<   2011年 10月 ( 11 )   > この月の画像一覧

變人襲來。  

 昨夜は、坂田昌己君が來訪。現場仕事を終はり、遊びに來たと云ふ。
 遊びに來た、と云うても、仙臺から新幹線で來たのである。朝方まで語り、先程起きると、既に布團はもぬけの殼、彼れがゐない。仕事があるので仙臺に歸つたといふ。滯在時間は僅か數時間。第三者からは、よくゝゝ大事な話しでもあつたかと思はれるだらうが、全然さうではない。彼れの妖しげな結界の話しを拜聽した丈だ。
 坂田君の來訪を聞きつけた愛倭塾、山口會長と小林君がやはり昨晩、來訪し、神奈川縣維新協議會の變人、海法君も加はり、拙宅は正さに變人の巣窟と化したのであつた。極めてマトモな野生としては、頗る息苦しい空間であつた。世が世、新撰組に乘り込まれたならば、みな、斬り殺されたであらうな・・・。
 昔、TBS(だつたと思ふが)、『密着!少年右翼』といふ番組で、未だ廿歳の相原修兄が、「本當ならばかういふことをやつてゐる僕が女の子に圍まれてモテヽヽでなければいけないのですけれどね、全然モテないのと一緒で・・・」と世の中のアベコベを訴へて居た。こゝ數年來、女の子との會話など、買ひ物をする時に店内の女の子から「いらつしやいませ」と云はれるくらゐ。見渡せば、一風變はつた漢(をのこ)ばかりだ。今更ら乍ら、相原兄のボヤキが痛いほど分かるのである。
[PR]

by sousiu | 2011-10-30 14:06 | 日々所感

皇國之農事  

 菅原兵治翁の『皇國食糧觀』を拜讀。

 ●翁、同書(昭和十九年十二月「旺文社」發行)に曰く、
 『こゝに一つの興味豐かな寓話を擧げることゝしよう。

 ある時、手と足が云ふには、
「吾々がいくら働いて旨いものを取つて來ても、これを食ふのは口だけではないか。吾々は結局、骨折り損のくたびれ儲けに終るんだ。ひとつ口に物を送ることを止めようぢやないか」
 すると眼も耳も鼻もこれに贊成した。ところが口は暫く口を閉ぢて考へて居つたが、やがて口を開いて
「自分ははじめは困つたと思つたが、考へて見りや俺も贊成だ。といふのは、眼が食物を見附け、耳が在り場所を聞き、鼻がそれを嗅ぎ附け、足がそこに歩いて行つて、手がそれを取つて俺のところに持つて來てくれて、俺は一生懸命それを噛んで居るが、漸くうまい汁が出た頃になると、ごくりと咽喉が呑み込んでしまつて一つも殘りやせぬ。結局それは、寒い風にも當らず、暑い陽にも當らない腹の中の胃の腑の奴が食つてしまふのである。本當に苦勞せずにうまいものをまんまと食つてしまふのは胃の腑だけである。だから俺も、考へてみれば骨折り損のくたびれ儲けなことは諸君と同樣であるから、俺も諸君と共にものを食ふことを止めよう」
 かういふわけで、まあ食糧の供出及び輸入の拒否運動みたいなことを始めた。ところが、三日經ち、四日經ち、一週間經ちして居る内に、次第に眼が霞んでくる。耳がぼんやりしてくる。手足が冷たくなつて痺れてくる。どうもこれは變だなといふのでよくみんなで調べてみると、食物を攝らないための榮養不良から來る全身衰弱の現象だといふことが分つて、みんなが前非を悔いて、ものを攝り、ものを噛むことにしたといふことである。

 これが國家と、國民一人々々との關係--即ち全體と個人との關係--ではあるまいか。なるほど生産農民が自らの不自由を忍んでも、食糧を供出するといふことは、相當つらいことには違ひがない。しかしだからといつて、それを拒んで供出しなかつたらどうなるのであらうか。第一線の軍人は勿論のこと、飛行機を造る人々も、船を造る人々も、彈丸を造る人々も、腹が減つては戰さが出來ぬといふが、本當に腹が減つては仕事が出來ぬといふことになるであらう。さうすると直ちに日本國家全體の戰力が弱つてくる。その結果、若しもアメリカの兵が、假りにわが神州日本を侵すやうなことがありとしたならば如何であらうか。あの黒人に對してはリンチを行つて、これを嬲り殺しにして喜び、病院船を撃沈して得々然たる慘虐飽くなき鬼畜の如き彼等のことであるから、何を仕出かすか分つたものではない。現に彼等は地球上に於て最も恐るべきは日本民族であるが故に、上陸したならば日本の男子といふ男子は一人殘らず虐殺するなどゝ豪語して居るではないか。そして、現在の太平洋上の戰局は、必ずしも安易に樂觀のみを許さぬではないか。
 そこで、この際、若し、目前の自分の口のみが可愛いといふので、米俵を縁の下に隱したり、押入れに藏つたりして、供出を免れようといふやうな不心得者が多くなつて、國民の食糧に不足を來たし、腹が減つては戰さが出來ぬ、腹が減つては仕事が出來ぬといふことになり、最惡の場合に陷つて、アメリカ人の前述の如き仕打ちに遭ふやうなことが若しあつたとしたならば、その時に至つて、これは惡いことをした、かうなるならば、あの時に出せばよかつたなどと地踏鞴踏んだところでもう後の祭であらう。私どもはこんなに、願はくばうんと食つて貰つて、そしてうんと働いて貰ふことこそ、國家を強くし、隨つて吾々國民一人々々も幸福になる最も近道であることを悟り得るであらう。これが國家全體と個人との一體的な協同原理的説明から來る結論である。
 かういふものゝ考へ方、ものゝ説き方は、日本道の本來に根差した「大年の忠誠」を全うするといふやうな説き方に比して、遙かに萬人の耳に入り易いものであるに違ひない。しかしいくら入り易いにせよ、この考へ方は國民相互の横の平板的關係以上一歩も出ないものであつて、日本國體に於てはこれだけでは滿足出來ない。あくまでも食糧供出の道念は 上御一人に連なりまつる關係から「たなつもの」を すめらみことに「よさしまつる」ことにあらねばならぬことは、少くも指導者層に於ては深く腹中に銘じおくべきことであると信ずる』と。

 菅原翁は、日本的農事の道念に就て、以下に説く。曰く、
日本臣民の農業は、天照大神の神勅の御旨を奉じて、その收穫の一切を擧げて、これを天照大神の皇子、從つてその御延長にまします萬世一系の 天皇にまかせまつることにその目的が存すべきである。かくて食糧供出の道念は、まさにこの「齋庭の穗」の神勅の遵奉にあるべきであると信ずる』と。


