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『夢醉獨言』を讀む 下  

 承前


おれは一生の内に無法の馬鹿な事をして年月を送つたけれども、いまだ天道の罰もあたらぬと見えて、何事なく四十二年かうして居るが、身内にきづ一つも受た事がない、其外(そのほか)の者は、或はぶちころされ、又は行衞(ゆくへ)がしらず、いろゝゝの身に成た物が數しれぬが、おれは高運だとみえて、我儘のしたい程して、小高の者はおれの樣に、金を遣つたものもなし、いつもりきんで配下を多く遣つた、衣類は大がひ人のきぬ唐物、其外の結構の物をきて、甘(うま)いものは食ひ次第にして、一生女郎は好に買ひ、十分の事をしてきたが、此頃に成て、漸く人間らしく成て昔の事を思ふと、身の毛が立(たつ)やうだ。男たるものは、決ておれが眞似をはしないがいゝ。孫やひこが出來たらば、よくゝゝ此書物を見せて、身のいましめにするがいゝ。今は書(かく)にも氣のはづかしい。是と云も無學にして、手跡も漸く二十餘に成て、手前の小用が出來るやうに成て、好(よい)友達もなく、惡友計(ばかり)と交つた故、よき事は少しも氣が付ぬから、此樣の法外の事を英勇ごふけつ(豪傑)と思た故、みな心得違(ちがひ)して、親類父母妻子に迄いくらの勞を懸けたかしれぬ。かんじんの旦那へは、不忠至極をして、頭取扱も不斷に敵對してとふとふ今の如くの身の上に成た。幸に息子が能つて、孝道してくれ、又、娘がよくつかへて、女房がおれにそむかない故に、滿足で、此年まで無難に通(とほつ)たのだ。四十二に成て、始て人倫の道かつは君父へつかへる事、諸親へむつみ、又は妻子下人の仁愛の道を少ししつたら、是迄の所行がおそろしく成た。よくよく讀(よん)であちあふ(味はふ)べし。子に孫にまであなかしこ』


