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柳子新論抄  「人文第三」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「人文第三」に曰く、
『柳子曰く、人生まれて裸なるは、天の性なり。貴となく、賤となく、蠢々として唯だ食をのみ之を求め、唯だ欲をのみ之を遂げ、禽獸と以て異なること無し。惟だ、鳥と獸とは、飛走を以て其の能を異にし、羽毛を以て其の文を殊にし、大小を以て其の類を分かつ。乃はち鱗介諸蟲に至りても、亦た各々其の文あり。譬へば草木の區にして以て別たるゝが如し。人は則はち然らず。飛走の異なる無く、羽毛の殊なる無く、鼻口其の體を同じうし、手足其の形を同じうし、言語其の文を同じうし、聲色其の欲を同じうす。夫れ然らば則はち等無く差無し。貴賤何ぞ別たれん。故に強は弱を凌ぎ、剛は柔を侮り、相害なひ、相傷つけ、相虐げ、相殺し、攘奪劫掠、固より親疎を之れ論ぜず。亦た何ぞ少長を之れ問はん。是れを以て穴居草處、禽獸と共に死し、草木と竝び朽ちる者、鴻荒の時は乃はち爾り。
 惟だ人は萬物の靈。靈なれば則はち神なり。群衆の中、必ず傑然たる者有り、能く自ら其の生を遂げて、以て人の生に及ぼし、能く自ら其の身を養ひて、以て人の身に及ぼし、食を作りて之れに食はしめ、衣を作りて之を衣しめ、之に稼穡を教へ、之に紡織を教へ、利用厚生、至らざる所なければ、則はち人の之れに歸すること衆星の北辰に拱するが如し。亦た猶ほ蚩々として唯だ食をのみ之れを分かち、君臣と爲し、父子と爲し、夫婦と爲し、長幼と爲す。才以て之を分かち、智愚と爲し、賢不肖と爲す。業以て之を分かち、農工商賈と爲す。 而して後、強は弱を凌がず、剛は柔を侮らずして、而して後、相害ひ、相傷つけ、相虐げ、相殺し、攘奪劫略するの俗已めり』、(改行は便宜上として、野生による)

 上記は、國家の發生に際して、即はち殆ど禽獸と異なることなき時代から、人が人倫の道を確立したことを説かれたもの。
 固よりこの御説には異論のある方もをられよう。



●大貳先生の曰く、
『因りて、其の禮を制し、差等分る。因りて其の職を命じ、官制立つ。因りて其の服を作り、衣冠成る。之を作る者之を聖と謂ひ、之を述ぶる者之を賢と謂ひ、之を率ゐる者之を 君と謂ひ、之に從ふ者之を公卿大夫と謂ひ、之に由る者之を士と謂ひ、之に化する者之を民と謂ふ。故に、上は、天子より下は庶人に至るまで、冠有らざるはなく、衣有らざるはなく、而して鳥獸と群を爲さず。是れ其の天性分かるゝ所有ることなくして夫の制者を待つこと有るなり』、

 段々と大貳先生の云ふ國家の發生が成つて來た。されど、この文章には留意す可き點を要する。以下に、例によつて解説文を記する。
○内容の解説に曰く、
『こゝに見えたる國家社會發生の理論は、全く支那思想、特に「孟子」の倫理成立に關する説の祖述であり、わが古典に表はれたる國民的信念、即ち、國土民人が 天祖によつて創生せられた太初より、わが君臣關係は嚴として定まり、國祖と國民の父子的關係が成立したとなすものと、顯著な違ひがある』と。
 この點に就て、解説者は斯く分析する。
『大貳先生は、恐らくは十八歳頃まで、所謂、崎門三傑、三宅尚齋門下に在りて出色と稱せられた加賀美櫻塢に業を受け、後、江戸に出てからも、櫻塢との交誼は永くつゞいたが、又、太宰春臺の高足五味釜川の指導下に入つて、蘐(草冠+下左「言」+下右「爰」)園の流を汲み、益友を以て稱せられた。三宅尚齋が崎門の三傑とたたへられつゝも、遂に師説の蘊奧を理解することができず、谷秦山先生によつて完膚なきまでに反駁せられたのは、「秦山手簡」に明らかであるが、加賀美櫻塢も亦、少しく歌道國學を學んだとは云へ、熱烈なる朱子の崇拜者であつたこと、尚齋と變りはない。五味釜川は、安民を以て其の學、即ち「先王の道」の眼目となし、「革命者」であつたころの古聖人の道を、我が江戸時代に再制作せんとしたかの徂徠の流を汲むもの。その主張に、日本人としての眞の自覺が見られなかつたのは周知の事實である。然して大貳先生の思想はその間に育まれたのである。この章に限らず柳子新論の瑕瑾と思はるゝものは、職としてかゝる理由にもとづく』と。

 だがしかし、大貳先生の眼目と「柳子新論」に見る可き要點はこゝに非ず。あくまでも徹底したる名分論である。何處まで行つても、名分の一點張りのところにある。即はち、正名が、主、だ。




●大貳先生の曰く、仝、
『故に服は身の章(あや)なり、冠は首の飾なり。身に章なく首に飾なき、之を蠻夷の俗と謂ひ、以て聖人の民と別つ。今夫れ日月の照らす所、舟車の通ずる所、斯くの人有らざるはなし。而も唯だ其の風化の及ぶ所のみ、斯の文を同じうし、斯の章を同じうし、而して後、能く其の制を承け、能く其の徳を被るなり。故に衣冠は、特(ひと)り其の寒を拒ぐのみにあらず、裸且つ跣、禽獸と別つことなきを恥づるが爲めなり。冠を制しては、以て其の首を掩ひ、衣を制しては、以て其の身を掩ひ、裳しては、以て其の脛を掩ひ、履しては、以て其の足を掩ふ。禮に之れ有り、曰く、渉らざれば掲げず、敬事有るに非ずんば敢て袒裼せず、君子は死しても其の冠を免ぜず、と。豈に皆、其の醜を恥づるが爲めに非ずや。且つ夫れ衣冠は、豈に特り其の醜を恥づるが爲めのみならんや。亦た豈に特り身首を文(かざ)るのみならんや。位官職事此に由りて分たれ、禮樂刑罰此に由りて行はれ、風俗此に由りて移り、政令此に由りて布かれ、國家此に由りて治まり、四夷此に由りて服す。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
衣冠の制の意義について述べ、それが單なる裝飾或は實用に止まらずして、正教と關連あるを云ふ』、

 ○『日月の照らす所、舟車の通ずる所』の意。
 全世界のこと。

 ○『位官』
 官位に同じ。官とは、朝廷の諸職をいひ、位は朝廷より親王諸臣に賜ふ位階を云ふ。即はち、大臣以下書吏を官、一品以下初位以上を位と云ふ。




●大貳先生の曰く、仝、
『若し夫れ、無道の君は則はち然らず。衣冠を以て桎梏と爲し、禮樂を以て虚文と爲す。是を以て其の政を爲すや、唯だ刑と法とに之れ任じ、遂に亂階を結構す。豈に亦た異ならずや。或は衰亂の後を承けて、古を稽(かんが)ふるに及ばざれば、則はち服は之を存すと雖も、制は其の制に非ず、文は其の文に非ず、貴賤等無く、尊卑分無く、唯だ其の有無に之れ由るのみ。 ~中略~ 若し乃はち士庶人の服する所も、亦た唯だ有無に之れ由れば、則はち富者は帛を以てし、貧者は布を以てす。富者は常に美にして、貧者は常に惡(みにく)し。貴賤是に於てか亂る。 ~中略~ 禦侮の意、競ひて其の美ならむことを求め、驕者是れに於てか長ず。豈に徒だに然りと爲すのみならんや。貴賤其の等を失なひ、而して禮俗攘る。士民其の貧を患へ、而して徳義廢る。驕奢其の欲を縱(ほしいまゝ)にし、而して禍亂興る。凡そ此の如きの類、其の害、勝(あ)げて計るべからず。是れ皆、衣冠、制無くして、文物足らざるが故のみ』、

 この一段は、衣冠の制の無視輕視が、社會に於ける種々の混亂、墮落を惹起するを説く。即はち名分の正しからざる弊害避け難きを説くものだ。
 二百五十年の時を隔てゝ尚ほ、現代に一聽可きことがらでもある。




 而、大貳先生は、亦た反す刀で、當代の世相を斬らんとす。固より當時にあつては、自身の壽命と引き替へにしなければならない。
●大貳先生の曰く、仝、
『且つや今の卿大夫、祭祀天禮の時に當たりては、或は尚ほ能く其の冠を冠し、其の服を服す。しかも■(馬+芻=すう)從輿隸の屬、裳を■(かか)げ、衣を掲げ、臀腰掩はず、大に其の手を掉り、高く其の足を踏み、疾走して威を示し、狂乎して行を裝ひ、慣れて風を爲し、狃れて俗を爲す。我其の此の如きを見るや、夏畦も愧づるに足らざるなり。於乎(あゝ)、足利氏の天下に於けるや、末世已に斷髮の俗有りしも、亦た唯だ武人、戰士の徒の、僅々便に隨へるのみ。其の一たび變ずるに至りては、則はち官は公卿に任じ、職は將相に補するも、亦た皆斬髮頂露、方鬢(はうびん)月額(さかやき)、加ふるに無制の服を以てす。則はち所謂る、衣冠の風は、化して戎蠻の俗と成れり。醜も亦た甚しからずや。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『衣冠の制の確立と國家の秩序の不可離の關係を一般的に述べた後をうけて、敢然として、當代に於ける我が衣冠の制を問題とした』、

