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發送報國  

 備中處士さんから御惠投賜はつた『靖国神社の真実』を二百册、本日を以てほゞ、發送し終はつた。
 一册一册が手作りの封筒だ。これは別に深い意味はなく、啻に紙を捨てることが出來ない性質から、溜まるに溜まつた紙を再利用しただけ。
 氣付けば弊社の分の御本も送つてしまひ無くなつてしまつた。まア、度量の廣い備中處士さんのこと。困つたものだと思ひつゝも數册、改めて御惠送くださるに違ひない。

 以前にも申上げたかと思ふが、野生は街宣車を持たなくなつて久しい。
 街宣車の維持費は馬鹿にならず、野生の體力では到底何臺も維持すること困難となつた。
 されど、その分の費用を、發送費や印刷費(機關紙は現在、止まつてゐるが・・・汗顏)に有用してゐる。
 從つて、誰れから感謝される謂はれもないのである。街宣車で演説を行ひ、抗議をする人も、誰れかから感謝されたくて續けてゐるわけではない。野生の場合、ガソリン代が切手代に代はつただけなのである。
 だがその分の充實感は、ある。
 くだらない雜誌や所謂るビニ本を送る作業ではこの充實感は得られまい。
 これは發送報國の醍醐味だ。然るに、この充實感を與へてくれた泉水隆一翁と備中處士さんには感謝、感謝だ。

 さて、本日、平澤次郎翁より、封筒が屆いた。平澤先生による、發送報國だ。
 例によつて例の如く、裏返しされた封筒だ。野生の封筒の再生利用は、平澤次郎讓りだ。
 平澤先生も文章報國、出版報國、發送報國の御方。このへんも野生、平澤次郎讓りなのかも知れない。
 ・・・ちよつと、待てよ?何か書いてある。
 え~と。なにゝゝ、『◎郵便屋さん、料金が不足でしたら河原からふんだくって下さい。おねがい致します。平沢拝 ◎140円也


 「新約聖書」に曰く、『弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも十分に修行を積めば、その師のやうになれる』と。
 『ルカによる福音書』もまるであてにならぬ。少なくとも、『發送報國』の度量に於て、弟子は師を超えたとみて差し支へもあるまい。
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by sousiu | 2012-02-29 00:48 | 日々所感

『靖国神社の真実』 

 當日乘でも度々御發言を投じられる備中處士樣が、一兵士こと泉水隆一翁の遺稿を鋭意編輯され、今度び、芽出度く、洛風書房より『靖國神社の眞實 ― 靖國神社正統護持のために― 』と題した御本を上梓された。

 泉水隆一翁は映畫「凛として愛」の監督として知られる。
 以謂、泉水翁は「凛として愛」を通じて、靖國神社に對する近年の謬れる國民認識を江湖に匡し、返す刀で戰後史觀を成敗せんとの志であつたのであらう。何となれば、スクリーンの映像のみならず、隨所での御發言、而、インターネツトまでをも活用し「一兵士」の名もて保守系の掲示板に登場し、螳螂の斧を揮はれたことからも、翁の衷情と素志を拜察することが出來るのである。

 有體に云へば、日本の現状は解剖分析に盡されたと思うてゐる。戰後も幾星霜經過したと思ふか。戰後に欠落したるもの、乃至は缺陷したるものに就て、これ以上、詮議するの時間が果たして必要なのであらうか。極言すれば、戰後日本の惡因究明にはひとつの達成をみたと云うても過言にあるまい。
 日教組史觀が日本の將來にとつて益あるなぞと、組合員以外に誰れが信じてゐるのか。否、組合員の激減に齒止めが掛けられないことからも、當該者すら益無きことを認めてゐるのであらう。固より自身の益なきことが主なる原因であるにせよ。
 朝日新聞が偏向報道を行つてゐることも萬承知だ。占領憲法が平和憲法であるのか否かの議論はもう飽食氣味だ。結果は明瞭なのである。民主黨がよいのか、自民黨の方が良かつたのかなどといふディスカツシヨンにも興味がない。東京裁判が裁判に名を假りた日本民族の去勢であつたことは、我れらの先輩が風雨の街頭に立ち、或いは獄中からも發信して國民に訴へ續けてきた。先輩からバトンを託された我々は、その次の工程に著手してこそ後進だ。これからは一轉、これまでの分析に費やしてゐた時間を、囘復の爲め、修正の爲めに積極的に有用することが求められてゐる。
 泉水翁は、屹度、この國民的大自覺に立つ先知者の一人として、日々、御發言を繰り返されてゐたのであらう。それあまりにも翁が先頭に過ぎて、悲しむ可きことに、一部の保守派と稱する後知者達から批判され、甚だしきことゝしては某掲示板で罵詈雜言の集中豪雨が浴びせられた。
 滑稽であるは、批判者の側だ。「凛として愛」と「泉水隆一監督」を絶讚し、その同じ口で「一兵士」を散々批判したのであるから、どうにも保守と自稱する者の中には、妖しむべき者らが雜じつてゐるやうだ。畢竟、本質を見拔く眼力に乏しく、權威に擦り寄ることを好むと云はむばかりだ。そは全くの亂視である。
 その中にあつて、備中處士樣、ほか極く小數の有識者は、その他大勢より睨まれ連累することを承知で、「一兵士」なる人の御發言と志操を終始一貫師事してをられた。そこで誕生したものが『九段塾』であらう。

