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吉い御年を

 平成廿三辛卯歳もはや過ぎ去らむとする只今、本年を振り返り、まことに多事多難な御年であつたと思ふものである。

 而、自身を省察すれば、兔角憂世憤慨を口にすれども已んぬる哉、餘りにも無力にして、いつの間にやら日々の雜用を消化することに滿足し、先づ第一に己れの勤皇の誠を涵養するに務めねばならぬのところ、誠に反省せざる可からざるの御年であつた。

 啻に日本ひとりのみならず、世界は行き詰まりを露呈してゐる。既に賞味期限のきれたものは社會主義だけでなく資本主義も然りだ。固より社會主義や資本主義だけに限つたことではない。今後世界は亂れる麻のごとく垂んとせるであらう。
 かうした時流に際して、今後日本はより苦汁の選擇を迫られることがあるかも識れない。以前、日乘にも記したと思ふが、日本人に本來宿られる大和魂が溌剌となるにはまだ少し時間が掛かりさうだ。要するに更なる試練が要せられるのだ。
 その時に、吾人の備ふ可きものは何であるか。金であるのか武器であるのか、將た又た發言力であるのか。
 來年は野生も原點に囘歸し、日本人とは何であるかといふことを學ぶことから始めたいと思ふのである。
 庶はくは諸賢、來年も、皇國中興の御爲め、御垂示あらむことを。

 吉い御年を。

                       河原博史 謹拜
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by sousiu | 2011-12-31 18:48 | 日々所感

たゞいま。  

 長らく冥想してをりました。
 昨夜、宮城縣の自稱變人・三森兄より電話をいたゞき、はつと我れに返つた次第で御座います。


 冥想してゐる間、金正日が瞑したさうだ。
 讀賣新聞の報道によれば、自由北韓運動連合の朴氏曰く、『正直言つて、やつと死んでくれたと思ふ。國營テレビで悲しむ住民らが映つてゐるが、あれは大半が演技だ』と。もしも事實ならば獨裁者に共通してみられる、あはれな末期であるといふほかない。

 嘗て支那には秦の始皇帝と名乘る、嬴(えい)政(せい)といふ者が登場した。支那の歴史が始まつて以來、最強の統一國家であつた筈の秦は、その滅び方に於ても他に例をみないスケールの大きさを示した。獨裁者・嬴政の死後、秦は足掛け三年、僅か滿廿七ケ月といふ短期間で、その版圖を跡形もなく消え失せたのである。無殘、木造建築としては歴史上最大とされる阿房宮も、嬴政の宮殿であつた咸陽宮も項羽によつて燃やされてしまつたのである。(參考文獻、司馬遷『史記』。但し、阿房宮を燃やした者は項羽ではないとする異説あり、どちらが本當かわからんが、ま、今は如何でも宜い)

 經綸を顧みることなく人心を慮ることなき獨裁政治の末路は、古今にたゞ、慘たるものである。肯定的に考へれば、獨裁政治の持つ意義は、次の英雄の出現を促す爲めのものであるのか。

 今こそ北朝鮮に拉致された日本人を救出する好機であるといふ意見が目立つ。
 拉致された方々の家族には希望が芽生え、政治家にはその期待に應へるだけの結果が求められる。結果には繋がらなかつたが努力はした、といふ事後報告だけではさう何年も胡麻化せるものではない。家族が鶴首して待望するものは結果なのである。
 但し誤解を恐れずに云へば野生はそれ丈で足れりとするものではない。今日、野生の遺憾とするは、かういふ千載一遇の機會に遭遇し、未だ日本の實力が萬全でない、換言すれば未熟、極言すれば無力であるといふことに他ならない。野生とて一日も早く被害者が、皇國の土に歸せるやう懇望する一人ではあるけれども、憚ることなく有體に申せばそれは理想の最高位ではない。拉致被害者の救出は政治家達に課せられた當面の目標であるし、率直に云へば義務だ。我れら北朝鮮と直接交渉の權限を與へられぬ者は、無事歸還をひたすら懇祈し、時にはその任にある者を激勵乃至叱責することだ。而して我が理想を申すならば、一日でも早く北朝鮮の民が再び皇謨に服し、眞の道に開眼することである。さすれば彼れらは衷心の謝罪と共に一刻も早く拉致した日本人を歸へすこと火を見るよりも明らかである。
 噫、我れらの惜しむらくは、獨裁者の歿する彼の地に日本の影響力乏しくあることだ。加之、現在の我れら日本人が、彼の國民の指導者たる可き資格も自覺も失せんとしつゝあることだ。轉じて見遣れば時期尚早、混亂を招來するであらう獨裁者の死を迎へるに際して、遺憾乍、未だ我れらに快刀亂麻を斷つ可くの實力が養はれてゐない。本來大和民族は彼の如き獨裁的國家體制・恐怖政治を容認する考へを持たない。壓迫され虐げられる民を一衣帯水の近くで指をくはへ傍觀する義なき民族でも無い筈だ。神功皇后の御偉業をみよ。
 だのに今日の爲體を看るに付け、野生はそれ啻に我れらが能力如何の問題にとゞまらず、六合を兼ね八紘を掩ふの聖敕、萬里の波濤を開拓して國威を宇内に宣揚するの大詔を必謹する姿勢そのものが弛緩してゐるゆゑと苦情を漏さずにをられない。

