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贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿一。藏書目録 

 近代國學に於ける縣居大人の功績は頗る大である。
 これまで綴つてきた偉大なる先哲を輩出したことは、固より大人の卓拔なる見識及び學識と、大人の生涯を通じて學問に對するその熱烈なる姿勢の産物であつた。
 茲で參考として、大人の藏書を掲げむとする。その人を研究する場合、その人が如何なる書を藏してゐたかを識ることは、その學説が成立する過程に於て、或は系統を推し量る意味に於ても興味の深いものである。

 下記は佐々木信綱博士の著書『賀茂眞淵と本居宣長』(昭和九年十二月二日「弘文社」發行)[六五頁]を出典としたものである。
 佐々木博士曰く、
『今度、堤朝風の隨筆朝風意林の中にある賀茂眞淵翁の藏書目録を、森銑三君から示されて見ることを得た。これは、翁の歿後二年を經た明和八年三月七日に、門弟の尾張黒生、伊能魚彦、村田春海の三人が、遺書の目録を作つたもので、それまでに散佚した書物も或はあつたかも知れぬが、大體に於いて、翁の藏書の範圍を知るに足り、從つてその學問の由つて來るところを知るに足る、云々』と。



縣居藏書目録

    第一番
 萬葉集 [一二之卷欠]   廿卷
 無點萬葉集 [自一至八四册入此笥餘六册入第五番]  廿卷[合爲十册]
 日本書紀  卅卷[合爲三卷]
 日本書紀  卅卷[合爲十三卷]
 古事記 [古板]  三卷
 古事記 [上卷古板、中下卷鼇頭本]  三卷
 假名書古事記 [上卷欠]  下一卷
 風土記  一卷
 風土記春滿考  一卷
 延喜祝詞式 [大本]  同
 令義解 [卷ノ一末卷一册、卷ノ六並欠]
 令義解 [卷ノ五欠]  十卷
 令義解 [卷ノ十]  一卷
 和名類聚鈔  八卷
 土佐日記  二卷
 梁塵愚案抄  二卷
  同       二卷
  同 [合册]  二卷
 催馬樂譜  一卷
 催馬樂譜   同
 神樂譜  同
 東遊神樂  同
 東遊風俗  同
 職原抄  同
  同 [上卷欠]  下一卷
 鎌倉右大臣家集 [上卷欠]  二卷
 古今集  二卷
 古今集  二卷
 古今六帖  九卷

    第二番
 檜山拾葉集  二卷[合册]
 勢語竄論  二卷
 勝地吐懷篇  同
 古今集序傳説 [縣主自筆]  一卷
 律職制 [衞禁]  一卷
 類聚雜要  三卷
 佛足石碑銘  一卷
 和字正濫鈔 [卷一二、二册欠]  五卷
 神名帳 [小册]  三卷
 大和めぐり  一卷
 淨土三部抄  六卷
 朝野羣載  同
 名例律  一卷
 歌林類案、童子問  合一卷
 古日記  同
 古今六帖  八卷
 古今六帖 [大本、卷一欠]  六卷
 令集解  十五卷
 萬葉語類  十六卷
 日本紀語類  十卷
 古今集助辭  一卷

   第三番
 源氏物語 [素本湖月本合爲一部][内目録一卷、一、二、十二、十三、四十、四十一、四十七、
                四十八、四十九、五十、五十一、五十三、總十二卷闕]  四十三卷
 湖月抄 [青表紙、唐草模樣]  十四卷

   第四番
 御考私記 奉對案竝雜案  一卷
 田安 奉對案[皇朝度量權衡小考大饗差物八種考]  一卷
 [延享戊辰田安]奉對案第四  同
 眞淵雜録  同
 後撰和歌私考  同
 對問 [淨土三部抄考]  二卷
 [桃華蘂葉中之考八條、御作服飾管見抄書一條][賀茂眞淵奉命答辨八條、御作服飾漫語抄
                                書六條]  合一卷
 續萬葉古諷  一卷
 帛御禮服之辨  一卷
 さいばりもの譜  同
 車服拔萃 [縣主自筆]  同
 御考之答 [みいむすび平手つがひの御考云々]  同
 高橋若狹守對問ノ案記  同
 源氏裝束抄 [縣主自筆]  同
 百人一首考序 [同上]  一卷
 百人一首古説卷二 [同二明和二年十月再考]  一卷
 祝詞考 [上卷]  一卷
 語意  一卷
 權衡小考 [自筆]  一卷
 自筆青表紙小册  同
 萬葉新採 [上卷欠]  二卷
 延喜式祝詞解 [卷六出雲國造神壽詞]  一卷
 應問稿 [自筆]  一卷
 [寛保三年九月金吾君]再奉答  一卷
 古事記私記  一卷
 机案臺ノ三ツ云々 [自筆]  同
 奉對金吾君案 [正月七日七種ノ内五形ノ事云々]  同
 伊勢物語古意 [數本雜亂非全本有缺脱]  七卷
 古今歌集序凡考 [再考]  一卷
 新採古今百首  一卷
 古今集拔萃 [小册]  同
 古今和歌集考一  同
 古今集私記序  同
 古今集注  同
 よの中に云々  同
 古今集古注論、國歌臆説  合一卷
 物具裝束抄  同
 裝束飾抄  同
 大儀殿庭裝束圖、大儀禮服冠圖  合一卷
 撰塵裝束抄作者考 永綱裝束抄  一卷
 雅輔裝束抄  二卷
 裝束口訣  一卷
 西宮抄  三卷
 百練抄  四卷
 古寫著聞集  二十卷
 古筆朗詠  一卷
 田安御考裝束類雜書 [並在滿奉對案、倭文子紀行等]  三十四卷
 江次第箚記  一卷
 縣主自筆反古  一包

   第五番
 延喜式 [内二卷欠、祝詞之卷入第一番在滿考訂本]  五十卷
 三代實録 [在滿考訂本]  十卷
 文徳實録 [考訂本]  五卷
 令義解  八卷
 無點萬葉集  六卷

              右明和八年三月七日 集録
                          黒主   魚彦   春海
  
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by sousiu | 2013-04-30 16:56 | 先人顯彰

縣居門 その十五。進藤筑波子刀自 

 本日は、皇國志士連合有志とともに謹みて多摩御陵、武藏野御陵を拜す。
 昨年同樣、都下は青天。嗚呼、時は進みて止らず、とか。既に平成生まれの人達が社會に活躍する現在、有史來、未曾有の激動と困難を乘り越えた 先帝の御宇を、吾人は忘れてはならぬ。而して、吾人は平成中興の歩を僅かでも進め、當時の恐察するもおそれおほき 先帝の御心を安んじ奉るを以て報皇とせねばならぬ。
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◎進藤筑波子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