 ○『今の卿大夫』の意。
 云ふまでもなく、江戸時代の大名のことである。

 ○『~狂乎して行を裝ひ』の意。
 時代劇などでみられる、「下~に~、下に~」のアレである。

○『夏畦も愧づるに足らざるなり』の意。
 夏畦、とは、夏月炎天に田畑を耕すを云ひ、甚だ苦勞にして下賤なるをさす。
 要するに、この前後の文章は、くだらぬ大名行列に加はるくらゐならば、下賤なる農夫になりたい、との意味だ。たとひ、『柳子』なる、在らぬ人物に假託した論文とは云へ、當時の支配下にあつて、この發言を以てして幕府から要注意人物と目されぬ方が、寧ろ不思議といふ可きものよ。
 されど大貳先生による反幕の氣焔は、やがてその身に迫るであらう後難を慮らぬばかりか、更らに止まる可きところすらをも知らない。啻に第一項に掲げたる、自己の正名論に隨ひ驀らに筆を進めるあるのみ而已矣。




●大貳先生の曰く、仝、
今の人を以て、今の服を著し、今の朝に立ちて、今の政を行なふ、其の威儀無きや固よりなり。亦た奚ぞ夫の天下の陶鑄するの道を知らんや。夫れ此の道の如くんば、寧ろ以て治平の術となさんか、將た以て衰亂の俗となさんか、寧ろ以て中國の教へと爲さんか、將た以て夷狄の風と爲さんか、吾、未だ其の何を以て之を處するかを知らざるなり。 ~中略~ 即はち、我邦の俗の如きは、縱令(たとひ)賢聖の君有りて、古禮を行ひ、古樂を奏し、官政舊に率(したが)ひ、衣冠再び擧がるも、亦た惟だ斷髮の俗、裸跣の習、馴致の久しきに非ずんば、奚ぞ能く中士の人に似んや。士は必ず桎梏に勝(た)へず、民は必ず鬱冒に勝へざらん。是れ其の之を如何ともすべからざるものなり。澆季の弊、一に此に至れるか。長歎無からんを欲すと雖も、得可からざるなり』(「人文第三」完)

 つまり、當時江戸時代の衣冠の制の紊亂を掲げて、夷狄の風なりと痛罵した後をうけ、支那の歴史に目を轉じ、その俗の洗禮を承けてしまつてゐるが爲め、一洗、復古せねばならぬ次第を述べるも、斯くの如き汚染の進むを顧慮すれば、矯正の容易ならざるを長歎されてゐるわけである。「澆季」とは、風俗の輕薄になる末の書のこと。


 日本が諸國より到來する習ひに敏感で、これに拒絶反應を示すことは強いが(當時に於ける耶蘇教など)、一ト度び、之れを受け容れると、忽ち感染するといふ害に陷る。これは古今にみられる通弊だ。


 果して現代は奈何。西歐文明の輸入から、西歐崇拜、昂じて西歐萬能の盲信病を患ひ、百數十年に垂んとしてゐる。
 時こそ異なれ、場合こそ同じからざれ、本質的には現代も、その通弊の例に漏れたるはなし。
 而、大貳先生は、如何にしてこの深刻なる病ひから、日本を治癒す可きと考ふるのであるか。『柳子新論』も漸く、三分の一に差し掛からうとしてゐる。


 ・・・・今更らであるが、この[良書紹介]の構成の仕方は失敗したな。しんどくてタマラン。
 「三日坊主」ならぬ「三篇坊主」の氣分になりつゝある。
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by sousiu | 2012-04-30 10:25 | 良書紹介

修理固成、光華明彩、天皇彌榮を奉唱す 

 本日は、皇國志士連合有志と多摩の御陵を參拜す。

 畏れ多くも、みささぎの御前にて、草莽の有志一同、念誦を唱へ奉るに、希はくは、平成の御代に神州の正氣起こらむことを、と。
 本日は晴天なり也矣。
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by sousiu | 2012-04-29 13:47 | 報告

柳子新論抄  「得一第二」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「得一第二」に曰く、
柳子曰く、夫れ天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、王侯は一を得て以て天下の貞と爲るといへり。豈に特(ひとり)天地と王侯をにも然りと爲さんや。丈夫も一を得るに非らずんば、則はち、以て其の家を治むべからず。士も一を得るに非らずんば、則はち、以て其の妻孥を養ふべからず。庶人も一を得るに非らずんば、則はち、以て其の身を安んずべからず。父も以て其の子を教ふべからず、子も以て其の父に事(つか)ふべからず。故に、天に二日無く、民に二王無し。忠臣は二君に事へず。烈女は二夫を更(あらた)めず、と』、

 ○内容の解説に曰く、
『一といふことを貴び、天地より萬物に至るまで、一を得ることによつて、はじめて成立し、その本然の面目を保つ事ができるとするもの。こゝに一とは、一元論的な道の謂であり、從つて、得一とは名分を嚴正にすることを意味する』、




●大貳先生の曰く、仝、
弟子請うて曰く、願はくは其の詳を聞かん、と。曰く、今かの衰亂の國は、君臣其の志を二にし、祿位其の本を二にす。故に名を好む者は彼れに從ひ、利を好む者は此れに從ふ。名利相屬せずして、情欲分る。即はち、我が徒、將さに安(いづ)くにか依らんとする。富を頒(わか)つ者は貴からず、貴を賣る者は富まず、富貴相得ずして、威權分る。即はち我が徒、亦た將さに安くに依らんとする。 ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『一切のことを通じて、得一が根本問題であるとなし、一貫せる原理の必要を力説した後をうけて、この段に於ては、現實に眼を轉じ、江戸時代が政治的に二元制なるを忌憚なく指摘し、そこに釀成される社會の亂離を描いてゐる』、

 ○『衰亂の國~』の意。
 皇國のこと。明言を避けたのである。

 ○『君臣其の志を二にし、祿位其の本を二にす』の意。
 朝廷と幕府に分れて相對し、朝廷は名譽の源泉として位を授け玉ふが、經濟的には全く無力であり、人々の俸祿は幕府によつて給與される。即はち祿位が一を得てゐない。故に名を好む者は、朝廷に從ひ、利を好む者は幕府に從ふ有樣である。

 ○『我が徒、亦た將さに安くに依らんとする』の意。
 朝廷と幕府、そのいづれかにつかんとするのであるか、といふ意。これは岐路に立つて出處進退に迷ふ者の嘆息ではなく、躊躇を許さゞる實踐への決斷を迫る意である。本文、以下、同じ意。
 當時、正名を論じ、尊皇思想を懷く者は少くなかつたが、公武一和を基調とし、國民に對して我が國體の本源を認識し、皇室の尊ぶ可きを教へるにとゞまり、幕府の存在に就ては、その發生の史的事實より、これを必然的なものとして肯定するか、或は全然この問題に觸れなかつた。それを大貳先生は、こゝに於て敢然として取り上げたのである。倒幕の志は、正名第一に見た以上に明らかであらう。




●大貳先生の曰く、仝、
夫れ、獸に比肩あり、鳥に比翼あり。兩々相依りて、飛走始めて得る。若し其れ、相離るれば則はち病(※止む、乎)む。是れ其の性たるなり。奚(いづくん)ぞ、かの燕雀と犬羊とに若かんや。且つ人、此の二物を見ば、必ず怪しみて曰はん、支離(しり)なりと矣。人にして此の如くんば、將さに之を何と謂はんとするや。今かの二物の如きは、支離なるは、則はち固よりなり。~中略~ 上に事(つか)ふるに貳(「二」の意)なれば、則はち不義、先王常刑有り。下を使ふに貳なれば、則はち不仁、兆民從ふことを肯んぜず。且つや今の人、婦に二心有りと聞かば、則はち、必ず曰はん、淫なり、と。臣にして二心有らば、其れ之れを如何せむ。夫れ誠に此の如くならんか。婦にして貞なる者は則はち多し。士にして忠なる者は、吾れ其の必ず有ること無からんを知るなり。~云々』、

 案ずるに、上記は説明を要すまい。讀んで文の如く、全く以て、その通りである。返す言葉が見當らない。




●大貳先生の曰く、仝、
國の爲めに計らば、亦た惟だ官制を復して、以て其の名を正し、禮樂を興して、以て其の實を示すに如かず。君臣貳無く、權勢一に歸し、令すれば行はれ、禁ずれば止み、而る後、君子位に在り、小人歸する所あるなり。是れを之れ得一の道と謂ふ』と。(「得一第二」完)

 ○内容の解説に曰く、
『上述の如き、皇國の亂脈に對する匡正策、即はち「得一之道」を述べて、本章の結語となす』と。

 ○『惟だ官制を復して、~』の意。
 征夷大將軍は、その本來の面目に歸して、夷狄を攘ふ武官となし、政治の大權は、これを 天皇に奉還す可きである、との意



 愚案。
 徐々に、大貳先生の本旨が見え出して來たつた。「大政奉還」「皇政復古」だ。
 「柳氏新論」の脱稿より凡そ百年後は、長州藩士を主として、一部(百年後とて、未だ一部、だ)過激な志士達によつて、倒幕の狼煙が揚げられた。「禁門の變」は百五年後に當たる。
 その頃であれば、「柳氏新論」は、既に「新論」と名付けられる可き内容ではなかつたかも知れぬ。
 況して「言論の自由」によつて思想を失なひつゝある現代人にとつてみれば、寧ろ、滑稽な論として一笑に附されるかもしれない。

 案ずるに、倒幕運動の大旗が掲げられたる百年前にあつて、大貳先生の見識は、少なくとも百年先にあつたと看做して宜い。
 大貳先生の、敬意に價す可きは、見識だけではない。死の避ける可からざるを知りながら、その殉教者に齊しき決意はどうだ。