 大東亞戰爭に於ける敗戰は決して恥辱ではない。昭和廿年八月十五日、大詔を奉戴した我が父母祖父母の選擇は申すまでもなく正しいものであつた。誠の恥辱と呼ぶ可きは、以後の我れらが敗戰を口實に、詔を奉戴するその民族の大事を忘却せむとすることである。恐る可し、思ふ可し。
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by sousiu | 2011-12-21 00:48 | 日々所感

山陵志と今書  

 承前。

 『前王廟陵記』『諸陵周垣成就記』『山陵志』などを繙くに、御歴代の山陵の變遷に就て識ることが出來る。
 それ、上古は山陵の制度が未だ備らず、神武天皇から 孝元天皇まではたゞ丘に塚を築かされたのみであること。開化天皇の御時以降、漸く定つた一つの制度が出來ましたこと。それ、先づ 垂仁天皇から 敏達天皇までの廿三代は、山に陵を御營みになられまして、その大小高低は樣々であり、亦たその向きも一定してをらず。けれ共、その形は前方後圓墳である。
 次に 用明天皇から 文武天皇までの十代は圓墳であられますこと。奈良時代になると再び古い制度に復し山に陵がつくられ、前方後圓の形も行はれるやうになつたこと。

 こと『山陵志』では、茲に佛教が渡來しその影響頗る濃厚となるや、上古の風がすたれ、持統天皇の御時より初めて御火葬が行はれ、加之、その御火葬の場所が決して陵と定められたものではなく、御毛髮などを納められた石塔などを御陵と定めるといふことを、蒲生先生力めて序文に著す。
 忝くも、これは雲の上人による、葬を薄くして、國家の財や人民の勞を出來得るだけ負擔せない爲めの思し召しであらせられたことゝ恐察するものである。その反面、一方には、寺院は陸續造營され、國の費は大に消せられ、民力を盡して伽藍は壯麗を極めるといふわけで、已矣哉、これ、佛教及び佛教徒の盛んなりしことをあからさまに物語つてゐるのである。而して、蒲生先生は佛教の勢力強大が、おそれおほくも御陵に於ける古來の制度を破する近因となつたことを確信する。一事が萬事。豈にそれ御陵のみと云ふ可き。蒲生先生は政治に於ける、制度に於ける、民心に於ける、果たして 皇國に於ける輸入宗教の弊害を看破されたのである。※御火葬佛式の御儀、御取止めに奔走した奧八兵衞先生、通稱、魚屋八兵衞の衷情に蒲生先生が感激した逸話は、十二月三日付、「●蒲生先生、能く能く同志に語るに曰く」の項に記す。


 實は蒲生君平先生、啻に山陵の存在を江湖に報せむが爲めのみ『山陵志』を著述したのではない。
 蒲生先生の本懷は、『九志』を世に供することであつた。
 その第一が『神祇志』、第二が『山陵志』、第三が『姓族志』、第四が『職官志』、第五が『服章志』、第六が『禮儀志』、第七が『民志』、第八が『刑志』、第九が『兵志』である。
 蓋し 皇國の禮は祭よりも大なるはなく、古來、御歴代天皇の誠敬を御盡しになつて來たことによるので先づは『神祇志』、神祇の祭祀を崇び、御歴代の山陵を仰がぬ道理はなき爲め『山陵志』。皇國は古來氏族制度の國であり、神を祭り祖先を祀るにも必ず氏或いは家毎におこなふことから、神祇や山陵の歴史を明らかにした以上、次にはこの氏族制度の歴史を明らかにしなければならぬ、よつて『姓族志』。氏族制度は古來自然に存するところの社會の秩序であるが、猶ほこの秩序を正しくせんが爲めには一定の官職がなければならず、亦たそれを正常に機能させる爲めにもその歴史を明らかにせなばならぬ、よつて『職官志』。古への考へによれば一定の位や官職には、必ずそれに應じた衣服や、馬、俥、果ては乘輿に至るまで別といふものがなければならないとした。從つて、職官志の次は『服章志』。次に社會生活に要せられる可き樣々な行爲の規範を明らかにせねばならないので、『禮儀志』。これまでのことは服章でも禮儀でも大體に於て國家の上位にある者や政を執り行ふ可き位にある者に對して一讀す可き論であつたが、今度は治められる者に對して、その職業、生活の樣式を調べて正さねばならぬ、よつて次に考へねばならぬのこと『民志』。刑は廣く云へば法律であるが、古への考へ方によれば刑は寧ろ禮と竝ぶものであつたといふ。即はち禮をやぶる者を禁ずるものが刑であつて、當時の民は無智蒙昧多く在るがゆゑ禮儀のみで治めることは覺束ない、よつて次は『刑志』。最後は『兵死』、つまり軍事志。民は法律によつてよく治め得ても、國外より襲來する夷狄はこの兵によつて防衞せねばならない。經國の爲めには必ず治兵がなければならぬ。それには民は國防の重要に就て猶ほ識る可きであつて、古來の外征軍事の歴史から學ばねばならぬ、從つて『兵志』。以上、『九志』。
 惜しまれる哉、蒲生先生は『山陵志』『職官志』を上梓し、殘りの七志は未完成となつたまゝである。
 ・・・ところで、餘談であるが、吾人はこの『九志』に就て氣付かねばならぬことがある。
 蒲生先生に限つたことではないのであるが、この頃の、即はち維新囘天の黎明期にある思想家に概ね共通してみられる特徴として、内を整へることを優先順位としてゐることである。所謂る、修理固成(つくりかためなせ)といふことだ。決して、『兵志』を第一義としてをらぬところに、戰後の我れらは深く考究すべきことがらの多くあること、認めねばなるまい。


