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承前。 

●蘇峰 徳富猪一郎翁、『國史より觀たる皇室』(昭和四十三年六月廿日「新日本春秋社」發行)に曰く、
『自由主義では個性の尊重と云ふことを第一の眼目としてゐる。其の個性の尊重は各個人だけのことではなく、國家に於ても、民族に於ても、亦同樣たるべきは論を俟たない。前アメリカ大統領ウイルソンの民族自決と云ふことも、之を意味してのことであらう。然るに日本の國家として又國民としての個性は何處にあるかと云はば、萬世一系の 皇室を有することがそれであり、又それであらねばならぬ。然るに此の個性を滅却して、ことさらアングロ・サクソン人や、若しくはスラヴ人の眞似をなすことを以て、本望となすが如きは、洵につまらない話である。日本に 皇室制が出來たと云ふよりも、皇室が日本を出來したと云ふ方が、寧ろ適當であるかも知れぬ。此の皇室制を取除くに於ては、日本は國家としても、國民としても、全く鹽其の鹹(から)きを失ふものである。他の民族や國家に蹂み躙らるる外はあるまい』と。

 愚案。日本總てが 皇室、とまで云うては異論者も出で來ようけれども、日本即 皇國と云うてみても、そは國史を通覽する何人もこれに疑義を挾む者はをるまい。左翼と呼ばれる者の通病は、殆ど歴史に就て無知であることだ。歴史を顧慮せず、たゞ思想のみに支配されるがゆゑに、現代のみならず未來にも絶望するのだ。加之、その思想も舶來にして、加へて國史を全くまでと云はずとも殆ど閑却するが如きの代物だ。
 偶に左翼の中にも、●●●年●●あり、○○○年○○起こる、などと流暢に語る者ありとするも、そは暗記力に優れてゐることを認めても、さりとて、國史を解するといふことまで認めるわけにはいかない。
 こよなく國史を親しみ、その登場人物を敬ひ、故に今日我れあるを識る者は、左翼や反日に到底甘んず可き理由が無いのである。
 左翼も反日も、唯々批判せんが爲めに批判するといふことの他に、何ら説得力を見出すことが出來ない。
 固より 皇國の威靈は、野生の拙文では固より、殆ど何びとも、言語に盡くす能はざる宏大無邊の規模なれば、迚も是れに及ぶ可からず。我れらとてその説得力乏しくあるも、反日のそれとは天地の差あり。未來に對する希望と絶望との懸隔あり。

 

 さて。前置きが長くなつたが、政界の住民をして、この 皇國の眞相を解さぬが爲め、歴史上、屡々手腕を誤りたる爲政者があつた。
 彼れらの過誤は、直接に間接に國内及び國民に惡影響を及ぼしめ、意外なる方面に意外なる問題を惹起すること決して稀有では無かつた。
 今日も然り。而、三百年前も然りである。
 嘘を取り繕ふ爲めに嘘を更らに重ねるとは、古今、小人の專賣特許と云ふ可きか、さなくば常套手段だ。さらば小人、過失には何を以て之を取り繕ふ可し。この過誤に陷らむとする者、おそれおほくも 天皇の稜威を斥ける爲めに苦心慘憺、苦慮呻吟し過誤を積み重ねんとした。
 徳川幕府も、都度、政治をこねくり廻し、尊皇家には容赦なき鐵鞭を加へ、漸次、皇室中心主義から徳川中心主義を建設し自らの安眠を深らしめた。
 されど、霸道は泰平の世に於て初めて有效たり得る。逆言せば、平和な時間に於てのみ有效であるのだ。一ト度び國難襲來するや、霸道の牙城にも龜裂が生じる。況んや城内の住人力乏しくなるに於てをや。
 その國難と呼べる災ひには樣々あるも、日本に於てその主なる一を擧げれば、やはり外壓であらう。家光は之を能く識り、而、島原及び天草一揆に際して遂に鎖國なる、二枚貝が蓋を閉ぢるかの如く、日本が小日本たる可き道を選擇した。唯一、朝鮮を例外として。

●蘇峰徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 元祿享保中間時代』(大正十五年二月十七日『民友社』發行)に曰く、
抑も將軍政治の弱點は、眇乎たる朝鮮との交際に於てさへも、其の破綻を暴露するを禁じ得なかつた。何となれば、將軍は日本に於ける實權者であるも、主權者ではなく、天皇は日本に於ける主權者であるも、實權者ではなく。何となく天に二日あり、地に二君ある如く。爲めに將軍の立場を、明白に對手國に諒解せしむることが、甚だ困難であるのみでなく、將軍自からの立場を、自から確定することが、甚だ困難であつたからだ』と。


 こゝへきて、野生は漸く本題に入ることが出來る。
 家宣の前代綱吉の贅澤、奢侈、濫費からなる財政破綻を挽囘した立役者新井白石が、畢竟、家宣の寵愛を縦にしたことは必然たる趨勢であつた。尤も白石が樣々の建議を呈し、改良を行なつた功績を吾人は認めねばならぬ。
 家光による鎖國から七十年。而して朝鮮使節待遇方法の變革問題が出來した。
 飛ぶ鳥を落とすの勢ひを得た白石が、日本の威信を保たんが爲め一意專心したことは、前日、記した通りだ。