おれが此一兩年始て外出を止られたが、毎日毎日諸々の著述物の本、軍談また御當家の事實いろいろと見たが、昔より皆々名大將勇猛の諸士に至るまで、事々に天理を知らず諸士を扱ふ事、又は世を治るの術、亂世によらずして、或は強勇にし、或はほふ惡く、或はおこり女色におぼれし人人、一時は功を立てるといへ共、久しからずして、天下國家をうしなひ、又は知勇の士も、聖人の大法に背く輩は、始終功を立(たて)ずして、其身の亡びし例をあげてかぞへがたし。和漢とも皆々天理にてらして、君臣の禮もなく、父兄の愛もなくして、とんよくきようしや故に、全き身命を亡し、家國をもうしなふ事、みなゝゝ天の罪を受くる故と、初めてさとり、おれが身を是までつゝがなく、たもちしは、ふしぎだと思ふ、と。いよゝゝ天の照鏡をおそれかしこみて、なかゝゝ人の中へも顏出しがはづかしくして出來ずと思ふは、去(さり)ながら、昔年暴惡の中よりして、多くの人を金銀をもおしまず、世話をしてやり、又人々の大事の場合も、助けてやつたから、夫故に少しは天の惠みがあつた故、此樣にしてまづあんのんにしているだらふと思ふ。息子がしつまい故に、益友をともとして、惡友につき合(あは)ず、武藝に遊んでいておれには孝心にしてくれて、よく兄弟をも憐み、けんそにして物を遣はず麁服にもはぢず、麁食し、おれがこまらぬよふにしてくれ、娘が家内中の世話をしてくれて、なきもおれ夫婦が少しも苦勞のないよふにするから、今は誠の樂隱居になつた。おれのよふな小供の出來たならば、ながく此(この)樂はできまいと思ふ。是もふしぎだ神佛には捨られぬ身と思ふ。孫や其子はよくゝゝ義邦の通りにして、子々孫々のさかへるよふに心がけるがいゝぜ。男は九歳からは外の事をすてゝ、學文して武術に晝夜身を送り、諸々の著述本をみるべし。へたの學問よりははるかに増(まし)だから。女子は十歳にもなつたらば、髮月代を付習ひ、おのが髮も、人手にかからぬよふにして縫はし、十三歳ぐらひよりは、我身を人の厄介にならぬよふにして、手習などもして、人並に書く事をすべし。他へかしても事をかゝず、一家を治むべし。おれが娘は十四歳のときから、手前の身の事は、人の厄介になつた事はない、家内中の者が、却々(なかゝゝ)世話になる。男子は五體を強くして、そしきをして武藝骨をり、一藝は諸人にぬき出ていを逞ましくして、且(かつ)邦の爲に極忠をつくし、親の爲には極忠をつくし、親の爲には孝道を專らにして、妻子にはしあいし、下人には仁慈をかけつつかひ、勤をばかたくして、友達には信義をもつて交り、專らにけんやくしておごらすたらずそふくし、益友には篤くしたひて、道をきゝ、師匠をとるなら、業はすこし、次にしても道に明らして、俊ほくの仁をゑらみて入門すべし。無益の友とは交るべからず。多言を云事なかれ。目上の仁は尊敬すべし。萬事内輪にして愼み、祖先をまつりてけがすべからず。勤は半時早く出べし。文武を以て農事を思ふべし。少しも若き時は道々を學ぶべし。ひま有(ある)時は、外魔が入て身をくづす。中たちの遊藝にはよる事なかれ。年寄は心して、少しはすべし。過ればおれのよふになる。庭へは諸木を植す畑をこしらへ、農事をもすべし。百姓の情をしる、世間の人情に通達して、心にをさめて外へ出さず守べし。人に藝の教授せば、弟子を愛して誠を盡し、氣に叶ぬものには猶々丹誠を盡すべし。ゑこの心を出す事なかれ、萬事に厚く心を用ひ、する時は天理にかなひておのれの子孫に幸あらん。何事も勤と覺(さと)らば、うき事はなかるまじ。第一に利慾は絶つべし。夢にも見る事なかれ。おれは多慾だから、今の姿になつた。是は手本だ。高相應に物をたくはへて、若(もし)友達か親類に不慮の事があつたならば、をしまずほどこしやるべし。縁者はおのれより上の人と縁組べからず。成丈にひん窮より相談すべし。おのれに勝るとおごりかつて家來はびんぼう人の子を仕ふべし。年季立(たち)たらば分限の格にして片付てやるべし。女色にはふけるべからず。女には氣を付べし。油斷すると家を破る。世間に義理をばかくべからず。友達をば陰にて取なすべし。常住坐臥ともにうはにして家事を治め、主人のいかうをおとすことなし。せいけんの道に志して、萬愼みて守るときは、一生安穩にして、身をあやまつ事はなかるまじ。おれは是からは、この道を守、心だなんにしろ學問を專用にして、能く上代のをしへにかなふようにするがいゝ。隨分して出來ぬ事はないものだ。それになれるとしまひにはらくに出來る物だ。理外の道へいることなかれ。身を立(たて)名をあげて家をおこす事はかんしんだ。譬へばおれを見ろよ、理外にはしりて、人外の事ばかりしたから、先祖より代々勤めつゞけた家だが、おれがひとり勤めないから、家にきづを付た。是が何寄(なにより)の手本だは。今となりて覺ていく樣も後悔をしたからとて、しかたがない。世間の者には、惡輩の樣にいはれて持(もつ)てゐた金や、道具はかしとりにあいて、夫を取にやれば、隱居が惡法で拵らへた道具だから、何返すに及ずといふし、金もまたその心持で居るから、ろくに挨拶もせずによこさぬは、吾(おれ)は向ふが尤(もつとも)と思ふ。よいかよふの事が出ても、人をばうらむものではない。みんなこちらのわるいと思ふ心がかんじんだ。怨敵には恩を以てこたへば、間違はない。おれは此度も頭よくおしこめられてから、取扱のものともをうらむだが、よくゝゝ考へて見たらば、みんなおれが身より火事を出したと、氣がついたから、まいばんまいばん、罪ほろぼしには、ほけ經をよんで、蔭ながらおれにつらく當つたと、おれが心得違だ、仁々(ひとゞゝ)は、りつしんするよふに祈つてやるから、其せいか、此ごろは、おれの體も丈夫になつて、家内のうちになにもさいなんもなく、親子兄弟とも、一言のいさかひもなく、毎日毎日笑つてくらすは、誠に奇妙なものだと思ふから、子々孫々もこふしたら、よからうと、氣がつゐた故にあかし折々出付た善惡の報(むくひ)をよくゝゝあぢはふべし。恐多くも、東照宮の御幼少の御事、數年の御なんせん故に、かくの如くに太平つゞき、萬事さかへるうれひ忘れ、妻子をあん樂にすごし、且は先祖の勤苦思ひやるべし。夫より子孫はふところ手をして先祖の貰た高をうけて、昔を忘れて美服をき、美味をくらひ、ろくの御奉公をも勤めざるは不忠不義ならずや、ここをよくおもつて見ろ、今の勤めは、疊事だから、少しもきづかひがないは、萬一すべつてころぶ位の事だ。せめては朝は早く起き、其身の勤めにかゝり、夜は心を安じて寢て淡泊のものを食し、おごりをはぶひて、諸道に心をつくし、不斷のきるいは破れざれは是として、勤の服はあかのつかざれば是とし、家居は雨もらざればよしとし、疊きれざれば是として、專らにけん素にして、よくはすべからず。儉吝の二字を味をふてすべし。數卷の書物をよんでも、心得が違ふと、やらふの本箱字引になるから、こゝを間違ぬよふにすべし。武藝もそうたふころの業を學ぶと、支體かたまりて、やらふの刀掛になる故、其心すべし。人間になるにも、其通りだ。とくよく迷ふと、うはべは人間で、心は犬猫もどふよふになる。眞人間になるよふには心懸るが專一だ。文武諸藝とも、みなゝゝ學ぶに心を用ひざれば、不殘(のこらず)このかたわとなる。かたわとなるならば、學ばぬがましだ。よくよくこの心を間違ぬよふに守が肝要だ。子々孫々ともかたくおれがいふことを用ゆべし。先にもいふ通り、おれは之までもなんにも文字のむづかしい事はよめぬから、こゝにかくにも、かなのちがひも多くあるから、よくゝゝ考へてよむべし。天保十四寅年の初冬、於鶯谷庵かきつゞりぬ。
           左衞門太郎入道
                            夢醉老』



