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『帝室論』 三 

●福澤諭吉氏、『帝室論』 三に曰く、
『人或は我帝室の政治社外に在るを見て、虚器を擁するものなりと疑ふ者なきを期す可らずと雖ども、前に云へる如く、帝室は直接に萬機に當らずして萬機を統べ給ふ者なり、直接に國民の形體に觸れずして其精神を收攬し給ふ者なり。專制獨裁の政體に在ては、君上親から萬機に當て直に民の形體に接する者なりと雖ども、立憲國會の政府に於ては、其政府なる者は唯全國形體の秩序を維持するのみにして、精神の集點に缺くが故に帝室に依頼すること必要なり』と。

 これは前記に述べたものを繰り返したもの。當時の政體の持てる力の限界を指摘し、その視點から氏なりの 皇威と云はずんば、皇徳を説いてゐる。


○曰く、『人生の精神と形體と孰れが重きや、精神は形體の帥なり、帝室は其帥を制する者にして兼て又其形體をも統べ給ふものなれば、焉ぞ之を虚位と云ふ可けんや。若しも強ひて之に虚位の名を附せんと欲する者あらば、試に獨り默して今の日本の民情を察し、其數百千年來君臣の情誼中に生々したる由來を反顧し、爰に頓に國會を開て其國會のみを以て國民の身心を併せて共に之を制御せんとするの工夫を運らしたらば果して大に不可なるものありて、大に要する所の者あるを覺ふ可し。其要する所のものとは何ぞや、民心收攬の中心にして、此中心を得ざるの限りは到底今の日本の社會は暗黒なる可しとの感を發することならん。左れば帝室は我人民の依て以て此暗黒の禍を免かるゝ所のものなり。之を虚位と云はんと欲するも得べけんや、讀者も心に之を發明することならん』と。

 このあたりの筆法は、最近の時局憤慨に氣焔を吐くが如き論には到底見當る可くもない。といふよりも、近年、かうした論が少なくなつてきたやうに見受けられるも又た寂しきことである。


○曰く、『例へば一利一弊は、人事の常にして免かる可らず、寡人政治の風を廢して人民一般に參政の權を附與し、多數を以て公明正大の政を行ふは國會の開設に在ることならんと雖ども、之を開設して隨て兩三政黨の相對するあらば、其間の軋轢は甚だ苦々しきことならん。政治の事項に關して敵黨を排撃せん爲には、眞實心に思はぬ事をも喋々して相互に他を傷くることならん。其傷けられたる者が他を傷くるは鄙劣なりなど論辯しながら、其論辯中に復讎して又他を傷くることならん。或は人の穩事を摘發し、或は其私の醜行を公布し、賄賂依托は尋常の事にして、甚しきは腕力を以て爭鬪し、礫を投じ瓦を毀つ等の暴動なきを期す可らず。西洋諸國大抵皆然り、我國も遂に然ることならん。文政天保の老眼を以て見れば誠に言語道斷にして國會などなきこそ願はしけれども、世界中の氣運にして、此騷擾の中に自から社會の秩序を存し、却て人を活溌に導く可き者なれば、必ずしも之を恐るゝに足らず』と。

 この如き一節は今日の憂慮そのものである。然も注目されるは、「國會などなきこそ願はし」といふ件りだ。氏は「世界中の氣運」として取り敢へず、之を消化してゐる。國會なぞ、無きものとなる世は如何なるものぞ。こは殘念ながら未來の識者に訊ねるほかあるまい。


○曰く、『然るに爰に恐る可きは、政黨の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり。國會の政黨に兵力を貸す時は其危害實に言ふ可らず、假令ひ全國人心の多數を得たる政黨にても、其議員が議場に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し。殊に我國の軍人は自から舊藩士族の流を汲で、政治の思想を抱く者少なからざれば、各政黨の孰れかを見て自然に好惡親疎の情を生じ、我は夫れに與せんなど云ふ處へ、其政黨も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば、國會は人民の論場に非ずして軍人の戰場たる可きのみ。斯の如きは則ち最初より國會を開かざる方、萬々の利益と云ふ可し』と。

 これは戰後生まれの我々には、ちと非現實的と考へられないでもないが、明治十五年の當時に於ては必ずしも杞憂と一笑に付す可き類ひではない。


○曰く、『斯る事の次第なれば、今この軍人の心を收攬して其運動を制せんとするには、必ずや帝室に依頼せざるを得ざるなり。帝室は遙に政治社會の外に在り、軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ。帝室は偏なく黨なく政黨の孰れを捨てず又孰れをも援けず、軍人も亦これに同じ。固より今の軍人なれば、陸海軍卿の命に從て進退す可きは無論なれども、卿は唯其形體を支配して其外面の進退を司るのみ、内部の精神を制して其心を收攬するの引力は獨り帝室の中心に在て存するものと知る可し。且又軍人なる者は一般に利を輕んじて名を重んずるの氣風なるが故に、之が長上たる者は假令ひ文事理財等に長ずるも、武勇磊落の名望ありて其地位高きに非ざれば任に適せず、今の陸海軍の將校が其給料の割合に比して等級の高きも、是等の旨に出たるものならん』と。

 之は當然のことだ。この當然たる理窟が、改憲論者から生じ來たらないのは何故であらう。啻に現行憲法第九條を批判するも、達成された後の軍隊に於ける精神的支柱は如何にする。市ヶ谷に於ける三島由紀夫烈士の憂國の雄叫びも、現在の改憲論者の前では空しくあるのみ矣。


○曰く、『又亞米利加の合衆國にては宗教も自由にして、政府に人を用ゆるに其宗旨を問はずと雖ども、武官に限りて必ず其國教なる耶蘇宗門の人を選ぶと云ふ。蓋し他宗の人は兔角世間に輕侮せられて軍人の心を收るに足らざればなり。武流の人が名を重んずるの情以て見る可し。然るに今國會を開設して國の大事を議し、其時の政府に在る大臣は國會より推薦したる人物にして、偶々事變に際して和戰の内議は大臣の決する所なりとするときは、陸海軍人の向ふ所は國會に由て定めらるゝ者の如し、軍人の進退甚だ難きことならん。假令ひ其大臣が如何なる人物にても其人物は國會より出たるものにして、國會は元と文を以て成るものなれば、名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり。唯帝室の尊嚴と神聖なるものありて、政府は和戰の二議を帝室に奏し、其最上の一決御親裁に出づるの實を見て軍人も始めて心を安んじ、銘々の精神は恰も帝室の直轄にして、帝室の爲に進退し帝室の爲に生死するものなりと覺悟を定めて、始めて戰陣に向て一命をも致す可きのみ、帝室の徳至大至重と云ふ可し。僅に軍人の一事に就ても尚且斯の如し、我輩は國會の開設を期して益々其重大を感ずる者なり』と。

