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大橋訥菴先生に學ぶ。十一  『責難録』 九 をはり。 

 今日で『責難録』はおしまひである。
 本書は「君道雜論上」であり、下卷もあることは間違ひなからうが、前記したとほり、殘念乍ら「全集」にはこの續きが收録されてゐない。
 その爲め、ちと、消化不良の感あるを覺えるが、通讀するに訥菴先生の思想の一端を知ることが出來る。
 それ決して西洋罵倒一點張りの盲目漢などではないのである。


承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『後世の官吏は、動(やゝ)もすれば威光と云ふことを唱へて、兔角に下民を恐嚇し、聊かの事も權高(けんだか)に構へて、只管ら民を畏縮せしめ、それを以て上位の道ぞと思へるは、甚だしき謬なり。元來國家を治むる道は、恩威の二つを兼用すること、古よりの明訓なれども、恩と威とは等分の物にはあらず。恩を以て主腦となして、威をば輔翼となすべきなり。そは古より君たる者を、民之父母と稱するを見て、父母の二字を玩味すべし。父母の其の子を養ひ立つは、時として威を用ひて、或は叱り懲しもし、又は鞭撻(うつ)こともあれども、それは人並の人になれかし、不正の筋には入らせまじと愛する心の親切なるより、威をも用るに至るのみ。豈、只管らに威を主として、其の子を畏縮せしむることを、得意に思ふ父母あらんや。故に上位に立てる者も、恩愛仁慈を心の主として、萬民を視ること我子の如く、凡そ封内に在ん者は、馬天轎卒に至るまで、何とぞ無事に生育せよかし。困窮飢渇には迫らせまじと、日夜朝暮に忘るゝことなく、痛々しく思ふ心を本として、それより政事に施してこそ、民之父母と稱する所の、名目の意にも恥ざるべきなり。されば君道は廣しと云へども、仁を第一のこととなして、易には 禮仁足以長人(仁を體すれば以て人に長たるに足り) と言ひ、何以守位曰仁(何を以てか位を守る、曰く仁なり)とも言ひ、大學には 爲人君止於仁(人の君と爲つては仁に止る)と言ひ、家語には 人君先立仁於己(人の君は先づ己に仁を立す)など言へるを見ても、君たる道の本領は、恩愛仁慈に限りたること、彰然として明白ならずや。扠、上位に立てる者が、右の如く恩愛を主として、それを以て民に臨む時は、其の情自然と下に感じて、民も必ず上を戴き、有り難し忝けなしと、眞實の心より慕ひ懷きて、其の君上の爲めならば、骨を微塵に破碎するとも、決して厭はじと思ふ物が、自から生じ出して、已めんと欲するも已むこと能はず。かくてこそ上下の心が合體して、撃ても衝ても離れぬ故に、社稷は磐石の固きが如く、何つも安泰になり行くことなり』と。

 前項は税制に就て述べ、民の苦情を陳列した。本項では、主たる者の必須として「仁」を要す、と説く。


曰く、
『されども、數萬の民の中には、往々上を侮り犯して、不正をなす者もあるを以て、法律を設け刑典を立てゝ、威を示して糾さゞることを得ず。是れは右樣なる不正の民を、其のままに容(ゆる)し置ては、良民の害をなすが故に、已むことを得ず懲らす迄にて、畢竟良民を護せんと欲する、恩愛の方が根本のみ。且つ夫れ不正を威(をど)して懲らすも、要するに亦恩より發して、微罪の時に懲創さすれば、再び大罪を犯すことなく、首領を保全するに至るべければ、そが爲に威をも施すことなり。加之(しかのみならず)他の衆民どもが、それを見て恐懼の心を生し、不正の筋を犯す事は、互に深く警戒して、愼しめかしと願ふ所の、懇惻仁慈の情に本づき、威を示すにも至る義(わけ)ゆゑ、全く罪人のふへぬ樣に、源頭を塞ぐと云ふ者にて、何れも恩愛の術に非すや。~中略~

されば恩と威の二つの筋は、本來輕重の辨別ありて、決して等分の物にてはなく、恩より威をば生じ出せども、威より恩を生ずることなし。そは恩を以て主腦となして、慈愛の心が親切なれば、其の心を達せん爲に、威をも用ひざることを得ず。威を以て專主とすれば、必ず親愛の情を傷なひ、只管ら下民を畏縮せしめて、嚴刻苛察になり行くことは、古よりして然ることなり。思はずんばあるべからず。~中略~

然るに後世の官吏などが、威光威光と唱へ立てゝ、總て己れを權高に構へ、下民を遇待(あしらふ)こと牛馬の如く、瑣細の事をも必ず罵詈して、肱を張り肩を怒らし、矜伐誇張を專主とすれば、威光を増すの道にはあらで、威光を損する所行なるに、自から得たりと思へるは、憫笑すべきの甚だしきなり。元來恩愛仁慈を主として、民を吾が子の如く思へば、民は皆亦心より親しみ懷(なつ)きて、上を慕ふの情日々に深く、遂には家をも身をも忘れて、君上を守護せんと欲する心が、一統に固く凝結して、他よりは指をもさゝせぬ樣に、何つか自然となり行くことは、既に上にも云へるが如し。かゝれば威光を求めずとも、國の氣■(焔の右側+炎)は熾盛になりて、四鄰を動かすのみに非ず。天下に敵なきにも至る者ゆゑ、豈又かほどの威光あらんや。故に仁愛を主とする處が、即ち威光を増すの道にて、別に術とてはなきことなるに、後世の人は其の理を悟らず、恐嚇を事とし倨傲を務めて、一點も惻怛の心はなく、只管ら威光を貪り求めて、畏縮させんとするが故に、民みな不平の情に勝へず、陽(をもて)には命を聽て、服從するが如くなれども、陰には怨恨の心を懷(いだ)きて、竊に誹謗の惡言を發し、他邦の人などに對すれば、あらはに上位の非を數へて、敢て復た憚らず、或は君上に災禍ありても、手を袖にして傍觀して、そを憂るの心はなく、反てそれを愉快として、猶も事あれと思ふが如き、不實の民心にもなり行くことなり。かく民心が離れては、平生は命令のまゝになりて、威光あるが如くに見ゑても、國家の元氣と云ふ物は、漸くに敗れ盡すを以て、一旦緩急の時に臨めば、敢て一人も力を出さず、彼方(あち)へ避け、此方(こち)へ遁れて、己れを保全することを時務となし、君の大難を度外に見捨てゝ、絶て貧著せぬ者なり。されば民心既に離れては、泰平無事の時に當りて、縱ひ遽に滅亡せずとも、それは譬へば朽たる木などの烈風迅雷に遇ざる間は、暫く顛覆せざると同じく、聊も恃みのなきことなれば、誠に危殆の至りに非ずや』と。

 仁なく威光を笠に着る主の愚を述べる。仁あらば國運は益々隆え、則はちそれが眞なる藩主の威光と思へ、と。
 時は過ぎ、軈て明治四年の廢藩置縣が實施されたるを思へば、やはり日本及び日本人は、天皇を中心とした一君萬民の在り方が最も自然に即したものとして了知せられるのである。爲政者は百姓を胡麻の油と同一視する。天皇は民を大御寶と目され給ふ。


『~上略~ 古へ嬴(えい=所謂る「秦の始皇帝」)秦の始皇も、我朝の豐太閤なども倒山翻海(山を倒し海を翻す)の威力ありて、民の怖るゝこと霹靂の如く。天下惴々として命を奉じて、頭を擧げ得る者もなかりしかども、墳土の未だ乾かぬ中に、民は悉く離れ叛きて、忽ち亡滅したるを見よ。二公の如き威力ありても、二公ほどの富ありても、惻怛仁慈の情と云ふもの、民心に感孚せる所なければ、少しく釁隙が開くと其のまゝ民は悉く寇讐の如くになりて、亡滅を救ふこと能はざるなり。[後世の儒者には、富國強兵の二項を以て、治道の根本の如くに言ふ者あれども、そは未だ大道に達せざるなり。秦の始皇も豐太閤も、富と強との二項に於ては、千古に比倫を得べからず。されども脆く滅亡したるは、全く威力を以て天下を馭して、民の心に徹する所の、惻怛仁慈と云ふものは、一點もなかりしを以てならずや。故に治道の根本は、仁慈の筋に限れることにて、民心果して上を親しみ、子弟の父兄を衞るが如くに、固結して離れざれば、富強は其の間に存する者ゆゑ、古の人も盛衰強弱之分不在兵力、而在國勢、不在財用、而在人心(盛衰強弱の分は兵力に在らずして國勢に在り、財用に在らずして人心に在り)と言ひたるなり。さるを富強の二項を以て、根本第一著と唱ふるが如きは誠に淺陋の見と云ひつべきのみ]況て二公の雄圖もなく、二公の富強もなき者が、威光威光と言ひ立てゝ、妄りに民を嚇(をど)し付け、畏縮さすることを能事とするは己れが天職を知ざるのみならず我より國脈を弱ませて亡滅を促がす筋なれば、愚駿と云はざることを得ざるのみ。されば萬民は輕きに似たれども、明者は民を重んじ畏れて、尚書には罔咈(口+弗=たがふ)百姓以從己之欲(百姓に咈て己れの欲に從ふ罔れ)と言ひ、民可近不可下(民は近く可し、下す可からず)と言ひ、可畏非民(畏る可きは民に非ずや)とも言ひ、載記には君以民存、亦以民亡(君は民を以て存し、亦た民を以て亡ぶ)と言ひ、荀子にも孔子の言を引いて君者舟也、庶人者水也、水則載舟、水則覆舟(君は舟なり、庶人は水なり。水は則はち舟を載せ、水は則はち舟を覆す)など言ひたるにて、凡そ國家の盛衰安危は、民心の叛服に由て分れ、民心叛服の分るゝ所以は上位の恩威如何にあれば、深く其の理を精究して辨澤せざれば叶はぬことなり。世の羣侯と諸有司と此の理を眞知せられたる者果して多くありや否や』と。

 秦の始皇も豐太閤も、如何に威力あり財力あつたにせよ、彼れらの逝くや、やがて民心は離反した。
 彼れらの實力に遠く及ばぬ者が、どうして未來永劫、その威光を保てる理由があるのか。領地の平定、自己の保身を求め彼れらの眞似をしたところで、いづれにせよそれは果敢無きものに過ぎない。
 秦はやがて滅亡した。日本では大阪冬夏の陣で豐臣家が籠絡しても、征夷大將軍、所謂る役人が代はるだけにとゞまり、戰爭も一部地域に限定された。皇國ならぬ地の霸者と、皇國の地に於ける霸者とを比較したのは、訥菴先生の思慮によるものであると推量する。