 ・・・・何處で分斷して宜いか迷うたが爲め、長くなつてしまつた。汗。


 文中に出で來る御子息「義邦」とは、麟太郎、則ち、勝海舟翁のこと。千代田城の無血開城を果たし、徳川執政二百六十年を終局するに至らしめた幕臣である。夢醉翁は、その勝海舟翁の御尊父だ。
 世に用ゐられることなきまゝ其の一生を終へられるも、斯くみれば、「不良旗本」として周圍に恐れられた夢醉翁、單なる不法者、風來坊の人ではなかつた。

 放蕩三昧を繰り返した翁の戒め言には、言葉は亂暴粗雜と雖も、生氣が溢れ、思はず考へさせられるものが多くある。
 小生のほかにも、一讀を要する放蕩者がをられるものと察し、此の度び苦勞して抄録した次第である。苦笑。
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by sousiu | 2011-02-28 23:15 | 良書紹介

『夢醉獨言』に思ふ 上  

 嘗て江戸時代の武士に勝左衞門太郎惟寅なる放蕩者があつた。
 惟寅、幼名は龜松。勝家の養子となり小吉。隱退の後は夢醉と號す。祿高は四十一石。小普請組に屬してゐた。
 
 今日は、その彼れが四十二歳のころ著はした、『夢醉獨言』を抄録する。

 別段、深い意味も無いもので、寢る前に御時間餘まる方の、御暇つぶしに御一讀いたゞければそれで宜しとする。
 但し、夢醉翁による、相當の誤字が認められる爲め、能く々ゝ御注意のうへ御一讀されたし。
 括弧及び括弧内は小生による。



●天保十四年、夢醉翁四十二歳、『夢醉獨言』に曰く、


氣はなかくこゝろはひろくいろうすく
 つとめはかたく身をはもつべし

まなへたゝゆふへにならふみちのへの
 露のいのちのあすきゆるとも


 おれほどの馬鹿な者は、世の中にあんまり有まいと思ふ。故に孫やひこの爲にはなしてきかせるが。能く不法もの馬鹿者のいましめにするがいゝぜ。おれは妾の子で、はゝ親が親父の氣にちかつけ、おふくろの内(家)で生れた、夫(それ)をほんとふのおふくろが引取て、うはてそだてゝくれたが、がきのじぶんより、わるさ斗(ばかり)して、おふくろもこまつたと云ふ事だと。夫におやぢが日きんの勤め故に、内には居ないから、毎日々々わがまゝ計りいふて強情故、みんながもてあつかつたと、用心の利平治と云(いふ)ぢゞいが話した。其時は深川のあぶら堀と云ふ所に居たが、庭に汐入の池が有て、夏は毎日毎日池にばかりは入(い)つてゐた。八ツにおやぢが御役所より歸るから、其前に池より上りしらぬ顏で遊んで居たが、いつもおやぢが池のにごりてゐるを利平ぢゞにきかれると、あいさつに困つたさふだ。おふくろは中風と云(いふ)病ひで、立居が自由にならぬ。あとはみんな女計りだから、ばかにしていたづらのしたいだけして、日をおくつた。兄きは別宅してゐたから、なにもしらなんだ。おれが五ツの年、前町の仕事師の子の長吉と云(いふ)やつと凧けんくわをしたが、向ふは年もおれより三つばかり多きい故、おれが凧をとつて破り、糸もとりおつた故、むなぐらを取て、きりいしで長吉のつらをぶつて故、くちびろをぶちこはして、血が大そう流れてなきおつた。そのとき、おれが親爺が、庭の垣根から見ておつて、侍を迎ひによこしたから、内へかへたら、親父がおこつて、人の子にきづをつけてすむか、すまぬか、おのれのよふなやつはすておかれずとて、縁の柱におれをくゝらして、庭下駄であたまをぶちやぶられた。いまにそのきづがはげて、くぼんでゐるが、さかやきをする時は、いつにても、かみそりがひつかかつて血が出る、そのたび長吉の事を思ひ出す。
 おふくろがほふぼふより來たくわし(菓子)をしまつておくと、ぬすみ出して食てしまふ故、方々へかくしておくを、いつもぬすむ故、親父にはいはれず困つた、逸體はおふくろがおれをつれて來た故、親父には、みんなおれがわるいいたづらはかくしてくれた。あとの家來は、おふくろをおそれて、親父におれが事は少しもいふことはならぬ故、あばれほふだいだつた』