進藤 筑波子 茂子

系圖
進藤正幹養女、徳川幕府侍臣土岐頼房妻

學統
眞淵門三才女の一人


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『茂子は、又筑波子ともいへり。進藤正幹の養女にして、徳川幕府の侍臣、土岐頼房の室なり。幼より、學を好み、賀茂眞淵の、門に入りて學び、詠歌を、よくするを以て名あり。其筑波子の名は、かの筑波山は山しげ山といへる、古歌によりて、賀茂翁の、つけられしなりと云ふ。歌は、翁の高きふしをうけて、調とゞこほらず、しかも女らしき歌口なりき。故に翁も其歌をめでゝ、天暦の、女房の、調なりといはれき。縣門に、女子の歌よみ、少からざりしといへども、余野子、倭文子、及茂子を稱して、縣門三才女と、稱しきとぞ。其筑波子歌集は、後年、清水濱臣の、撰集せし所にして、縣門遺稿の内に收めたり』と。

●清水濱臣翁『筑波子歌集』(文化九年)序に曰く、
『筑波子、又しげい(茂)子(※愚案。「しげるこ」と讀むは誤りなり)ともいへりき。筑波山は山、茂山といへる古歌の詞によりて、通はしおほせたる名なるべし。進藤正幹ぬしの、養ひ子にて、土岐頼房ぬしの妻なり。縣居の翁に物學びて、歌よむわざをよくせり。限りなく、來れども同じ、とよめる初春の歌に評せられて、天暦の頃の、女房の口つきとおぼゆなど、翁もほめきこえられたりけり』と。

●清水濱臣翁『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『       はるのはじめのうた
   かぎりなく、來れどもおなじ、春なれば、あかねこゝろも、かはらざりけり


此歌縣居翁の評に、天暦の此の女房の口つきなり。と評せられき。また、

       みつ(三つ)になりけるをさな(幼)子の、なくなれるをり、
   いはけなく、いかなるさまに、たどりてか、死出の山路を、ひとりこゆらむ


たゞ言ながら、心のほど思ひやられて、このうた見るたびに、おぼえず涙ぐまるゝになん。又、
       商人を
   わたらひの、こゝろぼそさも、しられけり、いとうる賤の、たえずくるには


女の歌、誠にさこそおぼゆれ。みづから書きつめおける歌どもに、縣居翁の點合をおかれたるを、故ありておのがもとにもたれば、過きし享和のみとせ、清くかきあらためて、はし書などものし置きしを、文化十年の春、つひには板にもゑらせたりき』と。



       をとこにおくれぬる頃
   歎くとも、こふともしらで、いかならむ、方にのどけく、君は住らむ
   みし夢の、さめぬ程にし、きえもせば、今のうつゝに、物ハ思はじ


      かくいふ程に、雪のうち散れば
   見る程も、あらずなりぬる、雪ならで、消殘るとも、おもひける哉

      いとけなき子のうせし頃
   結びつと、みそむる程も、あらなくに、はかなく消し、草の上の露
   なきたまの、あるをこひしと、思ひせば、夢路にだにも、立歸らなむ
   いわけなく、いかなるさまに、たどりてか、死出の山路を、獨こゆらむ

                    
                             ※『筑波子歌集』所收
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by sousiu | 2013-04-29 17:47 | 先人顯彰

縣居門 その十四。鵜殿餘野子刀自 

◎鵜殿餘野子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

鵜殿 餘野子

生歿
(生) 二三八九年  中御門  享保一四年
(沒) 二四四八年  光  格  天明八年 
(年) 六〇


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『餘野子は幕府の麾下鵜殿左膳[名は孟一、號は士寧、漢學を能くして、當時に名あり]の妹なり。幼にして學を好み、兄に從ひて漢籍を學び、殊に詩に巧なり。後賀茂翁の門に入りて古學を修め、遂に縣居門の三才女[茂子しづ子とともに]と稱せらるゝに至る。元來漢學の力あるを以て、詠歌文藻世に比なく、千蔭、春海の諸輩も、此の人をば心にくしといひあへるとかや。餘野子若き時より、紀侯の殿中に奉仕して、名を瀬川といへり。後仕を辭して他に嫁せず、尼となり風月を弄して、身を終へぬ。其の老後住居せしところを凉月院と云ふ。天明八年、年六十にして歿す。遺稿あり凉月遺艸と云ふ。梓行して世に行はる』と。

●清水濱臣翁、文化十年『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『縣居翁の門人、いとおほかりし中に、女の歌よみすくなからざりき。殊にすぐれたりしは、よの子、茂子、しづ子の三女なりけり。餘の子[紀伊殿に仕へて、瀬川と呼ばれ、のちに凉月院と申されき]は、鵜殿孟一[字 士寧、通稱 左膳、南郭門人]の妹にて、漢學にさへたどゝゞしからず、からうたよくつくられけり。兄おとゝのざえを、其身ひとつに集めたりと、孟一つねにいはれしとぞ。翁あるやむごとなき御方より、女房の手本ともすべき、十二月の消息文かきてよと、おほせごとかうぶられたるをり、よの子にかかせられしが、いとめでたくつゞけたりければ、やがて其まゝにて奉られけりとぞ。近き此、芳宜園のあるじ、此消息を自から筆とりて、かき清めて、板にゑられしもあれば、大かた人もしれり。歌もよきがいといとおほく、岐蘇路記といふ、旅日記をかしうつゞれるあり』と。

●小山田與清翁、文化十一年『松屋叢話』に曰く(昭和三年四月卅日「日本隨筆大成」第二期卷一、所收)、
『よの子といへるは、紀の殿につかへまつりて、瀬川とぞ呼ける。さほ川と號し、歌集一卷有り。そは初に水上月と云る題にて、
    古里の、佐保の川水、流れても、世にもかくこそ、月はすみけれ
といふうたあるによれる名也。また木曾路の記とて、寛保八年五月、紀ノ國へまかりける時の紀行一卷あり。江戸を出たつ時、人のもとより、ことにしたはしうおもひて、
    君がゆく、わかの浦わに、ゐるたづの、たづきもしらず、我やなりなん
といひおこせしに、その返し、
    世の中の、たづゝゞしくは、思ひやれ、雲井のよそに、ひとりなく音を』と。

●村田春海翁、寛政五年八月『凉月遺草』に曰く、
『昔縣居の翁に、物まなべりし女房、あまた有しなかに、志氣子、余野子との二人をば、其頃、ふる事しのぶ人々の歌がたりに、たれゞゝも、心にくきかたになん、いひあへりける。さるはやむごとなきあたりの、をすのうちにて、花紅葉につけつゝ、いどみ事あるふしなど、歌人のえらみには、翁もつねにこの二人をしもぞ、とりいてられたりける。又よの子は、から學びのかたも、たどゝゞしからで、唐歌をもよくつくりてなんありける。そはそのせうと、鵜殿の孟一のぬしは、世に名高き博士なりければ、をさなきほどより、かたはらにありて、まねびたりとなん。おのれわらはむりし此、文よむとて、つねに鵜殿のぬしの家にゆきかひたれば、余野子のつくれるから歌など、をりゝゝ見しこともありき。なまゝゝの博士は、はづかしかりぬべき口つきとぞおぼえし。この此、縣居の翁の集どもより、しらぶるついでに、ほうごの中より、此二人の言葉どもの、かつゝゝ散殘りたるをみいでたれば、いかでふくつめおかんとするに、茂子か集はもたる人ありといへば、そを得たらんとき、かさねてものしつべければ、先よの子のをとりて、二卷とはなせり。文も歌も猶あまたありつらんを、その家集などいづちいにけんとは、もとむべきよしのなきこそをしけれ。さてよの子、又の名は瀬河ともいへり。わかゝりける時より、紀の殿につかうまつりて、つかへをしぞきてすみける所をば、凉月院とぞいへる。天明八とせの秋、よはひ六十あまりにもなん、身まかりける』と。


