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文久二年一月十五日、即はち“坂下門外の變”也。 

 百五十一年前の、文久二年一月十五日(太陰太陽暦)は、所謂る『坂下門外の變』が決行された日だ。
 これより凡そ二年前に遡る「櫻田門外義擧」に教訓を得た幕府側は、大名登城の際に於ける警備を頗る嚴重としてゐた爲めに、坂下門外義盟七士(決行は六士)は要撃を實行するも、無念、安藤の背に一刀かすめるのみを以て、全員その場で斬り伏せられた。

 決死隊は以下の七士
   平山兵介
   黒澤五郎
   小田彦三郎
   河本杜太郎
   高畠總次郎
   河野顯三
   河邊佐治右衞門

 決行は、河邊佐治右衞門を除く六士だ。
 河邊氏は當日、早目に現場に着いてしまひ、未だ同志一人もをらず、附近を巡覽してをつた。
 やがて時刻到來、再び現場へ戻つてみると、坂下門外は既に事終はりたる後であつた。



 幕臣の側から「坂下門外の變」に就て説明していたゞく。
○福地源一郎氏『幕府衰亡論』(明治廿五年十二月一日「民友社」發行)に曰く、(※句讀點、送り假名などは野生による)
『坂下の變とは尊攘黨の暴徒數人にて、此の日、閣老安藤對馬守が登城を坂下門外に待ち受け暴殺を行なひたりけるが幸ひに安藤閣老は頭部に傷を負ひて御門内に入り、其の供方の武士防戰して其の暴徒は盡く討ち取りたるに由り、安藤閣老は辛く其の一命を全くする事を得られたりき。
 此の行兇者たる暴徒が各自に懷中したりと云へる書面に據れば、結局幕府が尊王攘夷の實行を怠たりたる過を責て其の罪を安藤閣老に歸し、天に代て之を誅すと云へる單純なる當時の尊攘論に過ぎざりき』と。

 福地氏の目に映ぜし「單純なる當時の尊攘論」とは何ぞ。以下、趣意書全文を掲げる。(原文は漢文混じりなので譯す)