 これまた然り。民主政治に對する憂慮を軍隊との關係から説いてゐる。


 先頃、締切りを一日、延ばしていたゞかうと、「不二」編輯部に御願ひの申入れをした。
 快く(・・・か否かは不明だが)、これを承諾してくれたので、つひ氣晴しに日乘の續きを記した次第である。「不二」の原稿は兔角緊張を要するのである。
 「帝室論」も「不二」拙稿も、やうやく四分の一のところまできた。さて、これから、本氣で原稿を書き上げてゆく積もりだ。
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by sousiu | 2012-09-16 00:45 | 良書紹介

『帝室論』 二 

●福澤諭吉氏、『帝室論』 二に曰く、
『我帝室の直接に政治に關して國の爲に不利なるは前段に之を論じたり。或人これに疑を容れ、政治は國の大事なり、帝室にして之を關せずんば帝室の用は果して何處に在るやとの説あれども、淺見の甚しきものなり。抑も一國の政治は甚だ殺風景なるものにして、唯法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し、其約束に從ふ者は之を赦し、從はざるものは之を罰するのみ。畢竟形態の秩序を整理するの具にして、人の精神を制するものに非ず。然るに人生を兩斷すれば形體と精神と二樣に分れて、よく其一方を制するも他の一方を捨るときは制御の全きものと云ふ可らず。例へば家の雇人にても賃錢の高と勞役の時間とを定るも決して事を成す可らず、如何なる雇人にても其主人との間に多少の情交を存してこそ快く役に服する者なれ、即ち其情交とは精神の部分に屬するものなり。賃錢と時間とは唯形體の部分にして、未だ以て人を御するに足らざるなり。故に政治は唯社會の形體を制するのみにして、未だ以て社會の衆心を收攬するに足らざるや明なり』と。

 これは政治の個性に就て語つたもの。今日に於て特に眞新しき論でもない。


○曰く、『此人心を收攬するに、專制の政府に於ては君王の恩徳と武威とを以てして恩に服せざるものは威を以て嚇し、恩威并行はれて天下太平なりし事なれども、人智漸く開けて政治の思想を催ふし、人民參政の權を欲して將さに國會を開んとするの今日に至ては、復た專制政府の舊套を學ぶ可らず。如何となれば國會爰に開設するも其國會なる者は民選議員の集る處にして其議員が國民に對しては恩徳もなく又武威もなし、國法を議決して其白文を民間に頒布すればとて、國會議員の恩威并行はる可きとも思はれず、又行はる可き事理に非ざればなり。國會は直に兵權を執るものに非ず、人民を威伏するに足らず、國會は唯國法を議定して之を國民に頒布するものなり、人民を心服するに足らず。殊に我日本國民の如きは數百年來君臣情誼の空氣中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は唯この情誼の一點に依頼するに非ざれば、國の安寧を維持するの方略ある可らず、即ち帝室の大切にして至尊至重なる由縁なり。況や社會治亂の原因は常に形體に在らずして、精神より生ずるもの多きに於てをや』と。

 つまり、それ以前の武家政治と違ひ、當時新らたに導入された政治體制では、議員は國民に恩徳なし武威なし、一方の國民には心服なし、極めて事務的と云はずんば形體的な繋がりであるのみ、といふことを指摘したものだ。而、精神に於ける繋がりを通じて道徳的秩序を形成するは、君臣の情誼にある、と。


○曰く、『我帝室は日本人民の精神を收攬するの中心なり、其功徳至大なりと云ふ可し國會の政府は二樣の政黨相爭ふて火の如く盛夏の如く嚴冬の如くならんと雖ども、帝室は獨り萬年の春にして、人民これを仰げば悠然として和氣を催ふす可し。國會の政府より頒布する法令は其冷なること水の如く、其情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳は其甘きこと飴の如くにして、人民これを仰げば以て其慍りを解く可し、何れも皆政治社外に在るに非ざれば行はる可らざる事なり。西洋の一學士帝王の尊嚴威力を論じて之を一國の緩和力と評したるものあり、意味深遠なるが如し。我國の皇學者流も又民權者流もよく此意味を解し得るや否や、我輩は此流の人が反覆推究して自から心に發明せんことを祈る者なり』と。

 當時の皇學者に樣々あり。一緒くたに淺學者の如き扱ひをす可きではないが、それは姑く措くとして、兔も角贊否いづれにせよ、興味のそゝらるゝ筆法だ。


○曰く、『例へば明治十年西南の役に、徴募巡査とて臨時に幾萬の兵を募集して戰地に用ひたることあり。然るに其募に應ずる者は大抵皆諸舊藩の士族血氣の壯年にして、然かも廢藩の後未だ産を得ざる者多し。家に産なくして身に血氣あり、戰場には屈強の器械なれども、事收まるの後に至て此臨時の兵を解くの法は如何す可きや。殺氣懍然たる血氣の勇士、今日より無用に屬したれば各故郷に歸りて舊業に就けよと命ずるも、必ず風波を起す事ならんと、我輩は其徴募の最中より後日の事を想像して竊に憂慮したりしが、同年九月變亂も極を結で、臨時兵は次第に東京に歸りたり。我輩は尚此時に至る迄も不安心に思ひし程なるに、兵士を集めて吹上の禁苑に召し、簡單なる慰勞の詔を以て幾萬の兵士一言の不平を唱る者もなく、唯殊恩の渥きを感佩して郷里に歸り、曾て風波の痕を見ざりしは、世界中に比類少なき美事と云ふ可し。假に國會の政府にて議員の中より政府の首相を推薦し其首相が如何なる英雄豪傑にても、明治十年の如き時節に際してよく此臨時兵を解くの工夫ある可きや、我輩斷じて其力に及ばざるを信ずるなり』と。