『おれが名は龜松と云、養子にいつて小吉となつた。夫から養家には、祖母がひとり、孫娘がひとり、兩親は死んだ後で、不殘(のこらず)深川へ引取り、親父が世話をしたが、おれがなんにも知らずに遊んでばかり居た。此年にたこにて、前町と大げんくわをして、先は二三十人ばかり。おれはひとりでたたき合、打合せしがついにかなはず、干かばの石の上に、はおいあげられて、ながさをで、したゝかたゝかれて、ちらしがみになつたが、なきながら脇差を拔きて、きりちらし、諸せんかなはなく思たから、腹をきらんと思ひ、はだをぬいで、石の上にすはつたら、其脇に居た白子やと云ふ米屋がとめて、内へおくつて呉れ、夫よりして近所の子供がみんなおれがてしたになつたよ。おれが七つの時だ』

 夢醉翁は幼年時代から斯くの如く、やりたい放題、亂暴三昧であつたと云ふ。

 少年へと成長してからも、夢醉翁の亂暴は一向に收まらず、そればかりか放蕩も加はり更らに不孝者となつてゆく。翁は再三、「武者修行に行く」と云つては家を飛び出し、放蕩に明け暮れ借金を拵へては戻つてくる。このころの記述は長文であるので、割愛する。
 夢醉翁の兄は困まり果て、三疊の部屋を座敷牢にして、翁を閉ぢ込めた。夢醉廿一歳の秋から廿四歳の冬までの約三年間である。これによつて翁の少年、青年時代の放蕩が如何に家族を惱ませたかが察せらるゝ。當時を振り返り、夢醉翁の曰く、『~内へ歸つたら、座敷へ三疊のをりを拵へ置て、おれをぶちこんだ。それから色々工夫をして、一日もたゝぬ内、をりの柱を二本ぬけるやうにして置いたが、能々考た所が、みんなおれがわるいから起たことだと氣がついたから、をりの中で手習を終て、夫から色々軍書本も毎日みた。友達が尋て來るから、をりのそばへ呼で、世間の事を聞て頼(たの)しんで居たら、二十一の秋から二十四の冬迄をりの中へはいて居たが苦しかつた』と。

 その後も翁の放蕩は絶えることなく、續いた。凡ゆる放蕩生活、浪人生活を繰り返し、社會の辛甘を嘗め盡した。
 しかし放蕩者・夢醉は晩年に至り、突如、我が身を省みる。而してこの「夢醉獨言」は書き綴られた。
 「夢醉獨言」は上記の如く、夢醉翁半生の懺悔録だ。以下は達觀後の彼れの子孫に宛てた戒め言を抄録したい。

 ~續く~
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by sousiu | 2011-02-28 20:02 | 良書紹介

送つた

 昨日、いや、本日二時ころ、やうやく封筒詰めが終はつた。

 作業を終へて、讀み直すと、段落をしてゐない箇所を發見。こういふ失敗がまゝある。
 どうしても見落としてしまふのだ。


 質疑應答は、今は幽界の住民である相原修兄の質問責めで締め括られる。
 兄の、顯界に於ける會話の記録としては、小生の所有する限りではおそらく最後のものではないかと思はれる。

 兄は藤本さんに、展転社發行書籍に關する在庫の有無を一々確認するのであるが、この質問がくどくてしつこい。汗。「かながわ県民センター」は時間にうるさいので、困つてしまつたものだ。
 ところが、兄の死後、誰れから拜聽したのか迂闊にも失念してしまつたが、藤本さんが、兄の質問を大層喜ばれたといふ。
 つまり、かういふことだ。兄は展転社の發行する書籍を、藤本さんに代はつて參加者に紹介してゐたのだ。質問といふかたちをとつて。本の賣れない時代、と、我が陣營に識見を求められる時代にあつて、兄は展転社の書籍を參加者に一讀するやう願つてのことであつたのだ。

 彼の質問は、直前に小生が「締め括るに相應しい質問を何かしてくれ」と耳打ちして投ぜられたもの。DVDにもその場面が寫つてゐたかも識れない。小生からの急な依頼で即座にそのやうな配慮が出來ることからも、彼の常に思願ふところ何であつたか察するに難しくない。
 かく三思せば、彼は本當に宜い男であつた。されど彼の今無きことをいつまでも遺憾に思ふことは吾人の本意ではない。而して、彼の本意でもない。彼の同志と思ふ者はその志望を逞しうし、求學求道に專心することが彼我の本意であると小生は確信して疑はない。小生も、その多くの一人であると思つてゐる。
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by sousiu | 2011-02-26 14:09 | 報告