 『責難録』をはり。


 備中處士樣から宿題、あ、いや、參考として、いくつかの遺文に就て御提示があつた。
 されど解讀するに少々のお時間を頂戴し、訥菴先生は一旦、休んで、出直してみたいと思ふ。
 次囘の登場人物は、まだ未定だ。
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by sousiu | 2013-02-28 21:43 | 先人顯彰

昭和十一年「二二六事件」 その三 愚案。 

 橋本徹馬氏は、『天皇と叛乱将校』のなかで、かう述べてゐる。曰く、
『私は叛亂將校達が、多くの點において納得の行かぬ取扱ひを受けながら、なほ最後に係官に頼んで宮城遙拜所をつくつてもらひ、
天皇陛下萬歳
 を奉唱して死んだ心境を思ふと、誠に彼らのために涙なきをえぬ
のである。
 彼らがあの期におよんでなほ 陛下の萬歳を奉唱したのは「自分達が採つた手段は如何に間違つてゐたにせよ、自分達の奮起した動機が、立國の本義に照らし、わが國體を護らんとする一念にあつたことは、やがて 陛下に御理解を願ふ時が必ずある」と確信し、かつ「自分達の死が、日本國の上下の反省の材料となつて、國運が榮えるやうに」と祈つてのことであると思ふ。

 もし當時の軍首腦部や重臣達が、彼らのこの心事をくはしく 天皇に奏上して、その御理解をえてゐないとするならば、その人達も帝國憲法と軍人への勅諭に照らして、當然處罰せらるべき人達ではあるまいか。
 將校達者として處刑したことは、わが上層部があれほどの事件を名何んの反省の材料ともせず、ただ不逞の徒の許すべからざる暴擧として、一方的な憎しみだけで處刑したことを意味するのであるが、それでよいのであらうか。
 たとへば、叛亂將校達を憤激せしめた統制派の人々は、天皇の御名において叛亂將校達を銃殺し終れば、あとは自分達が全く勝ち誇つた氣分で、軍部を指導してよいものであつたか。
 また、たとへば西園寺元老、牧野重臣、岡田首相、鈴木侍從長らの命拾ひをした人達は、これも自分達の側には何の怠慢も、不明もなかつたものとして、その後の長壽を誇つてよいものであつたらうか。
 叛亂將校を極刑に處したのはよい。ただその代りには彼らがわが國政の運用上に關し、死をもつてなしたる直諫は、十分に生かしてやるだけの各種の處置が、絶對に必要であつたと思ふ』と。

 又た曰く、
率直にいへば、叛亂將校達を叛逆者として處刑したとき、大元帥陛下の帥い給ふ 皇軍(すなはち 天皇の軍隊)はすでに亡んだのである。
 彼らを銃殺のために撃つたあの銃聲は、實は 皇軍精神の崩壞を知らしめる響であつたのである。
 しかも、その銃には菊の御紋章が入つてゐるのである。大元帥陛下の御紋章が入つてゐる銃で、刑死の瞬間まで尊皇絶對を信念とした人々を、極度の憎しみで射殺したのである。この深刻なる不祥事の國運におよぼす惡影響を思うて、戰慄せざる者は神經の痲痺者であらう。

 それはまた同時に一般人にたいしても「爾後日本を萬邦無比の國體などと考へる者は、不逞の徒であるぞ」といふ斷案が下つたことをも意味した』と。


 橋本徹馬氏は、この事件の裁き方をみて既に 遺憾ながら、皇軍は名のみとなり下がつたことを痛罵してゐる。
 この文章の後に、
『日本は明治以來幾度か戰爭を遂行した。さうしてそのたびごとに宣戰の詔勅にあるごとく、
「天佑を保有し」
 えた。しかし、今度の戰爭には、天佑は敵國側にあつて、日本の側にはなかつた。それは日本が科學の力において不足であつたのみならず「天佑を保有する」資格なき、侵略國になりさがつてゐたからである

 と述べてゐる。

 最後の一句が氣に掛かる御仁多からうと思ふ。しかし保守も反日も、是非の別こそありけれ、嘗ての戰爭に於て「侵略戰爭」といふ一句に眩惑、さなければ神經過敏となり過ぎてやしまいか。嘗ての大東亞戰爭を「侵略か否か」でその眞意義を知らうとするばかりでは、迂闊にも大切なことを見失つてしまふと危惧すること、果して野生の杞憂なのであらうか、奈何。

 愚案。戰前に對する盲目的な讚美者と盲目的な中傷者(所謂る好戰主義者と唯平和主義者)はまるで腹背の關係に酷似してゐると云はざるを得ない。
 この意味に於ても、二二六事件を檢證することは刻下の大事であるのだ。戰前戰中に於ける體制の盲目的讚美者は、青年將校の衷情を、恰も弊れ靴を棄つるが如く扱つた統制派をば是とすることゝなり。反對に戰前の盲目的な體制批判者はこれを非とするわけであるから、彼れらによつて今猶ほ暗黒を彷徨ふ尊皇赤誠の士をば如何に考へればよいのであるか。
 橋本氏によれば、青年將校達を叛逆者として銃殺せしめた段階で、皇軍は有名無實となつた、と云つてゐる。ならばそれ以降、戰後までの間に於ける 國家の指導部を、手放しに讚美し或は批判するは早計であるまいか。要するに野生は全部と云へぬのであれば少なくとも一部の指導者に、全て過誤と云はずとも少なくとも不足してゐたものはあつたのではないかと惧れる。それは承詔必謹だ。
 つまり、尊皇心なき軍國主義を如何に考へるかといふことだ。それ、今日の世論に照らしてみても、今後の世論を形成する際に於いてみても、頗る考へねばならぬ重要事でなければならない。

 野生は、機ある毎に述べてゐるが、戰前囘歸を以て足れりとしない。戰後史觀の脱却で諒などと思うてゐないのである。敗戰にも神意あり。これを熟慮することなく戰前を無條件で肯定するは、復轍を蹈むに過ぎず、そは、より危險なことなのである。よつて大東亞戰爭を盲目的に美化してゐるわけでもない。眞に聖戰であつたならば何故に 神州が敗れたのであるか、何故に元寇の國難の如く或いは黒船襲來によつて出來した國難の時の如く、神風は吹かなかつたのか、野生にはさつぱり分らぬのである。さりとて反日左翼のいふやうに、あの戰爭を批判する氣には猶ほなれぬ。本當にあの戰爭を肯定し、美化するといふことは、正の部分も負の部分も省察し、將來に之を活かし、民族の事蹟として大東亞戰爭の眞意義を見出せばそれで宜いのだ。

 戰爭なぞ所詮當事國はどちらも聖戰だと思うてゐるわけだし、今これを論じても今尚ほ戰勝國の時間のなかで時が刻まれてゐる以上、所詮は負け犬の遠吠えと見られるまでだ。如何にそれを猛々しく云ふにせよ、繰返すにせよ、そんなことで戰前戰後史觀が超克出來るとは思へない。
 とは云へ、假に、たとへば萬々が一、大東亞戰爭が惡であつたとし、世界中の非難を受けねばならなかつたものだとしても、それでも我れら日本人だけは英靈や先人を冒涜する資格が無いことを忘れてはならぬ。それを識らず他國に阿り、徒らに英靈を冒涜するは、無責任の極みであり、僞善の最たるものである。たとへば街中の人々が我が父母に嫌疑を掛けたとしても、自分だけは父母を信じる心を決して失つてはならない。いづれにせよ、あの戰爭が是であつたか非であつたかの判斷は、冷靜なる後世の世界中の識者が下すであらう(その時、日本が若しも100㌫の評價を得られないにせよ、批判を大に上廻る評價を得ると信じてゐるが)。我れらは先人を確りと信じてゐれば、將來の判斷にもつと餘裕が持てる筈である。今日我れらが省察す可きは、大東亞戰爭の是是非非よりも、もつと肝心なこと、果して名實伴はれる 皇軍であつたのか否かでありたい。云ひきつてしまへば、戰爭の本質に就てあれこれ口角沫を飛ばして論爭を繰り返す前に、當時の 皇國の内情に就て考へる可きだと思ふのである。


 戰前を、いや、詳らかに云へば御一新後を點檢し總括す可き餘地は充分あるのであり、これを疎かとして、戰前戰後史觀の域より出ることは不可能である。況んや、神州の面目を恢復するに於てをや、だ。


 ・・・・結局、廿六日までに全てを書き上げることは出來なかつた。汗。
 そのうち、戰前に就て、卑見を述べてみたいと思ふ。今日は慌てたことに加へ既に眠くて、駄文とならざるを得なく、誤解を招くかとも思ふが、ま、それも仕方ない。今日のところはこれ位にして、眼と手を休めたい。
 おやすみなさい。
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by sousiu | 2013-02-27 01:29 | 小論愚案

昭和十一年「二二六事件」 その二 

 事件發生から一年後、紫雲莊は又たしても新聞紙上に私見を發表した(昭和十二年三月「讀賣新聞」)。

 二二六事件における裁判は、陰險と苛酷を極めた。
 事件を報道する新聞記事は嚴重に檢閲せられ、聊かたりとも青年將校に同情めいた記事を載せようものは片つ端から發禁とされ、憲兵隊の取調べを受けた。
 青年將校達は「叛亂者」として處刑せられたのではなく、それよりも遙るかに重い「叛逆者」として扱はれ、處刑せられてゐる。
 統制派は徹底的に 皇軍精神の眞髓を去勢せんと努め、爰に軍部獨裁は成り立つたといつて過言ではない。

 以下はその後に於ける政界の有り樣と、これに對して紫雲莊が發表した論文である。
 多少當時の出來事を知る人でなければ、退屈に感ずるかもわからないが、只管ら承詔必謹に拘り、それを説かむとする姿勢は理解し得ると思ふ。
 尚ほ、當時は愈々獨裁政治の機運猛々しくある最中であり、檢閲や發禁の煩を避けむが爲め、批判するにも餘程言葉巧みにせねばならなかつた事情を考慮せねばならない。


●昭和十二年三月 『奉勅第一主義の徹底』
『一、天皇陛下が内外人の注視の中において、公式に降し賜はる内閣組織の大命は ―― に特に直接大權の發動にもとづく ―― 最も神聖なる詔勅である。
 それ故にこそ大命と申上げるのであるから、既にこの尊き詔勅が降つた以上は、苟も日本國民たる者は孰れも「詔を承けては必ず謹む」の精神をもつてこれを畏み、擧つてその御趣旨の徹底するやうに祈らなければならぬのはもちろんであつて、もし日本臣民中にその御趣旨の徹底を妨ぐる者、または之を輕んじ奉るがごとき者があれば、その者は直ちに違勅の大罪を犯すことになると信ずる。