○斬奸趣意書
『申年三月、赤心報國の輩、御大老井伊掃部頭殿を斬殺に及び候事、毛頭幕府に對し奉り候うて異心を挾さみ候ふ儀にはこれ無く、掃部頭殿執政以來、自己之權威を振ひ、天朝を蔑如し奉り、只管ら夷狄を恐怖致し候ふ心情より、慷慨忠直の義士を惡み、一己の威力を示さんが爲めに、專ら奸謀を相廻らし候ふ體(てい)、實に神州の罪人に御座候ふ故、右の奸臣を倒し候はゞ、自然幕府におゐて(原文マヽ)御悔心も出來せられ、向後は天朝を尊び夷狄を惡み、國家の安危、人心の向背に御心を付けさせられ候ふ事もこれ有る可くと存じ込み、身命を投げ候うて斬殺に及び候ふ處、其の後一向に御悔心の御模樣も相見え申さず、彌々御暴政の筋のみに成り行き候こと、幕府の御役人一同の罪には候えども、畢竟、御老中安藤對馬守殿第一の罪魁と申す可く候。對馬守殿、井伊家執政の時より同腹にて、暴政の手傳ひを致され、掃部頭殿死去の後も絶えて悔悟のこゝろ、これ無きのみならず、その奸謀讒計は掃部頭殿よりも趨過し候ふ樣の事件多くこれあり。兼て酒井若狹守殿と申し合はせ、堂上方に正議の御方これ有り候えば、種々無實の罪を羅織して、天朝をも同腹の小人のみに致さん事を相謀り、萬一、盡忠報國のもの烈しく手に餘り候ふ族(やから)これある節は、夷狄の力をかり取り押へるとの心底顯然にて、誠に神州の賊とも申す可く。此儘に打ち過ぎ候うては、叡慮を惱まし奉り候ふ事は申すに及ばず。幕府に於ても御失體の御事のみに成り行き、千古迄も汚名を受けさせられ候ふ樣に相成り候ふの事、鏡にかけて見る如く、容易ならざる御儀と存じ奉り候。この上、當時の御模様の如く、因循姑息の御政事のみにて一年送りに過ごさせられ候はゞ、近年の内に天下は夷狄亂臣のものと相成り候ふ事、必然の勢に御坐候ふ故、旁(かたゝゞ)以て片時も寢食を安じ難し。右は全く對馬守殿奸計邪謀を專らに致され候ふ所より指(さし)起り候ふ儀に付き、臣子の至情、默止し難く、此の度、微臣共申し合はせ、對馬守殿を斬殺申し候ふ。對馬守殿の罪状は一々枚擧に堪へず候へ共(原文マヽ)、今、その端を擧て申し候ふ。此の度、皇妹御縁組の儀も表向きは、天朝より下し置かれ候ふ樣に取り繕ろひ、公武御合體の姿を示し候えども、實は奸謀威力を以て強奪奉り候ふも同樣の筋に御坐候ふ>故、此の後、必定皇妹を樞機として外夷交易御免の勅諚を推して申し下し候ふ手段にこれある可く。その儀、若し相叶はざる節は、竊かに天子の御讓位を釀し奉り候ふ心底にて、既に和學者共へ申し付け、廢帝の古例を調べさせ候ふ始末實に將軍家を不義に引き入れ萬世の後迄、惡逆の御名を流し候ふ樣、取り計らひ候ふ所行にて、北條足利にも相越し候ふ逆謀は我々共切齒痛憤の至り申す可き樣もこれ無く候ふ。扠て又た外夷取扱の儀は、對馬守殿彌増慇懃丁寧を加へ、何事も彼らが申す處に隨ひ、日本周海測量の儀、夫々指許し、皇國の形勢悉く彼らに相敎へ、近頃品川御殿山を殘らず彼らにかし遣(つかは)し、江戸第一の要地を外夷どもに渡し候ふ類は彼らを導き、我が國をとらしめんも同然の儀にこれ有り。その上、外夷應接の儀は段々指し向かひにて密談數刻に及び、骨肉同樣に親睦致し候うて國中忠義憂憤の者を以て、却て仇敵の如くに忌み嫌ひ候ふ段、國賊と申すも餘りある事に御坐候ふ故、對馬守殿長く執政致され候はゞ、終ひには天朝を癈し幕府をたふし、自分封爵を外夷に請け候ふ樣、相成り候ふ儀、明白の事にて言語同斷不屆の所行と申す可く候。既に先達てシイボルトと申す醜夷に對し、日本の政務に携り呉れ候ふ樣、相頼み候ふ風評もこれ有り候ふ間、對馬守殿存命にては、數年を出でずして我が國神聖の道を廢し、耶蘇敎を奉じて君臣父子の大倫を忘れ、利慾を尊び候ふ筋のみに落ち入り、外夷同樣禽獸の群れと相成り候ふ事疑ひなし。微臣ども痛哭流涕大息の餘り、餘儀無く奸邪の小人を殺戮せしめ、上は天朝幕府を安んじ奉り、下は國中の萬民とも夷狄に成り果て候ふ所の禍を防ぎ候ふ儀に御坐候ふ。毛頭公邊に對し奉り、異心を存じ候ふ儀はこれ無く候間、伏して願はくは此の後の所、井伊・安藤二奸の遺轍を御改革遊ばされ、外夷を掃攘し、叡慮を慰め給ひ、萬民の困窮を御救ひ遊ばされ候うて、東照宮以來の御主意に基き眞實に征夷大將軍の御職を御勤遊ばされ候ふ樣仕りたく、若しも只今の儘にて弊政御改革無これ無く候はゞ、天下の大小名、各幕府を見放し候うて自分々々の國のみ相固め候ふ樣に成り行き候ふは、必定の事にこれ有り候ふ。外夷取り扱ひさへ御手に餘り候ふ折に相成り候うて、如何御處置遊ばされ候ふ哉。當時日本國中の人心、市童走卒迄も夷狄を惡み申さぬもの壹人もこれ無く候間、萬一夷狄誅戮を名と致し、旗を擧げ候ふ大名これ有り候はゞ、大半其方へ心なびき候ふ事、疑ふこれ無く、實に危急の御時節と存じ奉り候ふ。且つ、皇國の風俗は、君臣上下の大義を辨じ、忠烈節義を守り候ふ風習に御坐候ふ故、幕府の御處置、數々天朝の叡慮に相背き候ふ處を見受候はゞ、忠臣義士の輩、一人も幕府の御爲めに身命を抛ち候ふものこれ有る間敷く、幕府は孤立の御勢に御成り果て遊ばさる可く候ふ。それ故、この度び御改心の有無は幕府の興廢に相係はり候ふ事に御坐候ふ故、何卒この義、御勘考遊ばされ、傲慢無禮の外夷共を疎外し、神州の御國體も幕府の御威光も相立ち、大小の士民迄も一心合體仕り候て、尊王攘夷の大典を正し、君臣上下の義を明らかにし、天下と死生を倶に致し候ふ樣、御處置希がひたく、これ則はち臣ら身命を抛ち、奸邪を誅戮して幕府要路の諸有司に懇願愁訴仕り候ふ所の微忠に御坐候。恐惶謹言』

