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西野文太郎烈士  

 西野文太郎といふ人があつた。
 長州藩士であつた西野義一氏の長男。慶應元年の生まれだ。
 肉體的には貧弱そのものゝ彼れは、一方では片意地なところが多分にあつたとか。
 友人から、膽力家、勤皇家と云はれると、得意になつた、と傳へられてゐる。(參考文獻、『大事件祕録』昭和十二年十一月廿七日「錦正社」發行)

 明治廿二年二月十一日の午前八時頃、時の文部大臣、森有禮が大臣官邸に於て暗殺された。
 刺客は、廿五歳の西野文太郎氏であつた。西野氏はその場に居合せた文部七等屬、座田重秀の仕込杖による三太刀を受け、漸く首の皮一枚を殘し、絶命した。

 森有禮は極端な歐化主義者だ。慶應元年、十六歳の時、藩主島津公の命を受けて倫敦に留學。その後、米國にも渡航。耶蘇教にも強い關心を抱くやうになり、而、日本人を未開と蔑した。明治十九年十二月、文相になり各縣を巡視、學校に招かれて訓話するに曰く、『日本人は、人に對して敬禮するのに、二度も三度も、頭の地に付くほど馬鹿叮嚀な敬禮をするが、頭を餘計下げる竸走をしてゐたら際限がない。あゝ云ふ時間潰しの虚禮を廢して、唯一囘だけ輕く下げる位にした方がよい。大體文明人はあゝ云ふ敬禮の仕方はしないもので、これから外國と交際するには、日本の未開な風習は徹底的に改良しないといかん』と説いてまはつた。
 遡れば、維新直後の廢刀論は、この森が口火を切つたものである。又た當時結成された輕薄極まりなきモダンボーイの結社「明六社」も又た、森が中心人物であつた。ほかにも「國語外國化論」の首唱者でもある。
 そんな森に纏はり、伊勢神宮不敬事件が新聞紙面を賑せた。森が伊勢の皇太神宮に於て、不敬ををかしたといふものである。これは後々、デマであるとの説も浮上するが、眞僞のほどは瞭然としない。ともかく森が斯くも新聞社に疑はれるべく、同時に、その報道が讀者に容易に信じられるべくした人物であり、西野氏の義憤忽然として燃え上がらせる理由としては充分であつたことは間違ひあるまい。
 斯くして義擧は、出來するべくして出來した。
  參考、◆◆刺客 西野文太郎の傳◆◆ ↓↓↓↓
  http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781850/1


 『大事件祕録 第四篇』(仝)に掲載される、村雨退二郎氏の記述が興味深い。
 曰く、『明治の刺客と云へば、大抵相當腕の立つ人間が多く、從つてその對格等もガツシリとしたのが普通であるが、西野は身長僅かに四尺九寸、よほど小男の方だ。その上平常からあまり健康の方ではなく、友人と腕押しをやつても一番弱く、劍道等も出來なかつた。その點では明治十五年に板垣を刺した相原尚聚と共に、刺客中の例外に屬してゐる。
 併も相原は絶好の條件の下に於て三度刺して遂に致命傷一本も入れることができなかつたのに反し、恐らく體力に於ては相原以下であつた彼が、唯一刀で森有禮を死に致したといふのは、殆ど奇蹟に近いと云つて好い位だ。
 その意味では、西野は明治維新暗殺中に、類例のない特異な刺客であつたと云ふべきだらう。多くの刺客は、勿論對手の隙を狙ふことに變りはないが、西野の如く進んで敵を欺いて敵に虚を作らせ、それに乘じて一擧に之を仆すといふほどの狡智を働かした刺客は餘りこれを見ない。
 のみならず、彼は自分の體力といふものを充分に測つてみて、到底正面から刀を揮つて斬り懸つても成功しない事を心得てゐたにちがひない。彼は前から立向はないで、横から飛懸つた。人間は前後に進退することは自由だが、横に動くことはあまり得意ではない。そこに虚がある。西野は森の腰を掴み、下腹部に出刃庖丁を突刺し、然も一刀必殺の意氣込みで、打たれても蹴られても離さず、背部に刃先が突き拔けるまで抉り續けた。恐るべき執拗さである』と。


 こは、氏の信仰するものが正に涜されむとする、その純々然とした怒りの發現に他ならない。西野烈士のみならず、山口二矢烈士も、小森一孝烈士による所謂る「風流夢譚事件」も、政治鬪爭や思想鬪爭の範疇に留めて置く可きではない。
 西野烈士は、宮城前を通り掛かると、決まつて、地面に平伏して拜禮したので、友人から「立つて最敬禮する法もあるのに、態々高山彦九郎みたいな事をして着物を汚さなくてもよいぢやないか」と云はれたといふ。
 信仰心を如何に考へるかはそれゞゝあるとしても、かうした至誠至純の心がより嵩ずるの折、まゝ時代の變革を促進させることは、吾人は歴史の上からも否定するわけにはいかない。明治維新の原動力が、神道に無關係でないことは説明するまでもない。

 先般、京都市にある高山彦九郎先生像に、白ペンキを投げた癡漢がゐるといふ。單なる惡戲であるか何であるのか野生に知る由もないが、地元の住民をはじめ高山彦九郎先生を崇拜する有志としてみれば、物質的損害に猶ほ倍して餘りある心情的悲痛を感ぜざる能はざることは拜察するまでもない。
 世は閉塞の感止み難く、人心汲々以て世知辛く、このやうな世相であるからこそ、日本人は科學萬能熱より頭を冷やし、信仰するの心を見直さなければならない。
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by sousiu | 2012-01-24 01:21 | 先人顯彰

虎穴に入つて來ました。  

 昨日は、渡邊文樹氏の映畫を鑑賞。而して、會場で氏と大行社・木川智兄とで鼎談を行なつた。

 意外な企畫だが、これは渡邊氏の申し出によるもの。木川兄も野生も、何ぞ逃げる理由やあらん。いざ、だ。
 愛倭塾の山口、平田兩先輩、大行社湘南支部の仲村女史、銀杏結社(休眠中)河野全責任者も應援に來てくれた。

 野生は、渡邊氏のみならず、今日所謂る反日、反天■を叫ぶ者の殆どは、國賊ではないと信じてゐる。
 では、何か。彼れらは日教組教育や、戰後の誤れる歴史觀の犧牲となつた、未だ皇國の民たる自覺に至らざりし歴とした 天皇の赤子だ。
 野生のなかでは「國賊」とは、敵に與へる最上位の呼稱だと思うてゐる。例すれば、曾我入鹿、弓削道鏡、足利三代などは十分、さう呼ぶに相當する。而して、勤皇家たるもの、これら國賊を認めたとき、如何なる態度を以て接すべきか。そは口舌の徒に齊しき野生が語る能はず、それこそ歴史を開けば、先達が御自らが行爲して、吾人に教へてくれてゐる。
 一方、未だ至らざる人には如何に接すべきか。尊皇家は、既にそれ丈で皇國民としての教師たるべき資格を有してゐると野生は解釋する。資格と云はずんば、自覺だ。よつて兩者は、教師と生徒にも似た關係であると結論する。尤も教師がさうであるやうに、時には叱責せねばならない。時には懇々と説かねばならぬこともあるであらう。どれだけ、皇國臣民として名教師となり得るか、それが又た、日教組教育の汚染擴大を食ひ止める重要な一つであるとも思ふのだ。