出來た

 起きて、藤澤市にある印刷屋へ、「草莽崛起の集い」叢書を取りに行く。
 今囘は、展転社の藤本隆之さんの講演録だ。七百部つくつた。

 樣々な事情でなかゝゝ發行出來なかつたが、本日、やうやく完成した。嬉しい。微笑。
 さて。これから、封筒詰めだ。おそらく夜中までかゝるであらう。しかし、機關紙もさうであるが、この發送作業は苦ではない。

 小生は街宣車での運動をやめて、久しい。
 街宣車での運動を否定する積りは全くない。正しく利用される運動に於いて、だが。
 しかし、街宣車運動と等しく、活字を遺し、江湖に弘めることも大切だと思つたからである。
 街宣車で運動してゐる人、驛頭で演説してゐる人は、その街宣車の維持費、ガソリン代、車檢代を團體の仲間で苦心して費用を集め、支拂つてゐる。驛で演説を聽いてゐる人からお金が貰へるわけではない。
 文章報國も然り、である。街宣車の維持費が印刷代や切手代に變はつただけだ。「遺す運動」のひとつとして・・・。よつて、當日の參加者は固より、ほゞ全て(限りなく九割九分九厘・・・苦笑)が贈呈である。しかし上記の理由から、それは小生の微力にせよ文章報國・發送報國のさゝやかな拘はりでもあるし、何よりも誇りに繋がつてゐるのだ。

 そして皆、街宣車で運動する人は、街宣車の整備を怠らない。演説する時もキチツと自らの服裝のみならず、姿勢だつて正す(小生はいつも同じ服だが・・呵々)。それは禮儀なのだ。
 それと同じで、小生も發送の作業は封筒詰めだつてキチツとしたい。
 ・・・といふわけで、今日はこれから樂しみながら一日を過ごすのだ。



 仙臺と熊本の諸兄からコメントをいたゞいてをるが、返事は封筒詰めが終はつてからにしたい。
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※因みに、よく見ないと分からないが(汗)、この背文字も小生の拘はりの一つだ。苦笑。
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by sousiu | 2011-02-25 14:16 | その他

過ぎたるは、なほ及ばざるが如し

 二月廿四日。雨。

 槍こそ降らなかつたが、起きたら雨であつた。屹度小生が昨日、待ち合はせに一時間も早く到着したからだ。
 本日、外出する人たちへ、ごめんなさい。全部、小生の責任だ。
 小生が珍しく、待ち合はせに遲刻もせず到着した爲めに・・・・。何卒、御寛恕あらむことを。
 本當に御免なさい。

 ↑↑↑↑孔子の、子貢に曰く、『過ぎたるは、なほ及ばざるが如し』と。



 今日のインターネツトニユースで、下記の如き報道があつた。↓↓↓↓

●“自虐”日本に驚く世界のエリートたちーーー日本人の自國批判で傷つく人も
『母校エール大學でのシニアフエローとしての任期を終へ、先週からハーバード大學に移籍した。こゝボストンでも、ありがたいことに刺激的な毎日である。エールでもハーバードでも、世界中から集まつてゐる知識人と交流してゐると、一つだけ共通する反應がある。それは、「日本人ほど日本に嚴しくて自虐的な人たちはゐない」と皆がいふことだ。「自國に對して過剩なほどに自虐的な日本人」に世界の知識層たちは驚いてゐるのだ。
 もつといへば、「日本人が日本のことを惡く言ふたびに、自分の國の方がひどいので、自分がつらくなる」といふ人までゐる。~以下略~』と。
http://news.goo.ne.jp/article/diamond/business/2011022406-diamond.html



 日本人は、謙虚だ。支那人のやうに、他國へ行つて自國が世界の中心の國と宣傳したり、他國で泥棒したり、強盜したり、剩へ、その國のお年寄りの家に侵入し、殺害し、金品を掠奪するやうな癡漢はゐない。日本人による、他國でのさうした報道は先づ、殆ど聽いたことがない。頗る行儀が宜いのだ。行儀が宜いといふことは、禮節を重んじてゐるといふこと。精神が高所にあらねば、禮節の體得は困難だ。
 謙遜は日本人の得意とするところだ。手紙でも自分をへりくだる。これはどんなに立場の高い人でも、地位を有してゐる人でも、だ。日本人の美風だ。我が美風を前に、貴賤貧富の別も老若男女の別もない。

