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時を忘れて語れる同志は良いものだ。 

 昨夜は菊水國防連合・田代厚會長から横濱市内の料理屋に招かれ、同執行部・石井壮宏兄との三人で食事會を。
 田代兄の行き着けの店らしく、雰圍氣よし、料理よし、すつかり御馳走になつてしまつた。

 田代兄も又た、平成中興の志を逞しくする一人だ。田代家は代々神道を重んじ、兄も又た國學に頗る興味を持つてゐるとの由。求學心旺盛で洵に心強い限りである。自づと話題も國學に關することゝなり、時を忘れて、氣が附けばいつの間にやら午前一時半。延べ六時間も意見交換してゐたことになる。本來、店は0時で閉店とのこと、氣付かなかつたことゝは云へ、何ともお詫びのしようが無い。
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 さて。今春から野生は菊水國防連合の特別相談役を仰せ付かつた。同時に團體間に於ても切磋の朋友として互ひに頑張つてゆかうと確認し合つた。
 菊水國防連合とは故三田忠充前會長から何かとお世話になつてゐる。野生の如き淺學菲才の凡夫が何ら相談相手になるものではないが(涙)、我が陣營は眞價を試される時期であり、今後は更らに存在意義が問はれるであらうから、淺學であるとか菲才であるとかの言ひ譯などせずに、唯々互ひに微力を盡くすあるのみだ。
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by sousiu | 2013-05-31 02:28 | 報告

またゝゝ多忙な一週間でした。

 近藤君と口もきゝたくなくなるくらゐ疲れました。矧んや彼れの天狗話しを聽くに於てをや。
 ↓↓↓↓
 http://douketusya.exblog.jp/

 ですので日乘の更新も休ませていたゞいた次第で御座います。
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by sousiu | 2013-05-28 17:14 | その他

日々是好日 

 一昨日十九日は、阿形充規先生から埼玉縣内で行はれた食事會のお誘ひを賜はり、大日本朱光会他、他團體の諸先輩、諸友と歡談した。固い話しばかりではなく、樂しい話しで盛り上がり、偶にはかういふ時間を過ごすのも良いかもしれない。
 歸へりに愛倭塾の山口さん、愛心翼賛会の山川君が宅に寄り、二人から山林開拓の蘊蓄を聞かされる。山々兩氏の山話し・・・洒落にならん。

 昨日は野生の休日。手紙を書いたり、掃除をしたり。他人からみれば何處を掃除したのか、と思はれるかも知れないが、解る人にだけ解れば宜いのだ。たとひそれが野生一人であるにせよ・・・。

 さてゝゝ。田植ゑほか、色々お世話になつてゐる日本誠龍社・貴田誠會長が日乘を開帖したといふ。
 貴田會長は九日・時對協、十、十一日出雲、十二日田植ゑと御一緒させていたゞいたのであるが、十三日から 皇居勤勞奉仕に四日間從事したといふ。おそるべき體力の持ち主だ。貴田會長も、そのやうな身體に産んでくれた親御樣に感謝されてゐるのではあるまいかと思ふ。
↓↓↓↓
http://s.ameblo.jp/musashinoclub2700
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by sousiu | 2013-05-21 18:23 | その他

多忙な一週間でした 

 更新が滯り一週間。
 彦根の維新青年同盟・後藤會長から十四日には「ブログが更新されてゐない。どこか體の具合ひが惡いのか」と、御一報をいたゞく。
 十七日(つまり更新が滯り一週間目)、後藤會長からまたもや脅迫・・・いや、心配のメールをいたゞく。後藤兄に脅迫の意が無いのだとすれば實に有難いことだ。
 伊勢の下山青年からは相變はらず電話が入る。忙しくて出られなかつたのであるが、出ないでゐると一日に三度四度と彼れからガンヾヽ電話が入る。彼れの場合は心配ではなく、イヤガラセのやうな氣がしてならない・・・。
 何せこの一週間は多忙であつた。

 時對協定例會の後、殆ど寢られぬまゝ出雲國へ(十日)。皆でマイクロバスを借りて向かつた。
 出雲國では山陰皇道社・中上社主の御厚情を賜はり、一同で一泊。我れらが遠出すると毎囘珍道中となるのだが、今度びは珍道中こそ無かつたものゝ、珍事が發生。おつと、喋り過ぎは宜くない。