 それまで。室町時代に於て、日本の外交用文書は、威信を示すことに頓著なく、相手國に對して迎合するを以て諒とした。例へば、支那を相手とすれば、支那の流儀に合はせ、朝鮮を相手すれば朝鮮に合はせるといふものである。支那の皇帝に對せば我を「日本國王臣某」と名に冠し、年號も彼れの用ふる年號を愛用した。野生は敢へて亡國とは云はず、頓著しなかつた、と云ふ。されどいづれにせよ、相手國からみれば同じ判斷に行き着く。
○瑞溪周鳳(室町時代の僧なり)『異朝の天子、我國の將相を推し尊れ、王を以て稱せらるゝ事は、さもあるべし。みづから王と稱せらるゝ事は、彼國の封を用るなり。然るべからず。又、臣の字を記さるゝ事、然るべからず。止む事を得ざらんには、日本國といふ字の下に、我國の官位を記して、氏と諱の間に、朝臣の二字をしるさるべきか。又、彼國の年號を記さるゝ事、然るべからず。我國の年號を用ゐらるるか、然らずば年號を記されずして、甲子のみをしるさるべき事か』(新井白石『殊號事略』)

 豐太閤の時代となると、さすがに、王號を廢して、單に官位名稱を用ゐた。
 即はち、朝鮮からは「朝鮮國王 姓某 奉書 日本國王殿下」と記し、此方からは「日本國關白 秀吉 奉復 朝鮮國王閣下」といふ具合だ。

 それが徳川幕府となりて、當初こそ豐太閤の先例に倣うたるも、種々の問題出來し、これを改めざるを得なくなつた。
 これ以上の脱線は許されないであらうから、その理由まで述べることは他日に委ねる。汗顏。
 而も改められたる稱號は、「大君」だ。つまり、徳川は自らを稱するに、「大君」の名を使用するに至つたのである。當時の朝鮮では「大君」の二文字は國王子の嫡孫を意味したさうであるが、日本に於て、かの稱號を使用する能ふ國民の、古今に通じて一人ある可き筈のなかりしことは固より云ふまでもない。
 臣下たる將軍に 大君と稱したる首唱者は、林羅山だ。
 當時の執政者も學問の權威者も、古今に通じて吾人が座右すべき文言『毫釐も君をゆるかせにする心を萌すものは、必ず亂臣となる。芥蔕も親をおろそかにする形有るものは、果して賊子となる。この故に古の聖人、道は須臾も離るべからず、離るべきは道にあらずと説けり』(北畠親房卿)を忘却したることの、後世による指彈を免れまい。

 御用學者の羅山は、雇用者である幕府の意に從ふ可く、將軍尊きを識つて、天皇尊きを識らぬ民の育成に一助を買つて出た。
 果して、白石翁は、如何なる論鋒もて、これを滅却す可し。

 前置きが長くなつたので、更らに、續く。



參考文獻、近世日本國民史 卷八 ~豐臣氏時代 戊篇~朝鮮役 中卷
       仝 卷廿 ~元祿享保中間時代~
       國史より觀たる皇室
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by sousiu | 2012-03-31 22:00

三百年前の日本は如何なる哉。  

 凡そ二百七十年續いた徳川幕府に於て、その初期たる家康、二代目將軍秀忠の當時は開國時代である。
 而、三代目將軍家光の時代から鎖國時代が開始せられ、徳川幕府の末期となると再び開國の時代に戻つた。つまり一囘轉したのだ。
 この中間時代に於て、諸外國との對外交際は唯一の例外國を除き、斷絶された。而、その例外國とは他ならぬ、朝鮮半島であつた。
 その朝鮮すらも、將軍の代替はりの際、來聘の使節が一囘づゝ來日する程度に過ぎなかつた。

 從來、日本と武で對して悉く負けたる朝鮮は、文事を以て日本を侮辱し、其の優勢を試みんとせんか、ともかく鬱憤を晴らした。固より榮螺が蓋を閉めるのと同樣、外界との交流を遮斷した日本だ。家光以來二百年もの間、何人にも何物にも妨碍されず、爲めに精神文化が純々然として發達したことは必ずしも無益ならざるとするも、そは、結果論として暫く措き。中間時代に於ける唯一の外交相手であつた朝鮮人からみれば、蜻蛉州に籠城したる日本人の無學をいつの日か、侮る可き素材として認め、勢ひ、彼れらの威信と自信とを増大せしめるに至つた。

 三百年前。六代目將軍として家宣があつた。この時代に、新井白石なる者が登場した。
 朝鮮國信使一向の鼻柱を折るべく白石は、正徳元年、朝鮮信使來聘に就て、之を擔當した。
 白石は日本、朝鮮との儀式的國交に對して、對人的國交に對して、文書的國交に對して、之を挽囘せんと幕府に建議を行ひ、舊例を改めさせ、日本が無學の徒ならぬことを相手國に承知させんと力めた。
 新井白石に就て、蘇峰徳富猪一郎翁はかう評してゐる。
 曰く、『彼は學者としては、徳川時代を通じて、殆んど比類少き一人だ。其の詩の如きは、專門の大家も、彼には一著を輸(ゆづ)る程の作手であつた。されど彼の本色は、寧ろ支那學問の知識を以て、日本の學問を開拓したるものであらう。彼は日本の歴史、日本の言語、日本の制度、日本の典禮、日本の軍器、日本の經濟等、あらゆる方面に向つて、其の手を著けた。而して彼の研究は、何れの方面に向つても、必ず多少の效果なきはなかつた。彼は單純なる考證家でなく、亦た説明家であつた。單純なる説明家でなく、亦た創見家であつた』(『近世日本國民史 元祿享保中間時代』)と。