 泉水翁は既に顯界の住人ではない。されど、今後び刊行された御本を拜讀するに、野生は頁をめくる度び恰も紙上に翁の聲ある心地がするのである。

 巷に保守を自稱する書籍や雜誌が増えてゐる。あれが惡い、これが怪しからん、と、さすがに能く調べてあつて、感心することも少くない。
 しかし、それら憂事や惡事の陸續出來せる因由を突き詰めて、その原因を修復することに務めねば、土龍叩きゲームのそれと何ら變はることはない。野生はくづれた化粧を嘆き、怒り、而して直す、之を以て世直しとは思はない。化粧せなくとも美しき表情になる、これぞ眞の世直しと思ふものである。
 泉水翁の言や、將さに日本人の皮相を修正せんとするものに非ず、血肉骨髓を清淨せんとするもの。
 乞ふ、有志諸賢の御一讀を。
 詳細及び、お求めは下記にアクセスを。↓↓↓

◆◆九段塾藏版『泉水隆一監督遺文――靖国神社の真実――靖國神社正統護持のために――』頒布。
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1509
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●「靖国神社の真実」著者‐泉水隆一、編輯‐玄月書屋主人 有安弘吉、發行‐洛風書房
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by sousiu | 2012-02-26 16:27 | 良書紹介

傳へざるの責は保守派にもあると識るべし。 

 昨日は、木川兄と大洋図書本社へ。
 増刊開発編輯長・高瀬氏と、漫画ナックルズ編輯長・日笠氏との四人會だ。
 終へて、靖國神社を參拜。
 木川兄とは、しよつちゆう、一緒に居るやうな氣がするが、一應、かういふ場合のお約束としてお斷わりしておくけれ共、野生も彼れも○○ではない。

 さて、關係者諸賢に、渡邊文樹氏との對話のDVDを送つたことは既記の通りであるが、昨日本日と、數人から、感想の電話とメールが屆いた。

 皇國の中興を考へたとき、やはり如何しても、『天皇制』概念は大きな障碍だ。
 『天皇制』概念は、何も戰後に産聲をあげたものではないが、ことに戰後教育ではこの概念を殊更ら強調し、然も國家がこの教育を黙認し、爲めに甚大なる皇國眞相の誤謬を戰後國民に與へてゐる。天皇を制度の象徴、皇室を制度の骨格の如きと思はせるこの概念の上では、如何に我れらの御國體の素晴しさを説いても、それは、空しさを伴ふ。

 ○<呼稱「天皇制」なる言葉の本質。>↓↓↓
  http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/2


 かくも危險を孕んだ「天皇制」概念を後押しするものの一つとして、吾人は現行憲法「前文」及び「第一章」を注目せねばならぬ。

 因みに、今は筐底に藏せられたる大日本帝國憲法では、その上諭に宣く、
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ其ノ康福ヲ増進シ其ノ懿徳良能ヲ發達セシメムコトヲ願ヒ又其ノ翼贊ニ依リ與ニ倶ニ國家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ乃チ明治十四年十月十二日ノ詔命ヲ履踐シ茲ニ大憲ヲ制定シ朕カ率由スル所ヲ示シ朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム

国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ

 『大日本帝國憲法』、第一章 天皇 第一條に宣く、
大日本帝國ハ萬世一系ノ 天皇之ヲ統治ス
 仝、第三條に宣く、
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 仝、第四條に宣く、
天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ』。


 而して、『日本國憲法』の前文に曰く、
日本國民は、正當に選擧された國會における代表者を通じて行動し ~中略~ ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲法を確定する
『そもそも國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來しその權力は國民の代表者がこれを行使し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する』と。


 主權在民は、畢竟、天皇制概念を鞏固ならしめる。天皇制概念も又た主權在民の裏付けを擔當する。二者は腹背別つべからざる不二一體の干繋だ。
 皇國を否定せんとする米國が、天皇制概念に目をつけ、主權在民・米國的民主主義の扶殖に利用せんとしたか識るところではないが、いづれにせよ、天皇制なる概念は、皇國の眞相とは凡そ懸け離れた概念である。極言せば、反對を意味する文句だ。他の王國や帝國ならばともかく、永遠不滅たる 皇國に於て、その「對義語」は、蓋し、「天皇制」だ。

 ひそかに野生は思ふ。戰後これほどまでに、天に唾するが如き、自國を貶しめ、詰るところ心空しく生涯を過ごす國民の大量發生するは何故か。結論から云へば、「天皇制」概念を服毒すれば、宜べなる哉、このやうにあはれむべき國民の出沒し跡の絶たぬも、決して無理からぬ話しではない。

 目下、戰後史觀、戰後教育を淫した國民大多數には、「天皇制」概念があまりにも定着し、怪しむべき尊皇論や愛國論、淺薄な反日論が闊歩してをる。出口の見えない論陣を張るのは、右派左派に共通してみられる現代の特徴である。かくなる論理的撞着に陷る所以は、この皇國にあつて、どちらも「天皇制」概念に束縛されてゐるが爲めである。

 愚案するに「戰後史觀」を突き詰めて云へば、「天皇制概念」である。

 かくなれば、右派勢力、眞の保守陣營から、反「天皇制」といふ言葉が發せられるべきである。
 尤も發するにせよ、現下これほどまでに、『日本は「天皇制」國家』といふ概念が定着してしまつたが爲め、誤解を生じさせぬやう當分の間は若干の説明を補足せねばなるまいが。

 今日の反日の者らのなかに、反「天皇制」と叫ぶものらがある。
 新保守も脇が甘いと思はれてゐるやうだが、今日の反日を標榜する者や左翼らも、又た、淺過ぎる。
 「天皇制を何とかしなければいけない」と強烈に思ふの自稱反日主義者は、既に反日の看板を降ろしてゐることを能く々ゝ自覺、分析する必要がある。
 結局は、皆、皇國の臣民、天皇赤子なのである。