 「柳子新論」を拜讀し、平成の今日に於ても、壓倒されるの感がある。紙上に於て斯くの如きであるのだから、大貳先生その人に門人の多數があつたことは疑ふまでもない。
 今日、保守派陣營から、馬に喰はせるほどの「國家改造論」が叫ばれ、之れが安賣りされてゐるが、思想と呼べるほど高尚なものがあるを殘念乍ら野生は識らない。云ふまでもないが、「批判」はそれ丈では決して「思想」たり得ないのだ。

 戰前戰後を通じて、皇國は幾多の紆餘曲折を經て、今日を迎へた。
 天皇機關説は跋扈し、次いで社會主義思想は潮の如くとなり、次いで黄金萬能思想に毒せられ、やがてこれ等の思想では現状維持の力すら無きを思ひ知つた。後悔と反省は、猶ほも民主主義思想の發展飛躍といふ、正しからぬ方向を選擇した。ゆとり教育、人權尊重、平等主義など唱へ子供達まで捲き込んだ。國家よりも國民を第一とする民主黨が、民の絶大なる期待を集めて政權を獲得したことを以て見ても、如何に國家國民が毒され、今日をこそ見れ將來の見据ゑる能力が欠落してゐるか容易に察することが出來る。
 當然たる結果として、秩序の維持に困難が生じて來た。西歐的民主主義の副産物である個人主義思想とは、畢竟、反社會思想と同じなのである。極言すれば、秩序崩壞思想だ。これを金科玉條としつゝ秩序を維持せんとするならば、法力と權力に委ねるほか處置あるまい。
 以謂く、戰後史觀ではなく、維新後史觀からの脱却があらぬ限り、いかに藻掻かんとするも、暗中模索の延長に過ぎぬ。

 明治維新後は、功利を手にせず、維新を更らに完全ならしめむと戰つた先人達があつた。
 さうした先人の意志は、勿論維新前に培はれたものだ。この志を繼續する爲めにも、維新前の先達を再び、平成の御宇に於て學ぶことに、野生は決して意義なきものとしないのである。明治維新百五十年は、もう間近であるのだ。
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by sousiu | 2012-04-28 23:45 | 良書紹介

柳子新論抄  「正名第一」 

 『柳子新論』の論評に就ては、野生の稚拙、蒙昧な説明を避け、他の書に之を委ねる可きであらう。

●本多辰次郎氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十五日「日本學術普及會」發行)
『大貳の學識と意見とは、彼れが畢生の心血を濺ぎたる「柳子新論」に就て見ることが出來る、其の尊王・正名の大主張は今日猶凜として正氣あるを覺ゆ、「靖獻遺言」や「中興鑑言」や「保建大記」等の書を喜ぶ者は亦此の「柳子新論」を一讀すべきである、正名は其の首章で有て、大意は申すまでも無く、名分上の主權者たる朝廷の外に、實力上の主權者たる幕府の存立は正に僭僞である、國體に背反するものであるといふ決論を隱約の間に顯したものである』。

●『日本國粹全書 第四輯』(大正五年十一月廿八日『日本國粹全書刊行會』發行)
『(柳子新論は)山縣昌貞が、時人の我が國體の何物たるを知らずして、往々、名分大義を謬り、王室を忘れ、武門を尊び、冠履顛倒、輕重、當を失するものあるを慨し、名分大義を正し、王綱を恢弘せんことをはかり、幕府の粃政を難じ、經國の大事を論じたるものにして、「正名」以下、編目を設くること十三。所論、卓拔にして剴切、識見、高邁にして、遠く時流を抽く。この編、もと、徳川氏の盛時に編せられたりしかど、諱むところありて、久しく世に出でざりしといふ』。

●『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日『大日本明道會』發行)
『柳子新論十三篇は山縣昌貞の先人が、享保の初年、其の故宅を開墾したりし時、石凾中より發見して之を謄寫し置きたるものといふ(※下記に説明)。其の内容は、武士の跋扈を憤り、富家の專横を怒り、民産の平均すべきを説き、人才の進路を開くべきを論じ、時弊を改革するは、王政を復古して、大化改新の精神を徹底せしむるに外なきを斷じ、遂に幕府の顛覆に論及せるものにして、徳川の中世に於ける内國の弊習を憤慨したるものゝ著述たること疑ふべからず。蓋し昌貞自ら著す所にして、嫌疑を避けんが爲に故らに其蹤跡を晦ましたるものなるべし』

 『柳子新論』は、その内容を當時の幕府が看過默認す可からざる事情があつた。固より『柳子新論』は大貳先生の自著であるが、大貳先生は同書を古人の作に假託して、自跋の中で之をトボケて説明してゐる。(このやうに古人に假託した例は、當時に於て決して少くはない)
 因みに、本來の書名は『新論』であつたといふ。しかし後人が、水戸の會澤正志齋先生の『新論』と區別する爲め、大貳先生の號であつた柳莊から思ひ付いて、『柳子新論』と名付けたものである。文中の『柳子曰く~』とは、云ふまでもなく、大貳先生御自身のことである。



 『柳子新論』は、漢文だ。然も奧が深い。
 徳富蘇峰翁も、前掲書に於て、
『抑も此の柳子新論は、文章から云へば、徂徠學派の修辭の餘を承け來つたもので、其の手際はとても、滔々たる雜學者の及ぶ所ではない。何人も之を一讀する者は、山縣大貳の漢文修辭の上に、造詣の淺くなかつたのに驚くであらう。 ~中略~ それよりも、此の論文にて見る可きは、山縣大貳其人の意見である。否な山縣大貳其人の意見と云ふよりも、其人によりて代表せらるゝ、當時の或部分に行はれた意見である。即ち、時代精神の萌芽である
 と感嘆を隱さない。



 野生の癖で、譯文や解説書を一書讀んで滿足する能はず、解説書に就ても複數書を拜讀したのであるが、『日本學叢書 第六卷』(監修解説/平泉澄先生、校訂譯注/鳥巣通明先生、昭和十四年七月十五日「雄山閣」發行)が理解するのに最も適切であると信じ、之を頼り、若干修正しつゝ、筆ならぬキーボードを打ち進めてみたい。
※原文は漢文。振り假名は野生による。




山縣大貳先生、『柳子新論』(寶暦九年三月脱稿)「正名第一」に曰く、
柳子曰く、物には形無くして、名有るものが有り。形有りて名無きものは未だ之れ有らざるなり。名の以て已むべからざるや、聖人之に由りて以て教へを其の中に寓せり ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『正名第一。皇國には古來、刑、刑律、刑法等の觀念は存在したが、維新の當初に至るまで、未だ「民法」なる語は勿論、權利、義務の如き用語すら無かつたので、明治時代に於ける法典編纂に際し、非常な困難を體驗せねばならなかつた。この一例によつても東洋と西洋の政治思想の相違が觀察される。事實、西洋に於ては、國政が道徳そのものとはせられず、却て力を依據とする法治とせられ、力と正義とが對峙し、徳と法が別原理の上に立つと考へられたのに對し、東洋では、道徳を治國平天下の根本としたのであるこゝに、政治の要諦は「正名」にありとの古人の主張が生まれる。山縣大貳先生が、燃ゆるが如き改革の熱情をいだきつゝものした本書に於いて、直ちに、忙はしく制度政策を論ずることなく、この正統的な東洋政治思想をうけて、「第一」に「正名」に筆を起されたのは、その着眼の高く、立意の正しきを示すもので、後進の當に心すべき點であらう』、




●大貳先生の曰く、仝、
我が東方の國と爲すや、神皇基を肇め、緝熙穆々。力めて利用厚生の道を作(おこ)したまふ。明々たる其の徳、四表に光被する者、一千有餘年。衣冠の制を立て、禮樂の教を設く。 ~中略~ 保平(保元、平治)の後に至りて、朝政漸く衰へふ。壽治(壽永、文治)の亂、遂に東夷に移り、萬機の事、一切武斷、陪臣權を專らにして、廢立其の私に出づ。此の時に當つてや、先王の禮樂、蔑焉として地を掃ふ。室町氏(足利氏のこと)繼いで興り、武威益々盛んにして、名は將相と稱するも、實は南面の位を僭す。然りと雖も、先王の明徳、深く民心に浹合したれば、則ち、強暴の臣も尚ほ忌憚無き能はず。是を以て神器移らず、皇統、綫(わづ)かに存す。數世の後に逮(およ)び、豪傑交々起りて、各々一方に據り、龍驤、虎奔、相奪ひ相害し、窮り已むこと有るはなし。姦賊事を謀り、戎蠻是れを簒(うば)ひ(※近世日本國民史、勤王文庫などでも是れを「慕ひ」と誤記する書多し。原文は「簒」)、首に巾帽無く、衣に領袖なく、驕傲徳を稱し、暴虐功に伐(ほこ)れり。此の時に當たりてや、一、二の或は其の民を憂ふる者も、亦た惟だ戰國の弊を承け、苟且の政、荏苒日を送れり。何ぞ名教の由る所を知らんや。即ち民の蚩々たる者も、將た焉んぞ其の土に安んぜんや。又た將た焉んぞ其の身を安んぜんや』、

 ○内容の解説に曰く、
『支那の思想家に例をとり、轉じて日本に於て、それが如何なつてゐるかを問題となし、先づ歴史的檢討を企てしもの。蓋し、革新に際しては、革新原理を純正明確ならしむると共に、當代社會の適確にして具體的な認識を不可缺とするが、その原理を明徴ならしむる爲めには、歴史的反省が必須であり、又た當該社會の正しき把握は、單に其の時代に於ける政治經濟思想等々の現實の構造を明らかにするのみで得られるものではなく、改革す可き事態發生の歴史的因由が究明されねばならぬからであらう』、