 餘談ではあるが、野生は嘗て、某自稱傲慢なる漫畫家に、天皇の美談美事を以てして 皇室崇拜の啓蒙を促すことに、差し出がましくも苦言したことがある。苟も日本人は、天皇が御英邁であらせられるから、國民の爲めに御盡力遊ばされたから、畢竟するに偉人であらせられるから仰拜し忠勤に勵むのではない。それ左右の立場的相違こそあれ、いづれも「開かれた 皇室」を謳歌する者らによる惡弊以外のなにものでもないのである。
 若しも、美事を掲げて啓蒙せんと欲するならば、上記福澤氏の如く、國民の側の、皇室を仰ぐ誠を描寫し後世に傳へることを第一とす可きである。これを以て「何故に?」と思ふ者あらば、そはその疑問は、皇威なんたるか自づと學習する動機となるのである。今は便利になつて、インターネツトを利用して、未だ多數とは云へぬまでも、愚直なまでに勤皇の基礎を固めんと只管ら研究、發表するサイトを探すことも不可能ではない。(少ないながらも我が日乘右にも學び舍を掲げてある)
 兔に角福澤氏は、具體例を以て、これを示したものだ。而して、首相にはその力なし、と。


○曰く、『又假に爰に一例を設けて云はん。天皇陛下某處へ御臨幸の途上、偶ま重罪人の刑場に赴く者ありて御目に留り、其次第を聞食されて一時哀憐の御感を催ふされ、彼の者の命だけを赦し遣はせとの御意あらば、法官も特別に之を赦すことならん。然るに此事を新聞紙等に掲げ世間の人が傳聞して何と評す可きや。我輩今日の民情を察するに、世間一般の人は彼の罪人を目して唯稀有の仕合者(しあはせもの)と云ふことならんと信ず。某月某日は「彼の罪人の爲には如何なる吉日か、不思議の事にて一命を拾ふたりとのみにて、嘗て法理云々など論ずる者なく、假令ひ之を論ずるも聽く者はなかる可し。固より罪ある者を漫(みだり)に赦すは社會の不幸にして、我帝室に於ても漫に行はせらる可き事に非ず、況や本文は唯假に例を設けて我民情を寫したるまでのことなれども、或は政治上に於て止むを得ざるの場合なきに非ず』と。

 これは引き續き、例を擧げて説明したもの。例といふより今囘は福澤氏の想像だ。而して、この通りと察せらるゝ。換言すれば、雲上は法制の社外であるといふことだ。況や、政治に於てをや、とした論法だ。


○曰く、『國法に於て殺す可し、情實に於て殺す可からず、之を殺せば民情を害するが如き罪人あるときは、帝室に依頼して國安を維持するの外方便ある可らず。故に諸外國の帝王は無論亞米利加合衆國の大統領にても、必ず特赦の權を有するは之が爲なり。我帝室も固より其特權を有せられ、要用のときには必ず政府より請願して命を得ることもあらん、決して漫然たることには非ずと雖ども、外國にても日本にても、等しく特赦の命を下して其民情に對して滑なるの度合如何を比較すれば、我日本の國民は特別に帝室を信ずるの情に厚き者と云はざるを得ず。我輩が今日國會の將さに開かんとするに當て、特に帝室の尊きを知り、其尊嚴の益々尊嚴ならんことを祈り、其神聖の益益神聖ならんことを願ひ、苟も全國の安寧を欲して前途の大計に注目する者は容易に其尊嚴を示す勿れ、容易に其神聖を用ゆる勿れ、謹で默して之を輕重する勿れとて、反覆論辯して止まざるも、唯一片の婆心自から禁ずること能はざればなり』と。

 前段はちとしつくりしないものがあるが、兔に角、第二章に於ても、氏は只管ら福澤流の 皇室の尊嚴神祕を説き、民主政の社外たる可きを説いてゐる。

 結局、全文を掲載してしまつたが、實は今日原稿の締切りなので早々に筆を措きたい。
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by sousiu | 2012-09-15 17:08 | 良書紹介

『帝室論』 一 

 昨日廿日は、木川青年が來横した。
 共にお勉強の時間を過ごした。
 野生も、偶にはお勉強をする。釣りばかりやつてゐるわけではない。

 その木川青年、先日の時對協懇親會で曰く、
 『僕が大學で教はつてゐる教授は左翼だが、彼れらは 皇室に對して本當に能く勉強をしてゐる。彼れらほど、皇室に就て學んでゐる者が、果して右翼にゐるだらうか』と。
 心情面では認めたくないが、こは、事實と云ふ可きである。
 「尊皇」と云うてさへゐれば我が陣營の模範生と云はずんば、資格者だといふものではない。
 「尊皇」とはなにか、これを答へる能はざるして、他者に「尊皇心が無いので貴奴は怪しからぬ」といふは何う考へても辻褄が合はない。若しもこの矛盾を矛盾とせずして滿足するならば、尊皇家と自稱するほどの人が、皇室論に於て、左翼に完敗することゝなつてしまふ。
 尤も野生はそれで滿足する能はぬ。然るが故に現在、勤皇の基礎を固める作業に著手するのである。

●頭山統一翁、昭和六十一年八月廿一日『日本皇室論』(昭和六十二年五月廿七日『島津書房』發行)に曰く、
『しかるに昭和二十年に、日本帝國が敗戰の日を迎へる暗黒の時代になつて、それまでの近代的皇室理論の不勉強が、日本國民の著しい弱點として、はつきりと現はれた。明治初期のヘコヲビ書生と同程度の反天皇制理論が横行しても、それに對して、「國民感情が同感しない」と言ふ程度の反論のほかに用意がないと言ふ極端な理論の缺如が露呈された』と。

 ところで先般、福澤諭吉氏の『帝室論』を一讀した。
 野生は、過日、「不二」紙上に於て、「維新後史觀の脱却」を訴へたのであるが、それに伴ひ、明治時代の 皇室論や議會誕生の過程に就て、如何なる意見があつたか興味を覺えた爲めだ。