 <鵜殿餘野子刀自の主なる著書>
    岐蘇路記
    さほ川
    凉月遺草

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by sousiu | 2013-04-28 01:03 | 先人顯彰

縣居門 その十三。油谷倭文子刀自 

 本日は、獄中同志をはじめ、書簡を綴ること一日。
 字の汚いことは野生の大きな劣等感とする一つだ。ペンダコは成長しても、野生の字は決して上達しない。出來得べくんば習字をならひに行きたいと思つてゐる。


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◎油谷倭文子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

油谷 倭文子 [シヅコ]

生歿
(生) 二三九三年  中御門  享保一八年
(沒) 二四一二年  桃  園  寶暦二年七月一八日 
(年) 二〇

住所
江戸京橋弓町、(墓)深川本誓寺


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『倭文子は、江戸京橋弓町、伊勢屋平右衞門の女(むすめ)なり。家世々武門の身なりしが、祖父の代に商賈となりぬ。倭文子は享保十八年を以て生る。幼より、世の童女に秀拔して、才氣超越、容貌端麗にして、閉月羞花の美あり』と。

●『近世三十六家集略傳 卷の上』に曰く、
『倭文子は其先は伊勢の國人なりしが、祖父江戸に出て住り。倭文子、幼より文雅[みやび]を好む。父の家ゆたか(豐か)なりしかば、深窗にして文事[みやび]を學ばしむ。特[こと]に歌文章を好みて學ばん事を請ふに依て、父これを許す。しかして賀茂眞淵翁の門に入しめ、學ぶに爲人(人となり)怜悧穎悟にして、よく師の教を授、世人[よのひと]に超越[うちこえた]り。且、温順柔和にして、父母によく仕事[つかへな]し、朋友[ともがら]によく交り、家に出入[いでいり]する奴婢[しもべ]に至るまで、よく愛憐す。故に人これを賢少女[さかしをとめ]と稱す。父母頻りに愛して掌中[たなごころ]の金玉とす。且、花顏[かんばせ]嬋[いと]娟[うるはし]かる美少女[をとめ]なり

 又た曰く、
『十五歳にして或侯の女夫人[おくがた]に仕ふ。十八歳にして家に歸り、母と共に上野の國、伊香保[いかほ]の温泉[いでゆ]に行(いく)。この時いかほの紀行あり。其文体の妙たるや、絶て處女[をとめ]の作意にあらず。專門の學士[はかせ]たりとも、又およばざるの風致[おもむき]ありて、寛弘の古昔[いにしへ]上東門院の女房、比すべくなど人稱す。其奇才、實に見るべし。縣門の三才女の一なり

 又た曰く、
『惜ひかな、年二十にして寶暦二年壬申七月病て終る。臨死(死に臨みて)父母に先だつことを悲しみ、父母の意を慰むとて歌を作て曰
きりのはの、こよなとひとは、いふめれど、しばしばかりや、いそぐなるらむ
遠近の文人墨客、これを嘆惜[なげきおしみ]て歌文章の金玉をつらねし追悼す。縣居翁、墓碑の銘文を作り、且長歌二首を作りてこれを惜悲[おしかなし]む。父母其悲痛に不堪、故に平生處女[をとめが]作るところの歌文詞の遺稿を輯[あつ]めて卷となし、文布と名称して刊刻し世に流布せしむ』と。
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●縣居大人『倭文子をかなしめる歌』(『賀茂翁家集』卷之二「長歌」所收)に曰く、
ちゝのみの、父にもあらす、はゝそばの、母ならなくに、なく子なす、われをしたひて、いつくしみ、おもひつる兒は、初秋の、露に匂へる、眞萩原、ころもするとや、まねくなる、尾花とふとや、鹿子じもの、ひとりいでたち、うらぶれて、野べにい[去]にきと、聞しより、日にけにまてど、うつた[偏]へに、こともきこえず、ちゝならぬ、われとやとはぬ、はゝならぬ、身とてやうとき、こひしきものを。

初風の、吹うらかへす、秋の野の、荷のうら葉の、うとぶれて、いにしその子は、はぎ見にと、行やはしつる、霧わくと、まどひやはせし、うつし身は、かなしきかもよ、かへりこぬ、道に過ぬと、家人の、告つるものを、おいらくは、おほしきことを、ひたふるに、おもふがまゝに、わするべき、わざならぬをも、たつきりの、まどひけらしな、まとひつゝ、あらばあらまし、なにすとか、まさかをしりて、さらゝゝに、ににひものごと[新喪如]も、なげきしぬらむ。

萩か花、見れば悲しな、逝し人、かへらぬ野へに、匂ふと思へば
あらきする、にひもの秋は、立霧の、思ひ惑ひて、過しだにせじ
』と。


●「倭文子刀自墓碑銘」(『賀茂翁家集』卷之四『倭文子か墓の石にかきつけたる』所收)
をみなあり。名をばしづ子といふ。しづ子はいにしへのしづりにあらずして、心のみやびいにしへにもとづけり。しづ子はいにしへのしづりにあらずして、すがたのまぐはしさ、いまにすぐれたり。其たゞに心のみやびのみなるにあらず、ふみにも歌にもいにしへなり。其すがたのまぐはしかるのみにあらず、したしきにもうときにもにきびたり。しつこ[倭文子]はしつ子[賤兒]にあらずして、父はゝにつかふるには家のしづ兒[賤兒]なせり。中々にそのしづこ[賤婢]をかへり見るには、はたしづ[賤]とせざらまくせり。いはんや、せにしたがひ、またうからやからをしたしむをや。かれその家のにきぶることもうつはたのごとく、やがてしる、いにしへのしつりは、今のよきゝぬにまされることを、またうなゐはなりの時より、ふみをかゝまく思ひて、ことを父母にまをせり。父母うつくしとおもひて、われにつぐ。われもとつはたおらむことをろしへて、まだあまたとしならぬに、いにしへのあやをおることをさとりき。其かけるものは、伊香保の記[ふみ]、ともがきにおくりこたへたる文など、ともにかりはたなりけり。いふならく、いにしへのしづはた帶たれしかまさりなんや。あはれかなしきかもや、年の名は寶の暦の二のとし。秋の風はじめておこる時に、はたちといふよはひにて身まかりぬ。まかるとき歌よみせり。これもまだ、たゞに父母をなごさんするこゝろのみなり。そのよめる歌

