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柳子新論抄  「富彊第十三」 

 やうやく最終章に辿り著いた。
 頑張つて毎日、更新し續けたものゝ、殘念乍ら昨日は一日外出、無念、先週中には終へることが出來なかつた。


●山縣大貳先生、『柳子新論』「富強第十三」(原文は「富彊」也)に曰く、
『柳子曰く、食足る之を富と謂ひ、兵足る之を彊(※「強」の意。以下然り)と謂ふ。
富且つ彊なるは天下の大利なり。食既に足る。兵既に彊し。而る後に國は以て虞れ無かる可きなり。
是れを以て先王は、珠玉を貴ばずして稻梁を貴び、姫妾を愛せずして黎庶を愛す。無益を以て有益を害せざるなり。故に磐石千里、富と謂ふ可からざるなり。衆人百萬、彊と謂ふ可からざるなり。
磐石は粟を生ぜず、衆人は敵を防がざればなり。地廣くして食に乏しく、民衆くして使はざれば、奚ぞ以て磐石と衆人とに異らんや。是れ特(ひと)り天下をのみ然りと爲すにあらず。諸侯の國に於ける、大夫の家に於ける、士の妻孥に於ける、皆、然らざるは無きなり。~云々』、(※改行は、野生による。下記然り)


 ○内容の解説に曰く、
『天下の大利として、富、強を掲げて説明し、聖王の治がこれを得んと努力するに對し、闇君庸主は、務めてその國を弱め、その民を貧しくし、禍亂の因を釀成するを述べた』



●大貳先生の曰く、
『古に稱すらく、國に九年の蓄(たくはへ)無きを貧と曰ひ、六年の蓄無きを窮と曰ひ、三年の蓄無きを、國其の國に非ずと曰ふなり、と。夫れ其の蓄積は、豈に特り自ら養ふが爲めのみならんや。亦た將さに以て其の民を救ひ、其の難に備へんとするなり。
後世の國を保つ者、或は一年の食無く、甚しきは數歳の入を逆折するも(※下記參照)、尚ほ且つ足らずして之を大夫に取り、大夫足らずして之を士に取り、士足らずして之を妻孥に取る。豈に啻に國、其の國に非ざるのみならんや。一旦之が爵を奪ひ、其れをして盡く其の債を償はしめんか。子を易(か)へ骨を折くと雖も、吾、一飯をだも給する能はざるを知るなり。夫れ此の如くんば、則はち何を以てか能く王室に藩屏として其の封疆を固めんや。是れを以て其の士、日に窮し、其の民、日に叛き、忿怨激發して自ら陵犯の心無きこと能はず。
然れども國固より貧しく、兵固より弱く、屈彊自ら奮ふ能はず、屏息之を避くれば、則はち天下は實に慮を容るゝもの無きに似たり。闇愚の主は、乃はち以爲へらく、彼れは貧しくして我れは富み、彼れは卑しくして我れは尊ければ、則はち磐石の固きを以て、泰山の安きに居り、治平の術以て尚(くは)ふる莫し、と。
姦臣賊吏、聚斂附益して以て其の心を悦こばしめ、阿諛逢迎して以て其の言に順(したが)ひ、甚しきは則はち之を唐虞三代の治に比し、雅を爲(つく)り、頌を爲り、曾て箴規の言有ること無く、而して其れをして自ら其の智に誇り、自ら其の徳に伐り、事情を知る無く、時勢を知る無からしむれば、則はち闇き者は益々闇く、愚なる者は益々愚にして、亡びんこと旦夕に在りて、而して自ら之を知らざるなり』、


 ○内容の解説に曰く、
『翻つて、當代社會を解剖し、その富、強二つながら得る能はず、まさに存亡の危機に際會して居るにかゝはらず、爲政者の無知なる、未だそれを意識せずして、泰平を謳歌してゐるのを慨歎した』

 ※『後世の國を保つ者、或は一年の食無く、甚しきは數歳の入を逆折するも』(原文「後世有國家。或無一年之食。甚者逆析數歳之入」)
 後世とは暗に大貳先生の生を享けし當時をさすものであらう。
 幕府の財政は、三代家光の頃までは餘裕綽々たるものがあつた。家康は慶長十年十月駿府に移るに際して、從來西城に貯蓄して居た黄金三萬枚、銀子一萬三千貫を秀忠に與へたが、その隱居十年間に、金銀凡そ二百萬兩を貯へた。この二百萬兩の遺産をすべて他に讓つて一文もとらなかつた秀忠は、所謂守成の士であり、財用は依然として潤澤であつた。青山延光が、野史纂略に「前將軍秀忠、東照公の遺訓に隨ひ、崇尚節儉、故に當時の國用、二十年前の租入を用ふるに至り、府庫の富、古今罕(まれ)に有り」(原漢文)と云つたのも、さまで誇張とは思はれない。家光は約三十年に及ぶ治世の間に、島原の亂、日光廟の改築、その他の土木工事、旗本の加増、賑恤等財を散ずる事多かつたが、その財政はなほ微動だにしなかつた。然るに、この三代の蓄積も、四代家綱に至つて、明暦の大火によつて大打撃を蒙り、漸く收支均衡を失つたが、元祿時代に入り、遂に破綻を暴露し、享保、寛政の立直しの努力にもかゝはらず、次第に惡化した。諸藩の窮乏は、幕府よりも早く來た。山崎闇齋先生の談を筆録したと傳へられる「去徹問答」にも、「いつとはなく國用足らず」なつたことが指摘せられ、熊澤蕃山は「大學或問」に「諸大名諸家中身上不相應の借金にてすべきやうなければ、つよきと思ひながらも、民に取ること年々多し、」と云つてゐる。かゝる窮乏を打開するための財政策が、こゝに緊急の問題となつたのは云ふまでもない。鑛山の收入、貨幣改鑄益金の捻出、大都市の商人への御用金等の財源を有する幕府は、流石に年貢の増徴に依頼することは比較的に少なかつたが、それでも年貢加重の傾向は避けられなかつた。



●大貳先生の曰く、
『夫れ大木の折るゝや、必ず蠢を通ずるに由り、大堤の壞るゝや、必ず隙(げき)を通ずるに由る
而して之に加ふるに、疾風暴雨を以てせざれば、則はち折れず、壞れず。
然れども風雨無きを以て、其の蠢隙を危ぶまざる者は愚の至なり。且つ夫れ馬を渇せしめて之を馭するは、眞に之を馭するに非ざるなり。水草を得ば、則はち逸らん。
虎を饑ゑしめて之を伏するは、眞に之を伏するに非ざるなり。肥肉を見ば、則はち益々猛らん。是れ特(ひと)り馬と虎とのみにあらざるなり。鳥窮すれば則はち啄(ついば)み、獸窮すれば則はち攫む。尺蠖の屈するは、以て伸びんことを求むるなり。龍蛇の蟄するは、以て身を存せんとするなり

 これは、現實が表面的平靜の裡に至危を藏せることを、比喩的擧例を以て説明したもの。



●大貳先生の曰く、
『是の時に當りてや、英雄豪傑、或は身を殺して仁を成し、或は民を率ゐて義を徇へ、忠信智勇の士、誘掖贊導して以て天下を煽動せば、則はち饑者の食に就き、渇者の飲に就くが如く、奮然として起ち、靡然として從ひ、勢自ら禦ぐ可かざるもの有らん。冤を洗ひ、耻を雪ぐの心、恩に感じ報を圖るの志、勇を奮ひ義を勵まさば、則はち放伐の易き(※下記參照)、蠧を通ずるの木、隙を通ずるの堤、之に加ふるに疾風暴雨を以てするものと謂ひつ可し。此に至りて始めて嚮(さき)の所謂る泰山の安きは、特り幕燕の危ふきのみにあらざるを知るなり。是れ其の損益する所以の理、蓋し見る可くして、存亡の機は此に關せり。故に國家を有つ者、無益を以て有益を害せざれば、則はち人君の事、畢(をは)る。 ~云々』、


 ○内容の解説に曰く、
『前述の如き社會状勢は、よし爲政者が意識せざるにせよ、一觸即發の状態にあるもので、敢爲なる指導者の出現によつて直ちに且つ容易に動亂に導くことが可能であるとなし、政治の要諦について端的に述べた』

 ※『則はち放伐の易き云々』(原文「則放伐之易。云々)の説明
 鳥巣通明先生の曰く、
『こゝに謂ふところの放伐は、當代社會の改革、具體的には討幕を意味し、必ずしも直ちに國體に反するものと爲すことはできない。然しながら正名を重んずる著者にして、この語を濫用し、議論を曖昧にすることは、甚だ遺憾であると云ふべきであらう。彼の放伐是認論に就いては、すでに利害第十二の章に述べた。そして、現實社會の孕む矛盾剔抉に示された卓越せる手際、將來に對する適確なる見透し、改革を論ずるに當つての敢爲の精神にもかゝはらず、不幸にして、彼の立場が儒學思想を脱却して居なかつたことも、その折觸れて置いた』と。



●大貳先生の曰く、
『古の人は、目の見るに短なるが故に鏡を以て面を觀、智の自ら知るに短なるが故に道を以て己を正したりき。
人君の學は、身に六藝の文を修むるに在らず。口に百家の言を誦するに在らず。苟も道の信ず可きを知らば、斯れ足れり。道の信ず可きを知らば、則はち道を知る者至らん。至りて而して之を信ぜば、姦賊將さに何に自(よ)りて興らんとする。國に姦賊無くんば、則はち天下の難は已むなり、と』(本文、完。跋、略す)


 ○内容の解説に曰く、
『人君の事は、道を信ずるに在りと説いて、本章を結ぶ』

 大貳先生はこの最終章に於て、當然の如く、「柳子新論」を總括されてゐる。
 國民が食糧に不自由せぬ状態を富と云ひ、兵備の充足した状態を強と云ひ、當然のことではあるが、この富強が完備することは國家として最も利益の大なるものであると喝破してゐる。
 ところが現實はどうだらうか。幕府を始め、みな經濟的には汲々とし、家臣から、農民まで、生きること以外の目的を持つ能はざる毎日であり、民は無法を働き、或は愛兒を賣らねばならぬ始末である。畢竟、怨嗟の聲は高まり、これでは、富なく強なく、國家大安心には到底覺束ない状態である。
 あはれむ可き哉、しかし、爲政者はこゝに至つて建て直す方法を失し、夥しい負債と窮乏とに迫られるのみ。 刑と法は當を得てをらず、人心は亂麻の如くある。豈に憂ふ可からざるや。
 大貳先生の、上記、『大木の折るゝや、必ず蠢を通ずるに由り、大堤の壞るゝや、必ず隙を通ずる』とは、比喩的表現を以て、暗に討幕を主張してゐると解釋することが出來やしまいか。
 この意は後段に掛けられてゐる。曰く、『尺蠖の屈するは、以て伸びんことを求むるなり。龍蛇の蟄するは、以て身を存せんとするなり』と。こは、尺取蟲が身を屈するは、伸びんが爲めであり、龍と蛇が蟄伏するは、身を存して他日の昇天を期さんが爲めであるといふ意味だ。當時の人の世にあらぬかの如き世も、不幸を繪に書いたやうな毎日も、他日大に幸福ならんが爲めのものである、と。
 而して、大貳先生は、結論として、『苟も道の信ず可きを知らば、斯れ足れり。道の信ず可きを知らば、則はち道を知る者至らん』と述べてゐる。
 人に於ても、國に於ても、「道」なるもの踏み外す勿れ、との箴言だ。

 さて。今日の日本は如何。果して世界は如何。

 吾人は、大志を懷いて、國歩を正しき道へと善導し、只管ら修理固成を熱祷するある而已矣。
 暗澹たる世に於て吾人は、先人の國運挽囘の志と姿勢に學ぶところ多しとするものである。
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by sousiu | 2012-05-13 12:48 | 良書紹介

柳子新論抄  「利害第十二」  坤。 

~承前~

●大貳先生の曰く、仝、
『且つ夫れ刑罰は、豈に特(ひとり)民の非を爲すを禁ずるのみならんや。苟も害を天下に爲す者は、國君と雖も必ず之を罰し、克(か)たざれば則はち兵を擧げて之を伐つ。故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つも、亦た皆、其の大なる者なり。
唯だ其の天子より出づれば、則はち有道と爲し、諸侯より出づれば、則はち無道と爲す。況んや其の群下者より出づるものをや。故に善く之を用ふれば則はち君たり、善く之を用ひざれば則はち賊たり。
さきに湯武をして志、徒に其の害を除くに在り、其の利を興すに心無からしめんか、此れ亦た爭奪して己を利するのみ。何ぞ以て仁と爲さんや。是の故に湯武の放伐は、無道の世に在りて、尚ほ、能く有道の事を爲せば、則はち此は以て君と爲り、彼は以て賊と爲る。假令、其の群下に在るも、善く之を用ゐて以て其の害を除き、而して志、其の利を興すに在れば、則はち放伐も亦た、且つ以て仁と爲す可し。它無し。民と志を同じくすればなり』、

○譯文解説
『この刑罰と云ふものは、決して人民の非行をのみ罰するものではないのであつて、その法の性質上、苟も國家を害する者であつたなら一國の領主と雖も罰せずには措かないものであつて、もしその罰を受けなければ軍隊の力を以て之を討伐するのである。故に殷の湯王は、國を害する暴君であるとして夏の桀王を討ち、周の武王復殷の紂王を討つたのである。之等はその著しい例であるけれども、この樣な場合を考へて見ると、苟も一國の君主を討つのであるから、その討伐の兵を擧げる者が又一國の君主である場合には道義に適つたものとし、又之が臣下の諸侯に依つて企てられた場合には、道義に反するものとされるのであつて、まして身分の低い者に依つて企てられた場合には全く許し難い反逆であるとさへ見做されるものであるから、この國害を除くと云ふことも、その用ひ方が當を得てゐれば、君主の善行ともなり、當えお失すれば逆賊となるのである。併し乍らこの國害を除くと云ふことも、單に之を除いただけでは意味をなさないのであつて、例へば前例の湯王や武王の場合を考へて見ても彼等の意志が單に國害を除くと云ふことだけであつて、國利を増進させようとする考へが無かつたとしたらどうであらうか。これでは唯國家の支配權を奪ひ合つて、自分の利益を收めようとするのと何等異なる處がないのであつて、どうして彼等を仁君と稱することが出來ようか。彼等が仁君として後世の人々からも敬はれると云ふのも、この放伐(無道の君を放逐し、之に代つて王位に就くこと)に依つて、暴君を討ち滅ぼすと同時に、善政を布き、かゝる亂世に在つても良く國利を作興せんとしたからこそ君と呼ばれ、又討たれた桀王や紂王は賊と呼ばれるやうになつたのである。であるから假令臣下であつても、かゝる方法で暴君を斃し、國利の作興を圖れば、この湯王や武王の擧と同樣に放伐と呼ばれ、仁義の擧と云はれるであらう。その理由は他でもない、一般の國民が同じ樣に考へてゐる事を、その代表となつて實行するからである』

 この一節にて注目せねばならぬことは、「放伐是認論」といふことである。

 出典した譯文の著者、飯塚重威氏は以下の如く、之を解説してゐる。
○『柳子は例を支那の歴史中に求め、爲政者たるの資格を喪失した者は、當然負ふべき運命に從つて、直ちに滅せられるとして政權推移の一形態「放伐」に就いて述べてゐるが、然もこの「放伐」は、政治の大理想である國家を利さんとする意圖の許に行はれるなれば、「放伐も亦た且つ以て仁となすべし」と論談してゐるのである。此處に於て彼は、幕府も爲政者たるの資格を喪失してゐる以上當然「放伐的」形式に依つて、之を打倒せねばならぬ事を暗示してゐるのであるが、同時に幕府の甚しい内的腐敗は、「その窮るや必ず自ら滅すに至るのみ」と述べ、必らずやその自壞作用に依つても崩壞し去るべしと推論してゐる』と。