 福澤氏に就ての評判は贊否兩論だ。少なくとも、氏は洋學者である。野生は「西洋事情」ほか二、三の著述を讀んだ程度で、氏の思想に詳しくはないが、どちらかと云へば宜い印象を持つてゐなかつた。
 であるからこそ、猶ほのことゝして、彼れの『帝室論』は如何なるものか、興味がそゝられたわけである。

 (野生にとつては)意外であつたが、退屈する暇もなく、通讀出來た。
 固より逐一首肯する能はざるも、今日本屋に立ち竝ぶ(やたら六ケ敷く書かれてあるが中身は希薄なる)鹿爪顏した保守論客の 皇室論よりも、讀み應へがあつたと認めざるを得ない。

 『帝室論』は、立憲帝政黨の出現に對する諭吉氏の憤慨から、皇室は政治社外であるとす可き立場に立つて、つまり之を説明したものだ。
 野生は曾て、備中處士氏に『何よりも重要な事は、先づ「疑つて讀む」こと』と教はつたことがある。
 今度びの『帝室論』も疑つて、といふより讀みながら反論す可く、讀んでみた。
 福澤諭吉の洋學者たる一面を以て好ましく思はぬ尊皇家あるならば、啻に「洋學者の云ふ 皇室論なんざくだらぬ」と云はず、論破を試みる可きが道理だ。

 この書は殊更ら緊張感を以て執筆に當つたといふ福澤氏であるが、より力瘤を入れたであらうと思はれる箇所を抄録してみる。
 諸賢も反論す可く、之を御一讀いたゞきたい。(斷わつておくが野生は必ずしも福澤氏を尊皇家と云うて過大評價して彼れを宣傳するものではない。固より福澤氏から一錢すら辯護の報酬を貰ふものでもない。尤も、諭吉が多く我が家を訪れ、諭吉で我が室が埋め盡されむを願ふにせよ)


●福澤諭吉氏、明治十五年四月廿六日、『帝室論』(明治四十四年『時事新報社』發行)一に曰く、
『帝室は政治社外のものなり。苟も日本國に居て政治を談じ政治に關する者は、其主義に於て帝室の尊嚴と其神聖とを濫用す可らずとの事は我輩の持論にして、之を古來の史乘に徴するに、日本國の人民が此尊嚴神聖を用ひて直に日本の人民に敵したることもなく、又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし。往古の事は姑く擱き、鎌倉以來世に亂臣賊子と稱する者ありと雖ども、其亂賊は帝室に對するの亂賊に非ずして、北條足利の如き最も亂賊視せらるゝ者なりと雖ども、尚且大義名分をば蔑如するを得ず。左れば此亂臣賊子の名は日本人民の中にて各主義を異にし、帝室を奉ずるの法は斯の如くす可し、斯の如くす可からずとて、互に其遵奉の方法を爭ひ、天下の輿論に亂賊視せらるゝ者は亂臣賊子と爲り、忠義視せらるゝ者は忠臣義士たるのみ。我輩固より此亂臣賊子の罪を免すに非ず、之を惡み之を責めて止まずと雖ども、這(こ)は唯我々臣子の分に於て然るのみ。遙に高き帝室より降臨すれば亂賊も亦是れ等しく日本國内の臣子にして、天覆地載の仁に輕重厚薄ある可らず。或は一時一部の人民が方向に迷ふて針路を誤ることも一時これを叱るに過ぎず、其これを叱るや父母が子供の喧嘩して騷々しきを叱るに等しく、之を惡むに非ず唯これを制するのみにして、僅に其一時を過れば又これを問はず、依然たる日本國民にして帝室の臣子なり。例へば近く維新の時に當て官軍に抗したる者あり、其時には恰も帝室に抗したるが如くに見えたれども、其眞實に於ては決して然らざるが故に、事收るの後は之を赦すのみならず又隨て之を撫育し給ふに非ずや』と。

 これは冒頭の一節だ。
 先づ氏は、日本が 皇國であることを認めてゐない者は(顯在的意識と潛在的意識の別あるにせよ)存在しない、と斷言してゐる。
 勿論、これまで、國内では囘避し難き葛藤、齟齬あり。不運にも戰亂が勃發した場合さへあつた。
 さらばそこには必然、討つ可き側と討たれる可き側の別が生ずる。されど討つ側も討たれる側も、皇室を何のやうに奉戴するかの別こそあれ、いづれも 崇拜の念皆無で無かつたといふわけだ。畢竟、日本人、皆、天皇赤子ならざるはなし、の論だ。


○曰く、(中略)『右の如く我日本國に於ては古來今に至るまで眞實の亂臣賊子なし、今後千萬年も是れある可らず。或は今日にても狂愚者にして其言往々乘輪に觸るゝ者ある由傳聞したれども、是れとても眞に賊心あるとは思はれず、百千年來絶て無きものが今日頓に出現するも甚だ不審なり。若しも必ず是れありとせば其者は必ず瘋癲ならん、瘋癲なれば之を刑に處するに足らず、一種の檻に幽閉して可ならんのみ』と。

 これには野生も同意だ。野生は何でもかでも「國賊」と罵倒することには反對の立場だ。安易に「あれも國賊、これも國賊」と輕口を發する者、一見してその者は「日本國民皆 天皇赤子である」といふ確信があるやうに見えるが、寧ろ實はその反對で、不信から生ずる發言に他ならない。これは能く能く、吾人の省察せねばならぬことである。
 福澤氏のこの論に隨へば、渡邉文樹氏など可愛いもんだ。彼れを「國賊」と呼ぶは、大袈裟にも程がある。彼れがフーテンであるか否かは定かならねど(尤も彼れは一種の檻に何度も幽閉されてはゐるが)、彼れもまた、天皇赤子の一人であることは疑ふまでもない。
 而して、以下、早くも氏は本題に突入する。