 ところで、恥づべきことに右翼の名を用ゐつゝ、マスコミ受けを狙ふ(つまり大衆迎合)のあまり、誇りを捨て、未だ至らざる者の發言に淺はかな同意と理解を以て接する曲學阿世の徒がある。匹夫の勇ならぬ、婦人の仁だ。が、このテの手合ひは、教師たるべき資格を自ら抛棄した者と看做して宜いだらう。抑も、皇國臣民としての、教師たるべき資格を有してゐるのかどうかさへ、野生は怪しむに遅疑しない。
 野生は少年時代、恥ずかし乍ら、學業あまり振はず、持病である面倒臭病が頻々發症して學校も行つたり行かなかつたりであつた。そこで見たものは、教師に二者あり。我れら持病持ち一團に阿る者と、熱血教師との二者だ。今にして前者は名すらも忘れてしまつたが、後者は今も尚ほ鮮明に覺えてをり、成長するにつれて感謝することも少からず、ある。


 さて。渡邊氏には、日本の將來を考へるとき、何故に反天■でなければならぬのか、先づ訊ね、彼れによる冒頭の挑撥的發言にも一切心惑はされず、後半は木川選手と共に忌憚なき意見を呈した。
 野生は、一般に「反天■」を訴へる人達は、もう少し 天皇と皇國史に就て、學ぶべき必要があることを述べた。
 以下は渡邊氏に向かうて云ふのではないが、野生の識る限りに於て、反天■と云ふ人には、總じて歴史的認識が不十分であるといふ弱點を持つてゐる。率直に云へば、大凡、大東亞戰爭批判=先■批判=反天■(野生はこれにも十分な批判を加へたいが今は措く)でといふ思考的作用であつて、列聖に就ては殆ど、知識不足と云はむよりも、無知に均しい。であるから野生の如き淺學輩ではなく、研學を重ねた硬骨漢の尊皇家のまへでは、いとも簡單に論破されてしまふであらう。固よりそれ丈、造詣を深めむとすれば、殆どの者は思想的轉向を餘儀なくされる。左翼から右翼に轉向 -いや“歸結”といふべき、歟- する者は多いが右翼から左翼に轉向する者のほゞ存せぬことがこれを一層物語つてゐる。
 も一つ云へば野生は、「天皇制」といふ言葉も概念も認めない。 ↓↓乞ふ、御一讀。
◆◆呼稱「天皇制」なる言葉の本質。◆◆ http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/2

 君民一體の國體は、制度などてふ人工的なものではない。「皇國の眞相」と「天皇制概念乃至理念」の距離は、あまりにも遠い。亂暴に云へば、水油相合せざるの如くに齊しい。よつて、皇國の闡明には、「天皇制」の概念は無用の長物である。さういつた意味では野生も、謂はゞ「反天皇制」の立場だ。説明するまでもなく「反皇國」ではない。然も彼れらは決して「反皇國」とはいはない。日本が、皇國であると、逆説的に認めてしまふことを懼れてゐるのであらうか。或いは、天皇赤子としての本能が、それを口にさせないのであるか。「反天皇制」といふ概念の蒙昧に就て渡邊氏からの反論は無かつた。鼎談を締め括るに際して氏は、我れら二人の意見には、同意しかねるところ少なしとせない旨、申してゐたが、さりとて聽く耳がないでは無かつた。氏も、決して狹小な視野で滿足する人ではなささうだ。客席からヤジの一つでも飛んでくるかと思うたが、案外(・・・と云つたら失禮だ)、聽者も紳士であつた。決して廣いといへない會場であつたが、渡邊氏の宣傳が巧みであつたらしく、會場は滿席。この雰圍氣にあつて木川選手はまだ若いのに、實に堂々として持論を展開してゐた。天晴れなる哉。


 映畫の新作に就ては・・・、十年に一度、映畫を觀るか觀ないかの野生に問ふだけ、無駄だ。
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by sousiu | 2012-01-23 09:54 | 報告

歌道講座  

 今日は、歌道講座へ。二ケ月に一度の樂しみだ。
 和歌は和(こた)ふる歌である、と。歌を通じて學ぶところ多く、野生の樂しみは單に歌の添削のみとしない。 固より、こゝ歌道講座の主旨が、單なる歌に於ける技術的な成長のみを以てよしとするところではないのである。

 今度び、「天」に選ばれた秀歌は、木川智兄のうたであつた。

 木川智兄の哥
 ふるさとの 駅降り立てば 息白く 永き家路も あと僅かなり

 彼れは二首を詠んだのであるが、いづれも良い歌であつた。



 因みに野生も二首を詠んだ。

 壽ぎて 九重仰ぐ 民草の ひたすらにして 絆は深し

 お年玉 せがみし吾娘(あこ)の 面影も 今はなつかし 着物(はれぎ)すがたに

 何だか、半年前、和歌のことに就て何も知らなかつたころを考へると、下手ながらもからうじて詠むやうになつてきた。赤面。

 餘談であるが、眞由美先生の添削と、福永武兄の添削は、ほゞ同じ箇所で同じ内容であるといふ。
 歌の世界では流派といふのか何といふのか分らないが、それを正統に受け繼ぐといふことは、かういふことなのかも識れない。それは偏狹で、窮屈な考へ方といふことでない。自分の信ずる流派に屬するうへで、むしろ當然とさうなつてゆくものなのであらうと思ふ。しかるに、影山正治先生の志操は、今猶ほ面目躍如し後世の我れらに影響を及ぼされてをられるのである。逆言せば、正統なる繼承者の存在ありて、吾人は、影山先生の志操に接すること叶ふのである。
 同樣に、それは、信仰、思想の世界でも云へる。
 況んや、日本人としての、敬神 尊皇に於てをや、だ。
 時代と共に人が變はることは認めても、日本人としての節操や面目が變はつてはならない。


 大東會館を後にして、木川選手と乃木神社社務所二階で行はれた『維新公論會議』に參加。
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by sousiu | 2012-01-21 20:43 | 報告

おはやう、ぢやないよ、おやすみなさいだよ。 

 毎月、依頼されてゐる『芳論新報』の原稿をたゞいま脱稿。
 締め切りを大幅に延ばしてしまつた。汗顏。

 今囘を終へて、連載から算へると漸く廿囘だ。大體、毎囘が四百字詰め原稿用紙を九枚から十枚。これから芳論新報社事務所にフアクスして、布團に入り、假眠して又た出發だ。

 先月だつたか、大阪の志賀智仁君に「山陵志に就て書かうかな」と呟いたところ、當日乘で「山陵志」を記したことを識つてゐる彼れは「禁じ手ではないか」と云はむばかり、苦笑してゐた。怒。
 だが、さうも口にしたくなるほど、書くに苦惱する時がある。正確に言を用ゐれば毎月、毎囘・・・かも。

 嘗て、籍を置いてゐた弊社々員が月刊機關紙を發行してをり、ネタ(といふのが適切かどうか解らぬが)に盡きつゝあることで、苦々たる心境を漏せたことがある。野生はこの言に對して一丁前にも説諭したものだ。
 野生の云はむとしたことは、かうだ。
 反日政策や反日發言がある際、筆意雄健、墨痕淋漓となるのは宜しとしても、これらが出現せぬ時に書くに惱むといふことは如何なるものか。それでは反日が活性すれば共に活性し、反日が沈默すれば均しく沈默するといふことに他ならない。紙面が面目躍如ならんとする爲めには、心の知らざる何處かで、反日的言動を欲してしまふからして、實に怪しからん。畢竟、右翼といふも左翼といふもそれは戰後史觀といふ胴體に於ける、腹背の干繋ではないか、と。

 以前、福永武道兄と、これに似たやうな話題となつたことがある。兄曰く「然り、それは負の祈りともなつてしまふのだから」と。さすが、兄ならではの答へだと思つた。

 固より左翼の對義語が右翼であるといふのは、それは固有名詞の別から考へるならば、なるほど、さう云へなくもないが、決して反日活動家あらねば尊皇家あらぬ、といふことではない。
 以前、東西冷戰構造も終はり暫らくして、野生は、陣営の外堀の住人から、「左翼が停滯し右翼も存在意義を失つたでせう」と意見されたことがあつた。全く見當違ひも甚しい。だが、若しも野生の側に、見當違ひをされる理由があるといふ御指摘を受けるのであれば、そは今でも眞摯に受け止めるつもりである。