 上記抄録は、昭和十九年のものであるから、その時代を察するに必然、國家國民總動員の極はみにあつたことであらう。いさゝか長く思はれる前置きも、死力を竭くせし時代を背負ふ人士の當然たる可き掛け聲であつた。
 されど、時代背景を差し引いて拜讀しても、翁の農業に對する道念は容易に解することが出來る。

 今日、日本の農事そのものに就て、吾人は考へ改めねばならぬ點がおほくある。
 又たしても金毛九尾の狐に嗾されるまへに、我が農業は本來如何なるものか、先づ再認識せねばなるまい。

●大橋訥庵先生『闢邪小言』總論に曰く、
『我が中國(なかつくに)の士大夫は便利不便利に目を屬せず。唯だ義不義をこそ論ずべき。 ~中略~ 先づ士君子の威儀を愼むは奴隸を學ぶの便利には如かず。農夫の田畝に服するは商賣となるの便利には如かず。君父に事へて力を竭くすは世を遁れて桒門に入るの便利に如かず。戰陣に臨て鬪死するは敵に降て生を保つの便利に如かず。其他、更に一二を言はゞ恭謙退讓は不便にして汰侈放縱は便利なり。儉素質朴は不便にして豪華奢麗は便利なり。冠弁端坐は不便にして裸程箕踞は便利なり。肩衣袴は不便にして腹掛股引は便利なり。苟も理義の當否如何を論せず、唯便利のみをよしとせば、是等も不便をふり棄てゝ便利の方に從ふべしや。然らば人道は滅裂して、世は豹狼の郡となりなん』と。


 民艸も又た、皇國農事の道念に觸れらむとする。
 ○仲村之菊女史の『仲村之菊の闘魂な日々』↓↓↓
  http://yaplog.jp/yamato00/archive/730

 慶應大學の某教授はTPPを支持し、「守りの農業」から「攻めの農業」への轉換を主張する。氏は一度たりとも農事に手を觸れたことがあるのであるか。野生は專門でないこともあるが、抑も、利害、損得、戰略云々の商業的見解で農事の是非を語らむとする連中は、好かん。


●賀茂真淵大人
  大御田の 泡も泥も かきたれて とるや早苗は 我が君の爲

●大中臣輔親大人
  山のごと 坂田の稻を 拔き積みて 君が千歳の 初穗にぞ舂く
[PR]

by sousiu | 2011-10-29 21:25 | 小論愚案

祝賀會に參加してきました  

 廿六日は、大吼出版「大吼」創刊卅周年祝賀會に參加した。
 四百名は越えてゐたであらう、まことに大勢の參加者であつた。
 「大吼」は、弊社の「天地無辺」と違ひ、本屋の店頭に竝ぶほどの立派な雜誌だ。
 その刊行事業の繼續卅年には、ただゝゞ敬意を表するのみである。

 司會は木川智君。各界の著名人とこの人數を前に、本當に名司會ぶりであつた。

 又た、丸川仁先輩の話しも宜かつた。丸川先輩の話しは六ケ敷いのであるが、その分だけ、參考になるのである。
f0226095_1728356.jpg



 懷かしい諸先輩にも御挨拶申上げる機會が多く、正に祝宴に相應しく、樂しき一ト時であつた。

 但し、一點。同席されてゐた青年思想研究会、鹿島政晴先生に絡まれたことを除けば、だ。
 鹿島先生曰く、『ブログ、更新してねえぢやねえか』『ブログが面白くねえ』と。その他、縷々苦情といふか、御説教だ。
 野生には、御説教を賜はる理由がとんと思ひ當らない。あるとすれば、過日日乘で「韓非子」と「養生訓」を引き合ひに出し、鹿島先生に御進言を申上げたことくらゐだ。然もそれ鹿島先生の御體を熱烈に心配してのこと。これが通じてをられないのか、將た又た酒の惡戲か、鹿島先生は絡んでくる。
 だが野生も時對協の末席を汚す者。野生の座る右隣は時對協・福田邦宏議長、左は青年思想研究会・緒方孝名議長。弱腰外交はならずと抗戰ならぬ口戰を試みるも、無殘、慘敗。
 貝原益軒先生は『多くのめば、又よく人を害する事、酒に過たる物なし』と酒飮みの心得のみを懇篤叮嚀に説明するが、酒飮みを相手する側へその心得を説明されてゐない。以謂くは、『酒飮みは無敵となるが爲め、口答へすることなかるべし』と。
[PR]

by sousiu | 2011-10-29 17:29 | 報告

栃木で勉強してきました。  

 昨日は、むさしの倶樂部が主宰する『皇國復古中興の集ひ』に參加。
 會場が栃木縣宇都宮市といふこともあつて、早目に出發。
 場所が遠いだけに、どれほどの參加者が來るのかと思つてゐたが、會場は滿席であつた。さすがだなア・・・。
 演題は『東日本大震災と原子力の被害を共に考へる』といふもの。これは六ケ敷い演題だと思ひ、興味津々であつた。
 而して講演内容は、野生が云ふのも烏滸がましいが、素晴らしいものであり、迚も勉強になつた。
f0226095_20445720.jpg


 擴大する放射能汚染に對して吾人はかくある可き乎。
 熟考に熟考を重ねても、野生の如きでは凡そ答への得る可き筈もないが、おぼろげながら、科學技術や政策、對策等といつた既にかういふ分野を大きく凌駕した、近代との脱却、脱却と云ふ言葉がありふれてゐるのであれば訣別といつた、それに均しき大きな人類的觀念的變革が必要とされてゐる氣がするのである。少なくとも、この放射能汚染問題・原發問題は、人類の近代史に立ち塞がる可くして立ち塞がつた巨大な壁であることだけは確かであらう。
 それ、他國はいざ識らず、日本人は古へに復ることによつて近代を超克し、萬國萬民の曙光とならねばならぬ。又たその資格を有してゐることを忘れてはならぬ。




 ところで栃木縣へ向かふに、前日から市村悟兄、晴龍義塾・高梨努政策實行委員長と待ち合はせて共に行くことを約束。横濱を出發する時間を午後二時とした。
 昨日の當日乘『河上彦齋先生』は尻切れ蜻蛉であつたが、慌てゝゐたので仕方がない。野生はたゞ、市村兄が、昨日の日乘を更新した時刻まで一々調べぬことを只管ら願ふのみである。
[PR]

by sousiu | 2011-10-24 20:45 | 報告

河上彦齋先生 

 過激な攘夷家と云へば、河上彦齋先生を忘れることが出來ない。
 肥後の彦齋先生を記する忘れるならば、もつこすゞきだ君から苦情が寄せられてしまふ。
f0226095_1424559.jpg


