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贈從三位 賀茂眞淵大人 その十一。 『國意考』その九 

 先頃、懇意にさせていたゞいてゐる後藤健一兄より連絡あり。當日乘の感想にはじまり、いきおひ、復古神道や神佛習合に話題が進み、些かの意見交換を行なつた。過日は深夜にまで及び、「幸福実現党」に就て意見を交換した。
 後藤兄は彦根で「維新青年同盟」を主宰してゐる。兄も又た「尊皇」に就て常、考究する志ある一人だ。
 神道に對する考へ方に就て人それゞゝ異同がある。歴史の變遷を鑑みれば、それも又た已むを得ぬと考へる可きか。尤も、かうした議論が發展してこそ、隱れたるものが現はれる場合もあり、生まれるものもあり。兔角戰後日本人は、神道や國學に關して無關心に過ぎたことを猛省す可きであらう。たとへ占領期間に於ける事情があつたにせよ、だ。
 取り敢へず、色々な議論が出でくる可きは已むを得まい。江戸時代も然りであつた。國學に於ける、宣長論に批評を加へた橘守部翁など、頗る興味のそゝられるものがある。(守部翁とその思想は、別の機會に記すであらう)
 さりながら、自分勝手な、何ら根據を有し得ない尊皇論には困つたものだ。マスコミに登場する、如何にも 皇室尊崇を嘯く文化人や賣文屋の手合ひなど、ほとゝゝ困つた存在である。我れらは彼の如き「知らざるの罪」(尤も彼れらは確信犯かも知れぬが)をゆめ犯すことなきやう、そこで先人の學恩を慕ふのである。今日、破れ靴を捨つるが如く扱はれたる「國學」であるが、おほいに見直される時期であると思ふ。
 兔に角、後藤兄ほか陣營内では、行動することも大事だけれども尊皇の眞心を固めることも大事、と考へる人が増えて來たやうに思ふ。野生も又た、その一人であるし、これからもさうあらねばならない。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○是らは、古への歌の意(こゝろ)詞(ことば)を、あげつろふ(論ふ)まゝに、人はたゞ、歌の言とのみ思ふらむや。其いへるごとく、古への心詞なり。古の歌もて、古の心詞をしり、それを推(おし)て、古への世の有樣をしりて、より、おしさかのぼらしめて、神代のことをもおもふべし。さるを下れる世に、神世の常のことを、言(いふ)人多きが、そを聞(きけ)ば、萬にかまへて、心深く、神代のことを、目の前にみるがごとくいひて、且つばらに、人のこゝろの、おきて成さまに、と(執)りな(成)せり。いでや、然(しか)いふ人の、いかにして、さは甚(はなはだし)ぎや。さもこそ、ふ(古)りにしこと、よく知(しり)つらむとおもひて、それがかける物などを、見聞(みきゝ)ものするに、古へのことは、一つも知(しり)侍らざるなり。然るを、古への人の代をしらで、いとのきて(※遙るかに遠かりて、の意也)、神代のことをば、知べきものかは、こはかの唐國の文ども、すこし見て、それが下れる世に、宋てふ代ありていとゞせばき儒の道を、またゝゝ狹く、理りもて、いひつのれるを、うらや(羨)みて、ひそかに、こゝの神代のことに、うつ(移)したるものなりけり。さる故に、ふつに文みぬ人は、さもこそとおもふを、少しも、やまとの文、唐の文しれる人は、おも(思)ひそ(添)へたることを知て、笑(わらふ)ぞかし。そもゝゝ、かしこ(彼處)にも、いと上つ代には、何のことか有(あり)し。其後に人のつくりしことゞも(事ども)なれば、こゝにも、作り侍るべきことゝおもふにや。人の心もて、作れることは、違ふこと多(おほき)ぞかし。かしこに、ものしれる人の、作りしてふをみるに、天地の心に、かな(叶)はねば、其道、用ひ侍る世は、なかりしなり。よりて、老子てふ人の、天地のまにゝゝ、いはれしことこそ、天が下の道には叶ひ侍るめれ。そをみるに、かしこも、ただ古へは、直かりけり。こゝも、只なほかることは、右にいふ歌の心のごとし。古へは只詞も少く、ことも少し。こと少く、心直き時は、むつかしき教は、用なきことなり。教へねども、直ければこと(事)ゆく(行く)なり。それが中に、人の心は、さまゞゝなれば、わろ(惡)きこと有(ある)を、わろきわざ(業)も、直き心よりすれば、かく(隱)れず。かくれねば、大なることにいたらず。たゞ其一同の亂にて、やむのみ(止む而已)。よりて、古へとても、よき人のをしへ(教)なきにはあらねど、かろ(輕)く少しのことにて足(たり)ぬ。たゞ唐國は、心わろき國なれば、深く教てしも、おもて(表)はよ(善)き樣にて、終(つひ)に大なるわろごと(惡事)して、世をみだ(亂)せり。此國は、もとより、人の直き國にて、少しの教をも、よく守り侍るに、はた天地のまにまに、おこなふこと故に、をしへ(教)ずして宜きなり。さるを唐國の道き(來)たりて、人の心わろ(惡)くなり下れば、唐國にに(似)たるほどのをしへ(教)をいふといへど、さる教は、朝に聞て、夕は忘れゆくものなり。我國の、むかし(昔)のさま(樣)はしか(然)らず。只天地に隨(したがひ)て、すべらぎ(天皇)は日月なり。臣は星なり。おみ(臣)のほしとして、日月を守れば、今もみ(見)るごと、星の日月をおほ(被)ふことなし。されば天津日月星の、古へより傳ふる如く、此すべら(皇)日月も、後の星と、むかしより傳へてかはらず、世の中平らかに治れり。さるをやつこ(奴)の出(いで)て、すべらぎの、おとろ(衰)へ玉ふまにまに、傳へこ(來)し臣もおとろへり。此心をお(推)して、神代の卷を言(いふ)べし。そをおさ(治)むには、古の歌もて、古への心詞を知るが上に、はやう(早う)擧(あげ)たる文どもをよくみよ(見よ)かし』と。