 ・・・ところで、若しも、かういつた、反天皇制と云うてゐた人達が論理的にも矛楯を認め、覺醒をきたし、我が陣營と握手したならば、戰後の思想運動は大きく塗り替へられると考へるのは、空想に過ぎるといふもの歟。
 噫。野生にもつと、見識や理論があつたれば、各所に隨時開かれてゐる反日的フオーラムなどに手當り次第赴いて、悉く質疑應答の場を我が啓蒙の土俵に塗り替へ、參加者を覺醒す可く務めるのであるが。已んぬるかな、善導者の資格を備へた、人士の出現を俟つよりほかない。
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by sousiu | 2012-02-22 17:48 | 小論愚案

これで、寝ます。 

 今日といふか、昨日といふか、廿日月曜日は、憂国清心同友会本部へ。
 月刊誌『実話時報』の企畫で、有志による座談會が行なはれ、これに出席する爲めだ。
 參加者は、瑞穗塾・伊藤満塾長、新風義勇隊・鈴木浩己隊長、義信塾・市村悟代行、和心塾・吉岡茂樹塾長、護國鐵拳隊・海法文彦總體長、愛心翼賛会・山川裕克本部長、野生は司會だ。
 終始、熱氣ある座談會であつた。皇室典範に關する有識者會議に就て、現政權や將來の見通しに就て、これまでの運動に關する夫々の總括と今後の抱負など。諸先輩や道友の忌憚のない意見が交はされ、あツと云ふ間の二時間であつた。論爭こそ無かったものゝ(無いにこしたことはないのだが)、始終白熱した議論に、「実話時報」關係者も、歸り際には、「いやあ凄いもんですねえ・・・」と、滿足してをられたやうであつた。
 このやうな場を與へてくれた統亜連盟改進党・松尾秀雄党首と、清和塾・草壁悟塾長には本統に感謝、感謝である。
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 ところで、方言や、習慣の違ひがあるやうに、一口に右翼と云うても、各縣それぞれ微妙に特色や個性があると思ふ。
 以謂く、皆、一長があると思ふが、神奈川も又た、一長がある。
 木川兄の日乘で、彼れは、「神奈川有志の会」を斯う評してゐる。
 曰く、『藤田省三は「維新の精神」において、幕末の海防議論の沸騰により処士の横議、横行、横結なる新たな社会的連結に「維新の精神」を見るが、神奈川有志の会はまさにそんな「維新の精神」漲る集ひである』と。
 その「神奈川有志の会」を産んだのも、畢竟、神奈川縣の土風であるし、氣風である。

 神奈川縣は嘗て、神奈川條約なる屈辱的條約を交はし、こと横濱は異國人の生活圈とさへなつた。
 おほくの志士がこの地を憤慨し、野生の欽慕するひとり、清河八郎正明先生も燒き打ちを計畫した。
 當時の雪辱を晴らさむとの氣構へが根柢に存してゐるのか否かはわからぬが、兔に角、諸先輩がつくりあげてきたこの環境に野生も又た、育てられてきたのである。若し御興味のある方がをられるのであれば、來月號の『実話時報』を乞、ご購読。
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by sousiu | 2012-02-21 02:13 | 報告

腰痛の日曜日。

 十九日、日曜日は、不覺にも腰痛甚しく、引き籠る。以前、日乘にも記したが、渡邊文樹氏と、木川兄・河原兩選手が鼎談したDVDと、次いで大阪で日本實踐奉仕團の志賀智仁兄が對談したDVDが屆いたので、複製して關係者に發送する。
 改めて觀ると、野生の至らぬ發言もあつて、恥かしい限りだ。啓蒙とは、實に六ケ敷い。
 野生を識る人は氣付いてゐるかもわからないが、野生は日頃、どうやら注意力が足りないやうだ。自分ではさう思つてゐないのだが、生半可な返事をしてゐることを、古くからの知人に指摘されることが少くない。思ひ返せば、小學校の通信簿で先生が氣付いたところを書く欄に(名稱は失念したが)、何度か注意力が缺けてゐる、と小言を書かれてゐる。實話だ。
 であるから、かういつた對談では殊更ら集中せねばならないのであるが、挑撥にも乘らず、諭すことを目的とすると、どうしても囘りくどくなつてしまふ。
 皇國に於て、尊皇の人は、教師たる可き心掛けを以て啓蒙に當るべきだと思ふのであるが、野生はまだゝゞだ。
 木川選手も志賀選手も物怖ぢせず、實に堂々たるものだ。
 渡邊氏も、繰り返すが聞く耳を持たないでもない。
 東京で、我れらが少し駒を進め、その不足部分を志賀選手が補つてくれ又た更らに駒を進めてくれた。
 渡邊氏が今、何處を廻つてゐるのか分からぬが、四十七都道府縣を巡り終へるころには、氏は、すつかり考へ方を變へてゐるかも識れない。これこそ、有志による組織的大同團結ではなく、志による大同團結だ。若しそれが成せれば、我が陣營も中々のモンだ。
 野生は、直接渡邊氏に會つたにもかゝはらず、迂闊にも本人に云ひ逸れたことを、日乘といふ本人不在の空間であれこれ云ふほど卑怯者ではない。渡邊氏の信ずるものと、チーム木川河原志賀の信ずるものを御互ひにぶつけ合ひ、その判斷は第三者が自身で決めることなのであるのだから。それが爲めの公開對談だ。渡邊氏に軍配が上るのならば、それは木川兄や志賀兄や河原の未だ至らざることを認めなければならない。だが若し、さうだとしても、彼れらも野生も、いつまでも非力なまゝでは終はらない。若し御興味のある方がをられるのであれば、提供してくれた南南プロダクシヨンから複製、提供の許可を得たので、乞、御一報。
※「今日は大行社な気分」か「紅葉屋主人の日々實踐」でも一報投ずれば、複製してくれると存じます。
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by sousiu | 2012-02-21 01:12 | 報告