 勝海舟翁の談話に曰く、
 『澤山な刺客に會つたが、河上彦齋丈は恐ろしかつた』と。如何に當時の要人をして恐怖せしめてゐたか窺ひ識れる。

 亦た、河上彦齋言行録をみるに、
 『彦齋の長州に在る時、桂小五郎と一見舊知の如し後、彦齋、小五郎と京都に會し、共に手を握つて時事を談す。小五郎説稍々攘夷の爲すべからざるを云ふものゝ如し。彦齋忽ち髮立ち眦裂け直ちに起つて(怒つて、乎)小五郎の鼻を捻み大喝これを叱して曰く、足下も此説をなすか、と。小五郎は只默然として已むと明治四年小五郎朝命を奉して歐洲に航するや竊かに玉乃世履を招きて之に託して曰く、足下肥後の藩士河上彦齋と云ふ者を知らずや。彼洵に一世の豪傑と云ふべし。然れども今猶攘夷の説を唱へ頑として動かすべからざるものゝ如し。思ふに他日國家に■(不明)毒を流し文明の針路を支ふる者は別人にあらすして必す彦齋ならん。足下願くは吾の未だ歸朝せざるの前に於て之を除くの計をせよと。世履も亦之れを然りとして退いた、と』とある。括弧及び括弧内、野生による。

 彦齋先生は狂人のごとく、「人斬り彦齋」として恐れられてゐた、と傳へられてゐるが、果して奈何。



●澤田和一氏、『死もまた愉し 勤皇志士河上彦齋の生涯』(昭和十七年八月「長谷川書房」發行)に曰く、
『文久、元治から慶應年間にかけて、彼の手にかゝり最期を遂げたものは、かの佐久間象山を始め十數人に上つてゐるといはれてゐる。そこで、世間の一部では、東の近藤勇(徳川方、新選組の隊長で後官軍の手で斬らる)に對し、西の中村半次郎(後の桐野利秋であり、陸軍少將となつたが西南の役で戰死)とわが河上彦齋を『殺人三人男』と稱し、或はまた薩摩の田中新兵衞(姉小路暗殺の嫌疑を受け自殺)と土佐の岡田以藏(武市半平太の門人で獄中で同志の祕密をしやべつて沒落したといふ)それに河上彦齋を加へて、殺人の三名人といひ、さらにまた河上彦齋に對しては「人斬り彦齋」などゝいふものがあるが、それは大衆小説などが興味本位に取扱つただけのことであり、彦齋は他の四人はいざ知らず、故なくして人を斬るやうなことは一度もなかつた。尊王の大義を阻止するもののみを狙つたのである』と。括弧及び括弧内、原文マヽ。

 彦齋先生は、單なる狂犬にも似た攘夷家ではない。正しく尊皇攘夷の士であつた。


●太田天亮翁、『維新史料』(「野史臺」發行)に曰く、
『彦齋、人と爲り白哲精悍、眼光人を射る躯短にして齒出つ。人に接する恰も婦人の如し。幼にして奇氣を帶び常に謂て曰く「大丈夫雄を亞細亞の中央に稱へずんば當さに獄に倫龍の府に繋がれんのみ」と。其氣宇の豪邁斯の如し』と。

●元治元年七月十一日、祇園社前の榜にある斬奸状に曰く、
『松代藩 佐久間修理
此者元來西洋學を唱ひ交易開港之説を主張し樞機方へ立入 御國事を誤候大罪難捨置候處 剩へ奸賊會津彦根二藩に與同し中川宮へ事を謀り恐多くも九重御動坐 彦根城へ奉移候義を企 昨今頻に其機會を窺候大逆無道 不可容天地國賊に付即今日於三條木屋町加天誅畢
但斬首可懸梟木に之處白晝不能其儀者也
元治元年七月十一日
皇國忠義士』
(この者、元來西洋學を唱へ交易開港の説を主張し、樞機方へ立ち入り、國事を誤り候大罪捨て置き難く候ところ、剩へ奸賊會津・薩摩二藩に與黨し、中川宮へ事を謀り、恐れ多くも九重を御動坐、彦根城に移し奉り候義を企て、昨今頻りに其の機を窺ひ候大逆無道、天地に容るゝ可からざる國賊に付き、今日三條木屋町に於て、天誅を加へぬ。但し斬首して梟木に懸く可きのところ、白晝其の儀に能はざるものなり)

●吉武定夫氏『河上彦齋』(昭和二年三月「河上彦齋建碑事務所」發行)に曰く、
『先生が象山を暗殺したのは單に開國論者と云ふばかりでなく、遷都を企て討幕の計畫を破壞したのが主因であつた』と。


●彦齋先生、林櫻園先生の門に入りて皇學を修め、感激して曰く、
『國體の大本に通ぜざれば敬神尊王の道を全うするを得ず。敬神尊王の道全うして始めて世道を興し人心を正しうし以て邦家の治平を永遠に保維することが出來るのである』と。


 さて。慶應四年正月十五日、明治天皇は御年十七歳にして元服を加へ玉ひ、新政府の組織成ると共に、施政の大方針を天下に宣し給ふた。而して同年三月十四日、紫宸殿に御しまして、維新五箇條の御誓文を御宣誓あらせられた。彦齋先生この時は獄中。

●澤田和一氏は『彦齋若し自由の身であつたならば(慶應四年三月十四日の時)、欣喜躍雀として錦旗の下に大いに翼贊し奉り、幕軍を惱ましたであらうのに・・・。獄舍にある彦齋としてはどうすることも出來なかつた。只獄卒どものさゝやきを聞いてはこの空氣を知り、端然として 皇居の方をふし拜み、大業の完成をひたすら祈るのみであつた』と記してゐる。

f0226095_14244852.jpg


 犧牲者は時代變轉の前にばかりあるものではない。變轉後にもあるのである。
 皮肉にもかくもおほくの、尊皇攘夷を唱へる先達によつて、皇國の中興は遂げられ、今又た再びこの一大事業を必要としてゐる。
 これから栃木縣へ向かはねばならぬので、尻切れ蜻蛉の感があるが、彦齋先生の攘夷運動に就ては他日又た、機を得て愚論を記したく思ふ。
[PR]

by sousiu | 2011-10-23 14:24 | 先人顯彰

從四位 大橋訥菴先生に學ぶ  

 體調が芳しくなく、またゝゝ更新が遲れてしまつた。
 いつまでも若い積もりでゐるものゝ、野生も本年は大厄。あつちが痛くなればこつちが痛くなるはで、集中力も缺けてゐる。
 これでは日乘ではなく、週乘だ。・・・面目ない。

