<   2011年 11月 ( 18 )   > この月の画像一覧

在朝に、勤皇家存せんことを期待す。   

 從一位、勳一等、伯爵、青山田中光顯といふ人があつた。
 文久二年、天晴れ、土佐藩に於ける俗論黨の筆頭・吉田元吉を誅した勤皇の人、那須信吾重民先生の甥。田中伯はこれに先立つ文久元年、瑞山武市半兵太先生の「土佐勤王黨」に連名、血判す、當時十九歳。

 以降、田中伯は、土佐勤王黨として活躍。やがて脱藩し、長州に於ける勤皇討幕の志士と交誼を深める。
 高杉東行、久坂義助、平井隈山、品川彌二郎諸先生と上洛した將軍家茂公襲撃を企て、未遂に終はるも「暴發組」として其の名を轟かせた。ほどなくして中岡愼太郎先生の「陸援隊」に參加。同隊では實質上、副將の地位にあり、中岡先生が賊徒による兇刃に斃れて後、陸援隊を總監す。
 慶應三年、維新大號令が發せられるや、直ぐ樣、高野山に錦旗を翻へし、占據に成功、囘天維新の達成を江湖に宣傳した。

 維新三傑とも深く交はり、明治の御宇以降は、必然として維新政府に加はり、貢獻するところ大なり。初代内閣書記官長、警視總監、學習院々長、宮内大臣などを歴任。然もその地位、名譽に甘んぜず、只管ら、尊皇の念一途に、皇國の御爲め一身を捧げられた。
 刀劍會の設立。古書、古文書の收集、保全、編纂、寄贈。靖國神社遊就館の設立。勤皇家の顯彰、及び贈位の御沙汰を奏請。東宮御所御造營。御歴代御陵墓五百有餘の歴拜。枚擧に遑なきその功勞も、無念至極、恰も戰後の今にして埋もれ木に匿するが如く世人に識らされぬことを、伯御自身の本意は兎も角、野生は遺憾千萬この上もなく思ふものである。故に野生は、卑見淺學を承知で今後も機を伺ひ、日乘でこれを特筆大書するであらう。

●蘇峰 徳富猪一郎翁、大正十四年五月廿六日『國民新聞』紙上にて田中光顯伯を語る、曰く、
『何を申しても維新以前の志士として、現存の一人は伯だ。先帝陛下に咫尺して、其の信寵を忝くしたる一人は伯だ。伯は維新史、明治史に取りては、倔竟の資料の貯藏者であり、且つ伯自身資料其物である』と。




●元宮内省書記官・栗原廣太氏『宮内大臣としての田中伯』(昭和四年『伯爵 田中青山』田中伯傳記刊行會發行)に曰く、
『私は露骨に話をすると、田中伯爵のやうな性格の人は世間から誤解され易いと思ふ。といふのは伯は直情徑行の人である。天眞爛漫の人である。即ち俗にいふ一本調子の人であつて、驅引もなければ細工もなく、思つたことは腹藏なく言ひ、仕(し)たい事は遠慮なくするといふのだから、その性格を知らぬ人は傲慢だとか、不遜だとかまた無遠慮だとか言つて誤解の念を抱くが、併し親しく伯に接近する者は、其の性格に頗る尚ぶべきものを認めるのである。斯くの如きは一面からいへば短所であるが、私は寧ろ之を常人の企て及ばざる長所として多大の敬意を拂ふのである。
▲眼中首相なし  私は素より伯の人物を批評する資格はないから、今多年伯に親炙して、自分で見聞したことをお話しよう。年月は確かな記憶はないが、桂公が總理大臣であつた時、一日首相官邸から、少し相談したい用件があるから來て貰ひたいといふ電話が掛つて來た。スルト伯は夫(それ)に對し差支へがあつて行けないといふ返事をして置ながら、私等左右の者に向ひ「自分は總理大臣の部下に在る者ではない、宮内大臣は内閣の外に獨立してをるものであつて 陛下を除いては他より何等の命令を受ける筈はない、自分は素より個人として桂公に對しては滿幅の敬意を表してをるが、苟くも宮内大臣としての職に在る以上、其の權威を保つことは 陛下に對して努めねばならぬ。若し桂公にして用事があるなら自身で來るが良い、呼附けられて行くのは職務に對して承知する事が出來ないから斷わつたのだ」と、説明されたから、私なども成程と感心して居ると、間もなく桂公もあの通りの如才ない方だから、伯の意中を諒せられたものか、再び電話を掛けて來て「お出を願ふ事が都合が惡ければ、此方から伺ふから御退出を姑らく見合せておいて貰ひたい」と申越したのに對し、伯は「イヤ、お出を願ふのは恐縮だから、此方から伺ふ」と言つた儘、直ちに車を命じて桂首相を訪問された。
▲職務に忠實  私抔は其の時同じく此方から出向いて行くものなら、始めに電話を掛けて來た時、行つたら良ささうなものだのに老人といふものは餘計な手數を掛けるものだと思つてをると、翌日伯は役所に出られて、吾々に向ひ前日の話をなし「來いといつて行くのは其の命令に從ふ譯で職務上の權威に關するが、此方から任意に訪問するのは毫も權威に係はらないのみならず、先方に對して敬意を表する所以である」と説明されたのを聞いて、私なども始めて伯の精神の在る所を諒解したものだ。此樣なことは誠に小さい例であるが、是に依るも伯が如何に職務の上に秩序を重んじ、且つ如何に公私の別を立つることに嚴なるかを知らるゝのである。一事は萬事である』と。※括弧及び振り假名は野生による。
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          ※寫眞。八十七歳の伯爵 田中青山翁