 さて。正徳元年朝鮮信使來聘に挑まむとする白石の意氣込みとは。
●新井白石『折たく柴の記』(享保元年?發行)に曰く、
『遠く和漢の故事引くまでもなし。近く山本道鬼と聞こえしものは、甲斐の武田が家の軍師也。武田越後の上杉と、信濃の國川中島といふ所に戰ひし時に、みかたの軍破れぬと見えしかば、かの山本まつさきに討死してける。少しく恥ある事をしらんものは、かくこそありけれ。我、もし、此たび議し申せし事の一つも仰下されし事の如くならざらんには、たとひ仰下さるゝ御事こそなからめ、我何の面目ありてか、再び見え參らする事のあるべき。されば此事仰かうぶりし始より、我身はなきものとこそ思ひ定めたれ。かく思ひ定めたりつるは、我國中の事はいかにもありなん。此事もし過つ所あらんに、我國の耻を殘すべきなりと思ひしがゆゑ也』と。
 かの意氣込みをして、その意氣込みを天晴れと申すべし。然も白石を、斯くなる決意にまで及ぼしめた當時の朝鮮來聘一團の増上慢が思ひ遣らるゝではないか。ともあれ、今日の外交官は白石に見習ふところ大とせねばならぬ。況んや朝鮮半島に監禁さるる日本人救出外交の擔當官に於てをや。

 さて、白石の外交は成果を收めた。所謂る儀式上に於て、或いは掛合ひに於て、學問に於て、文筆に於ても、對手國の正使通政大夫・趙泰億、副使通訓大夫・任守幹、從事通訓大夫・李邦彦を相手に一歩も引かざるどころか、數歩を自ら進み、一方、彼れらは下らざるを得ずして歩を下らしめた。

 この一事を以て、徳富猪一郎翁は、斯く感想する。
 曰く、『幕府は朝鮮の聘使を迎ふるに、一方ならぬ緊張味を示した。吾人は白石が此事に就て、殆ど有らん限りの力瘤を出したのを見て、必ずしも之を怪しまぬ。彼は只だ日本國の國威、國光と云ふ一點に心を用ひて、斯く取り計らうたのだ~中略~
 若し白石をして、嘉永安政の時代にあらしめば、彼は必ず相應の働らきを、日本開國史上に於て、留めたであらう。但だ相手が、眇乎たる朝鮮であり、その爲めに折角白石の入れたる力瘤も、今日から見れば、鷄を割くに牛刀を用ふるの類として、聊か仰山過ぎる感を免れぬは、彼の爲めにも、日本の爲めにも、遺憾であつた』(仝)と。

 これから出掛けねばならぬので、・・・續く。
 斷わつておくが、野生は新井白石を評價し彼れを宣傳する積もりではない。
 前半は前半の意あり。後半には後半の意あり。たゞ歴史は繰り返すといふ言葉に頷き、三百年前を想起するある而已。吾人が學ぶ可きは歴史なのだ。而、戒む可きは將來だ。
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by sousiu | 2012-03-30 07:26 | 日々所感

情報化社會の利あり。

 國信兄の状況に就て、洗心會東京責任者である島田栄造兄が、彼れの日乘を繼續し、都度御報告申上げるさうである。
 同志諸賢竝びに、彼れに共鳴せむとする未見の同志は、時折、洗心會日乘を覗いてみることを御勸め申上げる次第である。
 以下は昨日の記事を轉載。↓↓↓


國信は元廣島縣警警部補といふ經歴から陛下行幸の警備を擔當した過去もあり、中井代議士の不敬發言への怒りは人竝以上に激しいものがありました。まして國信が「斬奸状」にていふ通り、中井代議士が不敬發言への態度を曖昧にしたまま皇室典範改正に反對する議聯の代表職を務めるといふ中井代議士の「皇室の利用」は到底看過出來るものではなかったのだと思ひます。

現在、國信は警視廳麹町警察署にて勾留されてをりますが、體調に問題はなく志操堅固に獄中求道に勵んでをります。また接見禁止などの處置はなく、面會や信書の發受あるいは物品の差し入れなどは原則として自由です。

ただし面會に關しては1日1組までとなってをり、國信の家族の面會を最優先としたいところでもあって、面會希望者同士で調整を行はないと面會が叶はない場合もあります。面會希望者については當會と當會も加盟する大日本愛國團體聯合・時局對策協議會で調整致しますので、お手數ではありますが以下の連絡先へご一報いただきたくお願ひ致します。

連絡先
島 田(洗 心 會) 090-6186-6358
山 川(愛心翼贊會) 090-3066-6815
木 川(大 行 社) 090-8945-0989

恐縮ではありますが、以上、伏してお願ひ申し上げます。

洗心會一同

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by sousiu | 2012-03-29 19:02 | その他