 今週は大橋訥菴先生の『闢邪小言』を拜讀。大橋訥菴先生は幕末に於て、野生の頗る關心を懷かずにはをられぬ御一人である。『闢邪小言』は、野生の豫てから是非、一度拜讀したいと思うてゐた書籍にて。今度び、比較的安價で入手する機を得たので、雀躍し、一氣に拜讀した。
 訥菴先生は云ふまでもなく所謂る急激な尊攘家。幕末の尊皇攘夷運動に少からずの影響を與へ、所謂る「坂下門外の變」で著明な先覺の士である。

●文久紀元辛酉九月、大橋訥菴先生の上書した意見書に曰く、
『~前略~ されば當今の朝廷は、御微弱に似て實は強く、關東の幕府の方は、外面強大に似たりといへ共、其實は人心離れて、衰弱殊に甚だしく、朝廷は天の眷顧を得たまふて、勃興あるべき氣運に向ひ、幕府は皇天に見離されて、斃るるに近き時節なれば、少しも猶豫狐疑するに及ばず。天下の義士を奮興せしめて、天祖へ報答ある可きことなり。今まで微弱にましましつる、天朝の御威光も、是より古に復せられて、寶祚の無窮に至らんこと、瞭然として火を觀るが如し。誠に愉快のことに非ずや。是某が巨罪を忘れて、かゝる鄙論を艸定し、若し芻蕘に詢ひ玉ふの時もあらば、速に身を闕下に致して、策を獻ぜんと欲する所以なるのみ』と。


○蘇峰徳富猪一郎翁、昭和九年七月卅日『近世日本國民史 文久大勢一變上篇』(明治書院發行)に訥菴先生を評して曰く、
大橋訥菴の眼中には、固より幕府なし。彼は決して公武合體など生ま温き意見にて滿足す可きではなかつた。彼は倒幕と攘夷を以て、其の旗幟としてゐる。其の目的が攘夷にありて、其爲めの倒幕である乎。將た倒幕の爲めの攘夷である乎。恐らくは彼の本志は前者であつたであらう。彼は心からの攘夷論者であつた。然も同時に彼は勤王論者であつた』と。



 訥菴先生は單に攘夷の氣勢を四方に發し、啻に義徒の蹶起を煽動せんとするものではなかつた。
 寧ろ血氣にはやる義弟、淡如翁をはじめ宇都宮、水戸の義士、他、草莽志士の老中安藤信正要撃計畫の軍師に推さるゝも是れを再三固辭してゐる。曰く、『時期尚早、いづれ朝廷から、攘夷の大詔煥發せられんこと遠くはあるまい。その際には諸君は淡如(義弟)を主將として、宮の御供いたされよ。我自らは上京して、西國の諸大名に遊説し、京都に於て義旗を擧げん』と。訥菴先生の本旨は、京都に上書し、攘夷の大詔が煥發されて羲兵を擧げることであつた(近世日本國民史、仝、參考)。
 されど騎虎の勢ひ止まる能はず。訥菴先生、同志の相次ぐ必死懇願に、遂に安藤要撃の斬奸趣意書に筆を加へ、同盟規約書を作つたことが禍因となり、幕吏の網に罹る。而して、同志の動搖と憤慨は、「坂下門外の義擧」へと行き著く。
 結果的にみれば、時代の大變革といふもの得てして、橋本景岳先生や吉田松陰先生、そして訥菴先生のやうな犧牲者の存在が必要とされるかも識れない。

 さて。『闢邪小言』は、元(總論)・亨(西洋は窮理を知らず、西洋は天を知らず)・利(西洋は仁義を知らず、西洋は活機を知らず)・貞(或問)の四卷から成り、終始只管ら西洋を罵倒したものである。加へて、當時の儒學者、大家が、西洋かぶれしてゐることを憤慨して、これをも罵倒してゐる。
●思誠塾 大橋訥菴先生、安政四年丁巳春王正月『闢邪小言』(江都思誠塾)に曰く、
『近世は西洋の學と云もの、盛に天下に行はれて、人の貴賤となく、地の都鄙となく、拂郎察(ふらんす)の、英吉利(いぎりす)の、魯西亞(をろしや)の、共和政治のと言ひ噪はぎて、我も我もと其學を治め、競ふて戎狄の説を張皇するは、聖道の爲めにも、天下の爲めにも、彗孛にまされるの妖■(「上」薛+「下」子=げつ、禍ひの意なり也)と云べし。されども一人も其邪説たるを辨明して■(手偏+「右上」立+「右下」口=ほう)撃攻討する者なく、滔々として日に其途に趨くは、歎すべく憂ふべきの至にして。さて其説を奉する輩の無識なるは深く憫れむべきことなり。其初は疇人醫師の類など、洋説の新奇なるに喫驚して、彼れ是れと唱へつる程の事なりしに、後は次第に滋蔓して其風武士に浸淫し、兵法も器械も、西洋の制ならでは實用に非ずなど云ふほどこそあれ。やがて儒生と號稱して悍然と百家の上に位する者どもゝ、其妄説に雷同して、彼徒の狂■(「左」“稻”の右側+「左」炎=解讀不能)を助くる輩のあるは、誠に如何なることにや。~中略~ 今の西洋の學の如きは、邪誕妖妄の尤なる者にて、其説天下に盛なれば、生民の耳目を塗り、人を汚濁に溺らして、自然と社稷の命脉を壞り、聖人の大道を榛蕪せしむることなるに。それにも心の附かざるは、今まで多年の間、何事を講求して、聖學と思ひつるかと其識見の程も量られて、憫笑嗟歎に堪へざる也』

『然るに今の西洋は、諸邦を呑噬蠶食して、豹狼に均しきのみにはあらで、久く異志を蓄へて、覬覦の念ある賊にあらずや。覬覦の念ある賊なれば、即ち國家の大讐なり。假令ひ戎狄に非ずとも優恕すべき理りあることなし。況てや純然たる戎狄なれば、苟も丈夫たらん程の者は、常に敵愾の心を懷きて、彼(西洋戎狄)を唱ふるだも、口を汚すと思ふべきに、今は冠履を倒置して、戎狄大讐を惡むことを知らず。彼れが説を尊崇して、甘んじて腥羶の奴隸となり、或は彼が服を服し。或は彼が言を誦し。或は彼が名を戴き。彼が説を張皇して、揚々として恥ざるは、心に於て安しとするや、それを安しとする心なれば、廉恥の種子の絶えたる者にて。化して異類となれるに近し』と。
f0226095_22431727.jpg