○曰く、『去年十月國會開設の命ありしより、世上にも政黨を結合する者多く、何れにも我日本の政治は立憲國會政黨の風に一變することならん。此時節に當て我輩の最も憂慮する所のものは唯帝室に在り。把も政黨なるものは、各自に主義を異にして、自由改進と云ひ、保守々舊と稱して互に論鋒を爭ふと雖ども、結局政權の受授を爭ふて己れ自から權柄を執らんとする者に過ぎず。其爭に腕力兵器をこそ用ひざれども、事實の情況は源氏と平家と爭ひ、關東と大阪と相戰ふが如くにして、左黨右黨相對し、左黨に投票の多數を得て一朝に政權を掌握するは、關東の徳川氏が關原の一捷を以て政權を得たるものに異ならず、政黨の爭も隨分激しきものと知る可し。此爭論囂々の際に當て、帝室が左を助る歟又は右を庇護する等の事もあらば、熱中煩悶の政黨は一方の得意なる程に一方の不平を増し、其不平の極は帝室を怨望する者あるに至る可し』と。

 この文章は明治十五年四月廿六日の記述だ。期せずしてその凡そ一ケ月前(同年三月十三日)に、立憲帝政黨は結黨された。
 固より、氏の同黨に對する批判の前提であることは云ふまでもない。


○曰く、『其趣は無辜の子供等が家内に喧嘩する處へ父母が其一方に左袒するに異ならず、誠に得策に非ざるなり。加之(しかのみならず)政黨の進退は十數年を待たず、大抵三五年を以て新陳代謝す可きものなれば、其交代毎に一方の政黨が帝室に向ひ又これに背くが如きあらば、帝室は恰も政治社會の塵芥中に陷りて、其無上の尊嚴を害して、其無比の神聖を損するなきを期す可らず、國の爲に憂慮す可きの大なるものなり』と。

 つまり、當時既に布かれてゐた民主政治では、皇室が直接この社中に關はることによつて、その尊嚴、神聖は大きく損なつてしまふことを危惧してゐる。
 逆言せば、民主政治の涜れたる本質を認めてゐることゝ云へなくもない。


○曰く、(中略)『帝室は萬機を統(すぶ)るものなり、萬機に當るものに非ず。統ると當るとは大に區別あり、之を推考すること緊要なり。又皇學者流が固く其守る所を守るが爲に、其主義時としては宗旨論の如くなり、苟も己れに異なる者は之を容れずして却て自から其主義の分布を妨るものあるが如し。人をして我主義に入らしめんと欲せば、之に入るの門を開くこそ緊要なれ、是等は我輩の感服せざる所なり。我輩は赤面ながら不學にして神代の歴史を知らず、又舊記に暗しと雖ども、我帝室の一系萬世にして今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは明に之を了解して疑はざるものなり。此一點は皇學者と同説なるを信ず、是即ち我輩が今日國會の將さに開かんとするに當て、特に帝室の獨立を祈り、遙に政治の上に立て下界に降臨し、偏なく黨なく以て其尊嚴神聖を無窮に傳へんことを願ふ由縁なり』と。

 このあたりの論法は、之を眞似たのか、有名人と權力者好きの、どこぞの自稱新右翼たる賣文屋の發言に似てゐるが、その内容、本質は雪と墨との相違がある。
 これにて一の項は終はる。結局九割方を書き出してしまつた。
 この書き方は「柳子新論」で懲りた筈の野生であつたが、今一度、「腱鞘炎知らず」を相棒として頑張つて續けたい。

 繰り返すが、抑もこの一書を野生が手にしたのは、今日の閉塞したる刻下状況を突破する爲めには、戰後史觀の脱却でなく維新後史觀の脱却を試みんとする爲めに繙いたのである。
 氏の論を總て鵜呑みにしたものでも、又た、鵜呑みにせよと云ふでない。
 先づ「疑つて讀む」こと、疑ふことから審神が始まる、てふ、九段塾御主人の御忠告を同志と共に活かしたく思ふものである。
 思想は良い惡いだけではない。取捨の選擇もあるのだ。良い、とか、惡い、とか既出の思想や思考を評論するだけでは、もう何うにもならぬ。そろゝゝ日本人は自身の力で考へを發展させてゆく必要がある。
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by sousiu | 2012-09-14 15:07 | 良書紹介

また宜き先輩の逝く、悲しき哉 

 神奈川縣相模原市を據點とした大日本儀心會・高橋信志會長が八日未明、自宅で心不全にて歸幽された。
 享年六十三歳。
 山川裕克君より一報を受け、今日は高橋邸を訪うた。發見されたのは月曜日であつたといふから、仕方が無かつたとはいへ氣の毒であるが、奇麗に化粧がなされて、安らかなる御顏であつた。
 
 高橋會長と最後に御會ひしたのは今年の四月一日、明治神宮であつた。
 以前はよく御會ひし、時折り御電話をいたゞいたものであるが、近年は體調がすぐれず、病院通ひしてゐるとのことであつた。
 しかし、運動や會合等があると病身を顧みず參加され、その顏色をみた周圍の人達が心配して歸るやう説得する場面を何度か見たことがある。
 以前から高橋會長を知る山川君の話しでは、高橋會長は曾て隨分強持てで知られてゐたとのこと。
 十數年前、野生が初めて御會ひした時には、既にさういつた雰圍氣を表に出すことなく、いつも若者の意見を靜かに聽いて頷いたり、微笑してゐる印象しかない。
 議論を好まず、黨派に屬さず、然れども決して自己主張することもなく、常に飄々としてゐる感があつた。
 思へば、最近、かういふ人も少なくなつた氣がする。
 また一人、親しむ可き大先輩が現世を後にした。
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※左、高橋信志會長。平成廿一年十一月八日、横濱市内で行はれた「相原修君を偲ぶ會」で。
 この日も高橋會長は病身に鞭打ち出席するも體調頗る宜しからず、周圍の説得により歸宅された。
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by sousiu | 2012-09-13 01:21 | 報告

畏友との再會  

 九月十日月曜日は、數年振りに矢崎泰之兄と會つた。
 矢崎兄との交流は長く、彼れ是れ廿年になる。
 彼れは以前、大義党なる團體を主宰し、神奈川縣維新協議會に在籍。尊皇の志篤く、行動右翼の權化のやうな人で、過去、運動でも幾度か別莊住まひを餘儀なくされてゐる。
 彼れは今度びも別莊生活を送つてゐたのであるが、芽出度く歸宅したことから、久々の對面となつたのだ。
 矢崎兄とは廿代前半から、ビラ貼りで、或は機關紙で、お互ひ努力を競ひ合つたものだ。又た、自分でも今では信じられないが、矢崎兄とは週に少くとも二、三度は飮みに行つた。卅歳のころから、野生は殆どアルコールを口にしなくなつたが、あの頃はよく飮んで大言壯語したものだ(酒は兔も角、大言壯語は今も變はらぬが)。
 矢崎兄とは思ひ出咄をする丈で、おそらく三日は過ごせるだらう。何にせよ、久し振りの再會は嬉しいものであつた。