國信兄に會つてきました。 

 本日は、木川智兄と麹町警察署に留置されてゐる國信隆士兄に面會。
 今日から接見が出來るやうになつた。

 國信兄は相變はらず元氣であつた。留置場のなかでも、宮城に向かひ遙拜することを欠かさぬといふ。
 麹町警察署の署員も、彼れの禮儀正しきことを迚も感心してゐた。人は如何なる時、如何なる場所、如何なる環境であれ、背筋を伸ばして毅然としてゐたいものだ。

 面會中でも彼れは、頗る朗らかであつた。少しの悲嘆する樣子がない。尤も、心中は別であらう。誰れが好き好んでこのやうな場所で生活しようと思ふのか。
 ところで警視廳では四月一日から一切、喫煙が出來なくなるとのこと。野生が以前、お世話になつた時は、朝の運動の時間は固より、取り調べの間は喫煙も出來てゐた。今では取り調べの最中でも喫煙は許されない。來月からは、運動の時間も禁煙になるといふ。今日、國信兄からこの事を聽いて始めて知つた。
 恐れを知らず、且つ、豪放磊落な彼れであるが、四月一日からの禁煙には、いさゝか弱音を吐いてゐたところが面白い。


 國信兄の假り住居である麹町警察署を出て、木川兄と 宮城へ。二人で遙拜す。而、只今、歸宅。
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by sousiu | 2012-03-28 21:58 | 報告

正氣重ねて發生の時は必ずある也矣。 

 土曜日は、維新政党・新風の講演會で、卑見を披露。
 講演の内容は説明するに價せないので扠措き、所謂る右翼とは違ふ土俵で戰ふ人達の、純然たる熱氣を體感したことは野生にとつて良い刺戟であつた。
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 さういへば清河八郎正明先生に就ての話題を中斷してゐる。「勤皇唱始」「囘天倡始」の名を擅としてゐる清河先生も、それ以前に長らく語り繼がれ、研究され盡くした尊皇心養成の期間あつたればこそ、その人となつたことを忘れてはなるまい。

 諸説のあるも野生は、明治維新を、嘉永六年彼理來航から、明治四年の廢藩置縣までと定義してゐる。
 となればその期間は十八年だ。
 ところで、江戸幕府の創始者、家康の征夷大將軍に任ぜられたのが紀元二千二百六十三年、慶長八年であるから、幕府の壽命は紀元二千五百三十一年、明治四年までの二百六十八年間だ。
 さらに遡り、鎌倉幕府の創始者、源頼朝が征夷大將軍に任官したのが紀元一千八百五十二年、建久三年だ。(因みに、1192つくらう鎌倉幕府、是れ也。餘談ではあるが、近年では頼朝の實質的權力機構がそれ以前より存在したとの通説から耶蘇暦1185年を鎌倉幕府設立とするやうである。しかし如何なる理由があれ、野生は頼朝が天朝より征夷大將軍に任ぜられた1192年を鎌倉幕府設立の年と認識せねばならぬと思ふのである)
 つまり政權が武門に下り、その間、實に六百七十九年。この久しきを瓦解させるに要せられた時間は、意外にも僅か十八年であつた。
 勿論、時代の後押しがあつたことは爭ふ可からざる理由として擧げねばならない。だがしかし、さうした時代の要求に勝へ得る忠良臣民の働きがあつたことも又た忘れる可からざる事實である。この十八年間は、それ以前の六百六十年間があつたればこそ、だ。換言せば、六百六十年といふ、現世の住人では途轍もなく長く感じられるこの期間の集大成が、維新十八年といふ期間に凝縮されたのである。

 學校では、この六百六十年間に存在した、尊皇の大家あるを教へない。固より人の一命鴻毛の如く輕きとした時代に比すれば赫きも乏しいので、ドラマにもならない。あの徳富蘇峰翁でさへ、『元祿享保中間時代は、徳川幕府の演劇中に於ては、先づ、だれ氣味の一幕である。~中略~ 併し歴史は小説ではない。縱令其の山無しと雖も、時代の引き續きとして、書く可きだけは、書かねばならぬ。斯る時代を記録する史家の苦心は、讀者にはとても分る可き樣はないが、さりとて若干の諒解はありて然る可きであらう』(『近世日本國民史 第廿卷』大正十五年二月十七日「民友社」發行)と、珍しくその苦情を漏せてゐる。(因みに織田氏時代を一卷として起稿せられ、明治時代の百卷で脱稿された『近世日本國民史』に於て、彼理來航は第卅一卷である。記録の豐富でないことが理由の一つとしてあげられるも、如何に黒船來航以前が作家の書くに容易能はざる時代であり、以降が如何に筆の進む輕やかなりし時代であることか、自ずと察せらるゝといふものだ)

 されど、徳川泰平の時代と云ひながら、人材は決して皆無で無かつた。否、能く々ゝ觀察すれば、人材の寶庫だ。尤も人數を以て野生は寶庫と云ふでなく、その少數派たる各士に就て云ふ。皆が皆、幕府の權勢を恐れて林羅山とその子孫や關係者の如き怯懦者、小心者、不逞奴、盲人、宦官、癡漢ばかりでは無かつたのである。遺憾ながらも現在の埋れ木に藏される尊皇家あつてこそ、華華しき明治維新の舞臺に上がる役者の用意されたことを、吾人は決して忘却してはならぬのである。
 それゆゑに吾人は自ら歴史の筐底に祕せられた傑物偉人を再び起こして學び、出來得可くんば顯彰せねばならぬ。平成の今日、日本人は單なる戰前囘歸に止る可きではない筈だ。