 愚案。宮内省は、敗戰後の昭和廿二年、宮内府と名實共に變ぜられ、機構の縮小を餘儀なくせらた。同廿四年、宮内廳となり、現在は内閣府の一外局に過ぎない。
 環境廳が環境省となり、防衞廳が防衞省となるも、未だ宮内廳はあくまでも廳なのである。固より斯くなる事態を惹起せしめたのは、戰後の占領政策、日本國憲法に因あること申すまでもない。かねてより、防衞廳を防衞省にといふ聲が一部保守派層の間で盛んとなり、その昇格に歡喜した者尠くない。より日本の國防力を鐵壁の如くと願ふその所志に不平を漏らす積もりは毛頭ないが、對外的對策にばかりに目を奪はれ戰後體制を修正せんと力むるも、對内的に戰後制度を放置しては、戰後體制の脱却も片手落ちと云はざるを得ず、眞個たる實現は覺束ない。東行高杉晉作先生曰く、『國を滅ぼすは外患にあらず内憂にあり』と。

 政府が率先垂範、國民を鋭意善導し、この戰後體制を超克する能はずんば、おそれおほくも、九重に直言せんとする輩や、署名運動なぞを企む者どもが増幅、増長するや必定。口惜しき哉、宮中を忽せとし、ひとりの田中青山伯を認めぬ戰後體制を憾むある而已矣。
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by sousiu | 2011-11-29 16:28 | 小論愚案

おしらせ 

 鐵拳だけど空拳氏の日乘をお氣に入りに登録しました。→→→
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 少しづゝ、野生も友人が増えてまゐりました。目出度し。
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by sousiu | 2011-11-27 18:40 | 報告

所謂る、道。 

 昨日は、大東會館で行はれてゐる「歌道講座」に參加。
 大行社の木川智君、仲村之菊女史も參加した。
 福永眞由美先生は、教へ方が大變御上手だ。武道の極意は刀を拔かないこと、といふ御話しなど、深い感銘を受けた。單なる歌の添削のみならず。歌を通じて、人格の形成や精神の向上、價値觀の修正に繋がるところ尠しとせないのである。
 元來、「道」とはかういふものなのだらう。技術的、智識的、能力的向上を以て足れりとするでなく、それに伴ひ見識や人格も高めることが求められるのである。と思つた。
 だから歌道講座の諸先輩は、みな、素晴らしい人達だ。それが故あつてか、「歌道講座」の空氣は迚も澄んでをり、而して、嚴肅な雰圍氣は終始一貫して漲つてゐる。數日前、我が日乘で、偉さうに銀杏道を講釋してゐた野生を恥づかしく思ふのである。落ち着いて考へてみれば、抑も銀杏道など聽いたことがない。インターネツトで檢索してみても、「同血社主人の一艸獨語」以外には、その文字が出て來ないではないか。

 木川君は、初めての參加であるにも關はらず、二首を詠んで來た。大東神社で祝詞を拜聽したときの思ひと、現在、天下の大道場にて坐する友のことを詠じたものだ。野生は、・・・恥づかしながら、聽講のみの參加であつた。赤面。