 ○『神皇基を肇め~』の意。
 天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふわが國體の事實をさす。日本書紀に、天孫降臨を 神武御東征前百七十九萬二千四百七十餘歳と記してあるのは、われ等の祖先が、日本のはじめを 神武天皇の御即位におかずして、更に無限の過去に溯らしめて居たことを示すものである。安政二年四月、大國隆正大人がその著「本學擧要」の中に、皇紀を中興紀元と稱したのも、かゝる考へにもとづくものであらう

 ○『遂に東夷に移り、~』の意。
 東夷は、征夷大將軍をさす。徳川家康が最も尊敬した幕府政治の創始者・源頼朝を東夷と稱することは、當代の將軍、徳川氏をも亦た東夷と貶することは、當時に於て、死を決した者によつてはじめて發し得る言葉である




●大貳先生の曰く、仝、
今且く其の大なるものを擧ぐれば、官制を特に甚しと爲す。夫れ文は以て常を守り、武は以て變に處するは古今の通途にして、天下の達道なり。今の如きは、官に文武の別なければ、則ち變に處する者を以て常を守る、固より其の所に非ざるなり。且つ夫れ、諸侯は國君なり。各々方土を受け、世々其の爵を襲(つ)ぎ、社稷を有(たも)ち、民人を愛し、尚ほ且つ將校を以て自ら處(を)り、專ら無文の令を出す。乃ち計吏宰官の類の如き、終身武事に與らざる者に至りても、亦た皆、兵士を以て自ら任じ、一に苛刻の政を致す。其の治道に害あるもの、一なり。~中略~ 尾、大にして掉はざるに非ずんば、即ち冠履倒置、唯だ權之を凌ぎ、唯だ威之に乘ず。是れ其の尊卑の序を失ふもの、三なり。且つや、古の人は相呼ぶのに必ず名字を以てし、或は兄弟の行を稱せり。輓近以來、卿大夫は一に其の官を稱して其の名を問はず。乃ち士庶民の職無き者に至りても亦た皆、妄りに内外の官號を犯し、兵衞、衞門、助、丞の類、農、工、商賈、奚奴、輿隸の卑きよりして、戯子、雜戸、丐兒、非人の賤しきに及ぶまで、毎々必ず是に於てす。夫れ律の法有るや、官を私し、官を犯す者は、皆罪して赦すことなし。今若し、法を以て之を糾さば、天下に幾(ほとんど)遺る民無からん。是れ其の淆亂、之を如何ともすべからざるもの、四なり。凡そ此の如きの類、俗を成し風を成せるは、固より一朝一夕の故に非ざるなり。殿、樣、御、候、仕、致、之、等、言語は別に一家を成し、文字は別に一義を生ず。乃ち、■(手偏+晉=しん)紳諸士の間、日用意を通ずるも、亦た未だ其の何の義たるかを知らず、事事皆、爾(しかり)。物物皆な爾。豈に笑ふべく、嘆くべきの甚しきに非ずや。 ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
 『歴史的考察より轉じて、現實社會の解剖に移り、名分の亂が、政治及び社會の混亂を惹起してゐる顯著にして具體的な例を論じてゐる』、


 愚案。名分を糾さんとする大貳先生の痛憤は、現代の吾人の痛憤であることを深く認識せねばならぬ。
 ことにマスコミの名分の亂脈は甚しきものがある。野生の如き凡夫に寄せられる書翰にも「河原樣」と記されてあるが、畏れ多くも 天皇、皇族に對して、河原の如きと同じく「樣」を愛用し已まぬこゝ百年間の歴史には疑問を抱かざるを得ない。非道い例ともなると、呼び捨ては最早論外とするも、「●●子さん」を以て憚らぬ。これをたかが名稱と侮る勿れ。中井洽の如き癡漢が政界に出現するも、畢竟、この名分を大きく誤つてゐることに、抑も起因の一つを看るのである。
 これより前、羅山があらうことか徳川に「大君」の稱を獎め、白石が「國王」と獎めたことに、憤慨した一部の識者があつたことは、既記したるとほりだ。斯くなる名分を辨へぬ白癡の暴擧をいかでか赦し置く可し。雨森公の『僕一たび之を聞き、且つ驚き、且つ痛む』と憤慨したるの言葉は、時を隔てゝ吾人が心境と相等しくあらねばならぬ。
 されど吾人は、今日も知らず識らず、羅山や白石を笑ふ能はざる人になつてゐまいか、兔角、自己點檢す可きを閑却してはならない。
◎北畠親房卿『神皇正統記』卷六に曰く、
言語は君子の樞機なりと云へり。白地(あからさま)にも君を蔑ろにし、人に驕ることはあるべからぬことにこそ、さきに記し侍りし如く、堅き氷は霜を踏むより至るならひなれば、亂臣賊子といふ者は、その始め心言葉を愼まざるより出で來るなり』と。

 大貳、親房兩大人の言を列記するまでもなく、皇國の興起を志した先人は、變革者として觀念に於ける其の基礎がきちんと確立されてゐたことを識るものである。
 餘談となるが、明治維新は、武家が政權を返上したあの時點に於て、一端の達成をみた。その直後に於て、頓挫に頓挫を重ね、遂に迷妄し現代に至る。從つて、現代からみるに、最も近しき 皇國大變革の成功例は、明治維新であつて、その後に未遂や計畫こそ陸續出來したるも、凡ては不成功に終はつてゐる。よつて單なる「戰前囘歸」では、皇國の中興は期し難くあること云ふまでもない。吾人が、皇國の中興を志すとき、そは、取り敢へず成功を收めた明治維新の先達の姿勢と道程に手本たるべきものがあると考ふるが至當と思ふ。而、さきの維新前の識者から、畏れ多くも、天皇に「陛下」とお呼び奉らずして「樣」などとお呼びする例など、殆どみない。大正、昭和の一桁に如何に「天皇機關説者」や「日蓮主義者」が跋扈してゐたか、思ひやらるゝではないか。




●大貳先生の曰く、仝、
政(まつりごと)の未だ地に墜ちざる、蓋し二千有餘年、久しと謂ひつ可し。是れを以て其の化の海内に被及する、廣しと謂ひつ可し。其の徳の民心に浹合する、深しと謂ひつ可し。其の衰ふるに及びてや、白龍、水を失ひ、制を小魚に受け、千里を跋渉し、露に暴(さら)し、雨を冒す、亦た難しと謂ひつ可し。此の時に當たりてや、一、二の忠臣、或は能く其の位を復したてまつるも、亦た且つ富める小國の君に若(し)かざる也。然りと雖も、此の如くにして、尚ほ能く其の宗廟を保ち、百世廢せず、今に到るまで四百有餘年、權は下に移ると雖も、道は其れ斯(こゝ)に在らざらん乎(や)。先王の大經大法、自ら律令の見る可き有り、若し能く民を愛するの心有らば、名、其れ正す可からざらん乎。禮樂其れ興す可からざらん乎。刑罰其れ措く可からざらん乎。哀しい哉、天下其の人有ること無き也。既に盡(ことごと)く其の古に復する能はず。亦た盡く其の舊を變ずる能はず。其の盡(つ)くさざる所有るは何ぞや。豈に其の物を尚ぶを知りて名を尚ぶを知らず。己の爲めにするを知りて天下の爲めにするを知らざるが爲めか。抑も亦た、學政行はれずして、術智及ばざる所有るなり』と。(「正名第一」完)

 ○内容の解説に曰く、
『最後に建武中興を囘顧し、忠臣が親を滅しての盡忠奉公によつて、よく國家を護持した爲め、朝廷は衰へたりと雖も、今なほ名致の根源であらせられ、又た律令によつて、古代の正しき制度もこれを見ることが出來るとなし、もし志さへあれば、王政復古の必ずしも不可能ならずを述べ、然も實際問題に移さんとすれば、天下にその人なきを歎じ、無限の感慨を寓しつゝ、正名第一の章を結んでゐる』と。

 ○『白龍、水を失ひ、制を小魚に受け、千里を跋渉し、露に暴(さら)し、雨を冒す、亦た難しと謂ひつ可し。~』の意。
 龍が、時に利あらずして水を失ふや、くだらぬ魚の爲めに制せられ、その生得の飛躍が困難であるやうに、幾千年連綿たる 皇室も、一度衰へたまふや、くだらぬ幕府の爲めに抑壓せられるとの意乎。

 愚案。この文章に於ては、大貳先生、云はんと欲するも果して云ひ得ず。
 しかし何度も當日乘で繰り返すが、當時の状況下に於て、かうした文言は、正に命と引き換への覺悟を要することであつた爲め、その底意の看取を讀者に託した謂ひ囘しなのかもしれない。
 而して、その底意は、十三篇の第一項で既に、幕府に對する不平に留まらず、批判に留まらず、積極的に否定してゐることからも、これを看取するに決して六ケ敷くはない。




 ところで、大貳先生は二度、結婚をしてゐる。前妻は、甲州龍王町齋藤左膳氏の娘で、次郎兵衞なる一子を擧げ、寶暦八年八月晦日、病死した。後妻は、上州那波郡馬見塚村の深町半彌の妹、多加刀自であつた。多加刀自との間では、寶暦十三年二月十五日、第二子の長藏氏を擧げた。御子息である長藏はやがて醫師となり、のちに、大正天皇が皇太子にまします時代の侍醫となつた今村長順翁その人である。多加刀自は、温良貞淑の婦人であつたらしい。男兒にも惠まれ、家内は頗る圓滿、家庭的幸福の滿潮期であつた。