 勿論、上記、大貳先生の言は、倒幕を暗示してゐる以外の何物でもない。
 だが、されど吾人は、「倒幕」の名の下に於ては、何でもかでも諒とするに、聊か躊躇ふものがあらねばならぬ。
 そこには、思想性を無視する譯にはならないのである。
 曾て、陣營の諸先輩は、凡そ街頭に赤旗が潮の如くあつたとき、これを撃退するに、假り初めにも「反共」を標榜する者であれば何でもかでも握手するといふやうな、破廉恥な振る舞ひはせなかつた。「勝共連合」などと云ふいかゞはしき團體とスクラムを組む能はざりし先輩の矜恃あつたことを、野生は今でも誇りに思うてゐる。

 出典した校訂の著者、鳥巣通明先生の解説は以下である。
○曰く、『放伐論は、支那に於て、既に古くより思想界を賑はした題目で、我が近世の儒者によつても熱心に討議された。けだし、儒教に於ては、爲政者の、政治上の職分を規定して、先王の道を繼述して、仁政即ち善政を布くべき道徳的義務の荷擔者であるとする。從つて、もし主權者がその政治的職分を果さず、民心が彼より離れ去る時は、直ちに爲政者たるの地位に關はるものと解せられ、孟子一度湯武を肯定してより、革命是認の説が強く、我國に於ても自國の傳統を無視し、支那文化に追隨した人々によつて雷同せられた。これに對して山崎闇齋先生が湯武放伐を論じ、拘幽操を表章して放伐否定の態度を明らかにせられた事は有名であるが、その高弟淺見絅齋先生、又拘幽操を講じて「桀紂ニモセヨ、誰ニモセヨ、讒ヲ用フルニモセヨ、ドチヘドウシテモ、唯イトヲシイヨリ外ナイ。天命ニ順ヒ、人心ニ應ズルト云樣ナコトガ、イマイマシウテドウモナラレヌ所ガ至徳ニテ云々」と喝破し、爾來放伐論は、垂加神道を奉ずる人は云ふまでもなく、絅齋先生の學脈をつぐ人々に於て、最も明白に否認せられたのである。然るに、山縣大貳が、崎門の學統を受けつゝも、放伐是認の言説を洩してゐるのは、すでに文武第三の章に於て觸れた如く、所謂崎門三傑(この人選には僭越ながら、私は根本的な疑義をいだいてゐる)に數へられつゝも、實は、闇齋先生の精神を理解することができず、むしろ反駁の態度に出た三宅尚齋の流を汲み、又革命を是認した徂徠學の影響下にあつたためであらう。勿論、大貳の説くところは、幕府の存在を正當化せんが爲めに御用學者によつて唱道された放伐肯定と區別さるべきであり、彼が武家政治を否定し、主觀的には 皇政復古を目ざしたことも亦認められるべきであるが、その革新の原理、立場は、人文第三の章に於て指摘せる如く、不幸にも未だ儒學思想を完全には脱却してゐなかつたのである』と。

 さすがは、平泉澄先生の御講義を受講なされ、垂加神道、崎門學を研究なされた鳥巣先生である。
 而、鳥巣先生の辛辣な意見は續く。

○『~承前。前述の如く、政治の要諦として彼が「正名」を説き、「得一」を主張し、「大體」を論ずるのは確かに傾聽すべき卓見である。然しながら、それは志向態度の正しさであつて、「正名」、「得一」「大體」等が如何なる實質的主張内容をもつかは自ら別問題である。こゝに見る如く、柳子新論は、その點を檢討することによつて破綻を暴露するかに思はれる。「其間忠義ヲ奮ヒ命ヲ殞シ節ニ赴ク者アリドモ、君臣ノ義ニ於テ練達講磨スル所或ハ精シカラザレバ心私ナシトイヘドモ、義ニ悖リ忠ヲ失フ者皆是也」とは淺見絅齋先生の語であるが(靖獻遺言講義上)、心私なく、眞摯國を憂へ、勇敢に時弊を解剖し、その革新に邁進した山縣大貳は、君臣の義に於て練達講磨するところ精しからざりしが故に、換言すれば、國史を云爲しつゝも革新の原理を外國思想に求めしが故に、無意識の中に大いなる過誤を犯し、義に悖り忠を失つたものであらう。まことに傷ましき悲劇。吾々としては嚴正に然も同情を以てこの點、柳子新論を辨析すると共に、今日の問題として深思すべきであらう』と。

◎九段塾 ◆◆崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。↓↓↓
             http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t22/l50


 難しき哉、面白き哉、學問は。
 こと崎門學の深さ、野生の如きに到底測る能はざるも、奧の深くあること丈は識れるのである。
 日本に思想なし、とは戰後のことだ。
 戰前は、然程、譽められたものではないかも知れないが、あつた。
 況して、明治維新前は、きら星の如く光を發する思想が、おほくあつた。已んぬるかな、今は筐底に祕せられた如くであることが、兔も角悔まれてならぬ。

 野生は先々月、「三百年前の日本」を記して、一應、覺束なきも、當時の思想的状況に就て述べて來た。
 まづは、新井白石に就て簡單に述べた。
 大貳先生は、尚齋先生の門戸を叩くも、徂徠の思想的影響も亦た存してゐた。
 官學の影響は、かの大貳先生をしても少々の混亂を生ぜしめ、鳥巣先生の批判を誘發した。

 因みに寶暦事件と明和事件の關係在りしを斷定したのは、野生の一讀した九册の古書にあつて、先に引用した飯塚重威氏の著作『山縣大貳正傳』のみであつた。他は、無し、とするも、明白ならずとするも、兔に角、肯定してゐない。
 野生も肯定せなんだは、竹内式部先生は、淺見絅齋先生の學統だ。たとひ崎門學と一括りしても、上記にある如く、その距離は決して近きに非ず。共に倒幕の蹶起を企てたるとは、到底思へない。
 その差は部分的に止まるにせよ、距離は甚だ遠くなることを、思想運動を行ふ吾人は悟るところありとしたいものである。

 だが「柳子新論」に教はるところは是れ丈に止まらぬ。
 それを説明せんに、又た々ゝ鳥巣先生の意見を先に掲げねばならぬ。
○曰く、
『(徳川中期の當時に於て)尊王論の發展に貢獻したと云はれる國學者等も、古典に通じ古道に明らかではあつたが、幕府の存在を否定するに至らず、 ~中略~ かくの如く痛烈に武家政治を批判したのは、柳子新論の意義を大ならしむるものである。その思想に純正ならざりし點はあるにせよ、この功績は高く評價しなければならぬ』と。

 神道が世に隆盛を誇つた佛教、儒教との關係に交錯せられながら時と共に、先達の究學によつて益々純化され、遂には復古神道が世に廣告された。國學も亦た同樣だ。大貳先生の柳子新論も、其の過程にあつたと見做さねばならぬ。又た、その過程と云はんか、歩を進めたといふ點に於て、柳子新論、山縣大貳、明和事件は、多大なる貢獻者と見做さねばならぬ。
 鳥巣先生のごとく見識眼の持ち主は別として、後世の盲目者たる野生が之を批判する譯にはゆくまい。

 愚案。今日の卓見も、百年後、二百年後の識者からみれば、缺陷、乃至は不足たる可きことがらが發見されるであらう。否、發見されてこそ、國學は發達したと斯く云へるわけであり、それをば、喜びとせねばならない。
 嘗て野生は、不二歌道會發行の機關誌『不二』の表紙に書かれてある『平成維新と新國學』なる言葉が好きであることを述べた。亦た、啻に野生が好むだけでなく、目下、日本に必要であることを述べた。
 國學に就ては、是れ亦た不勉強で恥かしき限りであるが、現代の吾人は、研學を重ねて、國學の發展に寄與せねばならぬと思ふのである。
 陸續として出來せる時局問題に取り組むことを決して無意義とせない。さりとて、それに始終して滿足してもならぬ。野生はかく思ふのである。先達の古書は、吾人の、何よりの生ける教科書だ。





●大貳先生の曰く、仝、
『是れに由りて之を觀れば、天下國家に長たる者は、文有りて而る後に武、言ふ可きなり。禮樂有りて而る後に刑罰行ふ可きなり。然らずして、徒に刑と罰とに之れ任ずれば、則はちかの人の戕(「爿」+「戈」=しやう)賊するに非ずして何ぞや。哀しいかな、衰世の政を爲す者、文無く、武無く、禮刑並び廢して、たゞ其の利を興すに心無きのみならず、又た其の害を除くに心無きなり。夫れ其の利を興すに心無き者は、必ず以て自ら利し、其の害を除くに心無き者は、必ず以て人を害す。人を害して自ら利する、虐孰れは焉(これ)より大ならん。是れを以て、亂國の君は力めて其の國を利して、以て人の國を害し、大夫は力めて其の家を利して、以て人の家を害し、士は力めて其の身を利して、以て其の僚友を害す。
甚しきは則はち、君も亦た、自ら其の身を利して、以て其の民を害し、大夫自ら其の身を利して、以て其の家を害す。是れを以て自ら屠る、と謂ふ。
其の極や、必ず身を滅すに至りて而して、後に已まむ。故に我が東方の政は、壽治の後、吾れ取ること無きなり。聖人其の此の如きを憂へ、禮を制し、樂を作し、中を立て、和を道(い)ひ、務めて其の利を興し、務めて其の害を除き、衆庶保つ可く、此屋封ず可くして、以て永(とこしな)へに天下の福を致す。
詩に曰く、於戯(あゝ)前王忘れられず、と。其れ唯だ此を以てなるか。
嗚呼、夫れ、今の時の如きは、依然として軍國の制を承け、滔々乎として反るを知らざるもの、歎息せざらんと欲すと雖も、其れ得可けんや』


 譯文解説の必要は、前記で既に終はつたので、從來通りに戻すことゝする。野生も愈々疲れたり。
 ○内容の解説に曰く、
『再び禮樂と刑罰の關係の問題にかへり、衰世の一般的樣相を掲げ、國史上壽治以後、即はち武家政治の世を亂國と明言し、當代社會について歎息する』、




●大貳先生の曰く、仝、
『然らば則はち之を如何にせん。
曰く、是れ唯だ人を得るに在り。人を得るは難きに非ず(※下記參照)、人に獲らるゝを難しと爲す。
昔は荊靈細腰を好み、民、食を約して死する者有りき。越王、勇力を好み、一鼓して、士焚舟を避けざりき。夫れ食を約して死すると、焚舟に赴くとは天下の至難なるものなり。然るに上の好む所は、令せずして之を爲す。它なし。人に獲らるゝの難くして、而して之を欲すること甚しきが爲めなり。況んや其の至難に非ざるものをや。
苟も能く之を好まば、趾を重ねて至らんのみ。此を爲さずして彼を爲すは、要するに利を興すに心無きものなるかな』と。(「利害第十二」完)



 ○内容の解説に曰く、
『前段に見たやうな禮刑並び廢してゐる現状の打開策を求めて、「是れ唯だ人を得るに在り」となし、人材を得る方法を論じたもの』

※「人を得るは難きに非ず(原文「得人非難」云々)」
禮刑並廢してゐるにしても、時代を救ふ人物は必ず存在するの意。幕末の志士、眞木和泉守も蔓延二年三月「野宮定功卿に上りし書」に、「人材と申も、おのづから其國を治め候だけの人才は、いつも御座候ものにて、古人も才を異代に不求と申候へば、只今にても 神武帝の珍彦を漁父よりあげ、饒速日を降人より取り、 天智帝の鎌足公と■(「革」+「菊」)場にて交を結び、旻法師高文理を異端他邦より擧げ玉ひし如く致候はゞ、いか樣の人もいか程の物も出可申」と云つてゐる。今日人がないといふがこれは愚劣の見解で、人物はあるが、たゞ、それを用ゐないだけである


 結局、今囘は、抄録ならぬ、全文を掲げるに至つた。

 誤解を避けんが爲め斷わらねばならぬが、野生は、「柳子新論」に些かも傷を付けんとするものではない。
 寧ろ本書から學ぶ可きこと多しを微力乍ら宣傳するものである。
 そは、明治維新を遂げた尊皇論の發展に寄與したといふ點に於てのみ是れを云ふでなく、思想を唱へるに際して決して閑却す可からざるを學ぶ教本としてのみならず、固より、大貳先生の社會と時代を大觀する其の視點を通じて、吾人の目となれ感性となれ今後の吾人の研鑽の爲めにも吸收するところ大と確信して憚らないものである。
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by sousiu | 2012-05-11 20:58 | 良書紹介

柳子新論抄  「利害第十二」  乾。 

 昨日は、時局對策協議會の定例會。
 その後の懇親會では、日本誠龍社・貴田會長の御説法を賜はる。

 さて、「柳子新論」も遂にあと二囘だ。
 今度びは「利害第十二」。尤も、力を入れて書かねばならぬところだ。
 國學に於けるひとつの系譜に就て、兔角、注目せねばならぬのところと考へる。

 少し長くなるが、讀み易くする爲めに、今囘、句讀點、改行を多く用ゐることゝする。
 而、今囘は更らに、譯文(參考文獻「山縣大貳正傳」昭和十八年十一月廿日「三井出版商會」發行)を掲載するので、注釋や語の説明を省きたい。

 諸賢、希はくは、御時間の許されませば御一讀下さらむことを。


●山縣大貳先生、『柳子新論』「利害第十二」に曰く、
『柳子曰く、政を爲すの要は、務めて其の利を興し、務めて其の害を除くに過ぎざるなり。
利とは己を利するの謂に非ず。天下の人をして咸(ことごと)く其の徳を被り、其の利に由り、而して食足り、財富みて、憂患する所無く、疾苦する所無からしめ、中和の教、衆庶安んず可く、仁孝の俗、比屋(ひをく)封ず可き、是れを之れ大利と謂ふ。
其の之に反するときは則はち害あり。害除かざれば則はち利、興らず。故に善く國を治むる者は、務めて之を興し、務めて之を除き、而して後に民、之に由る』、(※改行は、野生による。下記然り)

○譯文解説
『柳子が云ふ。政治を爲すのに最も重要なことは、國家の利益を増し、國家に害あるものを除くと云ふ一事に盡きるのである。
利益は勿論、私利であつてはならない。その利益の恩惠に國民全體が均霑し、生活が保護せられ、經濟が豐かになり、何の憂ひも心配もない樣になり、「中庸」と云ふ書物にある樣に、正しく節に適ふ教へに從つて、人々は正しい生活觀に安んじ、仁義・忠孝の道徳がどこの家でも行はれる樣な利益を云ふのであつて、之を國家の利益と云ふのである。
之に反するものはすべて國家を害するものであり、その害を除かねばこの國家利益と云ふものは興らないのである。從つて、善い政治を行ふ者は、この國家の利益を作興することに務め、專ら害あるものを除き、かくして民は此の爲政者を信頼する樣になるのである』