●柴田實氏、『蒲生君平の山陵志』(昭和十七年九月十五日「日本放送出版協會」發行)に曰く、
『かやうに見て參りますと九志といふものは首の神祇志から尾の兵志までの間に首尾一貫した一つの思想體系のあることがはつきりするでありませう。それは申すまでもなく儒教の思想を根柢とするところのひろい意味の政治理論でありまして、神祇、山陵、姓族等種々の事柄に就いて過去の歴史を調べますことも、窮極はこの政治の理想を明かにせんがためでありました。儒教ではこの政治の理想を聖人の道とも王道とも申し、周公や孔子にその範を求めようとして居りますが、蒲生君平はむしろそれを我が國の歴史に就いて明かにしようとしたのであります。彼は或友人に與へた手紙の中で「夫所謂王者之道豈復他求也、豈復他求也」といひ、自分は二十年來本朝の意を留め國初より、二千年の事蹟に就いて一々之を禮經に照して考へ、その名分を正したいがために九志を著すのであると述べて居ります。彼はまた九志の序文において更に積極的に我が國の秀れた所以を説き、その國土は南北の中間に位して寒暖の和を得、水土は産物に宜しくして五穀豐穰であり、文教よく行渡り、武威普く、然も太初以來名分正しく、民皆忠敬を致し、古く聖制あつて備らざるものがない。事は時と共に移り、物は世と共に變るが、然もなほ古に通じようと思ふならば書物も數ふべきほどあると申して居ります。
 ~中略~ 「山陵志」をもこめて、九志の根柢に存するところの根本思想は要するに歴史的なるものの中によるべき道を見出さうとする歴史主義であり、過去に理想をおくところの復古主義といはれませう』と。※夫所謂王者之道豈復他求也=それ所謂る王者の道を豈に復た他に求めんや


 さて、蒲生君平先生の初めての著述は『今書』である。蒲生先生、廿五六歳の著述と傳へられてゐる。『今書』とは、要するに、當時の政治上、社會上に露はれ始めた種々の問題を明らかにし、その修正案、解決策を古への歴史から導き出さうと試みたものである。蒲生先生の復古主義はこの『今書』に既に見えてゐるのだ。


●柴田實氏の曰く、仝、
『現今の時弊に對して上古の則るべきところは總じて何處にあるか、逆にいへば、上古の治世が何が故に現今の如く遷移したか、といへば、上古はすべて名が正しかつたが、時代と共にその名が亂れて來たのであつて、嘗ては社會の利益であつたところのものが、弊害となるのも時の勢の然らしむるところであるとして、古來、名と勢との移りかはるところを評論して居ります。昔から義を好むものは名に順ひ、利を好むものは勢に就く。しかも義を好むものは寡く、利を好むものは多いが故に名は勢に勝てない。しかしながら利をもつて義に易へるのは君子の道ではない。忠憤慷慨の士といふものは必ず寡をもつてよく衆に敵するものであるとて名の勢よりも重んずべきを力説してゐるのであります。ここに復古主義は同時に正名主義であることが明かとなるでありませう。彼が賦役や姓族に就いて論じてゐるところを見ますと、九志としては遂に出來上らなかつた民志なり、姓族志なりの内容も、若しそれが書かれてゐればどんなものであつたかがおよそ推測がつくのであります』と。



 『今書』に就ても觸れたいのであるが、少々くどくなるので、また今度だ。
 時對協の忘年會に於て、國信、坂田、木川三兄に圍まれ、ふと「寛政の三奇人」を書かうと思ひ附いたものゝ、餘りにも長くなつてしまつた・・・・。最早、日乘ではないな、これ。でも、この内容をツイツターつていふの?あれで連載するよりはまだマシだらう。
 今日は、夕方から阿形充規先生の事務所で御教示を賜はる。先程、歸宅。← 一應、日乘なので。苦笑。

 今度は殘る奇人の御二人、高山彦九郎、林子平先生に就て記してみたい。

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by sousiu | 2011-12-07 23:54 | 良書紹介