 ところで昔の歌の詞などを彼れ此れ説明すると、歌などといふものは實際の生活に何ら供するところがない。歌を詠まずとも人の生活や社會は發展するのであるから、要するに歌の詞を究めるなどといふことは、單に歌の穿鑿に過ぎず、暇な人がやれば宜い、とこのやうに歌を輕視する人が少なくない。
 だがそれは間違ひである。
 昔の歌を學んでみると、昔の人の心持ちや生活態度、有樣が自づと明らかになつてくる。曾て我れらの先祖がどのやうに日々を暮らしてゐたか、どのやうな國であつたのかを知ることは無益ではなく、寧ろ大切なことなのである。
 さうなると、古への日本は如何に素晴しかつたのか、如何に尊貴に滿ちてゐたか解るやうになるのである。更らにそれ以前に遡つてみれば、神代の有樣も、大體かういふものであつたらう、と解つてくるのである。我れらが國體は、神代から既に始まつてをり、この根本から能く知らねば、今日、國の將來を迷はず誤たず、どの樣に發展させていけば宜いのか、その方針も立たぬ譯である。よつて古への歌を學ぶことも、今日、歌を詠ずることも國の爲めにも將來の爲めにも大事なことなのである。
 近頃、神代の研究をしたやうに吹聽する人もあるが、さういふ人の著書をみると、まるで眼前に見てきたかのやうに説明する人がある。そしてそれら研究の成果として、あれこれ世の中に役に立つよう教へを申してをる。その議論が餘りにも詳細であるから、讀んだ人は、どうもこれは立派な人だ、凄い本だ、と思つてしまふ。なるほど、一讀すれば確かに精しく記されてゐる。併しながら後世の考へで古へを推し量つたものが多く、本當の古への世の有樣といふものは一つも知らないやうである。今より千年二千年を知らぬのに、それよりも遙るかに遠い神代の事など解る筈がない。要するにさういふ研究家は、支那の本ばかりを讀んで、支那人の研究の仕方を以て應用し、日本の古へや神代のことを論じてゐるのだ。
 抑も支那では、昔から物事を研究するに理論を以てした。後に宋の時代となつて、程子などが出で、何でも理窟を付けて説明するやうになつたので、元々狹い儒教の道が一層狹いものとなつて、孔子の云つたことでも、孟子の云つたことでも、理窟を以て説明し、却つてその本當の意味が遠ざかつてしまつたのである。かうした考へ方を日本でも羨んで、理窟好きになつてしまつたのは寔に愚ろかなことである。この手法を以て我れらが神代はかうであつた、かういふ教へだ、と一々説明を試みるのは、全く支那にかぶれた者のすることなのだ。
 日本の神代は決してさういふものなのではない。あまり學問をしない人らが、理窟張つたかうした書を讀むと、これは實に研究が深い、なるほど斯う解釋して教訓とするのかと勘違ひして持て囃すが、少しなりとも本當に日本の古へを研究したり、一通り支那の事を調べた人であるならば、全く日本と支那の、所謂る國民性が異なることが解る。その異なる支那の研究の態度を以て、我が神代を究明せむといふのは、全く見當違ひとして笑ふほかはないのである。
 抑も、支那の昔に聖賢の道があつたと云ふけれども、その又た以前には、何があつたのであらうか。
 たとひ理窟好きの支那であつても、昔は極めて簡單素朴であつて、制度や文物も煩はしくなかつたに違ひない。後々になつて色々の理窟を發明し、これを解釋する人らが出て、説明する人も出たのである。だが、得てして人間の心が勝手に作つた道や考へ方など、間違つてゐることがあり、寧ろ多い場合があることは世の中の有樣をみれば能く解るのである。支那は物知りが多くなつて理窟上手となつたけれども、それは天地自然の道などではないから、たゞ空理空論を弄ぶだけで、實際の應用と云ふものは殆ど出來ない状態ではないか。
 支那の昔には老子(所謂る「道教」を創立させた人物として知られる)といふ人があつたが、この老子は、天地自然の道に戻らなければならぬ、といふやうなことを云つてゐる。これが却つて本當に人間の生活にはよく一致してゐるのだ。老子の云ふ通り、昔は眞つ直ぐな人間だけであつたが段々凡ての事が煩はしくなつた爲めに人間同士が欺き合ふやうになつた。老子のこの思想を考へると、支那も古への人間は眞つ直ぐであつた筈なのだ。
 日本も人々が御互ひに信じ合つて眞つ直ぐであつた古き宜き時代があつて、之は前きに云つた通り、當時の人々の詠んだ歌の心に存してゐる。古へは詞も少なく、事も少なかつた。事も少なく、人々の心が眞つ直ぐであれば小難しい教へなんか要らない。抑も人の心が眞つ直ぐでさへあれば、教へなんか無くても何事もすらゝゝ上手に運ばれて行くのである。勿論、人の心はみな同じではないので惡い事をしてしまふ人もゐる。だがもし惡い事をしても惡い業を働いてしまつても、心は眞つ直ぐであるから、現在のやうに一々正當化したり隱蔽するやうなことも無かつた。隱蔽しないのであるから、直き心を持つ人々の中では、他の者らに諭され互ひに戒めるので、大事にはならない。それ故に萬が一、國が亂れることがあつても、極く短い間の亂れで濟み、後世のやうに亂が擴大されたり、長期間に亙るといふやうなことは無かつたのである。
 無論、昔にも立派な人もあつて、人を教へ導くこともあつたけれども、たとひ大勢の人を導くにせよ、人々が直き心であつたので極く簡單な教へで足りたのである。だが支那は元來(素朴であつたにせよ)心の惡い人が多い國であるから、その惡い心を正しくするにはチョットやソツとの簡單な教へでは到底效果が上がらない。それだから、一々深くまで道理や理窟を以て教へねばならず、支那の聖賢の教へは複雜化したのである。その教へが大變に貴いと支那人は云ふけれども、逆言すれば、それだけ支那人は心がネヂケてゐるといふ證據に他ならぬ。支那の聖賢の書物は表面の文字だけ見れば立派だが、事實に於て世が亂れてゐるばかりであることは、前にも述べた通りである。
 大體、日本は、心の直き人が多い國であるから、少しの教へでも能く守るのである。然もその言動も、天地自然の道に能く一致してゐるので、教へずとも、大凡大丈夫なのである。然るに支那から儒教が來て、人の心が徐々に惡しくなつてしまつた。それをば知らず支那が教へや道の本などと云ふ者がをるけれども、さう云つてゐる本人すら多くが朝に聞いて夕に忘れてゐる。たゞ理窟を弄ぶことが好きなだけなのだ。
 昔の日本人はこんな風では無かつた。天地自然の道に隨つて、天皇は日月なり、臣下は星なり、と素直に考へた。その星が日月を守り、天地の全てが支障なく常に順行する如く、我れら臣下も星であり、日月を仰ぎ奉るところの君を翼贊して、天皇の思召しに從ひ萬事は順行すると考へ、而、順行したのである。星の方が多いからと云つて日月を輕んじたり、或は星が勢力を得て日月を導かむと考へたりすることが無いやうに、臣下が 天皇の御威光を遮るといふやうなことは昔には決してあり得なかつたのである。天地自然の道は素晴しく、之を忘れなければ、日月と星の關係が千萬年を經ても一向變はらないことゝ同樣に、君臣の關係も少しも變はることない。天皇と臣下の間が斯くの如くであるから、これに從うて臣として 君を冒すとか、下から上へ凌がうとするといふやうな企ても發生することなく、總じて世の中は圓滿にして平らけく、國も治まるものなのである。
 嗚呼、支那の教へが傳達され、この教へに擒となる輩も多くなり、君臣の心持ちが崩れつゝある。臣下の分を辨へぬ者らが出で、これに付き從ふ家來も又た、それを知らず識らず學んでしまひ自分の主へ宜からぬ心持ちを抱く。これが延々と續き、擴がり、結局は支那のやうに力や理窟がモノを云ふ世の中となつてしまふ。要するに支那風の複雜な生活樣式や思考を傳來させたことが根本的な誤りだつたのである。それであるから曾ての直き心を持つた眞の日本人に戻らうといふ考へで、神代のことを研究するのである。その爲めには、昔の歌を以て昔の詞をしり、これを頼りに昔の慣はしや價値觀を知らねばならないのである。
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by sousiu | 2013-03-31 14:48 | 先哲寶文

三條の會々報 

 本日は、木川智君と週刊「新潮」の酒井編輯長竝びに同編輯部の林さんと食事會を行なつた。

 酒井さんとのお付き合ひは古く。確か初めての出會ひは、野生の幼馴染みを通じてのものであり、その時酒井さんはまだ「週刊新潮」では無かつたと記憶してゐる。今日は久々にお會ひし、四人で互ひに忌憚なき意見交換などを行なつた。

 一方、木川君とはよく會ふ。尤も、彼れも時對協に參加してをり、最年少の副議長だ。必然と會ふことも多い。加へて「歌道講座」の同窓であり、「するめいか結社」の同志でもある。目下殘念ながら「するめ社」(略稱。「進め社」ではない)は活動休止中であるが。

 さうさう。木川君とは、野生もその一員となつてゐる「三條の會」の同友でもある。
 今度び、木川選手から、『三條の會』會報が屆いたので、御紹介しておかねばなるまい。

 『三條の會』とは、
○「三條の會」創刊號(平成廿五年四月一日「三條の會」發行、編輯人・落葉松屋主人 木川智兄)所收
平成二十四年三月二十四日、高山彦九郎翁の事蹟を顯彰し、現代に繼承することを目的として、「三條の會」が結成されました。
 同日から、當會々員は、高山彦九郎翁が京都三條大橋にて御所を拜した古傳をもとに、皇居前にて、或いは自室などから、皇居に向かひ、下座・遙拜を行つてをります。
 その他、福岡縣久留米市にある高山彦九郎翁の奥津城の墓參や高山彦九郎翁の殘した日記の收集・管理なども行つてをります

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 「三條の會」に就ては、野生の兄事する、備中處士樣からも過分の御紹介を賜はつてゐる。↓↓↓
                            http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1537


 この會報は、木川君が一人で刊行したといふ。
 もういつの間にか若手の時代がすぐそこまで來てゐる。となれば、野生の如き中年隊は、彼れら若手の力を信じて出しやばる可きではないのかもしれない。
 閉戸處士も、到頭、晝夜問はず雨戸まで閉めるときが近付きつゝある。


 三條の會に就てのお問ひ合せは、→→  satoshi.kikawa@live.jp
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by sousiu | 2013-03-30 23:51 | 報告

贈從三位 賀茂眞淵大人 その十。 『國意考』その八 

 昨日は、阿形先生の事務所で御高話を拜聽する。
 氣付けばアツといふ間に、深夜0時を廻つて、即はち今日になつてゐた。
 現在の情勢、阿形先生流の人生論等々を拜聽。何でも勉強だ。阿形先生も日頃から、生涯勉強だ、と口にしてをられる。

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承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○かく語を主として、字を奴(やつこ)としたれば、心にまかせて、字をばつか(使)ひしを、後には語の主、はふれ(放れ)失(うせ)て、字の奴の爲(なり)かは(變)れるがごとし。是又かの國の奴が、みかど(帝)ゝ(と)なれる、わろくせ(惡癖)のうつり(移り)たるなれば。いまはしゝゝゝゝ(忌はし忌はし)。こをおもひわかで(思ひ分かで)、字は尊きものとのみおもふは、言(いふ)にもた(足)らず。或人猶いふ、夷はさは行ふなるを、たゞ唐ぞ風雅なれば、しかる(然る)と。おのれ天をあふぎて(仰ぎて)笑ふ。其風雅てふは、世の中のごと、物の理りにつの(募)れば、人の亂るるを、理りの上にて、理りにかゝはらず。天地のよろづの物に、文をなすがごとく、おのづから、心を治めなぐさましむるものぞかし』と。