 政治を爲すの要務として、興利、除害の二綱領を掲げ、その謂ふ所の利、害を説明したもの。
 固より反論の出でる餘地もない。





●大貳先生の曰く、
之を興すの道は如何。曰く、禮樂なり、文物なり。
之を除くの道は如何。曰く、政令なり、刑罰なり。
夫れ此の二者は、惟(た)だ、君、自ら率ゐ、惟だ君、自ら戒めて、而して後に民、之に從ふ。啻に君自ら率ゐるのみならずして、實に天の職を奉ずるなり。
昔は、禹、自ら諸軍を率ゐて、以て有苗を征して曰く、蠢たる茲の有苗、昏迷して恭しからず、侮慢して自ら賢とし、道に反(そむ)き徳を敗り、君子野に在り小人位に在り、民棄てゝ保せられず。天、之が咎を降す。肆(ゆゑ)に予(われ)、爾衆士を以て、辭を奉じて罪を伐つ、と。
又た、湯桀を伐ち、乃はち誓ひて曰く、台(われ)、小子敢へて亂を稱(あ)ぐるを行ふに非ず。有夏罪多し。天命じて之を殛(「歹」+「亟」=きよく)す、と。
湯既に夏に克(か)ち、自ら其の位を有る。其の天、大に旱するに方(あた)りて則はち曰く、夫れ爾、萬方罪有らば、予一人在り。予一人罪有るも、爾萬方を以てするなけん、と。身を以て犧牲と爲すを憚らず。是れ皆、以て其の富貴を求め、其の福祿を干(もと)め、其の心志を安んじ、其の耳目を樂ましむるに非ざるなり。務めて天下の利を興し、務めて天下の害を除くのみ。古の聖君賢主、孰か其れ然らざらんや。
然りと雖も、務めて其の利を興すは、其の道に非ざれば則はち興らざるなり。其の害を除くは、其の道に非ざれば則はち除かざるなり。由る可きを之れ道と謂ふ。禮は以て中を教へ、樂は以て和を教ふ。中和の至、天地位し、萬物有す。豈に利を興すの道に非ずや。
惟だ民の蠢蠢たる、或は其の由る所を失して、禍亂自ら取るときは、則はち從ひて之を罪す、是れ其の害を除くの道なり。夫れ然る後に、其の惡を懲らして其の害を勸む。善を爲す者多く、惡を爲す者寡ければ、則はち天下の利興る』、

○譯文解説
『然らばこの國家の利益を作興する方法とは何であらうか。
それは禮儀であり文化である。又國家の害を除く方法は命令であり刑罰の法である。
この二つの方法こそは一國の君主のみ、自ら統率し、自ら實踐すべきものであり、國民は之に傚つて遵守するのである。君主が自ら統率すると云ふばかりではない。君主が天から授與せられたる任務として行ふのである。
昔支那の禹王が軍隊を率ゐて北方の蕃族有苗を征伐した事があつたが、その時云ふのに、「虫けらの如き有苗は、人徳なく恭順の心をも持たず、世を侮り慢心して自分では賢いと思つてゐる。そして、人の踏み行ふ仁義の道に反し、人の守るべき徳教を紊してゐる。一體君子が世に出ないで、小人が天子の位を履んだ處が、人民は之を認ないからその位を保つことが出來ない。之則ち天がその專斷を憎んで咎を降すからである。今や天は予に命じて汝等家來と共に行つてこの憎むべき有苗を伐たしめるのである」と。そして彼は天帝の命令を奉じて、有苗の罪を討つたのである。
又湯王が桀王を伐つ時に誓つて云ふのに、「私は決して内亂を起さうとしてゐるのではない。夏が多くの罪惡を犯したから、天命が之を殛するのである」と。
湯は夏を亡ぼして天子の位に就いた。或時、非常な旱天が續いたが、その時に湯王は、「國中に何か罪惡が有つたのなら、その責任は自分一人に在る。もし自分一人に罪惡があつたとすればその累を國中に及ぼさずに、自分一身を犧牲にしても構はない」と云つた。これは決して自分一個の富貴を願ひ、福利を專有し、氣樂にして、自分だけが樂しまうと云ふのではないのであつて、一心に國家の利益を作興し、國家の害毒を除かうとしてゐるのである。昔から聖君と云はれ賢主と云はれる人々は、總て皆この樣な人々ばかりなのであるけれども、如何に一心に國家の利益を作興しようとしても、その方法が當を得てゐなければ不可能であり、又害毒も同樣であつて適切な方法に依らなければ除く事は出來ないのである。この以て依るべき方法を道と云ふのである。即ち、道徳に依つて中正の生活を教へ、文化に依つて和樂の生活を教へ、この中正和樂と云ふ大きな調和が即ち天地宇宙の根本理念であり、この天地の調和した氣を享けて、森羅萬象が生れ出づるのである。これこそ國家を利すると云ふことの究極に於ける精神であり、從つてこの道徳と文化の生活こそは、その大いなる國利作興への道、即ち方法なのである。
然し人民は天性無智であり、時にその生活の目標を見失ひ、自然に世を紊すやうになり、國家を害するに至るのである。從つて、國家を害する者を除くと云ふことも、別に改まつた方法があるのではなく、その根本的な意味からすれば、國利作興への道に勵ませるやうにすることが取りも直さず害を除く方法であると云へるのである。であるから、惡を懲すと云ふこともそれだけで良い譯ではなく、善を獎勵すると云ふ事の前提條件であるに過ぎないのである。かくして善を爲す者が多くなり、惡を爲す者が寡くなれば、國家の利益が振興される譯である』


 上記は書經、虞書や湯誓等、古の支那の書からの言を用ゐて説明してゐる。
 このころ、專ら、支那の學問が一般に流布せられたが爲めに、當時の書物には、支那の史實や人物、發言を引用されることは珍しくなかつた。
 先日、備中處士樣より電話あり。曰く、「當時の人達は、當時のかうした書物を讀んで理解してゐたのであるから、それは大したモンだ」と。
 まつたくその通りである。
 今日のやうに、娯樂や作り物の小説、ビニ本が氾濫してゐた時代ではなく、國内外問はず(國外の書物は殆ど支那、一部に朝鮮、和蘭あり)思想書や宗教に關する書物、國史、傳記などが主であつたらうから(十返舍一九の「東海道中膝栗毛」などもあつたが。苦笑)、かの時代、克苦勉勵を重ねた人には、天下を動かす可くした偉傑の出でたるも至極當然である。

 實は、これまで、「柳子新論」の省略した割合は、全體の二割強ほどである。この割愛した大半は、支那の書からの引用文である。讀者の混亂を避ける爲め、割愛したものだ。その理由無きにしも非ず。追々野生はこの理由を掲げねばならぬ。




●大貳先生の曰く、仝、
禮樂は文の具なり。刑罰は武の事なり。文は以て常を守り、武は以て變を制す。文は以て治を致し、武は以て亂を撥(をさ)む。是の故に文は順にして、武は逆なり。順にして利を興し、逆にして害を除き、順逆互ひに用ゐて以て能く天下を陶鑄す。善く此の道に任ずる者、之を徳と謂ひ、善く此の道に任ぜざる者、之を不徳と謂ふ。善く此の道を知る者、之を賢と謂ひ、善く此の道を行はざる者、之を不仁と謂ふ。故に所謂る仁者も亦た能く其の利を興し、能く其の害を除く者を謂ふなり。
若し夫れ世降り國衰へ、上に賢聖の君無く、下に忠良の臣無くんば、則はち禮涜れ、樂淫にして、而して刑罰勝(あ)げて用ふ可からず。徒(いたづら)に害を除くの道を知りて利を興すの道を知らず、徒に變を制するを知りて常を守るを知らず、徒に亂を撥むるを知りて治を致すを知らず、又た何の仁か之れ有らん。又た何の徳か之れ有らん。是れ奚ぞ能く政を爲すと爲さむや』、

 この一節の譯文は要しまい。野生も疲れてきたから。
 さて、以下に注目せられよ。

 續く。
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by sousiu | 2012-05-11 20:55 | 良書紹介

柳子新論抄  「通貨第十一」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「通貨第十一」に曰く、
『柳子曰く、食を足すの道は、農事を勸むるより先なるは莫く、貨を通ずるの計は、物價を平にするよりも先なるは莫し。
税斂を厚くせざれば則はち農勸む。商利を縱にせざれば則がち價平なり。古の時、帝王能く其の農を勸めたりき。 ~中略~
輓近以來、邦國の租、或は什に五六を收め、加ふるに調と庸とを以てしたれば、則はち稼穡の力は、卒に其の費を償ふ能はず。是れを以て田野、日に荒れ、農事日に怠る。怠れば斯に窮し、窮すれば斯に濫し、濫すれば斯に軼(いつ)す。軼して復へざれば、則はち年穀登(みの)らずして食足らず。唯だ夫の商賈のみは則はち然らず。
價賤しければ則はち居し、價貴ければ則はち廢し、廢居己に在りて、利は掇(手偏+「女」×4=ひろひと、拾ふの意)るが如し。且つ大商の人を食ふや動もすれば千百に至り、奴隸藏獲、帛を衣(き)、肉を食ひ、徒手肆(し)に居る。擧止、亦た何の勞か之れあらん。況んや其の用ふる所の凡百の器玩、鏤金彫玉、貳なく雙なきもの、府に實(み)ち庫に充ち、娥眉皎齒、容有り姿有る者、坐に滿ち席に盈(み)つ。其の餘の金帛は、藏して發せず、納めて出さず、倚疊して山の如く、委積して丘の如し。地を買ひ宅を買ひて、一夫或は千戸を私し、房を賣り舍を賃して、一人或は鉅萬を占む。 ~中略~
夫れ然らば則はち天下の貨は之が爲めに足らず。而して財は之が爲めに通ぜず。
是れを以て萬世古錦の美なるものは、方寸或は千金に値し、刀鐶の精なるものは、一枚或は萬石に當る。故に士の祿秩有る者も、終身其の美を服する能はず、而して累世其の精を用ふる能はず。豈に翅(たゞ)に衣服器玩を然りと爲すのみならんや。薪蒭魚鹽五土の利より、鍛冶陶鑄百工の事に至るまで、一に商旅の占むる所となりたれば、則はち物價の騰躍、端倪す可からずして、天下の幣は悉く市鄽(「广」+「墨」+邑-おほざと-=てん)の間に集まれり。故に今の世は、公侯百里の國も以て其の獨孤を恤むに足らず。卿相萬戸の封も、以て其の矜寡を憐むに足らず。大夫も以て其の家事を治むるに足らず。士も以て其の妻孥を養ふに足らず。農工も皆以て其の債を償ふに足らず。足らざれば之を商賈に假る。一歳の息、或は其の母に倍蓰(草冠+「徙」=し)(※下記參照、一)、衣を■(「貝」+ひとやね)+示=しや)し、財を典し及び妻孥を質と爲す者有るに至る。天下の不利孰れか焉(これ)より大ならん。
此の時に當りて、俗吏の政を爲すや、群議終日、卒に一策をも得る能はず(※下記參照、二)。徒に聚歛附益を務めて、此に取りて彼を忘れ、忽々として東西に奔走すれども、曾て一賈豎をだに制するを得ず。亦た何ぞ一朝の食に益あらんや』、(※改行は、野生による。下記然り)


 これまでの章に於て「食」を足す策として勸農を縷々述べられた大貳先生が、次に訴へんとするは、物價を平らかにする必要に就てである。

 勸農を實現する爲めには、農民からの年貢を緩和させねばならない。
 因みに、歴史上、農家からの税制を概觀するに、奈良平安時代は十に對し、約二を徴税してゐた、とある。
 鎌倉時代に入ると、四公六民(收穫の四割を領主、六割を農民の所得とする税法)、乃至は五公五民(簡單に云へば50㌫)。
 室町時代は三公七民、四公六民、五公五民など、一定せなかつた。
 豐臣氏時代では二公一民。
 江戸時代では豐臣氏の二公一民は廢され、五公五民の法によつたと云はれるが、實際上租率は一定してゐなかつたと傳へられる。寶暦では、大體四公六民、或は五公五民であつたと推定される。
 固より幕府は、「百姓は飢寒に、困窮せぬ程に養ふ可し」(昇平夜話)の考へもて、農家に接した。
 「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり也」と。

 いづれにせよ、前章にある如く、各農村は次々に疲弊し、農民人口は減少し、畢竟、武家の窮乏につれて從來の年貢のみならず、賦役・雜税が逐次加税され、農民の負擔は殆ど全餘剩に達し、その生活は苛酷を極めた。
 加之、商人擡頭によつて、物價は操られ、貧富の格差は益々以て擴大した。

◎山鹿素行先生、寛文年間に著したる『山鹿語録』に曰く、
『帝都公城の繁昌なる地にては、人多く相あつまるを以て、諸色のあたい日々に増減ありて、奸曲の商賈、利を逞しくすること多し。その故は、財寶を豐にたくはへたる商賈、その中間ひそかに相通じて、その時やすきものをかいこみ、そのきるゝを待て世間に出して、あたひを高くし、云々』と。

 既に寶暦よりもはやく寛文に於ても、町人が物價を左右したこと、然もそれが禁令であつたにも關はらず公然と行はれてゐたこと明瞭ではないか。

 よつて大貳先生、民を安ずる社會の爲めには、勸農と、そして通貨の計たる平物價を主張したものだ。

 ※參照、一。「一歳の息、或は其の母に倍蓰(草冠+「徙」=し)し、(原文「一歳之息倍蓰其母)」の意。
 高利貸の暴威に就て述べたるもの。一年間の利息が、元金の數倍に及び、遂に返濟出來ず、農民の場合には土地喪失、零細農家、小作人化の選擇しかなく、或は子女弟妹を質とし差出さねばならなかつた。

 次いで「妻孥を質と爲す」とは、寧ろ子供や弟妹を質に入れ、金錢を借用すること。
 何れにせよ、悲境の極はみである。

 ※參照、二。「此の時に當りて、俗吏の政を爲すや、群議終日、卒に一策をも得る能はず(原文「當此之時。俗吏之爲政。群議終日。卒不能得一策」)
 江戸時代、まさに然りであつた。役人の無能、不知、糊塗、甚しきは商賈と密月の關係があつた者まで少々ではない。
 そのやうな彼れらが、どうして農村問題を論じて根本的解決策を講じ、且つ、商人の暴利を統制しようものか。得てして、彼れら幕吏も亦た、おのれ一個の安泰と保身のみであつた。誰れぞ之を知るらん、無策はやがて、自身の禍難となつて下つてくることを。田畑の荒廢は幕府の自滅を齎す遠因だ。されど、彼れらの眼中に經綸無し、皆々おのれ一人一家の繁昌を願ふある而已。



●大貳先生の曰く、
『然らば則はち之を如何にせん。
曰く、商は天下の賤民なり。天下の賤民にして、天下の豪富に居り、肥を食ひ、輕に衣るは、固より其の所に非ざるなり
而して(ほしいまゝ)に天下の財を廢居し、天下の貨を出納するは、罪亦た大ならずや。何ぞ、其の官を建て、其の法を立て、之をして農と共に食ひ、工と共に居らしめ、凡百の玩好、一切之を禁じ、高閣重門、一切之を止め、從はざる者は之を刑し、改めざる者は之を罰せざる。之を賣る者多くして之を買ふ者少ければ、則はち居する所の者は必ず廢し、而して聚(あつ)むる所の者は必ず散ぜん。散ずる者多ければ、則はち售(う)れず。售れざれば則はち必ず其の價を減ず。
而して後に能く其の眞贋を辨じ、能く其の精粗を明にし、利多き者は之を征し、蓄多き者は之を賦す。此の如くんば、則はち物價、自ら平にして、貨財自ら通ぜん。 ~云々』、