山陵志   

●蒲生君平先生、享和元年正月、『山陵志』卷之一に曰く、
『古之帝王 其奉祖宗之祀 而致仁孝之誠也、郊以配乎天、廟以享乎 祖、配乎天則作之靈畤、至尊至嚴 禮弗敢■(三水偏+賣=けが、涜)、享乎祖則立之大宮 以置祝宰百世弗毀、特報其有盛徳丕烈者焉、而其餘各就山陵 以時將常典、有事而■(示偏+壽=いの-り、祷)告、於是諸陵寮之職掌喪祭之禮供幣之數及陵戸名籍與其禁令、而正其兆域、修其垣溝、虔共所職其有儀則、故曰、山陵猶宗廟也、苟無有之則臣子何仰焉、臣子惟仰乎此而祀焉、則其禮隆矣、律謀毀山陵謂之謀大逆、與居八虐之一焉則其刑重矣、是王者之以孝治天下、所由而基也、胡其可不畏敬哉
○この譯文を掲げんに、
『古の帝王、其の 祖宗の祀を奉じて、而して仁孝の誠を致すや、郊には以て天に配し、廟には以て祖に享す。天に配しては則ち之れが靈畤を作り、至尊至嚴禮して敢て涜さず。祖に享しては則ち之が大宮を立て、以て祝宰を置き百世毀たず。特に其の盛徳丕烈有る者に報ゆ。而して其の餘各山陵に就き、時を以て常典を將ひ、事有り而して祷り告ぐ。是に於て諸陵寮の職、喪祭の禮供幣の數、及び陵戸名籍と其の禁令とを掌り、而して其の兆域を正し、其の垣溝を修め、職とする所を虔共して其儀則ち有り。故に曰く、山陵とは猶宗廟の如きなり。苟も之れ有ること無きときは、則ち臣子何をか仰がむ。臣子惟々此に仰ぎて祀るときは、則ち其の禮隆なり。律に謀りて山陵を毀つ、之を大逆を謀ると謂ふ。與りて八虐の一に居るときは則ち其の刑重し。是れ王者の孝を以て天下を治め、由りて而して基づく所なり。胡んぞ其れ畏敬せざる可けむや』(『勤王文庫 山陵記集』大正十年七月廿日「大日本明道館」發行)

○更らにこの現代譯文を柴田實氏の著書に委ねるとすれば、曰く、
昔の 天皇が御祖先の御祭をして孝行の誠をおつくしになるには、天神に對しては靈畤(まつりのには)を作つてお祭り申上げ、御祖天照大神の御爲には神宮をお立てになつてお齋ひ申上げてあるが、その他の御歴代に就いては山陵において時々のお祭をなされ、事あるときにはこれに告げ、これにお祷になつた。そのためには諸陵寮といふ役所がおかれて御葬祭のこと、幣物をお供へすること、お守りの家のこと竝びにその禁令等のことを掌り、御陵の兆域を正してその堀や垣を直したのである。それ故にこそ「山陵猶宗廟也」、山陵といふものはみたまやと同じである。それがなければ臣民として何を仰ぎ、何にお參りしよう。君民はただこれを仰ぎまつることによつて國の禮は隆んとなるのである』と。(『蒲生君平の山陵志』昭和十七年九月十五日「日本放送出版協會」發行)

 愚案。文武帝の御宇に制定せられた律に於て、山陵を毀つ者は 皇居を破壞するものと同樣のことゝ看做され、共に大逆罪として所謂る、八虐の第二に算へられた。當然のことながらこれは最も重罪の一つであつて、絶對に赦す可からざる罪であつた。
 後々、律令の制度が緩み、次第にかやうな刑罰も有名無實と化していつたのである。だがしかしこれを更らに深めて觀察すれば、果して制度上の形骸化を以てしてのみ、前日前々日に記したやうな、御陵に對する餘りにも寒心耐へざる状況が惹起されたのであらうか。現代の國旗國歌に對する法制化も、現時點を鑑みれば諒とす可きと頷きながら、吾人は、これで心安らかなる能はず。抑も法制化を必要とせねばならぬその現實を鑑みれば、已然、暗澹たる思ひを禁じ得ないのである。
 よつて吾人は『山陵志』が、單なる太古への郷愁や地學的好奇心から出でた研究にとゞまらず、蒲生先生の眞意を茲に看取す可きであらう。事實として、蒲生先生の素志は、後の勤皇維新、皇政復古に翼贊したところ多しと云はねばならない。これ野生が皇政維新を念ずるひとりとして、所謂る過剩過大に先達を評するものにあらず。只だ儼然たる事實を記したまでである。



 ところで、誤解を被らむ虞れのあるが爲め、おほけながら敢へて餘談を付加す。
 如上、『郊以配乎天、廟以享乎祖』とは、神武天皇が大和御平定に當たり鳥見山に靈畤を立て御祭り遊ばされたことゝ、崇神天皇が初めて 天照大神を大和笠縫にて齋き祭らせられたことを差してゐるのであるが、これは支那思想に基く云ひであつて(支那では「郊」は、天子が天を祀ることを意味し、「享」は死した人の靈を祀るの意なり也)、日本に於ける、この場合では言葉に適當を得る能はず。ものゝ逸話によれば、蒲生先生が「山陵志」を平田篤胤大人に提した時、篤胤大人が一讀してこれを指摘なされたと云ふ。蒲生先生、篤胤大人のこの批評に、頗る承伏するところ大なりとなん。
 當時は皆、漢文を學び用ゐ、漢文によつて思想を示さむとするの時代、仕方なきことゝ思ひながら、亦た即座に異を申上げた篤胤大人の見識も瞠目す可きところありと敬服すべし。

 ・・・續く。
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by sousiu | 2011-12-06 20:20 | 先哲寶文

これだけ書くなら「天地無辺」やれ、と?