奇縁。

 一昨日の十八日。奇廼舎の御主人である山口瀛丸兄と木川智兄とで三人會。
 瀛丸兄は神仙道に生きてをられる人だ。
 木川兄と共に益々思想的にも研鑽を深めんと、都内某所に伺つた。
 敬神なき尊皇に就て、當日乘で觸れたことがある。尊皇なき愛國に就ての危險性を最早、語るまでもないが、敬神なき尊皇も結局、大同小異だ。不覺ながら、野生もその類ひであるかも知れない。時折、草稿しながら自分の文章に力がないと感じる時があるのだが、きつと、そこに原因があるのだ。

 これらのことがらを理會する爲めには、書齋的空論を幾ら重ねても覺束ない。うまく云へないが、感性、靈性を高めるには、あまり理窟に捉はれてはならないのではないかと思ふ。理論や哲學を輕視するものではないが、そのやうなものに頼り過ぎるのも、どうかと思ふ。近代の混沌も、このあたりに起因するのではなからうか。

 今は、何もわからない。以前、備中處士樣からも、靈的なものは輕々しく發言せぬやう、釘を刺されたことがある。感性や靈性を高め、或いは深め、ひたすら自身の志を研磨せるあるのみ。三人を識る、相原修命も此度びの三人會を喜んでくれてゐるに違ひない。
 何れせよ、これからだ。
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 追記。瀛丸兄より、「暘廼舎」(あけのや)てふ屋號を賜はつた。
 「暘」の意味は、「日の出」の意味で、「太陽がのぼると考へられた東の果ての場所」といふものだ。
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by sousiu | 2012-02-20 23:53 | 報告

平成維新の大旆を掲げよ。 

 昨日は『芳論新報』ほか、原稿を二本ばかり書き上げた。結局、内容は似たりよつたり。
 野生の引出しの中身が少いことも原因してゐるが、不安定な世情にあればこそ、野生の云ひたいすぢはさう多くない。
 野生は時局問題に就て、それほど詳しくないことは以前に申上げた。それならば、おそらく、ネツト右翼と呼ばれる人達の方が餘程詳しいだらう。
 野生は、如何なる角度からみても、日本の國民は、やはり優秀であると思ふのである。上の方が健全なれば、必ず國民皆が一樣にしてそれについて直るのである。否、直るといはんよりは、寧ろ國民悉くは然程惡くないと思うてゐる。畢竟、政治の任にある彼れら一團に向かつて、革正の空氣が流れるならば、忽ち快復に向かふのである。逆をいへば、これなくして如何に陸續出現せる時局問題に悲憤慷慨しても、それは眞姿日本の顯現にとほく及ばない。野生は、たとひ微力と雖も、神州の正氣を招來する爲めに日々全力を盡したいと思ふのである。

 その眞姿日本とは何であるか。建武新政がそれであつたのか。或いは明治維新がそれを具現化することに成功したといふのであらうか。
 木川智兄による、昨日の日乘を興味深く拜讀した。明治維新は一つの偉業であつたことは間違ひあるまい。だが、彼れの記事にあるやうに、維新達成の直後から、おほくの葛藤を惹起した。あまつさへ、それは對立を生ぜしめた。維新後の確執は、昭和の御宇に至つて二二六事件にまで繼續された。若しかすると、その確執は、現在もまだ、決着をみてゐないのかも知れない。

 先日、抄録した今泉定助翁は、木川選手の大先輩にあたる。翁は國學院大學の講師(明治廿三年)を務めてをられた。
 今泉翁の「明治維新觀」は興味深いので、以下に抄録する。
 以謂く、重要なことであると思ふので、橋下維新塾の人達は、幾度も讀んでいたゞきたい。


●今泉定助翁、『國體講和』(昭和十三年十月十七日「日本講演通信社」發行)「玉松操と復古の運動」項に曰く、
『茲に一言申上げて置くべき事は、御承知の明治維新は橿原の朝、即ち 神武天皇の御代に復古せられたことであります是は私が申上げるまでもなく、皆樣の御承知の事でありますが、今日から其の以上を望むといふことは、隴を得て蜀を望むの類でありませうが、もう一歩進んで、此の天孫降臨に復古せられましたならば、明治維新は今一段と光彩を放つたことであらうと思ふのであります。所が 神武天皇に復古せられたものでありますから、此の齋鏡、齋穗、神籬、磐境の思想が隱れて、惜しい事に此の原理に到達しなかつたのであります。さうして 神武天皇の御時代を以て建國の如く考へたのであります。 神武天皇は固より 皇祖皇宗の御偉業を其の儘御顯はしになつて居るのでありますけれども、兎に角、此の齋鏡、齋穗、神籬、磐境の神勅から、初めて日本の他の各國と違ふ所がはつきりして來るのでありますが、此處まで行けなかつたことは、今日から考へまして洵に遺憾な事であると思はれるのであります。