 こゝでも大貳先生は商人の統制を主張する。
 元來、武士は武力及び學問の力によつて社會の秩序維持に貢獻し、農工は生活の必需品を生産し、社會に貢獻する。
 而して商は、士農工の間に在つて周旋し、小にしては各人の生活の爲め、大にしては國家の經營の爲め、流通を圓滑ならしめるが本分である。だがその分を越えて、商人がひとり營利を最高の目的とし、爲めに物價を調整するに及んでは、これを賤民と呼ばざるを得ない。
 商の分を越えたところに問題を指摘し、こゝでもやはり大貳先生は、正名論を堅持し主張する。




●大貳先生の曰く、仝、
『然らば則はち天下の大利は豈に之に止まるのみなるか。曰く、否、然らず。
今、天下の士大夫、請を託して官を得、賂を納れて貴を取れば、則はち饕餮の族(※貨財及び飮食を貪る者のこと)、廟堂の上に盤桓し、貧賺の俗(※「貧」はむさぼる、「賺」は欺き騙す、の意)、輦轂の下に羅織(※罪無き者に罪を織りなす、のこと)す。故に士庶人の贄、或は一家の産を破り、卿大夫の贈、率ね一歳の俸を傾く。之を贈る者多くして、之に酬ゆる者寡(すくな)ければ、則はち貨は皆、威權の門に娶る。
則はち士大夫の其の身を立てんと欲する者は、十室の邑憺石の俸、奚ぞ以て其の妻孥を養ふに足らんや。是れを以て其の仕進を志す者は、唯だ其の富を欲し、其の利を羨み、貧慕(たんぼ)の情一たび萌して、而して廉恥の心罷む。其の教化に害あるもの、一なり』、

 これは、財通ぜず、貨足らざる原因を、官吏の腐敗にあるとし、大害を五ケ條に及んだもの。
 其の一は、官吏の志、墮し、金銀に眩惑されることを指摘したもの。


●其の二也。
『又た其の權貴に居る者、必ずしも無欲ならず、而も之に贈る者、必ずしも無辭ならざれば、則はち已むを得ずして之を受く。數贈り、數受くるに及びては、則はち必ずしも囘護無き能はず、而して之を薦め之を擧ぐるに、必ずしも其の賢愚を問はず。是れ名は人を選ぶと稱して、而して實は官を賣る者たり。其の政事に害有るもの、二なり

 賄賂が、人事の左右するに至るを指摘したもの。


●其の三也。
『且つ士大夫の官に在る者、己、賂ふ者をば之を好み、善く賂はざる者をば之を惡む。宦官、官妾之に乘じて以て其の利を貪り、以て其の欲を達し、忠信の士、退きて、貧戻の俗進む。是れ其の風俗に害あるもの、三なり

 當然の如く、富める佞人は有用され、貧せる傑士は疎んじられる。人世の金銀に制せられつゝあることを痛罵したものだ。


●其の四也。
事を求むる者は唯だ彼れの欲に乘じ、之に啖(くら)はしめて、以て己が事を濟せば、則はち權勢の家に轍迹絶えずして、罷官の門に雀羅設く可し。是れ其の人情に害あるもの、四なり

 賄賂がモノを云ふ時代に於て、權力を有する者の家には訪問客は賑はうけれ共、一端、官をやめるとなれば既に用はなく、雀羅(雀をとる網)を設けねばならぬほど、絶えて訪れる者もゐなくなる樣子を説明したもの。人間關係を利害得失に化せしめる賄賂横行の世を悲嘆する。


●其の五也。
『權勢の家、其の臣妾の寵が有る者は、固より論なきのみ、僮僕奴婢の屬に至るまでも、亦た皆、其の私を受けて、而して其の財を富まし、肉を食ひ、帛を衣、逸居終歳、奢侈其の分に過ぐ。是れ其の制令に害あるもの、五なり

 「分」は、東洋に於ける社會生活の基礎となる考へである。二宮尊徳翁の『分度を守る』の教を例に出すまでもない。


●大貳先生の曰く、仝、
『五つのものは、皆天下の事に害あり。而して、財之が爲めに通ぜず、貨之が爲めに足らず。豈に禁ぜざる可けんや。
敢へて、望むらくは、公侯以下の常制を立て、聘幣數有り、問遺禮を以てして、饕餮の族を却けて、貧賺の俗を移し、犯す者は之を刑し、違ふ者は之を罰せんことを。則はち高貴なる者は必ず廉にして、卑賤なる者は必ず直ならん。夫れ然る後に公侯能く其の社稷を守り、卿大夫能く其の祿位を保ち、士と庶人と能く其の身を安んじ、以て其の妻子に及ばん。
是れ誠に天下の大利なり。俗吏の計は此に出でずして、一切に打算費用の法を行ひ、朝を汚し士を浼(三水+「免」=けが)し、濫りに民と利を爭ひ、上は勢利の人に付き、下は制を賈豎に受け、天下の財をして日に通ぜず、食をして日に足らざらしめ、而して身、自ら窮するは、至愚と謂ひつ可し

 こゝに官吏の腐敗として指摘された文章は、必ずしも二百年前のことゝして等閑にすることは出來ない。頻々として續出する高位高官の疑獄事件を見れば、吾人はこれを昔日の問題として決して笑ふことは出來ぬ。





●大貳先生の曰く、仝、
『客に政治を議する者有り。曰く、財を通じ、食を足すの道は、既に命を聞くを得たり。敢へて敬從せざらんや。唯だ夫れ物の貴賤有るは、必ずしも多寡に由らざるが如く然り。古は米石に二兩にして、尚ほ且つ以て太(はなは)だ貴しと爲さず。今や價其の半に過ぎずして、而して饑乏は之に倍し、民に菜色有り、野に餓莩(草冠+「孚」=へう、飢ゑ死の意)有り。敢へて問ふ、其の故は何ぞや、と。
曰く、是れ亦た知り易きのみ。夫れ食貨の軒輊有るは、猶ほ權と衡との如きか。多ければ則はち賤しく、寡(すくな)ければ則はち貴きは、理の必ず然る所なり。而も且つ之に反するものは、抑も亦た説有り。今、年穀の登(みの)らざるは、將に古に倍せんとす。是れを以て死者亂麻の如く、而して錢貨の通ぜざるも、亦た且つ古に三倍せり。則はち食は之れ足らずと雖も、其の數は實に貨よりも多し。是れ物重くして權輕きの然らしむるに非ずや。 ~中略~
財貨の通ぜざるは、抑も亦た人爲の然らしむるなり。之を久しうして變せず、聚斂云(こゝ)に盡くすに至りてが、則はち石一錢に直(あたひ)せざるも、亦た猶ほ以て饑歳と爲す。是れ其の豐儉に關せざるものなり。是れ其の貴賤に繇(謠の右側+「系」=よ)らざるものなり。食貨の政、無かる可からざる所以なり』と。(「通貨第十一」完)


 ○内容の解説に曰く、
『轉じて、物價(當然、米價が當面の問題となる)の高低必ずしも、物の多寡によらざる理由を明らかにし、食貨の政の必要なるを説く』。


 たとひ固定化された士の俸祿と雖も、多くの武士は、その米を賣つて金に換へるほどの餘剩は無かつた。
 然も、祿米の換金は、藏宿と呼ばれる商人の仲介を必要とし、武士は手數料を取られた。
 藏宿は祿米買入れとして金銀の貸付けをする代はりに、その利子として、一割乃至二割を取り、武士の困窮は益々促進された。
 吾人が識る、所謂る士農工商などてふ階級は、實質上、名分のみであつて、その實力は既に其の名分に從ふものでは無かつた。
 大貳先生は、首尾一貫、正名を基調として當時の世相を批判してゐる。而も、繰り返すが、この四民は階級に非ずして、平等の關係とする。
 大貳先生の思想の輪廓が明白になつてきたではないか。
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by sousiu | 2012-05-10 01:03 | 良書紹介

柳子新論抄  「守業第十」 

 やうやく第十まで、來た。
 若しも、途中で休息や道草をせなんだらば、今週中には『柳氏新論』から解放され・・・いや、完了する。名殘惜しき哉。

 竊かに望まむとすることは、「河原の抄録や解説なぞアテにならんので、自分で拜讀してみよう」と試みる御仁の一人でも二人でもをられることに他ならない。野生の微衷は、則はち、以て之より它無し。(←大貳先生風)
 かくなれば、野生の骨折りも、木川選手より贈られたる「腱鞘炎知らず」も、寔に甲斐多きものとして之を幸ひとするものである。
 然も、日教組教育による患者がこの稚拙な日乘をみて、若しも、山縣大貳先生や「柳子新論」の名をば覺え親しまれたとしたならば、それ丈を以てして野生の幸甚は至大と謂はねばなるまい。




●山縣大貳先生、『柳子新論』「守業第十」に曰く、
『柳子曰く、夫れ民の業に居るや、父子相承け、世世變ぜず、各々其の土に安んじ、各々其の事を治むるは、先王の治なり。是れを以て上古の民は、能く其の道を知り、而して其の業に力めたり。
 食は此を以て足り、器は此を以て堅く、財は此を以て通じ、之を用ふる者は損無く、之を爲(つく)る者は乏しからず』、(※改行は、野生による。下記然り)


 守業、即はち、職業の世襲を以て先王の治なりとなし、先づは理想を述べたもの。

 知られるとほり、江戸時代では、身分は原則として、代へることが出來なかつた。
 そして同一身分内に於ても、格式や家格は大概、生得的なものであつた。世襲制度が社會を構成してゐたのだ。
 世襲の贊否はともかく、長所を擧げれば、家督の相續者は、子供の時分より親の業を見習ひ、或は教はつてゐるが故に、よく之に通じてゐる。農家の子供が成人となる頃には既に一人前であり、漁師の子然り、鍛冶屋の子然り、所謂る凡ゆる分野の英才教育が、各家庭で夫々行はれてをり、日本の産業、技術は進歩せる可き理由があるのである。これが守業だ。

 だが。



●大貳先生の曰く、
季世は則はち然らず。士の祿は、農の利に如かず。農の利は、工商の富に如かず。工商は巫醫に如かず。巫醫は浮屠に如かず。而して俳優倡伎は、別に一封彊を得、幾何外道は、更らに一乾坤を開く。
即はち民の汲汲乎たる、孰か能く其の業に循(したが)ひて、而して其の事を守る者ぞ。利を逐ひて走り、欲に隨ひて變じ、昨は耒耜を荷(にな)(※「耒耜」は農具の名。「耒耜を荷ふ」は、農業に從事する義のこと)、今は則はち販鬻し、朝には鑪鎛(「金」+博の右側=はく)を執り(※「鑪はくを執る」とは工業に從事する義、夕には則はち咒詛し、■ (「曷」+「鳥」=かつ。雉に似たる野鳥の意。色黒褐にして尾、長し。侵す者あらば直ちにたゝかひ、死ぬまで止まず。故に其の尾は、古、武人の冠の飾とする)冠の士、忽ち倡優の態を羨み、息心の侶、或は耶蘇の教を奉ず。彼れは其れ庸夫、固より是非の辨を知らず、亦た奚ぞ其の邪正を問ふに遑あらんや。此に居れば則はち危ふく、彼に入れば則はち安し。此を爲せば則はち窮し、彼を爲せば則はち達す。利を見て進み、害を見て退くは、衆人の情なり。即はち今の俗吏、何を以てか能く禁ぜん』、


 こゝでは、現實の問題を取り上げ、職業間の利害の差が甚しく、稼業を捨てゝ、或は轉業の多きを指摘してゐる。
 「從來の職業に從事して居れば、生活は窮乏し不安であるが、轉業すると裕福になり生活も樂になる」と考へる人々の増加に齒止めが掛けられないのである。

 世襲制度が社會を構成してゐたと前述した。畢竟、世襲制度が幕府を支へてゐたのである。
 その幕府は上から使役する末端の役人まで生産力を有さない。生産者、勞働者からの徴集に依存してゐる。
 職の名分が正されずば、勞多くして益少き職域が極端なる人工不足となるは必然だ。そは主なるものとして、農業だ。
 同時に、濡れ手に粟、一攫千金を夢見る不埒者も續出するは火を見るよりも明らかだ。事實、この後に所謂る「田沼時代」が到來することを先日述べたが、濡れ手に粟を目論む徒は、上、田沼意次ひとりに非ず。民間では平賀源内ら所謂る山師が隆起する。この場合の山師とは、單に金山とか、銀山とか、銅山とか、鐵山とか握る秤りでなく、凡ゆる利用厚生の道に關與し、而、發明し、金を稼ぐ者だ。つまり、才覺がモノを云ふ時代が開かれようとしてゐた。如何でか農民、重い年貢を課せられ、夏畦の愧づるに足らざると懷ふ可し矣。




●大貳先生の曰く、仝、
『且つや大邑通都の如きは、邸第官舍、甍を連ね城を繞(めぐ)り、飛閣天に接す。
卿相居り、侯伯朝し、駟を結び、騎を連ね、絡繹として斷えず、轂撃肩摩、襟袂幕を爲す。俳優、雜劇、舞妓、侲(人偏+「辰」=ち)子の屬より、以て使熊、狙工、支離、盲聾の徒に至るまで、視る者、堵墻の如く。巫覡の符章、浮屠の念誦、乞ふ者踵を接し、求むる者趾を累ね、糈(「米」+「胥」=しよ)を賽すること土の如し。之を居するものは貢せず、之を賣る者は征せず。異服を之れ譏せず、異言を之れ察せず。
市は波斯の觀を縱にし、府は金帛の美を積み、茶肆酒肆は簷(のき)を接し、地に青草無きもの數十里。是れを以て天下の民、郷を去り國を去り、競ひて之に歸する者、猶ほ蟻の羶に著くが如く、日に其の數を知らず。則はち人、益々多くして、士、益々狹く、城闕の外、率歩一人容れず。是れ皆、末を逐ひ、利を侔(つと)むるの徒のみ。
耕職して本を務むるの民に至りては、則はち掃然として聞ゆる無し。是の故に都下の衣食を給する、日に鉅萬を盡くし、金を餐とし、玉を薪とし、猶ほ且つ以て慊らずと爲す。乃はち關外四野の民、輸運千里、力を盡くし財を竭くし、行役數歳、田は蕪(ぶ)し、野は荒れ、夫は其の鋤を廢し、婦は其の機を罷め、唯だ末をこれ逐ひ、唯だ利をこれ求む。亦た何ぞ其の妻孥を恤(あはれ)むに暇あらんや。
古人言へる有り、曰く、一夫耕さざれば、天下に其の饑を受くるものあらん、一婦織らずんば、天下に其の寒を受くるものあらん、と。乃はち窮民の無聊なる者、或は異術を挾(さしはさ)みて、愚人を眩惑し、或は憤怒激發して(※下記參照)、正長を劫掠し、甚しきは則はち壘を踰(こ)え城に登り、其の主に逼り訴ふる者有り。亦た皆、之を爲せば則はち得、爲さゞれば則はち失ふが故のみ』、


 ○内容の解説に曰く、
『都市の發展に伴ふ人口の都市集中の傾向が、農民の場合には、轉業を意味する農村、それと關連し相表裏する田畑荒廢、及び百姓一揆等の農村問題を惹起することを述べた』、