 講座が終はつた後の直會に參加。ほどなくして軍歌熱唱會となつた。大東塾では、祭事は嚴かに、直會は歌あり踊りありの賑やかなものであるといふ。先輩である菅野さんの歌は素晴らしい。その菅野さんの御指名で野生も一曲、「若鷲の歌」を。木川君は「麥と兵隊」を。
 木川君は初參加であるにも關はらず、歌を詠み、歌を歌つた。彼れは將來、有望な若者だ。
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※軍歌を熱唱する木川選手。以謂く、次に彼れの麥兵が出るのは時對協の忘年會だ。
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by sousiu | 2011-11-27 14:06 | 日々所感

おしらせ  

 我が友人である、大日本軍剣党・護國鐵拳隊、海法文彦兄が、今度び日乘を開帖したと云ふ。
↓↓↓
http://gunkentou.exblog.jp/   護國鐵拳隊長の徒手空拳


 大日本軍剣党は、神奈川縣下大磯から、天下に維新中興の聲を發せられた故小早川貞夫先生の道統、線上にある思想結社。
 不覺にもいつの間にか虚け者とか云ふ素性不明の御方に憑依され、むしやくしやしてゐたところに、海法兄の日乘は、正に清涼なる空氣を吸ふの心地がした。

 御一讀下さらむことを。
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by sousiu | 2011-11-24 13:33 | その他

平澤次郎翁の口癖に曰く、「酒でも呑まねばやつてられネエ」と。 

 昨日は日中から平塚市内で行はれた故人の納骨の儀に參じ、その後の「偲ぶ會」にも參加。
 終はり一旦、着替へて深夜まで、阿形先生の事務所で御教示を乞うた。先生は垂示される傍はら、とある祭事の自作DVDを二百枚も複製して下さつた。
 深夜と云うても、歸宅して少し待てばもう夜明けだ。阿形先生には遲くまで、本當に感謝してもし盡せないのである。
 

 ところで。「左翼にだつて、貴方達とは質も形も違ふかも知れないが、愛國心がある」といふ話しを聞いたことがある。
 それはさうかも識れない。如何なる理想にせよ、思想を以て社會を改造せんとするの志は、それ丈で、大まかに分類すればそれは既に愛國心なのかも識れない。屈折してゐるか、否か。未熟か成熟か、などの別は扠措くにせよ、だ。・・・實際、極左の機關紙に於てすら、「愛國」の文字も皆無ではないし、吾人は文科省の云ふ「愛國的教育の導入」に大いなる不滿と疑問を抱いてゐることからも、その語に拘はる理由を探せない・・・。
 野生はそれら玉石混交、雜多混在する愛國心の、一體誰れのどれが正しいかなどといふ不毛な研究や議論をする積もりは毛頭も是れ無い。尤も呉越同舟の如き「左翼にも愛國心があるをみた」なぞと與するに於てをや。
 抑もそのやうな議論はとつくに出盡してゐる。加之、結論だつて出てゐる。然もそれ、こゝ數年のことを云ふに非ず。近年で最も明瞭に判の下されたのは、王政復古の大號令である。
 野生は、「愛國心」の有無、是非を論じること欲せず。「尊皇心」の有無是非こそ、今日に議論されて然る可きだと考へる。こと政治家一人々々の點檢こそ最重要である。從つて不肖河原、たとへ世捨て人と雖も、『民主黨に愛國心があるやいなや』などといふ議論する時間があるならば、銀杏の皮を向いてゐるはうが餘程充實するといふものだ。

 斯くすれば、兎角、民主黨に「尊皇心」があるとは觀ぜられない。個人々々では居るかも分からないが野生は知らない。さうしたことに通曉される同志があつたらば、是非、御教示下さることを。
 固よりかの黨は以前から口ばつかり達者で尊皇の念、薄弱にして。であるからこそ鈴木田選手の血判状送付、國信君の斷指勸告ほか全國にある勤王一團の猛攻を一身に浴びてゐる所以であるが、この頃は、正に開き直つてゐるかのやうである。
 日本が 皇國であるといふ自覺無き者どもの執り行ふ政治は、景氣對策、エネルギー政策、外交成績等、たとひ如何なる功成さむとするも、それは精々數年間の効果、甚しくは一時的に過ぎない功利であつて、凡ては砂の上に樓閣を築いた功と均しくあると看取す可し矣。