 だが、『過ぎたるは、なほ及ばざるが如し』。
 上記の記事のとほり、謙遜も、過ぎれば嫌味になる。


 ひとつ例せば、東洋平和を願ひ、亞細亞・阿弗利加解放を實現した日本であるが、これが支那人の手によるものであつたならば、今頃、東洋の諸國は大變なことになつてゐただらうね。すつかり、莫大な「貸し」にされてしまつてさ。
 日本人は、亞細亞のどの國へ行つても、「俺たちのお陰で貴方たちは~」なんて云はない。云はうとすら、考へてゐない。これだけでも大東亞戰爭敢鬪の目的は諒察せられるといふものだ。

 ・・・・でも、侵略戰爭をしちやつて御免なさい・・・はやつぱり謙遜し過ぎだな。苦笑。

 『過ぎたるは、なほ及ばざるが如し』。
 謙虚も過ぎると自虐になる。謙虚は素晴らしい。だが自虐は醜い。それを宜し、と勘違ひしてゐるのは政治家や日教組ら、極く少數派だけだ。
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by sousiu | 2011-02-24 15:14 | 小論愚案

宜き一日でした。

 二月廿三日。晴れ。

 午後から、ひとりで神田の古書肆巡り。神保町マツプを片手に、あちらこちらを探索。
 この邊の駐車場は料金が高いので、路上にある駐車場に車を停め、一時間置きに戻り、移動して、また探索。
 何度來てもこゝでの時間はあつと云ふ間に過ぎてしまふ。
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 前にも日乘に記したが、和本ばかりを揃へた書肆など、まつたく見事だ。↓↓↓↓
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 和本は最近の古本とは比較にならないほど高價なものが多いので、書名をみて樂しむだけ。迚も手が出ない。

 それでも折角來たのだから、と一册だけ。氣吹舍塾藏版『祝詞式正訓』を購入。
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 今日はこれで滿足だ。
 

 本居宣長大人、平田篤胤大人の和本も年々入荷が困難となつてゐるといふ。
 叢文閣書店々主の曰く、「冬は特にな。寒いから」と。
 本の入荷に季節が關係するのか小生には分からんが、既に入手の絶望的な本が年々増えてゐることは確かなやうだ。


 神保町を後にして新橋へ。今日は福永武道兄と二人で語らふことになつてゐる。
 待ち合はせの時間を一時間ほど早く、新橋に到着。(槍でも降るかも識れん・・・、苦笑)
 敬天新聞社の白倉社主が憂國の辻説法をしてゐたので拜聽しながら待つてゐた。
 正氣塾の若島和美さんとばつたり。白倉社主にも御挨拶申し上げ暫くすると、福永道兄がやつて來た。

 二人で新橋の「天狗」へ。
 儒教について。佛教や基督教について。國體觀念の動搖せる今日について。皇國の將來について。話しは彈み、あつと云ふ間に閉店の時間となつてしまつた。
 それにしても、今日は良い話しを聽くことが出來た。ありきたりな社交辭令としての言でなく、素直な感想だ。小生は年齡の上下に關はらず、良い話しはきちんと自分の引き出しに藏ふ。それを拙稿や駄辨に活用し、小生の思想は少しづゝであるが成長してゐるのである・・・と思ふ。成長してゐるかな・・・。汗。
 然るがゆゑに、くどいやうだが小生は、かういふ人達がゐる、といふそれだけで日本の將來は決して暗くないと斷言出來るのである。
 但し、宿題を出された。和歌を勉強することだ。福永兄は烏龍茶しか飮んでゐない筈の小生を醉はせ、氣分良く宿題を請はせた。一應、一年間の猶豫をいたゞいたが、歸路、ひとりになると途端に醉ひも醒め(固よりノンアルコールなので當然至極だ)、それが安請け合ひであつたと氣付いたのである。
 またゝゝ今年も勉強だ。汗。
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※福永兄と。小生の突き出た親指が、この時の小生の宿題に對する(根據なき)自信を表はしてゐる・・・・・。
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by sousiu | 2011-02-24 02:29 | その他

男はつらいよ

 いさゝか宣傳が遲れたが、先週發賣された『漫画実話ナックルズ』(ミリオン出版發行)にある『ドルショック竹下のウラ社会の窓』といふ漫畫で、我々の運動が紹介された。

 ドルショック女史が自ら、舊臘に行はれた神奈川有志の會及び神奈川縣維新協議會の大會に參加し、それを漫畫化したものだ。
 四頁といふ、限られた紙面で實際の運動を忠實に描寫し、爾もなかゝゝ面白い。やはりそれはプロの力だ。

 例へば、↓↓↓のコマであるが、これも事實に基づく。
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 横濱の一、二を爭ふ繁華街で、かくも奇聲をあげたこの勇敢なる漢は宮城縣の坂田兄か三森兄か、遠かつたのでどちらか遂ひに分からずじまいであつたが、確かにかういふ場面があつた。

 しかしよく見てゐるものだなア。事實に忠實過ぎるほどに忠實だ。繪も是れ又た上手だ。誇張など、姑息な手法を用ゐない、漫畫家のかゞみだと小生は思ふ。今後は、ドルちやんでなく、ドルショック先生と小生も呼ばねばなるまい。