 さて。平成第廿四年、時代は嘉永六年の如きであるか。野生は世相を公平にみて、累卵の初期であることは認めても、未だ同日の論として看做すことは出來ない。
 だがしかし、いづれにせよ、將來の近きと遠き、望むと望まざるとに關はらず、嘉永六年の如き、眞に危急の秋は否應無く再び巡つてくる。その際に我れらが備へておく可き大事は何であるか。按ずるに野生は、軍備然りと雖も、先ちて要せられる可きは、忠義の狗となるとも亂離の人とならぬの士であると思ふ。
 野生は、講演會終了後の新風の黨員や關係者諸兄と箸を交へながら、かくなる人士の多くあるをみ、日本未だ滅びざれば正氣重ねて發生の時は必ずあることを再び確信した次第である。


 奇しくも、同日講演前の正午、有志が集ひ、皇城を遙拜。
 天朝に連なる學問や思想を腦味噌で學ぶだけでなく、尊皇大家の志操を心でも學ばねばならぬ。かく志望した有志と共に野生も、寛政の高山彦九郎先生を平成の御代に顯彰せむことを決意。その名も『三條の會』。命名者は木川智君。いふまでもなく、「三條大橋」から命名したものである。
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 又たこの日の晝、國信隆士君が逮捕されたと御一報を賜はる。
 彼れも「三條の會」の參畫者。この日の遙拜には參加出來なかつたが、毎朝、麹町警察署に於て 宮城に向ひて姿勢を正し、つゝしんで遙拜を行ふことであらう。
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by sousiu | 2012-03-27 01:20 | 報告

道の嶮しきを知る  

 土曜日は、第七十九囘 歌道講座に出席。

 野生の詠みしうた。

     春遠き 世に先立ちて 咲く梅に
        日本の目覺めは いつぞと訊ぬ

     とほきより 姿うつくし 富士の山
        ふもとに在れば けはしきを知る


 二首目は、勤皇臣民實踐の道、悠遠なるを知りつゝも、未だ我が身は麓に在り、而、山頂を仰ぐの登山家の心境を詠んだのである。
 斷わつておかねばなるまいが、と云ふよりも、斷わるまでもないが、歌道講座竝びに眞由美先生に就ての感想を詠んでゐるのではない。乞、誤解めされぬことを。
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by sousiu | 2012-03-19 19:39 | 日々所感

言に發すは輒く行ふは難し。  

 國信兄による壯絶なるDVDを拜見した。
 漏れ傳はるところによれば、兄が中井洽宛てに「斬奸状」「庖丁」「斷指」を送付した日が十日の土曜日である。
 その早朝、當日乘に於て、日乘ジヤツカーなどと稱してコメントを投じるなど、その豪放磊落な性格が思ひ遣らるゝではないか。而して同時に、中井本人にしてみれば、決して呑氣に構へる能はざる相手であらう。

 そのやうな兄の決意の凄じきは、正視する能はざるDVDに顯著である。
 竊かに望む。中井が、或いは人が、國信兄による行ひの是非を論ふよりも、斯くの若く明朗、磊落な彼れをして、斯程にまで怒氣迫らせたる原因は何にあつたるか、三思することを。
 彼れが短見眼、短氣病の持ち主ではないことは、我が日乘に於て會話の遣り取りを讀み返してみても明白だ。

 不可解なるは中井の側である。被害屆けを提出せないものであるから、出頭した國信兄は取り調べを受けたのみで現在猶ほ拘束されてゐない。尤も、當局による嚴重な監視下にあるにせよ。


 文仁親王同妃兩殿下に對する中井の不敬なる言は、全國民に惡感情を惹起し、熊本の鈴木田兄による血判状提出に及ばしめたことは、テレビや新聞でも報じられたとほりである。↓↓↓
  http://sousiu.exblog.jp/15244534/

 次ぐ國信兄は斷指を敢行、その苦衷を吐露せしめた。更らに中井のごとき徒輩が『皇室の傳統・文化を守る議員連盟』の會長に就任するといふ珍事をして愈々憂憤止み難く、今度びの擧に出でたものであらう。
 「言論の自由」を絶對視し、殊更らに主張せば、「不敬發言」といふ言葉は存在そのものが否定されなければならぬ。
 だがしかし、皇國に於て、果してこのやうな無道理が罷通るのであらうか。
 「言論の自由」などてふ權利を只管ら謳歌し、而して惑溺し、いさゝかも省察せぬ癡人が蔓延る現在、一體誰れが、法的處罰をも覺悟・超越した彼れを非難し得るといふのであるか。


 ともかく。彼れに心配、同情、或いは理解を寄せる人は、決して彼れと面識のある人だけに止るまい。↓↓↓
  http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t19/254