人の世に、先だつ事の、なかりせば、桐の一葉も、ちらずやあらまし

と。(※原本は眞名にて書けり。句讀點は野生によるものとす)



 <油谷倭文子刀自の主なる著書>
    文布
    伊香保紀行
    倭文子歌集
     仝  遺集

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by sousiu | 2013-04-27 00:33 | 先人顯彰

縣居門 その十二。本居宣長翁 

●久松潛一翁、『國學 -その成立と國文學との關係-』(昭和十六年三月卅日「至文堂」發行)に曰く、
『眞淵の國學はその學問のすべての領域にわたり、かつそれを全一的にといたといふことが出來るが、この眞淵の國學の學問的見取圖ともいふべきものが一層精密にまた多少分析的に考察される事によつて、國學の學としての完成を見られるのが宣長の國學であつたのである

『眞淵によつて言語と文學と古道といふ三の方面が萬葉集といふ一の古典を中心としてとかれたのが、古事記と源氏物語といふ二の古典によつてとかれるとともにそれゞゝが一層精密に考察されて居り、また眞淵に於ては「ますらをぶり」もしくは心の直さといふ一の精神によつて「をたけび」と「にきび」とがともにつゝまれて居つたのに對して、宣長に於ては神ながらの道と「もののあはれ」といふ二の精神に分れてとかれたのである

『それだけに精密になつたのであるが、この二の精神の關係は多少分化して居る。ことに神ながらの道と「もののあはれ」とが古道と文學といふ二としてとかれたために眞淵學説のやうな統一が多少離れて來たとも見られるのである。然しこの兩者は彼の國學の體系の上では統一的に見られて居るのであり、この兩者を如何に統一づけ、體系づけようとしたかに彼の國學の完成がありまた眞淵の國學からの發展があるとも言へるのである』と。


●清原貞雄翁、『國學發達史』(昭和二年十一月廿五日「大鐙閣」發行)に曰く、
復古國學に於ける最高峯は前にも云つたやうに本居宣長であると認むべきであらう。徳川時代の末期に澤山に現はれた復古國學反對者、殊にそれは儒學者が主であつたが、眞宗の僧侶等にも少くなかつた。それ等は何れも宣長を目の敵にして居るのを見てもそれが判るのである。違つた意味に於ては宣長よりも篤胤の方が學者として偉大であつた點もある。然し乍ら純正國學と云ふ立場から見る時はどうしても宣長を推す方が正しいと思ふ』と。


 偉大なる國學の恩人、本居宣長大人に就てこれを記さんとするも、野生の如き無知では到底力及ばず。
 よつて大人の眞價に精しく接することは今後に與へられた野生の課題としてしばらく措き、今はともかく、大人の事蹟を追つて行くにとゞめる。

 
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◎鈴屋 本居宣長翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

本居 宣長

生歿
(生) 二三九〇年  中御門  享保一五年五月七日
(沒) 二四六一年  光  格  享和元年九月二九日 
(年) 七二

姓名
(母姓)村田氏、(幼名)小津富之助、(通稱)彌四郎、後 健藏、春庵、中衞、(名)始 榮貞、後 宣長、(字)君觀、(號)鈴屋、(諡)秋津彦美豆櫻根大人、(墓標)本居宣長之奧津紀

住所
(生地)伊勢國飯高郡松坂本町、(居住)同上、紀伊國和歌山、(墓)伊勢松坂山室山

學統
(儒道)堀    景 山――┐
(國學)賀 茂 眞 淵――┼― 宣長
(醫道)武川幸順法眼――┘ 


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●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『宣長、姓は平氏、初の名は榮貞、小津富之助と稱す。後小津氏を改めて、本姓本居氏に復す。通稱を彌四郎、又健藏と改め、春庵(或は舜庵に作る)と改稱し、更に中衞といふ。鈴の屋は號なり。權大納言頼盛の後裔、本居縣判官武秀四世の孫なり。父を定利といふ。定利子なきを嘆じ、大和吉野の水分神に祈請し、享保十五年五月七日を以て宣長を伊勢國飯高郡松坂に生む。幼にして頴異、群童と嬉戯せず。性至考なり。好みて書を讀む。強記絶倫にして、一たび目を過ぐれば、忽ち之を記す

 又た曰く、
『はやく父を喪ひけれども、母其の才を愛し薫陶怠らず、十二歳の時、初めて四書を學ぶに勉勵衆を超え、加ふるに強記の資を以てし、等儕に秀拔して嶄然頭角を顯はす。故に人以て神童となす。後數年の間自ら詠歌を習ひ、壯なるに及びて、京師に出で、堀景山に就きて儒學を修め、又典樂、武川幸順に從ひて醫道を學ぶ。居ること數年、皆之をよくす。一日友人と相會し誓ひて曰く、吾れ學を以て天下に冠たらずんば、再び足下を見ずと。後伊勢に歸り醫を以て本業とす』

 又た曰く、
『初京師に在りし日、契冲師の著せる百人一首改觀抄、古今餘材抄、勢語臆斷などを見て、こゝに始めて古典を研究するの念を起し、尋ぎて賀茂翁の著せる、冠辭考を見て、益古典を研覃せんとするの念を鞏固にし、翁を慕ふこと切なりしが、偶翁の田安侯の命を奉じて伊勢、大和、山城等を歴游し、歸途松坂に宿するにあたりて、之れに相會し、名簿を送りて門人となり、翁の江戸に歸りし後は、屢(尸+婁=屡、しばしば)書信を通じて古典の疑義を質し、遂に和歌物語より、正史、雜史、記録、律令、格式の類に至るまで、研精琢磨して一も通曉せざることなかりき。されども本業の醫は之れを廢することなく、治療を乞ふものあれば、直に應じ、來診を乞ふものあれば、駕を命じてゆく。駕中亦少時も手に卷を釋てず、餘暇あれば著書に從事し、遠近の門人を教育し、其名次第に世に高くなりぬ』