 日本では昔から言葉と云ふものを大事にしてきたので、たとひ文字を用ひるにせよ、字は單なる言葉を表はすものであるから、言葉の方が主で、文字は召使ひのやうなものなのである。字を使つて言葉を表はすのであるから、字を主としてはならないのである。このやうな考へに基くと、心に任せて字を使ふことが出來るので、寔に能く用が足りたのである。
 ところが後になると、言葉が主とはならず、文字が主となつてしまひ、字を多く知ればそれで宜しいといふ風潮が瀰漫し、チヨツトしたことでも、それは如何云ふ字を書くのか、と、直ぐに字を穿鑿するといふことになつてしまつたのである。これは主客顛倒である。
 支那では萬事この如くで、主人と召使ひの地位は顛倒し、或は王の勢力が減退すると、臣が王となる。恰度、文字の關係が顛倒したのと同じことだ。この支那の惡風が日本にも移つてしまつた。まつたく忌はしいことだ。かういふことも考へず、多くの人は字の方が貴いと思つて、字を澤山知つてをる人をみてはその人を隨分世の中の役に立つと尊敬してゐる。可笑しなことだ。
 これに對して漢學を尊敬する人がいふには、未開の人どもは、日常の用が足りればそれで宜いわけであるから、そのやうな考へであらうけれども、人間は毎日の用を足しさへすればそれで宜いわけではない。文字を色々使ひ分け、或は文とし、詩とし、天地の樣々な物の姿を巧に云ひ表はすことも大事であり、あおれを風雅と云ふのである。支那の人は非常に風雅だ。支那の人は樣々な文字を使ひこなし文を綴り詩を詠ずる。この風雅な生活と云ふものは支那の特色であつて、日本でも之を手本とす可きである、と。
 眞淵大人は天を仰いで笑つた。
 風雅と云ふのであれば、日本の方が餘程に上であり、彼の國を羨むことはない。何故なら道義を重んずるなどと云つては理窟ばかり捏ねてゐると、風雅などといふものから遠くなるばかりであるから。何でも理窟に合ひさへすればそれで宜しいといふことは、寔に殺風景なもので、美しいものを純粹素朴に美しいと感ずる心を害なつてしまふだけなのである。御互ひ何かと理窟を付けて自己主張しようとすると、やがて、理窟さへ合へば、どんな事でも押付けられるといふ考へに至り、結局、人間の情誼は希薄に考へられて世が亂れるのである。それであるから人間の作つた道理などに拘泥せずして、元來日本人が古くから重んじてをつた天地自然の理り[文(あや)をなす]に萬事心をまかせ、御互ひに仲睦じく暮らしてゆけば宜いのである。


●仝、曰く、
○且(かつ)かしこ(彼處)にも、古しへは繩を結びしとか。其後は木草鳥獸など、萬のかたを字とせしならずや。天竺の五十字も、もとは物のかたちか。何にもせよ、字はやゝ俗にして、風雅なることあるべきや。其後まろき(圓き)も、四方に書(かき)なしなどせしを、それにつけて、又筆法などいふよ。笑にたへぬわざなり。いかで、此字のうせば、おのづからなる字を、天よりえ(得)て、國も治り、此爭ひや(止)みぬべし』と。

 且つ支那でも、昔は繩を結んで記録、約束や契約などを交はしたと傳へられてゐる(參考→http://www.ac.auone-net.jp/~j-cka/rekishi.htm)。それから後に至つて木や草や鳥や獸などの姿形を參考にして文字としたのである。從つて文字は後に出來たもので、字が無ければ人間は生活出來ない譯ではなかつたのである。天竺の五十字も、一番初めは物の姿形を眞似て作つたものなのかも知れない。
 いづれにせよ、文字といふものが出來て、多くの人がその文字に執着するといふことは、萬事が俗とならざるはなく、風雅などといふことゝは遠くなるばかりである。風雅といふものは人間の心と天地間の森羅萬象とが一致し、その上で全てのものゝ姿形を靜かに味はふといふこと以外にないのである。支那のやうに字が次々と澤山出て來て、それを記憶し使ひこなすことを風雅といふのではない。やがて字、そのものが段々發達したものであるから、後になつてみると丸い物を表はす場合も四角張り、當初文字を作つたころとは隨分變はつて來た。更らに後になると筆法などといふやうなことを云ひ出して、書家などといふ專門の者が出現し、やがて字そのものゝ研究が主となつてしまつた。これは寔に笑ふに堪へないことではないか。
 人間と人間の意思の傳達は誠心に於て重要視されるべきであるのに、詞よりも字句、誠心よりも理窟となつてしまへば、人の世は徒らに複雜となるのみである。若しも支那の面倒で複雜怪奇な文字が無くなれば、自然に出來た簡單な字が役に立ち、人は意思傳達を巧妙にしようとするでなく純朴を取り戻し、結果、國もまことによく治まり、人の無駄な爭ひも無くなつてゆくであらう。



 こゝ二、三日、拔き書きと説明文だけとなつてゐる。
 も少し、具體例や他の引用を掲げながら説明す可きであらうが、調べるだけの時間が足りない。否、勉強不足と云はんか、理解不足と云はんか、兔に角最も足りないのは能力・・・・だ。ま、あまり理窟を捏ねず、背伸びせず、自然のまにまに記してゆくだけだ。
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by sousiu | 2013-03-30 03:04 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その九。 『國意考』その七 

 最近、道教に就ても些か關心がある。
 一昨日の夜から、日本道教學會關係者達による『道教 第一卷 道教とは何か』を讀み始めた。
これからは少し集中して、道教關連の本を重點的に讀んでゆく積もりである。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
又云、然れども、此國に文字なし。唐國字を用て、萬つそれにて知るべしと。答、まづ唐國のわづらはしく、あしき世の治らぬは、いはんかたもさらなり。こまかなることをいはゞ、繪のごとくの文字成けり。今按■■(※不明)てふ人の、用ある字のみを擧といへるを見れば、三萬八千とやらむ侍り。譬へば、花の一にも咲散蘂樹莖其外十まり(餘り)の字なくてはた(足)らず。またこゝの國所の名、何の草木の名などいひて、別に一の字ありて、外に用ぬも有、かく多(おほく)の字を、夫(それ)をつとむる人すら、皆覺ゆるかは、或は誤り、或は代々に轉々して、其約(つゞまやか)にかゝれるも、益なくわづらはし、然るを天竺にば、五十字もて、五千餘卷の佛の語を書傳へたり。たゞ五十の字をだにしれば、古しへ今と限りなき詞もしられ、傳へられ侍るをや。字のみかは、五十の聲は天地の聲にて侍れば、其内にはら(孕)まるゝものゝ、おのづからのことにして侍り、其ごとく 皇御國も、いかなる字樣かはありつらんを、か(彼)のから(唐)の字を傳へてより、あやまりて、かれにおほはれて、今はむかしの詞のみのこれり。其詞はまた天竺の五十音の通ふことなどは、又同じ理りにて、右にいふ花をば、さく、ちる、つぼむ、うつろふ、しべ、くき、などいへば、字をもか(借)らで、よしもあしも、やすくいはれて、わづらひなし。おらんだ(和蘭)には、二十五字とか、此國には五十字とか、大かた字の樣も、四方の國同じきを、たゞから(唐)のみ、わづらはしきことをつくりて、代もをさまらず(治まらず)、ことも不便なり。さて唐の字は、用たるやうなれど、古へはたゞ字の音をのみか(借)りて、こゝの詞の目じるしのみなり。其の暫後(しばらくのち)には、字のこゝろをも交へて用(もちひ)たれど、猶(なほ)訓(くん)をのみ專ら用て、意にはかゝは(係)らざりしなり。【萬葉初卷軍王作歌返歌 山越乃(ヤマゴシノ)風乎時自見(カゼヲトキジミ)寢夜不落(ヌルヨオチズ)家在妹乎(イヘナルイモヲ)懸而小竹櫃(カケテシヌビツ)凡四千の歌のうち擧るに堪んやは、見て知べし。今安くおもひ出るをあげりこ、は訓音を專ら用ひたるなり、】』と。