 歸宅して翌日、十一日は農本主義を研究し、且つ實踐する日本誠龍社・貴田會長の御誘ひを受け、田植ゑを體驗しに栃木縣へ。

 火曜日、假死状態、及び、記憶喪失。
 
 水曜日、來たる第八十六囘歌道講座に提出する歌で苦しむ。床屋で散髪。母へ出雲のお土産を渡す爲め實家に歸へる。

 木曜日、藤澤市内で所用。「芳論新報」脱稿。

 金曜日、木川君來訪。その後、新橋へ。夜中、自宅へ歸へり、娘から彼氏に就ての相談相手をさせられる(娘は相談相手の人選ミスをしてゐる。笑止)。

 土曜日、歌道講座參加。直會も參加。

 かういふ調子だ。
 さうさう、先日、備中處士樣と話した折、こゝ連日多忙であることを心配してくれて、仰せられるに曰、「その元氣を羨ましく思ふ。そのやうに産んでくれた御兩親に感謝せねばならぬ」と。その一言が隨分、胸に沁みた。野生自身は輕口ばかり叩いてゐるので愚にも付かぬ小人に過ぎないけれども、野生は人に惠まれてゐるのか、ドキツとする言葉に出會ふことも少なくない。熟々、人には感謝せねばならない。


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↑↑↑作務衣着ました。(十日)
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↑↑↑スーツ着ました。(十一日)
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↑↑↑汚れても宜い服着ました。(十二日)
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↑↑↑着物着ました。(十八日)

          おしまひ。
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by sousiu | 2013-05-19 02:13 | 報告

和氣公を遙るかに仰ぎ見て。。。時對協定例會 

 本日は、時局對策協議會の定例會があり、參加。

 今月から時對協に、當日乘でも紹介してゐる秋風之舍主人こと、三重のシブケンこと、澁谷君が加盟することゝなつた。
 又た、國學院大學に在學してゐる芦川君も同時に加はつた。シブケン君は國學の研究に情熱を燃やし、未だ廿歳に至らぬ芦川君も尊皇心の發揚に自己研鑽してゐる。それゞゝ將來有望な人士だ。

 本日の議題は所謂る「國難」に就て。
 皆がそれゞゝの意見を出し合ひ、毎度乍ら熱き議論を繰り返すまゝ時間が過ぎた。

 又た今囘は、九州から、大日本愛国党大牟田支部長と同支部有志が、そして、幸福の科学・渡邊伸幸廣報局長及び木場氏が參加した。
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 野生の「國難」に對する考へは、以前、當日乘でも記した。↓↓↓↓
                     http://sousiu.exblog.jp/18041135/


 國難には、自づと「小難」「中難」「大難」があらねばならない。
 天災も、他國による侵害・干渉が加へられることも、經濟崩壞も、食糧難も、みな「難」であり、「國難」には違ひない。
 だがそれは何處の國でも「難」とするものであつて、「難」でない筈が無いのである。
 さりながら、これらに加へて 皇國には 皇國の「難」とす可きものがある。これが所謂る「最大難」だ。
 歴史的にみて「最大難」は曩の「東日本大震災」ではなく、「大東亞戰爭敗戰」でもない。これらは「大難」であることには違ひなからうが、皇國に於ける最大難ではないのだ。
 では 皇國にとつての最大難とはナニであるのか。野生は弓削道教が 神器を覬覦せむとしたこと、あの時は非常に危ふかつたことがらであり、かゝる事態をば、實に最大級の難事であつたと看做す可きであると思ふのだ。幸ひにして偉大なりし 皇國の功勞者・和氣清麻呂公登場し、神勅を直奏して曰く、『我が國、開闢以來、君臣の分、定まれり。天津日嗣は必ず皇儲をたてよ、無道の者は速やかに掃ひ除くべし』と、逆賊の肝膽を寒からしめたのである。
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                    ↑↑↑和氣清麻呂公

 小難・中難・大難を囘避せむとすることは重要だ。だが、最大難を抑止することはもつと大切だ。
 その爲めに何を爲さねばならぬのであるか。そこにこそ、我れらの存在意義が問はれるものでなければならない。
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by sousiu | 2013-05-10 02:05 | 報告

「國學」に就て。その三 

 大川周明博士が『以來、予の魂は專ら祖國を跋渉』し、『予は勇躍して予の全心身を日本其者の爲に献げねばならぬと感ぜざるを得なかつた』として、魂の遍歴を重ねつゝ、皇國に歸結したことは昨日述べた。
 これは思想信仰の偉大であり、その齎せた結果であると認めざるを得ぬ。敵を罵倒して生れる結果が幾許であるかは不明だが、思想や信仰に偉大なる力が籠められてゐるのことは、最早うたがふ餘地もあるまい。

 而して、その思想や信仰が外來の模倣に過ぎぬ代物ではならんのである。くどいやうであるが、こゝに「國學」の重要視されなければならぬ理由がある。

 前囘[「國學」に就て。その二]http://sousiu.exblog.jp/18706474/に於て、「國學」の名稱に就て記したが、今度は皇學館大學の教授でもあつた重松信弘翁の論を拜讀しつゝ、も少し「國學」に就ての認識を深めてゆきたい。