 ん?待てよ。
 此度びの主な登場人物は伊藤満先輩と小生なのであるが、これが餘りにも對照的に描かれてゐることに氣が付いた。小生の細いだけではない鋭利な眼は、節穴なぞではない。


 伊藤先輩は終始、運動家の模範のやうに描かれてゐる。加之、好漢だ。↓↓↓
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 あの因業オヤヂ、日頃小生には説教ばかりしてゐるくせに、女性に對してはさりげなくこんなイカした小技を演出してゐたのか・・・・・・。ドルシヨックもすつかり顏を赧めてからに。





 それに引き換へ小生は、まつたくウザいキヤラになつて描かれてゐる。↓↓↓
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 ドル而已ならず、長島女史まで歸りたさうな顏してからに。語つてゐる時は夢中になつてしまひ不覺にも氣付かなかつたが、二人とも露骨に嫌さうだ。「語れ」といふから語つただけなのに、これは一體どうしたことか。さつぱり分からん。吁。





 ドルショック竹下女史は事實に忠實なる、漫畫家の鑑だ。

 但し、今少し男を見る眼を養ふことが出來たらば・・・、だ。
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by sousiu | 2011-02-22 00:03 | その他

勉強してきました

 昨日は、皇國の復古中興を期さんとする集ひが行はれた。(新宿區歌舞伎町「ルノアール會議室」)
 
 呼び掛け人は日本誠龍社 貴田誠會長。
 講師は阿形充規先生。
 演題は『民族派として今、何を成すべきか共に考へる』。

 會場は溢れるばかりの參加者で、市村悟先輩や山川裕克兄ほか、多くの人が入場する能はず、ロビーで一時間半を過ごしたほどである。
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 内容は、阿形先生の運動家人生を振り返へり、その總括。時流の急速な變節に際して必要たることは原點を見失はないことが此度びの主旨であると解した。
 質疑應答では、小生も擧手した次第である。
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 社會而已ならず、我が陣營に於いても戰前戰中の世代が退場されてゐる。
 日教組教育に染まつてゐない大先輩の御話しは、貴重である。
 參加者として會場にゐた木川智兄との年齡差は實に四十五歳。四十五歳と一口に云つてもそれは凄い年齡差である。
 逆を云へば木川選手の四十五歳上であるにも關はらず阿形先生の、未だ現役で驛頭で演説し、若者と共にデモに參加する姿勢は驚歎に價ひする。
 勿論、木川選手も運動熱心な若者だ。

 而して中間の年齡層にある小生が、一番、ぐうたらである。これは決して小生の謙遜ではない・・・・。
 ・・・太つたからなア・・・・とほほ。
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by sousiu | 2011-02-21 20:03 | 報告

一艸讀後  ~靖獻遺言精義~ 六 承前  

 日本の偉大は、入つてきたもの~技術であれ思想であれ~を正しく進化させることにある。
 それには固より吾人の鋭意努力、切磋琢磨に掛かること云ふまでもないが、日本人は努力如何でそれを可能ならしむる丈の才能と素質を兼ね揃へてゐる。
 例すれば、車の發明は我が國によるものではない。
 しかし我々は「日本車」を誇ることに決して躊躇しない。現實に車産業は我が國の經濟を支へる大きな一つである。而して、他國は日本車の性能を凌駕するに困難であると聞く。
 紙も然りだ。吾人は「和紙」を他國のものとして認めない。

「靖獻遺言」をして、儒教が支那に逆輸入されたことは既記した。
 儒教の誕生は、孔子におふところが多いとしても、闇齋學は既に別なるものとして發展を果たし、我が國に貢獻し、而、かの國へ輸出され、かの國に活かされんとしたのである。

 小生はこれまで、演説や原稿で『民主主義は怪しからん』とさんゞゝ罵倒してきた。
 然り乍ら、それには少しく言葉が足らなかつたことを認めなければならない。
 輸入されたまゝの状態では駄目だ、といふことだ。

 日本は嘗て文字を輸入した。先賢はこれをそのまゝ使用することを認めなかつた。
 安易に模倣すれば、一時期は便宜を見込めても、その後の弊害の生ずることを察知してゐたのであらう。實に先賢の、先賢たる所以といふものぞ。

 闇齋學は、「儒教は駄目だ」とは云はれなかつた。水戸學もさうだ。
 但し、その儒教の發展、生成に務めて、見事に日本化に組み込んだのである。
 支那ではかの國の賢者が寄り添うても果せなかつた儒教の發展は、日本に於いて可能ならしめたのである。
 勿論、儒教は亞米利加でも英吉利でも和蘭でも、發展は不可能であつた。