 目立つた反日的話題がなくとも、記さねばならぬことは山の如くあるし、それに困るのであれば、別段時局を論じるに急ぐ必要も無い。ひとり心しづかに歴史を繙き私見を發表するも宜し。近眼視が良いといふものでもなし、ものごとを大觀、我が道を檢證するも宜し、だ。
 いくら神國と雖も、無論、衰微はある。しかし滅亡はない。終末思想に捉はればこそ焦燥にはしりがちだ。だがそれも義侠心あるが爲めに生ずる正義感だ。故に苦情をいふつもりは無い。たゞその貴き義侠心も正義感も、より神國に對する確信が加はり終末思想を捨て去れば、さらに光輝を増し有効なる力となること疑ふべくもない。
 
 ともあれ、さうした二人との會話を思ひ出し、脱稿後の解放された氣持ちを堪能しつゝ、珈琲を飮んでゐる。結局、野生もまだゝゞ未熟だといふことだ。


 ん?福永氏?さうだ、今週は「歌道講座」があるのだつた。・・・また産みの苦しみを味ははねばならない。

 取り敢へず、おやすみなさい。
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by sousiu | 2012-01-18 08:44 | 日々所感

惡書紹介 「米國教育使節團報告書」 

 承前。

 如何に當時の占領軍が、國字の表記改惡に熱意を注いだのであるか。

 『米國教育使節團報告書』(第一次)は、第一章「日本の教育の目的及び内容」から第六章「高等教育」に分けられてある。その内の一つ、第二章を、「國語の改革」として設けてある。彼れらがどれだけ、國語表記の改造に意を逞しくさせてゐたか、この一事を以て識る可し、だ。

 抑も、米國教育使節團とは何であり、何の目的を抱いて日本を訪れたか。報告書より拔萃しこれを知らむとす。
●第一次 米國教育使節團報告書(昭和廿一年三月卅一日)「前がき」に曰く、
『本年(昭和廿一年)一月の初めに連合國軍最高司令官は、日本の教育に關する諸問題につき總指令部竝に日本の教育者達に助言を與へ、かつ協議するために二十名餘りの米國の教育者の一團を約一ケ月間日本に送つて貰ひたいと陸軍省に要求した。長期間にわたつて日本を再教育して、その方向を向け直すやうな計畫を立てる責任があるといふことについて、當時ワシントンで議論が交されてゐたので、陸軍省はその團員の最後的人選を國務省に頼んだ。個人の資格その他廣い範圍にわたつて種々な點を考へた末、更に總指令部の意向も十分取りいれて、二十七名の一團が選ばれ、ヂヨーヂ・D・ストダード博士が團長に任命された。~以下略~』と。※文中、括弧及び括弧内は野生による、以下同樣。

●仝「序論」に曰く、
『米國教育使節團は、元來聯合國軍最高司令官によつて提案されたものである。その來朝は多くの自由主義的な日本の教育者に希望を抱かしめた。これら聯合國軍の要望と民間の期待とを結んで、我々は歴史的な重大時機に嚴肅な氣持をいだいて來朝したのである。我々は、征服者の精神を持つて來朝したのではなく、すべての人間には、自由を求め更に個人的竝に社會的發展を求める測り知れない力がひそんでゐることを確信する教育經驗者として、來朝したのである。
 しかし、我々の最大の希望は子供にある。事實彼等は將來といふ重荷を擔つてゐるのであるから、重い過去の遺産に押しつぶされてはならないのである。そこで我々は、過つた教授をやめるだけではなく、子供達の心情を硬化させることなくその心を啓發するやうに、教師や、學校やの準備をして、できる限り公平に機會を與へてやりたいと思つてゐる。~中略~
 結局において國民は、國民自ら自由にならなければならない。自由は自由の實行からのみ生ずるのである。もしも禁止的指令(學科及び教科書の改惡を指す)の必要を認めない人々があるならば、我々は彼等に次のことを思ひ出させてやれると思ふ。即ち新しい教育の下にあつては、日本人は最早してはならぬ事はほとんど無く、むしろ大いにしなくてはならぬ事が何千となくあるといふことである。彈壓(戰中以前の日本のことを指す)の諸條件を除き去ることが、人間の精力を開放することなのである。「人のさまたげとなるものを除去すること」が、これが禁止の狙ひである。長い歳月が經つてみれば、それは却つて鎖を解いてやつたものとして、その眞正な姿を認められるであらう』と。

     
 さて。報告書中にある、戰後の國語表記改惡といふ一大痛恨事を惹起せしめた文章を、徳富蘇峰翁「近世日本國民史」の筆法を眞似て順次、下記に抄録す。(出典『文部時報』第八百三十四號、昭和廿一年十一月十日發行)

●仝、「第二章 國語の改革」に曰く、
『日本の子供達に對して我々が責任を感じさへしなければ、これに觸れずにゐた方が愼み深くもあり氣樂でもあつてよいと思ふ問題に、こゝに當面するのである。言語は國民生活に極めて密接な關係をもつた一つの有機體であるから、外部からそれに近よることは危險なのである。しかしこの密接な關係がまた專ら内部から行はうとする改良をさまたげてゐるのでもある。何事にも中間の行き方があるが、この場合それは立派な中庸の道になるであらう。國語の改良はどんな方面から刺戟を受けて著手してもいゝが、その完成は國内でするより外にないことを、我々は知つてゐる。我々が與へる義務があると感ずるのは、この好意の刺戟であつて、それと共に、未來のあらゆる世代の人々が感謝するにちがひないと思はれるこの改良に、直ちに著手するやう現代の人々に大いに勸める次第である。深い義務の觀念から、そしてただそれだけの理由で、我々は日本の國字の徹底的改良を勸めるのである』と。
 これがGHQ側の自分で取り繕うた立場だ。彼れらは、あくまで、日本にとつて懇切であり、親身なる保護者と云はむばかりだ。だがそれ、眞相は慈善ではなく、僞善だ。詐欺師は詐欺師の言辭を發する能はず。然も、彼れらの僞善は、此の日に始められたるものではない。それ、終戰及び東京裁判然り。況んや開戰及び其の過程に於てをや。

『日本の國字は學習の恐るべき障害になつてゐる。廣く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に過重の負擔をかけてゐることは、ほとんどすべての有識者の意見の一致するところである。小學校時代を通じて、生徒はただ國字の讀方と書き方を學ぶだけの仕事に、大部分の勉強時間を割かなくてはならない。この初期數年の間、廣範圍の有用な語學的及び數學的熟練と、自然界及び人類社會に關する主要なる知識の修得に充てられるべき時間が、この國字習熟の苦しい戰ひのために空費されてゐるのである。漢字の讀み書きに過大の時間をかけて達成された成績には失望する』
 これは全く御節介な申し分だ。しかのみならず、獨斷と偏見に滿ち、凡そ事實に反してゐる。つまり彼れらの調査では、日本の學生は漢字と假名を覺える爲め、小學校の教育過程に於ける大半の時間を要せねばならぬ、と。無學の野生が中年の硬化しかけた腦味噌で、完全とは云ひ難くあるも正統表記を解した事實を鑑みれば、福田恆存翁の言に俟たざるも、この調査は事實に反してゐること明瞭に過ぎると云ふものだ。蓋し、この調査が、名義のみのものであるといふことを自白したやうなものである。いづれにせよ、彼れらは我れらに手を差し伸べると云はんか、手を加へる丈の理由を陳列した。