『斬奸状』

 中井洽よ 貴樣は
天皇・皇后兩陛下 皇族に對し奉る、不忠・不敬を犯した奸賊である
天皇に對し奉り 謹みて御詫びすることも無く 先般の訪中による二重外交 そして 皇室の傳統文化を守る議員連盟の會長就任劇といふ一連の奸計は 一昨年の不敬發言 國家公安委員長時代の破廉恥行爲を帳消にする爲の 私利私欲にまみれた選擧對策であることは 明らかである
行幸啓の警衞警備に携はる現場の警察官が 無私の精神で 警衞の任務にあたつてゐる事を忘れるな 貴樣は 國家公安委員長といふ 行幸啓警備の最高責任者であつた身ぞ
 貴樣は 私利私欲 選擧對策の爲に 畏れ多くも
皇室を政爭の具とし奉つた 大罪人である貴樣に 小生の小指と包丁一本を贈呈する
 この包丁で 身削ぎせよ それによつて 罪 穢れを祓へ
 貴樣は 天地の怒りに觸れた 身削ぎを濟まさなければ 必ずや 天誅が降るものと覺悟せよ

皇紀貳仟六佰七拾貳年彌生乃月

   日本國家救濟會議
      洗心會 會長 國信 隆士
               手形血判
 中井 洽 殿

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by sousiu | 2012-03-14 18:19 | 日々所感

論ずるべきはことの是非に在らず、その衷情に在り矣。 

<切断された小指?届く 中井洽衆院議員の事務所に脅迫状>


 中井洽(ひろし)・衆院予算委員長の衆院第1議員会館(東京都千代田区)の事務所に12日、切断された手の小指とみられるものや脅迫状が入った箱が届いたことが、警視庁への取材でわかった。同庁が脅迫容疑で調べている。

 麹町署によると、小指のようなものは瓶入りで、脅迫状やナイフ(刃渡り約8センチ)、DVD1枚とともに靴の空き箱に入っていた。脅迫状には血の手形が押され、「皇室を政争の具にした」「天誅(てんちゅう)が降りるものと覚悟せよ」などと書かれていた。差出人は右翼団体幹部を名乗っており、広島県内から発送されたとみられるという。↓↓↓↓

http://www.asahi.com/national/update/0312/TKY201203120513.html
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by sousiu | 2012-03-13 15:02 | 報告

勤皇唱始 清河八郎先生  

●正三位、學習院教授、海軍中將、佐藤鐵太郎氏、大正十年天長佳節に曰く、
『天道是非の嘆あるは、眼前の成敗を以て、天意を忖度するの致す處にして、因果應報の天則は、嚴として常に明らかなり。東北諸藩たるもの必ずや、自ら省みて、首肯する處あるべきなり。而して、此時に際し(※明治御宇の初頭)最後迄王師に抗して、屈せざりし庄内が。當然嚴峻なる制裁を加へられるべきに反し、最も寛大なる處分を受けて、歸順の途に出づることを得たるは。一に、至仁至慈なる天恩の致す處なりとはいへ、抑もまた、之が因をなすものありて存するにあらざるなきを得んや。
 惟ふに。庄内の山河は、實に勤王の先驅者たる清河八郎を生めり。先生、志を當世に得ずして、常に白刃、身に薄るの危地に出入し、東潛西走、造次顛沛、安んずるの處なく、不幸終に刺客の毒刃に斃れ、恨を呑んで雄圖空しく畫餠に歸せり。人生の慘事。何物かこれに加んや。焉んぞ知らむ。天の庄内に酬るに、天朝の寛宏なる恩典を以てしたる所以のもの。實に、先生の孤忠を憐み、功を録して徳に、其郷里に報じたまへるにあらざるなきを』(大正十年天長佳節)と。(※は野生による)

●矧川志賀重昴氏、明治四十五年四月十四日、「正四位 清河八郎先生 五十年祭」(於淺草傳法院)に於て、祭壇下に立ちて述ぶるに、
『勤王論の提唱は、世人は薩長の專賣特許の如くに思ふが、焉んぞ知らむ。ずつとゞゝゝ其の以前に、而かも眞木和泉守と談じ、平野國臣、伊牟田眞風等を清河先生が頤使して薩藩に遊説せしむるに至つたのである』と。
 こは、いさゝか清河先生を見上げたものとして、他の先生を見下げた言辭であらう。清河八郎先生による『潛中始末』には、眞木紫灘先生と對面した樣子が記されてゐる。曰く、『下村より水田迄、八里の處、夜分に入りて相達す。水田と申すは、天滿宮の鎭守處にて、太宰府に續きたる九州第二天滿宮なり。則和泉守は、直弟大鳥井敬太方に蟄居せり。別に小一室を構へて、一切人に會するを得ず。併、近來は少しづゝ遊歴者などにも稀に會すると云ふ。~中略~ 思ひ寄らぬ尊客とて、此迄ありし事共、御互に相話し、自ら食物を製して、遠路を勞はる。如何樣人の信ずる程のある人物なれば、我も信の知己の如くに思はれ、西來の次第、其外とも別意なく相談す』とあるところをみれば、言辭は、畢竟、五十年祭に用意されたものであることが判る。とは云へ、過分となつた上下を足して半分で割つても、清河先生のその行動力と影響力、少々ならぬものであつたことが容易に識らされるのである。