 又た、漢學を主張する人が云ふには、本來、日本には文字がなく、たゞ言葉があつたのみであつた。そのやうな折、支那から文字が輸入されて、いつまでも言葉を後世に遺せるやうになつたのである。さうしてみれば、支那から文字が傳はつたといふことは、非常に感謝せねばならないことなのである。と。
 これに對して大人の答へるに。支那は全く煩はしい國であつて、世の中がいつも能く治まらない。その要因を述べれば色々あるだらうけれども、細かいことを云へば、文字があまりに多過ぎることも影響してゐるのである。支那の文字といふものは繪のやうな文字であつて、山といへば山のやうな形を寫し、川といへば川のやうな形に表はす譯であるが、天地の間の出來事といふものは數限りなくあるのだから、これを一々繪のやうにして表はせるとなると必然的に文字の數は多くなるのである。
 一體、支那にどれほど文字があるかと云へば、その數は非常に多い。その中で日常に使用してゐる文字を擧げてみれば、それだけで三萬八千もあると云はれてゐる。たとへば花に關係する文字だけでも、咲くとか散るとか、蘂とか樹とか莖などあり、その他十以上も無ければ花を文字に表はすといふことが出來ないのである。
 又たその他に、國の名や所の名、草や木などの名にも別々の文字があつて、一々それに相應した文字を用ひねばその草なり木なりを傳へることが出來ない。その他の物にも態々その物の姿を形容して別々の一字を當てがふので、文字を專門に研究する人でも、これらを殘らず覺えることは出來ず、隨分間違つてしまふことも多い。然も同じ文字でも時代に依つて解釋が變はつてしまふものもあるのだから、一般人には到底理解出來ず、實際の人間が生活する上では役に立たない骨折りばかりでたゞ煩はしいだけなのである。
 これは支那獨特のことである。印度では、文字の數は五十であつて、この五十を色々組み合せることによつて五千餘卷の經典を書き今日まで傳へられてゐるのだ。それであるから印度では、すべての智識を得る道が大變簡單であり、五十の字さへ知つてゐれば、古今に亙る限りなき文章も皆が解讀出來るのである。
 成る程、天地の凡ゆる聲を分類してみると五十音といふものになるのであるから、この五十音を一々文字に表はせて組み合せることによつて全てのことを傳へることは出來る筈である。
 皇國にも古へには、如何樣ものであつたかは解らぬが、兔も角文字があつたに相違ない。啻に言葉だけで全ての用が足りたとは思へない。支那と交通を開かぬ以前に於て、皇國は隨分能く國も治まり、整頓されてゐたことを考へれば、必ず文字はあつたに違ひない。
 しかし、支那との交通が頻繁となり、彼の文字が輸入せられて、その文字が便利だと誤解し、愛用してしまふやうに至り。而、到頭それまでの古から愛用せられてゐた文字といふものは傳はらなくなり、たゞ昔の言葉だけが遺り、それを支那の文字で表はすやうになつたのである。
 本來我れらの言葉は、印度の五十字といふものと、大體同じである。例へば先にも云つた花に關係するものでも、「さく」とか「ちる」とか「つぼむ」「うつろふ」「しべ」「くき」などといふことも、皆、五十音の中の組み合せで傳へることが出來るのである。それを態々支那から傳はつたやうな畫の多い、難しい字で表さないでも宜かつたのである。善いにしろ惡いにしろ、凡そ日常生活の事柄は、皆容易に云ひ表はすことが出來るので、畫を色々書き分けるといふやうな煩はしいことは少しも必要ではないのである。
 猶ほ、和蘭では、廿五字で事が足りるさうだ。この廿五文字で日常の言葉をみな表はすことが出來るといふ。これは五十字よりは尚ほ簡單であるが、併し五十字にしたところで、何萬に比べれば簡單である。文字が少ないから國が發展しないなどといふ譯などなく、以上に擧げた國々もそれぞれ開けてゐる。然るに支那では大變に文字の數が多く、その文字の穿鑿ばかりしてをり、畢竟世の中が徒らに複雜になつて、實用ならぬ穿鑿研究ばかり多くせねばならず、不便といふほかない。
 また日本で漢字を使ふのも、今では色々とその字の意味を穿鑿することになつたけれども、昔は漢字の音を借りて言葉の目印としただけである。後にそれぞれの字には意義があるといふやうなことを云ひ出して、その研究が盛んになり、何萬といふ文字を使ひ分けることになつたのだ。然るに日本でも後になつて、文字の穿鑿が始まり、支那同樣、煩はしうなつたのであるが、これは彼の國の弊害を承け繼いだものと見做さねばならぬ。



 ・・・・といふことだ。
 いやあ、備中處士樣仰せのとほり。勉強になつてをります。・・・大變になつてきたけれども。汗。
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by sousiu | 2013-03-28 23:11 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その八。 『國意考』その六 

 又たしても心配になつてきたことが一つある。
 「一艸獨語」なぞ、實は誰れも讀んでくれてゐないのではないか、といふことだ。有難いことに來訪者數は減つてはゐないが、コメントが無いといふことが大きな不安の材料だ(催促ぢやないよ)。誰れも相手にしてくれてゐないのではないか疑ひを禁じ得ない。
 そんな折、又たしても昨日(昨日も、といふこと)例の學生から着信あり。「今日のブログ見ましたよ」と。いやあ、はゝゝ・・・。彼れは氣遣ひの出來る好青年だ。嘘でも元氣付けられるといふものだ
 而して彼れの電話の用件は、「國歌八論」に就て。・・・・汗。矢繼ぎ早やに彼れの持論が始まつた。在滿先生に就ても今後研究するといふ。どうやら野生に對する氣遣ひではなかつたやうだ。
 彼れは未だ廿一だか二の年齡だ。野生は如何にか現在辛うじて社會生活を營んでゐるが、彼れ今にしてコレでは野生の年のころ、刑務所生活か、さなくば病院生活ではあるまいかと、ちと心配だ。少なくとも、現在の野生以上に友達不足に陷ることは、火を見るよりも明らかだ。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○天が下の人をまつりごつ(政つ)に、から(唐)のこと知(しり)しとて、時にのぞみて、人のよくことわ(理)らるゝものにあらず。さるかたに、かしこう(賢う)、げ(實)にとおぼゆること、いひいづるひとの、おのづから出來るぞかし。たとへば、くすし(藥師)の、よく唐文よみ知たるが、病をいやすことは、大かた少きものにて、此國におのづから傳りて、何のよし(由)、何のことわりともなき藥こそ、かならず、病はいやし侍れ。ただみづから、其事に、心を盡しえたるものこそよ(善)けれ。物になづまぬよりなり。一たび成よしとおもへることに、引よらせまほしく、儒學生は、中々まつりごち得ぬは、唐國にも、さるものにゆだねて、をさまらざりし世もおほかりけり』と。

 人を纏め、治めるといふことは理窟だけでは上手にゆくものではない。況んや政治に於てをや。
 支那のことだけを研究して、聖人の言や賢人の教へを能く解釋出來たとて、いざそれを政治に於て實行しても實際には中々人を纏め治める能はざるものなのである。
 例へば、醫者はよく支那から傳はつた本を好んで讀むが、たとひ如何程讀んでみても、それは學者にはなれるかもしれないが、その本を讀んで實際に大勢の人の病ひを治癒させるとなると六ケ敷いものなのである。
 日本でも病ひを治す方法が昔から傳はつてゐる。支那のやうに、どういふやうな學理によるものか、理窟によるものかなどは知らなくても、皆、實際の經驗を積み、樣々な病人と接し、その病氣にあふ藥や治療を發見して治してきてゐるのである。理窟を能く知つてはいるが大勢の病人を治せぬ學者より、理窟などはあまり知らなくとも病ひを治せる人の方が、良い醫者といふことが出來るのである。つまり、その目的に心を盡くし得たる者が貴いのだ。
 尤も、理窟を覺えるといふことは決していけないことではない。
 然し之に泥むといふことのないやうにしなければいけない。
 世の中といふものは、さう理窟ばかりで上手く行くものではない。
 これは支那の政治も然りであつて、世間では立派な儒者だ學者だと評された者がいざ政治を執つてみても、實際成績を擧げ得られたかといふと、必ずしもそのやうな世ばかりでは無かつたのである。



●仝、曰く、
○或人の云、むかし此國には、やから(族)うから(親族)を妻として、鳥け物(鳥獸)と同じかりしを、唐國の道わたりて、さることも心し侍るがごとく、萬儒によりてよくなりぬと。おのれ是を聞て、大に笑へるを、かたへ(傍)の人云、唐には同じ姓をめとらずてふ定はありつるを、おのが母を姧(左上「女」+左下「女」+干=おか)せしことも侍りしからば、只さる定のありしのみにて、いかばかりのわろことのありけむ。さることをみ(見)ぬや。同姓めとらずば、よからむといひしのみと聞ゆるを、世こぞりて、しかありとおもふはいかゞ。おろかなるこゝろにや、またさることをば、隱していふにや。すべら御國のいにしへは、母の同じき筋を、誠の兄弟とし侍り。母しかは(變)れば、きら(嫌)はぬなり。物はところにつけたる定こそよけれ。さる儀には、年々にさかえたまふを、儒のわたりて、漸(やゝ)に亂れ行て、終にかくなれること、上に云如し。如何(いかに)同姓めとらずなど、教のこまかなることよしとて、代々に位を人に奪はれ、かのいやしめる、四方の國々に、とらるゝやうのことは如何。天が下は、こまかなる理りにて、治らぬことを、いまたおもひしらぬおろかなるこゝろに、聞を崇むてふ耳を心とせしよ。いふにもたらぬことなり』と。