 何を思はれたか、大貳先生は翌年の明和元年、突然、多加刀自と二歳の長藏氏を生家に歸らしめた。
 大貳先生が後難を慮つた爲めであるか、そは推測の域を出でぬ。兔も角、大貳先生の就縛の際には、宅に大貳先生の身の切れと申す可き人は、一人もゐなかつた。
 前記したが、大貳先生に擧兵の具體的計畫が存したか、果して野生は詳しく識らない。『慶安の變』に於ける由比正雪公の如き罪名もて幕吏が大貳先生を縛し、刑に處したのであれば今日に分明であるが、その宣告文を一讀すれば、『不敬の至、不屆至極に付、死罪を申付る』と結ばれてゐるに過ぎず、罪状も内容も全文を通じて甚だ曖昧である。要するに、幕府に向かつて大貳先生は、暗鬪はされたが明爭したり或は明爭を企圖した記録が無いのである。如何に幕府の監察が取り調べや聞き取りを行なつても、無きものが出で來よう筈もない。固より、この事件も寶暦事件同樣、心なき陰險者による密告から始まつたものなのだ。

 獄中に於て大貳先生は、處刑される明和四年八月廿二日の一週間前、十五夜に下の一首を詠じてゐる。

     くもるとも なにか恨みん 月今宵
             晴を待つ可き 身にしあらねば



 大貳先生が、既に一死を御覺悟なされてゐたこと想像するに難くない。大貳先生は、果して、いつの頃から命懸けの人生となつたのであらう。
 少なくとも「幕府」を「東夷」と看做した時には、既に斯くなる心得が定つてゐたものと察せねばなるまい。
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by sousiu | 2012-04-27 22:23 | 良書紹介

閑話休題。 贈正五位、奧八兵衞大人。  

●吉田松陰先生、門人入江子遠氏に與ふる書『學習院興隆ニ關スル意見書』に曰く、
『・・・然レバ學習院ノ基ニ依リ今一層致興隆候バ、何樣ニモ出來可申。扨、學問ノ節目ヲ糺シ候事ガ、誠ニ肝要ニテ、朱子學ジヤノ陽明學ジヤノト、一偏ノ事ニテハ何ノ役ニモ立不申、尊皇攘夷ノ四字ヲ眼目トシテ何人ノ書ニテモ何人ノ學問ニテモ其長所ヲ取ル樣ニスベシ。本居學ト水戸學トハ、頗ル不同アレドモ、尊攘ノ二字ハイヅレモ同ジ。平田(篤胤先生)ハ又、本居ト違ヒ、癖ナル所モ多ケレドモ、出定笑語、玉襷等ハ好書ナリ。 ~中略~ 高山(彦九郎先生)、蒲生(君平先生)、對馬ノ雨森伯陽、魚屋ノ八兵衞ノ類ハ、實ニ大功ノ人ナリ』と。※括弧は野生による。

 高山彦九郎先生に就ては、こゝ數日間、備中處士樣が御自身の掲示板で、殊に力を籠められ、筆意御雄健、文章御奉皇に努められてゐる。
  ■■嗚呼、囘天創業の首倡者・高山赤城先生。■■ほか。↓↓↓↓
   http://9112.teacup.com/bicchu/bbs

 蒲生君平先生に就ては、當日乘でも、少しく觸れたところがある。
  ■■山陵志■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16917357/
   http://sousiu.exblog.jp/16922717/

 對馬ノ雨森伯陽公とは、雨森芳洲公のこと。はからずも先日、白石氏を叱責したことに就て記すところがあつた。
  ■■新井白石公 番外 王號考■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/17401976/


 
 さて。魚屋ノ八兵衞大人に就ても、嘗て、當日乘で觸れたことがあつた。
  ■■平成の奇特な人たち■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16905302/
  ■■山陵志と今書■■↓↓↓↓
   http://sousiu.exblog.jp/16922717/

 魚屋ノ八兵衞とは、京都の魚屋河内屋の人、奧八兵衞大人、尊皇の人なり。
 奧八兵衞、後光明天皇の御宇に於て、御火葬あそばされることを哭き、ひたすら哀求、やがて雲上人に達し、朝儀に於て土葬の古に復された。明治四十年、贈正五位。


●『前王廟陵記』(卷の上)に曰く、
天子火葬の始は 持統天皇に起る』と。

●仝、「淳和天皇」項に曰く、
抑も火葬は天竺の俗なり。皇子の時、佛法、未だ我國に入らず。何の骨を散ずることこれに有らん。道昭和尚創めて宇治橋を造る、火葬は此の僧よりして始まれり。詳に續日本紀に見えたり』と。



●蒲生君平先生、『山陵志』 卷之一(享和元年正月)に曰く、
『夫れ、古の俗、其の鬼神に狎れて、齋盟を■(三水+賣)し、福を冥寞の間に求むる所以、固より民性蒙昧の爲、而、佛教の行に逮ぶ。是れに據りて衆志を■(手偏+覺)り、國權を獲、喪祭の紀を擧げて咸(みな)、之れが亂す所と爲らざるは無し。而、持統の喪より始めて火葬を行なふ。其の弊たるや、世に以て甚し。列子に、楚の南に炎人の國有り、其の親戚死す。その肉を朽して棄て、然る後、其の骨を埋む。乃ち孝子たりと成す。秦の國に儀渠の國有り、その親戚死す。紫を聚め薪を積みて之れを焚く、燻すれば則はち、煙上る、之れを登遐と云ふ。然る後孝子たりと成す。此に上以て政を爲し、下以て俗を爲す。而も未だ異と爲すに足らざるなり。夫れ然り。則はち夷蠻の喪固に是の如き者有り。而して佛の生るゝ所、身毒國或は儀渠と俗を同じうす。故に亦た火葬を行ふなり。後世、浮屠氏曾て之れを識らず。奉じて以て典章と爲す者、乃ち深く思はざるの過なり。持統帝の時、宇治の僧道昭、其の死して始めて火行を行ふ。然れども彼れは方外の士、固より怪しむに足らず。今、其の之れを大喪に用ふるに至る。亦た悲しからずや』と。



 

 恐れながら、火葬の御事に就き、先達碩學の御見識を拜記した次第であるが、關連して、もう一つ、記したいことがある。そは吾人が八兵衞先生をみて、自己を省察するところありとせねばならぬことだ。兔角、こゝ數十年か、「尊皇」てふ大旆を掲げる、所謂る運動家は、八兵衞先生に教はるところ大ではあるまいか。

 士農工商の時代にあつて、一介の商人に過ぎぬ「魚屋八兵衞」にして、尊皇の赤誠、かくの如し。
 八兵衞大人は、運動家を自稱した人ではない。國學者でもない。神道家でもない。今日の運動家と共通するところは殆ど、無い。所謂る、單なる市井の魚屋さんだ。態々他者から、尊皇家と稱されることさへ、おそらく望んでゐなかつたであらう。
 當たり前だが、ハンドマイクもない。スピーカーもアンプも、街宣車もない。キーボードもない。インターネツトだつてない。訴へる方法も手段も、共通するところ殆ど無し、と云うて宜い。
 だが、一つ、大きく共通するところがある。皇國の民であるといふことだ。もう一つ、志と情熱だつてさうだ。固より現代の 皇國民だつて、竊かに八兵衞先生に劣らぬ丈の素志を有してゐる士が存してゐると、野生は信じてこれを疑はない。

 大正デモクラシーから端を發する今日の運動を、野生は、殊更らに全面否定するものではない。
 されど、大正デモクラシー以前と以後の、所謂る「運動」概念が、大きく變化してしまつた事實も決して看過忘却してはならぬことだ。
 やればやるほど、熱心なればなるほど、失意を感じる今日の現状に於て、失意の原因は本當に「日本」にあるのだらうか。さなくば「時代」の所爲にす可きであるの乎。否、轉じて見遣れば、西洋から輸入された「運動」形態及び概念に問題があるのではあるまいか。
 一向に治療の見込みがないのであれば、そは、治療される可き側に問題があるのではなく、す可き側そのものに問題があるのか、さらずんば、す可き側の施術に問題があるのか、將た又た、す可き側の病巣の觀測に誤りがあるのだと認めねばなるまい。
 少なくとも、治療される可き側に問題なきことは、云ふまでもないからだ。何故なら、治療(坂本龍馬風に「洗濯」と云うても宜いが)される可き側とは、永遠不滅の、皇國であるのだから。
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by sousiu | 2012-04-26 21:14 | 先人顯彰

山縣大貳先生と、所謂る『明和事件』  

 寶暦事件に觸れたれば、明和事件に就ても觸れねばならない。
 兩者の時間を隔てること八年。政權が武門に下る凡そ七百年の時間からみれば、八年はほゞ同時期と見て差し支へあるまい。
 此の二つの事件は發生直後から、尾鰭をつけつゝ、西へ東へ、武士から町人までの口を借りて廣範圍を驅け巡つた。よつて當時から色々な書物が有つて、面白をかしく傳へたものまであり、隨分紛はしい説があるやうだ。中には擧兵の計畫があつた如く記してある書物もあるが、公平にみても、それを斷定するにはもう少しの研究が野生に必要だ。しかしいづれにせよ、吾人は歴史を讀み解くに當たり、かうした大膽な風聞を生ぜしめた微妙な時代の變化と、人心の願望をそこに窺ひ識ることが出來る。

●文部省圖書監修官 丸山國雄氏、『勤皇烈士に學べ 東京新聞社編』(昭和十八年八月卅一日「建設社」發行)に曰く、
『世に寶暦・明和と稱するが、寶暦事件とは、一部の堂上公卿が竹内式部の學説に基いて、神書を 桃園天皇に進講し奉れることが、攝家の忌憚に觸れて處罰せられたものであり、明和事件は山縣大貳が尊皇抑霸の思想を論じて幕府の忌憚に觸れて罰せられた事件である。
 これらの兩事件は、尊皇思想を鼓吹し、朝權發揚の端緒をなすものであつて、式部、大貳共に山崎闇齋の學説に屬するものであるが、兩者は相識の間に非ず、たゞ殆ど時を同じうして尊皇抑霸思想を唱へたに止まる』と。