 事實、當時の江戸は、世界的大都市であつた。
 鎖國政策下にあつて、世界的大都市とは、可笑しな謂ひであるが、こは、人口に於てである。
 當時、江戸の人口は、盛時に於て、百三十から百四十萬人を算へたと云はれる。歐州に於て最大都市と稱せられた倫敦が、西暦1700年前後(元祿九年頃、寶暦九年の當時から數へて約六十年前)で五十萬乃至七十萬人、西暦1801年(享和元年、寶暦九年の當時から四十年後)では約八十六萬五千人であつたと云ふかのだから、如何に江戸が盛況を極めてゐたか分明である。因みに京都は、江戸中期に人口五十萬を越え、大阪は安永八年に人口四十萬五千であつたと云ふ。

 大貳先生は、人口の都市集中の原因が、都會の繁華、享樂生活の誘惑に見出してゐる。
 その實態は、大半が地方農家からの轉住だ。それはつまり、田舍の過疎化を促進することだ。田畑の荒廢は、食の不安定を促すばかりでなく、前記したる如く、米穀を以て通貨同樣と見做したる社會では、深刻も激甚ならざるを得ない。

◎本居宣長大人、『玉くしげ別本』(天明七年)に曰く、
『百姓は困窮年々に募り、未進積り々ゝて、竟に家絶へ、田地荒れば、其田地の年貢を村中へ負する故に、餘の百姓も又堪がたきやうになり、或は困窮にたへかねて農業をすてゝ、江戸大阪城下々々抔へ移りて商人となる者も次第に多く、子供多ければ、一人は詮方もなく百姓に立さすれども、殘りはおほく町人の方へ奉公に出して、竟に町人になりなどする程に、いづれの村にても、百姓の竈は段々にすくなく成て、田地荒れ、郷中次第に衰微す』と。

 男子は田を耕し天下の食物を生産し、女子は機織、衣服の生産に力むる可きであるのに、都市の風に感染して、勤勞をやめ、商工に專心し、利益を追及したのである。
 今日に於ても、亦た、同日の論とせねばならない。

 ※「或は憤怒激發して(原文「或憤怒激發」)」
 所謂る百姓一揆の強訴、越訴を云ふ。
 強訴とは、徒黨を組み、暴力によつて武士を脅迫し、或は村役人、富豪等に暴力を行使してその主張を貫徹せむとしたもの。
 越訴とは、當時に於ける訴訟及び訴願に關する手續きをふめば大半は途中で握りつぶされてしまつたので、已むなく自己の領主家老に、或は將軍幕府要路に、或は他頷の領主へ訴願するもの。


 因みに、百姓一揆に關しては。「革命性」如何が論據の對象となつてゐるが、鳥巣通明氏によれば、農民は彼等を抑壓してゐる社會制度が動かす可からざるものであるとする奴隸的屈從を斷乎として抛棄したが、社會變革の明確な目標を有したのではなく、これは極度の生活の不安による絶望的な爆發と見る可きである、としてゐる。

 いづれにせよ、社會の紊亂は極度に達せむとしつゝあつた。
 そは、理想を得せしめむが爲めの騷動ではなく、困窮より救はれむが爲めの騷動であつたことを鑑みれば、極度に達せんとしつゝあることに疑ひを挾む餘地はない。




●大貳先生の曰く、仝、
今の俗吏の如きは、生まれて輦轂の下に在り、唯だ此の富み足れるをのみ見て、未だ彼れの窮乏を知らず。輙(すな)はち曰く、古今の盛世なり、天下の美士なり、と。
 殊に、陰陽泰否變易居らずして、此に益すれば則はち彼れに損するは、天地の至理なるを知らず。
一旦、不測の難有りて、旌旗目を掩ひ、金鼓耳を駭(おどろ)かし、矛戟前に當り、矢石後に接し、騎卒並び奮ひて、水火之に乘ぜんか、其の將に何の謀に出でんとするかを知らざるなり。 ~中略~
況んや士人の使ふところなる奴隸輿夫の賤しき者は、亡命無頼、恩無く義無く、或は刀鋸の餘に出でゝ、傭力して口を糊し、寄寓して生を爲す者なれば、尚ほ何ぞ其の曲解を爲すえお望まむや。此を以て緩急に使ふ可しと爲すは、亦た愚の甚しきにあらずや。是れ皆、一時の小利を見て、後患を慮らず、人窮し民憂へて、禍根を培養するもののみ』、



 人口の都市集中、僻邑擴大の弊を禦ぐ施策もなき幕府であるが、動亂の兆が既に萌してゐるにも關はらず、有效策無きばかりか、おのれ特權階級であることに驕り、事態の深刻さを全く理解してゐないことを語つてゐる。
 幕吏の不知、況んや農民の困窮をや、だ。
 得てして、今日のエリートやキヤリアと稱される者らも然りだ。學歴、階級あれども、畢竟、總じて無智無能のひとだ。




●大貳先生の曰く、仝、
故に古の天下を治ろしめし者は、務めて其の利を平にし、務めて其の窮を贍(すく)ひ、廣く四國に及ぼし、推して四表に達し、而る後に民は其の土に安んじ、人は其の業を專らにせり。
是れを以て、世は長(とこしな)へに清平にして、國は日に富庶なりき。
書に曰く、偏すること無く、黨すること無くして、王道は蕩々たり、黨すること無く偏すること無くして、王道は平々たり、と。
民を治むるを之れ蕩と謂ひ、國を治むる之れ平と謂ふは、豈に偏すること無く、黨すること無きの謂にあらずや。
今の政を爲す者は其れ蕩々を爲すか、其れ平々を爲すか』と。(「守業第十」完)


 ○内容の解説に曰く、
『當代の社會が、表面平穩にして然もふかく危機を藏するを論じた後をうけ、その打開策を述べて、本章を結んでゐる』。

 この段は、はからずも八十年後、天保八年の「大鹽の擧」の豫言となつてゐる。大鹽中齋公の擧の鎭定に當つた役人の態度その他に就て、劍客、齋藤彌九郎が、藤田東湖先生に報告した記録によれば、その實情は「柳氏新論」に云へるところと全く同じである。吾人は大貳先生の識見に驚嘆せざる能はざるものである。

 而して、愈々、「柳子新論」も殘すところ三である。
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by sousiu | 2012-05-09 10:33 | 良書紹介

柳子新論抄  「安民第九」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「安民第九」に曰く、
『柳子曰く、魚の池に在るや、江海を思はざるはなし。鳥の樊籠に在るや、山林を思はざるはなし。是れ它なし。皆、其の自ら安んずる所なればなり。
即はち民の天下に於ける、豈に亦た然らざらんや

先王、其の必ず然るを知る。之を視ること子の如く、之を愛すること手足の如し。故に其の安んず可きを爲して、而して民、之に安んじ、其の樂しむ可きを爲して、而して民、之を樂しむ。其れ、既に安んず。又た既に樂しむ。是れを以て民の先王を視ることも、亦た猶ほ其の父母を視るが如し。孰れか其の仁に歸せざる者あらんや。詩に云ふ、豈弟の君子は、民の父母なり、と』、(※改行は、野生による。下記然り)


 上記は、民は自ら安ずる所を熱求する本性あるを指摘し、理想的政治形態の所謂る、先王の政とは、よくこの本性を知悉しそれに對處せしものなるを冒頭に述べてゐる。



●大貳先生の曰く、
『今、夫れ、浮屠の教(※浮屠之教=佛教)たるや、曰く、生きて善を爲す者は、死して樂地に入り、百福並び臻(「至」+「秦」=いた)る。其の惡を爲す者は、則はち地獄に墜ち、苦惱窮り無し、と。苟も其の説を聽く者は、駸々乎として其の善を勸めざるは無し。愀々乎として其の惡を懲らさゞるは無し。是れ它なし。其の安ずる所を欲すればなり。
夫れ天堂(※極樂のこと)と地獄は親しく見る處に非ず。而して必ず到るの地に非ざるなり。尚ほ且つ其の安樂を聞けば則はち之を喜び、其の苦惱を聞けば則はち之を懼る。豈に徒だ之を喜び懼るゝのみならんや。甚しきは則はち妻子を棄て、貨財を舍て、饑寒を患(うれ)へず、斧鑕(「金」+「質」=しつ)を怖れず、死を視ること歸するが如く、唯だ其の遄(之繞+「山」+「而」=すみや)かならざるを之れ憂ふ。是れ亦た它なし。生此の如くならずんば、則はち死安からざればなり。必ずしも得可からざるの安きを以て、忍ぶ可からざるの欲を斷つは、之を魚鳥の淵林に思ふに此するに豈に亦た甚しからずや。
且つ人は免る可からざるの患と雪(すゝ)ぐ可からざるの恥とあれば、則はち必ず曰く、死するに若かざるなり、と。
凶年飢歳に、走りて溝壑に赴く者は、免る可からざるの患を避くるなり。敗軍の將の刀を引きて自決するは、雪ぐ可からざるの恥を愧づればなり。此を以て之れを觀れば、安危苦樂の身に切なるや、死生よりも甚し』、

 こゝでは、民の「自ら安ずる所」を熱望する、死生より甚しきを例示した。





●大貳先生の曰く、仝、
『今、天下の諸侯は、國ごとに其の政を同じうせず、人ごとに其の俗を同じうせず。
而して、不學無術の徒は、徒らに目前の近利に徇(したが)ひて、經久の遠圖を忘る。賦斂措かず、法令常無く、賞罰中を失へば、則はち民は寧處に遑(いとま)あらずして、此を去りて彼れに就き、彼れを出でゝ之に入り、恟恟として唯だ其の免れんことを之れ求む。是れを以て四方の國、亡命して跡を滅する者少からず。而して土著の風變じ、群聚の俗興る。 ~中略~
嗟(あゝ)。夫れ今の刑を用ふるは、先王の法に由らずと雖も、而も其の事に處し、罪を論ずるは、必ずしも不當と爲さゞるなり。磔梟火刑の如きに至りては、則はち蠻夷の爲す所、之に加ふるに族滅を以てし、而して酷極まれり。故に一家を■(「火」+「番」)けば、則はち身既に灰となり、一禽を殺せば、則はち族頓(とみ)に赤し。彼れ若し長陵一抔の土を盜まんに、則はち吾れ未だ其の何を以て之に加へんかを知らざるなり。然りと雖も死は一なるのみ。日に其の口を減じ、月に其の戸を損するも、國其の弊を受けなば則はち已む。若し夫れ放逐して跡を削り、籍沒して死一等を減ずるは、則はち寛に似て實は太(はなは)だ酷なり。是れ唯だ割據の遺を承けて、而して苟且の策を立つるもの、要するに統一の制に非ざるなり。 ~中略~
夫れ然らば則はち窮する者日に多く、而も仁は及ばず、賊する者日に衆(おほ)く、而も刑は及ばず。既に其の安んず可きに安んぜず。又た其の懼る可きに懼れずんば、必ず覬覦の徒あるに至らん』、


 ○内容の解説に曰く、
『轉じて、現實社會の批判に移り、先づ、當代の爲政者の政治のやり方が、民の「自ら安ずる所」を顧慮せざるを難じ、ついで、刑法の不當不備を論じてゐる』、


 江戸時代に於て、幕府諸大名は、各々その封土を守る可く、兵力の保持、收税、防牒、治安の維持の爲め、藩士・百姓・町人の領外に出でることを制限し、一方では、浪人・缺落等の藩内に入ることも制限した。
 殊に農民に對しては、寛永廿年以來、移轉の自由を制限した(郷村觸書)。
 それにも關はらず、農家には郷を相次いで捨てる者が續出した。
 農民の土に對する愛着は當時も取り分け強く、それでも彼れらが離村せざるを得なかつた事情は、他の身分の者の場合よりも同情す可きものがある。
 農民離村の態樣としては、都市に吸收せられ、新田開發地に誘引され、又た他藩へ移民として招致されたもの、及び逃散が考へられる。「編民第七」參照↓↓↓
          http://sousiu.exblog.jp/17509033/

 こゝに於て問題視される可き逃散は、初期に於ては一家、又たは、數家族の逃亡に過ぎなかつたが、後には公然と行はれた。彼れらは徒黨を組み始め、畢竟、示威運動を主目的とする百姓一揆となつてゆく。
 政情の不安が社會の混亂を招來することは、畢竟、いつの世も避け難き宿命だ。

 然るに、之を、奈何とする。





●大貳先生の曰く、仝、
『且つ今、天下の士と民とは、固より其の君を愛せざるに非ざるなり。又た其の上を懷(おも)はざるに非ざるなり。然れども、苟も其の職に安んぜざれば、則はち或は奇邪の行を爲し、其の業に安んぜざれば、則はち變じて末利の利を爲す。彼は皆、此の安からざるを厭ひて、彼れの安んず可きを見るが故なり。諸(これ)を火の燥(かは)けるに就き、水の濕(うるほ)へるに就くに譬(たと)ふ。其れ曷(なん)ぞ拒ぐ可けんや。若し彼の安んず可きを以て、此の安んぜざるに易ふれば、則はち必ず然らざるなり。之を安んずるの道は奈何。
曰く、今の政を爲す者は、概ね皆、聚斂附益の徒にして、其の禍を蒙る者は、獨り農を甚しと爲す。若し能く循廉の吏を用ゐて、農桑の利を奪ふこと無くんば、則はち天下、食足らん。天下食足りて而して後に、民其の業に安んずるなり。又た循廉の吏を用ゐて、商賈の利を縱(ほしいまゝ)にせしむること無くんば、則はち天下財足らん。天下財足りて而して後に、士其の職に安んずるなり。士安んずれば則はち國強く、民安んずれば則はち國富む國強くして、且つ富むは、天下の福なり。夫れ然る後に禮樂興す可きなり。賞罰明にす可きなり。是れを之れ民を安んずるの道と謂ひ、是れを之長久の策と謂ふ』()



 農工商賈、之を民の良と謂ふ。所謂る、良なる者は、用を利し、生を厚くし、相輔け相養ひて、以て國家に益ある者なり。故に先王は師を立てゝ以て之を教へ、官を立てゝ以て之を治め、之を愛し之を親しみ、之を視ること子の如く、編伍に制有り、使役に法有り、推して以て士と相齒して之を四民と謂ふ。良たる所以なり。
 若し夫れ、倡優戯子(※倡優は役者の意。倡は女、優は男。戯子は俳優のこと)は則はち人の利に由り、人の財を受け、以て人の耳目を悦ばし、徒(いたづら)に其の口腹を養ふのみにして、人の衣食を爲(つく)る能はず。之を存するも國家に益無く、存せざるも國家に害無し。故に先王、之を斥けて四民と伍せしめず、戸籍相別ち、婚姻通ぜず。是れ其の民を視ること、愛に等あり、親に差あり、類分群聚、之をして各々其の業を專らにして、以て其の生を遂げしむるもの、仁の道在り』(「安民第九」完)と。

 天下の士民が、皆、藩主を愛し上を懷ひつゝも、奇邪の行、末利の計を爲すは、畢竟、彼れらが「自ら安ずる所」を得てゐないからであつて、その對策としては、循廉の吏を用ゐ、勸農抑商の政策を勵行せよ、とかういふことである。

 繰り返し、大貳先生は、商人擡頭を抑へねばならぬことを主張し、同時に、農事勵行を積極的に訴へてゐる。
 この時代、一般に町人から公然と租税を徴集することは行はれてをらず、農民のみが納税の義務を課せられてゐた。農民の困窮たるや想像を絶するものがあつた。「天民第六」參照↓↓↓
             http://sousiu.exblog.jp/17499454/