 また儒教を重んずる人の云ふには、日本に儒教が傳はつて、一般の風儀が良くなつた實例があると云ふ。
 例へば日本では以前に、自分の姉や妹を妻とした例が歴史上にも散見され、昔の歌などにも詠み交はしたものがある。これは鳥獸と同じ類ひのものである。然るに儒教が輸入されて、兄弟どころか、同姓相娶らず、これは忌むべきことゝしてこの野蠻な風も改まつたのである、と。私はこれを聞いて大いに笑つたところ、側にゐた人が云ふに。支那では同姓娶らずといふやうな定めがあるが、事實はどうか。肉親と密通したといふことまであるではないか。それは啻に定めこそありけれ、實際ではどのやうな間違ひがあるものだか解つたものではない。要するに支那の理窟を有難がるあまり、支那ではそのやうな事は行なはれてゐないと誤解してゐるのだらう。しかし支那では、彼の國の聖人の教へと違ふやうなことが實際に於て行なはれてをる樣子ではないか。たゞ書物の上に現はれた通りのことが事實であると思ふのは、寔に淺はかなことである。しからばその書物も、事實を隱して良いことばかりを傳へてゐると云へるのである、と。
 皇御國の古へでは、儒教の輸入される以前に於て、兄弟同志が夫婦になつたと云つたけれども、それは、母親の同じ者、つまり、同じ母親から生まれた者を本當の兄弟としてゐたのである。であるから母が異なれば、たとひ兄弟であつても夫婦になつて構はないといふ慣はしであつた。鳥獸のやうに親子も兄弟も全く區別が立たぬなどといふ野蠻なものは 皇國には無かつたのである。
 風俗、習慣といふものは、その國の古から傳はつてきてゐるものが實に能く合つてゐるもので、何でも他の國を羨んで眞似れば良いといふものではない。
 現に儒教など傳はらなかつた時代に於て 皇御國は年々國が隆え、皇室も寔に御繁昌であつたし、民もまた素直であつた。こゝに儒教が渡つて段々と世が亂れ、臣下として私を圖つて欲を貪り、遂に君を凌がむとする者も多くなつたことは前にも申した通りである。
 「同姓娶らず」などといふ、細かい理窟などを教へに巧みなりとて、君主が位を臣下に簒奪されたり、これまで卑しめてゐた未開人に國を奪はれて王とするやうでは、聖人の國であると誇つてみても、それは全く如何がなものなのであらうか。
 天下は細かなる理窟を用ひるだけでは治まらぬといふこと解せず、啻に聖人の書物を有難がり、これを實踐すれば宜しと思ふのは、恰も耳に聞いたことを尊んで、目に見ることを卑しむ、つまり遠くの國のことを聞いて尊び、自國の目前にある實際のことを蔑むといふ愚かな考へ方である。



●仝、曰く、
○又人を鳥獸にことなりといふは、人の方にて、我ぼめ(賞め)にいひて、外をあなどるものにて、また唐人のくせなり。四方の國をえびすといやしめて、其言の通らぬがごとし。凡天地の際に生とし生るものは、みな虫ならずや。それが中に、人のみいか(如何)で貴く、人のみいかむことあるにや。唐人にては、萬物の靈とかいひて、いと人を貴めるを、おのれがおもふに、人は萬物のあしきものとかいふべき。いかにとなれば、天地日月のかはらぬまゝに、鳥も獸も魚も草木も、古のごとくならざるはなし。是なまじひ(憖)にしるてふことのありて、おのが用ひ侍るより、たがひの間に、さまゝゞのあしき心の出來て、終に世をもみだ(亂)しぬ。又治れぬがうちにも、かたみ(片見)にあざむ(欺)きをなすぞかし。もし天が下に、一人二人物しることあらむ時は、よきことあるべきを、人皆智あれば、いかなることもあひうち(相打)となりて、終に用なきなり。今鳥獸の目よりは、人こそわろけれ、かれに似ることなかれと、をしへぬべきものなり。されば人のもとをいはゞ、兄弟より別けむ。然るを別に定をするは、天地にそむけるものなり。みよゝゝ、さることをおかすものゝおほきを

 又た支那の教へとして、人は鳥や獸とは異なると云ひ、人を萬物の靈長といふ。
 だがこれは人の側からみたもので、己れを譽め、他を卑しめる見方である。このやうな尊大な考へ方が支那人の惡い癖なのであつて、これが愈々増大すると、四方の國々を夷狄などと云つて侮蔑したりするものである。しかし結局、さういつたことも通用せずに、そのこれまで賤しめてゐた夷狄に國を乘つ取られた途端、王と崇めてしまふ。
 この天地のはざまに生きてゐるものは、みな貴く、人のみが尊貴な存在であるといふことはないのである。
 支那の人は、人間を萬物の靈長とか云うて自ら誇つてゐるけれども、自分が思ふには人間は最も惡いものになつてゐる。
 何故かと云へば、古へから日月が變はらず巡つてゐると同じやうに、鳥も獸も魚も草も木も、古へから變はらずそれぞれ他を干渉することなく榮えてゐる。さうしてお互ひ助けあつて生きてゐるのだ。人間の作つてゐる社會のやうに時として大いに亂れてしまふやうなことはない。人間はなまじ知惠があるから、自分本位となり、他を干渉し、知惠の無い者を虐げ、結果、世の中が上手く治まつても、また同じやうな者が現れて、お互ひで助け合ふでなく、お互ひで欺きあつてゐるのだ。能く物事を知つてゐる者が一人や二人であれば宜い結果となつて世が治まるべきものを、皆が知惠を得れば忽ち害し合ひ、欺き合ふことゝなる。さう考へると知惠や理窟などといふものは賢くなると思はれがちだが、結局は世の中を治める用を爲してはゐないではないか。
鳥獸の目から見れば、人こそ惡いものである。おそらく鳥や獸は、人などに似ないやうにと自分達の子供に教へてゐるであらう。
 支那人は、國を興すとか奪ふとか、天下を經營するとか考へるものであるが、人間は元來兄弟より別れてゐるのである。そのお互ひの親しみが本になつて家を營み國を治めることが出來る筈である。その事をよく考へず別にして、理窟やら聖人の教へやらを頼り家を營み國家を治めむとするは、それこそ天地自然の道に叛いてゐると云はざるを得ない。みよ、このやうな者が多いが爲めに、支那の歴史は平和が長續きしてゐないではないか。

 といふやうなことである。


 これで、「國意考」も漸く三分の一、汗。まるで持久戰だ。
 やはり全文の記載は、少々、いや、隨分無謀な試みであつたのかも・・・。
 もつこすゞきだ君のブログの説明を眞似すれば、「閑人の、閑人による、閑人のための一艸獨語」といふものである。
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by sousiu | 2013-03-26 16:35 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その七。 『國意考』その五 

 承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○凡(およそ)世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出來るがごとく、こゝも自ら、神代の道のひろごりて、おのづから、國につけたる道のさかえは、 皇いよゝゝさかへまさんものを。かへすゝゝゝ、儒の道こそ、其國をみだすのみ、こゝをさへかくなし侍りぬ。然るをよく、物の心をもしらず。おもてにつき、たゞかの道をのみ貴み、天が下治るわざとおもふは、まだしきことなり』と。

 この一項は、廿二日冒頭に記載した清原博士の文章に分明だ(赤字)。


●仝、曰く、
○さて歌は、人の心をいふものにて、いはでも有ぬべく、世のために用なきに似たれど、是をよくしるときは、治りみだれんよしをも、おのづから知べきなり。孔子てふ人も、詩を捨ずして、卷の上に出せしとか。さすがにさる心なるべし。凡物は理にきとかゝることは、いはゞ死たるがごとし。天地とともに、おこなはるゝ、おのづからの事こそ、生てはたらく物なれ。萬のことをも、ひとわたり知を、あし(惡し)とにはあらねど、やゝもすれば、それにかたよるは、人の心のくせなり。知てすつるこそよけれ。たゞ歌は、たとひ惡きよこしまなるねぎこと(祈事)をいへど、中々心みだれぬものにて、やはらいで、よろづにわたるものなり。
                歌のいさほしはすでにいへり
』と。

 さて。歌などといふものは、自分の心に思うたことを詠むものであるから、心に誠がある人ならば、詠まずとも宜く、國の爲め世の爲めには無用に似たり、といふ人がある。けれども決してさうでは無いのだ。
 歌は本當に心に思つたことが、歌となつて露はれるのである。然るに世の中が治まつてゐたか否か、人の心が眞つ直ぐであつたか否か、その時代に詠まれた歌をみれば察することが出來るのである。(※上記「萬葉考 卷六序」參照)