『小學校を卒業しても、生徒は民主的公民としての資格には不可缺の語學能力を持つてゐないかも知れない。彼等は日刊新聞や雜誌のやうなありふれたものさへなかなか讀めないのである。概して、彼等は現代の問題や思想を取扱つた書物の意味をつかむことができない。殊に、彼等は卒業後讀書を以て知能啓發の樂な手段となし得る程度の修得さへ、でき兼ねる(難ねる、の誤り乎)のを常とする』
 これも彼れらによる當時の日本の教育に對する觀察眼だ。固より、我れらが要人乃至は關係者も、この一方的な報告に首肯するよりほかは仕方が無かつたであらう。尤もその理由は、侵掠者の日本の教育に對する觀察が正鵠を射てゐたからではない。侵掠者の鋭利な眼光で觀察されてゐるのは自分達の反應と態度であるといふことを充分認識してゐたのだ。

『中等學校に入學する十五パーセントの兒童にとつても、依然として國語問題は解決されぬ。これら年上の少年男女は、相變らず國字記號の修得といふ果てしない仕事に骨を折るのである。何れの近代國家に、かやうなむづかしい時間のかかる表現と傳達の、ぜいたくな手段を用ひる餘裕があるであらうか。
 國語改良の必要は、日本においてすでに長い間認められてゐた。著名な學者達がこの問題に多大の注意をはらひ、政論家や新聞雜誌の主幹をふくむ有力者の中には、實行可能な方法を種々研究したものが多い。約二十に上る日本人の團體が、今日この問題に關係してゐるといふことである。大體において、三つの國字改良案が討議されつつある。第一は漢字數の制限を求め、第二は全然漢字を廢止して、ある種の假名を採用することを要求し、第三は漢字も假名も完全に廢棄して、一種のローマ字を採用することを要望する』
 愈々彼れらは彼れらの本旨を露出せしめた。彼れらが好む順序は、モア、ベター、ベストだ。精しくはこの場合、第一よりも第二、第二よりも第三だ。

 本旨を暴露せしめた彼れらが、次に披露したるは本音だ。
『これらの諸案(三者擇一のこと)の中、何れを採るべきかは、容易に決定することができぬ。然し、史實と教育と言語分析とを考へあはせて、使節團は、早晩普通一般の國字においては漢字は全廢され、そしてある音標式表現法が採用されるべきものと信ずる。かやうな表現法は比較的修得に容易であり、また全學習過程を大いに簡便にするであらう。この表現法によつて、辭書、カタログ、タイプライター、ライノタイプ機、及びその他の言語補助の用法が、簡單になるであらう。更に大切なことには、この表現法によつて日本の大衆は、藝術、哲學、科學、及び技術學上の自國の文書中に存在する知識と智慧に、一層親しみ易くなるであらう。それはまた日本人の外國文學研究を容易ならしめるであらう』
 いくらなんでもこの助言(の名を借りた強制)には無理がある。タイプライターが使ひ易くなるから、自國の言語表記を一切やめて、一層のこと羅馬字表記に變へた方が宜いといふ。何んなに高額な羽毛布團を賣り附ける惡徳營業人でも、これほどいゝ加減な親切言を用ゐることはあるまい。

『漢字といふものの中に存するある審美的その他の價値が、音標法では到底十分に表はせないといふことは容易に認められる。然し、一般の民衆が國の内外の事がらに良く通じて、はつきり意見が述べられるやうになるべきであるとすれば、もつと簡便な讀み書きの手段が與へられなくてはならぬ。統一された、實施可能な計畫の完成には、時日を要するではあらうが、然し今こそ著手の好機であると思ふ。
 使節團の判斷では、假名よりもローマ字に長所が多い。更に、それは民主的公民としての資格と、國際的理解の助長に適するであらう』
 小さな親切大きなお世話と云はんよりも、全く迷惑千萬な話しだ。加へて吾人の憾むらくは、占領下に乘じて、戰前より棲息した一部の羅馬字論者が、頭を擡げ來たつたといふことだ。

 さて、鐵面皮たる米人は益々その面の皮を厚くと申さんか、固くした。而して當時の我れらは、やはり、俎上の魚たるの立場を認めざるを得なかつた。曰く、
『必然的に幾多の困難が伴ふことを認めながら、多くの日本人側のためらひ勝ちな自然の感情に氣付きながら、また提案する變革の重大性を十分承知しながら、しかもなほ我々は敢て以下のことを提案する。
一、ある形のローマ字を是非とも一般に採用すること。
二、選ぶべき特殊の形のローマ字は、日本の學者、教育權威者、及び政治家より成る委員會がこれを決定すること。
三、その委員會は過渡期中、國語改良計畫案を調整する責任を持つこと。
四、その委員會は新聞、定期刊行物、書籍その他の文書を通して、學校や社會生活や國民生活にローマ字を採り入れる計畫と案を立てること。
五、その委員會はまた、一層民主主義的な形の口語を完成する方途を講ずること。
六、國字が兒童の學習時間を缺乏させる不斷の原因であることを考へて、委員會を速かに組織すべきこと。餘り遲くならぬ中に、完全な報告と廣範圍の計畫が發表されることを望む。
 ~中略~ 今は國語改良のこの重要處置を講ずる好機である。恐らくこれ程好都合な機會は、今後幾世代の間またとないであらう。日本國民の眼は將來に向けられてゐる。日本人は國内生活においても國際的關係においても、新しい方向に動きつつある。そしてこの新しい方向は文書通信の簡單にして效果的な方法を必要とするであらう。また同時に、戰爭が多くの外國人を刺戟し、日本の國語と文化を研究せしめてゐる。この感與を持續せしめ、育くまうとすれば、新しい書記法を見出さなくてはならぬ。國語は廣い公道たるべきもので、障壁であつてはならない。世界に永き平和をもたらさんとする各國の思慮ある男女は、國民的な孤立と排他の精神を支持する言語的支柱は、できる限り打ちこはす必要のあることを知つてゐる。ローマ字採用は、國境をこえて知識や觀念を傳達する上に偉大な寄與をなすであらう』と。
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 危機一髮、かくも累卵の危機に晒されながら、日本に於ける羅馬字表記は囘避された。
 米國が日本人に對して、終戰以前の歴史との訣別を熱望したことは固より明白だ。
 なほ、桑港條約締結後、國内では、當然起り得る可きことゝとして正統表記を復元させようとする運動が高まつた。されど惜しい哉、實る能はず。これには樣々な要因が擧げられようが、主なる理由として、日教組ら教育者による脅迫的反對運動があつたことを吾人は忘れてはならない。だが、それ以上に忘れてはならぬのことは、當時、俎上の魚となるも國語を守らむと螳螂の斧を揮ひ戰つた人たちのあつたことだ。我れらは國語といふ文化防衞の恩人である彼れらに對して、啻に我れらの爲めと云はんよりも、寧ろ日本の爲めに敬意を表さねばならぬ。

●福田恆存翁、『私の國語教室』(平成十四年「文藝春秋」發行)に曰く、
かうして幾多の先學の血の滲むやうな苦心努力によつて守られて來た正統表記が、戰後倉皇の間、人々の關心が衣食のことにかかづらひ、他を顧みる餘裕のない隙に乘じて、慌しく覆されてしまつた。まことに取返しのつかぬ痛恨事である。しかも一方では相も變らず傳統だの文化だのといふお題目を竝べ立てる、その依つて立つべき「言葉」を蔑ろにしておきながら、何が傳統、何が文化であらう。なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか』と。

