と心しづかに讀破しようといふ豫定を立てた。
 初日の夜は早目に布團に入つた。然し、歩きとほしであつた爲め乎、畧ぼ不眠の状態で出發した爲め乎分からないが、「熱血史談~」を二時間ほど讀み、遂ひに寢てしまつた。小生、久し振りの早寢であつた。

 朝起きて、持參した書物の讀破は諦めた。然し長時間寢ることが出來たので今日は夜更かししてでも讀書に專念出來ると考へた。當初豫定した全ての書物の讀破は最早困難であるが、溝口白洋氏著「熱血史談 維新の人々」(昭和十一年三月「有宏社」發行、五百十一頁)は讀破出來る。二日目の夜は、街で食事を御馳走になつた後、ホテルへ戻つた。飮料水も煙草もある。浴衣に着替へて、さア、昨日の續きを讀まうと思ひきや否や、何やらドアをノツクする音が聞こえた。珍客は目代直人兄であつた。部屋で飮まうと目代兄からの御誘ひであつた。曰く、「明日で歸へるのだから」と。
 御斷わり申上げるわけにもゆかず、誘はれるまゝ兄の部屋へ。日乘を御覽の各位には既に御承知のことゝ思ふが、小生は專ら烏龍茶だ。途中で鼻の良い水野先生が酒の匂ひを認め亂入したのを切つ掛けに小生は一端、部屋を脱出してノートパソコンから當日乘十一日付けの更新を行つたわけである。脱出間際、戻る約束のしたことを思ひ出し、既に散會したことを念じつゝ、おそるゝゝゝ兄の部屋へ樣子を見にゆくと、弊社門人の倉重君が部屋に拉致されてゐた。拉致と云はずんば、捕虜だ。然も倉重君は兄はじめ朱光會諸兄と酒を飮み、すつかり意氣投合して談笑してゐる。朱光會總隊長は斯くも甘い漢では無かつたといふ譯・・・・か。
 仕方なく、小生、檻中に入れられたる兎の如く兄の部屋に戻らざるを得なくなつた。
 解散後、自室に戻るとすぐさま寢た。
 「熱血史談~」は途中である。「靖獻遺言」に於ては頁を捲つてすらない。
 “豫定は未定”と何處かの誰れかが尤もらしく云つてゐた。尤も、だ。
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by sousiu | 2010-10-14 19:06 | 報告

北陸道での三日間

 初日の十日は既記のとほり。富山縣に行き、城址公園を主として富山城下を巡る。

 翌日十一日は、石川縣へ。石川縣金澤市に鎭坐される護國神社にて行はれる「大東亞聖戰大碑建立十周年 副碑落慶記念式典」に參列した。此の日の朝、金澤は雨が降つてゐたと聽くが、祭事が執り行はれるころとなると暑いくらゐの晴天となつた。遠方からも多くの有志が集まり、嚴かに式典は進められた。
 其の後、阿形先生、大日本朱光會諸賢と金澤城下町にある東茶屋街を散策。文政のころ、當時の遊廓を整備して歡樂街となつたとか。江戸時代の雰圍氣に包まれた此の一畫は、まことに感慨深きものである。
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※寫眞上。大東亞聖戰大碑。
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※寫眞上。東茶屋街。


 最終日の十二日は、長町武家屋敷を遊歩。こゝも亦た江戸時代を彷彿させる一畫だ。阿形先生に多くの記念館や資料館に連れていたゞいた。武家屋敷を出ると、尾山神社へ。尾山神社は加賀藩祖前田利家氏を御祭神としてゐる御社で、重要文化財にも指定されてゐる。
 其の後、大日本朱光會・目代直人總隊長の引率により兼六園へ。恰度一年前にも訪れた兼六園であるが、見事な庭園は何度來ても見る者を飽きさせない。兼六園を出でると我々は金澤を後にし、關東への歸路についた。
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※寫眞上。長町武家屋敷。
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※寫眞上。尾山神社。
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※寫眞上。兼六園。
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by sousiu | 2010-10-14 17:41 | 報告