 佛道に身を置く西行法師をして、

   なにごとの おはしますかは 知らねども
     かたじけなさに 涙こぼるゝ

 と詠ましめたほどの、神國日本の偉大を知ることが刻下、政官財民なべて肝要急務の大事なのである。

 民主黨連中による、穢らはしき言動を一々、日乘で書く氣は、さらゝゝ起こらない。そのやうなものはサンケイ新聞に一任する。
 よつて今日は蘇峰 徳富猪一郎翁の言を抄録し、野生の鬱憤を少しでも晴らさむことゝする。酒よりは身體に良いだらう・・・。


●大正十四年二月十一日「民友社」發行『國民小訓』に曰く、
日本帝國は決して其の國民に利益を分配する株式會社でもなく、又た國民は、株式會社の社員でもない。實に我が日本帝國は、世界唯一の國體を持つ、世界唯一の國である。而して其の國體の中樞は、我が萬世一系の 皇室である。故に我が國民の愛國心の根本原理は、之を 皇室中心主義に繋ぐを以て、適當の解釋と爲す。故に吾人の愛國心は、一夜作りの愛國心ではない。祖先以來幾千年の光榮ある歴史を有する愛國心である。此の愛國心は、時代の進歩と與に、其の形式を變じ、又た其の作用を變ずるも、其の根本原理に至りては、終古一定、決して搖く可きものでなく、又た動かす可きものではない』と。

●昭和三年五月廿五日「民友社」發行『中庸の道』に曰く、
『世界には、民族ありて國家なき。猶太人の如きがある。彼等は二千年來、世界の漂泊者として、他の廡下に立ち、籬邊に倚りてゐる。之を思へば、三千年來 皇室を家長とし、其下に統一せられ、融合せられ、一大家族的國家を構成し、發育し、扶植し、擴張し來りたる吾人は、世界に於ける第一の仕合者と云はねばならぬ。其の報謝感恩の心を稱して、忠君愛國心とは云ふ。
 何れも君主國でも、此心はある可き筈だ。されど或國に於ては、國君を他から招聘し來た。或國に於ては、國君が他から乘り込んで來た。其の方法は相談づくにて君臣となり、或は暴力づくにて君臣となり、若くは其他の手段にて、君臣となりたる例が多くある。然も未だ我國の如く、皇室を中心として、我等臣民それを圍繞し、家族的に國家を構成したる者は、現在の世界には、未だ一個半個だに見出さない。されば我等の忠君愛國心は、世界自餘の君主國民の心掛同樣である可きものではない』と。

●昭和四年九月廿五日「民友社」發行『日本帝國の一大轉機』に曰く、
窮極の問題は、國家の爲めに個人存在する乎、個人の爲めに國家存在する乎、にある。他の諸國はいざ知らず、我が大日本帝國としては、吾人は大日本帝國の爲めに存在するものである。此れが我が大日本帝國の信念の第一であらねばならぬ。而して我が 皇室は、實に我が大日本帝國と不可分の元首にて在す。されば吾人臣民は、皇室に向て、忠を盡す可く生存してゐるものである。言ひ換ふれば、國家に奉仕するは、皇室に奉仕する所以、皇室に奉仕するは、國家に奉仕する所以。 ~中略~
 吾人は國家を以て、高尚なる一個の倫理的團體と信ず。吾人は國家を以て、人類の發達、進歩、安寧、幸福に必須なる有機體と信ず。而して個人は則ち其の細胞にして、其の共同作用もて、此の有機體を支持す可きものと信ず。吾人は政治の倫理化を説く必要を認めない。何となれば、國家は本來の倫理的有機體にして、政治の要は、其の倫理的使命に奉仕す可きものであることを信ずるが故に』と。

●昭和十四年二月十一日「東京日日新聞社」發行『昭和國民讀本』に曰く、
『惟ふに我國には 皇室なる一大求心力ありて、一切の人も物も悉く皆な之に向つて吸集せしめた。熊襲も、隼人も、蝦夷も、凡そ我が國内にある民族は、悉く皆な一視同仁、皇室の忠良なる臣民と化し來つた。されば若しこの大なる求心力なくば、到底日本の統一は、不可能であつたと云はねばならぬ。それは決して 皇室の武威、武力に是れ由るものではない。其の威力の奧に、更らに至仁、至愛、廣大無邊の皇徳の恩被に是れ頼るものである。~中略~
 我等は日本國が其の人種の錯綜によりて、其の地形の延長によりて、其の統一の困難なるを思ふ毎に、彌々我が 皇恩の至大、至高なるを感戴せねばならぬ。乃ち我等が日夜惓々として、皇室に奉仕するは、祖先以來享受し來れる皇恩の萬分の一だにも奉報せんとするの丹心に外ならない』と。