 併しあの時代にありましては、是は已むを得なかつた事であつたらうと思はれます。御承知の通りあの時代には復古に對しては色々な議論がありまして、當時の志士、或は漢學者、國學者などが、王政復古の空氣は全く建武中興を基礎としたものである。故に先づ第一に此の建武中興に復古せよといふ議論を有つた人も多分にあつたのであります。けれども又之に對して異論がありまして、成程、建武中興は結構であるけれ共、事成らずして終られたのであるからあまり面白くない、それよりはもう少し良い時代を模範として、其の時代に復古したら宜しからうといふ議論もありました。延喜天暦の時代が一番良く治つて居た時代であるから、之を基礎にしたらどうかといふ議論もありましたが、併し此の時代は表面は非常に良く治つた時代であつたけれども、其の裏面に於て、皇室の式微は此の延喜天暦に胚芽したのであるから、是も面白くないといふ議論をする者もありました。それならば 天智天皇の御代が宜しからうとか、或は大寶令の出た 文武天皇の御時代が宜しからうといふ議論もあつて、議論が區々になりました。
 其の時に玉松操といふ人がありまして、此の玉松操といふ人は國學の大家大國隆正翁の門人でありますが、隆正翁は名高い人で、中々溌剌とした國學者で、偉い識見のあつた人でありました。著書等も澤山あります。此の隆正翁の考へとして、王政復古はどうしても 神武天皇まで行かなければならぬ。 神武天皇まで行つてしまへば、是が世の中の初めであるから、何ものもないのである。門閥もなければ勳功もない。其處まで行つてしまへば是から新に勳功を立て、功績を立てた人が尊くなるのであるから、結局 神武天皇まで復歸するのが、王政復古として一番良いことであるといふことを主張して居りました。玉松操は其の門人であり、中々の豪傑でありまして、殊に又岩倉公に寵を得た人でありますから、此の議論其の儘を岩倉公に進言したのであります。そこで岩倉公も大に之に贊成しまして、 神武天皇の御代に復古するのが一番策の得たものであるといふので岩倉公より之を奏上して、詔勅が渙發せられました』。

 脱線するが、こゝで御留意を乞ふ。『王政復古の大號令』に宣はく、『諸事神武創業の始にもとづき』を、恰も中世を、若しくは 綏靖帝の御代より 孝明帝の御宇までを否定し去つたの如く解釋する人もあるが、上記に明瞭なごとく、そは誤謬にほかならない。明治維新の本旨は、かくも 列聖の治らせ玉ふ御宇を忽諸としたものではない。申すまでもあるまいが、皇國の御國體は、世世厥の美を濟したのである。
 閑話休題。今少し、今泉翁の言に觸れたい。

『即ち王政復古は、橿原の朝に復古するのである。かやうに詔勅が出たものでありますから、衆論も忽ち一致してしまつたのであります。さういふ時代でありますから、 神武天皇の御代まで復古したといふことは非常な大出來でありました。此の上、天孫降臨まで望むといふことは、洵に無理な事であると思ひますけれども、今日から考へますれば、頗る遺憾であつたのであります。明治維新が果して天孫降臨まで來て居りましたならば、もつと徹底した御維新が行れたであらうと思ふのであります。今日の世の中の頽廢するのは明治維新の徹底せぬ結果であります』と。


 三思すべき論ではないか。
 人皇の御代以前には、あたかも 皇國が無かつたものとして考へることは愚なり。反日主義者の如く、昭和の御宇より以前の 列聖の治せ玉うた御代を識らぬは愚の愚なり也。日教組の曰く、神代を認めぬばかりか、猿人の世であつたとするは、愚の骨頂なり也矣。
 嘗て、第十五囘『草莽崛起の集ひ』に於て、今は幽界にをられる大東塾、神屋二郎翁から御高話を拜聽する機會を得た。
 その質疑應答で、仙臺市の坂田昌己兄が、神典の如何なるを重要視して學ぶべきかとお尋ねした。
 神屋翁、答へて曰く、『古事記「神代の卷」なり』、と。
 今泉翁のいはれるとほり、かの時代にあつては明治維新も、 神武天皇朝に復るをして、一旦の成功と看なければならぬ。
 だが、眞の復古として考へれば、所謂る未完だ。未完を更に進めむとする、それ我れらや子や孫やに引き繼がれた臣民の勤めである。
 故以て野生は、敬神勤皇の諸有志に、『九段塾』『蟲斬鎌』の玄關へ通ずる道しるべを右に立てるのである。→→
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                    ※今泉定助翁、寫眞。
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by sousiu | 2012-02-17 16:20 | 小論愚案

ひとむきにかたよることのあげつらひ  

 月曜日は「神奈川有志の會」の懇親會。
 この日、野生の天敵である伊藤満先輩が缺席。説教右翼の先輩が不參加であつたことは、ちと殘念であつたが、有志の會はこの日も活氣充分であつた。
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 この會の宜いところは、皆が意見を持つてゐるといふことだ。
 最近はあまり無いが、これまで論爭となることも決して稀有ではなかつた。しかし、その論爭も決していやらしきものではなく、いふなれば發展的で、いづれも有志ならではの論爭といふべきものだ。
 野生は、左翼の如く、自分の派以外を敵視したり、更らには自己總括に名を借りた肅正の如く、なんでもかでも批判することに聊かも共鳴するものではない。
 だがしかし、逆に云ふ可きこと、云はねばならぬことまでをも云へず、或いは云はさずの關係も又た、決して健康ならぬ間柄だと思ふわけである。このあたりのバランスは上手に説明出來ないが、兔に角、アラ探しや敵探しであるとか、その正反對としての友達集めやゴツコのどちらも、兩極端に位置してはゐるが、共通する部分があるやうに思はれる。建設的ではないといふことだ。
 さういつた意味で「神奈川有志の會」は一人ひとりの個性が隱れることもなく、いふなれば浪人的な空氣が充滿してをり、野生は好きなのである。