 又た曰く、
かくて古典の講究に餘念なかりしかば、自ら大に發明する所あり。遂に年三十五の時より、古事記傳の稿を起せり。初め宣長の、賀茂翁に謁するや、翁曰く、予疾くに神典を解釋せんとするの意あり、然れども、之れ至難の業にして、能く、古言に通じ、古意を得ざれば、以て其解をなすこと能はず。故に專萬葉集を研究したり。されども年已に老境に達し、其志業を果すこと能はず。子は春秋に富めり。黽勉以てこの事に從ひなば、これを果さんこと難きにあらざるべし。子其れ勗めよやと、宣長のこの著ある、蓋し翁の此言あるに因るなり。古事記は我が國史中最古のものにして、卷中に古傳、古語を存し、絶えて漢臭を交ふることなし。故に其貴重なること他書の比にあらず。然れども漢字を以て、國音を記載したれば、難解の語甚多くして、容易の釋すべきものならず。先輩も往々其解釋を著はさんとして、中道にして困頓し、遂に其功を竣へざりき。宣長、日夜焦心熟慮して、之れに從事し、或は古書に考へ、或は古傳に徴し、考證の難儀に至りては、寢食を忘るゝこと、數日に及ぶも屈することなく、殆畢生の力を之れに注ぎ、遂に三十五年の星霜を經て、全部四十八卷、全く功を竣れり。其考證の精核なる其識見の卓拔なる、能く千古霽れざるの雲霧を拜し、以て赫々たる天日を仰く事を得しめたる、其功實に偉大なりといふべし。我が古史を研究するの關鍵は、この書の外またあるべからずと云ふも、決して溢言にあらざるなり

 又た曰く、
『寛政六年、年六十五歳のとき、領主紀伊侯の召に應じて、仕途に就き、屡々君前に於て、古典歌道の事等を進講す。侯其の學問該博にして、識見の卓絶なるを喜び、俸祿若干を給し、奧醫師の班に列す。蓋し其の用ゐる所は、文學にあるも、其本業は醫たるを以てなり。初め某侯、宣長の古典に精しきを聞き、俸祿三百石を給して、招聘せんとす。紀侯この事を聞きて召す。宣長遂に之れに從ふ。けだし其の産地松坂は、紀侯の封内にして世々其の澤を蒙むるを以て、敢て祿の厚薄を問ふに遑あらず。直に召に應ぜしなりといふ』

 又た曰く、
『後故郷、松坂に歸り、專子弟の教授と、著述とに從事せしが、門人等の請により京師に上り、四條烏丸の東に寓せしかば、古典に志すもの、四方より來り、其門に集る。是に於て宣長の名、益々重く、當時臺閣縉紳、或は殿内に招して其講を聽き、或は微服し來りて其説を叩くに至る。今其おもなるものを擧ぐれば、中山大納言、三條大納言、園大納言、花山院右大將、日野一位、大炊御門中納言、綾小路中納言、芝山中納言、富小路三位の諸卿にして、其の門墻を望みて赴き趨るもの、前後五百餘人の多きに及べり。故に其門より出でゝ名をなせるもの頗る多し。今世國書を講じ、歌文を學ぶ者、皆宣長の恩澤を受けて、以て其の流を汲まざるものなし

 又た曰く、
『この時に當り、滔々たる天下皆儒學に心醉し大に内外本末を誤り、其弊延いて、遂にわが國体(マヽ)を汚し、大義名分を謬まらんとするを慨嘆し、之れを矯正せんと欲し、直日靈、玉櫛笥、玉鋒百首等の書を著はして、我神國の古道を發揮せしが、江戸の人市川某といへるもの、末我廼比禮といふ書を著はして直日靈を論難す。然れども宣長其の書の説く所、兒戯に類するを以て齒牙に掛くるに足らずとなし、措て顧みずといへども、門人等、大に激昂し、強て宣長に反駁せんことを請求す。依て止むことを得ず二三夜の間に、葛花二卷を著はして、之れを排斥す。又藤貞幹といふもの、衝口發といふ書を著述して、以て宣長の學風を辨難攻撃せしかば、宣長其の説く所の大義名分に關し、施て國家を誤らんことを憤り、忽ち鉗狂人を著はして、以て僻説を打破して、天下の耳目を聳動せり。宣長の京師にあるや、當時の攝政の命を奉じて、馭戎慨言と云ふ書を著はして之を進呈し、以て尊内卑外の意を辨明したりき。この書、遂に攝政の計らひを以て、乙夜の覽に供へしと云ふ。又玉櫛笥別記二卷は、紀侯の國政を諮詢するにあたり、呈せしところの意見書にして、此等諸書は皆其當時の弊風を一洗して、以て我神國の元氣を振起し、世夢を攪破するに必用なる方便なりしなり

 又た曰く、
『然れども爾後漸く國學者と漢學者と、門戸を別ちて互に譏笑するの勢を逞うするに至りしは、甚だ嘆惜に堪へざる事なりき。又古歌古人の解釋をなし或は之れを批評し、又音韻の學を釐正し、文法語格を整正し、其用例等を明示して先人未發の説甚多し。宣長もとより、歌文を以て名をなさんことを欲せしにあらざれども、其文章は快利にして意義明晰なり。和歌雜文は、詞藻富瞻にして語句艶麗なり。實に宣長は、春滿、眞淵の學統を承きて、之れを大成し、以て國學の大道を開きて、後人に嘉惠する所甚多しといふべし。故に世人宣長と、春滿、眞淵とを、併せて國學の三大人と稱するは、決して偶然にあらざるなり

 又た曰く、
宣長、佛に侫するの人にあらずといへども、父定利佛を信ずる事、極めて厚かりしにより、父歿して後、其の命日には、必朝夕靈前に香花を手向け、讀經したりといふ。
又醫を學びしは、母の命に依るを以て、終身此業を廢せず。偶々講堂にありて書を講する時に際して、人の迎ふるあれば、直に講を輟めて之に應ぜしと云ふ。又以て其の孝順の至れるを想ふべきなり


 又た曰く、
『享和元年九月十八日、病に罹り、此月廿九日家に歿す。享年七十二。門人等相會し、禮を厚くして山室山上の墓所に葬る。遺命により、墓標には松櫻の二株を植え(※マヽ)、前に石を植て、本居宣長奧墓と誌す。之れ宣長の自筆に係れり。門人等私に謚して秋津彦美豆櫻根大人と曰ふ。宣長艸深氏を娶り二男、三女を生む。長男春庭、次男春村出でゝ他家を繼ぐ。長女ひだ子、二女みの子、三女のと子、或は他家を嗣ぎ、或は嫁し、或は早世す。而して春庭眼疾を患へて遂に明を失ふに至る。依て門人稻掛大平を養ひて子とし、家を嗣がしむ。宣長不世出の、英才を以て、荷田、縣居の學統を承ぎ、有益の書を著はして、古學を大成し、古道を發揮し、以て尊王愛國の志氣を養成したり。實に其の功の顯著なる天日と光を爭ふべし。宜なる哉、明治十六年二月、朝廷特に正四位を贈りて以て其功を追賞せられたり』と。
(※注。本記事の典據たる『慶長以來 國學家略傳』が發行されし二年後の明治卅五年十一月十八日、鈴屋大人には從三位を贈られたり