●昭和十五年二月十一日「日本電報通信社」發行『滿洲建國讀本』に曰く、
『肇國の古に於て、天孫民族は之に歸順せる民族を愛撫扶育し、決して之を虐遇討滅などのことを爲さなかつた。總てを 天皇の大御寶として包容し、愛育して來たのである。此の事實は二千六百年の永きに亙つて、連綿として行はれて居り。我國に歸化せる總ての外來民族は、この精神に同化して、大和民族に歸一し、團結し、同じ民族意識の中に、溶け込んでしまつたのである。之れ偏へに萬世一系の 皇室を戴く、我が國體の尊嚴の然らしむるところであり、八紘一宇の皇道精神に、光被された結果である ~中略~
 我が日本帝國は、三千年來、金甌無缺の獨立國として、儼存して居る。これは我が 皇室の賜だ。而して 皇室を奉戴したる、忠良なる吾人祖先の賜だ。我等は我が皇恩、祖徳に酬ゆることに於て、決して尋常一樣の心持を以て足れりとすべきではない。特別の恩徳に酬ゆるためには、特別の奉仕を必要とする』と。

●昭和十六年十二月十五日「東京日日新聞社」發行『日本を知れ』に曰く、
『私は我國の歴史を常に研究してをりますが、政治が 天皇を中心として動く時には、我國運は常に隆盛であります。政治が 天皇陛下から離れて、他の方に移つて行けば、常に國家は亂脈になるのであります。御承知の通り、神武天皇の御時より、例へば 崇神天皇の御代、或は 景行天皇の御代、或は 應神天皇の御代、仁徳天皇の御代、天智天皇の御代、桓武天皇の御代、醍醐天皇の御代、それらの歴代の列聖の中で、最も我が 皇國の歴史の光り輝いた時代には、何れも政治上の力が 天皇を中心として動いてゐる。即ち萬機親裁の御代に於いて、始めて日本が光りあるところの歴史を創り出してゐるのであります』と。

●昭和十九年二月十一日「毎日新聞社」發行『必勝國民讀本』に曰く、
日本は 天皇のしろしめす國土なれば、之を 皇國と稱するは當然であり、人民は 天皇の臣民として、祖先以來繼續し來りたるものであれば皇民と稱するは當然である。同時に 天皇は現身神に在はし、現身神のしろしめす國であれば 神國と云ふべく、又た 神國に居住する我等は神民と稱するも、決して不遜ではあるまい。~中略~
 我等に大切なるはただ此の 皇國と皇民との自覺である。日本國の前途はたゞ此の 皇國、皇民の自覺如何に依つて之を卜することが出來る。苟くも我が皇民にして、極天皇基を護るといふ三千年來の臣道を遵奉實踐するに於ては、平和の時も戰爭の時も、安樂の時も、艱難の時も、如何なる場合に於ても日本國の運命は萬々歳である。即ち今日の難關を突破するに於て何かあらんやである』と。
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by sousiu | 2011-11-21 23:52 | 日々所感

少しづゝ、こなしてゆきますから。  

 やうやく「芳論新報」脱稿。四百字詰め原稿用紙十枚。
 前々囘から『復古主義的思想と皇道政治』と題して卑見を呈したのであるが、今囘結論しようにも、一體、何を書かうとしてゐたのか全く思ひ出せない。
 仕方なく、無理やり如何にか前囘、前々囘に繋げたのであるが、丸一日掛かつてしまつて遂に今、脱稿したものだ。
 芳論新報社編輯部の皆さん、遲くなり、本當に申し譯ありませんでした。
 又た、備中處士樣、又た々ゝ報告が遲くなり申し譯ありません。

 これから少し寢て、朝には出掛けねばならないので、日乘はこの邊で。

 おやすみなさい。
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by sousiu | 2011-11-20 03:01 | その他