 因みに彼れは府中にある別莊で假住まひをしてゐたのであるが、野生との通信は一切、別莊地管理人の手により斷絶されてゐた。
 野生の知人で月形に假住まひをしてゐる人がゐるが、是れ又た管理人から書籍や手紙やらが差し止められる始末。
 當然、先方から野生への發信も不可である。
 別莊の管理組合に電話して尋ねると、いづれも「理由はお答へ出來ませぬ」とのこと。
 これは差別だ。解同に言ひ付けてやりたい。



 ところで、矢崎兄の「大義党」で思ひ出したので、序で乍ら「大義」に就て、興味深い一文を抄録しておきたい。
●猪狩又藏氏、昭和七年六月十五日、『日本皇室論』(「日本皇室論刊行會」發行)
君は君、臣は臣と、其の名分の定まつたところに大義が存するのである。大義名分は一つの熟語となつて、而かも現今は濫用せられることが多いから、茲に一言を付加して置きたい。世間普通の事柄に大義名分が、どうのかうのといふが、是れは不敬に亘る恐れがある。大義とは君臣の間のことに限るのである。昔は赤穗義士が仇討ちをしても、大義によつて云々とは言はない。たゞ義によつてといつてある。主君の仇でも主君は一諸侯であるから、斯くいつたのであらうと思ふ。それに近頃は何としたことか。一政黨員が政黨を脱するとか脱せぬとかいふ場合でも、大義名分云々と論議することが少くない。極めて僭上の沙汰である。言葉が濫用せられるといふことは、其の言葉のうちに含まれた意味が亂雜になるのである。我が國體上重大なる意義を有する言葉の濫用は、愼まなければならぬ』と。

 ・・・知らなかつた。
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by sousiu | 2012-09-12 00:47 | 報告

するめいか結社 番外 奮鬪之繪 

 たゞいま、するめいか結社に於て、自ら戰力外通告を發した成美選手から、せめてお役に立ちたいといふ意か、寫眞が提供された。

 他意はないが、拜戴した手前、これを筐底に祕してはならぬ、と、斷腸の思ひで野生は掲載せねばなるまい。

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 ↑↑↑手前から、愛倭塾・山口會長、時對協・福田議長、愛倭塾・平田理事長、防共新聞社遊説隊・近藤隊長、大日本愛国党・中川先輩(釣りの)。
 手前二先輩のこの姿は、泪なくして正視する能はぬ。
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by sousiu | 2012-09-11 21:19 | 報告

スルメイカ結社 

 九月九日日曜日は、木川智君が企畫部長となり、千葉縣いすみ市の大原沖合で烏賊釣りを樂しんだ。
 如上、新宿區での會合を終へ、そのまゝ不眠で神奈川を發ち、山口、平田愛倭塾諸先輩と共に千葉へ向かつた。
 船釣りは始めての經驗(釣りそのものは小學生以來)であり、船醉ひを心配しつゝ早朝、沖を出たが、案外に醉ふこともなく、樂しい一ト時であつた。
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↑↑↑出航前。つまりはbeforeだ。野生の意氣込は噴火直前のマグマに似たり、だ。
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↑↑↑出航時、思はず「北の漁場」を口ずさむ♪(歌詞は適當だつたけれども)。
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↑↑↑朝日が眩い。するめいか結社の活躍振りを明示してゐるやうだ。


 この日の企畫の名を、神奈川縣維新協議會護國鐵拳隊の成美選手は「太平洋を望む海上憂國懇談會」としてゐる。↓↓↓
       http://www4.hp-ez.com/hp/kanaisinkyougi/page15
 また、大行社の木川選手は、「草莽遊學(漁業體驗)」と名付けてゐるやうだ。↓↓↓
       http://taikousya.com/

 どれもこれも尤もらしき名前であるが、要するに名前は無い、といふことだ。野生の場合、當初こそ、「木川智君と愉快な仲間達」(或は「平成版林子平翁の視點で考へる會」)と名付けたが、參加して、この名は餘りにも手緩いことに氣が付いた。何故ならば、經驗して始めて解つたことであるが、船上では甘えは許されない。釣り針を手に掛けて出血する。腹が減り食糧が不足する。たふれる同志はゐる(船醉ひ)。釣り上げた際に烏賊の攻撃を被る(イカスミ)。太陽の熱と光が肌をさす(紫外線)。こは正しく小なる戰場だ。
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↑↑↑手前から愛倭塾・山口會長、同血新聞社・小林。
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↑↑↑手前から愛倭塾・平田理事長、防共新聞社・近藤君、大日本愛国党・中川先輩(釣りの)。


 因みに、志半ばでたふれた同志は、(本人の名譽の爲めにも大きな聲では云へないが)上記した成美選手と我が時對協の福田議長だ。たふれた先輩後輩を前にして、今更ら乍ら野生も反省するところ大であるが、迂闊にも魚眼レンズに認められたるスルメイカの群れに心奪はれ、横たはる同志どころの騷ぎではなかつた。軍歌「戰友」の歌詞が好きな野生が、何とも面目ない話しである。

 さて、釣果は奈何。
 義信塾・市村代行と愛倭塾・平田理事長、愛国党の中川先輩が群を拔いて一位であつた。
 野生は、・・・・え~と、二ハイ(二ハイとは、二匹つてこと)。歸りにこの日來れなんだ同志へクール便で御裾分しようと住所を書きつらねたメモ書きと、大きなクーラーボツクスが野生の慘めな思ひを一層かり立てた。
 たふれた福田議長を放つてまで挑んだ結果としては、何とも頼りない數である。嗚呼。
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↑↑↑after。野生の苦笑ひをみよ。福田議長に至つては、何故か少し氣が立つてゐるやうにみえなくもない。野生申し譯ないが、疲勞と睡眠不足と空腹で、歸りを待つてゐた釣り船女將の冗談に應へる氣も起こらなかつた。
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by sousiu | 2012-09-11 01:35 | 報告