 この日、木川選手から「玉勝間」の話しが出たので、野生もお付き合ひして、「玉勝間」から引用をば。

●鈴屋 本居宣長大人、『玉勝間 卷四 わすれ草』(寛政九年)「ひとむきにかたよることの論ひ」項に曰く、
『世の物しり人の、他(ひと)の説(ときごと)のあしきをとがめず、一(ひと)むきにかたよらず、これをかれをもすてぬさまに論(あげつらひ)をなすは、多くハおのが思ひとりたる趣をまげて、世の人の心に、あまねくかなへむとするものにて、まことにあらず、心ぎたなし。たとひ世人は、いかにそしるとも、わが思ふすぢをまげて、したがふべきことにはあらず。人のほめそしりにハかゝハるまじきわざぞ。大かた一むきにかたよりて、他説(あだしときごと)をバ、わろしととがむるをバ、心せばくよからぬこととし、ひとむきにハかたよらず、他説(あだしごと)をも、わろしとハいはぬを、心ひろくおいらかにて、よしとするハ、なべての人の心なめれど、かならずそれさしもよきことにもあらず。よるところ定まりて、そを深く信ずる心ならバ、かならずひとむきにこそよるべけれ。それにたがへるすぢをば、とるべきにあらず。よしとしてよる所に異(こと)なるハ、みなあしきなり。これよければ、かれハかならずあしきことわりぞかし。然るをこれもよし、又かれもあしからずといふは、よるところさだまらず、信ずべきところを、深く信ぜざるもの也。よるところさだまりて、そを信ずる心の深ければ、それにことなるすぢのあしきことをば、おのづからとがめざることあたはず、これ信ずるところを信ずるまめごゝろ也。人はいかにおもふらむ。われは一むきにかたよりて、あだし説をバわろしととがむるも。かならずわろしとは思はずなむ』と。(板本による原文マヽ)
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○譯文『研究社學生文庫 玉勝間』(昭和十五年十一月一日「研究社」發行)尾見修一氏による。
『世間の識者が、他人の學説の惡い點を(指摘し)非難せず、一方面にばかり傾かず、これもあれも捨てぬやうに(生ぬるい態度で)議論をするのは、大多數は自分が正しいと信じてゐる趣旨を枉げて、世間の人の心に、おしなべて迎合しようといふのであつて、誠實ではなく、心事が陋劣である。たとへば、世間の人が、どんなに惡くいはうとも、自分の信ずる道理を枉げて、他人に從ふことはいけないのである。他人の毀譽襃貶には關係のない問題なのである。大體に於て、一方向に偏して、他人の學説を、惡いととがめるを以て、心が狹隘であり、よくないことであるとなし、一方に傾かず、他人の學説をも、わるいといはないのを、心が廣量で、大人しく、よいとするのは、一般の人の心事であらうけれど(さういふ風であいまいで、どつちつかずの日和見的態度は)、必ずしも大してよいといふ事ではない。自分の據り所とする點が確乎としてをり、それを深く信ずる心があるならば、必ずその一方向に傾く筈であるそしてそれに反對する道理をば採用する筈はない。自分がよいとして信ずる所と違つてゐる所説は、皆惡いのである。一方が是ならば他は必ず否である理窟であるのだ。それだのに、これも可である、同時にあれも惡くはないといふのは、據り所とする點が確乎としてゐなくて、信ずべき所を、少しも信じないのである。根據が確乎としてゐて、それを信ずる心が深ければ、それに違つてゐる道理の惡い點を、自然ととがめなくてはならぬわけである。これ即ち我が信ずる所を信ずる忠實なる心である。人はどういふ考へだらう。それは知らぬが、自分は一方向に偏つて、他人の學説を惡いと非難するといふ態度を、かならずしも惡いとは思はないのだ』

 人は如何云ふ考へだらう。それは知らないけれ共、野生は宣長大人の、このお説に共鳴するものである。
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by sousiu | 2012-02-15 02:11 | 先哲寶文

「國學」とは何ぞ  

 他誌の宣傳を勝手にするやうであるが、不二歌道會の發行する月刊誌『不二』(定價四百圓、也)には、表紙に、
 「平成維新と新國學
 と書いてある。
 野生は、この文言が大好きだ。
 どちらも今日の日本に要せられるべきものだ。尤も、今日に要せられる可きものは他にも澤山あらうけれども、順位をつけるならば、やはり何を差し措いても「平成維新」と「新國學」は最優先されなければならぬ。「橋下維新塾」?そのやうなモンは、あつたつて無くなつてどちらでも宜い。むしろ、無いはうが宜い。

 我が陣營、「維新」といふことばは豫て使はれてゐた。我が陣營は全く、ブレてゐないといふことだ。
 これに加へて最近、陣營内で「國學」に就ての話題も耳にする機會が多くなつてきた。力強いことだ。勉強中の野生としては、學んだり考へたりする機會が増えたので、實に嬉しい限りだ。

 「國學とは何ぞ」と訊ねられることもある。固より識つたかぶりばかりの野生に答へられる可くもない。よつて野生の、これだ、と思ふものを、例によつて例の如く、文獻を頼り以下に掲げんことゝする。