●市川浩氏、仝、「解説」に曰く、
『敗戰後一年半にも滿たない昭和二十一年十一月十六日、「現代かなづかい」と「當用漢字」(以下、新かな・新字と略記)が内閣告示として制定された。此の日は日本國憲法の公布から十三日目に當り、時を同じうして憲法と國語といふ、國と民族の根幹に重大な改變が、加へられたのである。此の結果、日本は、それまでとは全く異る國家、種族へと變容した。此の半世紀の間、變容は成功したかに見えた。しかし同胞の努力で實現した繁榮もバブルの崩潰と共に束の間に消え去つた今、あの變容の中には聯合軍の企畫した「日本弱體化」も組込まれてゐたのではなかつたか、其の原點の再吟味と辨別が、民族の再生のために要請されてゐる』と。
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by sousiu | 2012-01-17 19:18 | 良書紹介

國語の正統を守る民族派有志の會  

 本日は、新宿區の御苑倶樂部で行はれた、第一囘『國語の正統を守る民族派有志の會』(呼び掛け人、中村信一郎、森田忠明先生)に參加。
 大變、有意義な會であつた。
 森の中では木の葉も隱れる。こゝでは、最早、野生は變はり者ではない。それどころか、參加者はみな、正假名、正漢字の識者。教はることばかりであつた。千兩、千兩。

 當日常で再三再四述べたが、野生は國語の正統表記は傳統護持であり、つまり國防であり、翻つて野生の主張そのものであり、思想そのものである。或る人の曰く、『讀まれなければ意味がない』と、正統な表記が敬遠されることを顧慮するが、敬遠を惧れるならば『國體護持』『皇運扶翼』『承詔必謹』といふことばは總じて、馴染みがない熟語といふそれ丈の理由で、結局は敬遠される。よし、かくなる上は、それをも避けて、簡單明瞭なるこれらの熟語を用ゐず、くどゝゝしくとも普段使用する言葉を組み合せて訴へるとしよう。だが、それで本當に大衆が、復古維新の理想に同意するのか。左まで云はずとも、戰後民主主義を頭から捨て去る能ふのであらうか。
 若しも、我れらの啓蒙が今日、效果なきと云はぬまでも、牛歩遲々と思ふのならば、それ、原因は云ふまでもなく理想が間違つてゐるのではない。固より、今は馴染みがない熟語を用ゐてゐるからでもない。況して占領國語表記(戰後表記)を用ゐてゐないからでもなんでもない。國民の生活に、社會に、斯くなる理想も熟語も正統表記も疏遠となつたが爲めである。而、だからこそ、我れらの運動の必要性が存する。抑も我れら國民は、當時の米國教育使節團や現在の日教組による國語改惡計畫に與する可き理由が無い。
 肝腎なことは、その發信者たる我れらが確乎たる自信を持つことである。それなくして、熟語に、若しくは正統表記に責めありとせば、日蓮の如きに笑はれてしまふことは避けられまい。好むと好まざるは別にせよ、彼れらは「南無妙法蓮華經」と唱へることをやめず今に至つたのだ。
 現代の萬人が我が理想を嘲笑せんとも、上記熟語に苦笑せんとも、國語の正統表記に笑止せんとも、この理解を得られるまで妥協せず、自信と確信を以て善導せむとするの信念が、啓蒙者には問はれるのである。

 ことに興味深き御意見として、一參加者の曰く、是非はともあれ猶太があれだけの力を逞しくさせた一因は、國なくともみな、言葉を忘れず大切に護つて來たことである。一方、領土あれども自國の言葉をおろそかにした民族は頽廢し、やがて滅びる、と。例として埃及はじめ他國や、或いは歴史的にも論證されてゐたが、不覺にもこゝで説明出來るほど、記憶に自信が無い。汗。

 さても隣席の福田邦宏先輩、またゝゝ變態的發言を述べる。このまゝ放つておくと、神代文字のことまで云ひ出しかねず、よつて割つて入つた。お許し、いや、感謝していたゞきたい。

 ともかく、かうした研究や論議する會合があることは宜いことだ。
 ちよつと視野を轉じてみれば、なるほど、色々な運動がある。
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by sousiu | 2012-01-16 23:41 | 報告

・・・・で、義公。  

 林道春の曰く、
『論に曰く、東山の僧、圓月(字は中巖、中正子と號す、剏めて妙喜庵を建つ)嘗て日本紀を修む。朝議協はずして果さず。遂に其書をやく。余、竊かに圓月の意を惟ひ、諸書を按ずるに、日本を以て呉の太伯の後となす。夫れ太伯荊蠻に逃れ、髮をたち身を文し、交龍と共に居る。其子孫筑紫に來たる、想ふに必ず時人以て神となさん。是れ天孫日向高千穗峰に降るの謂ひ乎』
『想ふに其れ大己貴、長髓彦は、我邦古昔の酋長にして、神武は代はつて立つ者か、嗚呼姫子の孫子、本支百世、萬世に至つて君と爲るべし。亦た盛ならずや。彼れ強大の呉、越に滅ぼされると雖も、而も我邦の寶祚は、天地と與に窮りなし。余是に於て、愈々太伯の至徳たるを信ずるなり。設し圓月をして復び生れしむるも、余の言を何とか謂はんや』と。

 恐る可き哉、道春は先に名を記した愚僧、中巖圓月による皇祖泰伯説の信服者だ。然も徳川幕府初期に於て、この説は國中を驅け巡り、世人を信じて疑はせなかつた。況んや幕府の御用學者どもに於てをや。
 されど圓月は吉野朝時代にのみあるものではない。最近では小澤一郎の如く、騎馬民族云々と兔角、魔説を國内外に廣告する徒輩がある。固より道春もひとり安土桃山の時代に生を享くるものではない。そして、日星のごとき臣下の分があることも識らぬ御用學者は、江戸時代ばかりに逞しくするものではない。




 昨日は時對協定例會があつた。その後の懇親會に於て、期せずして、小田昇氏より、中巖圓月の話題が出された。大阪の志賀氏より、髮長に就て同志の忌憚なき意見を乞ふとの申し出があつたことが因となしたのである。
 小田氏は自稱、病人だ。憂國病を患つてゐるといふ。廣島縣より上京した國信氏と病人同士、肝膽相照らすものがあつたか、終始、崎門學に就て議論を重ねてゐた。鳥取縣の中上氏にあつては、神代の話題。
 健全且つ極めて常識人の野生はと云へば、久々に參加された平澤次郎翁の隣で、翁による苦言の集中砲火を浴びてゐた。翁の出費を少しでも抑へんと獻策したことにも御説教。韓非の「韓非子」も、平澤翁の「酒」には全く齒が立たないとみえる。固より酩酊した翁の折角の苦言も、野生の耳にかゝつては右から左だ。これが、健全且つ常識人の應對だ。
 何にせよ、時對協の懇親會は上記が如く、病人による熱辯と泥醉先生による御説教と醉拳。十數名の懇親會參加者があつたが、この空氣のなか、たれ一人としてAKB48の話題を出すの勇者はなかつた。心ゆくまで可愛い後輩に説教を浴びせて滿足し、併せて、自らを病人であると告白し些かも憚らぬ時對協會員は、今後時對協の門戸を叩く者が、おそらくさうはをるまいことを承知しておかなければなるまい。