「民主主義が駄目」だ、と云つても何にもならない。確かにその代はりとなる思想形態が誕生する可能性は皆無ではない。しかしそれではその誕生を待たねばならず、且つその普及、實施は頗る困難であるといはねばならぬ。
 吾人は鋭意學究して、今を支配する民主主義の日本化を果たすことが出來ないだらうか。
 かう考へた次第である。

 今や民主主義は世界的な擴がりを見せつゝある一方、その限界を露呈してゐる。
 若しも、世界が閉塞し、人類が迷妄し、爾して民主主義の改良、發展を望むのであれば、それは東に望まねばならぬ。我が日本だ。
 凡ゆるものを吸收する能力を備へ、且つ成長を促進させる識見を備へた我が大日本。
 この成功あれば、儒教が支那へ輸出されたやうに、自動車が却つて輸出されたやうに。民主主義も改良を重ねて泰西に輸出されるのである。
 それが世界皇化の一つだ。

 よつて、吾人はいつの御宇にも感謝をし、これを否定することがないやうに、敗戰もまた我が發展、成長の爲めの布石として考へることが出來る。
 總ての人の人生には無駄がないやうに、皇國にも無駄がないのだ。
 戰後民主主義を押し付けた占領軍に感謝しろとまでは流石に云はない。だが、これを生成して逆に輸出し、御稜威は八紘に廣まるものと考へる。

 では、民主主義の日本化とは何であるのか。
 それは今後の、小生のみならず、國民の課題と云ふ可し。


 これが云ひたくて、一艸讀後は長々となつたのである。


一艸讀後、續・・・かない。遂ひにをはり。
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by sousiu | 2011-02-20 15:22 | 小論愚案

一艸讀後  ~靖獻遺言精義~ 五 承前  

 昭和十八年、この「靖獻遺言精義」を上梓された法本義弘翁は想像だにしなかつたかもしれぬが、目下、日本は個人主義・功利主義・民主主義・自由主義等に汚染され自繩自縛の樣を呈してゐる。

 これによつて生ずる問題は社會の隅々にまで浸透し、今や大凡の國民が共有する憂慮の種となつてゐる。
 これを除去せんと思ふの人は年を負ふごとに増加し、それ丈街頭やら紙上やらに喧噪が重ねられる。尤も當然の成り行きだ。世は保守派の大量生産期だ。

 だが、喧噪に比して成績は覺束なくある。たとへ保守派が玉石混淆と雖も「左翼にあらずんば人に非ず」などてふ時代を鑑みれば、遙かに多勢となつたにも關はらず、だ。

 それ、とは、原因なきものとしない。
 以謂は、輸入されたそのまゝの個人・功利・民主主義を基幹とした上での保守思想であるからだ。
 則ち、外來思想に染まつた者の發想と應用であるのだ。今更らながら日教組教育の脅威を、大なるものとして認めなければならない。

 だが、徳川執政の世は、察するに今以上の自繩自縛の情態ではなかつたかと察せられる。その繩が現在の個人・民主主義ではなく儒教であつた違ひのあるにせよ。

 儒教が、山崎闇齋先生、崎門學派の賢人によりて我が皇道に組み込まれたことは、先賢の文章を抄録したことに明らかだ。加之、我が皇道を闡明とする一役を擔うた。崎門學派の偉業さることながら、小生は、崎門學派を産み給ひたる我が國體の偉大を思はずにをられない。

 當時、人心と制度を束縛する繩たる儒教が、却つて幕府を縛り滅亡へと導いたことは、何とも痛快であり、而して、我が皇國の偉大を改めて識らされるものである。崎門學派誕生以前には、誰れも思ひもよらなかつたことだ。況んや徳川家、幕府に於いてをや、だ。


 愚案。崎門學派の偉業から一つの假説が立つことを識る。
 若しも、我が皇國に、戰後の民主主義なるものが、當時の儒教の如く組み込まれ、同時に我が皇道を闡明にする役割りを擔ふ素質をわづかほどでも備へてゐるのだとしたら、と。

 尤も、皇道を基幹とせねば、それは儒教と同じく腐臭と毒氣を放つであらう。從つて、我が國體にとつて有用ならしめるものでなければならない。但し、今のまゝでは有用たり得ない。冒頭に記したとほりである。
 これを有用ならしめる發見のあらば、これは實に期待大ではないか。

 結論を述べれば、儒教は輸入されたまゝ我が國で應用すると害毒となる。
 民主主義も然りだ。
 儒教は我が先人の偉大と我が國體の威力によつて發展をみた。つまり日本化されたことによつて儒教の可能性は廣がりをみせたのである。
 果して民主主義は世界に廣がつた。だが、何國の民主主義も發展は頓挫し、我が國而已ならず弊害を放ちつゝある。眼前の世界の混沌は理由なきとしない。


 出掛けねばならないので、愚論も一旦中斷、更らに續く。
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by sousiu | 2011-02-19 11:51 | 日々所感