 昨日は横濱で行はれた、先輩某氏の忘年會に參加。
 大行社諸兄も來られ、そのなかに木川君がをり、彼れと時對協忘年會に於て、中斷された意見交換の續きを行なつた。
 野生は、「民主主義」を全面否定してみても其の後の展開をみないことから、先人がやつてのけた、儒教の日本化に倣ひ、一層のこと民主主義を進化させて日本化を達成すべきとの意見だ。
 木川選手は民主主義を政治の枠内に止め、活用し得るところは善用す、併しあくまでも個々の觀念から社會に至るまで擴大的に利用し且つ影響されてはならない、といふ意見だ。・・・違つたかな。
 勿論、御互ひに試論の域を出でぬものであつて、進んで研鑽してゆかねばならない。だが、未熟なれども、かういふ意見交換は非常に樂しい。他には崎門學や荻生徂徠の話しなどで盛り上つた。
 あツといふ間に二時間が過ぎてしまつた。會場の皆はゲストである歌手や物眞似に耳目を貸して、又た拍手を投じてゐた・・・やうな氣がする。冷靜に考へてみればクラブで行なつてゐる忘年會に、淺見絅齋先生や荻生徂徠、民主主義の話に夢中になるつて、今思へば、一寸、ヤバいだらう。
 だが、ヤバいのは木川君だけであつて、野生は全然ヤバくない。何せ、この話しを挑んできたのは彼れだからだ。野生は付き合うたに過ぎない。さう云へば先日、某所で三澤浩一先輩が仙臺市の坂田君と野生を民族派の變人と云うた。だが三澤先輩は誤解してをられる、坂田君のことはともかく。
 昨日にしても、慥かに第三者から見れば、野生が木川選手に六ケ敷い話しを付き合はせてゐるやうに映つたかも識れない。けれ共、耳を澄ませば、彼れの方が野生をリードしてゐたこと何びとにも諒解せられるであらう。飛車に睨まれ、出來得可けんば、先輩の面目なぞもう如何でも宜いから、投了したいとさへ思うてゐたくらゐだ。
 最近の野生に友人が減り續けてゐる其の最大の理由は、陣營内で野生を變なヤツだと、誰れしもが薄氣味惡くなるやうな噂を流す御仁があるからではなからうか。でないとするならば、あとは政府の陰謀だ、苦笑。



 さて。早速、昨日の續きを記したい。
 奇しくも、數日前、田中光顯伯のことを記した。
 伯の、御陵に關する意見を抄録したい。

●昭和四年『伯爵 田中青山』(田中伯傳記刊行會發行)に曰く、
『(田中青山)伯、曾て歴代の御陵墓巡拜の志あり、公務多忙のため其の志を果さゞりしが、明治三十六年夏寸暇を得、即ち八月十八日東京を發し一ケ月餘の日子を費やして京都、大阪、奈良、丹波、和歌山等の各地に出張し、五百有餘の御陵墓を歴拜した。歸來其の所感を述べて曰く。

「余は多年御陵墓巡拜の素志ありしも公務多忙なるを以て、暑中の休暇を利用せんとせしが、毎年殆んど無休暇の爲め、其の志を果さゞりし。然るに三十六年夏期圖らずも大命に接し、八月十九日帝都を發し、京阪地方に於ける五百餘個所の御陵墓を歴拜せり。
~中略~
 抑も山陵の事たる、政權、武門に歸せし以來、頽■(土+已=き、たいき)に委するの概ありしと雖、徳川氏に至り、綱吉將軍の時、細井知愼の議に基き、大に修造を加へ、民間にありては、松下見林の前王陵廟記の如き、蒲生君平の山陵志の如き、上下の注意を怠らざる所なりき。當時余が歴拜せる所其の詳細に至りては、僅少時間の悉す所にあらず。
~中略~
 謹んで惟るに、我皇室歴代、山陵の事たる宗教上の根據以外、要するに、皇子孫をして列聖の宏謨を欽仰し、且髣髴として當時の形勢を追想せしむるにあり。故に其修理の方針に關しては、必ずや一定の主義に法り、濫りに古制を變更して徒に外觀を裝はんとするが如きは最も採らざる所なり。且つ夫れ天災地異は測るべからず、不祥の言なりと雖、假令如何に壯麗なる陵墓と雖、何ぞ一朝壞頽の變なきを保すべけんや。此を以て徒に多大の費用を投て其外觀を美にせんよりは、如かず總て其當時の制に從ひ堅牢摯實を旨とし、一は以て萬民懷徳の情を導き、一は以て列聖儉素の風を示さんには。特に況や歴史は生ける事實なり。一朝陵墓の變あるも、二千五百餘年來國民の胸に生ける列聖の威烈は萬世赫耀として到底泯滅する能はざるなり。余は平常此意見を持し、當時の巡拜に就ても終始茲に留意し、歸京後、此點に附て特に詳細に奏上せり。試みに見よ彼の楠公碑の如き、壯時余が京攝往來の際に在つては湊河畔萋草離々たるの間に建て、轉た當年の情勢を追懷せしも、今や四圍俗臭紛々たるの裡に在りて亦た殆んど懷古の情を惹く能はざるにあらずや。偉人傑士の碑の如き、至大の影響を風教の上に及すものに至ては、其の修理に關して特に意を注がざるべからざるなり。我郷國の偉人、武市瑞山先生の墳墓は長岡郡吹井村(現在三里村)に在り。往年其の修理の議起るに及で、或は其の規模を改擴し壯麗なるものとなさんとするの説ありしも、余は固く之を贊せず。唯だ相當の修理を施し、別に當時の同志二十餘名と倶に瑞山會を組織し、以て其の事蹟編纂に着手し、今や既に成るを告ぐるに至れり。余が家の墳墓の如きも亦世俗の顰に倣へば、今日の境遇に從ひ應分の修理を加へ得ざるにあらざるも、余は徹頭徹尾如上の主義に據り唯だ古來の情況を變ぜざるの範圍に於て堅牢の修理を施せるのみなりき