 少々長いが、御時間許される方は是非共御一讀いたゞきたく、希ふ。


●久松潛一氏、『日本精神叢書四十三 「國學と玉だすき」』(昭和十五年九月八日「文部省教學局」發行)「國學の意義」項に曰く、
『國學は本來、國の學であり、日本に關する學問であるが、これにも歴史的に見て三の意味が考へられるのである。第一は大寶令に見える如く、古代に於て中央に大學を設け、地方に國學を設けたといふ場合の國學である。この場合の國は、地方の國司の場合の國と同樣な意味である。いはゞ日本教育史上の國學である。第二は日本に關する學問の意味である。即ち日本の政治・法律・宗教・文學・歴史等全般の文化に關する學であつて、主として研究對象の上から見て、日本に關する學問を國學といふのである。從つてこの場合は日本に關する學問であるならば如何なる立場から扱つても、國學となるわけであつて、佛教的立場・漢學的立場から扱つた場合もすべて國學であり、考證學や歌學・語學にしてもすべて國學と言ひ得るのである。かういふ意味に於ける國學はすでに古代から存在して居るのであるが、近世に於ても國學者をひろい意味にとつた場合も存するのである。この場合の國學は倭學・和學といふ名稱によつて言はれた事もあるのである。
 第三の國學はその立場の上に明確に日本的立場を以て純粹日本的なるものを闡明しようとする學問であつて、近世に於ける眞淵・宣長等を中心とする學問である。この場合には佛學等の外國的立場や影響を離れて純粹日本的なるものを闡明しようとする所から、研究對象にしても外國的影響をうけることの尠い古代文獻を主とするといふ限定をうけるとともに態度に於ても日本的立場といふ如き限定をうけるのである。方法に於ても、古代文獻による嚴密なる文獻學的方法をとるに至るのである。さうして本質に於て國家的精神を基調として居るのであり、國家的の情熱を中心として居るのである。荷田春滿が創學校啓に於て、
    國學不講實六百年
 といつたのはかういふ意味に於ける國學をさしたのである。
 以上三の中、第二と第三とは實際に於ては區別しがたい點もあるのであつて、殊に研究對象といふ上からは共通する場合が多いのである。たとへば國語學との關聯の上で言へば國學に於ては文獻を尊重する所から言語研究を重視するのであり、そこに國學者は一面には國語學者といへるのであつて、國學史と國語史は交渉して來るのであるが、しかしその場合には、國學に於ける言語研究は國語研究を終局の目的とするよりは文獻を理解するための國語の研究を行ふといふ態度をとつて居り、こゝに國學者と國語學者との相違する點もあるのである。これは歌論に於ても眞淵の歌論と香川景樹の歌論とが歌論史の上から言へば同樣の面に於て考へられるに拘らず、一方に於て景樹が第三の意味に於ける國學者と言はれない點があるに對して眞淵は歌論家であるが同時にその歌論を國學の體系の中に於て扱つて居る點に於て相違する所があるのである。もとより近世の國語學者にしても或は景樹の如き歌論家にしても、國學的精神は存したのであつて、この區別は實際的にはたてられない點があり、たゞ國學の如く自覺的に考へなかつたといふ相違にすぎないとも言へるが、しかしさういふ國學的自覺を有し、學問の目的を明確にして研究した所に國學といふ一學派としての獨自の意義も存すると見られるのである。是等の點は更に精細に論議すべき問題を含んで居るが、とにかく研究對象といふよりは學問の態度・方法・目的の上に第三の意味に於ける國學の獨自の點を有すると見られるのである。かういふ國學は一方では古文獻によるといふ所から古學ともいはれ、また文獻による所から明治以降、日本文獻とも言はれた事があるのである。こゝで意味する國學もこの第三の意味に於ける國學を中心とするのである。

 もとよりかういふ國學も最初から明確なる學問的體系を有してゐたのではなく、次第に成長し完成していつたものと思はれるのである。大體に於て國學の學問的性格の完成したのは本居宣長に於て見られるのであるが、それまでに次第に完成して行つた過程を見ると、本來國學の起つたのは中世學問に對する批判と反省から起つたと見られるのであるが、その批判の根據となつて居る點を見ると、第一には日本の歴史に對する自覺といふ事があげられると思ふ。水戸義公の大日本史編纂はさういふ自覺の明確な現れであるが、かういふ國史に對する自覺といふ事が、國學の學問的性格の第一の性質となつて居ると見られるのである。第二は古文獻に立脚し古文獻の精密なる研究の上に學問をうちたてんとする方法的自覺が國學の學問的性格の第二の點をなして居るのである。これは主として契冲によつて打ちたてられた點であるがそれ以後の國學の上に常に流れて居る性格である。この文獻學的性格はその中に書史學的性格や言語的性格・文學的性格といふ如き數々の特質を含んで居るのであり、それらが更に獨自の性格となつて發展して居るのである。第三は國史の根源としての神道もしくは古道を中心とする態度である。この國史と古道と文獻學的性格の何れに重きをおくかによつて種々の學派が生ずるのであつて、水戸學の方は國史學的性格が非常に濃厚であるに對して、國學の方は古道的性格が著しいと見られるのである。同時に方法としての文獻學的性格が著しく見られるのである。かういふ古道的性格を多く加へたのは荷田春滿であつて、この古道的性格をはじめて強くといた所に、春滿が國學のはじめであると言はれる理由もあるのである。この古道もしくは神道的性格はそれ以後も多く存して居るのである。~中略~

 更に眞淵に於てはこの古道的傾向が純粹になり、復古神道的傾向が明確になるとともに文學的傾向が著しくなつて來たのである。さうして以上の諸傾向によつて國學の學問的性格がほゞ完成して來たのであり、さういふ完成を實現せしめたのが本居宣長であると見られるのである。かくして歴史學的傾向と古道的傾向ならびに言語學的傾向、文學的傾向といふべきものが融合して居り、その中心に純粹日本的立場といふものが貫いて居るのが國學の學問的性格であり、またその意味でもあるのである。