 寶暦事件は京都に於て公卿方を導かんとし。明和事件は江戸に於て多數の門人を導かんとした。前者は堂上の忌諱に觸れ、後者は幕府の忌諱に觸れた。

 だが觀察すれば、兩事件が沒交渉の干繋であつたか否かは兎も角として、嚴正に云はしめれば強ち無關係の干繋では無かつた。
 寶暦事件の舞臺に於て、その主人公とも云ふ可き竹内式部先生は松岡仲良を師とし、後、松岡氏の誘掖により彼れの師である玉木葦齋先生に就て學んだ。葦齋先生は、崎門三傑の一人、淺見絅齋大人御一門。
 一方、明和事件の主人公と云ふ可き山縣大貳先生は、加賀美櫻塢先生を師とする。櫻塢先生は、是れ又た、崎門三傑の一人、三宅尚齋大人御一門。
 つまり、兩者とも山崎闇齋先生を源流とする、崎門の學派だ。さらば、自づと、その宿志は共通してゐること分明である。
 而、この兩者の事件は、江戸時代に幕を降ろす可くの前途に齎す影響、至大といふ點に於ても、吾人は共通視せねばならぬ。


 件の概略は、山縣大貳先生が江戸に於て、多くの門人に尊皇斥霸の所説を教授してゐたことが、上野圀小幡の領主織田美濃守信邦の用人・松原郡太夫や、同家領内にある崇福寺の住職梅叟ら心なき者共の個利、保身に惡用せられ、遂に幕府の知るところとなり、明和四年八月廿一日、主動者と目された山縣大貳先生が死罪、藤井右門先生(※下記詳細)が磔刑を宣告され、翌廿二日に刑に處せられた事件である。


※藤井右門公は、赤穗淺野家家老、藤井又左衞門宗茂の長男。幼名、吉太郎。
享保廿年、十六歳で京都に遊び、竹内式部門に入る。藤井大和守忠義の養嗣子となり、吉太郎より直明と名する。
寶暦元年、從五位大和守に昇任。八十宮御家司となり、皇學所教官を兼ねた。
寶暦事件が出來、江戸に出でる。名を「右門」と改める。
著書に『皇統嗟談』。尊皇の士、その人也。



 寶暦事件により京都を追放せられ、伊勢國に寓し、蓬莱尚賢大人(※蓬莱尚賢先生。内宮權禰宜、雅樂と稱し、詩歌文章を能くし、賀茂眞淵及び本居宣長大人とも相識にて、固より尋常の人に非ず、と傳へられる)のもとで過ごしたる竹内式部先生は、八年の時を經て再び歴史の一頁にその名を連ねることゝなる。明和事件の連累者と目せられ、島流しの刑を告せられ、その途次、三宅島の伊ケ谷村にて明和四年十一月廿日、濕病を患ひ逝かれたことは前記のとほりである。


 明和事件に就ては、これ以上詳しく書かない。書く必要を見出せない。
 小人が自己の立身榮達の爲めに、偉人の遠見なる計畫を挫かむとするのことは、今日に於ても決して珍しきことではないからだ。


 さらば明和事件を通じて野生の興味を注ぐ可きことがらは、寧ろ、山縣大貳先生とその思想に歸結せねばならない。
 よつて、大貳先生の主著『柳子新論』に就て、これを記す可きであると考へる。

贈正四位 柳莊 山縣大貳先生
●『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日『大日本明道會』發行)
『昌貞、字は子明、柳莊と號す。大貳は其通稱なり。享保十年(紀元二三八五)甲斐國巨摩郡篠田村に生る。天資頴敏にして豪邁、同國の人、加々美櫻塢に就きて學ぶ。櫻塢は三宅尚齋に學び、尚齋は山崎闇齋に學びたれば、昌貞の學風の本づく所自ら明なり。寶暦六年(紀元二四一六)江戸に來り、兵學教授の門戸を張る。藤井右門、竹内式部の徒常に往來す(※竹内式部先生の往來に就ては異説あり。野生は其の事實あらざりし見解を採るもの也)。其の兵法を講ずるや、江戸城を攻むるには南風に乘じて火を品川に放つべし等の語あり(※愚案。この發言者は大貳先生に非ず。右門公にあり)。遂に幕府の注目する所となり捕へられて殺さる。時に明和四年(紀元二四二七)にして、享年四十三なり。明治二十四年正四位を贈らる』
※米印の括弧のみ野生による。

●徳富蘇峰翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『彼(※大貳先生のこと)の言論は、之を竹内式部に比すれば、頗る露骨であり、且つ過激であつた。竹内式部は、只だ、古に託して、以て今を語りたるに止まつた。然も其の要は、破邪ではなく、顯正であつた。即ち朝廷自から學を修め、徳を立てなば、天下自から之を集らんと云ふに止まつた。されど山縣大貳の議論は、寧ろ破邪に傾いてゐた。其の要は、現状攻撃であり、現状打破であつた
『併し大貳の平生に就て見るも、將た當時の事情から察するも、大貳が徳川氏討伐の擧兵を企てたと思ふ可き節は、殆ど一も見出されない。~中略~ されど彼の忌憚なき言論、及び彼の昂々然として、世に處する態度が、或は物議を釀すの種子たることは、彼自身に於ても、決して氣付かぬことはなかつたであらう。彼は此れが爲めに、一死を覺悟した乎。そは揣摩の限りではない。然も何時厄運の其身に降り來る乎は、固より覺悟の前であつたらう』と。

●史學會理事長 三上參次翁、『尊皇論發達史』(昭和十六年四月十七日『冨山房』發行)に曰く、
彼の勤皇説としては、彼は一は古書を讀み、一は山崎系統學派によりて鎌倉以來大義名分の紊れたるを概き、世間甚しきに至りては 皇室を輕んじ却つて武家を尊び本末を誤りたるものあり、是れ必ず匡救せざるべからずと憤りたり。柳子新論中に盛に彼の説を吐けり』と。
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 上記、先人も斯く申してゐることから、以降、力めて、『柳子新論』の十三篇を抄録してみたいと思ふ。さて、「腱鞘炎知らず」の出番と、オタクの本領發揮だ。
 誤記誤謬のあらば、乞ふ、御教示下さらむことを。douketusha@ever.ocn.ne.jp
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by sousiu | 2012-04-26 00:23 | 先人顯彰

キーワード 

 先月だつたか、exciteブログをやつてゐる人は御存じだらうけれども、レポートの表記が變はつた。
 ブログアクセス、記事別アクセス、リンク元url、檢索キーワードが見られるやうになつた。

 當日乘の閲覽者が、どのやうな文字を入力し、此處を訪問下さつたか、ふと興味を覺え、これまでの「檢索キーワード」を確認してみた。
 野生の開帳する日乘であるから野生の名前があるのは固より當然のことゝして、諸先輩や友人、そして團體の名が多くある。賑やかなものだ。蓋し、躊躇はず、諸先生や諸兄のお名前を拜記してゐるので、檢索網に掛かるのであらう。尤も、野生の場合は、正漢字表記なので、必然と檢索に引つ掛かるのは限定される。

 興味深いことに、檢索キーワード項の履歴に遺される文字は、必ずしも現在に活躍される士や團體名ばかりではない。

 「本居」「玉勝間」「篤胤」「高山彦九郎」「清川八郎」「山崎闇齋」「景岳」「弘道館記述義」「靖獻遺言」・・・・。
 かうした、前(さき)の維新に關する先人の御尊名や、マニアツクな書籍のキーワードが散見され、面白い。而も、これは少々ではない。

 さらには、
 「迪彜篇」「徳川光圀壁書」「大橋訥庵」「闢邪小言」「山陵志」「男女の中をもやはらげ、たけきもののふの心をも慰む」「伊勢神宮不敬事件」「洗心洞箚記」「鐵石藤本先生」「河上彦歳」(※正しくは「彦齋」)「玉松操」「玉乃世履」等々、普通の人との普段の會話に於て、先づ、出て來ないやうなものまである。
 これは隨分、心強いといふものであり、皇國の復古中興をひたすら望む野生にとつても歡迎す可きことである。
 それが紅葉屋主人の云ふ、『歴史オタクや歴女なる人物』か否かまでは知る由もないが、意外にも百五十年以前に關心を寄せる人の多いことは紛れもなく事實である。かういふ「文字」の檢索を試みた人と是非、直接意見交換してみたいものだ。

 それにしても、世の中は廣い。上記に羅列したキーワードも相當マニアツクだが、更らに上を行くマニアの有段者は存在する。

 「西野文太郎」「思誠塾」「奇廼舎」
    ↑↑↑↑↑↑
 案ずるに、このへんのキーワードが、正しくレベル5だ。
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by sousiu | 2012-04-25 00:38 | 日々所感

贈正四位 竹内式部先生評  

●香川敬三公、『竹内式部奉公心得書』(明治廿四年九月)に曰く、
嗚呼、今上ノ太政ヲ收復シ給ヒシ。慶應丁卯ノ歳ヲ距ル。一百餘年前。既ニ斯人有リ。明治中興ノ鴻業。固ヨリ  聖徳ノ然ラシムル所ト雖モ。其淵源スル所。蓋シ亦遠シ矣。予頃ロ偶マ此篇(※奉公心得書)ヲ得テ之ヲ讀ムニ。氣節凜然。忠誠ノ心自ラ言外ニ溢ル。人臣タル者ノ最モ當ニ服膺スヘキ所ナリ。反讀再三遂ニ印刷ニ付シ。以テ同朋ニ頒ツト云フ』と。