 基本的に、徳川幕府に始終、粘いて廻りたる苦惱の種は、經濟問題だつた。

 徳川幕府時代の經濟界は、その總てと云はざるも、概ね、殆ど米穀が主たる要素であつた。
 當時、租税といふ可き物の主なるものは、米穀であつた。即はち、將軍以下、總ての大小名より旗本、一切の侍は、單に米を食らうて生きてゐるだけでなく、社會に向かつては、米穀の供給者であつた。つまり米穀を食料とするのみでなく、米穀を衣服とし、米穀を家屋とし、或は米穀を以て彼れらに使役する家來、下男、下女とした。固より彼れらの知行からの收入、役料も多くは米穀であつた。

 米穀が食物の主要のみならず、米穀を以て報償の代用とする社會に於ては、一豐一凶の社會に與へる影響は、孰れも多大であつた。
 凶作の年は、彼れらが米穀の收入を缺乏せしめた。
 だがしかし、豐作の年も困つた。豐年で米を視ること土の如くあつては、米價は下落し、その爲めに、本來米穀によつて得らるゝ對價や貨幣が高騰した。よつて豐年では社會一般に不景氣を招致した。米價低落は武士と百姓に直接、大打撃を與へた。
 豐凶ごとに、社會には多大なる影響を與へざるを得ない。その爲め幕府は、開幕以來、米價の調節を政治の一大要目とし、その實行に苦心した。就中、凶作の明くる年が豐作、或は其の逆となりたる場合は、ことに農家にとつては深刻であつた。都度、恰も、掌を反されるが如くであつたからだ。

 大貳先生は、單なる淺薄な農本主義として、農事を獎勵し、一方には商人を抑壓せんと主張するでない。
 徳川幕府に於ける、今日から視れば特殊な社會の經濟構造に於て、かく持論に至る。
 されど、この當時の人から現代をみれば、是れ又た特殊な構造と云はざるを得ぬであらう。
 吾人は政治形態に目を奪はれるでなく、如何なる體制下にあつても、これを打開し得る可くの發想と見識もて理想を掲げねばならぬ。その基準となる可き大事として、萬世不磨の國體を戴いてをることに、民族の幸福を想はざるを得ぬ。先人の思考囘路を辿るゝに、これは一層明解である。吾人は先人の足跡を、應用せながら、辿つて行かねばならぬ。
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by sousiu | 2012-05-08 15:21 | 良書紹介

柳子新論抄  「勸士第八」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「勸士第八」に曰く、
『柳子曰く、農工商賈、之を民の良と謂ふ。所謂る、良なる者は、用を利し、生を厚くし、相輔け相養ひて、以て國家に益ある者なり。故に先王は師を立てゝ以て之を教へ、官を立てゝ以て之を治め、之を愛し之を親しみ、之を視ること子の如く、編伍に制有り、使役に法有り、推して以て士と相齒して之を四民と謂ふ。良たる所以なり。
若し夫れ、倡優戯子(※倡優は役者の意。倡は女、優は男。戯子は俳優のこと)は則はち人の利に由り、人の財を受け、以て人の耳目を悦ばし、徒(いたづら)に其の口腹を養ふのみにして、人の衣食を爲(つく)る能はず。之を存するも國家に益無く、存せざるも國家に害無し。故に先王、之を斥けて四民と伍せしめず、戸籍相別ち、婚姻通ぜず。是れ其の民を視ること、愛に等あり、親に差あり、類分群聚、之をして各々其の業を專らにして、以て其の生を遂げしむるもの、仁の道在り』、(※改行は、野生による。下記も然り)

 上記は、俳優や役者に就て云ふ。
 前半は、所謂る士農工商に就て、繰り返し述べたもの。※「天民第六」參照↓↓↓
       http://sousiu.exblog.jp/17499454/

 後半「若し夫れ、倡優戯子、云々」は、今日でいふ役者や俳優が、當時、穢多非人たるを免れた賤民として蔑視された理由を述べたるもの。

 因みに、當時の役者は、所謂る「河原乞食」(野生ぢやない)なるの呼稱を甘受せねばならなかつた。
 


●大貳先生の曰く、
『後世は則はち然らず。薫蕕器を同じくし(※原文「薫蕕同器」、善惡混在の意)、淄(三水+右上「巛」+右下「田」=し)澠(三水+「黽」=ぜう)流を一にし((※原文「淄澠一流」=區別される可きが混亂せるの意)、良雜相混じ、戚族分無く、編戸の法壞れて、先王の政、歇(や)みぬ。甚しきは則はち、倡優にして或は士祿を受け、功無くして富み、徳無くして貴く、卒に其の業を變じて、立ちて官政に服する者有るに至る。其の由る所を原(たづ)ぬるに、侫幸(※口舌を以て寵愛を得る者。「史記」に「侫幸傳」あり)嬖寵(※君主の御氣に入りの意)の輩に非ざるは無し。汲々乎として之を求め、戚々乎として之を去る。故に其の行なふや、私智を逞しくして以て王公を欺き、利欲を縱(ほしいまゝ)にして以て庶民を虐げ、讒慝諂諛、暴戻誣罔、適夫(たまゝゝ)の良家の子を賊(そこな)ふ。豈に悲しまざる可けんや』、

 後世、身分制の動搖期に於ける俳優が、官吏へ轉身する害を憂ひて述べてゐる。
 状況や背景は異なると雖も、蓮舫とかいふ、癡人の出自も似たやうなものだ。
 而、民主黨そのものが、癡人の造成所と云はずんば、受け容れ先だ。





●大貳先生の曰く、仝、
『且つ士の輕薄なる者は、毎(つね)に倡優の徒と居り、數々(しばゝゞ)雜戯の場に入り、日に其の冶容(※なまめかしく裝ひ飾ること)を見、而して其の婉言(※やさしく、美しい言葉)を聞けば、則はち人材は彼の若きもの無しと謂ひて、歆(「音」+「欠」=きん)羨歎慕、遂に廉恥の心を失し、便佞口給(※辯舌のみ巧みで誠信を缺く者の言葉)、唯だ優にのみ之れ倣ひ、壯強なる者は此老を爲し、幼弱なる者は燕支(※紅色をとる草の名。婦女の顏色に粧ふに用ひる)を爲し、久しくして之に化すれば、則はち士氣之が爲めに萎薾(草冠+爾=じ)し、鄙俚猥雜にして、以て宣淫の俗を釀成す。況んや、優伎の音を操ることは、淫哇に非ずんば則はち殺伐にして、人の心志を奪ひ、人の情性を盪(とろか)し、其の中和の徳を傷(やぶ)ること、特に鴆と斧斤とのみならざるをや。即はち今の士大夫も亦た徒(た)だ其の音を聽き、其の容を視るのみならず、動もすれば其の伎を學び、其の曲を習ひ、甚しきは、郊廟朝廷の祭祀典禮に至るまで、之を用ゐて以て韶舞に易(か)ふる有り。 ~中略~ 亦た唯だ上の好む所は、下必ずこれよりも甚しきもの有れば、則はち其の風を移し俗を易ふるは、置郵して命を傳ふるよりも疾し。諸の此の如きの類、恥づ可くして愧ぢず、惡む可くして憎まず。士氣の衰、窮まれり』、

○内容の解説に曰く、
『當代に於ける士氣頽廢の原因を求めて、漸く社會的勢力を占めた俳優との交會に着眼し、特に倡優の冶容、婉言及び操音の影響を擧げてゐる』、

 江戸初期に於て、大名、旗本等が若衆を招いて酒席の間を周旋せしめることは一種の流行であつた。
 やがて野卑放縱に流れた演劇の影響が顯著になるに及んで、幕府當局の眼は光らざるを得なくなつたのであるが、不健全な美色に恍惚とする爲めに劇場に訪れる者は年々増加した。
 官吏の遊興甚しく、その影響頗る大にして、だのに何うして下々がそれに傚はぬ道理があらうか、といふ大貳先生の悲嘆だ。
 上にあつて士氣の衰へは、即、下々の勤勞の風を侵す。豈に偶然ならんや。





●大貳先生の曰く、仝、
夫れ士は忠信に非ざれば、以て政に與(あづ)かる可からず。廉恥に非ざれば、以て事に處す可からず。
此の四者は、志以て之を固くし、氣以て之を達す。若し、志氣兩(ふたつ)ながら衰ふれば、則はち皮の存せざる毛、將た何(いづ)くにか屬(つ)かん。果して此の如くならんか
(※下記參照)。
假りに其れをして才あり藝あり、文(かざ)るに衣冠を以てせしむるも、唯だ是れ優孟なるのみ。何を以てか君子と爲さん。何を以てか士大夫と爲さん。是れ豈に編伍に法無くして、猾良を雜(まじ)ふるの弊に非らずや

 ○内容の解説に曰く、
『勸士の消極策として、士氣衰頽の原因の除去、即はち倡優の禁壓を示唆せるもの』、


※「則はち皮の存せざる毛~云々」(※原文「則皮之不存、毛將何屬、果如此耶」)
 毛は皮に附著す可きものであるのに、皮が存在しなければ毛の附く可き所はない。即はち根本が失はれたれば、枝葉のことは論ずるに足らぬとの意(左傳)。こゝでは、志氣既に衰へたれば、士の本質たる忠信廉恥の四者は到底、望まれぬと云ふ意。





●大貳先生の曰く、仝、
唯だ巫醫百工と藝苑衆技の流との如きは、則はちこれに異なるあり。何となれば則はち其の國家の用を爲すを以てなり。夫れ人の技藝に於けるや、好惡あれば斯(こゝ)に能不能あり。其の好みて能くすれば、則はち妙年にして或は奇異と稱せられ、好みて能くせざれば、則はち童習白紛たり。奚ぞ以て誣ふ可けんや。 ~云々』、

 巫醫百工、藝苑衆伎の流は、「國家の用を爲す」點に於て、前述の「國家に益無」き『倡優戯子』とは區別される可きことを述べてゐる。





●大貳先生の曰く、仝、
『見る可し。賢を好むの至驗は、影響よりも疾きことを。今の時と雖も、苟も能く之を好むこと燕王の如き者有らば、士も亦た豈に其の門に造(いた)ることを願はざらんや。唯だ夫れ科擧の法無くして、能者をして屈して伸びず、不能者をして強ひて欲せざるの事を爲さしめ、而も責むるに其の人無きを以てするは何ぞや。是れ特(ひと)り國家に益無きを揚げて、天下に用有る者を抑ふるのみ。曷(いづく)んぞ以て士を勸むるの道と爲さむ。亦た曷んぞ以て民を安んずるの道と爲さむや』(「勸士第八」完)と。


 江戸時代に於ける社會の固定化が、所謂る官家、師家の無能腐敗、布衣在野の士の鬱屈を釀成してゐることを指摘し、前段とは反對に、勸士の積極策として、人材登用を主張して本章を結んでゐる。

 現代人の我々では、何とも、當時の世俗が如何に弊害を齎せたるか理解に難い。
 況んや、士農工商、穢多非人、河原乞食なる身分制度が布されしたるに於てをや。

 吾人は歴史家ではない。
 されど復古を念願し、實際の運動を試みんとする者は、わが歴史、換言すれば 皇國史と沒交渉ではいけない。
 吾人が著眼す可きは、夫々の時代に於ける、夫々の先人の見識と思考、併せて運動であらねばならぬ。それを基礎として、現代に應用す。皇國史と齊しく、尊皇大道も亦た、斷絶される可きではないのである。
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by sousiu | 2012-05-07 20:39 | 良書紹介

柳子新論抄  「編民第七」 

 先日、柿之舍、中澤伸弘先生より、御本『美ちのさきはひ』を拜戴。ありがたし。
 三日には、兄事する、玄月書屋、有安弘吉主人より、はからずも『靖国神社の真実』第二刷が屆いた。ありがたし。

  ◆◆中澤伸弘博士『みちのさきはひ』↓↓↓
    http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1551

  ◆◆『靖国神社の真実』増刷出來。↓↓↓
    http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1553

 昨日は、新宿、阿形充規翁の事務所に伺ひ、翁より御垂示を乞ふ。氣付けば、深夜の一時を廻つてゐる。
 翁はおん年七十三。藤澤の片田舍に住む、野生の如き取るに足らぬ若輩に、何とも申し譯ないことである。ありがたし。


 さて。野生は大貳先生の續きを記さねばならない。
 愈々、後半だ。



●山縣大貳先生、『柳子新論』「編民第七」に曰く、
『柳子曰く、古は民を治むるの法に、必ず編伍あり。編伍に法無ければ、則はち民、土に安ぜず。民、土に安ぜざれば、則はち亡命多し。國に亡命多ければ、則はち盜賊並び起こる。治民の害、盜賊より大なるは莫し
近世、衰亂の後を承け、編伍法を失なひ(※下記參照、一)、戸籍明らかならず、十室の邑(※家が十戸の邑、所謂る小さい村のこと)、尚ほ相識らざる者有り。況んや通邑大都は、無頼の民(※下記參照、二)の亡命して家を破る者、歳に千を以て數ふ。然れども此を去りて彼に居れば則はち知る可からざるなり。故に潛匿して都下に在る者には、或は終身追捕を免れ、還りて安逸の人と爲り、僥倖にして業を起こし、能く千金を致す者も、亦た多からずとせず。
而して、一旦、其の籍を編列せば、則はち郷豪土著の民と、終に相別つ無し。若し乃はち窮民の生を爲す能はざる者は(※下記參照、三)、奔走して道路に乞食し、溝瀆(三水+賣=とく、「涜」也)に轉死するに至りても、曾て隣里の憐れむところと爲らず
或は薙髪(※髮を剃ること)して僧尼と爲り、四方に糊口し、或は竊盜して人を傷つけ、刑を它邦に受く。患難をも救はず、疾苦をも問はず、貴賤と無く、親疎と無く、唯だ其の冷煖をのみ之れ察すれば、則はち名は閭井(※まち、むらざと)を同じうするも、實は啻に仇視するのみならず、囂々乎として里巷の間に豕交し(※豕の如くに交はる、つまり獸と異らざるの喩へ)、嗷々乎として閭閻(※里中の門)の中に狗爭するは、豈に亦た悲しからずや』、
(※改行は、野生による。下記も然り)

 ○内容の解説に曰く、
『編伍の法あるも、それが完備してゐないために生ずる弊害に就て述べたもの』、

 ※一。近世、衰亂の後を承け、編伍法を失なひ(※原文「近世承衰亂之後、編伍失法)、云々。
 五保の制の變形として、江戸時代には「五人組」の制があつた。浪人に對する取り締まりと、耶蘇教禁止勵行の必要より、寛永以後は、特に、五人組に關する法令が多く發布されたが、寛文四年に至り、所謂る「五人組帳」が作られ、人民より法令遵守の手形をとつた。五人組は、農工商の三身分にのみ施したもので、公家、武家、其の他、穢多非人の類ひはこれに加はらず、都市と地方によつて、當然の如く、その規模を異にした。

 ※二。無頼の民(※原文「無頼之民」)
 頼りを託す可き無き者。こゝでは、戸籍不明により發生すると説明してゐる。

 ※三。若し乃はち窮民の生を爲す能はざる者は(※原文「若乃窮民不能爲生者」)云々。
 相互扶助の行はれざる事實を述べたもの。

 戰國割據時代は兔も角、好むと好まざるとは別として、一應、全國が統一された江戸時代では、罪人に對する追放刑では、社會保全の目的を達することが出來ず、却つて無宿人を増加せしめた。これが戸籍不明者だ。
 彼れらは、都會に行けば博奕、強盜などを働き、農村に行けば田畑農家を襲うた。