 大橋訥菴先生の痛罵は、單に西洋戎狄のみに非ず、歐風邪説のみに非ず、これを心醉し聊かも疑はない幕府要人や學者に激しく向けられてゐる。訥菴先生の思誠塾が、彼れらからみて不逞浪士の巣窟と要注視され常に監視されてゐたのも決して理由なきものとしない。
 訥菴先生の西洋に對する罵倒の内容は暫く措くとして。野生が訥菴先生の攘夷論を拜して時下の排外思想や運動に與みする可からざる理由を茲に掲げんに、先人の過激な攘夷論者は訥菴先生のごとく、皇國の本領の涜れることを憂ひてのことであつたことに對し、今日流行せる攘夷と自稱する思想運動は、全員とまで云はざるもその生ずる可く動機が國益死守であるとか、權利擁護であるとか。つまり、他國にみられる排外思想と何ら大差なく、皇國固有の思想や眞面目より生じた攘夷論、即はち、他國にあり得ざる動機からなる固有の攘夷論ではないのである。往年來の支那や、嘗ての獨逸の如きも民族淨化、排外思想は鼓舞された。しかし、皇國の攘夷には、先人の玉文や和歌に鮮明に記される如く、戀闕の情に溢れてゐる。この“戀闕”こそが、日本人の日本人たる所以であり、この情によつて必然として沸き起こる眞なる攘夷運動の澎湃を熱祷してやまない。

f0226095_22144830.jpg

[PR]

by sousiu | 2011-10-22 22:08 | 先人顯彰

おほみうた 

●山腰明將陸軍歩兵少佐『日本主義に關する問に答ふる雜話』(昭和十二年九月廿二日)に曰く、
『日本が世界萬邦に比類の無い獨特の光輝ある所以の一つは、申すまでもなく臣民が 天皇中心主義であることであります。然らば此の天皇中心主義を實現する爲に國民が如何なる手段を取り、また如何なる社會機構が實施されてゐるかと云ひますと、疑問が色々起つて、大いに考へさせられるのであります。天皇中心主義を口先ばかりで唱へてゐては何にもなりません。天皇中心主義を押賣りしたり、天皇の御名に隱れて自己の所説を強ひたりする樣な事實がありはしますまいか。天皇中心主義が眞に 天皇中心主義になる爲には、先づ何よりも神勅詔勅の意義を明瞭に認識する必要があります。殊に 明治天皇の御製は、其の中に 天皇の思召をはつきりと仰せ出されてありますから、この思召をしつかりと體得した上で、生命を屠して是を翼贊し奉る。こゝに眞の 天皇中心主義が存する事と存じます。
 皆樣も御同感の事と存じますが、御製に現はれた 天皇の御心盡しは實に到れり盡せりでありまして、社會萬般の事に就き各方面に亘つて御遺訓を垂れさせられて居られます。それで思想問題などと云ふ事も、たゞ 天皇の御製を體得し、奉戴し、是を實施しさへすれば、萬事解決する事でありまして、これに就て我々が此處で喋々説明を試みましても、其の萬分の一を盡し得ぬ、至つて廣い深い奧底識れぬ微妙な所まで穿たれて居ります。御製に就ては、大正五年、聖旨を奉じ、同八年編成奏上に係はる、宮内省藏版、文部省發行の、明治天皇竝びに 昭憲皇太后の御集がありまして、斯道に志す人は是非、左右に供へねばならぬ書であります。此の御製集さへ供へず、拜讀せずして 天皇中心主義を唱へて見た所で、結局觀念の遊戲に終りはしますまいか

 ~中畧~ 御製を拜しますと、天皇は根本原理に別け入つて御述懷遊ばされてありますが、其の御體驗、御蘊蓄の深さは、比較申上げては畏多い事でありますが、舊幕府時代以來の國學者、本居、平田、或いは大國隆正、玉松操等諸氏の境地などとは到底比較にならぬ程の差がありまして、御製に對する理解が進めば進む程、愈々以て神そのものゝ御性格が、益々明に拜察し得らるゝのであります。

 ~中畧~ 我が日本は神立立憲君主政體であります。天皇專制政體でもなければ、民主政體でもありません。民主政體でない事は誰でも判つてゐる樣ではありますが、それにしても與論々々と云つて、與論即ち多數決で國政を切盛りしようと云ふ傾向が多分にあります、是を左翼思想ーー民主主義と云ひませうか。又、天皇專制政體と云へば所謂る右翼思想になります。此の思想によると時の權力者が 天皇の名をだしにして色々と自分勝手な制度を作り出す恐れがありますから、これも結局上部階級の民主思想ーー官僚主義であると云ふ事になります。然るに我が日本では、天皇も決して自分勝手には事を行はれません。皇祖皇宗が遺し給うた惟神の大道を 天皇御自ら奉戴翼贊追求し、それを御實施遊ばして行くのであります』と。


 以上。抄録と雖も、山腰少佐の本旨に觸れるならばいさゝか長文となるので、已むなく、考へさせられた部分のみを拔粹した。

 「~中略~」以降の文章に關しては云ふまでもなく、當時、昭和初期の情勢、時代背景を考慮して一讀す可し。
 而して吾人は深く、氣付かされることがあらねばならない。それとはつまり、當時の右翼や左翼と呼ばれる人達と現代(戰後と申す可き乎)とでは大きな懸隔があるといふことである。思想的變異こそなかれ共、立場にせよ、方法にせよ、逆轉とまで云はずんば、おほきな變異の生じたことは認めねばなるまい。
 尤も、時代がそこまで一變したことも要因として擧げられよう。だが抑も、右翼や左翼といふ言葉がいつ頃から生じたのか勉強不足の野生には不明であるが、明治、慶應の志士たちを右翼と稱する文獻は一切、無い。さういつた文字すら皆無である。
 右翼乃至左翼はあくまでも、明治維新から久しくして權力の側から、政治學的分類として便宜上用ゐられたものと假定すれば奈何。
 上記、山腰少佐は、與論々々と云ふかの如き多數決主義者、民主々義信奉者をはつきり「左翼」と云うてゐる(・・・こゝで云ふところの少佐の「右翼」は、前記した所謂る「天皇機關説」者の事を指してゐるの乎)。これは山腰少佐の一見解として留まる可きものでないことは、それ以前に沸き起つた大正デモクラシーが、專ら、渡來した西歐的自由主義や個人主義の萌芽であつたことを鑑みれば瞭然である。みよ今にして各組合運動をはじめ、その名殘りは各方面に、反日勢力の專賣特許として依然逞しく存在してゐるではないか。