●星野恒博士、『竹内式部君事迹考』(明治卅二年七月卅一日「冨士房」發行)に曰く、
『抑、式部君の執る所は、王室の衰運を挽囘して昔日の隆盛に復し、幕府の政權を收め、萬機親裁に出でしめんと欲するの外、他念なし、然れども事本末あり、遽に其成るを求むべからず、故に先づ根本を培擁し、君臣心を一にして、古道を講究し、智を研き徳を修め、經邦治民の要を明にし、天下臣民の悦服を得、以て他日の機會を待たんとす』と。


●徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『式部は學者として、何等の永久に傳ふ可き著作を留めてゐない。されど彼の思想は、山崎闇齋に溯らねばならぬ。彼は靖獻遺言の一面に於ては、淺見絅齋の意見の代表者であり、日本書紀、中臣祓等に於ては、玉木葦齋の傳統を承くる一人だ。即ち何れにしても山崎闇齋は、竹内式部の本尊であり、祖師であり、先生であつた。~中略~ 然も深山の奧、木葉を潛る水滴の水は、やがて滔々たる長江大河となる。世に大なる支配者あるも、未だ思想の支配者程、大なる者はない。世に有力なる運動者あるも、未だ思想の傳播者程、大なる者はない。此點に於ては、山崎闇齋は勿論、其の孫弟子たる竹内式部の如きも、正しく其人だ』と。


●竹内式部先生追想一掬會編『贈正四位 竹内式部先生』(「一掬會」發行、戰前なるも發行年月は不明也)に曰く、
先生はなんとかして徳川幕府より政治を取りあげ、天皇御みづから國を治め給ふ在りがたい御代にしたいと日夜それのみ心にかけてゐられたのであるが、その忠義の志は人の眞似の出來ぬくらゐで「奉公心得書」といふものを書いて 皇室に忠義をつくすべきことをさとし門弟へ示されたこともある。その志をとげるには、先づ 天子樣に學問をしていたゞかねばならぬとかんがへられたのである。幸ひ先生の子弟としての公卿樣の中でも正親町、三條、西の洞院といふ方々がおそばにお勤めになるので、この方々から恐れ多くも時の 桃園天皇へ先生の講義を取次いで御進講申上げることになつたのである。それまでの 天子樣には御學問を遊ばさぬやうに徳川幕府がおとめ申してをつたが、それでは何日までたつても 天皇御みづから國を治め給ふといふことがおわかりにならぬので、先生は公卿樣方の力で御學問を遊ばすやうに願うたのである』と。
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●平泉澄先生、『日本學叢書 第六卷』(昭和十四年七月十五日「雄山閣」發行)に曰く、
『先生は崎門の傳統を受けて國體の根本を究め、此の原理に立つて當時の政治制度學問思想を批判し、今日の誤を正して往代の盛時に復せんが爲には、朝廷に正學を興すを以て第一の急務と考へ、是に於いて公卿の指導に全力を傾注せられました。 ~中略~ 是に於いて朝廷の學風一變し、上下競うて國體の學を講究し、古道を明かにせんとするに至りました。これこそはやがて明治維新の大運動の先驅となつたものとして、わが國の歴史に於いて最も注意すべき所の一つであります』と。
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●大久保次夫氏、『竹内式部』(昭和十八年十一月廿日「國民社」發行)に曰く、
『思ふに、式部の大義名分論に基く王政復古の志は、當路の壓迫に遭つて、これを實現するには至らなかつたが、その思想は、綿々として滅びず、明治維新の大立者岩倉具視も亦父祖の後をうけて、式部の學統に屬したものと謂はれる。明治の鴻業は、劍によつて成らず、學によつて成つたものであるが、その淵源に遡れば、水戸の大日本史、頼山陽の日本外史、又加茂、本居、平田等國學諸大人の著述による大義名分の思潮が、かの旺盛な尊王論を釀成したものである。又淺見絅齋の靖獻遺言、栗山潛鋒の保健大記等が、尊王論者の教科書となつた事も著明の事實である。併し乍ら斯くの如き大義名分論を以て、尊王の實際的運動の端緒を開いた者は、實に竹内式部を以て嚆矢とする』と。



 「竹内式部先生」措筆。
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by sousiu | 2012-04-24 00:10 | 先人顯彰

竹内式部先生の受難 

 承前。

 かゝる徳川幕府の壓迫を一身に被りたる京都にあつて、竹内式部先生の運動は、公家方有志に幾許の自信と勇氣を齎せたことか。否、言葉を精確に用ふる可きとするならば、竹内式部先生の運動及び、垂加神道と闇齋學が、だ。

 寶暦の御代、第百十六代 桃園天皇は、御英邁の 天皇にましました。
 桃園天皇は、寶算七歳にて御即位あそばされ、十五歳にして、山崎闇齋先生の學を講じ給うたことが記録に遺つてゐる。
 寶暦事件(寶暦七、八年)では、寶算十七、八歳の交であつた。

 侍臣徳大寺大納言公城卿は、「史記」を侍讀し、而、「日本書紀」に及んだ。(徳大寺公城卿日記)
 同卿は、即はち、式部先生の御門人だ。やがて、
主上 桃園院天皇英明に御座しまし、式部の學説を側聞あらせられ、叡感の餘り深く大御心を寄せさせられた』(本多辰次郎氏『歴史講座 勤王論之發達』)
 卿の欣感、果たして如何なるものであつたらう。我れらはその身にあらざれば、この大を計ることこそ能はざるも、これが大であること丈は拜察するに六ケ敷くあるまい。

 やがて式部先生一派の有志公家方々は、垂加神道の御進講に及ぶ。

 
 古言に曰く、好事、魔多し、と。かくして青天の霹靂は訪れた。
『一方に於て、徳大寺公城等が、千載一遇として、垂加説を、桃園天皇に鼓吹し奉りつゝあるに際し、他方には、容易ならぬ猜疑の眼を放つて此の形勢を眺め、方(ま)さに一大打撃を下さんとする者あるの危機に瀕した。竹内式部門人の一味は、此れに氣付いた乎、氣付かなかつた乎。何れにしても世の中の事は、彼等の思ふ樣に、平々坦々とは參らなかつた。
 然も此の如く打撃の手を、彼等に加へたのは、關東(※幕府のこと)の手筋ではなかつた。否な寧ろ其の張本は、公家仲間であつた』(徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』)

 竹内式部先生と御門人方々に愈々壓迫の手は伸びた。壓迫者は、問題ならぬを問題とし、事件ならぬを事件せしめんと欲した。その壓迫の發起人は、關白一條道香公はじめ、攝家、兩傳奏、而して吉田神道の本家、吉田兼雄氏であつた。

○本多辰次郎氏の曰く(仝)
『抑「日本書紀」神代卷は古來白川・吉田の兩家には種々の祕説がありて、御前講には必ず此の二家の中に於て、御進講申し上げる例であるのに、今垂加流の新説を宸聽に達することゝ成つたのは、二家に取りては大事件である、加之垂加流に於ては、卜部家の神道は佛説を交へて、我國古來の惟神の道で無いと非難する故、是等の家では默止すべからざる勢に進んで參た、かてゝ加へて種々な蜚語風説も傳唱せられ、非難攻撃が式部の一身に蝟集する事と成た』と。

○徳富猪一郎翁の曰く(仝)
『吉田家は、白川家と共に、堂上に於ける神道の本家だ。特に吉田家は先世以來、神道長上と稱し、全國の神職を總管し、神學の指南家だ。當時の主は、吉田從二位神祇權大副兼雄であつた。彼が斯く運動したのは、竹内式部が、自家の繩張を侵すを、安からず思うた爲めであらう』と。


 愚案。佛法を排斥するだけでなく、崎門學の大義名分論は、やがて討幕の急先鋒たる思想となつたことからも、幕府側にとりてみれば既に危險思想と看做されてゐた。畢竟、公家方内にこれを歡迎する人があると、一方、幕府による災ひを忌避せんとこれを歡迎すべからざる人が生じたのも無理からぬこと乎。後者を單なる公家内に於ける日和見主義の現状維持派と觀するは聊か酷評とも云へなくもなし。固より吾人が爲す可きは、後者を裁定することに非ず、後者を以て當時の朝野に於ける幕府の權勢如何に猛烈なるかを察する可し。而して、この時代背景に立たされた式部先生の運動と志を識ることが出來れば、それで充分である。
 式部先生は啻に當時の堂上にのみ勇氣と自信を示されたのではない。後進たる吾人に對して遺憾なく手本と模範を示された。奇しくもおよそ百年後、彼理來航あり。世情噪がしくあつて勤皇の士、陸續として、出でる可くして、出でた。有志は皆、京へ上り、對手たる幕府側も京を固めんと上り、京都は騷然たる歴史の舞臺と變化した。皇國に於て、これが變はるには、朝廷は沒交渉でないことを、寶暦事件の犧牲から百年後の式部先生の後進(吾人からみる先進)は學び、實行したのである。
 舶來の大正デモクラシーから端を發した多數決盲信者には、皇國に於ける式部先生の偉大が理解し難からう。諸國はいざ識らず、皇國に於て、これを清らかとするに、川に喩へれば、何十年と河口を掃除しても、そは空しくある而已。革命とは、弱者、非生産者、不平者をそゝのかし數の大を以て下から上に突き上げる運動だ。皇國にあつて維新は、いつも上から下に布告されるものだ。他國による解放運動、獨立運動の「宣言」と、皇國に於ける畏れ多き維新の「王政復古の大號令」を同一視する勿れ。