二、ことに 天皇陛下の軍隊に職を奉ずる軍人たる者は、如何なる場合にも常に詔勅の御趣旨の徹底を第一に置くの點において、一般國民の模範とならねばならぬのはいふまでもないことであつて、萬一にもこの軍人の奉勅第一主義が、ある特殊の場合には例外が許されるなどと考へることが、絶對にあつてはならぬと思ふ。もし左樣な場合の例外が許されて、ある場合には奉勅第一主義でなくともよいやうなことがあるとすれば、その例外が先例となり、またはその例外がさらに他の例外を産んでわが國がいよいよ非常時に臨めば臨むほど、奉勅の筋道さへも不明となり、それが軈て世の亂れの始めともなつて、「再中世以降の如き失態」を繰返へすことの虞なきを保し難いのである。
 ここにおいてか、過般の宇垣内閣流産當時の陸軍當局の行動が、終始一貫この奉勅第一主義を貫いたものであるかどうかが非常の重大問題となる。

三、杉山陸相の議會における答辯によれば、當時の陸軍當局は決して宇垣内閣の出現を妨害したのではなく、ただ陸軍の三長官會議において銓衡したる數名の候補者が、孰れも陸相たることを肯んぜなかつたのであるといふ。しかしその何が故に數名の銓衡されたる候補者が、孰れも陸相たることを肯んぜなかつたのであるかといふことについては、他に特殊の事情があるが、「それはいはぬ方がよいと思ふ」といふことであるが、しかし左樣な答辯は ―― 第一、日本の軍隊はいふまでもなく、天皇陛下の軍隊であること。第二、したがつてその軍人は常に必ず奉勅第一主義に行動すべきものであること ―― 等を確信してゐる國民の前には到底辯解にならぬと考へるのである。

四、特に陸軍の三長官なる者は、最もよくその當時の陸軍部内の事情に精通してゐる者であるはずであるから、その三長官會議の結果、數名の陸相候補者を銓衡したといふことは、すなはちその孰れの候補者も、もし新首相たる人よりの指名あれば、直ちに陸相に就任し得る條件の備はつた人でなければならぬのであつて ―― またそれでなければ、眞に陸相候補者を銓衡したとはいへぬのであるから ―― 萬一その數名が數名共全部陸相就任を肯んぜなかつたことが事實であるとしたならば、それこそ ―― 故意か偶然か ―― 左樣な人物ばかりを陸相候補者に銓衡をした三長官らの重大失態であらねばならぬ。

五、もちろん組閣の大命を拜した者すら熟慮の結果、自分は到底その任に堪へずと考へて大命を排(拜、の誤字なる可し)辭することも稀にはあることであるから、當時の三長官の眼識に協うて陸相候補者に推された者のなかにも、萬々一、三長官の豫想に反し、自分は到底その任に非ずと考へて辭退する者があつても、必ずしも不思議ではないが、しかしその銓衡をしたところの數名の候補者が、全部揃つて辭退するに至り、なほその上に他に候補者を銓衡するも皆同樣に辭退するであらうと考へて、それで自分達の責任が濟んだと思ふやうな軍當局者は、全くその職責を辱かしめた者であつて、天皇陛下の軍隊の長官たるは足らぬ者であることを、自ら證明せるものではあるまいか。

六、就中最も問題とすべきは、當時三人の陸相候補者のなかに數へられてゐたと傳へられる杉山教育總監 ―― 現陸相の態度である。この人が先きの宇垣内閣には陸相たることを肯んぜざりしにかかはらず、後の林内閣には陸相たることを承諾したのは如何なる理由によるのであるか。
 もしその理由が宇垣内閣の場合においては、杉山陸相自身のいはゆる「ある特殊の事情」があつたがためといふならば、それこそ杉山大將は明らかに、ある特殊の事情のために、奉勅第一主義を捨てた譯であるから ―― たとへ左樣な意思が全然なかつたにもせよ ―― その結果においては畏くも大命を輕んじ奉つたといふことにならざるを得ないのであらう。もしまたさうではなくして先きにも後にも、常に奉勅第一主義で行動したといふのであれば、さきには陸相たることを承諾せず、後に陸相たることを承諾したる態度の相違を何んと説明するのであるか。
 特に他に方法の盡きたる時は、當時の三長官中ただ一人後任陸相に就任しうる事情のもとにあつたはずの杉山大將自身が、陸軍の奉勅第一主義を貫くがために、進んで陸相就任を承諾すべきであつたと思ふが、その態度に出でなかつた杉山大將は、果して奉勅第一主義に終始し、かつ當時の長官としての責任をも全うした人といへるであらうか。

七、打明けていへば、われらは當時の陸軍當局が、宇垣内閣の成立を喜ばなかつたいはゆる特殊の事情については相當に諒察し得るものである。
 さりながら、たとへそこに如何なる表面または裏面の特殊の事情ありとするも、すでに組閣の大命が降つた以上は、當然軍人は奉勅第一主義に行動しなければならぬのはもちろんのことであつていやしくも軍人の生命ともいふべきこの奉勅第一主義を捨てなければ、その「特殊の事情」に對處し得ないやうな軍人は、自ら 陛下の軍人たるの資格と光榮とを放棄せる者であるといはねばならぬ
 ことにそのいはゆる特殊の事情が、もし肅軍に關係のある事柄ならば、それこそなほさらに奉勅第一主義をまづ貫かずして肅軍のしようがあるまい。

八、したがつてあの當時において陸軍當局の採るべき態度の正しき順序は、第一には初めから宇垣氏に大命の降らざるやう、元老その他へ軍の特殊の事情を傳へることであつた。第二にはすでに第一の處置を採るべき時機を失し、宇垣氏に大命の降下があつた上は ―― しかして宇垣氏自身に大命拜辭の意思なきことが明白となつた以上は ―― 陸軍當局は速かに後任陸相を推薦して、陸軍軍人が常に奉勅第一主義に行動しつつあることを最も明確に、事實の上にしめさなければならぬのであつた。かくて第三には宇垣内閣成立の後において、もし斷然宇垣内閣を存續せしむべからずとなす陸軍當局の「特殊の事情」觀に變りがなくば、新陸相は宇垣首相と飽くまでその特殊の事情について爭ひ、首相陸相の意見不一致の理由により、内閣を總辭職せしめるか。或は陸相の單獨辭職かを見るべきはずであつたと思ふ。
 その場合においてもし陸軍當局の宇垣内閣を存續せしむべからずとなす見解が正しければ、その特殊の事情を委曲上奏のうへ陸相が辭職せば、宇垣内閣の瓦解はもちろんのはずであつて、もし當時の陸軍當局が初めから明白に、奉勅第一主義に徹底してゐたならば、當然以上のごとき筋道を蹈まねばならなかつたのである。

九、しかるに當時の陸軍當局の態度がそこに出でなかつたがために、今や全國民は非常の不安に襲はれてゐる。
 これを率直にいへば「今度のごとき惡例を造つた陸軍當局すら、結局何の咎めも受けずして濟むやうでは、今後の政變の際なども、一體どうなるのであらうか。若し今後とも、陸軍當局の氣に入らぬ者に組閣の大命が降下すれば、また特殊の事情の名において後任陸相を出さず、その内閣を流産せしめるといふがごときことが、將來幾度も起るのではあるまいか。しかして左樣なことが、決して世の亂れの本とはならぬといふことを一體何人が保證をしてくれるであらうか」と憂へてゐるのである

十、要するにあの際宇垣内閣が陸相後任難に苦しみ拔いた結果、遂に流産をしたといふことが事實である以上、當時の陸軍當局が他の特殊の事情を重しとして、奉勅第一主義に行動しなかつたといふこともまた到底否定すべからざる事實である。さればその軍人の生命であるところの奉勅第一主義を他の特殊の事情のために曲げたことの責任を明らかにするとともに、さらに將來絶對にかかる惡例を繰返へさぬための嚴然たる善後處置を採つておくことが、是非共必要であると信ずるが、當時および現在の陸軍當局は別段左樣な必要はないと考へてゐるのであらうか。

十一、もちろん過去よりも將來に惡例を絶對に殘さぬといふことが主眼であるから、その保證がつきさへすれば如何なる方法でも結構であるが、しかしその當時の陸軍當局としての責任者らが、ただの一人も引責の實を示さざる現状のままで果してその保證がつくかどうか。ことに宇垣氏の場合は例外中の例外であり、特別の事情中の特別であるからといふやうな辯解を千萬遍繰返されても、それで將來に惡例を殘さぬといふ保證には絶對にならぬのである。何となればある事が特別の事情に屬するか否かは、その時と人によりて判斷が違ふのみならず、たとへ如何なる事情ありとも奉勅第一主義は絶對に曲げぬといふことでなくして、皇軍精神の確立があるはずがないからである』と。
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by sousiu | 2013-02-26 23:49 | 今日は何の日

昭和十一年「二二六事件」 その一 

 本日は昭和十一年、所謂る二二六事件が生じた日である。
 二二六事件に就ては、既に御存じのことであらうからして、こゝでは、紫雲莊主幹・橋本徹馬氏『天皇と叛乱将校』(昭和廿九年五月十日「日本週報社」發行)に收録される、紫雲莊の聲明文を抄録し、これにとゞめるものとする。
 二二六事件を前後して、國内は如何であつたか。それに對して、何のやうな意見があつたのか。日本に軍備の必要とする世論が高まりつゝある今日(國軍創設に關して野生なりの私見あるもこゝでは差し控へる)、それらを知るのも決して無駄ではあるまい。

 先づ、昭和九年二月、新聞紙上に掲載された記事を全文、下記したい。
 昭和九年は、事件の二年前だ。
 長文ではあるが、當時の軍部と國政に就て知るに、一讀の價値ありとすべし。

●『青年將校と政治問題』
『第六十五議會において軍民離間の聲明書問題が端緒となり、軍人と政治の問題が盛んに論議されたことはいちおう喜ぶべき事柄である。蓋し國に爭臣なくんばその國危しとの古人の金言に照すも、このさい敢然として質すべきを質す議員の存在は大いに慶すべく、また軍の首腦部としても、幸に事の眞相を傳うるの好機會を得たるを賀すべきであるからである。
 さりながら問者餘りに無智識無穿鑿にして問題の要點を知らず。答者あまりに消極的にして事の眞相を云はずんば、せつかくの機會もかへつて世人の疑惑を深からしめる所以となるのみならず、肝心の 皇軍全體に與へる影響も、決してよろしくはないと信ぜらるがゆゑに、左にわれら一個のこの問題に關する所見を述べておきたいと思ふのである。