 清河八郎正明先生とは。
 毎度の如く、徳富猪一郎翁の『近世日本國民史』から引用することを試みたい。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第四十六卷 ~文久大勢一變 上篇~』(昭和九年七月卅日『民友社』發行)に曰く、
『抑も浪人有志の中にて、尤も較著なる働きを做したるは、清河八郎、田中河内介を擧げねばならぬ。その中にも、清河の運動を以て、最も效果的とせねばならぬ。清河八郎は天保十年、羽前國東田川郡清川村に生る。本名は齋藤元司。自から地名によりて清河八郎と稱した。少にして不羈、弘化四年十八歳のとき、家を脱して江戸に赴き、東條一堂に學ぶ。而して同門の士、安積五郎と相得、兄弟の義を結ぶ。嘉永元年、東海道を經て京都に赴き、闕を拜し、勤王の志を起し、大阪、岡山、廣島等を巡遊し、歸途は高野、奈良、山田等を經、其の見聞を廣め、其の志氣を養うた。~中略~』

仝『九州の有志をして、決然として起たしめたるには、清河八郎の遊説の功、與りて最も大であつた。清河は當時の志士中にて、劍客であると同時に、學者でもあつた。~中略~
 彼は有馬新七、若しくは眞木保臣の如き主義の人と云ふよりも、寧ろ戰國時代の縱横、傾危の士と云ふ可き類にして、彼の志は尊皇よりも攘夷が主であつた。彼は固より其の目的の爲めには、手段などを頓著する漢ではなかつた。而して其の言行を見れば、誇大妄想狂者とも猜せらるゝ點が無いでも無かつたが、然も亦た決して非常識漢では無かつた。彼の意見は、九州の義士を募り、薩藩の力に頼りて、京畿に義旗を掲げ、主上を擁して、攘夷を斷行するにあつた』と。
 蘇峰翁も、誇大妄想狂者とは、これまた辛口であるが、されど、かく缺點をして若しも値引きされたとしても、如上の如き稱贊は清河先生の非凡たるを聊かも損なふものではない。寧ろ、これに華を添へるものである。
 それにしても、上記の言にはいさゝか補足が要せられねばならない。清河八郎先生は、「尊皇より攘夷」ではなく、時勢の趨くところ、清河先生の攘夷の炎が餘りにも激甚を極はめたるが故に、斯く見えたるに過ぎない。つまり、尊皇の志逞しくあるが爲めの攘夷だ。孝明帝の御心を奉戴したるが爲めの、必着すべき「攘夷」であつた。清河先生の、文久二年四月八日に御兩親に認めたる書翰によつて野生は斯く觀じるに至ることが出來る。
○清河先生、書翰に記すに、
今や夷狄、其外を侵す、幕府之を征する能はず。而して屡ば詔旨に違ふ矣。是に於て乎、天下士民始めて王權の衰廢を憂ふ。皆な徳川氏に背き、皇室を戴くの心有り。此乃天の此の際會を生ずる、誠に偶然ならざる也。陛下、善く此の際會に乘じ、赫然として奮怒せば、數百年頽廢の大權、復興す可き也。百姓數百年の罪、複謝す可き也』と。
 この書翰は所謂る「寺田屋事變」(文久二年四月廿三日)の約二週間前のもの。つまり世情も事態も切迫してゐた頃だ。よし清河先生がたとひ妄想狂患者であつたとしても、誰れしも感ずることなくんば能はぬ張り詰めたこの空氣の中で、覺悟した士の言に不實はあるまい。

 島津久光公上京に伴ひ計企された義擧は、からくも潛伏先の大阪薩摩藩邸内で祖語が生じ、清河先生は離別。爲めに寺田屋事件の遭難を免れたが、その後も油然として、尊皇攘夷の大旆を掲げるに至る。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第五十二卷 ~文久元治の時局~』(昭和十一年八月十日『民友社』發行)に曰く、
『清河八郎は、何れかと云へば創業の才の勝ちたる漢であつた。九州を遊説して、九州の志士を蹶起せしめ、之を驅りて上國に來り集らしたるも、專ら清河及び田中河内介等の力であつた。されば相當の順序から云へば、寺田屋事變には、彼は當然參加す可き一人であつたが、その以前に彼は仲間離れをして、却て其爲めに其の厄難を免かれた。彼は決して難を避くる怯夫では無かつた』と。
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 野生は、清河八郎先生を敬慕する餘り、これを過分に宣傳するでない。又た、淺識を趣味的にひけらかすつもりでもない。
 固より、清河先生を山師や繪圖師、將た又た妄想狂患者と看做すが限界の、「勤皇」なんたるかを解し得ぬ人に向うて當て付けるでもない。
 野生が清河先生から學ばむとする、それ、尊皇が觀念上に止らず、つひに勅許なき日米修好通商條約調印、和宮親子内親王御降嫁の問題が尊皇志士を奮ひ立たせ、つまり尊皇が觀念から實行に及び、畢竟、勤皇へと移行した時代にあつて、その時代に躍動した一人、清河先生の赤心と勇氣、行動と覺悟を學ばんとするものである。
 時代が人をつくるのか、人が時代をつくるのか、野生には何とも答へることが出來ない。
 されど、時代の變節に於て、傑物が要せられる可きは答ふるまでもない。

 さて。尊皇から勤皇へと異動せらる次の時機到來は果たしていつなのだらう。
 その到來に、吾人が備へておく可きは何であるか。
 今日記したる日乘は、今月四日の記事からからうじて一筋の繋がりを持たせてゐる積もりである。(ほめ殺されさうになつたことゝ、セレブマンシヨンの廣告は別として)