●大貳先生の曰く、仝、
『然りと雖も、僻邑寒郷の俗の如きは、猶ほ或は古質の風を輕蔑し、士人を威蔑し、之を觀ること嬰兒の如く、以て其の貨財を竊み、以て其の妻孥を掠め、詿誤して以て智と稱し、劫略して以て勇と稱し、徒を爲し、黨を爲し、以て自ら名號を樹つるに至る。官の制する能はざる所、法の罰する能はざる所なり。還りて之に力を假して以て佗の暴逆を制すれば、則はち彼れは自ら其の官の爲めにするを誇りて、愈々益々天下の民を侵侮す。奚ぞ其の賊に兵を借し、盜に糧を齎すの此に非ざるを如らんや。嘆す可きの甚しきなり。~云々』、

 編伍失法の弊害は、田舍のみならず、寧ろ都會に於て殊に甚しくあることを述べたもの。


 徳川幕府も、こと中期以降、政治の弛緩が、國内の隨所に滲透し、治安も亂れてゐた。
 勤勞者や正直者は、絶えずその犧牲を被り、農民は稼業を放擲し、徒黨を組み、惡事に手を染める者決して少なしとせなかつた。上記「亡命」とは、日本を脱することではない。藩を脱するものだ。藩籍を捨てるものだ。彼れらも亦た、無宿人となるか不逞の一團とならざるを得なかつた。
 それでも、稼業に一意專念する者は、幕府の政治によつて恰も奴隸の如く扱はれ、必然として一揆や騷動が多發した。
 當時は今日の如く、各所に交番があるでない。大貳先生は、かうした現状を憂ひて、地域に於ける相互扶助の關係囘復を主張したものだ。





●大貳先生の曰く、仝、
『且つや、近世の處刑たる、其の罪の死に至らざる者は、或は黥(いれずみのこと。黥刑)し、或は髠(上「髟」+下「几」=こん、髮を剃り落とすこと)し、或は苔杖を加へ(※杖で叩くこと。輕敲は五十囘。重敲は百囘、所謂る百叩)て、而る後に其の財を籍沒し、其の身を放逐すれば、則はち星散して歸する所無き者、勝げて計らふ可からず。而して其の暴惡は固より輕刑の能く懲らす所に非ざれば、則はち或は自ら其の過ちを改めて以て其の業に就く能はず。是れを以て親戚に寄らむと欲すれば、則はち擯して之を斥け、僚友に託せんと欲すれば、則はち禁して之を錮し、之をして衣食の計無く、身を容るゝの地無からしむ。則はち窮因焉(これ)より甚しきは莫し。小人窮すれば斯(こゝ)に濫す。況んや其の性の固有する所、死灰寧(いづく)んぞ復た燃えざらむや。遂に郷黨閭里の間に群聚して、竊盜攘奪、以て人の産を妨げ、剪綹(糸偏+咎=りう)誆(言偏+匡=きやう)騙(※下記參照)、以て人の生を害す。此の如き者も亦た少しと爲さず』、

 刑法の誤ち、罪人の更生策の失敗を説いてゐる。前科者は一生、無頼の徒として送らねばならず、更正の機會を得なかつた。よつて、正業では糊口を凌げず、黨派を組み、惡事を繰り返してしまふ。犧牲となる可き人は年々増加し、またもや正直者が損をし、その損をした正直者が惡事に手を染め、或は不平黨を組織し、正に惡循環の極はみであつた。
 これでは年々、社會の治安が紊亂することがあつても、良好へと向かふ可く理由あるはない。

 ※剪綹誆騙
 「剪」は斬る、斷つの意。「綹」は緯(よこいと)の十縷の意。「誆」は瞞く、謬るの意。「騙」は謀るの意。





●大貳先生の曰く、仝、
是れ皆、蒼生を蟊(上「矛」+下左右「虫」=ほう。苗の根を食ふ蟲のこと)(※賊は苗の節を食ふ蟲)し、禍ひ國家に及ぶ者にして、見て以て常態と爲す可からざるなり。宜しく編伍の制を復し、戸籍の法を明らかにし、毛を戴き齒を含むの屬をして、上には管する所あり。下には由る所ありて、網擧がり目張り、掛漏の謗を容れざらしむ可し。而る後に、土着の俗成り、刑措の化、行はれむ。其の治國の道に於ける、庶幾(こひねがは)くは以て一變を爲す可きなり』(「編民第七」完)と。

 編伍を整へ、戸籍の法を完備し、匡救せしめよ、と述べたるものだ。



 江戸時代に於ける刑罰、御仕置き、成敗などの資料があるが、これは亦た他日に讓りたい。
 ともかく、この時代では、罪を犯した者が、轉向、改心を決意すれども、世に容れられる可くした制度も、機能も、風潮も無かつたので、再び犯意を抱く者が大半であつた。
 大貳先生は、是れを地域が密着し、相互關係を強めて、改心したる者への助長や、轉じて無頼の徒からの防衞を促した。

 編伍、五人組に對する長所短所は兔も角、大貳先生の主張は單に幕府の役人や政策の批判のみとせず、之に派生する諸問題を、民間の内にまで實に冷靜に觀察し、その憂ひを唱へてゐる。得てして、思想家とは、かういふものなのかも知れない。
 而、次章「勸士第八」「安民第九」と續いてゆくのであるが、そこでもやはり社會の秩序には人心の安寧に重きを置き、國家の經營には農事に重きを置く。後の章「守業第十」では、はからずも、凡そ八十年後に起こらむ「大鹽平八郎の擧」を豫言するかの如き大貳先生の見識をみることが出來る。
 テレビもインターネツトも無い、情報が極めて乏しき時代に於て、その識見にただゝゞ驚かされる秤りである。



 さて、法で治めるを過信し、刑を加へて一件落着すると考へ疑はざるは、近年も然りではあるまいか。
 確かに、應急措置の功はあらうけれども、そは所詮、應急措置に過ぎぬ。

◎今泉定助先生『講演通信』第四百十四號(昭和十四年一月廿五日「日本講演通信社」發行)「日本は所謂法治國ではない」項に曰く、
『西洋各國は法律を中心としてゐる、それであるから法治國だ、と斯う言ふ。それで日本を法治國だと思つて代々の司法大臣などが自分の部下を集めて、法治國の精神を強調しなければならぬ、などと數代言はれて居る。それは大間違ひである。日本は法治國ぢやない、開闢以來 天皇中心國家である。決して法治國ぢやありませぬ。
明治天皇も法律を色々御心配になつて向上せしめられたことは事實でありますけれども、決して日本は、法治國にはなつて居らぬ。法治國とは、法律を中心とした國家、日本は 天皇を中心として開闢以來出來た國である。斷じて法治國ぢやない。さういふ風に外の國では中心を持たぬものでありますから、力を中心としたり、宗教を中心としたり、法律を中心としたり、道徳を中心としたりして國を治めて居る。中心がなければこれは決して何ものでも治まるものではありませぬから、何か中心を求めなければならぬ。所が、日本の國家は開闢以來 天皇が中心で出來てゐる。~中略~
 イギリスでは法律が中心であり、絶對でありますから憲法の上には皇帝と雖も出ることが出來ない、憲法で決めたこと以外に行ふことは出來ない。憲法絶對、ところが日本の方はさうではない、 天皇絶對であつて、憲法絶對ではない。それであるから憲法にないことでも日本の 天皇は臨時に「斯うせよ」と思召せば、憲法以外でもすることが出來る。それであるから國家總動員法などゝいふものは實はいらぬ。あんなものがなくても一向、差支へないのであります。~中略~ あんなものを法律で拵へて置いて法律で實行しなければ出來ないなどゝいふことは、西洋民族のやる仕事であつて、決して日本精神ぢやない
 さういふやうなことが日本の國を知らない爲めに間違ふのである。惡い心持ぢやない。皆、日本の國家の爲めだと思つてやることが、日本の國家を知らない爲めに間違ふことが多い。斯ういふことが甚だ困つたものであります』と。

 大貳先生は、法と刑との誤用を指摘して、大にして日本、中にして藩、小にして邑、各々共同體としての自覺を取り戻したうへで制を設けることを主張する。この理想に到達すれば、豈に、一君萬民は觀念のみに止まる可き。


 
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by sousiu | 2012-05-06 18:41 | 良書紹介

「近世日本國民史」より學ぶこと 

 『柳子新論』は十三篇に亙る。
 一氣に御紹介したいのであるが、御來車の方々も、野生も、少し疲れが溜まるころだと思ふので、今日は道艸することにした。


 何やら、日乘に記すやうな内容ではないと苦言されさうであるが(奇廼舍主人、落葉松屋主人は苦言せなからうけれ共・・・)、諸賢が野生の如き凡夫の毎日を識つても仕方あるまい。固より野生、人に向うて披露す可き丈の一日も、過ごしてゐない。單なるオタクなのだから。『楚國先賢傳』に「閉戸先生」と呼ばれた孫敬といふ人物が登場するが、野生の場合は、つまり「閉戸處士」だ。

 題したごとく、此處は一民草のひとりごとを漏らす頁に過ぎぬものであるから、それがたとひ大半の人に讀み流されてしまふとも、野生は殊更ら不滿に思ふ可き理由も資格も無いのだ。

 さて。野生が先人の玉稿を抄録するには理由と動機がある。今日は、その事をひとりごとしたい。

 蘇峰 徳富猪一郎翁は、「近世日本國民史」に對する自己の抱負として下記の如く、申してゐる。
 長文となるが、蘇峰翁の素懷とみて間違ひあるまいと思ふので記載することにした。

●徳富猪一郎翁『近世日本國民史 廿三卷 田沼時代』(昭和二年一月十日「民友社」發行)に曰く、
『翻つて考ふるに、予が大正七年五月、近世日本國民史の筆を著け始めて以來、既に足掛け九年を經過した。此の間には我が身邊にも、國家の上にも、世界の上にも、非常の變化が來つた。予一個としては、大正八年二月には、九死一生の大患に罹つた。然も頼(さいは)ひに予は一切を此の事業に獻げ、且つ獻げつゝある。予は當初十年計畫にて、完成せんと期した。然るに今や漸く第一期の終局に近づきつゝありて、第二期 孝明天皇、第三期即ち編著の大眼目たる、明治天皇御宇史は、尚ほ前途遼遠である。歳月は全速力もて奔るも、仕事は牛歩遲々。

 併しながら斯る大仕掛の仕事は、徐ろに且つ確かに、其の行程を辿るを以て、寧ろ安全と信ずる。されば予は決して一日に百里を行かず、百日に百里を行くの方針を取つた。即ち功を累積に遂げ、勝を全局に制するの方針を取つた。此の如くして今日に至る迄、既刊二十三卷、未完五卷、通計二十八卷を稿了した。而して今や第二十九卷を、逐日著作しつゝある。

 惟ふに今後幾許の歳時を要して、完結す可き乎。又た果して予の一生中、完結の目的を達し得可き乎。それは只だ天に問ふの他はあるまい。併しながら予は人力の及ぶ限りを、此事に盡さんとしてゐる。

 されば苟も事の此の業務と兩立せず、若しくは妨害となるものは、予は悉く之を片附けてゐる。此れが爲めには、世間の義理合、一般の社交、若しくは個人的享樂なども、殆んど全く頓著しないこととしてゐる。さりとて決して全速力は愚か、快速力をも出さない。舊に依りて牛歩遲々。若し遲々たるが爲めに、完成する能はずして止まば、是亦た致し方なしとして、自から諦むるの他はあるまい。~中略~

 予の理想を云はしむれば、司馬温公が、資治通鑑に於ける、水戸義公が、大日本史に於ける如く、當代最も超群の史才を集め、その衆力を以て、茲に不朽の大著作を爲したいのだ。されど予の微力では、到底斯ることは思ひも寄らない。

 然らば寧ろ一人一個にて、啄木鳥が木を穿つ如く、兀々(こつゝゝ)として日又日に、月又月に、歳又歳に、その精力を集中して、此の事業に傾倒するの他はあるまい。予には決して完全無缺の歴史を作らんとする程の抱負はない。されど少くとも近世日本國民史に就て、何物かを貢獻したいと思ふ。而してそれ丈の事は、予一人の微力でも、苟も勤めて怠らずんば、必らず成就し得可しと信ずる。 ~中略~

 世間には予が、くだゝゞしく前人の著作、若しくは文書等を引用するを病む人がある。されど予は前人の功を竊むを欲せず、又た斯る資料はやがて湮滅するの虞あれば、せめて予の歴史中に保存せんとの微意に外ならない。若し斯る資料を咀嚼して、改めて予の文字とせん乎。此れは予に取りても手輕であり、讀者に取りても骨折が少ないであらう。されど歴史は小説ではない。歴史は只だ娯樂の道具ではない。古人の著作や、古文書を、その必要の點だけ、その儘本書に登載するは、只だそれ丈の事としても、大なる意義がある。繰り返して云ふ、予は決して勞を厭ふ爲めに然かするではない。予に取りては自から文字を綴ることが、他の文字を抄録するよりも、如何ばかり氣樂でもあり、且つ面倒も少ないのだ。然も有用なる資料の其儘なる引用は、予の修史上の主張である。

 單に文章として云へば、推敲の餘地は頗る多きを知る。されど予は只だ達意を主として、修辭を客としてゐる。他日若し全史を完了するを得ば、更らに其の總説とも云ふ可き一書を綴らんことを期す。その時には予も出來得る限り、修辭にも力を用ひんことを期してゐる。

   大正十五年十二月十六日午前十時 大森山王草堂に於て
                蘇峰六十四叟    』と。



 若い頃、野生はかうした繼續力を有し得なかつたし、又た、欲し得なかつたが、馬齡を重ねるに從つて、蘇峰翁のこのやうな、志に對する姿勢に共鳴しつゝある。共鳴といふ表現が野生の分を越えたものであるならば、敬意である。
 野生は、翁の道に對して進み行くその嚴格な態度ばかりでなく、歴史の尊さと、併せて文章報告の手法も學んでゐる。野生の、抄録を掲げる微意は、當日乘でもこれまで何度か記したが、やはり如上、翁の主張に影響されたこと少なくない。
 とは云へ、抄録の達人、備中處士樣には、未だ到底、足下にも及ばないのが悲しむ可き現状だ。噫。


 ところで野生と「近世日本國民史」との出會ひには少々ばかりの理由がある。
 蘇峰翁には、長年、祕書を務めてこられた並木仙太郎先生といふ人があつた。
 ふとしたことから、野生はこの並木家方々と邂逅を得、爾來十五年、家族同志の親密な御交誼を賜はつてゐる。(目下、野生は所拂ひの身なので、ひとりぼつちであるが)
 因みに、陣營の人では平澤次郎翁や、虚け者先輩、MOKKOSU選手などと並木家へ伺つたこともある。
 仙太郎先生御愛孫からは、今日に至るまで蘇峰先生に關する書籍は固より、貴重な品々を賜はつた。
 「近世日本國民史」も、並木家御主人より獎められ、今日まで三卷ほどを缺いて、ほゞ蒐集し、ほゞ拜讀した。
 人生に於て、ちよつとした出會ひの齎す影響の大なることに、ただゝゞ、驚くばかりである。



 近世日本國民史に話しを戻さねばならない。
 翁は、昭和廿七年四月廿日、「近世日本國民史」第百卷「明治時代」を以て、遂に脱稿することが出來た。(因みに、翁の祕書、藤谷みさを女史による口述筆記)
 足掛け卅五年。嘸ぞや無上の喜びであつたらう。その時の樣子を御愛孫の徳富敬太郎氏が語つてゐる。
 『その日私は祖父を訪れましたが、奧から祖父がゆつたりとあらはれ「終はつたよ」と呵々大笑、それに從ふ藤谷さんはぼうだと涙をながしてゐました』(『國民史會報 第廿九號』昭和卅七年七月十日「近世日本國民史刊行會」發行)と。