 閑話休題。桃園天皇に於かれましては、反垂加流一派による再三再四の上奏と諫言にも御納得あそばされず。あくまでも垂加神道とその學説を御抛却なされなかつた。
『至尊の垂加流に對する御執心は、決して尋常一樣ではなかつた。如何に女院や、攝家や、其他の者共が、手を代へ品を換へ、之を止めさせ給はんと企つるも、決してその通りに成させられなかつた。 ~中略~ 十八歳の御若齡として、其の強毅不屈にてましますこと、實に驚き入ると申すの他はあるまい』(徳富猪一郎翁、前掲書)


 然るに無念、非難蜚語陰謀もて、遂に式部先生は糺問せられた。固より罪名もあやふやであり、取調る側が押され、時に感動すらしてしまふことは、式部先生著述の『糺問次第』にもよつても明らかだ。苦慮した攝家一列は幕府の手を借りるに至り、所謂る公家主導、武家受動の關係もて到頭、式部先生は京都より斥けられ、御門人方々は永蟄居ほかを命ぜられ、式部派は排除された。桃園天皇の宸襟は如何なるものであらせられたか。徳富翁は『惟ふに、定めて血を絞る思をなし給うて』と恐察してゐる。

 竹内式部先生の無念も如何程のことであつたらう。京都を追放された式部先生は、御内儀、御子息の主計氏、御息女のしま氏の四人で伊勢の宇治山田に住むことゝなつた。
 その四年後の寶暦十二年。桃園天皇、寶算僅かに廿二歳を以て崩御遊ばされた。式部先生、入つてはならぬと嚴命された京都へ上り、御所の御前の芝生に泣きぬれて悼みまゐらせた。(徳大寺公城卿談)

 式部先生、この時の上京と、はからずも八年後に出來する山縣大貳、藤井右門先生他による『明和事件』の連累者として嫌疑を掛けられ、八丈島に流罪となる。至誠至純たる尊皇家に對する彈壓は、決して、安政の時代のみではない。立志する人は、總じて受難者たる可き宿命を避けられない。であるからこそ、その情熱は、尊い。
 式部先生、明和四年十一月廿日、途中の三宅島の伊ケ谷村にて病ひを患ひ、同年十二月五日、歿す。病名は濕病と記録に傳へられてゐる。
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 以下、本多辰次郎氏の觀察に從へば、「寶暦事件」は、時代の産ましめた悲劇とも云へるが奈何。
●同氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十三日「日本學術普及會」發行)に曰く、
『此の寶暦明和の事件は、一寸見れば關白達が只管幕府の御機嫌を取ることを勉めて居て、勤王の精神の發達を挫折せしめた樣に見えるけれども、式部は強ち過激の擧動を爲る人で無くとも、其の門人たる堂上衆の中には少壯活溌の人もあり、過激に流れはせぬかといふ憂もある、若し過激に亘るやうなことが有て、幕府から先手を着けられやうものなら、隨分上御一人に迄も御迷惑を懸けるやうな畏多い始末にならぬとも限らぬ、夫故關白とか武傳とかいふ責任の位置に在る人に取りては、大事に至らぬ前に處置する必要がある。何を申すも理論は力に勝つことは出來ぬ故、幕府の激怒を招かぬやう勉める必要が有るとすれば、近衞關白の處置は先づ至當と申さねばなるまい、併しながら公家方に於ては、斯る結果に終つたのは關白始め心に快き譯ではあるまい。心中は必ず哭いて居られたに相違あるまい、まして式部の門弟となりし堂上等の遺憾は幾何であらうか、陰忍に陰忍して、表面は一應沈靜に歸した樣なものゝ、裏面は一層敵愾心を強めたに相違ない、明治維新に參與した功臣には、此の時寶暦事件に關係した家の人々に比較的多いのも注目に値する事實である』と。
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by sousiu | 2012-04-23 01:50 | 先人顯彰

竹内式部先生と、時代背景 

 竹内式部先生の『奉公心得書』(ホウコウコヽロエガキ)に就て、香川敬三公は明治廿四年九月、前掲書にて斯く述べてゐる。
●從一位 勳一等 維新後樞密顧問官香川敬三公の曰く、
『奉公心得書一篇ハ。   桃園院天皇 =桃園院天皇ハ櫻町院天皇第一ノ皇子ニシテ聰明ニ渡ラセラレ[五字分墨字]頗ル  後光明帝ニ似サセラレシト云フ= 寶暦年間。權大納言言徳大寺公城。權大納言久我敏通。權大納言正親町三條公積。權中納言烏丸光胤。權中納言坊城俊逸。權中納言今出川公言。前權中納言岩倉恆具。右兵衞督高倉永秀。右中將高野隆古。少納言西洞院時名。左中辨勘解由小路資望。左中將中院通繼。左兵衞佐岩倉尚具ヲ始メ。朝紳廿餘人。王室ノ式微ヲ憂ヒ。竊カニ連署血盟シテ。王政復古ノ策ヲ計畫セラレシ時。竹内式部 =名ハ敬持、羞齋ト號ス= ナル者。同盟ノ朝紳ニ忠告砥礪スル所ノ文ナリ』と。※原文マヽ。
 香川公は、水戸藩士。維新前は神官同盟、陸援隊副隊長ほかを歴任し、皇國の中興の御爲め寄與するところ決して尠しとせなかつた人である。

 他方、史家の觀察眼もて之を尋ねるに、『奉公心得書』は如何なる價を見出す可き乎。
●徳富猪一郎翁、前掲書に曰く、
『今日より之(奉公心得書)を見れば、別段の寄説でもなく、卓論でもなく、亦た何等新異の見と云ふ可き程のものでもない』
『寧ろ餘りに平易、淡泊にして、此れが竹内事件の張本人の文字とも覺えられず。但だ天津日繼の 天皇が、神種神孫に在せば、一切を擧げて 天皇に奉仕す可しとの、所謂る 皇室中心主義を、眞甲より打出したる一點丈が、尤も聳聽するに足るものがある。惟ふに此の心得書は、僅かに彼が意見の一端を、語りたるに過ぎなかつたであらう』
『奉公心得書は、堂上方の門人に、其の朝廷に奉仕し、君側に勤務する心得を示したるもの。未だ竹内式部の學説の全豹を窺ふに足らぬ。されば他の方面に向つて、之を尋ねなければならぬ。ところが彼自からの書き殘したるものとては、殆んど無い』と。※括弧は野生による。

●大久保次夫氏の曰く、
『「奉公心得書」にしてからが、本書に彼の學説が披瀝されてあるものとは、到底考へられない。又本書は純粹な學術書では勿論ない。併しながら本書には、彼の思想、殊に 皇室に對する彼の思想が端的に示されてはある。これを知る事によつて彼の學説と稱すべきものが自らにして窺知し得るやうに思はれる。彼の本領とするところは、その學識や學説にあつたのではなく、寧ろその全人格的なひととなりの上にあつた如くであるから、この「奉公心得書」のみによつて彼の思想や、その思想的感化力を知らうとするのは、いささか的外れの感がなくもない。要するにその思想の一端を知る便宜のために、この書は理解されるべきである』と。

 上記理由に據りて、蘇峰翁は、竹内先生の御門人であつた菊地嘉典公の筆記したる『竹内式部神代卷口授』や他の資料を蒐集して、式部先生の御偉業を審らかに繙かむとする。一方、大久保氏は、竹内先生の師である山崎闇斎、淺見絅齋兩先生の思想から之を繙かむとす。※尤も蘇峰翁は、既に「近世日本國民史」で闇齋學に就て紙面を割いてゐる爲め、重複を避ける爲めに御門人に筆力を籠めたのであらうが。
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 されど野生は、御兩人による研究の成果をこのうへ茲へ抄録する作業を必要としない。
 當時の世相と、式部先生の功績を掲げることが出來れば、それを諒とする。



 式部先生の偉業の一端を識るには、式部先生の生きた時代を知らねばならぬ。
 寶暦を前後とするこの時代は、一體、如何なる状態にあつたか。
●大久保次夫氏(仝)
『言ふ迄もなく家康が、馬上に天下を掌握して、征夷大將軍に任じて以來、全國の政令は一に江戸幕府に發し、上は朝臣の任免から、下は三百諸侯の陟黜に至る迄、凡て朝廷の意思の如何を顧みることなく、獨斷專行を例とし、少しでも、幕府の志に違ふやうの事があれば、嚴重なる譴責を加へたから、畏くも歴代の 天皇におかせられては、何等か爲す所あらんとしても、しかも一として叡慮の如くになす事が出來ず、如何に些細なことにでも、幕府の干渉壓迫があつたのである。

 又京都に常置せられてゐた幕府の役人達は、畏多くも、皇室に關する諸經費を一錢でも半錢でも削減することに汲々とし。また斯くて諸費用を節減する事が多ければ多い程、功績拔群といふ事になり、他日の榮進が、約束されるといふ情ない情態であつたから、從つて例へば吉野山に櫻を見たいと思召しされても、それは費用がかかるから、所司代方面からの干渉があるといふわけであつた

 皇室でさへ、斯く迄御不自由な環境に置かれてゐたのであるから、宮中に奉仕する朝臣達の生活も從つて貧弱を極め、皆内職によつて、辛くも糊口を塗してゐたといふことである。併もその内職たるや、花かるたの製造だつたといふに至つては、寧ろ憤然たらざるを得ない』


 あまりにもと云へばあまりにも。幕府の權勢、その及ぶところ、今に記すも躊躇はざる可からざるものがある。

 かくなる時代下、榮華と富貴と權力を誇つてゐた江戸にあつて、京都に於ける竹内式部先生の活動と、鐵心尊皇の志を、吾人は敬服せずば止まず。
 然も、式部先生知つてか知らいでか、前途、青天の霹靂は式部先生の頭上に降されんことを。



 この締め方だと續けぬわけにはなるまい・・・。續く。
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by sousiu | 2012-04-20 14:37 | 先人顯彰