 さうして宣長以後はかういふ國學の性格が、勤皇精神や國家的な精神に進んで來ると共にさういふ勤皇精神の實踐としての明治維新が實現したのを機として、それらの學問的諸傾向が、それぞれ分化して來たと思はれるのである。ここに明治時代に於ける國文學・國語學・國史學・神道學等の生じて來る過程が見られるのであり、芳賀博士等はさういふ國文學建設の第一歩を築かれたと見られるのである。さうして國文學が國學の中に存する文學性研究を中心として學的組織を進めてゆく所に國文學の發展が見られたのであるが、同時に國文學の中に國學の基調となる精神が存することも明らかであるのである。

 以上申して來た國學の學問的性格の成長と推移をたどることが國學史の考察となり、同時に國學史と國文學との關係を見ることにもなるのであるが、なほ從來國學史の扱はれた態度方法を見ると種々の態度が見られる。既に平田篤胤に於てはそれまでに完成した國學の史的考察を古道大意玉だすきに於て概觀的に行つて居るのであつて、國學史の先驅的意味を見出すのであるが、次いで清宮秀堅の古學小傳(安政四年成り、明治十九年刊)は國學史の規模を整へたものである。何れも大體に於て國學者の列傳的な扱ひをして居るのである。明治以後に於ける國學史の考察も大體この國學者の列傳的な扱ひ方をして居ると見られる。これにも二つの傾向があつて、一は國學者のあらゆる人物を網羅的に列傳する態度で大川茂雄・南茂樹兩氏の國學者傳記集成(明治三十七年)はその最も著しい業績である。一は國學者の中その代表者とすべき春滿・眞淵・宣長・篤胤等を中心として考察し、その他をそれらの代表者の門流として一括して、考察する態度であるが、國學史の扱方としては後者が最も多く行はれて居るのである。芳賀博士の國學史概論(明治三十三年刊)野村八良博士の國學全史等にしても主としてこの態度をとつて居られるのである。しかし進んで國學者の系統を追うて、研究する態度に對して、國學を横斷的に扱つた研究も見られるのである。河野博士の國學の研究(昭和七年五月)や芳賀博士の「日本文獻學」の如きは國學を體系的に扱つて居られるのである。この列傳的と體系的との考察はむしろ國學史概論と國學概論との相違と見るべきであらう。

 更にかういふ列傳的と體系的との兩者を通じて、更に別の觀點から見る時、種々の扱方の相違が見られるのである。即ち一は神道學的な立場からする國學史の研究であつて、河野博士の國學の研究や、清原貞雄博士の國學發達史(昭和二年)の如きは、かういふ立場にたつて居ると見られる。こゝでは國學史は復古神道史といふ如き形相を示して居るのである。一は國史もしくは日本文化史的な立場にたつ扱方である。竹岡勝也氏の「近世史の發展と國學者の運動」(昭和二年九月)の如きはその著しきものであり、伊東多三郎氏の「國學の史的考察」(昭和七年二月)の如きもさういふ立場にたつて居るのである。一は國文學研究史もしくは國文學研究法的な扱方であつて、芳賀博士の國學史概論もさういふ傾向が著しく見られたのであるが特に「日本文獻學」(明治四十年講義・昭和三年刊)は國文學研究法の立場から國學を日本文獻學として理解されて居るのである。この傾向は芳賀博士が明治三十五年頃獨逸から歸られてから獨逸の文獻學との比較の上から「國學とは何ぞや」といふ論文を書かれて以來、芳賀博士の一貫した態度であつたのである。(この點は一人の國學者の研究ではあるが村岡典嗣氏の本居宣長」も大體さういふ態度をとられて居るのである)藤岡博士の國學史や野村博士の國學全史は國文學研究史としての性質を有して居るが一面には文化史的研究の一面をも備へて居るのである。

 以上は國學史が神道學や國史學や國文學の各分野から扱はれて居るために、それゞゝの立場からの色彩が濃厚となつて來るのであるが、また國學史が是等の種々の分野を學問的領域の中に併せ有して居るためでもあると見られるのである』と。




 いやあ、頑張つた・・・。「腱鞘炎知らず」に感謝せねばなるまい。

 書いた野生も大變であつたが、こゝまでお付き合ひくださつた方も大變であつたと思ふ。
 若しも、關心があり、何の本を讀まうか、とお惱みの方があつたならば、折角の河原の苦勞を水に流さない爲めにも、上記(緑色にしたよ)書籍を購入してみるのも、一興と思ふ次第である。
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by sousiu | 2012-02-14 02:04 | 良書紹介

愛國乎、尊皇乎、  

 本日、道の先輩から、今月都内で行なはれる全教の大會に就て貴社は如何するか、と電話をいたゞいた。
 野生は、その日は抗議するの積もりはない旨、御答へした。

 彼れらのわづかにでも、「いつも怒濤の如く押し寄せる抗議が何故、今日に限つて行なはれないのか」と、その理由を考へさせることは、啓蒙と云ふ觀點からみても決して無意義ではない。樣々な考へもあらうが、野生はその日はしづかに雲近き九重を拜し、御平癒を御祈り奉り、過ごすといふことを申上げたものだ。
 日本人としての姿勢を「みせる」といふことも大切だが、かく「過ごす」ことも大切であると野生は信じる。

 某先輩、『(彼れら全教に對して)「やらない」といふことを「やる」といふことだらう』と。
 さすが先輩、宜いことを仰る。
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by sousiu | 2012-02-13 18:30 | 日々所感