 <本居宣長翁の主なる著書>
    石上私淑言 [いそのかみのささめごと]
    手枕 [たまくら]
    古今選 [こきんせん]
    國號考 [こくがうかう]
    紫文要領 [しぶんえうりやう]
    古事記傳 [こじきでん]
    草庵集玉箒 [さうあんしふたまははき]
    國歌八論斥非評語
    直毘靈 [なほびのみたま]
    紐鏡 [ひもかがみ]
    菅笠日記 [すがかさのにつき]
    字音假字用格 [じおんかなづかひ]
    馭戎慨言 [からおさめのうれたみごと]
    萬葉集玉小琴 [まんえふしふたまのをごと]
    詞玉緒 [ことばのたまのを]
    葛花 [くずはな]
    尾花がもと
    於裳飛倶佐 [おもひくさ]
    くれの秋のさうし
    臣道
    鈴屋詩文 [すずやしぶん]
    手向草 [たむけぐさ]
    眞暦考 []しんれきかう
    漢字三音考 [かんじさんおんかう]
    鉗狂人 附水草の上の物語 [けんきやうじん]
    玉匣 [たまくしげ]
    呵刈葭[あしかりよし]
    祕本玉匣 [ひほんたまくしげ]
    神代正語 [かみよまさごと]
    新古今集美濃家苞 [しんこきんしふみののいへづと]
    玉霰 [たまあられ]
    玉勝間 [たまかつま]
    結び捨てたる枕の草葉
    出雲國造神壽詞後釋 [いづものくにのみやつこのかむよごとごしやく]
    紀美の惠 [きみのめぐみ]
    大祓詞後釋 [おほばらへのことばごしやく]
    天祖都城辨々 [てんそとじやうべんべん]
    源氏物語 玉小櫛 [たまのをぐし]
    古今集遠鏡 [こきんしふとほかがみ]
    家譜集撰 [かふしふせん]
    初山踏 [うひやまぶみ]
    鈴屋歌集文集 [すずやかしふぶんしふ]
    吉野百首 [よしのひやくしゆ]
    古訓古事記 [こくんこじき]
    歴朝詔詞解 [れきてうせうしかい]
    神代紀髻華山蔭 [じんだいきうずのやまかげ]
    枕の山(一名櫻三百首) [まくらのやま]
    地名字音轉用例 [ちめいじおんてんようれい]
    疑齊辨 [ぎさいべん]
    眞暦不審考辨 [しんれきふしんかうべん]
    本末歌 [もとすゑのうた]
    仰瞻鹵簿長歌 [ぎやうせんろぼちやうか]
    尾張連物部連系圖
    美濃の家苞折添
    源氏物語年紀考 [げんじものがたりねんきかう]
    言語活用抄稿
    伊勢二宮さき竹の辨 [いせにくうさきたけのべん]
    後撰集言葉の束緒 [ごせんしふことばのつかねを]
    答問録 [たふもんろく]
    本居氏系圖 [もとをりしけいづ]
    家の昔物語 [いへのむかしものがたり]
    御國詞活用鏡 [みくにことばくわつようせう]
    漢委奴國王金印考 [かんのわのなのこくわうのきんいんかう] 他


     
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by sousiu | 2013-04-26 00:10 | 先人顯彰

縣居門 その十一。小野古道翁 

◎小野古道翁(縣門十二大家)



●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
古道氏は長谷川、謙益と稱す。初め醫を業とせしが、壯年に及びて眼疾を患ひ、終に明を失ふに至る。是に於て專ら鍼灸按摩の術を學び、其の奧妙を極む。乃招く其の治術を受くるもの頗多く、名聲都下に鳴る。古道、業餘心を古學に潛め、特に作文、詠歌の妙を究めんと欲し、嘗て賀茂翁の江戸に出づるを待ちて、忽ち名簿を納れて、其の門に入り、教を受けて精勵勉學す。盖賀茂翁の江戸に出でゝ門戸を開きし以來、其の門に入りて、學ぶの徒、數百輩に至ると雖、然れども、古道を以て其最初とすと云ふ。明和中歿す。遺稿あり、世に行はる。之を古道家集といふ』と。

 又た曰く、
『寶暦二年夏五月、萬葉集の竟宴せし時、謹て賀茂大人に詠て上る長歌とてあり。其人となりを知らんが爲にこゝに擧。
あをによし、なら(奈良)のみやこの、いにしへゆ、きこえつたへし、言の葉の、よろづそなはる、そのふみの、ありとはいへど、いそのかみ、ふりにふりたる、みちなれば、まどへるものを、はしきやし、賀茂のうしはも、おもふにも、かたじけなしや、まなぶにも、いとふことなく、をしふ(教ふ)にも、うめることなく、春のひの、こゝろのとけ(心長閑)く、秋のつき、くまなくさやに、ときたまひ、さとしたまへば、あきらけき、日月のかげを、みるがごと、なりまさりつゝ、八とせ(年)あまり、まなびし來つゝ、ほとゝぎす、なくやさつきの、けふ(今日)しこそ、ことなりにけれ、みなひとも、はなたちばなの、かくはしき、こゝろつたへて、よろづよに、はなも實をも、かたりつぎ、いひつぎゆかむ、あまざかる、あがたゐのうしぞ、たふとかりける
   こゝろさへ、すゞしくもあるか、まつかげの、をかべのみちは千代もかよはむ、

頃年遺稿を校して梓刻し世に流布をしむ』と。

 <小野古道翁の主なる著書>
    古道家集



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 縣門の十二大家も殘すところ僅か一人となつた。
 明日に記す可き御一人は、云ふまでもなく、鈴屋大人その人だ。


    
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by sousiu | 2013-04-25 00:29 | 先人顯彰

縣居門 その十。三島景雄翁 

 愈々懸門の十二大家も十人目に至つた。
 人物紹介に始まり人物紹介に終はり、何ら資料として價値あるものではないけれども、先進を偲ぶの心もて、記述を試みることに就ては強ち無價値ではあるまい。少なくとも野生にとつて、かく云ふことが出來る。
 
 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


◎自寛 三島景雄翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

三島 景雄 自寛

生歿
(生) 二四〇五年  櫻  町  延享二年
(沒) 二四七二年  光  格  文化九年四月二六日 
(年) 六八

姓名
(通稱)吉兵衞、(字)子緯、(號)方壺、三樂庵、自寛

住所
江戸、(墓)淺草新堀善照寺



●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『景雄は、江戸の人なり。字は、子緯、吉兵衞と稱す。方壺又三樂庵と號し、後薙髮して自寛と號す。賀茂眞淵の門に入りて學び、其名時に秀づ。文化九年四月廿六日歿す。年六十八。淺草新堀善照寺に葬る』と。