神縁。 

 九月八日土曜日は、山口健太郎兄の御誘掖を以て奇縁を賜はつた。
 關西より上京された御影舍大人は、「平田派の學問とその實踐面としての神仙道」を研究されてゐる人だ。
 新宿某所の待ち合はせ場所に著くと、既に到着してゐた近藤勝博、木川智兩兄と合流。先方は御影舍大人と健太郎兄の他に神職や神道研究家などもをられた。
 謂はゞ古神道家と右翼運動家との面會だ。

 野生は現在、馬に喰はせるほど溢れた机上の時局評論では、到底今日の現状を突破前進し得ないと確信してゐる。弊社など大した實績もないが、それでもこれまで、己れの出來得る範圍のことは全力で行なつてきた積もりだ。その挫折と敗北を繰り返し經驗して、到達した結論だ。

 氣の毒にも唯物史觀や無神論に淫された者たちは、安易に權利の得失を以て今日の日本を繰り返し憂慮するが、如何にみてもそこには批判のみあつて思想らしきものは見當らない。
 言論が淺薄なら、行動は曾ての解同の如き代物。解同の正體は何ぞや。

 元來、思想や信仰に偉大なる力が存してゐることは云ふまでもない。
 尤も資源や權利の保護、或は獲得を忽せにせよと云ふ積もりは毛頭ない。野生は大衆を説得するには、これらの方便に即效性のあることも認めてゐる。
 だが、それには偉大と呼べるほどの力は存してゐない。
 權利思想はいつの間にやらどこまでも伸張し、遂には戰爭に撞着することは、西洋史にみても明らかだ。

 よつて野生は日本固有の思想や信仰に興味が少なくなく、古神道に就ても學ばねばならぬところ大と思ふものである。然るに今度びの健太郎兄の御誘ひは大變難有く思ふ次第である。

 御影舍大人から、所謂る神仙道と支那の道教との相違や、古神道からみる尊皇觀を御教示いたゞいた。
 又た、解散のころ、傳法を我れら三人に授けて下さつた。
 固より無知に近しき野生であるが、次々に無知を知らされることが則はち、日本の深奧を知らされるやうで、これが實に嬉しい思ひなのである。
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by sousiu | 2012-09-10 14:50 | 日々所感

九月六日。

 昨日は大東神社に於て、相原修命、足立徳史命、山下貞一命三柱三年祭が執り行はれたといふ。
 野生は一日早く、横濱市の「ふれあいの杜」及び青梅の勤皇村へ參じた次第である。その譯といふのも、すつかり一昨日が六日であると思ひ込み、迂闊にも「ふれあいの杜」を後にし青梅に到着するまで氣付かなかつたのであるから、最早致し方がない。相原兄にまた馬鹿にされてしまふを承知で、ひとり赤面しつゝ奥墓を參拜したのである。

 昨日は時對協の定例會であつた。懇親會では相原兄の話題ともなり、神道に就ての活溌な意見交換がなされた。
 かく考へてみれば、未だに彼れの影響決して少なしとしない。彼れの願つて已まなかつた、右翼陣營に於ける信仰の恢復は、今、にはかに進行してゐる。諄いやうであるが、日本の中興を期たさむとすれば、「反」と云うてそれで足るものではない。

 彼れの恩顧を被る一人、近藤勝博君は定例會の前に「ふれあいの杜」へ寄つてきたとの事。
 近藤君も直向きに神道國學を學び、以て現代日本を直さむと力行に勵んでゐる。最近では和歌への求知心にも溢れ、恰も相原兄に導かれてゐるやうだ。宜哉。
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by sousiu | 2012-09-07 14:53 | その他

人心・思想の亂れる麻の如し、さればこそ、神國日本への確信を。

●壽永三年二月、源頼朝公、後白河法皇の近臣刑部卿泰經公に送るの意見書に曰く、
我朝ハ神國也。往古(ノ)神領、相違無ク、其外、今度始テ又各新加せらるゝ歟。就中、去ル此鹿島大明神御上洛ノ由、風聞出來ノ後、賊徒追討、神戮空しからざる者歟

●延元四年、源親房公、『神皇正統記』卷一に曰く、
大日本者神國也。天祖始て基を開き、日神長く統を傳へ給ふ。我國のみ此事有り。異朝には其類无し。此故に神國と云ふ也

●文明十二年七月、一條兼良公、『樵談治要』に曰く、
我國は神國也。天つち開けて後、天神七代、地神五代あひつぎ給ひて、よろづのことわざをはじめ給へり

●天正十九年七月廿五日、豐臣秀吉公、印度國副王に與ふる書翰に曰く、
夫れ、吾が朝は神國也。神は心也、森羅萬象一心を出でず。神に非ざれば其の靈生せず、神に非ざれば其の道成らず』(原文ハ漢文)

●慶長十七年六月附、徳川家康公、濃毘數般(ノビスパン)國主に答ふる書翰に曰く、
抑も吾が邦は神國なり。開闢より以來、神を敬ひ佛を尊ぶ。佛と神と垂跡同じくして別なし。君臣忠義の道、霸國交盟の約を堅くし渝變する無き者、皆、誓ふに神を以て信の證となす』(原文ハ漢文)

○又た、慶長十八年十二月、同公、「耶蘇教禁制」に曰く、
夫れ日本は、元是れ神國也。陰陽測られざる、之を名づけて神と謂ふ。聖の聖たる、靈の靈たる、誰れか尊崇せざらんや』(原文ハ漢文)

●正保三年二月一日、徳川義直公(敬公)、『神祇寶典』に曰く、
夫れ、本朝は神靈の挺生して棲舍する所なり。故に神國と推稱し、其の寶を神器と號す。其の大寶を守る、則はち曰く、神皇と。其の征伐する、則はち曰く、神兵と。其の由りて行ふ所、則はち曰く、神道と』(原文ハ漢文↓↓序文)
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103263574-001.pdf