 そもそも軍人ことに青年將校らが國政に對し、多大の關心を抱くに至りたる主なる原因は、共産黨事件の續出より始まる。およそ日本國民にして忠誠の念ある者、一人として赤化思想の蔓延を憂へざるはないのですが、特に軍人は 大元帥陛下の股肱たるの關係上、一入この問題に關心を持ち、常人以上に國體否認の惡思想の蔓延を憂へるはもちろんのことである
 しかしてこの赤化問題は數年以前よりますます政治上の重大問題となり、その時々の爲政者いづれも主義者の檢擧に努め、かつしばしば拔本塞源を口にすれども、いまだ忠誠なる國民をして、その意を安んぜしめるに足るほどの效果を見るには至つてをらないのみならず、近年の新入營者の中には、かかる惡思想の影響を受けたる者も、相當にゐるのである。これ青年將校らが相集まる毎に 皇國のために憂へかつ憤ると共に、自己に直接關係ある軍事教育の上よりも、かかる惡思想の瀰漫する原因如何、あるいはこれが對策如何等に關して論議を鬪はし、往々その聲の外間に洩るる所以である。

 次には對外問題、ことにロンドン條約に關連せる統帥權問題、あるいは滿洲における往年の日本の權威失墜などが、これまた軍人の政治に對する關心を深からしめるに至りたる主要原因の一つをなしてゐる。ただしこれらの問題については世上の論議すでに盡きたりと信ずるがゆゑにここには省略をする。

 最近において特に青年將校らの間に、最も重大問題となつてゐるのは、國民生活の不安である
 世人あるいは言はん、國民の生活問題のごときは、その時々の政府當局において、できうるかぎりの努力をなしつつある次第なれば、敢へて青年將校らの憂慮を要せずと。こはまつたく軍隊内の事情を理解せざる者の妄言である。
 なんとなれば實際軍隊内にあつて、直接兵士の教育に任じつつある青年將校らよりすれば、兵士の家庭の窮迫は決して小なる問題ではなく、また決して對岸の火災視すべき問題でもないからである。
 いつかの新聞紙上にも、偶々日曜の休暇を與へられたる兵士が、街頭に紙屑を拾うて家計の手助けを爲せる記事が掲載せられて、世の人々の胸を打つたやうであるが、現在教育を受けつつある兵士の中には、これに類する程度の窮迫せる家庭より入營せる者が、決して尠くはないのである
 例へば東京の第一師團管下において、家庭の窮状甚だしきがために、僅かなる陸軍の救護手當を受けつつある者さへ四十餘家族を數へ、第二師團管下においては、その種の者がほとんど全兵士の三割にも當るといふ有樣である。しかして兵士の中の大體七割以上は農村および漁村の出身であつて、またその家庭的事情より見れば、いはゆる無産階級の子弟がその大部分であることを思へば、たとへ救護手當を受けるほどではなくとも、近年の世上の不景氣を顧み、相當窮迫せる家庭より入營せる者が、いかに多いかといふことも自ら察せられる次第である。
 かかる家庭より入營せつ兵士が、その私服を脱いで軍服を着たる瞬間より、まつたく自己を忘れ家庭を棄てて軍務に精勵するはもちろん、一朝有事のさいには君國のために、命を鴻毛の輕きに比して戰場に死力を盡すのであるから、平生直接教育の任に當りつつある青年將校らが、これら兵士の任務の重大と家庭の窮迫とを思ひ合せて、かつは 皇軍の士氣のため、かつは軍隊の團結上、なほさらに人情の上よりして、せめてはこの重大任務に服する兵士らをして、後顧の憂へなからしめたしと念ずるのは當然ではあるまいか。ことに青年將校の中には乏しき自己の給料を幾分か割いて、最も窮迫せる部下の兵士の家庭に月々竊かに送金しつつある者が、近年頗る多いことを記憶しなければならぬ。
 しかしてその結果は政治の成行きに關し、非常なる關心を持つのみならず、政府の財政經濟政策もしくは言存の經濟機構等に關してまでも、その是非を考ふるの風、やうやく將校間に盛んとなるに至つてゐるのである。

 加ふるに近年における疑獄事件の頻發その他により、軍人の現代政治家に對する信頼の念が、一般的に薄らぎたつてゐることも掩い難き事實である。
 もとより多數の青年將校の中には、あるいは事を好む者もあるべく、また必ずしも純眞ならざる者もあるかもしれない。いはんやたとへ純眞なる動機にもとづくとは云へ、驕激なる言動に出づる者を嚴重に取締まるべきはもちろんである。殊に五・一五事件のごとき不祥事の勃發をさへ見たる後であるから、斷じてその警戒に拔かりがあつてはならぬのである。
 さりながらもしも今日における軍人と政治の問題が、たまたまこの種の常規を逸する者に對する處分や暴壓をもつて、いつさい萬事解決するものであるかのごとくに考へるならば、それはあまりに淺薄皮相の見解である。
 なんとなれば問題の本質はすでに上述のごとく、實は忠誠 皇軍に奉じ、熱心に部下を愛育しつつあるほとんどすべての青年將校らが、國家非常時における 皇軍の責務の重大なるを思へば思ふほど、その軍人としての本分を全うするの上より、顧みて國内の情勢を憂へ、殊に兵士の搖籃であるところの農村や漁村の窮状を、なんとか早く救ふの途はないものであらうかと焦慮する處に存するがゆゑである。軍人への勅諭には、

抑々國家ヲ保護シ、國權ヲ維持スルハ兵力ニ在レハ、兵力ノ消長ハ是レ國運ノ盛衰ナルコトヲ辨ヘ、世論ニ惑ハス、政治ニ拘ラス、只々一途ニ己カ本分ノ忠節ヲ守リ  云々

 と仰せられてゐるが、その兵力の消長を直ちに國運の盛衰と見、その本分の忠節を守る點より、右のごとき焦慮と憂憤を抱きながら、しかも務めて軍紀を重んじ、あらゆる世上の俗論と戰ひつつ軍隊の士氣を鼓舞し、おのおのその所屬部隊を守護しつつある青年將校らが、果して一部の輕率なる人々の考ふるがごとく軍紀の紊亂者として、しかく簡單に處罰されて問題が解決するものであらうか。いな一層徹底的にこれをいへば、この青年將校らの國政の現状に對する憂憤こそ、實は一朝事ある際におけるその敵愾心ともなり戰鬪力ともなつて、この國を護る精神と同一なのであることを理解しえざる者は、共に國防を語るに足らないのである。

 われらの知る限りにおいては、軍首腦部のこれが對策はただ「政治上の事はすべて軍務大臣を通じてその希望の實現を期し、皇軍の統制を紊るなかれ」と諭しつつ、ひそかに國政の改革に努め、もつて青年將校らの憂憤の解消を期するにあつたやうである。
 荒木前陸相がその在職中しきりに内政問題に關して發言をなし、常に硬論を主張したる所以もここに存するのであるが、しかもわれらは荒木前陸相の彼の博辨と、彼の大車輪の活動とをもつてしても、なほこの問題の核心をつかんで、その根本的解決に一歩を進むるの上に、努力の足らざりしことを遺憾に感ぜざるをえないのである。これその病に仆れ、かつその遂に辭職の餘儀なきに至りし最大原因である。
 もしそれ齋藤首相以下の他の閣僚諸公に至りては、只管安價なる氣休めに淫して内閣の壽命を貪り、毫もかかる問題に直面して敢然その對策を講ずるの至誠なかりしことは、もつとも非常時内閣の名に反すること大なりといはねばならぬ。
 ここにおいてか第六十五議會に臨む軍部大臣たる者は、もはやいつさいの消極的態度を捨て、もとより掛引きを排し巧智を用ゐずして、極めて率直明瞭にこの情勢を打明け、ことに青年將校らの至當なる焦慮と憂憤を議會に語り、國民に傳へ、もつて全政治家一致の努力と全國民の理解との下に、一日も速かに軍部内におけるかかる風潮の由來せる、根本原因の解消を期せなければならなかつたはずである 同時にまた兩院議員諸君にして、もしかかる點に深く慮るところがあるならば、その議會における軍部大臣に對する質問なるものは、いたづらに見當違ひの言質を取りて自己の氣休めとなすことの代りに、かならずやこの要點にふれ、軍首腦部のかかる重大苦心の分擔と特に兩院議員の自己反省と、さらに進んで問題解決のためにする積極的協力との意味において、質問がなされなければならぬはずであつたと思ふ。しかるに議會の質問應答が共にはなはだ不徹底にして、せつかくの好機會を善用するに至らなかつたことは、惜しみても餘りある事といはねばならぬ。
 なほ軍民離間の聲明書に關する軍部兩大臣の答辯も、その實際に存する奇怪至極なる幾多の事實を擧げずして、あまりに穩便を希ひし結果、いかにも軍部の輕率を證明するがごときことに終つたのは、林陸相の就任早々なりしによるところあらんも、容易ならぬ兩大臣の失態である。

 われらの希ふところはただ一日も早く眞面目なる 皇軍の將士に安心を與へ、その内憂と後顧の憂へとを無からしめて、大元帥陛下の統帥の下に、あめが下のまつろはぬ者共を討ち平げる天業に專心ならしめるにある。しかしてこの一事こそ非常時に直面せる 皇國日本の急務中の急務であるから、政府も軍部も兩院の諸君も、よく事態の本質を究めて、その意味の努力に違算なきを期せられたしと祈るのである』と。
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by sousiu | 2013-02-26 21:29 | 今日は何の日