 げに山陵修理の議は勤王思想の勃興と共に志士、學者の間に唱道せられたる所にして、彼の蒲生君平の山陵志をはじめ、川路聖謨、淺野梅堂、平塚飄齋、水戸烈公、戸田忠至、谷森善臣等が是に就て熱心なる努力をなしたことは人の知る所であるが、伯が繁劇なる公務を割いて此行に上つた其の意知るべきである』
 と。
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by sousiu | 2011-12-05 17:26 | 先哲寶文

前王廟陵記  

●『勤王文庫 第三集 山陵記集』(大正十年七月廿日「大日本明道館」發行)の序に曰く、
『帝王の葬、山の如く、陵の如し、故に山陵といふ、とは、律の謀大逆の疏義に出て居る説で、今日現存の山陵を見ても、實に此説の通で、往昔朝廷に於て、如何に帝王の葬を重んぜられたかゞ、推知せられる。隨て、古昔の陵制は嚴重なもので、帝陵は申すに及ばず、皇族の御墓、さては外戚の墓さへ、守戸陵戸を置いて、守護せしめ、朝には諸陵寮を設けて管理せしめ、又年終毎には荷前奉幣の制もありて、陵墓其物も中々宏大なものである。然るに世移り物替り、政權は朝家の手を離れ、社會の風習も大に變化を來し、剩へ足利氏の季世、苅菰と亂れて、神宮さへ、皇居さへ、頽破するも、容易に修理出來ざる程で、懷ふも語るも涙の種となる有樣、陵墓の事などは、何處に在るやら、如何の状態に成果てたやら、更に知る人も無いやうな次第で、誠に恐懼の至で有つた。
 然るに大運轉換と言はうか、窮すれば即ち通ずと申さうか、元和寛永の頃より、世態漸く太平に歸し、國民も平和的氣分を味ふやうに成つた。時勢の暗遷默移といふ事は、恐ろしいもので、諸種の廢典も復興せられるやうになり、長い間、世人の念頭に浮ば無かつた山陵の事なども、逐々注意を惹くやうになり、松平直政や、曾根吉正の如く、荒陵を修理する人もあり、又黒川道祐などの如く、墳墓調を爲す人も現はれて來た。元祿時代と言へば、偃武以後既に七八十の星霜を經て、平和的氣分は益々濃厚となり、文藝も復興し來り、從來兔角圓滿を缺いて居た朝幕の御間柄も大に緩和せられたのも、一原因であらう歟。民間のみならず、幕吏の間にさへ、山陵の事を憂ふる人が輩出した。松下秀明や、細井知名、知愼兄弟の如きは、其翹楚である』と。



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●元祿九年、平安城、西峰山人 松下見林翁『前王廟陵記序』に曰く、
仁賢天皇の聖敕に曰く、忍んで陵墓を壞らば、誰を人主として、以て天の靈を奉ぜんと。藤原ノ吉野の諫言に曰く、山陵は、猶宗廟のごとし、縱し宗廟無くんば、臣子何の處をか仰がんと。誠なるかな其の訓や。是を以て、謀つて山陵を毀るは、八虐の一に處す。律の原(ゆる)さゞる所。兆域陵地陵戸守戸を志し、兆域の内には臣庶を■(草冠+死+土=ソウ)埋し、及び耕牧樵採することを得ずとは、令式の急務なり。荷前祈祷の禮、其の遠を追ふの心、貴ぶ可く法る可きのみ。此の如く善政備れりと雖、盜賊陵を發(あば)く者絶えず。況んや、 皇綱紐を解くに及び、諸陵司職を廢して、人をして犁きて田園と爲し、壑に完柩無からしむるに至る。余、微賤なりと雖、之を思ふ毎に涙を草莽の袖に沾す』と。見林翁の悲憤、則はち忠良臣民餘すところなく共有するもの也。恐懼に堪へぬ心、必竟するに在朝在野の別はなし。

●『前王廟陵記 卷之上』、畝傍山の東北(うしとら)の陵は畝傍橿原の宮にあめのしたしろしめせし 神武天皇の項に曰く、
東北の陵は百年ばかり以來壞ちて糞田と爲し、民其田を呼びて神武田と字す。暴汚の所爲痛哭すべし。數畝を餘して一封と爲し、農夫之に登るも恬として怪と爲さず、之を觀るに及びて寒心す。夫れ 神武天皇は、神代草昧の蹤を繼ぎ、東征して中州を平げ、四門を闢きて八方を朝せしむ。王道の興、治教の美、實に此に創まる。我國君臣億兆當に尊信を致すべきの廟陵なり。澆季此に至る、噫哀い哉』と。聽くにも讀むにも耐へ難し。見林翁による、山陵の、明らかにせんとするの志、後世の吾人をして猶ほ感謝するところありとせねばならぬ。