 よつて歌と云ふものを輕々しく、又た無用のものと考へてはならない。
 それであるから理窟ばかり云ふやうな支那にあつても、孔子といふ人は、詩といふものを捨てることなく、昔から傳はる詩を集め、これを遺した(詩經)。さすがに孔子といふ人は考への深い人であつたのだらう。

 凡そ何事も理窟責めにして書かれると、それは死んだものゝやうになつてしまふものだ。それよりも天地と共に行なはれる自然の道といふものを能く辨へてゆけば宜いのだ。天地自然の道は絶えず生成化育されてゐるものであるから、理窟に拘泥するのではなく、この自然の道と共にあれば自づと活きたものとなる。

 とは云へ、凡ゆることを知るといふことは、決して間違つたことではない。だが動もして人といふものは何事にも理窟を付けなければ承知しなくなり、世間が徒らに混亂するのである。どうもこれは人の心の癖であるらしい。であるから、學問などに勵む人は、このことに留意して、知つて捨てるやうに、一通りの理窟を學び之に拘泥せぬやうにすることが大事なのである。

 但し歌といふものは、たとへその者が自分勝手で邪な願ひを抱いてゐても、それを歌にしようと思ふと、やはり人間である以上、人の情といふものを離れられないものであるからして、心が和らいで、歌を詠み交はすうちに人間の眞面目が養はれてゆくものなのだ。
 この「歌」の素晴しさは既に他の著述にしたゝめてゐる。

 と。

  * * * * * * * * * * * 
  

 餘談ながら、江戸中期、歌論に就て大きな論爭があつた。
 それは荷田春滿大人の養子となつた存滿翁の著『國家八論』(寛保二年)を巡るものであつた。
 在滿翁は『國家八論』に於て「歌は貴ぶ可きに非ず、言葉の遊戲に過ぎない」とした説を述べた。
 これに對して田安宗武公(第八代將軍吉宗の次男。在滿翁、縣居大人に國學や和歌、有職故實を學んだ)が『歌體約言』(延享三年)を著して反論。縣居大人も田安公と同じく、和歌は人の眞心が其のまゝ詠歎の聲となつて表はされたもので、自づから人を化するの徳あるが故に國を治むる道にも通ずる、といふことを力説してゐる。

 言葉の遊戲と眞心の發露とは、全く違ふものだ。眞淵大人は『歌意考』その他の著書に於て、平安時代の『古今集』は、儒佛の影響を受けてをり、技巧を懲らしたものであり、之を「手弱女振り」と批判し、古代の『萬葉集』に心高く雅びあり、「丈夫振り」が示されてゐると述べる。


◎賀茂眞淵大人、『萬葉考 卷六』(『賀茂眞淵全集 第三』明治卅九年三月卅日「國學院編輯部」編輯、「吉川弘文館」發行)所收、序に曰く、
『掛まくも恐こかれど、すめらみことを崇みまつるによりては、世中平らけからんことを思ふ。こを思ふによりては、いにしへ(古)の御代ぞ崇まる。いにしへを崇むによりては古へのふみ(文)を見る。いにしへのふみを見る時は、古への心言(こゝろことば)を解んことを思ふ。古への心言を思ふには、先いにしへの歌をとなふ。古への歌をとなへ解んには萬葉をよむ。萬葉を凡(おほよそ)よみ解(とく)にいたりて、古へのこゝろ言を知り、古へ人の心まことに言なほく(直く)、勢ひをゝしく(雄々しく)して、みやび(雅)たることをしる。こを知てこそいにしへの御世々の事は明かなれ』と。


◎明和元年、大人、『歌意考』(『日本古典全集第二回 賀茂眞淵集』昭和二年四月廿日「日本古典全集刊行會」發行)所收に曰く、
あはれ、あはれ、上つ代には、人の心ひたぶるに直くなん有りける。心しひたぶるなれば、爲す業も少なく、事し少なければ、云ふ言の葉も多(さは)ならざりけり。然か有りて、心に思ふ事ある時は、言に擧げて歌ふ、こを歌と云ふめり

◎仝、
『斯くて掛けまくも畏き吾が皇神の道の、一つの筋を崇むに付けて、千五百代も安らに治れる、古の心をも、心に深く得つべし。次いでには、言噪(ことさへ)ぐ國國の、上つ代のさまを善く知れる人に向ふにも、直き筋の違はぬも多かりけり』

◎仝、
古は丈夫(ますらを)は、猛く雄雄しきを旨とすれば、歌も然かり。然(さ)るを古今歌集の頃となりては、男も女ぶりに詠みしかば、男(をとこ)女(をみな)の分ち無く成りぬ。然(さ)らば女は、唯だ古今歌集にて足りなんと云ふべけれど、其(そ)は今少し下(くだ)ち行きたる世にて、人の心に巧み多く、言(こと)に誠は失せて、歌を作爲(わざ)としたれば、自ら宜しからず、心に煩(むつか)しき事あり、古人(いにしへびと)の直くして心高く雅びたるを、萬葉に得て、後に古今歌集へ下りて學ぶべし。此理(このことわり)を忘れて、代代の人、古今歌集を事の本として學ぶからに、一人として古今歌集に似たる歌詠み得し人も聞えず。はた其の古今歌集の心をも、深く悟れる人無し。物は末より上(かみ)を見れば、雲(くも)霞(かすみ)隔たりて明らかならず。其の上へ昇らん階(はし)をだに得ば、いち早く高く昇りて、上を明らめて後に末を見よ。既に云ひし如く、高山(たかやま)より世間(よのなか)を見わたさん如く一目(ひとめ)に見ゆべし。物の心も、下(しも)なる人、上なる人の心は計り難く、上なる人、下の人の心は計り易きが如し。由りて學びは、上より下すを善しとする事、唐國人(からくにびと)も然か云へりき』と。


◎明和二年、大人、『にひまなび』(仝)に曰く、
抑も上つ御代御代、其の大和ノ國に宮敷きましし時は顯(おもて)には建(た)けき御威稜を持て、内には寛(ひろ)き和みを成して、天の下を服(まつろ)へまししからに、いや榮えに榮えまし、民もひたぶるに上を貴みて、己れも直(なほ)く傳はれりしを、山背(やましろ)の國に遷しまししゆ。畏き御威稜のやや劣りに劣り給ひ、民も彼れに附き是れに阿りて、心邪(こゝろよこしま)に成り行きにしは、何ぞの故と思ふらんや。其の丈夫(ますらを)の道を用ひ給はず、手弱女(たをやめ)の姿を親(うるは)しむ國振と成り、其れが上に唐の國ぶり行れて、民、上を畏まず、奸(よこ)す心の出で來(こ)し故ぞ。然かれば、春の長閑に、夏のかしこく、秋のいち早く、冬の潛まれる、種種(くさゞゝ)無くては、萬づ足らはざるなり。古今歌集出でてよりは、和(やはら)びたるを歌と云ふと覺えて、雄雄しく強きを賤しとするは、甚(いみ)じき僻事(ひがこと)なり』と。
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 曾て「歌意考」「にひまなび」などを拜讀したことがあるのだが、正直申せば何が何だか解らなかつた。
 しかし歌道の同窓であり、時對協の先輩である福田議長が述べられてゐる通り、↓↓↓
    http://sinkou.exblog.jp/19689719/
 「歌道講座」では言辭の虚飾よりも眞心などを大事として御教示いたゞいてゐる。この講座で扮飾することは、即、自ら晒者となるを望むやうなものだ。知らず野生も、おぼろげながら微心をあらはせるやうになりつゝある(氣がする)。
 はからずも前囘の「講座」の直會では、古今和歌集と萬葉集の相違に始まり、樣々御高話を賜はつた。講座の諸先輩もさすがに能く理解されてをられ、迚も興味深く拜聽した。
 二ケ月に一度の講座ではあるが、お蔭で今では少しづゝ、「歌意考」も理解出來るやうになつてきた。
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by sousiu | 2013-03-25 15:28 | 先哲寶文

神奈川有志の会 

 本日(嚴密に云へば日が變はつてしまつたので昨日)は、久し振りに「神奈川有志の会」の懇親會があり參加。
 おほくの團體、若者が參加し、席が足りずテーブルに付けない人があるほどであつた。

 樣々な意見交換が交はされた。若手世代からも、忌憚なき意見が投ぜられた。何だか野生の若いころを見てゐるやうで、なにやら馬齡を重ねてゐることを沁々痛感する。
 若者は可能性を多く含有してゐる。思つたことを堂々と發言するやうでなければその可能性も活かしきれやしない。時には説教を受けることもあるかもしれないが、それすらも、より可能性を活かす可くの素材にして欲しい。