大橋訥菴先生に學ぶ。十  『責難録』 八 

承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『古へ周代の租税は、所謂る井田の法にして、十分の一を取れることゆゑ、後世に比すれば甚だ輕く、民の産の饒にして、安樂にありしこと想ふべし。それすら聖人は、稼穡の艱難を知り、民の疾苦を恤れむ事を、人君の要務とし玉ふて、周公は七月無逸等の篇を著はし、武王は康叔を戒めて、若保赤子(赤子を保んずるがごとくせよ)と言(のたは)ひ、孟子の中にも、文王視民如傷(文王民を視ること傷むが如し)などゝ云ひつるなり。然るに後世の租税の法は、古に十倍して、民の貧困甚だしけれども、人君も諸役人も、それを當然のことと思ふて、民を憐れむ心のなきは、誠に不仁の至と云ふべし。本朝の古も、租税の制は極めて輕く、大寶の令の頃は、二十分の一を取りて、[今の令は、文武天皇の大寶元年に定め玉へる所なる故、稱して大寶の令と云ふ。さて令の本文並に義解等を按するに、一段三百六十歩の田より稻五十束を穫ると定め、一束の稻を米にすれば五升になるゆゑ、五十束にては二石五斗の米なり。其中稻にて二束二把、米にしては一斗一升を、田租として上納せしめ、餘りの稻四十七束八把、米にして二石三斗九升は、民の所得とされたる趣なれば、二十分の一を取るよりも輕し。外に調庸とて、後世の夫役人足、小物成、諸運上の類の如きことありしかども、それを合せても、十分の一を税するには至らざることなり。是等の事、愚別に一書を編纂して、詳に古今の沿革を言んとす。○今は三百歩を以て、一段とすれども、そは豐臣氏以後のことにて、古の制に非ず。古は三百六十歩を一段とされたることゆゑ、此々には其の趣に記せり。讀者怪しむこと勿れ]國用とし玉へる事なりしが、皇化の陵威せるに從ひ、大寶の制も次第に頽れて、鎌倉以降に及ては、殊に重斂となりたるなり。そは鎌倉の幕府よりして、守護地頭と云ふ者を悉く諸國に置て、領主と地頭の兩方へ、租税を取ることになりしかば、[領主と云ふは、初より其の地を領し居たる京家の人々なり。守護地頭は、鎌倉より新に置たる所の武家なり]賦斂頗る重くなりて、民の困窮する權輿(はじめ)となれり。かくて室町の中世よりは、領主へ納むべき所の租税も、總て地頭が抑へ取て、將軍の威令も行はれす、凡そ天下の大小名、心まかせに其地を領して、互に戰爭を勤めとせしかば、平生數多の武士を扶持して、城内に集めて置ざることを得ず。數多の武士を養ひ置くには、過分の租税を取り上げざれば、給し難きが故を以て、遂に次第に増し取て、後世の如くになり行きたるなり。されば、後世の租税の制は、戰國の時の餘風にして、極めて重き賦額(とりたか)なるに、人君も諸役人も、古の朝制あることを知らず、税斂の多くなりたる所以をも考へず、只昔よりかく取れる物と心得て、妄りに下民を脧(月+夋)剥するは、慨歎せざることを得ざるなり』と。

 これは當時行はれてゐる租税の制に就て述べてゐる。固より野生勉強不足にして、このあたりのことに就ては十分な智識がない。よつて只管ら抄録しただけに止まる。
 一昨日の記事は、この記事を記するに際して、抄録するだけの野生の腑甲斐なさを慰めむが爲めに敢へて脱線したものだ。御笑恕くだされよ。


曰く、
『扠、古へ王制の行はれたりし時も、民皆富農のみにてはなく、貧民もありつるなれども、租税甚だ輕きが故に、纔かに一二段の田を作れば、後世の一町にも敵する程との、米粟悉く稷を得たるを以て、貧民と云へども凍餒に至らず、生計は立たることなるに、後世の租税は極めて重く、一二町の田を耕稼せざれば、古へ一二段を作れる程との、米粟を收穫すること能はず。然るに一二町の田を作ると云ふこと、小民の力には及ばぬ事ゆゑ、纔かに數段を耕耨して、終歳勤苦勞働するも、獲る所は租賦に供して、一家の口腹を養ひ難く、麥稗芋魁(むぎひゑいもかしら)の類などにて、辛く生命を維(つな)ぎ行くは、眞に薄命の至極と云ふべし。豐年すら既に然れば、一旦水旱饔(上「雍」+下「食」)饉に遇ひ、或は疾病死喪に逢ふては、禦くに術なく、逭(之繞+官=のが)るゝに地なく、兄弟妻子號泣して、溝壑に轉し、離散に至るも、亦是れ必然の勢なるのみ。されば下民と云ふ者は、古よりして艱苦なれども、後世の下民に至ては、其の艱苦の甚だしきこと古來未だ嘗て其の比類を見ず。苟も人君たる者、惻然と心を動かすべき所に非ずや』と。

 往時の税制と現在の税制との相違を述べてゐる。徳川幕府に於ける税制批判と云ふよりも、固より武家政治が行はれたる以後に布かれた税制の批判と思ふのだが、已んぬるかな、智識なきがゆゑに文面の表層を理解するに止まるあるのみ。


曰く、
『但し今日に及では、縱ひ有志の人君ありて、民の貧窶を憫恤し玉ひ、租税を半はにせんと欲したりとも、そは行はるべきことに非ず。何んとなれば、戰國以來數多の兵士を扶持し置かれて、既に常制となりたる事ゆゑ、今さら扶持を取り放して、藩士を減損せられんことは、決して遽に行ふこと能はず。藩士を減すること能はざれば、租税も亦た舊に依て厚く斂めざることを得ざるなり。且や租税の厚くなりしも、一朝一夕の故にはあらで、已に漸く久しきことゆゑ、下民も亦た慣(なれ)熟して、それ程との米粟をば、上納する筈と心得居て、苛政なりとも思はねば、賦額は當今のまゝにして、指置かれんこと勿論なれども、せめては人君たらん者、右の子細を辨へて、後世の農民ほど、苦しき者の者のなきことをば、一日片時も忘れ玉はず、常法の租税の外には、聊かなりとも、取り上げまじく、縱ひ少々づつにても、民の困苦を緩るめてやらんと、絶ゑず心にかけ玉ひ、其の筋の工夫をせられなば、民の父母たるに愧ぢることなく、有司も自然に感化して、下民を勞(いたは)り撫ることを、報效の道と心得て、君の徳を弘むるにも至るべきなり』と。

 異論もあらうかと存じ上げるが、野生は「大鹽平八郎の擧」が、幕府に弓を引くその嚆矢として、或は後に及ぼしめたるその影響必ずしも輕からざるものとしていさゝかの關心ありとするも、「大鹽平八郎」その人とその思想に關しては、然程の關心を有してゐない。かの擧に際して絹袋に入れられた「天より被下候村々小前のものに至迄へ」と題された檄文には、確かに『神武帝御政道之通 寛仁大度の取扱にいたし遣』であるとか頻りに大義を説きたる文言が散見されるが、その本質に於ては「救民」であり、謂はゞ「不條理」に對する決起の域を脱し得ないと感じるからに他ならない。
 愚案。皇國に於て、時代の變革を促しめたるものは、「正義至上主義」や「救民至上主義」ではない。云ふなれば「尊皇至上主義」である。誤解を招かぬ爲めに一言を添へるが決して大鹽中齋翁、その人を貶しめるでなく、過小評價してゐるのではない。固より批判してゐるのでもない。・・・これ以上の脱線は止めておく。いづれにせよ、訥菴先生のこの『責難録』は已にこれまで一讀して明白なる如く、饑饉があらうが無からうが、記されたに違ひなきものだ。訥菴先生は大義名分を正さんとする、その一志あるのみだ。


曰く、
『さて又農民の方に於ても、後世は租税の筋に種々の詐計を運(めぐ)らして、逃れんと欲する者のあるは、憎むべきに似たりと云へども、畢竟上位に立てる者、民を撫育するの心なくして、視ること土芥の如きを以て、下民も亦それに應じて、己れが痛苦を遁れん爲に、上を欺かんと欲するのみ。苟も上位に在る者、赤子を保するの心を以て、民の艱苦を劬(いたは)り行けば、下民のそれに感動して、身をも骨をも惜むことなく、力を其の君に竭すことは、影響よりも捷(はや)き者ゆゑ、反求すべき所なるに、後世の人は其の理に通せず、民を恤れむの心なきより、常法の租税の外にも、種々樣々の事を工夫し、只管ら聚斂を勤めとなして、少しも饜(上「厭」+下「食」)足することを知らず。偶々君に仁心ありてそれを緩めんと欲しても、下なる役人が從はず。或は役人に仁心ありても、上よりしてそれを許されず。只下々の膏血を絞り取るを能事となして、恬然たる國もありと云ふは、嗚呼、亦た如何なる政事ぞや』と。

 是れ又た現在の状況を述べ、憂慮を吐露したるもの。主が民を恤むも役人がそれを喜ばず。役人に仁心ありても主がそれを許さず。當時の武家政體の、最早限界を暴露したる言だ。當初は兔も角、不健康なものが沈着すればやがては血管が動脈硬化を起こし、外力が加はり續ければやがては金屬も金屬疲勞を起こす。焉んぞ政治體制のみ其の弊より免れんや。今日に於てもまた然りと謂ひつ可し矣。


曰く、
『既に上にも論ぜし如く、常法の租税にてすら、仁人は忍びぬ所にして、緩るめんと欲することなるに、後世は増す事のみにて、絶て減すると云ふことなく、且つ樣々のかゝり物など年々に多くなり行けば、民は益々困窮して、逋負(みしん)の積累を償ひ難く、竟に其の家斷絶して、田畝の荒蕪に至る者、處としてあらざることなし。さて其の家は斷絶しても、其の家に附きたる貢賦の額(たか)をば、上より免除することなく、一村の者に割り付けて、必ず上納せしむる故に、餘の農民も亦た窮して、後には耒耜を放擲して、他國の城市へ奔り行き、商賈となる者少なからず。或は其の子多くあれば、一人には業を繼がせて、農夫の家を立さすれども、其の餘は悉く城市に遣はし、工商の家に奉公せしめて、遂に工商になりなどするゆゑ、農民の戸口は日々に減して、廢田荒野次第に多く、郷村年々に衰弊すること、後世各國の通患なり。是に於て法を立てゝ、民の兄弟子孫の類を、他國へ出し遣はす事をば、嚴しく禁制する國もあれども、そは源頭を澄しもせずして、交流を浚(さら)ふに等しきゆゑに、其の禁令も屆き難く、農民の戸口の減することは、依然として改らざる國のみ多し。況てや後世の俗吏の風は、只目前の利のみを計りて、末々の事をば考へざるゆゑ、其の年の租税の類だに、聊も多く收納すれば、それにて事は足れりとして、民の痛む所以んを思はず、其の民痛みて凋弊すれば、國脈それより傾きて、亡滅の根基となることをも、■(立心偏+?)然として、曉覺せざるは、痛哭するにも堪へざることなり。人君果して心ありて、國家を保持せんと欲し玉はゞ、省察せられずんばあるべからず』と。

 解説が疎かならざるを得ぬので、今囘は省略せず全文を記した。
 古賢の遺文に觸れることは決して無駄ならぬと云ふでなく、寧ろ重要視される可きことは、既に申した。
 次は愈々、最終項だ。とは云へ此度び掲げた『責難録』は卷之一に止まり、以下が刊行されたことは言を俟たぬ。しかしながら本稿の所收される『大橋訥菴先生全集』にも、殘念ながらそれ以降が收められてゐないのである。既記したが、『責難録』は偶々平泉先生が卷之一の版本を入手されたことにより吾人の拜讀する機を得たが、それ以下の本は如何なるものか、不明であるとの由。こゝにも又た、尊き先人の遺文が失せるといふ、現代求學者にとつての不幸事をみなければならぬ。殘念至極と云はざるを得ない。
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by sousiu | 2013-02-24 19:52 | 先人顯彰