 野生は猶ほ、清河先生に就て、少しく記す可きところがあらねばならぬ。
 野生の筆力乏しきが爲め、文章の前後不覺に就ては諒せられ給へ。乞ふ不明及び不足な點は、書肆で入手する能ふ御本によつて之を充足せられむことを。


 
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by sousiu | 2012-03-09 08:21 | 先人顯彰

小論愚案 求學求道・・・の補足。 

●蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第十六卷 徳川幕府上期 下卷 -思想篇-』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)に曰く、
『朱子學は、徳川時代に於て、偶然にも、二大派を生じた。一は官學、即ち徳川幕府の御用學者林家によりて、代表せらるゝものにして、他は所謂る南學と稱する、土佐を發祥の地とし、山崎闇齋により、京都に於て、唱道せられたる私學である。

~中略~ 而して朱子學が、幕府の現行制度に向つて、一大打撃を加ふるに至つたのは、林家の御用學問でなくして、山崎派の民間學問であつた。山崎闇齋其人は、必ずしも幕府の現行制度の批評者でもなく、改革者でもなく、又た反抗者でもなかつた。然も彼の流れを酌む末派に至りては、其の唱道者の思ひ及ばざる點に迄、其の學問の感化を推し及ぼした。
 此の意味に於ては、熊澤蕃山よりも、山鹿素行よりも、伊藤仁齋、物徂徠抔は云ふ迄もなく。山崎闇齋は實に幕政改革の氣運を釀造したる、唯一人たらざるも、第一人と云はねばならぬ。而して山崎闇齋が、此の如き大勢力となりたる所以は、山崎學その物の勢力よりも、寧ろ山崎學によりて刺戟せられ、長養せられたる、水戸學の力である。
 水戸學の淵源が、山崎學にありと云ふは、餘りに山崎學の勢力を、買ひ被りたるに庶幾い。然も水戸學は、其の發生を山崎學に假らざる迄も、其の發達の、山崎學に負ふ所、決して少々ではなかつた。而して山崎學も、水戸學によりて始めて其力を、天下に伸ぶるを得た。此の兩者の關係に就ては、更らに他の機會に於て、語るであらう。
 (※當日乘にて既記。→→  http://sousiu.exblog.jp/17043640/)

~中略~ 朱子學に林家と、山崎派とあるは、猶ほ英國の基督新教に、國教と、非國教とあるが如し。林家の朱子學は、流石に御用學問だけのことありて、如何にも温柔、敦厚のものであつた。其の學問の筋合は、只だ當局者に都合の良き樣に出で來つた。彼等は國家としては、支那を中華とし、政治としては、幕府を本位とした。

 固より、如何に官學にせよ、一般の氣運、及び風潮に沒交渉なるを得なかつた。如何に支那を崇拜しても、道春等亦た、日本が神國であると云ふ思想に、浸潤せらるゝを禁じ得なかつた。如何に眼中只だ將軍あるを知つてゐても、全く京都を無視することは能はなかつた。併し彼等は氣運から、世潮から、動かされ、引きずらるゝに止りて、未だ積極に之を動かし、之を引きずるが如きことは能はなかつた。
 然も山崎闇齋一派に至りては、正しくそれであつた。彼等の總てとは云はぬが、其の一派中からして、朱子學の精神を、直ちに現行制度に適用して、大いに其の批評的、時としては破壞的論評を、逞うするもの出で來つた。彼等は必ずしも倒幕だとか、天皇親政とか云ふが如き、革命的氣分に感染してゐなかつた。然も彼等の論鋒は、無意識的に、その方面に進み行くを禁じ得なかつた。
 繰り返して云ふ、山崎學の影響は、勤王思想、國體思想の發達に對して、實に甚大であつた
』と。


 これは新生兒の成長を促す眞白き母乳が、何かと結合し、乳兒の體内で深紅の血となり或いは骨肉となる、その結合したる何か、の一例として識る可しだ。
 固より、學問のみではない。山崎闇齋先生は、垂加神道の祖師でもある。御高弟の間では、崎門學と垂加神道の一致には多少の確執や葛藤もあつたやうだが、ともかく、思想と信仰が極めて密接となり、否、濃密となり、高められた結果が、白き乳を赤き血へ變へたのである。抑も、同じ朱子學なるも、何故に崎門學と林學の、隆盛と沒落といふ差異が生じたのであるか。これは時代の變遷も無視出來まいが、やはり、神國に對する確信の差ではないかと、野生は思ふのである。

 『闇齋は學者と云はんよりも、寧ろ教育者であつた。彼の學問には、當初から宗教的熱信と、訓練とを含蓄した。されば彼が人を教ふるや、記誦詞章の學にあらずして、直ちに實踐躬行であつた。而して其の學問の範圍を、極めて狹くして、其の深く徹底せんことを期した』仝。


 平成の御代に何を今更ら、朱子學などを、と一笑する勿れ。
 野生の、と云はむよりも、歴史の傳へむとするの眞意は、日本が國風は、借り物の思想や信仰を模倣すればそれ衰微にこそ向ひけれ、決して好轉する能はぬといふことだ。異國の學を手放しで信奉する、所謂る左翼的な人達に、若しも純粹に世直しの志が存するのであれば、その人らには今一度、歴史を繙く作業から始められんことを是非、促すものである。
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by sousiu | 2012-03-08 01:16 | 小論愚案