 以前、木川君であつたか(記憶違ひであつたら蒙御免)、曰く、『嘗て先人が、今の言葉で云ふところの“左翼”と看做す者は、君側の奸であつた』と。野生も左の如く觀察する一人である。だとするならば、右翼と呼ばれる者の本質は(「右翼」と云ふ言葉の是非に就ては暫く措き)、只管ら『皇業を翼贊、輔弼し奉る』者のことであらねばならない。それを妨害せんと企てる勢力、權力を取り除くことが本分なのだ。延いて云へば取り除かれる可き存在は朝敵だ。街に騷ぐ反日及び不逞な一團、精々デモ隊を組織するがやつとの未熟者を徹底、精勤して取り締まらねばならぬのは日本警察の役割りだ。嘗て北海道で、大日本愛國党の車輛に『警察官頑張れ!共産ゲリラを射殺せよ!』と横斷幕が掲げられてあるのを見たが、・・・「射殺せよ」の文句は兎も角、苦笑・・・、最近になつてその主張が正鵠を射てゐることに氣が付いた。

 ところで、他稱のみならず、自稱變人の廣島縣在住、洗心會主人國信隆士君は、定期的に子供達を集め、神社を拜借し、皆で御製を仰ぎ、大御心を學んでゐるといふ。今更らではあるが、單なる廣島の變質者ではなかつたと思ひ改め、誤解してゐたことの謝罪こそする積もりはないが、竊かに敬意の念を覺え始めてゐる。
 
 野生も世相にせよ思想にせよ混沌としたる今日に於て、今一度、殉道者としての謹愼たる心ばへを恢復し、道の原點に歸さむと努力せねばならない。それ取りも直さず、目下日本人は、如上にあるの如く、御製を拜し奉り、神勅を確信し、靜かなる自己維新を重ね、その上で隣人維新を爲し、將來の天佑神助を期することが肝要だと信じるからである。

 餘談ではあるが、先日、大東農場で、諸先生が展転社發行の『昭和天皇のおほみうた』(鈴木正男先生著『展転社』平成七年九月發行)を賞讚なされ、或いは現在品切れであることを殘念がられてゐた。これは故相原修兄も惜しまれてゐたことであつた。その場に居合はせた展転社の藤本隆之先輩は増刷を明言、その折りには是非共、有志諸兄の御一讀をお薦めするものである。

■昭和天皇のおほみうた  ↓↓↓
http://tendensha.co.jp/kokutai/koku113.html
[PR]

by sousiu | 2011-10-15 08:24 | 日々所感

天皇機關説 

 『天皇は國家のためのものにあらず、國家は 天皇のためにあり』とは杉本五郎中佐の『大義』の一節である。

 野生は日教組の教育らによつて、未だ日本人たる自覺を有さぬがため不遜な言を放つ者それ以上に、尤もらしく天皇機關説を放つ者に嫌惡を覺えるものである。
 所謂る「愛國」などと自ら稱し、機關説なぞバラ撒くはまことに世を亂す以外の何者でもない。
 「尊皇なき愛國者」は味方ではない。固より、皇國史觀ではないのだ。

 野生は嘗て、同志だと思うてゐた人が「天皇機關説」を訴へるのをみて、忿懣やるかたない思ひをしたことがある。
 氏の曰く、「先帝は、戰前、天皇機關説で宜しい、と仰つた」と。野生は出典の明示を求めたが、記憶にないといふ。察するに、戰前の本庄繁侍從武官長の日記ではないかと思ふ。だがそれならばやはり、氏が迂闊にも俗説を盲信したといふほかない。
●紫雲莊 橋本徹馬氏『天皇と叛亂将校』(昭和廿九年五月十日「日本週報社」發行)に曰く、
『こゝで私のいはんとするところは、もし宮中や元老重臣、竝びに當事の政界の上層部の人達が、その信ずるごとく天皇機關説であり、また軍人への敕諭も、すでに時勢に合はぬと考へたのであるならば、何故に一日も早く帝國憲法をそのやうに改正し、教育敕語もそのやうに改正して、わが將兵や國民に、誤解なからしめなかつたかといふのである。~中略~
 ズツと後にいたつて、世上に傳はつたところによると、天皇陛下には國體明徴問題の喧しかつた當時、本庄侍從武官長に對し、「天皇機關説でよい」といふ御意向を洩された由であり、當時の機關説派の人々は、「これ見よ、陛下がすでに機關説でよいとの御意向であつたのに、なほかつ機關説排撃をやつた者は、不逞の徒ではないか」といはんとするらしいが、それははなはだ筋道のとほらぬ話である。本庄侍從武官長がもしそのやうなお言葉を承つたのが事實であるとすれば、事柄はすこぶる重大であるから、それを直ちに陸軍大臣および内大臣につたへ、兩大臣はまたこれを時の首相以下の内閣諸公につたへるべきである。~中略~
 また陛下としてもそのやうな重大な御意見は、實は侍從武官長などに洩らさるべきではなく、當然總理大臣におはかりになるべきであるのに、陛下も内閣もともにその處置にでなかつたのをみれば、侍從武官長の日記にあるお言葉は、誤記に相違ないと思はれるのである』と。
f0226095_62834100.jpg



 「日本は 天皇ましますがため、國内が二分されたり、内亂がない」と云ふ先進の文章を拜讀したことがある。それは事實日本の眞相である。だが先人は日本のその實相を述べた丈に過ぎず、後進の我れらが更らにそれを一歩も二歩も進めて「國内が二分されたりせぬやうに、天皇を仰ぐ」と考へるはもつての他である。○○せぬやうに、○○の爲めに、尊皇を必要とするの主張は、惡寒こそ覺えど到底靜聽出來る類ひではない。