皇太子徳仁親王殿下御生誕の嘉日なり 

 本日は、皇太子徳仁親王殿下御生誕の嘉日なり。
 親王殿下におかれましては、おん年五十三にましまし、また本年は、皇太子妃殿下との御成婚から廿年を迎へられる佳き年なり。

 慨歎す可きなる哉、營利至上主義の雜誌では 親王殿下に對し、あらうことか御退位を要望する記事があるとか。
 一讀の價値すらなきことを認め、固より宣傳する積もりも毛頭あらぬので、如何なる愚論であるのかサツパリ分らぬが、賣らんかな主義は寔に世を害する畜生の思考である。

 また、本日は、昭和廿一年、マレーの虎と稱せられた従三位勲一等 山下奉文陸軍大將が比國のマニラにて軍事裁判にかけられ絞首刑が執行された日でもある。


 果して如何なる因果ぞや。昭和廿三年十二月廿三日、東京裁判にてA級戰■の汚名を受け、平成に於ける天長節と同じ日に東條英機大將他昭和殉難者が絞首刑を執行され、而して、皇太子殿下の御生誕日に於て、今又た、山下陸軍大將死刑執行の同じ日ならむとは。

 爰に我れら日本人の最も留意せねばならぬことがある。
 東條大將他昭和殉難者は、戰勝國による、當時の 皇太子殿下御生誕の日に合はせられ死刑を執行された。 最早語り盡されたことであるが、用意周到なる彼れらは、日本の前途をも暗黒に染めんと智謀の限りを盡したのだ。
 だがしかし、戰後に於て、巣鴨拘置所處刑に先立つ二年も前に、比國で山下大將は既に昭和殉難者となつてゐたのである。
 戰後より十五年を經た昭和卅五年二月廿三日、皇太子殿下は山下奉文大將の執行と同じ日に御降誕あそばれたのであつた。
 野生の兄事する備中處士樣より、嘗て、とある御方との御縁を賜はつた。その御方の曰く、『皇國は昭和卅五年に、既に戰後史觀を脱却してをりますよ』と。

 皇太子徳仁親王殿下が如何なる神意のまにまにこの日を選ばれて御生誕あそばれたか。米國をはじめとした東京裁判の役者達の驚ろきと云つたら、それは言語を絶するものがあつたに違ひない。恨めしくも彼れらの謀略によつて 今上天皇御生誕日と所謂るA級戰■の處刑日を重ねられたことゝ、山下大將の命日に 皇太子殿下の御生誕日が重なつたことゝは、その本質に於てまるで違ふのである。むしろ正反對である。詳らかに云へば、曩の執行日は遺憾乍ら戰勝國の意志だ。後の 皇太子殿下御降誕日は 皇國の意志だ。戰勝國の連中はこれを偶然と解して氣にも留めなかつたか、或は寒心を覺えたか野生は知らぬ。されど野生は、否、神州の民たる日本人は少なくともこれを偶然とは見做さないのである。

 「戰後史觀の脱却」が叫ばれて久しい。これは昭和及び平成に於ける民族の悲願である。
 敢へて今一度言を繰り返さねばなるまい。皇太子徳仁親王殿下が如何なる神意のまにまにこの日を選ばれて御生誕あそばれたか、と。

 輕率に筆を走らせる賣らんかな主義の記者どもは、「戰後史觀」の眞なる脱却の爲めにも、この事實に能く々ゝ熟慮を要さねばなるまい。
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by sousiu | 2013-02-23 22:06 | 今日は何の日

閑話休題。 「國學」に就て。その一  

 こゝで敢へて、少し脱線してみたいと思ふ。
 一氣に『責難録』を最後まで書き上げるべきかも知れないが、偶には脱線も必要だと思ふからである。・・・野生の場合は脱線ばかりだが。汗顏。

 今日は「國學」に就て簡單に觸れてみようと思ふ。
 近年にはかに陣營の間で、國學に對する關心がより高まつてきたやうに感じられる。頗る宜い傾向だと思ふ。
 參考文獻は久松潛一翁著『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)だ。

 翁は先づ、國學の意味に就て三別されると述べる。
 一つ目には、大寶令に見られる國學だ。曰く、
教育的に中央の學校を大學と稱せられたのに對して地方の學校をば國學と名づけられたのである。國といふ文字は古く、天神・國神として言はれて居る如く、高天原にまします神、もしくは高天原から降臨せられた神と、國土に以前から居られる神と區別する意味に用ゐられて居る。天罪・國罪といふのも高天原で犯された罪と國土で犯された罪との區別が主となつてゐるやうである。中央に對する地方を國といふ事は國學の場合のみならず國司の場合にも用ゐられる』と。

 要するに地方を國とよんだことから、名稱としての「國學」に止まる場合だ。この場合、我が陣營の云ふ所謂る「國學」とは異なるものである。


 二つ目には、日本に關する學問だ。曰く、
『即ち日本の政治・法律・宗教・文學・歴史等全般の文化に關する學であつて主として研究對象の上から見て、日本に關する學問を國學といふのである。從つてこの場合は日本に關する學問であるならば如何なる立場から扱つても國學となるわけであつて、佛教的立場、漢學的立場から扱つた場合もすべて國學であり、考證學や歌學・語學にしてもすべて國學と言ひ得るのである。かういふ意味に於ける國學はすでに古代から存在して居るのであるが、近世に於ても國學者をひろい意味にとつた場合も存するのである。この場合の國學は倭學和學といふ名稱によつて言はれた事もあるのである。この事は明治以後日本學といふ名稱が言はれた場合にも、廣く日本の事を研究する學問といふ意味で日本學が用ゐられて居る場合があり、西歐に於て言はれる日本學はその意味で用ゐられて居る場合が多いのである』と。

 これは説明するを要しまい。日本に係はる學問ならば、立場も質も問はない、といふものだ。日本に關せば耶蘇教であれ佛教であれ、研究對象として扱ふとき、即それ國學と位置付けられてしまふ。これも云ふまでもなく復古中興を志す者の定義する國學ではない。


 三つ目は、その立場の上に明確に日本的立場を以て純粹日本的なるものを闡明しようとする學問だ。曰く、
『この場合には佛教等の外國的立場や影響を離れて純粹日本的なるものを闡明しようとする所から研究對象にしても外國的影響をうけることの尠い古代文獻を主とするといふ限定をうけるとともに、態度に於ても日本的立場をとるといふ所に特質を有するのである。また方法に於ても古代文獻による嚴密なる文獻學的方法をとるに至るのである。さうして本質に於て國家的精神を基調として居るのであり、國家的の情熱を中心として居るのであつて、荷田春滿が創學校啓に於て「國學之不講實六百年」といつたのはかういふ意味に於ける國學をさしたのである』と。

 つまり、外來思想や宗教に淫される以前の、純々然たる日本的立場としてこれを研究し、闡明せんとするものだ。有體に云へば、固有信仰・思想、乃至は文化・傳統を先づ十分知悉して、そして保持しようとするものだ。ま、當たり前と云へば當たり前の順番なのであるが、「正しい歴史認識を」「文化・傳統を護れ」と他者に對して啓蒙せんとするほどの者は、自身がその「正しい歴史・文化・傳統」を知つてゐるといふことが前提であらねばならぬからだ。
 尊王家、復古派にとつて、これこそ「國學」と認定して然りのものである。

 純粹なる日本的信仰・思想・文化・傳統等を少しでも正しく知る爲めには、必然として歴史を遡つてゆかねばならない。僅か七十年前へ遡つてもその目的は達成し得ないからだ。よつて七十年前の戰前を解して足れりとするものではなく、百五十年前の御一新、御一新に止まる能はざるして徳川最盛期、それよりも織豐時代、更らには戰國時代、その前の吉野朝時代、室町、鎌倉、平安・・・古へ古へと時代を遡ることによつて、初めて浮き彫りされる純日本を知り得るのである。固より日本は開闢以來、一度たりとも滅亡した事實が無く、從つて歴史は分斷されぬまゝ、畢竟萬國で最古の歴史を保有し、今日猶ほ延長され續けてゐる。然るに米國や中共などと違ひ、悠久の歴史を辿るといふ作業は、それは容易なことではないのである。云ふなれば民族にとつて、これ以上の嬉しい悲鳴はない。
 これに就ては當然、何千年といふ壽命を保持し得る者はをらず、又た今日のやうにDVDに記録されてゐる筈も無い。然るに文獻に頼らざるを得ないわけである。古賢の苦惱苦心苦學による成果と學恩、そして、災害等による散佚や或は知らず處分され年々散失されてゐるにせよそれら古書や古文書が今猶ほ遺つてゐることに、吾人は幾重にも感謝せねばなるまい。

 さて。先人の遺志に連なり、これを志さんと欲したとき、一つの問題が生じる。今日の言葉や表記、文法では、古書を讀み解くことが出來ないのである。いや、古書などと云はずとも、戰前の書物すら戰後の國語教育程度では、難讀せねばならないのが現状だ。そこで先づ、これを解讀する爲めに、國語の研究が必要に迫られるわけである。
 久松潛一翁の曰く、
國語學との關連の上で言へば國學に於ては文獻を尊重する所から言語の研究を重んずるのであり、そこに國學者は一面に於て國語學者となつて居るのである。契沖にしても眞淵、宣長にしても國語學者の一面をそなへて居るのである。しかしこの場合國語學は純粹なる國語の研究そのものに中心があるのに對して、國學に於ける國語學の研究は國語によつてかゝれた文獻を理解するための第一段階として研究されるけれども、國語の研究そのことが最後の目的ではないのである。こゝに國學に於ける國語研究と國語學そのものとの異なつた領域があるのである』と。
 
 つまり、維新(こゝでは敢へて維新と云ふ)の爲めに要せられる可き國學を學ばんと欲すれば、自づと國語學を研究せねばならない。だが國語學は謂はゞ出發點であつて、國語を研究することが到着點ではないのである。野生の先輩や朋友には正假名正漢字を愛用する御仁が少なくないが、みな、一人でも多くの國民が再び國學の大切さに氣付くことを熱望し、敢へて正統表記を實踐して親しみ易きものとし、同時に歴史的文獻が大衆に、より身近となるやう祈つてのことであらうと思ふ。謂はゞ正統表記を實踐すること、既にそれ丈で啓蒙活動と言ひ得るのである。それをも知らず、淺慮にも「自己滿足」と見做し煙たがるは、日教組か、さなくは米國教育使節團の太鼓持ち以外のなにものでもない。
 我が日乘でも他の機關誌でも再三繰り返してゐることだが、人の曰く「文章は讀まれなければ意味が無い。言語は生きてゐる。今日愛用されてゐる表記で傳へるべき」と。これは國學に對する無理解から生じる言だ。一々久松翁の言を持ち出すまでもなく、云ふなれば文化頽廢を推進する愚論だ。現代に對する順應と云へば聞こえは良いが、實は占領國語表記への妥協であり、敗北に他ならない。かういふ民族の無責任者の言に從へば、往時の文章や先賢の玉稿遺文、今に遺れる先覺者の版本藏書は總て、無意味であり無價値といふことになつてしまふ。岩波や司馬遼太郎フアンなどの反日家や半日家から見れば頓著ないだらうが、得てしてさういつた人らの歴史認識を問へば、已んぬる哉、大抵、笑止せざるを得ないほど誤解に誤解を重ねてゐるものである。