●林道春、『本朝神社考』に曰く、
夫レ本朝ハ神國也。神武帝、天ニ繼ギテ極ヲ建テシ已來、相續キ相承ケテ、皇緒絶えず、王道惟(これ)ニ弘マル。是レ我ガ天神ノ授クル所ノ道也』(原文ハ漢文↓↓右頁)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000302OSH&C_CODE=FJ.896.3&IMG_SIZE=&IMG_NO=3

●寛文八年、匹田以正翁、「神風記」卷一に曰く、
葦原ノ國は、太古より神のまします國なれば、國、もとより神の國。民、もとより神の苗裔也

●寛文九年十一月廿七日、山鹿素行翁、『中朝事實』に曰く、
唯中國(日本のこと)開闢より人皇に至る、二百萬歳に垂んとし、人皇より今日に迄び、二千三百歳を過ぐ。而して天神の皇統違はず』(原文ハ漢文)

●文政八年三月、會澤安翁、『新論』上に曰く、
『謹で按ずるに、 神州は太陽の出づる所、元氣の始まる所、天日の嗣、世々宸極を御し、終古易らず、固に、太陽の元首にして、萬國の綱紀なり』(原文ハ漢文)




 以上、限が無いのでこのへんにしておくが、驚く可きは、慕夏思想の權化とも云ふ可き羅山(林道春)でさへも、(他意あるにせよ)日本が神國であることをハツキリ認めてゐる。
 家康にしても然り。屈折してゐるが爲めか、あまり大したことは云うてゐないが、一應は神國であることを認めてゐる(因みに申すまでもなく、天地開闢當時には佛など存さない。日本に於ての佛教徒は、單なる客人の如きだ)。
 腦裏の奧底で異國の魔説に支配されてゐるのか、今日、多くある日本の保守派から、日本乃はち神國といつた主張が滅多に聞かれぬは、賣國思想の持ち主であつた羅山にも及ばぬといふ感あり、何とも頼りなき思ひに驅られると云へば些か過ぎたる言か。

 野生は竊かに、松陰先生を尊敬すると申す者が、終末思想に支配される有樣をみて、寔に滑稽と思はざるを得ないのである。松陰先生の内なる信念を知らずして、一體何を以て尊敬してゐるといふのであるか。
●安政六年、吉田松陰先生、「堀江克之助に與ふる書」に曰く、
神勅相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざる』と。

 愚案。刻下に最も要せらるゝ可きは、神國に對する確信である。
 野生は必ずしも己れ乃至は國民の權利が侵害されるに對して無頓着たれ、と云ふでない。けれ共、それ以上に、それよりも遙るかに神州の清潔が涜されること、天業の遂行を妨碍せむとする輩の跋扈することを懼れる可きと思ふのである。

 今日、吾人が頭上に漂へる暗雲は少々ならず、かりそめにも國の前途を憂はざる者はないだらう。
 されど、權利の奪還乃至護持を訴へんが爲めの絶叫では日本は動じない。皇國の眞相を明らかにせんと欲する赤心によつて動ずるのである。
 強ひて云へば、日本を滅ぼしてはならぬといふ迂闊にも終末思想に憑依された怯懦者と、皇業を翼贊せんとする立志者との違ひであり、その差は正さに千里の懸隔あると云はねばなるまい。


●明和六年、賀茂眞淵先生、『國意考』に曰く、
『凡ソ世の中は、あら山荒野の有か、自ら道の出來るがごとく、こゝも自ら 神代の道のひろごりて、おのづから國につけたる道のさかえは 皇いよゝゝさかえまさんものを

●安政二年六月、紀維貞先生、『國基』に曰く、
『我が 皇朝 天祖 天孫、國紀を基としてより、以て今日に至る。皇統連綿として、高きこと山の如く、重きこと地の如く、長く天地と、窮極あることなし』と。


 近年に於て時流の速度は加速してゐる。來たる年も來たる年も「反共」「反ロ」或は「反米」と、たゞ「反」それ丈を云へば足る時代は終はつて既に久しいのだ。
 時局を追うても追うても、陸續として頭痛の種は發芽する。
 國難を前にして、恰も國内は亂れる麻の如し。國民が一致團結せずんば、何うして將來、之を乘り越えられるであらう。
 では、皇國に於て、國民の一致團結が可能となるに、果して現在何を缺いてゐるのであるか。

 以爲らく、幕末に於ける時代の趨勢は、今日の速度の比では無かつたであらう。
 勤皇の志士が、それでもブレなかつた唯一と云はずんば第一の理由は、神國に對する確信であつたと野生は信じて疑はないのである。

●文政七年、平田篤胤先生、『古道大意』上卷に曰く、
『扠、世間ノ人ガ、誰モ々ゝ此國ヲサシテ、神國々々と云ヒ、マタ我々ハ、神ノ御末ジヤ、ナドト言マスガ、實ニ是ハ世間ノ人ノ申ス通リニ、違ヒモ無イコトデ、我御國ハ、天神ノ殊ナル御惠ニ依テ、神ノ御生ナサレテ、萬ノ外國トハ、天地懸隔ナ違ヒデ、引比ベニハナラヌ、結構ナ有難イ國デ、尤神國ニ相違ナク、又、我々賤ノ男シヅメメニ至ルマデモ、神ノ御末ニチガイ無イデ厶(厶=ござる)。デハ有レドモ、惜イコトニハ、其神國、マタ神ノ御末ナル所以ノ本ヲ、知ンデ居ル人ガ多イデ厶。夫デハ一向ムチヤクチヤデ、折角神國ニ生レテ、神ノ御末ジヤト云センモ、ナイト申モノデ厶』と。

●天保七年、中林成昌先生、『知命記』に曰く、
『我 皇國は、天地の初より、人倫正しく、君臣上下の分、明かなること日月の如し。故に、神跡盡く則とるべし。茫然しるべからざる漢土の開闢と、同じさまに心得るは、道理にくらきの甚きなり。今にいたりて、君臣正しく、人心清明なるは、一に上世 神明の化育によりてしかる所なり。されば、皇國は神代を主として道を立て、教をなすべし。舍人親王の書紀、竝古事記、舊事紀につきて、神代以來の道をはかり察スべきことなり』と。
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by sousiu | 2012-09-03 06:35 | 先哲寶文