 この趣意書は六士の懷中に籠められてあつたものだ。
 幕府はこれを闇から闇へと隱蔽せむと試みたが、如上、決行の機を逸した河邊佐治右衞門が長藩邸「有備館」を訪ひ、彼れの懷中にあつた趣意書を桂小五郎氏が入手したことから、天下が、果ては今日の吾人が知ることゝなつたのだ。人事また寓意あることを思ひ知らるゝ。

 噫、壯烈なり矣、七士。戰死した六烈士は然ること乍ら、河邊烈士も、水戸の産であることを恥かしめることなき士として、その場で自刃して果てた。

 その場に居合せたる伊藤博文公、その模樣を傳へるに、
○『伊藤博文傳、上卷』(昭和十五年十月十六日「春畝公追頌會」發行)
『この事變の起りし日、水藩士内田萬之助(本名、河邊佐治右衞門)なる者、長藩邸の有備館に來り、用談ありとて、桂小五郎に面會を求めた。この時桂は他出中なりしかば、館員奧平數馬出でてその趣を告げしに、然らば御歸宅まで待合せたしといふ。因て奧平は同人を講堂に案内した。
 桂が程なく歸り來りて面會したるに、その男頗る懊惱に堪へざる樣子にて、自分は安藤要撃の計畫に加擔せる者なるが、誤つて期に後れ事を共にする能はず、同志に對し申譯なし、豫ねて弊藩士岩間金平より貴所の聲望を拜聞し居り、かゝる場合に處する心得を承はる爲め推參したりといふ。桂は、これを慰め、國の爲めに命を棄つべき時は、今後も必ず來らん、暫らくいづれかへ身を隱して時機を待たれよ、旅費は自分に於て用立て申すべしと懇切に諭せしに、内田は、その厚意を謝し一寸認めたきものあれば片隅を拜借したしと請うた。因て桂は、これを諾し、酒肴を命じ置きて席を避けた。その中に公(※博文公のこと)が外出先より歸り、桂より事の次第を聞き居りしに、講堂の方にて突然愉快々々と叫ぶ聲の起りしかば、兩人急ぎ往き見たるに、内田は小刀にて腹を切りし上、咽喉を横に鍔元まで刺通し打伏してゐた。公がこれを引き起したるに、未だ息は絶えざりしも、血を吹くのみにて一言も發する能はず、間もなく絶命した
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 福地氏の目に映ずる「單純なる當時の尊攘論」は、安藤の身體に輕傷を加へるのみであつたが、幕府に與へた效果は激甚であつた。