 翁の曰く、
『かういふ國學は一方では古文獻による所から古學とも言はれ、また、文獻に立脚して古代文化を研究する所から明治以後、日本文獻學とも言はれた事があるのである。こゝで意味する國學もこの第三の意味に於ける國學をさすのであるが近時となへられて居る日本學も、日本の事を研究する學問といふよりは日本的態度を以て研究する學問といふ意味に於て用ゐられて居るのであるから、この第三の意味の國學と近い關係にたつのである』と。

 久松翁はこゝで考察を深める。いさゝか長くなるが注目を要する箇所なので引用したい。曰く、
『第一に國學と日本文獻學との關係に就いて少しく考へたいのである。日本文獻學といふ名稱は明治時代になつて芳賀(矢一)先生等によつて國學が獨逸の文獻學と比較せられその方法、態度、目的等の類似する所から獨逸文獻學に相對して近世の國學をば日本文獻學として理解せられたのである。芳賀先生は日本文獻學といふ題目で大學の講義も行はれて居り、遺稿の中に刊行されて居るのである。この場合とり入れられた獨逸文獻學はベェクやパウル等によつてとなへられた文獻學であるが、文獻によつて獨逸の文化を闡明しようとするのである。さうして文獻そのものの研究を重んずるやうになり、そこに書史學的研究や本文批判、注釋的研究をも行ふのである。古文獻を正しく解釋した上で、文獻によつて古文化を闡明しようとするのである。さうして文獻を重視し、それによつてその國の文化を闡明しようとする點が、我が國の國學が古文獻によつて純粹日本を闡明しようとする點に方法目的の上にも類似する所から比較されたのは妥當でもあつたし、また近世國學の方法の再吟味のために必要でもあつたのである。たゞこゝで注意されるべき事は我が國學と、獨逸文獻學との類似する點とともに相違する點もある事である。これは芳賀先生も十分認めて居られたのであつて、一面に於ては文獻學的方法をとかれながら、一面に於ては國學の獨自の意味や方法態度をも認めて居られたのである。この事は西尾實氏も言はれて居つたと思ふが先生が晩年の御講義では日本文獻學といふ名稱の代りに再び國學として講義せられて居つたこともその一の現れとも見られるし、また日本文獻學といふ名稱でとかれた際にもその相違する點は指摘して居られたのである。現在の私見を以てしても、近世の國學は古文獻によつて純日本文化や精神を闡明するとともに、古文獻そのものの精密なる基礎的研究を準備として行ふのであるが、さういふ古文獻によつて闡明される所の古文化は單に古の事ではなく、日本の文化を貫いて現代まで生きて居る文化や精神であつたのである。かくてさういふ文化や精神は冷靜な文獻學的方法を以て扱ふには餘りにも生きた精神であり、それのみでは扱ひ得ない點があるのである。從つて近世の國學に於ては一應文獻的方法によつて行はれ、その方法の領域に止まつて居るやうであるが、しかしある點に於ては文獻學的方法を超えるのであつて、そこに單に冷靜なる古文化の研究と異なる生きた現實の問題としてその愛國的情熱を吐露するに至るのである』と。

 「國學」が一時「日本文獻學」といふ言葉を用ゐられた理由は、ドイツに於て、古文獻を繙くことによつてドイツの文化を闡明しようといふ「獨逸文獻學」が爲され、これに類似する點から「日本文獻學」と名付けられたとのこと。しかし日本とドイツは違ふ。彼の國と比して日本の歴史は遙るかに長く、而も古の文化や精神は過去の遺物となるでなく、今日に於ても脈々と生き續けてをり、この點に彼れとの違ひをみるのである。

 かくて日本の深奧を探つて行くと、それは神話の世界まで行き着かなくては止む能はざるのである。曰く、
我が國の神話が他の國の神話と異なつて古代に於ける宇宙、國家、人間の創造を語る神話であるのみでなく、特に國家の起原を語る國家的歴史神話である所に特質があり、またかくの如き神話が歴史を貫いて國家發展の根柢となる精神となり、今日の我が國の根本的な精神となつて居る所に獨自の點があるのである。かくの如き神話の研究に於ては他の國の神話の研究とは異なつた態度を要するのであつて、文獻學的方法のみを以てしてはその歴史を貫いて生ける精神を十分に闡明することが出來ない點があるのである。近世に於ける國學が文獻學的方法をとりながら時に文獻學的方法を超えて居る點があるのはかういふ具體的な生きた精神を扱ふ所から來た自然の結果であるであらう。國學が日本文獻學といふ立場に於てある程度まで説明されるに拘らず、文獻學としては十分に國學を説明し盡されない所以はそこにあるのである。國學と日本文獻學との關係はかくの如き意味で近い關係になつて居り、方法論としては日本文獻學が國學の方法論を大體に於て説明して居りながら、なほ完全に現し得ない點があり、殊に國學の本質目的は日本文獻學としては説明し得ないものが多いのである。まして近時解される書史學的研究を以て文獻學的研究とする如き立場に於ては國學と文獻學とは一層遠い距離を置いて考へなければならないのである。國學はすでにのべたやうな理由で古代文獻を重視し文獻による研究を重んずるけれども、しかし決して書史學的研究に止つてはゐないのである。それは一の準備的資料的研究として重んずるのであつて、學問の本質は古文獻による純日本的の文化や精神の闡明であり、同時にそれ等の文化や精神を過去の文化として研究するのみではなく、その文化や精神の生ける生命、歴史を貫く生命として把握するのである。國學はかくの如き意味を有する所にその本義があるのであり、そこに文獻學とも異なるものを有するのである。さうして歴史的に見た國學が方法に於てなほ整備されない點があり、時に雜學的な傾向が存することは認められるけれども、それは枝葉に於て陷つた缺點であつて國學の本來の精神は國學の歴史を貫いてあるのであり、それ故に國學が近世に於てあれほどの力を學問的業績の上に於ても有し得たのである。それはまた、國學の意義でもある』と。


 いづれにせよ、古文獻を繙く作業と、國學の研究とは分つ可からざるものなのである。
 但し野生は學者でなければ研究者の域に到底及ぶものではない。皇國中興を招來せんと、微力を捧げる一個の微弱な發信者に過ぎない。
 從つて赤面するを承知で卑見と抄録を重ねるのである。固より野生の愚眼では抄録の仕方も下手であつて、何ら讀者の見識を深める爲めに寄與するものでないかも知れない。されど偉大なる先哲の文獻に、より一層親近感が持たれゝば、これに勝ぐる喜びはないのである。
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by sousiu | 2013-02-22 00:23 | 小論愚案

大橋訥菴先生に學ぶ。九  『責難録』 七 

 さて。氣を取り直して、『責難録』の續きを記さねばならない。


 承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君の大患は、下民の艱苦を知らずして、下民の情に通達せられざるにあり。總じて淫佚驕奢になり行くも、放僻柔惰に流るゝも、其由來する所を云へば、下民の艱苦を知ざる故にて、下民の艱苦を知ざるは、人君百病の根原なれば、扠こそ周公は無逸を著はし、又七月の篇を作りて、成王に進め玉へるなり。古より國を興して、創業の元祖と言はるゝ人は、大率ね微賤に生長して、千辛萬苦を備さに嘗められ、飽くまで知慮を磨ける上に、下民の艱苦を知り盡して、下情に明らかなりしかば、明君賢主と仰かれて、美名を遺すに至れるなり』と。

 諺に曰く、「若い時の苦勞は買つてでもせよ」と。訥菴先生は、創業の元祖は概ね微賤に生まれ育ち、世の千辛萬苦を嘗め、下の者らの艱苦を自ら經驗することによつて會得し、明君と仰がれて美名を遺した、といふ。
 なるほど、今日の政界には探すも困難至大であるが、嘗ては學歴すらなき大臣あり。溯れば明治新政府の要人と雖も出自を辿れば、必ずしも惠まれた者達ばかりでは無かつたのである。更らに溯り木下藤吉郎をみよ。
 逆に今日の政界をみれば。二世三世などてふ者が、如何に信を託せぬか。如何に愚物なるか。
 凡家の一に生まれたる吾人にとつて、忘れてはならぬこと、それ貧乏も苦勞もみな、毒にも藥にもなるといふことである。願はくは艱苦を藥とし、希望持つて家名を興されんことを。


『扠、其の子孫の君となれば、幼稚の時より深宮に長じ、婦人女子に介保せられて、著る所は綾羅綿繡(糸偏+肅=しゆう、ぬひとり)食らふ所は珍膳美羞、起ても居ても不自由なくして、饑餓凍餒の艱苦を知られず、況て君たる位に即けば、見る所は膝行頓首、聞く所は唯々諾々四方八面諂諛のみにて、困心衡慮の事などには、毫髮ほども逢ひ玉はず。故に開くべき知も開かずして、渾沌の人とならるゝは、歎すべきの至に非ずや

 藥とす可き貧困も勞苦も辛酸も嘗めずして、人の頭に立ちたる者の見るは概ね膝行頓首、聞くは概ね阿諛追從。如何でか渾沌の人とならぬ道理やあらん。


『或は偶々心ありて、下民の状(さま)を臣下に問ふても、臣下は大率ね諛諂に熟して、敢て藥石の言をば進めず、必ず巧みに辯を飾りて、下民は山野に心を遊ばせ、身を勞して飽食すれば、長壽を享る者多し。長壽は人の志願なるに、彼れ等は其の志願を得れば、幸福の者と云ふべしなどゝ、君の前にて説き立てゝ、君も其の言に惑はされ、實に然りと思はるゝは、言語道斷の愚騃(馬偏+矣=おろかの意)なり。大厦高堂雕牆は、人情の樂しむ所なれども、人君は常にそれに居れば、敢へて亦た樂しみとせず。珍膳美味膏粱は、人情の悦ぶ所なれども、人君は常にそれを食へば、敢へて深く悦びとせず。是れは平生馴れ過ぎて、珍らしきことに非ざる故なり。綿衣玉食廣堂すら、馴(なる)れば樂しみとはならぬを以て、下民の情を推て見たまへ。平生晝夜山野に在て、雨にも雪にも休まぬ者が、豈、其風色を樂んや。人君平日深宮に居て、偶々山野の間に遊び、其風色を喜て、それを以て下民の心を見るは、大に戻れりと云ふべきのみ。況んや下民は霜雪を冒し、山岳を攀て薪を採り、風雨の日にも露體(はだか)にして、曠野に出でゝ、草を刈り、或は馬に秣ふなど、其艱苦の甚だしきこと、一朝の筆舌には盡すべからず