 以下は平泉澄先生の、近世日本國民史百卷完成記念に於ける御講演だ。
 前半は、平泉先生と蘇峰翁の御親交に就て。後半は近世日本國民史に就てだ。
 この時既に、蘇峰翁はこの世を後にされてゐる。

●平泉澄先生、昭和卅七年六月廿六日、「近世日本國民史百卷完成報告會」(於帝國ホテル)に於ける講演會にて、曰く、
『徳富先生の「國民史」が、いよいよ百卷完成いたしました。
 私は、終戰後山へ入つてをりまして、徳富先生にお會ひする機會もほとんどなくなりました後に、先生よりたびたびお手紙をいただき、ご懇切なる激勵の言葉をちやうだいいたしました。やがて段々と追放が解除されてゆきました時分のことでありますが、ある日方々の新聞社から訪ねて參りました。「あなたは今度追放解除になるのだから、感想を聞きたい」私は答へました。「私は、決して解除になりませんから、感想は述べません」するとある朝、ゐろりで火を焚いてをりましたところが、長男がきまして、「お父さん、今ラジオでお父さんのことを言ひましたよ」「何といつた」「徳富蘇峰、平泉澄は追放解除せざることに決定した、といふ發表がありました」「さうだらう」といつて笑つてをりましたが、その直後に、徳富先生から杖を二本ちやうだいいたしました。「しつかりしろ」といふ意味だと思ひます。
 常にさういふふうにして勵まして下さつた徳富先生より、ある日いただきましたお手紙は、「いよいよ、國民史百卷、昨日をもつて書き終はつた。これがいつ發行されるか、見込みはたたぬ。おそらく、自分の生きてゐる間に世に出ることはあるまい。しかし、もし自分の死後において、これが日の目を見るようになるならば、その期にはぜひ頼む」といふお手紙をちやうだいしたのでありました』

『最も困難なる明治初年のところを、あれだけ明確に、また實に躍動するがごとくに書かれましたことを、感謝してやまぬ次第であります。さうしてこれは、私どもは何らかの天意あるものではないか、とまで思ふのであります。
 なぜかといひますと、今日の國情において、信長を思ひ、秀吉を思ひ、家康を思ひ、さらに近く西郷を思ひ、木戸を思ひ、大久保を思ふことは、國民にとりまして非常に力になるものと思ひます。その三傑の終はりをもつて筆を終はりましたことは、殘念でありますけれども、しかしかく餘韻を殘され、言ふべからざる精神の冥々のうちにほとばしるものあるを覺えざるを得ないのであります。さうしてこれら前後三傑を見て非常に不思議に思ひますことは、その前におきましては秀吉、これが朝鮮に躓くのであります。豐臣秀吉は偉大なる英雄でありますが、この人は天正十八年までの秀吉をもつて偉大なりとする。それ以後の秀吉は、すでにその志、くづれてをるのであります。さうして朝鮮に禍ひされまして、この朝鮮征伐が豐臣の命取りとなるのであります。同樣に、後におきましては西郷、あの英傑が朝鮮に禍ひされまして、そのために遂に身を滅ぼすのであります。まことに運命の不可思議なるに、驚きのほかはない次第であります
 この間、かやうにみまして、私はこの歴史の書物(※近世日本國民史のこと)が、今日の時世において、かくのごとき形をもつて(※同書は「織豐時代」を首として「維新三傑」まで描かれてゐる)出たといふことは、非常な意味を持つものと感じまして、これを實に不思議に感ずるものであります。この偉大なる書物、およそ世の中に出てをります歴史の書物にして、これほど驚くべき書物はないと思ひますが、この書物の世に出ます上に、その下働きのお手傳ひをさせていただきましたことを、長谷川社長(※「時事通信社」代表取締役、長谷川才次氏)に對して厚くお禮を申し上げます』と。
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by sousiu | 2012-05-05 01:05

柳子新論抄  「天民第六」 

山縣大貳先生、『柳子新論』「天民第六」に曰く、
『柳子曰く、古昔に所謂る天民なるもの、其の數、四あり。曰く士。曰く農。曰く工。曰く商
士は善く官制に服して、以て天下の義を勸め、農は善く稼穡に務めて、以て天下の食を足し、工は善く器物を制して、以て天下の用を濟し、商は善く貿易を爲して、以て天下の財を通ず。此の四者は(※下記參照)、上は天職を奉じ、下は人事を濟し、相愛し相養ひ、相輔(たす)け相成し、以て一日も相無かる可からざるものなり
先王の民を視ること、其の子を視るが如く、民の先王を視ること、其の父母を視るが如し。父母は善く子を教へ、子は善く父母を養ひて、道は其の中に存せり。是れを以て上下和睦して、怨惡あること無く、國以て治まり、人以て安かりしに、猶ほ且つ憂慮する所有り。官を立て、職を命じ、禮樂以て之を導き、號令以て之を教へ、秩祿以て之を富まし、爵位以て之を貴くし、衣冠以て之を文(かざ)り、干戈以て之を威(をど)し、之が才を量りて以て之が事を命じ、之を率ゐるに義を以てし、之を使ふに時を以てし、賞罰信あり、黜陟(ちゆつちよく)典あり。而して後に兆民之に懷(なづ)き、四國(※外國のこと)之に化しき』、(※改行は、野生による。下記も然り)

 ○内容の解説に曰く、
『江戸時代の身分をあらはす語として、從來一般に士、農、工、商なる語が用ゐられてゐるが、この段は、その由來について述べた』、

 ※ 『此の四者は、云々』。
 士農工商は、一般に身分間に存する上下の差別、本末關係を示すものと考へられてきたが、後述で理解出來るやうに、大貳先生は、四民は階級ではなく、共存の考を有してゐた、と理解することが出來る。

 以下は、大貳先生、それゞゝの職分を明らかにせんとするものだ。





●大貳先生の曰く、仝、
『是の故に士は、四民に長として、天職を共にする者なり。
士は君命を奉じて、天下に令する者なり。士は仁義を行ひて、庶政を輔(たす)くる者なり。士は忠信を體して、徳教を布く者なり
今の時に當りて、士氣大に衰へ、内には羞恥の心無く、外には匡救の功無し。上は天職を廢し、下は人事を誤り、蚩々として商賈と利を爭ひ、農を妨げ、工を傷り、殘害して以て威と稱し、飽食煖衣、逸居して以て徳と稱し、日に其の粟(ぞく)を食ひ、日に其の器を用ひて、之に報ゆる所以を知らず。驕奢俗を成し、身貧しく家乏しく、秩祿贍(た)らずして給を商賈に取り、假りて還さず、爭論並び起る。賈豎の利に黠(さと)きは、少成故の如く、習慣自然の如く、先づ勝つ可からざるを爲して、而して敵の勝つ可きを待ち、唇を彈き下を鼓し、智巧百出し、烏獲も之が爲めに怯み、莫耶も之が爲めに鈍る。況んや彼は固より是れにして、此は固より非、克たんと欲すと雖も、其れ得可けんや。且つ大商の富に於けるや、居貨萬をもつて計へ、奴婢千をもつて數ふ。居蘆、器用、錦繍珠玉、皆我が足らざる所にして、彼は則はち餘り有り。是れを以て封君も首を俛(た)れ、敬ふこと父兄の如し。先王の命ずる所の爵位安くに在りや。徳義の教輟(や)みぬ。是れ它(た)無し。官に其の制無ければなり』、

 上記の大貳先生の見は、士が士たる天職を忘却し、結局、商人の擡頭と相俟つて、當時に於ける正名が爲されてゐないことを云うたもの。當時を前後して、士と商の關係が如何なる状態であつた乎。
 因みに、其の一端を窺ふに足る可き文章として下記に付す。
◎三上卓先生、『高山彦九郎』(昭和十五年八月十七日「平凡社」發行)に曰く、
『「賤のをだ卷」に記載する次の事態は、寛政改革後また弛緩して昔に戻つた文化文政頃の状態を述べたもので、改革以前の驕奢豪遊振が、ほゞ之に依て想像される。
   「かれ等の寄合と稱する會合は、出入の料理屋を以て其場所に充て、必ずニ組も三組も贔屓
  の藝者を呼んで杯盤の間を斡旋させる。それが毎日のやうに續き、時には一日の中に二ケ所も
  三ケ所も重なる。二汁五菜には山海の珍味を選み景物や引物には此上も無い贅澤を極め、そ
  れにさへ飽いて家の者さへ餘り喜ばず、其儘腐らせてしまふ始末、芝居も交際には必要である
  と、場所も十間も十五間も廣々と打拔き、酌取には例の藝者を呼んで、明けても暮れても酒宴
  遊興、四季を通じて二日醉、其費用は一切主人持ち・・・。」
かうした留守居の腐敗、特に御用達との醜關係は、一藩を擧げての士氣民風の頽廢奢侈と相俟つて、各藩の財政を極度に逼迫させた。こゝに到つて藏本札差等と諸藩の關係は、經濟的には主客顛倒してしまつた。 ~中略~
前掲「賤のをだ卷」に、
  「さて三味線の流行りたる事、おびたゞしきことにて、歴々の子供惣領より初め次男三男、三味
  線を引かざるはなし。野も山も朝より晩迄音の絶える間はなし。此の上句、下方と云ふ者にな
  りて、歌舞伎の芝居の鳴物の拍子を、素人が寄りたかりて打つなり。其弊止みがたくて素人狂
  言を企て、所々の屋敷々々に催はしたり。歴々の御旗本、河原者の眞似をして女形になり、立
  役敵役にて立騷ぐ戲れなり」
これが三河以來直屬の將兵として幕府が其精鋭を誇つた旗下八萬騎の現状である』と。
 士官の弛緩、以て知る可し矣。(←駄洒落ぢやないよ)


 さて、次は農だ。





●大貳先生の曰く、仝、
夫れ農は能く百穀を播き、春耕し、秋穫り、草に處り、露に宿り、手足胼胝( ※ひび、あかぎれのこと)、作役以て上に奉じ、餘力以て父母及び妻子を養ひ、亹々(びゞ※つとめてやまざる貌のこと)として怠らざる者なり
 夫れ人は食なければ則はち生きず。貴は王侯たり、富は四海を有(たも)つ、而も其の司命たる者は農に非ずや故に先王は司農の食を命じて、男に稼穡を勸め、女に紡績を教へ、税斂を薄くして以て之を富まし、力役を省きて以て之を安んじ、之を親み之を愛し、嬛(左「女」+右「環」の右側)寡も咸(ことごと)く其の徳を被れり。後世は則はち然らず。~中略~
故に民の閭巷に在るや、善く鬻ぐ者は富み、善く耕す者は饑う。之を先王の典に視るに豈に異らずや。且つ其の吏たる者、不學無術にして、唯だ錢貨の貴ぶ可きのみを知り、利を見て義を廢すれば、則はち商賈の權は、上は王侯を侮り、下は朝土を凌ぎ、工を使ふこと奴隸の如く、農を視ること臧獲の如くにして、厚生の道亡びぬ。是れ它無し。官に其の制無ければなり』、

 商人の擡頭と、それを許した幕府の金銀崇拜熱と驕慢奢侈病の風潮は、結果として農家に「働けど働けど暮らし樂ならず」とした惡循環を瀰漫せしめた。
◎太宰春臺『經濟録』(享保十四年、序)に曰く、
『農業は至て艱難なることにて、終歳勞苦多くして利潤少く、嘉穀を食ふことも能はぬ故に、工商の勞苦輕くして利潤多きを羨み、農より工商に移る者多し』と。
加へて、農民には、天災が襲ふ。明和から、安永を挾んで、天明だ。天明の大饑饉も、既に眉端に迫りつゝある。

 「農は國家の大本なり」。農事を輕んじる政策や風潮はいけない。

 而して次は、工だ。





●大貳先生の曰く、仝、
『若し夫れ、工は、能く器物を製して、以て天下の用を制する者なり
而るに亦た皆、商賈と利を爭ひ、錐刀( ※わづかな利益)を是れ競へば、則はち材は皆、麁惡。器は皆、窪窳(上「穴」+下左右「爪」=ゆ、窪窳=わゆ、器に傷があるを窪と云ひ、形正しからざるを窳と云ふ)、日ならずして成り、時ならずして毀(こぼ)つ。唯だ其の售(う)り易からんことを欲して、其の堅緻を欲せず。要は爲す能はざるに非ざるなり。此を爲せば則はち富み、彼を爲せば則はち貧しきが故なり。 ~中略~
故に今の百工は即はち商賈の庸奴のみ。何ぞ以て巧拙を論ずるに足らんや。利用の道は壞れぬ。是れ它無し。官に其の制無ければなり』、

 金銀崇拜熱は、各々の道の道たる所以を亡失せしめんとしてゐる。工も是れ亦た免れる可きに非ず。
 これも、名分正しからぬが故に出でたる弊害である。
 では、これらを惹起せしめたる、一因は何ぞ。
 大貳先生は、都度、官の『其の制』にあると論じてゐる。





●大貳先生の曰く、仝、
故に今の民は、身日に勞して、財日に空し。是れを以て斷然として乃はち謂へらく、耕は食に益するなく、織は衣に益するなし、と。士も亦た曰く、學は身に益する無く、業は家に益する無し、と。乃はち其の事を廢して奇邪之れ從ひ、譸(言偏+壽=ちゆう、譸張=いつはり、たぶらかしの意)張之れ務む。於乎(あゝ)、世の末を逐ふ者、何ぞ其の多くして、本を務むる者、何ぞ其の寡(すくな)きや。古に言へるあり。曰く、上の好む所は、下これよりも甚しきものあり、と。先王は其の此の如きを察す。故に徳を貴びて貨を賤しみ、以て民の邪慝を禁じたり。教令上に明にして、風俗下に美なりし所以なり。今且つ須らく官を置き、職を立て、末を抑へ本を復し、商賈の權を奪ひ、農工の業を興す可し。然る後に士氣漸く復す。各々其の生を爲す所を樂まば、則はち四民其の處を得て、天下、安きに居らん』と。(「天民第六」完)



 本章では、士農工商の身分的特質が、次第に衰へてゆく現状を憂へ、整へむと試みたるものだ。同時に、商人の抑壓を主張する。
 江戸期の商人擡頭は、今で云ふ財界が權を專らとする状態に齊しい。
 ことに、恥ぢも外聞もなく、曾ては企業がマネーゲームに狂奔し、民草も亦た、黄金崇拜熱、享樂生活病に冒されてゐた。否、過去形ではなく、現在も未だ完治する能はざる状態と看做して宜い。

 脱線するので、多くは書かないが、既に少し觸れたやうに、寶暦時代のこの後には、所謂る「田沼時代」が到來する。
 幕府、役所は賄賂の問屋となり、役人天下の時代だ。特權階級の奢侈、享樂は進行し、而、期せずして天變地異は發生する。天明の大饑饉だ。次は寛政だ。高山彦九郎先生に就ては、紹介と抄録の達人・備中處士樣の掲示板に詳しいので、野生の稚拙な文章は既に無用の長物ならぬ長文だ。

 さても、興味の盡きなくあるは歴史だ。事實は小説よりも奇なり、と云ふが、歴史の全てが然りである。
 畢竟、時代の推移を眺める能ふるは、後人の特權だ。
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by sousiu | 2012-05-04 01:23 | 良書紹介