 ところで道春は幕府の命により、彼れの三男坊である春齋と修史編纂事業に著手、寛文十年、「本朝通鑑」を完成させた。
 水戸の義公、この折り、登城。休所に入るの時、執政某に本朝通鑑をもたせ一讀す。
 この時の樣子を安藤爲章翁の「年山紀聞」(文化元年)から識らむとするに、曰く、
時に公(義公のこと)一、二卷(本朝通鑑のこと)を電覽ましましければ、天朝の始祖は、呉の太伯の胤なるよし書きたるに、大に驚かせ給ひて曰く、抑も是は如何なる狂惑の所爲ぞや、唐土の史、後漢書以下に、天朝を姫姓のよししるしたるは、往昔亡命のもの、あるひは、文盲の輩など、彼處に渡りて、杜撰の物語せしを、彼方のものは、眞にさなんと意得て書き傳へたるなり。天朝には自ら日本紀、古事記等の正史あり。それに反きて、外策妄傳によりて、神皇の統を涜さんとす。甚だ悲しむ可し。昔、後醍醐帝の御時にや、魔僧ありて、此の流の説を書きしをも、制禁ましまして、其の書を焚き捨てられしとかや承る。かの厩戸皇子のころは、學問未熟ありしかど、日出處天子、日歿處皇帝と書きて、同等に抗行せられしぞかし。呉太伯の裔と云へば、神州の大寶長く外國の附膺を免かれ難たからん。されば此の書は、醜を萬代に殘す事と云ふべし。早く林氏に命じて、此の魔説を削り、正史の儘に、改正す可きなり。さは侍らぬかと給へば、尾紀の二公にも、うなづかせ玉ひ、執政の人々も、御確論に感伏せられ、梓行を止められ侍りぬ』と。

 あゝ、痛快なる哉、痛快なる哉。これにて本朝通鑑の出版は中止となつた(しかれども大正時代に至り、刊行をみる)。

 固より義公と云へば「大日本史」編纂といふ一大事業を發起した稀代の偉物であり、それ、啻に水戸のみならず、皇國中興の大恩人である。然も義公の本道の偉大は、大日本史編纂の一事にみるべからず。水戸が徳川御三家の一であるにも關はらず、猛烈なる 尊皇忠義の臣であつたことに他ならない。
●蘇峰 徳富猪一郎翁曰く、
『何れにしても光圀の一喝(上記のこと)は、日本國史の、主要なる大問題を解決して、餘りありと云ふも、過言ではなかつた。爾來我が 皇祖を以て、呉の泰伯とし、若しくは夏の少康とするが如きは、消滅し去つた』と。


 圓月も道春も御用學者も現代に栖息、氾濫する。無論、政財官界内部もこの例外とせない。野生は只管らに義公の如きひとりの出現を懇祈せずんば已まず。
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by sousiu | 2012-01-13 13:50 | 日々所感

意識革命の先達者、山鹿素行先生  

 斷つておかねばなるまいが、野生は、近年の保守層が總て似て非なる可しであるとか、或いは不見識であるとか云うて徒らに中傷するものではない。
 然るにても戰後の保守派陣營に、純然實直なる尊皇家が少くなつてきた事實は事實として認識す可きである。サンケイの如きを日本マスコミの良心と看做していさゝかも憚らぬ保守派の多くあることが、それを語つてゐるやうなものだ。
 尤も正統保守、良識派の全員が壇上より撤退したとは思はれない。或いは妖しげな自稱保守派が跳梁跋扈し大手を振つてゐるので斯く感じるのか、野生は精しく識るものではない。いづれにせよ、その一部の眞正にして生粹の有志が、今猶ほ螳螂の斧を揮うてゐることもまた見逃す可からざる事實である。

 保守を自認する人達が街頭に出てきて數年がたつ。彼れらは幟やプラカードを持ち、デモ行進に盛だ。自らを「行動する保守」と云ふ。憂慮に堪へぬ者、おのれの身を書齋の前に措くも安する能はず、街頭に出でて時には憂憤の一語も發せんとする氣にならうと云ふものだ。不安定な御時勢であれば、當然の成り行きだ。
 一方では、これまで街頭を主戰場としてゐた行動右翼が、克苦精勵、勉強に專心する者も増えてきた。何だかあべこべで面白い。
 行動右翼には熱血の士が多い。犧牲的精神も旺盛だ。驚く可き哉、贊ずる可き哉。事業に專念すれば屹度成功したであらうと思はれる人が財を惜しまず運動に時間も私財も惜しまず投じ、或いは平穩無事に生活してゐたにも關はらず一念發起憤然蹶起して囹圄の身となつた御仁も少くない。その爆發的な瞬發力や不屈の精神力、犬馬の勞も厭はぬ繼續力は、時に巨大な岩をも動かす。かうしたエネルギーの持ち主が、更らに思想、見識、理論などを研磨し保守派の論壇に加はつた時に、それ期待するところ大と云はねばなるまい。而もさうした熱血人士が研學は、いつまでも机上の理屈や書齋的空論に止る能はず。元來が活動主義の資質を有してゐるわけであるから、街頭以外の活動の場も新らたに開拓する能ふこと必至である。

 野生の道友や後輩も、志學の氣概を逞しくする人が増えてきた。圖南の翼を持した彼れらから野生は教はること決して少なしとせない。
 以謂くは戰後世代各々が、不可抗力として植ゑ附けられた戰後史觀、日教組史觀から自らが脱却を實現し、而、江湖にその呪縛からの解放を呼び掛けるものでなければならない。それ一ト口に“勉強”とは云うてみても、自己に根付いた日教組史觀を木っ端微塵にするまでには、中々大變な作業だ。一々名前を列擧することは控へるが、日乘を拜讀する限りに於て、試行錯誤や苦學の跡が伺へる人があつて、まことに敬意を表するものである。
 已んぬるかな、今に云うても仕方なきことであるが、戰後の教育界がもつと確りしてをれば、この分の勞力は、少からず省略出來た筈なのだ。

 それを考へたとき、先人は進んでゐることが識れる。およそ四百年前、已に山鹿素行先生は、徹底とした日本第一主義の信念を抱き、日本を以て「中華」「中國」とさへ明言してをられる。
 比して今、日本の保守を自稱し乍ら、支那を中國と尊稱し躊躇はず、あまつさへ耶蘇暦を愛用する人ら少からずあるをみるに、野生が冒頭の言に至るも決して無理からぬ觀測であると諒せられよ。


山鹿甚五右衞門先生、延寶三年『配所殘草』に曰く、
我等事以前より、異朝之書物を好み、日夜勤め候ふて、近年新渡之書物は存ぜず、十ケ年以前迄、異朝より渡り候ふ書物、大方殘らず一覽せしめ候ふ。之に依つて覺えず、異朝の事を諸事宜く存じ、本朝(即はち、皇國のこと也)は小國故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出來候ふと存じ候ふ。
此の段は我等ばかりに限らず、古今之學者、皆、左樣に心得候ふて、異朝を慕ひ學び候ふ。近頃初めて此に存じ入り、其れ誤りなりと知り候ふ。耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てゝ遠きを取り候ふの事、是非に及ばず。誠に學者の通病に候ふ。詳らかに中朝事實に記し候へば、大概を爰に記し置き候ふ
』と。(原文は漢文。括弧は野生による)

 素行先生の茲に云はれる「異朝の書物」を、所謂る「權利」であるとか「民主」であるとか畢竟するに西歐の思想と置き換へて現代を觀察すれば如何。誰れか、素行先生の、ひとり舊き御苦情と一笑する者あらむ。