●仝、高野の陵は平城の宮に御宇せし 稱徳天皇の項に曰く、
『大和國添の下の郡に在り。兆域東西五町、南北三町、守戸五烟。
續日本紀に曰く、神護景雲三年八月丙午、高野天皇を大和の國添の下郡佐貴の郷高野の山陵に葬ると。
今按ずるに、御陵山の西北の陵、若しや是か。往年、人有り此陵を發き、陵中の財を奪ふの黨身腫れ苦死す。觀者恐れて財を本の處に還すと云ふ』と。尤、神罰なり也矣。

●『前王廟陵記 卷之下』、二條院の項に曰く、
『~中略~ 二條院の御墓は、舟岡の北の麓に在り。所謂香隆寺の艮の野といふは是か。上に五重の石塔有り。近世茶を嗜む千の利休九輪を取りて、己が塔と爲し、聚光院に立て、又塔の穿■(上「穴」+下左右「瓜」)める處を手水鉢と爲す。幾くならずして利休禍に逢へりと』と。是れ又た利休の切腹、梟首、成る可くして成つた末路と看取す可し歟。



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 愚案。『前王廟陵記』によつて端緒を得た山陵の研究は、以降、細井知愼翁著『諸陵周垣成就記』、昨日述べた蒲生君平翁の大著『山陵志』、本居宣長翁著『菅笠日記』、伴林光平翁著『野山のなげき』、北浦定政翁著『打墨繩』、谷森善臣翁著『山陵考』などゝゞの名著大作を世に呈することゝなつた。
 當時、交通手段に惠まれてをらず、無論、道路の整備も造されてをらず。且つ乏しき情報の中で御歴代御陵の實地踏査するといふのは、至難を極める業であつたこと考へるに六ケ敷くない。深山幽谷、山道も凡そ獸道の如くあり、外燈なぞある筈も無し、車はおろかコンパスすら無い。研究が進むに從ひ、前王廟陵記をはじめ、記載された御陵に誤りあることも發見されてゆくのであるが、それは寧ろ當然と云はねばならぬもので、見林翁も地下で諒としてゐるに違ひない。
 固より野生は、地理や考古學に就ては無智同然であり、よつて山陵に向けられた先人の努力と研究から學ぶことゝは、その動機たる可き、皇祖皇宗を仰ぐの志であらねばならないとする。


●『山陵記集』序の末尾に曰く、
『終に一言して置かねばならぬ事は、是等の著書は皆單に山陵其物を學術的に研究するといふのではなくて、畏くも宗廟に準ずべき、歴代の帝陵が、徒らに荒廢を極め、或は耕されて田畠となり、僮僕牛馬に汚され、或は棺槨の、盜兒に破壞せられて、露出すといふやうな恐れ多い状態にあるのを憤慨して、自ら措く能はず、陵墓修理の急を絶叫して、天下に訴へたので、其消息は書中に散見する。之を讀む者も、山陵の智識を得ると同時に、勤王心を鼓舞策興せらるゝことであらう』と。




 餘談ではあるが、昨日は愛倭塾の山口秀明會長が御内儀と共に來訪。
 また變はつた人が來た。御内儀はとても素晴しい人なのだけれど。
 因みにヤフーの辭書で『奇人』と調べてみると、奇人とは、
 一、性格や言行が普通とは異つてゐる人。變人。
 であるとの由。
 先日、時對協の總會で、山口秀明會長の副議長再任が決定した。
 時對協は奇特な人が多い。その副議長たるの山口會長、單に偏屈者としての奇人であるのか、それとも蒲生君平先生の如き偉大なる奇人であるのか、憚りながら興味の盡きないところである。愚案、變な名前を名乘つて可愛い後輩の日乘を荒してゐる場合ではない。
 
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by sousiu | 2011-12-04 14:53 | 良書紹介

平成の奇特な人たち  

 一昨日は時對協の總會竝びに忘年會があり、參加。もう一年が過ぎるのかと思ふ。
 時對協も年々人や團體が増えてゐるが、氣が付けば變な人ばかりとなつてきた。
 この日、新しく、『國賊天誅新聞社』の社主である、渡邊俊幸氏も加盟。
 この人は天下を家としてゐる脱藩人。おそらく名實共に野生の先輩となる可き御方だ。尤も野生の場合、望んで河原家から脱藩するわけではないのであるが・・・吁。
 兎も角、又た一人、奇特な人が入つて來た。

 定例會も忘年會も各地方から同志が上京し、おほいに盛り上つた。野生の坐る前は木川智選手。右は國信隆士選手。右斜め前は坂田昌己選手。左は壁なので、挾み將棋で完全に動けなくなつた「歩」の状態だ。
 彼れら三者はいづれも己だけは常人だと思うてゐるやうだ。特に勘違ひも甚しく思ふのは、坂田選手である。彼れにはいくら親切懇到に説明しても、自分がマトモだといふ認識を改めない。寧ろ、職場でも飲み屋でも自分が人氣者であると信じて疑はない。
 彼れは仕事着のまゝで宮城縣から新幹線に乘り參加。中絞めが終はつてまた仙臺に歸るのだといふ。それは感心であるが、何となく、巧く説明出來ないが、普通ではないことだけは確かである。
 彼れは誰れも聞きたがらない結界の話しをし盡して、そして歸つて行つた。



 さて。『寛政の三奇人』と呼ばれる人がある。
 高山彦九郎、林子平兩先生と、そして蒲生秀實先生の御三方をいふ。
 今日は蒲生秀實先生に就て觸れたい。尊皇の志高き先生は、蒲生君平の名で知られる。