●神代文化研究會、高窪喜八郎博士『神代ノ國史』(昭和八年八月十一日「博文館」發行)に曰く、
『~前略(教科書に掲載する「皇室中心主義」の原稿を博士の御令孃に筆記させた後)~ 女(むすめ)に感想を質しますと、容易に承服しないのであります。それは其思索が足りないとか、文章が拙いとかいふのではないのでありまして、皇室中心主義の承服に難色があるのであります。と申すのは、女は、前に申上げました科學的の著作も多少讀んで居りましたし、又趣味の上から法律學を研究致して居りましたが、現今の憲法學の上では、天皇は國家の機關であるといふことが、殆ど通説となつてゐると申してもよい位であります。私共の意見では、故穗積八束博士の後を承けて居られる、上杉愼吉博士の説と同樣に、國家は 天皇の國家であつて、天皇は決して國家の機關ではないと申すのでありますが、學説の上では、機關説が優勢なのであります。恐多いことでありますが、天皇を法人の理事又は會社の取締役のやうに、國家と云ふ法人の機關と解して居るのであります。是は實に怪しからぬことでありまして、全く我國體を無視して居る學説なのであります。乍併(しかしながら)、此學説が優勢であるが爲めに、女もやはり其説に捉はれて居つたのであります。それからもう一つの原因は、一般の法律學説の上に現はれる、時代思潮の感化を受けて居つたに違はないと思ふのであります。今日の學校は、下は小學より上は大學に至るまで、實に危險でありまして、文部省は何をして居るのかと思ふ位でありますから、平素から充分注意を加へて居つたのでありますが、什(ど)うも幾分感化を受けたに相違ないと思ふのであります。そこで私は、各種の方面から説明を致しまして、皇室中心主義を承服させようと努めたものでありますが、什うもハツキリと承服せしむることを得なかつたのであります。所が女は、私共と一所に程なく心靈研究を始めまして、神を認むるやうになつてから、全く其思想が一變したのであります。即ち我國の神國たる所以をハツキリと認め、陛下は現身の神にましまし、日本帝國は陛下の帝國にして、日本民族の根元皇統に在ることをハツキリと認むるやうになつたのであります』と。

 嘗て、不二歌道會の福永武兄と「敬神なき尊皇」に就て語り合つたことがある。
 果して「敬神なき尊皇」といふ言葉が、實際の言葉として存在し得るのか。あるとするならばそれこそ「天皇機關説」ではあるまいか。何故ならば、天つ日嗣の神性、皇位を、不敬甚しくも地位とでしか考へられぬ凡そ歪んだ觀念であるからだ。つまり現行憲法第一條に汚染されたるの占領憲法史觀だ。驚くことに改憲派と稱する人のなかに、かうした占領憲法史觀の持ち主があることも又た爭ふ可からざる事實なのである。戰後保守に總じてみられる傾向は、外壓や政府の失政などには敏感に反應するが、一變して 皇室に對する心ばへは究めて曖昧であるといふことだ。
 ところで、ある保守派の會合に參加した時、司會者が「我々は、皇室や 天皇を嚴肅なる存在として考へるがゆゑに、簡單に口にせない」と云つたのを聽いたことがある。他日、さう云うた者達が玉串奉奠の作法すら知らないのをみて、愕然としたものだ。彼れらも又た、敬神なき尊皇と看做され何ら反論の辯を持ち得まい。

 先般、大行社の木川智君と「天皇機關説」に就て話したところ、彼れの曰く、「人智の智を頼り 天皇を解することは愚である」と。なるほど、これには首肯せざるを得ない。何事も理屈を以て解明、理解しようとする近代の病的慾求が、大きな過ちを招來することになるのである。
 高窪博士の言葉ではないが、科學を盲信する舶來の思考で尊皇を解かんとするは愚かなことなのである。況んや敬神に於てをや。將來に於て、吾人の最も警戒を要す可き存在は未だ尊皇を解し得ぬ人ではない。彼れらは啻に眞個たる日本人としての教化を得なかつた人たちであるから、今後の機會に遭遇し理會することが見込まれる。最も警戒を要す可きは、敬神なき尊皇を唱へ聊かも省みない者たちである。

●本居宣長大人、『鈴屋答問録』(安永七年二月)に曰く、
『~前略~ 然るに無益の事を色々と心に思ひて或は此天地の道理はかやうゝゝゝなる物ぞ、人の生まるるはかやうゝゝゝの道理ぞ、死ぬればかやうゝゝゝになる物ぞなどと、實はしれぬ事をさまゞゝに論じて己がこゝろゝゝゝにかたよりて安心をたて候は、みな外國の儒教などのさかしら事にて、畢竟は無益の空論に候。すべてさやうの事はみな、實は人の智を以てはかり知べき事にはあらず候へば、いろゝゝに申すも、みなおしはかりのみに候。御國の上古の人は、さやうの無益の空論に心を勞し候事はつゆばかりもなく候ひし也』と。
[PR]

by sousiu | 2011-10-12 21:47 | 小論愚案

御案内申し上げ候ふ。 

【十月卅日 『朝鮮學校無償化・補助金支給反對デモ行進』の御案内】

 民主黨に政權が委讓されたものゝ、國民の期待に背反して失政は止まる處を知らず、昏迷は愈々深刻なものとなりました。
 その只中にあつて三月大變は出來しました。復興は牛歩遲々、加へて人災は擴大し、同政權による政策が國の本末を忘れ本を正さずして末に走り、その場しのぎの對應に目を奪はれてゐることは爭ふべからざる事實です。
 未曾有の重大事にありながら、猶ほ賣國政策に狂奔した菅直人前總理が朝鮮學校無償化を強辯したことは周知の事實でありますが、菅の去るも未だこの愚策が脈打つてゐることに激しい怒りを感ずるものであります。
 從ひまして此度び、この愚策を粉碎すべく「朝鮮學校無償化・補助金支給反對」デモ行進を行ひ、廣く國民に訴へんと意を決した次第であります。
 時節柄御繁忙のことゝ存じますが、諸先生・諸先輩、同志諸兄に於かれましては何卒御誘ひ併せの上御參加くださいますやう伏してお願ひ申し上げます。



◇日 時    平成廿三年 十月卅日(日曜日)雨天決行
◇集 合    十五時卅分
         第一部  十六時~      集會
         第二部  十六時四十分~ 徒歩デモ開始
         (注) 十五時前の現地入りはご遠慮ください。
◇場 所    横濱公園 (横濱スタジアム脇) 神奈川縣横濱市中區横濱公園 一番地
 ※ 日章旗・旭日旗・幟・ハンドマイク等歡迎致します
 ※ 原則として服裝は自由ですが、華美なるものや行進に適さない服裝は御遠慮下さい。
 ※ 駐車場の用意は御坐いませんので、交通機關を利用して御越し戴ければ幸ひで す。