 かく云ふ野生も若い時分はお説教を澤山いたゞいてきた一人だ。曾て伊藤満、平澤次郎、このあたりの先輩からは、もう要らないといふ位お説教をいたゞいた。
 但し、他の縣もさうかも知れないが、神奈川の先輩達もまた、若手の意見を聞いてくれる寛大さがある。「有志の会」の御意見番的存在とも云へる伊藤満、鈴木浩己兩先輩などは、このあたりの調和を取ることも實に上手だ。そしてこの環境下にあつて野生は育つてゐるのだ。


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↑↑↑↑律儀な野生は、先輩からこれまでいたゞき過ぎたお説教の、お釣りを支拂ひたいと思つてゐるのだ。
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by sousiu | 2013-03-24 01:14 | 報告

贈從三位 賀茂眞淵大人 その六。 『國意考』その四 

◎遺佚軒 戸田茂睡翁『梨本書』(元祿七年)に曰く、
睡が又とふ、その人道といはるゝはいかやう(如何樣)の事ぞや、茂がいはく、人の道といふは常の作法也、仁義禮智の五常をたつるは儒の道也、人の心にまことすくなく成りて、人道にそむくゆへに、此おしへをたてたり、大道すたつて仁義を(起)こると云は此ゆへ也、此人道と云は、主君親のありがたき恩徳をふかく心にこめて、わたくしの心なく、かた時もわすれざるを云也』(大正四年四月廿五日「國書刊行會」發行『戸田茂睡全集 全』所收)※括弧及び括弧内は野生による。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 承前。
●縣居 賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○こゝの國は、天地の心のまにゝゝ治めたまひて、さるちひさき、理りめきたることのなきまゝ、俄かに、げにと覺ることどもの渡りつれば、まことなりとおもふむかし人の、なほきより、傳へひろめて侍(はべる)に、いにしへより、あまたの御代々々、やゝさかえまし給ふを、此儒のこと、わたりつるほどに成て、天武の御時、大なる亂出來て、夫よりならの宮のうちも、衣冠調度など、唐めきて、萬うはべのみ、みやびかになりつゝ、よこしまの心とも多くなりぬ。凡(およそ)儒は人の心のさがしく成行ば、君をばあがむるやうにて、尊きに過ぎしめて、天が下は、臣の心になりつ』と。

 云ふまでもあるまいが、日本は人代の以前には神代あり。神武天皇建國以後は人代となるのであるが、神代と人代とが繼續を成し、途切れる可からざりしことの説明は要しない。
 然るに建國の折には、天地の心の儘に國が治まつてゐたのである。能く々ゝ考へてみれば、昔は儒教も佛教も無かつたが、皇室があり、皇室を尊崇する人心を國民が有し、これに依つて日本は段々と榮えてきた。人の道といふものは眞に天地の道と一致してをり、そのやうなお國振りであるから、儒教のやうな細かい理窟などといふものが教へられず、亦た、研究もされてゐなかつた。
 そこへ支那から儒教が輸入されてくると、成程、と思ふ人らが出でた。
 往古の日本人は正直で、寔に純粹であつたからこれが一般に信ぜられ、亦た研究もされた。するとこれが注目せられて廣まつたのである。

 それで人はそれゞゝ理窟を覺えて押し竝べ、徐々に世の中が噪がしくなり、遂に 天武天皇の御宇に大きな亂れが起こつたのである。

 それから後はまた更らに支那の學問が盛んとなり、奈良朝の御代には、衣冠そのほかの朝廷の禮儀、日々の調度までもが唐國の宮中に傚うて、表面だけみると如何にも華やかで雅やかとなつたが、一方で人心は邪まな心持ちを懷いた人が増えたのである。
 このやうに人の心が小賢しくなると、兔に角理窟で納得するやうになり、外面ばかり取り繕ふことに巧みとなり、臣下は私を圖るといふことを主とするものなのである。よつて言葉や對面では 天皇を崇めてゐるやうであるけれども、それはたゞ尊き御方であるとし、成る可く遠ざけ、さうして多くの事はみな、臣下の者たちの心持ちで取り計らふといふやうになつてきたのである。


 と、かういふことである。
 今囘はあまりにも短か過ぎるので、もう一項。


●仝、曰く、
○夫よりのち、終(つひ)にかたじけなくも、すべらぎを島へはふらしたることく成ぬ。是みな、かのからことのわたりてより、なすことなり。或人は佛のことをわろしといへど、ひとの心のおろかになり行なれば、君は天が下の人の、おろかにならねば、さかえたまはぬものにて侍り。さらば佛のことは、大なるわざはひは侍らぬなり』と。

 以上のやうな事情から、儒教が盛んとなるにつれ、臣下の者は私を圖るやうになり、結果、寔に畏れ多いことであるが、天皇はどこか遠くの島にお遷りになられたやうになつてしまつた。
 曾ての日本の状態を考へれば、かういふ事のある可き筈は無かつたのに、上を重んずるといふことよりも私に忙しくなる餘り、勢ひ臣下が勝手なことをするやうになつてしまつた。
 これは支那からおかしな學問が輸入せられたからである。

 或る人は佛教のことを惡しといふ。けれども理窟ばかりで人が小賢しくなつたが爲めに世は荒廢したのであるから、天下の人々がもう少し愚ろかにならねば本當に世が治まり榮えていらつしやるといふことは出來ないのである。儒教を重んずる者は、佛教を學べば心が眩んで正しい分別が付かなくなるといふが、儒教のやうな細かい理窟をこねるよりはマシである。


 と、かういふことだ。
 上記も隨分極端な云ひではあるが、これは決して愚民化を訴へるものなのではない。
 老子なども、聖人が國を治めるのは人を賢くするのではなく、愚ろかにするのだといふことを申してゐる。
◎老子曰く、『古之善爲道者、非以明民、將以愚之。民之難治、以其智多。故以智治國、國之賊。不以智治國、國之福』(第六十五章)と。
※「古への善く道を爲す者は、以て民を明らかにするに非ず、將さに以て之を愚ろかにせんとす。民の治め難きは、その智の多きを以てなり。故に智を以て國を治むるは、國の賊なり。智を以て國を治めざるは、國の福なり

 山本さんてふ方のブログに、老子のこの一節が委しく記されてゐる。↓↓↓(勝手に紹介して御免なさい)
                    http://blog.valley.ne.jp/home/yamamura/?itemid=28695



 ・・・・ん?「國意考」の解説で老子の引用は、ちと説得力が無かつたか。吁。
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by sousiu | 2013-03-23 14:59 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その五。 『國意考』その三 

◎清原貞雄博士『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
『我國が未だ外國文化の影響を受けない以前の有樣を以て理想的であつたとし、其時代に行なはれた國民の道徳を以て完全無缺なるものとする思想は復古國學派の中心思想であつて、此考は既に前から多少其、萌芽があつた。 ~中略~ 所謂國學四大人の第一である春滿にはあまり斯る思想は明瞭に現はれて居ないので、それが最も明瞭に力強く説かれたのは眞淵からである。
 眞淵の所謂國意は一言に云へばおのづからなる道である。自然のまゝに人間の小策を用ゐずして治まる道である。凡そ世の中は、あら山荒野にも自づから道が出來るやうに、我國に於ても亦神代の道が其まゝ擴がつて自然に國は榮えて來た。斯くて我 皇國皇道は愈々榮え行くべきであつたのを、儒教が入つて來て却て之を亂したのである。支那人は人間が萬物の靈長であると云ふ。何となれば天地日月の變らざるが如く、鳥獸草木古のまゝである中に、獨り人間のみ小智が發達して種々の惡心も出で遂に世を亂した。又治まつて居る中にも互に詐き合ふ。鳥獸の目から見れば人の方が惡いと思ふに違ひない』