 又た曰く、仝
『本朝は、天照大神之御苗裔として、神代より今日まで、其の正統一代も違ふ候ふこと之無く、藤原氏補佐之臣まで、世々斷えずして、攝■(「竹冠」+録=ろく)之臣相續き候ふの事。亂心賊子之不義不道なること之無く候ふ故なり。是れ仁義之正徳甚だ厚きなる故にあらずや。次に神代より人皇十七代迄は、悉く聖徳の人君相續あり。賢聖の臣補佐奉りて、天道の道を立て、朝廷の政事、國郡の制を定め、四民の作法、日用衣食、家宅、冠婚葬祭の禮に至るまで、各々其の中庸を得て、民やすく國平らかに、萬代の規模立ちて、上下の道明らかなるは、是れ聰明聖知の天徳に達せるにあらずや。況んや武勇の道を以て曰はば、三韓を平げて、本朝へ貢物をあげ、高麗を攻めて其の王城を落し入れ、日本の府を異朝に設けて、武威を四海にかゞやかす事、上代より近代迄然り
本朝の武勇は、異國までも恐れ候え共、終ひに外國より本朝を攻め取り候ふ事はさて置き、一ケ所も彼の地へ奪はるゝ事なし。されば武具、馬具、劍戟の制、兵法、軍法、戰略の品々、彼の國の及ぶ處にあらず。是れ武勇の四海にまされるにあらずや。然れば、智仁勇の三は、聖人の三徳也。此の三徳の一つもかけては聖人の道にあらず。今此の三徳を以て本朝と異朝とを、一々其の印を立て校量せしむるに、本朝遙るかに勝れり。誠にまさしく中國といふ可き所、分明也。是れ更に私に云ふにあらず。天下の公論也。上古に聖徳太子ひとり異朝を貴びず、本朝の本朝たる事を知れり。然れ共、舊記は入鹿が亂に燒失せるにや、惜しい哉、其の全書世に顯はれず』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ。括弧は野生による)


●遡ること、寛文の九年、素行先生、『中朝事實』序文に草して曰く、
『~略~ 愚生、
中華(皇國のことなるべし)文明の土に生まれて、未だ其の美を知らず、專ら外朝の經典を嗜み、■(口+「謬の右側」=かう)々其の人物を慕ふ。何ぞ其れ放心なる乎、何ぞ其れ喪心なる乎。抑も妙奇なる乎。將た尚異なる乎。夫れ
中國(しつこいやうだが、皇國のこと)の水土、萬邦に卓爾し、而して人物は八紘に精秀す。故に神明の洋々、聖地の綿々、煥乎たる文物、赫乎たる武徳、以て天壤と比す可き也』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ)



 嘗て林道春(羅山)といふ痴れ者があつた。道春は徳川の御用儒者だ。而、骨髓まで汚染された慕夏主義者だ。道春は、我が相模國の痴漢、廉恥も教養も將た又た神罰をも識らぬ中巖圓月なる僧が主張したる「天□中國人説」に同調した腐儒者の極はみだ。
 しかしながら斯くの如き道春が、幕府御用學者の權威を擅恣したその一事實を以て、如何に當時の學問が歪みに淫してゐたか察せられよう。當時幕府による嚴しい統制下にあつた時代を鑑みれば、今日の日教組の影響と同日の論ではあるまい。
 素行先生は弱冠九歳にして、この道春の門下に遊んだ。されど聰明なる素行先生は、克苦求學を累ね、遂に道春と當時瀰漫してゐた支那崇拝思想、事大主義に一大斧鉞を加へた。
 素行先生の學統には後の吉田松陰先生あり。松陰先生の高弟に維新の傑物が續出したことは何びとも識るところである。



●蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 徳川幕府上期 下卷 思想篇』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)に曰く、
『彼れ道春は、我が 皇統を以て、或は呉の太伯に、或は夏の少康に繋いでゐる。而して彼が此の思想は、彼の子春齋の、本朝通鑑を編するに至る迄、蹈襲せられ、日本の始祖を、呉の太伯の胤と特筆するに至つた。
 惟ふに道春父子の此の思想は、必ずしも史實に根據したる、確乎たる見解にあらず。唯だ其の胸中に充滿したる慕夏思想よりして、斯く判定したるものであらう。是れ尚ほ今日の日本に於て、故らに白皙人種を崇拜するの餘り、日本人を以て、異色人種にあらず、白皙人種なりと云ふの類であらう。而して素行の中朝事實は、此の慕夏思想に向つて、一大正面攻撃を與へたものである。素行は單に日本と支那とは、水土の殊なるが爲めに、支那流儀を、その儘日本に應用す可からずと云ふに止まらず。直ちに日本を以て、中華とするものである

 又た曰く、
後來、會澤安(正志齋)の新論の如きも、其の感化を、一般社會に及ぼしたる點は、中朝事實に比して、數倍乃至數十倍なる可きも、其の日本第一主義、日本至上主義の鼓吹者としては、固より此の中朝事實に、數歩乃至數十歩を讓らねばなるまい。彼の前にも、彼の後にも、諸般の思想を把持した者はあつたに相違ない。然も未だ彼が如く張膽明目して、之を闡明、論究したものは無かつた。此點に於ては、彼れ山鹿素行は、確かに同時代の第一人者であつた』と。

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by sousiu | 2012-01-11 01:22 | 先人顯彰

有志の誰れか文運の興隆を願はざる  

 昨日、神奈川縣維新協議會、海法文彦兄との雜談の折り、兄が『少年日本史』を購入したことを聞いた。
 云ふまでもなく、『少年日本史』は、平泉澄先生の著述による全國民必讀の書。哀しむべき哉、戰後から現在に及び保守派言論界は、戰前に比して 皇國史觀を考究、堂々たる氣概もて江湖に發表する人も激減したやうであるが、古本と雖も一代の碩學、平泉先生の書籍が流通してゐることは吾人の感謝措く能はざることである。而、今猶ほこれを求める人士のあるといふその一事を以てして、亂麻の如き世にあつてせめてもの慰めならむといふよりも、轉じて 皇國の將來に希望が持たれるのである。
●九段塾「平泉澄博士遺文」↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t9/l50
●仝「さあ、『少年日本史』を讀みませう!」↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t34/l50

 又た本日は、廣島縣の病人・・・、ぢやない(書き間違ひ、失敬)、賢人國信隆士兄より電話を賜はる。
 聞くに、兄は古書肆を巡り、錦陌講堂 淺見絅齋先生の『靖獻遺言』を求めたが、何處にも置いてゐない。仕方なく某書肆の主に頼み、やうやく入荷の聯絡を受け入手したものゝ、そは板本にて解讀する容易ならざる代物とのこと。されど斷念することなく、今度は法本義弘先生の『靖獻遺言精義』を注文したとの由。國信兄、落掌の日を鶴首、待望してゐるのだ、と。

 はからずも兩兄の入手せる書籍は、共に山崎闇齋先生を祖とした崎門學に縁り深かりし書。
 崎門の學は明治維新と到底切つても切り離せぬ干繋であり、兩兄のみならず野生も又た淺からぬ關心を抱いてゐるものだ。
 
 にはかに原點囘歸といふ言葉を耳にすることが増えて來た。陣營の友人からだけではない。凡ゆる分野に生きる者に、原點囘歸が叫ばれんとしつゝある。固より野生も、大晦日に記した如く原點囘歸を志す一人だ。だが、それ野生は時代の變動しつゝあるを以て理由に擧げるのではない。平穩無事な時、乃至は順調の期にはついぞ忘れがちであるが、常に「初心不可忘」「温故知新」は肝膽に銘じておく可き言と心得るが爲めである。況や壁にあたる乃至前途の多難が豫想されるに於てをや。尤も今日、原點囘歸の語が身近に聞かれるのも決して因なきものとせないが。
 そして原點囘歸は、運動を動機付け、理論の根幹を構成する思想そのものにまで及ばんとしてゐる。冒頭に戰後保守の言論人に皇國史觀が減つたことを悲嘆したが、正しく、日本の保守思想それ自體、原點囘歸の要される可きところであらう。

 こゝへきて、崎門學に興味を抱く有志が出でつゝあることはまことに頼母敷きことではないか。
 さう云へば時局對策協議會の小田昇兄が主催する「望楠社」も、淺見絅齋先生の御高弟である若林強齋先生の學舍「望楠軒」を仰慕するゆゑもて名付けられたといふ。