●蒲生先生、能く能く同志に語るに曰く、
『君は八平のことを知つてゐるか。佛法が神洲に入つてから、帝王の葬も亦火葬を以て禮とする。八平は平安に居て、魚を賣るを業としてゐたが、後光明帝の儒學を崇んで佛法を擯け給ふに及んで彼は、火葬の舊例に從ふ事を恐れ、火葬は先帝の意に非ずと云つて泣々公卿に告げ歩いたので朝廷も即ちその儀を止めるに至つた、一魚賣りでありながら尚よくその力によつて帝の神魂を安んじ奉る事が出來たのだ』と(「勤皇烈士に學べ」昭和十八年八月卅一日「建設社」發行)


●「蒲生君平全集」編者、三島吉太郎氏の曰く、
『(蒲生)先生は初め鹿沼の鈴木石橋と云ふ先生に就いて經學を修め、忠義の狗となるとも亂離の人とならずの志を抱かれ、早くより國史舊記を渉獵して古學を興すの心に燃えてゐた
 ~中略~ かくて先生は九志の編述を思ひ立たれたが古の山陵多く荒廢して、その跡すら定かでないものがあるのを慨嘆され、まづ山陵志から着手されたのだ。爾來先生は古圖舊記を參考として、自ら各地を歴巡されたが、先生は貧しかつたので先づ金策で頭を痛めねばならなかつた。先生が親戚に金子十兩の借用方を依頼した書簡が舊宇都宮藩主戸田家に所藏され俗に「柿餠の手紙」と云はれてゐるが、これなど縷々百言、終ひには自分の如きものに金を貸與するのは「是亦天下第一の義擧に御座候」と迄書いて一讀、その赤誠に打たれるものがある』と。※括弧及び括弧内は野生による。


●「維新の史蹟」(昭和十四年六月一日「星野書店」發行)に曰く、
『歌人小澤蘆庵のもとに寄寓した彼(蒲生翁)は、この老歌人より厚き知遇を得て、その厚情の下に仕事(「山陵志」の著述のこと)を進めることを得た。日々山陵を踏査し、暑熱の中を汗にまみれて歸る君平のために、蘆庵が自ら湯を沸して汗を拭はしめ、彼の辭退を許さなかつたとの逸話は、老若彼等二人の交情の美はしさとともに、蘆庵自身の尊王への敬虔さを床しく偲ばしめるものがある。また傳へていはく、一日君平が酒氣を帶びて子の刻(十二時)に至つて漸く歸宅したが、彼を信頼することの厚かつただけに蘆庵の甚しい憤激を買はねばならなかつた。しかしそれに對する君平の辯解は「山陵の搜査を續けて歩き廻るうちにたまゝゝ等持院に至り、足利尊氏の石塔を見出し、逆臣尊氏への憤恨たへがたく杖をもつて鞭ち、懲虐叱咤せしも餘憤なほ去らず、酒をあふるに至つた」と、直情徑行の彼の性格をもつともよく語る好個の逸話であらう』
 而して曰く、
『彼は遂にその死に至るまで世人に容れられず、晩年は專ら著述の中にわづかにその慰めを見出してゐたが、文化十二年七月五日不遇のうちに江戸に歿した。「君平傳」に馬琴は評していふ「奇人にして世事に疎く候ゆゑ、知らぬ人そしる人多かりし」と。推移流轉する時代の歴史の潮流の中に見る時、彼の生涯は來るべき新日本誕生の、維新革命の機運への伏線としての一存在に過ぎなかつた。しかしながら多彩奇行を極めた彼一個の人生は、異端視の中に終始した悲運なりし英雄の一生であつたが、彼が半生の意力を注ぎ粒々辛苦して大成せる「山陵志」は、なにゝも増して報ひられざれし彼生前の名譽を、後世の人々に求めて憚らぬものがあるであらう』と。※仝。

 先月、蒲生秀實先生の著する『山陵志』を拜讀。
 去る夏、大阪の志賀智仁君宅に泊まつた際(餘談であるが、この志賀といふ友人も又た奇特な漢である)も、一度讀んだのであるが、六ケ敷く、容易に解する能はざるものであつた。けれ共、その後、御歴代の御追號を覺えてから、再び讀んでみると、今度は案外親しみ易く、比較的解することが出來た。
 御陵に就て造詣を深めたく、更らに『勤王文庫 第三集 山陵記集』(大正十年七月廿日「大日本明道館」發行)を購入。
 昨夜は松下見林翁の『前王廟陵記』を拜讀した。こちらの方が、淺學非才の野生には入り易い。馬齡を重ねる四十一、遺憾ながら中々頭に入らなくなつてきてゐる・・・。
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by sousiu | 2011-12-03 22:54 | 報告

義信塾  

 今度び、市村悟兄が所屬する、義信塾が家頁を再開したとの由。
  ↓↓↓
  http://www5.hp-ez.com/hp/gishin123/page8
 市村兄の苦心作。・・・か如何かは識らないが。
 兔に角、苦勞の蹟がところゞゝゝに覗へる。

 義信塾は神奈川縣維新協議會の議長を務められる中村憲芳塾長が主宰する行動右翼。是非、御覽あれ。
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by sousiu | 2011-12-01 14:38 | その他