〈呼び掛け〉神奈川有志の會 (呼び掛け人代表・海法 文彦)
義信塾・皇憂楠心塾・国風塾・護國鐵拳隊・大行社・大日本勝魂社・同血社・日本誠龍社・瑞穗塾・憂國清心同友會 (五十音順)

【聯絡先】  携帶電話 0九0の五五一六の七六八二 (海法文彦)
[PR]

by sousiu | 2011-10-04 18:49 | 運動案内

ことたま  

 面白い本を讀んだ。小寺小次郎氏著「言靈研究入門」(平成十年「八幡書店」發行)といつて、昭和十八年、「文淵閣」より發行された改訂復刻本である。一部、首肯し難い部分もあつたが、押し竝べて、最後まで面白く讀めた。
 言靈に就ては以前から興味を持つてゐるが、奧が深くて、理解に難儀してゐる。最近では、神代文字に就ても興味が盡きない。


 小寺氏は、
言靈と言語、即ち言葉とは異ふ。勿論言語にも生きた靈はあるが、語源又は言語學とか或は字義等によつて言靈が解けると云ふものではない。云ふまでもなく文字學や言語學は科學と云はれる方に屬し、言靈學は思想哲學である。其の神靈を科學的に究めようとするのには、言語とか文字とかを皆一體として總體的に綜合的に究めなければならぬのであつて、部分的の研究でなく、廣いものからそれを段々縮めて一元に歸納してこそ漸くにして初めて解るのである』と説明し、その別を以下の如くに分ける。

●小寺氏『言靈研究入門』、「言靈の初發」項に曰く、
『言靈は魂の聲であつて、言葉は精神、即ち心の作用で發するもの、言ひ換へれば經驗によつて發する聲と云ふことになる。
(1)人が生れて最初に擧げる聲はウアヽヽ、其の音を續けて繰り返すからウオアウオア或はオギヤヽヽヽと響く、これは自然に發する魂の聲である。
(2)眠つてゐながら發する音、寢言の中には自然の聲もあるが、然し多くは經驗の心から出るもので、自然の聲は稀でしかない。これは夢の類の中で、俗に正夢と云ふ。夢心地の場合は自然の音を發し、一種の神憑状態と同樣なのである
(3)神憑状態になつた場合は自然の音が出る。然し神憑を以て營業的に、故意に神憑をやる人々の神憑は、云ふまでもなく自然の神音ではない。己れの經驗から出る普通の言葉であつて、甚だしい場合は嘘言である
(4)手の舞ひ足の踏む所を知らずと云ふ歡喜に踊り出る、ワー(和)オー(嶇)の聲や、悲嘆の極に發するアー(嗚呼)ヒアー(悲)などは自然の音であらう。
(5)神前に叩頭して天壤無窮を奉唱し、武運長久を祈り、或は父母妻子の死活に直面して心より發する祈願の言葉は自然の音であるが、迷信的に又は利己的に功徳を求むるが如き唱へごとは、正しき言靈を完うする筈はなく、かへつて不善不幸の音波となつて反對の結果を招くであらう』と。

 小寺氏は、言靈は言語に存在し得ないエネルギーが有されてゐることを認めた上で、『言靈の精神を究めて言葉を正し、社會の秩序を正しく立て、日常生活を活かし、民族精神の眞の力を發揮する』ことが肝要だと説く。

 野生が昨日の祭典にもあつた、大東神社でおこなはれる念誦にいつも魂の搖さぶられる思ひをするのも、決して理由なきことではないのである。



 ところで。主に進歩的文化人の口癖にみられる、言葉は變化する運命であるからそれに從ふ、と云はんばかり言語文化の混血推進論や廃頽促進論に對して小寺氏は斧鉞を加へてゐる。
 曰く、『言葉は複雜なよりも寧ろ簡單にして用を辯ずればよいのであるが、然し社會自然の秩序も其の人々の品性によつて保たれ、又思想上の善惡にも關してくるので、約音もこれを亂用しては勿論いけない
 又た曰く、『近代の多くは種々の外國語など修めてゐる者も多いが、一番肝腎な自分の國の言葉を等閑に附して居る。今此所に擧げた言葉は古事記に明らかに記されてあるが、之を明瞭に讀み得ず解け得ぬものも少くないであらう』と。

●昭和十三年、皇道宣布會、内山智照氏『皇道概論』に曰く、
『世界文化發達の根本要素は言語及文字だと云へば何人も承認するであらう。又言語は心の表現であることも知つてゐるが、言葉は神なりと云へば必ず疑心暗鬼を生ずるので、言葉の必要は認めても其の價値を認めようとはせないのが現代人の通弊である。 (中略) 言靈學は神界を實在と觀て、神の本能たる命(ミコト)の發展過程を一定不變の生命原則と斷定し、それを精神界に局限して言語の構成法を現代の物質科學の論證と同樣に合理化されたものであつて、言語學の如く言葉を符喋とし文字を符號として研究されたものではない。 (中略) 現代日本人の言葉は半ば以上外國化されて全く其の語法は混濁されてゐる。と申しても決してそれが惡いと云ふのではない。時代の進歩や國際關係等によつて種々に變化するの必要があることは私も知つてゐるが、それだからと云つて此の如き和洋折衷の言葉を以て萬國無比の國體認識上の資料としては、恰も西洋料理の味と日本料理の味とを混同して味はふやうなものであらうと思ふ眞に日本の國體を認識し、又他に認識せしむるには大和言葉の語原に遡及するの必要があることは以上の所論で充分に承認されねばならぬ』と。


 因みに、言靈に關する先人の研究はまことに膨大で、古書文獻からも明らかである。
 契冲、賀茂眞淵、本居宣長、春庭、大平、平田篤胤、大國隆正の諸先生は有名であるが、總じて我が道統の先人、國學者は言靈の持つ力を信じて、その研究にも努めてこられた。
 敬稱を略して下記したい。興味のある御仁は拜讀せられむことを。
 松永貞徳「和句解」。貝原益軒「日本釋名」。新井白石「東雅」。多田義俊「伊呂波訓義抄」「伊呂波聲母傳」「母子音配傳」「本語口傳」。村田春海「五十語辯語」「假名大意抄」。鈴木朖「雅語音聲考 希雅」。林國雄「皇國之言靈」。黒澤翁滿「言靈指南」。中村孝道「言靈或問」。松村春雄「神語考」。楫取魚彦「古言梯」。岩政信比古「本末謌解」。高橋殘夢「言靈名義考」「靈の宿」、きりがないので、このへんにしたい・・・。
[PR]

by sousiu | 2011-10-02 22:22 | その他