 その臣下も亦た、主の耳目に優しき言動を扮飾する者多かりしかば、一層、主は改心を得るに難し。飽食煖衣はいつの間にやら當然の如く思ひ違へ、山林に生活する下民の情を知る能はず。民を愛撫するの心を失せん、哀れなる哉。


『~略~。且つ夫れ下民の勤勞は、生計に驅(から)るゝ故にてあれば、三伏の暑にも泥土に坐し、三冬の寒にも氷雪に立ちて、手足胼胝(あかぎれ)、百體疲憊し、日夜昏且休息せざるは、毫釐も養生の道には適(かな)はず、況て彼れ等が食する飯は、麥、稈(ひえ)、菜葍の葉などを糅(まじ)へて、米粒は甚だ少なく、湯茶の類をそれに灌ぐも、温むるに暇を得ざれば、多くは冷ゑたるを用る如きを、飽食などゝは云ふべからず。かくまで終歳勤苦しても、賦税或は給せざれば、忽ち官吏に笞抃せられ、或は囹圄(ろうや)に繋がるゝことあり。是に於て慟哭しつゝ、田畝を賣り妻子を鬻ぎて、纔に苦しみを免るゝも、憂悲哀戚心を攻て、往々命期を縮むれば、民は必ず長壽なりと云ふべけんや。縱ひ幸にして長壽なりとも、右の如き憂悲に遇ふては、只其の早く死せざることを遺恨とするのみ。豈、其長壽を喜ばんや。人君是れ等の情状を深察せられず、下民は氣樂なる者などゝ、妄に思ひ玉ひなば、俗に所謂る冥理を知らぬと云ふ者にて、皇天の誅罰を免るべからず。天の誅罰は目立たぬ者ゆゑ、世の人多くは悟らざれども、人君の兔角に短命なるも、或は肝症の病を發して、遂に廢人とならるゝも、或は妻妾に實子なくして國家を他人に附屬するも、恐らくは 皇天の罰を與る所ならん。能く々ゝ思ひたまふべきことなり』と。

 前述の如くある藩主は、皇天の誅罰を免る可からず。そは短命なるか、廢人となるか、或は子寶に惠まれず他に禪讓せざるを得なきことゝなるか、いづれにせよ訥菴先生にしてみれば、それらは 皇天の誅罰にあらざるはなし。
 時代は、全盛期と云はざるも未だ幕威少々ならず。徳川幕府は天下の爲めに存してゐるものではなく、天下は徳川幕府の爲めに存するものと自認してゐた。少なくとも幕府側の者に於ては。
 當初から幕府は、旗下八萬騎の勢力を笠に着て、宇内を壓した。幕府に忠誠を誓ひ心服する者には氣前良き反面、一毛ほどの不安を與へてくる者には容赦無きこと、家康以來の家憲と云うても宜い。
 かくなる時代の渦潮にあり、恐れる可きは將軍の逆鱗に觸れるが爲めに被る減封・轉封・改易にあらず、皇天の懲罰であると幼君に説諭したことに、訥菴先生の眞面目を垣間見るべきである。
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by sousiu | 2013-02-21 00:18 | 先人顯彰

同血社主人のタコ部屋體驗記 ~橋篇~ 

十五日早朝。前囘日乘を更新して數分後、防共新聞社・福田主幹及び近藤兄襲來。そのまゝ彼れらに拉致され、東名高速道路を下つた。
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向うた先は人里疎らな和歌山縣某處のタコ部屋だ。野生は不安で眠る能はず。安眠してゐる兩兄をパパラツた。
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翌日は、他の五名が出頭に應じ合流。
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さすがは木川兄。到着するころにはいつの間にやらボスの坐を獲得した。下剋上だ。
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借金の返濟に困窮して深山幽谷のダムに身を賣つた勞働者の如く、みな勞働に從事した。
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云つておくが、野生も労働してゐる。下の寫眞が何よりの證據である。我れながら貴重な一枚である。
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木川兄から差し入れられた晝飯だ。因みに野生は少し動くと食糧を攝取せねばならない。これは生まれつきだから誰れからの咎めも受けてはならないのである。
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愛倭塾・山口會長はこんな所へ來ても少し説教くさい。“君子危ふきに近寄らず”といふ。作業が出來なくなることは頗る殘念だが、離れるが一番だ(50Mくらゐ)。
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出來た!凄過ぎる。まるで神の手を借りてゐるやうだ。
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最後に記念撮影。寫眞では能く見えないかも知れないが、みな、疲れてゐる。ひとり河原を除いて。汗顏。
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 因みにこの橋は「新橋」と命名された。名付け親は木川兄だ。
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by sousiu | 2013-02-20 22:16 | 報告

大橋訥菴先生に學ぶ。八  『責難録』 六 

承前。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君も萬民も、均しく是れ人にして。耳目鼻口、四肢百體絶て異なる所なければ、貴賤の差別はなき筈なり。然るに同じき人を分けて、人君は高位に居り、萬民は下位に居て、貴賤の懸(はるか)に異なるは、果して何如なることぞと云ふに、こは才徳の異なる故のみ。其才徳衆に秀でゝ、君たるに耐へたる器量あれば天より國家をそれに付託(あつけ)け、治安の職に任せしめ、萬民の撫育を命せられて、扠こそ貴賤は分れたるなり。されば國家に君として貴き位に居る者は、衆に超ゑたる才徳なくては、其職に叶はぬことなれども、後世の君は多くは然らず。才も徳も凡庸にて、臣民にも劣れる身を以て、高官高位に居らるゝは、全く祖先の餘澤にして、恐れ多きことと云ふべく、安心してはすまざる筈なり』と。

 人君(こゝでは藩主を云ふ)も萬民も均しくこれ人、と申す。つまり一君萬民だ。明治御一新の眞面目は、この一君萬民たる國體の明徴であつた。本稿では訥菴先生が鋭意藩主を説くものであるから、未だ討幕の主意を感じ取ることは出來ない。當時、時代はまだそこまで來てゐないのだ。されど訥菴先生の、かくの如く日本を熟知せる見識ありて、それはやがて時代の要求と共に後進に「討幕」の運動を釀成させることゝなる。


『然るにそれを何とも思はず、恬然として位に安んじ、我は貴き者ぞと自滿し、臣民を賤しめ輕んずるは、思はざるの至極と云ふべし。衆に超ゑたる才徳なくては、君位に居ても君位の實(せふみ)なく、唯其萬民に異なる所は、宮室衣冠の類なるのみ。そは外飾の附け物なれば、民に束帶衣冠をさせて、高堂大厦の上に坐せしめ、君に敝衣を穿たしめて、隴畝の間に立しむるも、誰れか其別を知ることを得ん。さすれば君と民との貴賤は、錦衣玉食、高堂大厦と敝衣糲飯の故にはあらで、才徳の有無に係れること、彰然として明白ならずや

 訥菴先生は繰り返し繰り返し、藩主を諭さんとする。暗昧昏愚の君は國(當時でいふ藩)の一大不幸であり、愈々ともなれば修正し難き大禍であるからだ。
 訥菴先生の生まれは文化十三年(西暦1816年)。廿歳で佐藤一齋の門に入りたることは既記した。つまり天保の時代だ。訥菴先生が廿歳のころは、江戸四大饑饉の一つ、「天保の大饑饉」が襲つた眞つ最中だ。將軍は徳川家齊。家齊の政策に就てはこゝでは省くが、失策失政の相次ぎたるころだ。如何に訥菴先生の憂ひが深かつたか、時代背景を無慮してはならない。


『さて凡庸不徳の君をも、臣民どもは尊崇して肅々として服事するは、是れ其君を慕ふには非ず。祖先の餘澤を感載して、離畔するには忍びぬ故なり。然るに君はそれを悟らず。我に才徳あればこそ、彼れ等は服從するよと思ひ、許多の臣民の其中には、才器徳量衆に秀でゝ賢者能者のあることをも知らず、傲然と自から高ぶりて妄りに臣民を虐使(つかひまはす)は、其愚、益々甚だしく天の譴罰を免るべからず。されども天の譴罰は、銖々寸寸に度(はか)ることなく、今日天職を忘却すれば、今日罰すと云ふほどに、嚴急苛察には非ざる者ゆゑ、人君兔角に油斷して、戒愼恐懼の心もなく、うかゝゝとして居らるゝは、萬民よりも不幸と云ふべし。萬民は賤しき者にて、今日耕稼の業に怠り、耒耜を捨てゝ手にせざれば、其産忽ちに衰へて、生活し難きのみならず、租税の逋負(みしん)に窮迫(ゆきつまり)て、郡守縣令より罪を獲るゆゑ、終歳それを憂ひ恐れて、雨をも風をも厭ふことなく、田畝に服して懈ることなし。是れ農民の家に生れて、稼穡の筋を知ざる者は、一人もなき所以なり。萬民の上に立て、君たる位に居りながら、治國の道を知ざる者は、農民の家に生れて、農事を知ざると同樣なれども、天より其罪を正さるゝは、唯今目前に來らざるゆゑ、多くは天職の重きことを思はず、天の明威を恐れずして、驕奢淫佚に流れ行くより、終には天に見離されて、祖先相承の社稷を失ひ、汚名を傳ふるにも至るののみ。豈恐れずして可ならんや。若し是れをしも恐れずんば、端章甫して大厦に坐するも、農民には劣れる人と云ふべし

 これも更らに戒めたるものだ。思ひ上り傲慢となり、人を使ひ囘す愚を説く。
 現代にも、亦た我れらの身近にも云へることなるべし。
 天の譴罰は必ずしも速やかなるものでない。氣付くも遲し、人や國の榮枯盛衰、その端緒は案外、小さな誤りから生じる。賢人、この不心得を過ちの小と認めて自省する能ふも、凡庸不徳の愚人にとつては決して小ならず、大なり。驕奢淫佚、増上慢は將さに毒藥と均しきなり。



 本日は早朝から、防共新聞社諸兄がこちらに襲撃に來るといふ。早起きして彼れらを迎へ撃たんと待ちつゝ、急ぎこの記事を書き上げた。粗略となつたが、御寛恕下されよ。
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by sousiu | 2013-02-15 06:31 | 先人顯彰