●『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
『三島景雄、有栖川家の御門人にてありし此、都へのぼりしに、某の大納言とかの御元へ、したしう召されて、御膝元ちかう御物語しつゝ行きかひしに、常のおましのかたへに、文車をおかせ給ひて、いろゝゝの歌書ども、多くつみ置き給へるを、ゆかしう思ひをりしに、殿しばし立ちて、おくつかたに入り給へる程、やをら、ゐざりよりてみれば、大かたは見なれし書どもなり。中に八百日集とうはがきせる書あり。いかなる公卿の御集にかあらむ。誰人のうち聽にかと、いとゆかしうてひらき見れば、はやく濱の眞砂といへる、詞寄の書なりけり。(萬四、笠女郎は、百日行、濱の眞砂も、我戀に、あにまさめれや、おきつ島守。この詞をもとにて、替名となし給へるなり)景雄あきれて、こは有賀長伯がうひまなびのあげまきらが爲にとて、物せし書にて、いさゝかも歌の事、わきまへたる人だちは、まだ見るものともなさぬ、まことあけまきのための書なり。此殿いかでかたへはなたぬ文とは、かしづき給ふらん。それだにあるを、八百日集とうはぶみの名をかへおき給ふは、長伯らが物せし詞寄の書を、かたへ、はなさずおき賜はんは、人めはづかしうおぼし給ふなるべし。いと品おくれたる御心かな。濱の眞砂をあたひなき玉と思ひ給ふ事、またこれを誠よき寶とおぼさば、うはがきも其まゝにてありぬべき事なるを、書きかへ給へるは、まけじ魂の心せばさよ。今よりは參りこじと、獨言いひてすなはち、まかり出でゝ、また參りよることあらざりしとぞ』と。



 <三島自寛翁の主なる著書>
    烟經 一卷


     
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by sousiu | 2013-04-24 00:12 | 先人顯彰

縣居門 その九。村田春郷翁 

 昨日は、幼馴染みの宅へ伺ふ。彼れに芽出度く長男が誕生した爲めだ。
 名前は「寛(かん)」君。くしくも野生が地元で呼ばれてゐるあだ名と同じだ。
 早速抱つこさせていたゞいたが、まだ誕生から九日。どのやうな精密機械に觸れるよりも愼重ならざるを得ない時期だ。
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 いつも思ふのことは、生命誕生の神祕だ。十月十日、母は生まれ出づるその子を腹に宿して生活する。その身體は一つでありながら二ツの魂となつてをり、やがて二人となるのだ。固よりかの魂も、ひとり母ありて宿れるものではない。平田篤胤大人は生命の誕生を『人の生るゝ事は、天津神の奇妙[クスシクタヘ]なる産靈[ムスヒ]の御靈に依て、父母の生なして、云々』(鬼神新論)と述べてゐる。
 寛君の今後の成長が樂しみである。

 
  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


◎顯義堂 村田春郷翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

村田 春郷[ハルサト]

生歿
(生) 二三九九年  櫻 町  元文四年
(沒) 二四二八年  後櫻町  明和五年九月一八日 
(年) 三〇

姓名
(名)平氏、(通稱)長藏、(名)始 忠何(タヾナリ)、後 春郷、(字)君觀、(號)顯義堂

住所
江戸、(墓)深川本誓寺



●小澤政胤翁、『慶長以來 國學家略傳』(明治卅三年十一月十日「國光社」發行)に曰く、
『春郷、姓は平氏、字を君觀といひ、顯義堂と號す。江戸の豪商なり。曾祖忠之は佛學を好み、祖忠友は儒學を信じ、父春道は神道を崇み、且詠歌を巧にす。春郷少くして賀茂翁の門に入りて學び、和歌をよくし、特に長歌に妙を得たり。春郷に及びて、四世皆世に著はる。春郷家甚だ富み、家僮數百人、邸宅數十弓。然れども、以爲らく、富貴は浮雲の如し。自ら恃むに足らざるなり。身を市井より避け、閑處に就きて以て、靜に我が道を樂まんには若かずと、是に於て、父母宗族に謀り、弟春海(※「縣居門 その二。村田春海翁」http://sousiu.exblog.jp/19227944/)をして家を繼がしめ、自ら別業に閑居し、專ら和學に心を潜め、又漢書を讀み、經史に博覽たり。兼て一貴人之れを見んと欲して招く。春郷辭して行かず。曰く、吾れ此技を以て、名をなすを欲せざるなりと。春郷人となり淡雅温厚、父母に事へて至孝なりきと云ふ。
明和五年九月十八日、年三十にして歿す。賀茂翁其死を惜み墓碑を撰し、平生を叙す。春郷家集あり世に刊行す。其のよみ歌は、よく師翁の體を得たりと云ふ』と。

●「村田春郷墓碑」全文(原文は眞名にてかけり)
村田春郷墓碑

玉川にうまし玉あり。人得がてにす。世の中に人あり。うまし人またすくなし。こゝに氏は村田、名は春郷といふ人あり。其さが高くして、へりくだり、おもひがねなごやかなり。そがつねはや、とほつおやをまつるに、いぐしのみてぐらをそなへ、春秋の花をつくし父母につかふるに、やとりのつくゑ(机)ものをさゝげ、朝夕のうるはしみをなせども、すべてたらはぬことをおそれ、うからやからにうるはしく、とも(友)がきにうるはし。家人けだしもゝ(百)たりにちかし。事あるにおよべと見直しいひなほす。神つならはしもてすれば、いへ(家)人もうつしき青人くさ(草)にならはず、とゝのひなごびにたり。このめる事は、いにしへの書[フミ]をよみ、いにしへぶりの歌をよくす。ことに長歌を得たり。また鞠[マリ]こゆるわざを得て、其すがたうるはしく立居みやひ(雅)かなり。其わざこのめる人、皆世にすくれたり(優れたり)といへり。しかはあれど、うま人のめしある時は、ゆゑをまをして(故を申して)まゐらず。左は業[ワザ]もて名をなさんことをはぢてなり。かれ曾祖父[オホオホヂ]忠之[タヾユキ]佛の法[ノリ]に入り、租(※マヽ)父[オホヂ]忠友[タヾトモ]聖のをしへをたふとみ、父春道[ハルミチ]神の道を傳へ、春郷いにしへのみやびをえて、今に四世[ヨヽ]つぎ世にたゝへられたり。こゝにして春郷おもへらく、われ市のほとりに居て、世々とめり。富はやかで(※マヽ。愚按、やがて)うかべる雲なり。うつろふさま、なにかさだまらん。今つとむべき時なりとて、市の外のなりどころにうつろひて、なりはひをながくせんことをはかり、父母にとひ、おい(老)人にはかりて、もろゝゝうつなひてのち(後)、とほつおやをまつり(祭り)、かたやきしてさだめぬ。其ふかきおもひはかり(其の深き思ひばかり)あることかくの如く。時に明和のいつとせ(五ツ年)さ月やまひ(皋月病)ありて、なが月(長月)までおこたらず、みそぢ(三十路)のよはひ(齡)にしてみまかりぬ。をちこち人、みな、いへらく、うまし玉こゝにして、しづきぬと。かなしきかも、この人。をしきかも、この玉。あはれ、いろと春海、なきていへらく、いにし人、子なし。たゞことのは(言の葉)ののこれるあり。名代[ナシロ]となすべし。其常のありさまをば、おきな(翁)がふること(古言)をもて、しるさんことをこそといへり。かれ賀茂眞淵むつましき友がきのゆゑをもて、なみだにひぢてしるす
』(寛政三年十一月『賀茂翁家集』卷之四 雜文二、所收)※括弧及び句讀點は野生による。