銀杏道 番外篇  

 筋肉痛も和らいできた。昨日、今日と、銀杏の果肉向きに專念してゐる。
 これで思ひ殘すことなく、今晩から文章報國に取り掛かれるといふものだ。

 先日のコメント欄に記したとほり、以謂く、銀杏が高價であるのは、その收穫後の手間の爲めである。
 果肉をとる作業は本當に手間の掛かる作業である。
 先日、はからずも平澤次郎翁に御會ひしたことは既に述べたが、その際、翁の御忠告に曰く、
 「その銀杏を觸つた手で小便するんぢやねえぞ」と。理由を尋ねるに、曰く、
 「乃公は前に銀杏の皮を觸つて小便したら、こ~んなに金●が大きく腫れてしまつて自分では如何ともし難く、泌尿器科へ行つたよ。待合室は性病の連中ばかりだし、平澤次郎、二度とあんな恥づかしい思ひをしたくはないよ」と。
 これで御分かりだらう、先日掲載した翁と野生の寫眞に於ける、翁のあの手振りは、御自身の●玉の大きさを野生にくはしく説明してゐる場面である。引いては、野生の身を案じて眞劍に注意を促さむとしてをられるその瞬間だ。おゝ、焉んぞ時對協の師弟愛と云はざる可けむや。野生はこの一葉を見る度びに、師を持つ己れの光榮を都度、實感せざる能はぬのである。

 熟々思ふ銀杏道は本道に荊の道であることを。キツイ・キタナイ・キケン・クサイ+●玉の5Kを伴ふものなのである。

 だのに虚け者氏のみならず、先日、神奈川の某先輩からも「君の日乘、下らないことばかり書いてあるなア。先哲寶文も愈々ネタが竭きたとみえる」と云はれた。
 何をか云はむ、侮る可からず。道に生くる者こそ、前囘、前々囘の銀杏結社項に、理會するところ多くあらねばならぬ。これでは野生も意を決して瑞●塾總本部に果肉付き銀杏を郵送せねばなるまい。

 みよ、さきたまの女傑も又た、克苦精勤、隣組の精神を遺憾なく發揮してをられる。↓↓
 http://yaplog.jp/yamato00/archive/745
 

 さあて、愈々言ひ譯も竭きた。今日から執筆活動だ。
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by sousiu | 2011-11-18 13:52 | 日々所感

道を極めんとする志とは、中々常人の理解を得られぬものなり矣 

 銀杏結社の話題はもうよさうと思うてゐたのだが、今日までは書かねばなるまい。
 何處の誰れだか存ぜぬが、虚け者と名乘る無理解者がをられるやうなので・・・。

 昨日、今日と、筋肉痛で惱んでゐる。銀杏拾ひは絶えず屈伸運動を餘儀なくせられるわけだから、かうなるだらうと豫感はしてゐたものゝ、案の定、痛くて仕方がない。これぢやあ、この痛みが收まるまで、キーボードを叩くことは、無理だ。
 完全に我が銀杏道を舐め腐さり過ぎてゐる虚け者氏は分かつてゐない。この道はキツイ、キタナイ、キケン(尤も「危險」なのは首領である河野君だけだが)の3Kではない。これにクサイを加へた4Kを乘り越えねばならないのである。

 では、なにゆゑ、そこまで極めんとするか。なにゆゑ、この道が存在するといふのであるか。
 それ、とは即はち、さゝやかながらも國民に幸福を提供せんが爲めである。

 ほら。↓↓↓
   http://yaplog.jp/yamato00/archive/744
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by sousiu | 2011-11-15 16:15 | 小論愚案

明日から本當に頑張りますから。  

 本日は、横濱演説會へ。あまり演説する氣も起こらないので拜聽だけした。
 ヤル氣が起こらないこれつて、まさか男の更年期?それとも單なる怠け病か。

 野生が兄事し、日頃何かと御示教賜はつてゐる備中處士樣から、御懇篤なる、心配と勵ましのメールを拜受。この人も偶に野生をからかふのであるが、實は本道に宜い人である。
 同じく、九州からは、塚本道兄より御叮嚀な御見舞ひメールを。何だか心配されてゐる野生自身が心配になつてきちやつた。たとひ後者の單なる怠け病であつたとしても、皆さん怒らず、今までのやうに接してくれるであらうか。


 明日は何も豫定が無いのでゆつくりだ。明日こそ、文章報告の志を取り戻し、執筆に專念したい。◎◎新報社樣、□□塾樣、××處士樣、そして機關紙の讀者樣。何卒、御高恕あらむことを。