 井伊横死後、幕府は久世・安藤連立内閣を組織し、幕威恢復を當面、焦眉の急とした。だが一方で、和宮御降嫁問題、叩頭外交、廢帝論(これは所謂る流言であつたと看做す可きだが、當時かゝる風説が出で來たりたることもこの内閣では強ち不思議では無かつた)等々、反幕的氣焔は一向に息まず、そのやうな折柄、坂下門外の義擧は出でる可くして出來した。
 この事件に際して、安藤の身體は輕傷であつた。だが彼れの精神、神經には重傷であつた。安藤は三ケ月後の四月十一日、老中罷免を餘儀なくされた。こゝに於てか、井伊の亡靈は完全に祓はれたと看取す可きである。
 而、再び勤王志士の頭は擡げ來たり。同時に幕威は下降の一途を辿ることゝなる。

○蘇峰 富猪一郎翁、『近世日本國民史』 第四十六卷「文久大勢一變上篇」(昭和九年七月卅日「民友社」發行)に曰く、
文久時代は、嘉永安政から慶應明治にかけての、中間の分水嶺だ。文久以前と文久以後とは、均しく孝明天皇の御宇であつても、均しく徳川幕府の末期であつても、殆んど別天地の看がある。文久以前は如何に幕府の霸威が銷沈したとて、尚ほ形式だけは、舊時の面目を存して居た。文久以後に至りては、其の形式さへも、殆んど一掃し去らんとし、且つ半ば以上に一掃し去つた』と。


 蘇峰翁の見解に從へば、文久年間の内に於ても正しく、この文久二年一月十五日に發生した『坂下門外の變』は、幕府命運を別つ一大岐路であつたと見做さねばなるまい。
 なるほど、櫻田門外の義擧は確かに幕府の暴走を停止させた。だが、久世安藤が井伊政策を蹈襲したことによつて井伊イズムは、にはかに惰力を存した。その惰力を奪ひ去つたのが、この「坂下門外の義擧」である。
 世に「櫻田門外の變」は知られてゐるが、併せてこの「坂下門外の變」も廣く、且つ又た後世にまで語られ決して忘れられることなき一事とせねばならぬと思ふのである。
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by sousiu | 2013-01-15 00:48 | 今日は何の日

今年の風邪は侮り難し。 

 大雪にて、外出する能はず。こゝ一週間、殆どヒキコモリ生活を餘儀なくした。
 それといふのも、先週日曜日、同志諸兄と新年の食事會を行なつたのであるが、パジヤマで參加した爲めか、翌日から風邪を患つたのである。
 今年の風邪はタチが惡いらしく、鼻水は出る、咳は出る、微熱は續く、身體はダルイ、・・・・これが繰り返されるのである。
 大分、具合も良くなつてきたころに、この大雪だ。
 仕方なく、同血社電腦瓦版を更新した。

 日乘にはカテゴリに「今日は何の日」を加へることゝした。
 舊暦の場合はそのまゝの月日を用ひる。最早、氣紛れで更新するやうな日乘と化してゐるので、あまり期待せずに、これからも見守つてください。ごほん。
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by sousiu | 2013-01-14 18:01 | その他

新歳乃御慶芽出度申納候らふ。

新年明けまして御芽出度く存じます。

  紀元二千六百七十三年
  平成第廿五年 癸巳


 本年は、伊勢神宮式年遷宮、出雲大社御遷宮が行なはれる御年。
 國歩轉換の機や、よし。
 及ばぬ乍ら、野生も生まれ變はる氣持ちで鋭意求道、頑張つてまゐりますので、何卒、宜敷く御垂示御叱責くださいますことを。

河原博史 謹拜
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by sousiu | 2013-01-01 17:42 | 日々所感