●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の下』(嘉永二年)に曰く、
父春道、大いに 皇國の道を尊尚[たつと]び且、謌を好み、賀茂翁の江戸に出(いで)しより直ちに翁を私邸に招堤し、これに就て教を授、頻りに作文詠哥を勉強して学ぶに、元より性、穎悟敏捷にして、大に妙を得て時に鳴。ことに長歌を能(よく)して時輩に超越す』と。

又た曰く、
翁、爲人(人と爲り)温厚にして父母に仕へて孝なり。一年父春道病(やむ)ることあり。翁、甚(はなはだ)これを慨歎して氏神に誓文を捧げて曰く、我命は朝の露夕の霜と消果(消え果て)、骸を蒼海に沈め、田野に曝すとも、さらにこれを厭はじ。唯、父の病ひ治せん事を祈誓す。人これを感嘆す。且、家に從事[つかへ]る奴婢[をとこをんな]に至るまで、能(よく)愛憐して、微[すこ]しも怒[いかりの]色を見せず。故に手足の如くに仕事して家内親族大いに和せり』と。

又た曰く、
明和五年九月十八日、三十にして歿すせり。深川本誓寺に葬る。文詞を以て追悼す。墓碑は賀茂縣居翁、これを作りて能(よく)其爲人(其の人となり)を述たり。後、弟春海竝びに濱臣等、はかりて遺稿を刻して村田春郷家集とし、世に行はる』と。



 <村田春郷翁の主なる著書>
    春郷家集 (文化八年七月、清水濱臣翁序) 一卷

       http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he02/he02_04380/he02_04380.html


     
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by sousiu | 2013-04-23 12:31 | 先人顯彰

縣居門 その八。橘常樹翁 

◎無六翁 橘常樹翁(縣門十二大家)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收にみるに。

橘 常樹

生歿
(生) 二三六四年  東 山  寶永元年
(沒) 二四二二年  桃 園  寶暦一二年一一月一九日 
(年) 五九

姓名
(名)常樹、(號)無六翁[ムツナシノヲヂ]


住所
(生地)土佐、(居住)江戸


●『賀茂翁家集』(寛政三年十一月、平(※村田)春海翁撰)卷之四 雜文二「橘常樹を悲む詞」に曰く、
常樹は土佐の國の人にて妻も子もなくて年頃江戸に來りて獨すみけり(※一人住みけり)。古今集仰古解といふもの二十卷を作り又歌文などもあまたありしを皆、盜にとられてあらずなりぬ。寶暦十六年十一月十九日、酒飮(さけのみ)て、ふ(伏)したるが其まゝみまかりにたり。年五十九にてぞありける』と。
 又た曰く、
『氏は橘、名は常樹てふ人ありき。此人もの(物)しゝ(知)れど、し(知)れりともな(無)く、酒の(飮)めれど、の(飮)めりともな(無)し。たのし(樂)めれど、たのしともな(無)く、したし(親)めれど、したしともな(無)く、うれふ(憂ふ)れど、うれふともな(無)く、まづし(貧)けれど、まづしともな(無)く。またよめる歌つくれる文らもぬす(盜)人にかどはされてな(無)し。かくばかり世にあやしければ、むつなし(六ツ無し)のをぢ(翁)とこそ名づけつべけれ。かくてこぞの霜月のなかのこゝぬかといふになやめる事もなくて、たまさへなむなくなりにける。かれ今しのびいでつゝ人々あはれみあへるをあるじてふこともなくて、むなしの世や。
    世の中は みながらなしと 見し人を ありのすさみに とふがかなしき
 (※本文マヽ。括弧及び句讀點は野生による)


●河喜多眞彦翁、『近世三十六家集略傳 卷の上』(嘉永二年)に曰く、
賀茂翁すなはちこれを悼[いた]むの詞を作りて一畸人とし其号をして、かのあれどもなき(彼の有れども無き)が如くするもの六なり、故に無六翁[ムツナシノヲヂ]とせんといふ。また謌一首を加へて曰(いはく)、よのことは、見ながらなしと、見し人を、ありのすさみに、とふがかなしき』と。
 又た曰く、
『其所著(その著はすところ)の書、古今集仰古解[かうこかい]二十卷、謌文詞の集、若干の卷あり』と。


※『慶長以來 國學家略傳』は、ほゞ、前記と同樣なり。おそらくは「家集」より引用したるかと拜察す。重複の煩を避けんが爲め省略す。




 <橘常樹翁の主なる著書>
    古今集仰古解 廿卷
    家集



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by sousiu | 2013-04-22 01:41 | 先人顯彰

縣居門 その七。日下部高豐翁 

 本日は、西郷南洲會が毎年行なつてゐる「西郷南洲翁銅像清洗式」に出席。
 雨天にかゝはらず、上野公園はおほくの參加者で賑はつてゐた。
     
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◎道堅 日下部高豐翁(縣門十二大家)


●『泊洦(山水+百)筆話』に曰く、
日下部高豐、通稱今藏貞右衞門、家集一卷、序校正して、近刊す

●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
高豐は、通稱を、今莊貞右衞門といふ。賀茂眞淵の門に入りて、古學を學び、詠歌に妙なり。妻もなく、子もなく、年六十あまりにして歿せり。其の著す所の書は左の如し。
山の幸
此書は、高豐の歿せんとする時、瀧川一生と、いへる人にやきすてよとありしを、一生をしみて、祕藏せしを、源道別、撰びて、山の幸と名づけたるものなりといふ
』と。


 <栗田土滿翁の主なる著書>
    日下部高豐家集 一卷
    山の幸




 高豐翁も又た、その人物及び功績を識るに六ケ敷きお一人だ。
 「縣門の十二大家」として數へられる一人であることから、精しい人は翁を御存じであらうけれども、これから知らうとする野生のやうな者では、先づ資料の蒐集からどうにもかうにも難儀してしまふ。實に惜しまれることである。本當にかうした分野を專門的に扱つてゐる人でなければ折角の尊名も最早、尊名のみとなつてしまふ惧れ、無きにしも非ず、だ。
 とは云へそれでも、インターネツトの檢索に頼れば、辛うじてその名を見られぬこともない。この點に就てはネツト普及による一つの恩惠として數へ上げなばなるまい。
 備中處士樣が「九段塾」で、なき相原修兄の年譜を事細かに記されてゐる。
    http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t24/1
 未見の同志にとつて、或は後々相原兄を知らむと欲する後進の有志にとつて、かうした資料が殘存されることはまことに難有いことなのである。曩の土滿翁、今度びの高豐翁を記するにあたり、人物事蹟の保存が如何に後人にとつても大切なことであるか改めて思ひ知らされた次第である。    

    
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by sousiu | 2013-04-21 14:16 | 先人顯彰