『我國の古へは詞も少く、事も少く、心も直く、從つてむつかしい教は無用であつた。少しの教があればよく守るが、元來、天地のまにゝゝ行ふ事であれば教ふる必要も無かつたのである。 ~中略~ 或人は又我國の古代には仁義禮智と云ふ事が無かつたからそれに當る國語も無かつたと云つて居るのは一を知つて二を知らぬものである。支那に之等の教を立てそれに違ふを惡いとして居るが、凡そ天下に五常の道は自づから備はつて居る事、恰も四時がある樣なものである。春夏秋冬の名目は無くとも寒暖の移り變りは自然に存する如く、五常の目を立てずとも、五常の道は自然に人に備はる心である。それを支那にばかり道徳が備つて我國に缺けて居る樣に人が思ふのは何故であるかと云ふに、我國の古道は天地のまにゝゝ丸く平らかにして却て人の心詞に言ひ盡し難いから人が氣が附かないのである。此丸いと云ふ事、支那の教の如く稜々しくないと云ふ事が大切である』と。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 承前。
●縣居 賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○それよりのちは、漢の世に、文帝とかいひし時、暫(しばらく)治まりにけむかし。さていやしげなるひとも出で、君をころし、みづから帝といへば、世の人みなかうべをたれて、順(した)がひつかへ、それのみならず、四方の國をば、えびすなどいひて、いやしめつるも、其夷てふ國より立て、唐國のみかどゝなれるときは、またみなぬかづき(額突き)て、したがへり、さらば夷とて、いやしめたることいたづらごとならずや。はた世擧て、いへる語(ことば)には、あらざるべし。如是(かくのごとく)世々にみだれて、治れることもなきに、儒てふ道ありとて、天が下の理りを解(とき)ぬ。げに打聞(うちきゝ)たるには、いふべきことも、ならざるべう覺(おぼゆ)れど、いとちひさく、理りたるものなれば、人のとく聞得るにぞ侍る。先(まづ)ものゝ專(もは)らとするは、世の治り、人の代々傳ふるをこそ貴(たふと)め。さる理り有とて生てある天が下の同じきに似て異なる心なれば(此一章よめがたし ※マヽ)、うはべ聞しやうにて、心にきかぬことしるべし。然るを此國に來たり傳ては、唐國にては、此理りにて、治りしやうに解は、みなそらごとのみなり。猶なづめる人をやりて、唐國を見せばや、浦島の子が古郷へかへりしごとくなるべし』と。


 周の次代は秦だ。されど秦は二代で滅びた。秦に次いで出でた王朝は漢だ。漢の世は四百年ほど續いた。
 この漢では、第五代にあたる皇帝、太宗文帝といふ者が能く治つてゐたと云はれる。
 文帝、性格温厚、人徳も篤く、臣下も隨分歸服してをつた。

 とは云へ、やはり漢の時代にあつても、元々地位も身分も教養も無い、所謂る[いやしげなるひと]が君を弑して、自らが帝であると稱した。すると世間の民は皆、頭を垂れてこの者に從順するといふ有樣であつた。それより後にはこのやうなことは多々あり、臣であつた者が勢力を構築し、君に壓力を加へたり、或は弑して自ら王の位にたつといふことは、殆ど數へ切れない位ある。

 國内がこのやうに力の論理で支配されてゐる傍ら、彼れらは自國以外の國を悉く蔑んでゐた。
 自國を「中華」といひ、或は「中國」といひ、東方にあるものは「東夷」と呼び、西方の國を「西戎」、南方の國を「南蠻」、北方の國を「北狄」と呼び、未開の國と賤しめてゐたのである。
 かくなれば四方の國々がいつまでも支那を崇拜する筈もなく、やがて支那に侵入して領土を占領し、新しく建國するといふことも稀れではなかつた。
 力こそが正義なり、といふことに馴れてしまつた人々は、未開から來た征服者にも額づいて從つたのである。

 結局、支那の歴史は亂れる麻の如きであり、始終混亂で彩られ、本當に能く治つた時代といふものはあまり無い。
 そのやうな支那であるにも拘らず、彼の國には儒といふ道があり、天の道に基いて立てた素晴しきものであるから、これを學びさへすれば正しい道が明らかになるといふのである。
これをば日本に輸入され、日本人までもがこれを重んじてゐる。成程、一寸、これを聞けば尤ものやうに聞こえる。けれども實は儒教のその道理は極めて小さく、狹い範圍で定めた道理であるから、一寸聞いた丈で納得されるものなのである。
 儒教は家を治め國を治めれば、天下は能く整ひ、能く治まるといふ。それ故に先づ身を修めよう、家を齊へよう、國を治めようと云ふ。併しながら如何程に儒教が貴いと云つても、肝心の支那が上記したやうに上手に治つてをらず、始終混迷してゐる所を見ると、自づと儒教は空言であると見做さゞるを得ない。
 若しも日本が儒教に泥みて、崇拜し、當の支那へ行つて支那の樣子をみせたならば、成程如何に鹿爪らしく理窟をこねても、實際の治國平天下には應用出來ないものであることを知るであらう。恰度、浦島太郎が龍宮へ行き、夢の日々を過ごし故郷へ歸へつてみると、現實の世界は殺伐として荒廢し、郷の元の姿すら無かつた、といふことゝ同じである。

 といふことだ。
 儒教批判もちと過ぐるやうに感じるが、儒教全盛期にあつて天下に一大痛棒を喰はさむと欲せば、極論もまた止むなし。吾人はその心事と勇氣、信念と志操を看取せねばなるまい。
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by sousiu | 2013-03-22 17:49 | 先哲寶文

贈從三位 賀茂眞淵大人 その四。 『國意考』その二 

 本日は(も)前きの客人から日中着信あり。
 多忙であつた爲め、電話に出る能はず。夜になつてこちらから連絡し、日中の用件は何だつたのか尋ねるに。彼れ曰はく、「今日お邪魔しようと思つて」と。彼れは今、伊勢である。
 彼れはまだ知らない。河原に接近するとロクなことにならないことを。先づ當面のことゝして、南紀のタコ部屋に入れられることも、だ。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 承前。
●縣居 賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○さて周公、政をとりて、殷の諸侯を四十餘りほろぼしけむこと、孟子てふ文にみゆ。此四十あまりの侯、みなわろ人にあらむか。周公にあだなふまゝに、しひてほろぼせしとしるべし。かくするが義といふものにや。そのさかえは、八百年とかいへど、初(はじめ)二代にて、四十年ばかりは、治れりといはんか。やがていと亂て、なかゝゝおとろへにけり。其四十年ばかりの間、周公てふよき人は、弟によこしませられて、外へまかりつるとか。世の中のみだれは、世の中のわざにもといふべきを、兄弟しもよこしませるは、内のみだれにて、亂の甚しきものなり。さらば四十年の間も、治れるには侍らざりけり

 さて。武王が死んだ後の周は何うなつたか。武王の子に成王といふのがあつた。だが成王は未だ幼年であつたが爲め、武王の同母弟である周公(周公旦、文王の第四子)が執政を擔ふことになつたのである。周公は文物、制度を整へ、周の泰平の基は彼れの成績に負ふところ多しとして、文王や武王と竝べて聖人視せられてゐる。
 然るに周公執政の折、殷の時代からの諸侯には、周に服せぬ者が多かつたことから、その中の四十ばかりを滅ぼして領地を奪つたと孟子は述べてゐる。果してその四十餘りの諸侯は全員が全員、惡人であつたのだらうか。
 諸侯たる可き者が揃ひも揃つて惡人であつたとは考へ難く、さうして見るとこれは周公の統治に何某か異議を差挾み、之に服從しなかつたから強ひてこれらを滅ぼしたと見る可きである。それを義とは云はない。周公もまた、聖人とは云はれないのである。

 又た、周の榮えてゐたのは八百年だと云ふけれども、初めの二代、四十年許りは本當に世の中が治つてゐたと云うても宜いが、後では全く亂れてしまつた。所謂る、春秋戰國の亂世となつてゐるのだ。臣は君を弑し、子が父を殺したことも少々ではない。このやうな状態でたとひ八百年續いても、八百年來治國平天下であつたとは云ひ難いのである。

 よし周公が偉き人として、治國平天下に力を盡くしたとする。だが兄である管叔鮮(文王の第三子)と弟、蔡叔度(文王の第五子)に亂を起こされた(所謂る「三監の亂」)、見逃し難き事實がある。周公は亂こそ治めたけれども七年ののち、成王が成人したことを理由にその地位を返上し田舍へ隱匿してしまつたとか。
 後に至つて周公の誠心が理解され、また元の地位に復したといふけれども、いづれにせよ兄弟の力に壓迫せられて結果、自己の地位を捨てなければならなくなつた不祥事は拭へない。周公は平定する爲めに、兄である管叔鮮を殺害し、弟の蔡叔度を流罪に處したのである。萬民を教へ導く筈の聖人が、實の一族兄弟を善導することも出來ず謀反人を出せしめるのであるから、これは「亂の甚だしきもの」といふほかなく、治國平天下を爲し得た聖人と呼んで宜いものなのだらうか疑問を抱かずにはをられない。
 かく考へれば初めの四十年が能く治つてゐた、と云ふが、この四十年も本當に治つてゐたのではない。だとすればその後の春秋戰國時代をみても周は八百年こそ續いたにせよ、手本とす可き事はないのである。これを理想的時代として仰景するのは、畢竟、儒者の誤謬であり、そこから發生した考へ方が、後世に誤れるまゝ傳へられてきたと斷定せねばならないのである。

 とかういふ意だ。

 今囘この項は短文であつたから、樂であつた。

 當日乘を御來訪の客人には、暫く「國意考」にお付き合ひ賜はり、且つ「國意考」を通じ、支那の古へのことを些かでも共に學べればと思ふ次第である。
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by sousiu | 2013-03-21 21:39 | 先哲寶文