●仝「崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。」↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50



蘇峰學人翁、『近世日本國民史 ー徳川幕府上期 下卷 思想篇ー』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)第十章 「闇齋及び其の一派」項に曰く、
『闇齋の朱子學は、世の所謂る朱子學ではなく、山崎流の朱子學であつた。彼は朱子學を日本化し、併せて山崎化した。そは彼が何等朱子學に就て、特殊の新見、發明を加へたと云ふでなく、只だ彼の人格もて、然らしめた。言ひ換ふれば、彼は朱子學をば、學問界より人間界に引き下した。從來學問は學問、實行は實行と、自から區別してゐたものを、闇齋に至りて、學問即ち實行、實行即ち學問とした。此に至りて學問は、儒者の性理空談に止らずして、人間萬事の規法となつた。而して闇齋は、然かせしむ可く務めた。 ~中略~

 併し若し山崎闇齋の特色、何れにありと云はゞ、其一は、彼が國體觀念の極めて濃厚であつたことに歸せねばならぬ。彼は勤王家として、別に幕政の現状を、顛覆せんとするが如き徒ではなかつた。然も國體觀念に至りては、熊澤蕃山以上にして、山鹿素行と相駢ぶの位置を占めてゐる。 ~中略~

 彼は決して支那を精神的母國として、崇拜しなかつた。彼は儒者であるが、日本の儒者であるとを自覺した。彼の國體觀念は、極めて徹底してゐた。而して彼の勤王思想は、決して現在の幕政に向つて、挑戰する如き、實務的のものではなかつたが、一般儒者流の湯武放伐論には、甚だ不服であつた點から演繹すれば、其の結論は期せずして知る可しだ。 ~中略~

 闇齋彼自身は、只だ君臣の義を明らかにせんが爲めに、此論(下記、①)を作つた。然も此の論旨を推し詰むれば、日本全土皆な 天皇の土にして、日本擧國の人、上は將軍より皆な 天皇の臣たらざるはなき也。彼は遂ひに其處までは、突進しなかつたが、彼の流を酌むものは、遂ひに之に至らざれば息まなかつた』と。
(①)は、『先哲叢談』に掲げられる逸話のこと。掲げんに、『嘗て群弟子に問うて曰はく、方今、彼の邦孔子を以て大將となし、孟子を副將となし、數萬騎を率ゐ、來りて我が邦を攻めば、則ち吾が黨孔孟の道を學ぶもの、之を如何とかなす、と。弟子みな答ふる能はず。曰はく、小子爲す所を知らず、願くば其説を聞かん。曰はく、不幸にして若し此厄に逢はば、則ち吾が黨、身に堅を被り、手に鋭を執り、之と一戰して孔孟を擒し、以て國恩に報ぜん。此即ち孔孟の道なり、と』



 王陽明による「知行合一」の言を誘致拜借するまでもなく、蘇峰翁の言にあるがごとく、必然、崎門學派は學問即ち行動、行動即ち學問となつて、國をも動かさむの勢ひを呈した。水戸學も文武不岐、文武一致を理念とした實學である。
●蘇峰學人翁、同、卷頭言に曰く、
『然も此間(徳川專政時代に於ける學問の興隆と各般思想の擡頭期)に於て、個人として最も記憶す可きは、江戸に於ける徳川光圀と、京都に於ける山崎闇齋だ。光圀は水戸學の開山だ。闇齋は山崎學の始祖だ。此の兩者は、互ひに交渉あるが如く、互ひに交渉なきが如く、而して有心無心の間、遂に維新大改革の鴻業を翼襄するに於て、期せずして、協同一致の力を竭した。
 水戸學の根據は、史學であつた。されど義理の詮議、王霸の區別は、朱子の通鑑網目の説に原くものが多かつた。山崎學の根據は、朱子學であつた。居敬窮理、誠意正心は、其の要目だ。されど其の治國平天下に至りては、必ずや之を史學に原かざるを得なかつた。闇齋彼自身も、日本書紀の編者舍人親王を尊崇した。而して彼も亦た修史の志が在つた。高足の門人淺見絅齋の靖獻遺言に至りては、實に史學を以て經とし、義理を以て緯としたる著述であつた一代の雄たる山鹿、熊澤諸子の説、固より看過す可きではない。されど水戸學と、山崎學とは、一川の中を、一は左岸に副うて流れ、一は右岸に副うて流れ、而して其の水勢の浩蕩、汪洋たるに至りては、一川に充溢して、更に兩岸の外に汎濫するに至つたものと云はねばなるまい。
 吾人は必ずしも、思想方面のみを重視して、他を無視するものではない。されど人類が本能の衝動に驅遣せられて、盲進する場合は兔も角も。苟くも其の自覺的大運動の場合には、必ず一種の確信一種の理想一種の信仰が、之れが主とならねばならぬ事を、歴史的事實の上からも證明する。而して人類の思想を支配する者は、人類の肉體を支配する者よりも、更により有力の王者であるを疑ふ能はぬ』と。※括弧内は野生による。



 三百年の時を經て、決して安價ならざる古書を購入し、戰前囘歸に止る能はざるして更らに己れの信ずる道統を深究せむとする、其の意氣や宜し。
 要するに、海法兄も國信兄も、病人、元へ、變人なのだ。・・・ま、病人と云ふも變人と云ふも、どちらも似たやうなもんか・・・。笑止。
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by sousiu | 2012-01-06 23:31 | 日々所感

同級生以外は面白くない記事です。 

 野生は昭和四十五年生まれ。三碧木星だ。

 ものゝ本によれば、平成廿四年に於ける、三碧木星は、曰く、
『今年のあなたの本命星は「準備宮」にあります。昨年の運氣最低の域からは脱却しましたが、まだ、本調子ではありません。前に進むことだけでなく、左右もよく見て、できるだけ多くの人と會つて會話を交しませう。バツテリーの充電も今年前半で滿杯になります。焦る氣持を抑へてください』と。

 又た、『三碧木星の基本運』に曰く、
『三碧木星の基本的な方位は東方です。東方は太陽が地平線上に表れて天に昇り始める方位です。
 季節は草木の萌え出づる三月を象徴し、春雷の響きのやうに豪氣果敢な氣を有し、陽氣の日光を浴びて、芽を吹き出したばかりの水々しい若木です。
 負けず嫌ひで活動家で、快活で進取の氣質に富み、どんな苦勞もいとはない積極的な人です。周圍の人の好感を呼び、卅代でも人生最大の隆盛期に入り、重要な地位に就く人が少くありません。
 短氣と勇み足の行動を愼めば、サツパリとした人柄が人に愛されて交際も豐かになります。早い時期に、獨立心を持ち、不屈の精神修養を體得すれば、若木の勢ひで出世コースを歩むことは間違ひありません。
 頭腦が優秀だから、カンが鋭く、先見の明があるので、早くから頭角を現す。しかし、繼續の努力が足りないから、中年以降、運氣が沈滯氣味となり、無益な出費で大切な財産を失ふこともあります。氣持の大らかさと包容力が乏しく、狹量な人となりがちなので、清濁合はせ呑むやうな大らかさを持ちながら、對人關係に留意して、人情味のある生き方をしていきませう』
・・・・・だつて。

 因みに、同じ三碧木星の人は、大正十四年、昭和九年、同十八年、同廿七年、同卅六年、同四十五年、同五十四年、同六十三年、平成九年、平成十八年。
 昭和四十五年生まれの場合の今年の指針は、
『精神的に安定と充實を圖る年頃。長年の夢や構想に對する考へを再檢討して整理しよう』と。

 厄年でもあるし、今年は自重することが必要だな。

 同級生は充分、留意す可し。
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by sousiu | 2012-01-03 23:58 | その他