 さて。明日に全て集中する爲め、今日中にやつておかねばならぬことがある。
 銀杏拾ひだ。

 こんなぐうたらな野生を日乘で立てゝくれた木川選手にせめてもの御返へしとして、併せて野生の精力を取り戻す爲めにも、野生は銀杏を拾ひに行つた。腐つても河原、約束を忘れる痴人ではない。・・・原稿の締め切りは嚴守してゐないけれど、謝。
 横濱演説會終了後、近くのフアミリーレストランで、食事をしながら銀杏結社を結成。食事を濟ませて、弊社の河野敏明君、伊東稔鷹君の三人で一路、櫻木町へ向かつた。結成時は、確か愛心翼賛会の山川裕克君もゐたのであるが、彼れはいつの間にか消えてゐた。野生のほんの一瞬の隙をついて、彼れは脱會したのだ。あの男、思つてゐた以上に動きは俊敏だ。

 櫻木町の大通りは通行人の往來が頻繁だ。繁華街やみなとみらいが隣接して、アベツクや若者が多いのである。
 だがしかし、ビラ貼りで鍛へ上げられた野生に羞恥心は皆無だ。
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↑↑伊東君と人目も憚らず銀杏を探すの圖。だがしかしデブ二人では思ふやうにはかどらない。


 因みにホームレスも多く、野生共の活躍を見守る先輩方の目が暖かつた。自宅を所拂ひされた野生にとつて、彼れらは將來、野生の先輩になるかも識れない方々だ。今のうちに「見どころのある奴だ」と思はれたいのが人情である。ベンチに座はる彼れらに野生は挨拶するを忘れない。
 すると又た々ゝ、今度は一寸見なりの宜しい、野生の先輩となるであらう御方の、見守つてくれてゐる視線に氣付いた。その先輩は自轉車を持つてゐる。以謂らく、界隈では格上の御方に違ひない。さらば挨拶しておく可きだ。近付いて御挨拶に伺ふと、やゝゝ、よく見れば平澤次郎翁だ。生活の先輩ではなく、道の大先輩にこのやうな處で御會ひするとは。横濱も狹いもんだ。
 翁は翁の日課である、野良猫へ餌をやりに來たといふ。ホームレスかと間違へたと云つたら「お前は馬鹿野郎だな」と怒られた。
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↑↑因みにホームレスではない。平澤先生だ。平澤先生は我が結社に懷中電燈を寄贈なされ早々と歸つて行つた。銀杏結社には加はりたくないと云ふ。


 銀杏拾ひは初めての經驗であるが、案外、重勞働だ。
 その内、河野君がロープを枝にくゝり、搖さぶると大量に落ちて來た。千兩々々、呵々大笑。
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↑↑これがそれ。凄過ぎる。銀杏結社が本氣を出せば、忽ちこれだ。


 河野敏明。彼れは名實伴はれる銀杏結社の首領だ。世の中は面白く、稀れに立場があべこべになることがある。彼れは紛れもなく、銀杏に於ける野生の先生だ。
 野生は終始、彼れを「銀杏先生」と呼んで一杯揺さぶつてもらつた。彼れも先生と呼ばれて返事をし、野生の願ひに應へてくれた。
 だから、若しも、不法侵入やら竊盜罪やら拾得物横領罪やら、詳しくは識らないが何か問題があつた時は、それは全て銀杏結社の首領たる彼れの責任だ。
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by sousiu | 2011-11-14 01:12 | その他

祝着至極  

 昨日、目出度く、豐龝津嶌皇心會々長・眞橘道義兄が、京都刑務所から出所した。
 眞橘兄は平成十七年九月二日、「反ヤスクニ」運動の筆頭とも目された京都、西本願寺に自省を促さむと單身、籠城。六年間の服役生活を餘儀なくされたものだ。
 先程、本人から電話があり、六年振りの會話。健康であると云ふ。兎に角、元氣さうで宜かつた。
 嘗て眞橘兄とは、彼れの年一囘の上京の度びに都内で會ひ、遲くまで居酒屋で憂國談話に華を咲かせたものだ。何にせよ、今は急がず、心靜かに體調を整へることに專念して欲しい。

 さういへば眞橘兄より、京都刑務所を出所する際、出迎への人達のなかに木川智選手をみて、會話したことを喜んでゐた。彼れは將棋盤を縱横無盡に掛け巡る飛車角のやうに本當に東奔西走してゐるなア。・・・といふか、實は彼れは三人ほどゐるのではないかと疑へなくもない。
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by sousiu | 2011-11-10 16:15 | 報告