●重松信弘翁『國學思想』(昭和十八年七月一日「理想社」發行)に曰はく、
『國學は長年月に亙つて發達した學問であるから、その概念は全般を見渡して考究すべきであるが、一般に國學に魂を入れた荷田春滿、或は學的に最も發達せしめた本居宣長等の説によつて考究するのが常である。この二人によつて國學の概念は定められたとも云へるから、ここでもこの二人の説を中心として考へて行くが、先づ自己の學に就いて精しく物語つてゐる宣長の説から見よう。宣長が古事記傳の大著を完成して、彼の學の最も圓熟した六十九歳の時に書いたうひ山ぶみは、最もよく自己の學の全貌を示してゐる。先づ「皇朝の學問」のすぢが四種あるとして、第一には神代紀を主として道を學ぶ神學第二には官職・儀式・律令・故實・裝束等を學ぶ有職の學第三には六國史其他の古事より後世の書に迄及ぶ國史の學第四には歌をよみ又古い歌集物語等を學ぶ歌の學とした。春滿も精しくはないが神道・法制・國史・和歌の四方面を研究の内容として擧げてゐる』と。

 曰く、
『宣長は漢學が當時單に學問と云はれたのと區別する爲に、和學・國學等云ふのはよくない。漢學をこそ分けて漢學と云ひ、皇朝の學はただ學問と云ふべきである。紛れる時は「皇朝學」とも云へばよく、和學・國學など云ふは 皇朝を外にした云ひ方である。皇國の事は内の事だから國の名を云ふべきではない。此事は大和魂を堅める一端になるから云ふのだと説いてゐる。玉かつまでは「國學と云へば尊ぶかたにもとりなさるべけれど、國の字も事にこそよれ、なほうけばらぬいひざまなり」としてゐる。春滿の創學校啓の流布本には國家之學・皇國之學・國學等とあり、草稿本には國家之學・皇倭之學・倭學等とある。「倭」「和」はよくないとしても、國學は宣長自身も「尊ぶかたにもとりなさ」れるとするのであり、今日に於いてはその「尊ぶかた」の意にとり、宣長の云ふ 皇朝學の意に用ゐてゐるものと云へる。春滿が國家之學・皇國之學等と云ひ、國學がそれらの約言と考へられる用法をしてゐるのも、宣長の云ふ 皇朝學の意と異るものではないと思ふ』

併し問題は國學と云ふ事の當否にあるのではなく、宣長が自己の學についてそれ程潔癖に云ふ事の精神そのものにある。即ち國學の名稱が 皇國の學とか日本國の學とかの意にとられるとしても、それ程の指稱さへも他との對立意識の上に立つが故に宣長には不愉快なのである。儒學・佛學其他種々の外國の學は「皆よその事」なのであり、自國の事はそれらと位次を異にする獨自の地位を占むべきものとするにある。「吾はあたら精力を外の國の事に用ひんよりはわがみづからの國の事に用ひまほしく思ふ」のであり、「よその事にのみかゝづらひてわが内の國の事をしらざらんはくちをしきわざ」なのである』

『宣長には外國の學問をするのもそれは自國の學問の爲であつた。漢籍を讀まねば日本の古代の事は判らないから讀むべきであるとして、「からぶみを見るには殊にやまとたましひをよくかためおきて見ざれば、かのふみのことにまどはさるゝことぞ。此心得肝要なり」と云ふ。平田篤胤が漢籍・佛典・切支丹の書迄を研究したのも、叙上の意味に於いてであつた。その學は支那を認識する爲に支那學を研究し、印度を識る爲に印度學をやる立場ではない。その立場はあくまで自國を識り自己の道を識る事、殊にそれが古學たるが故に、自己存立の根元を究める殊に外ならない。宣長の國學は 皇であり、自ではあつても、日本の意とはしたくないのである。何となれば日本國の學と云ふ名稱は第三者の立場からの名で、他國人が研究する場合の學問の性格を表はすが、宣長の學は他國人の日本研究とは立場を異にする「御國の學」であるからである』(下線は本文のマヽ)と。



 本道ならば、春滿、眞淵兩大人に次いで、宣長大人、篤胤大人と續く可きであるが、注目に値する文獻も甚だ多く、研究不足であることから、他の文獻やことがらに即しつゝ、兩大人を紹介してゆきたい。氣長にお付き合ひくださりますやう、乞ひ申す。
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by sousiu | 2013-05-08 00:29 | 日々所感

大川周明博士 

 今日まで國學者に就て記するに、荷田春滿大人→賀茂眞淵大人に止まつてゐるが、折をみて續けて行かねばならない。何故ならばそれ、今日ほど、否、詳しく云へば今後ほど、近年に於て「國學」を大事にせねばならない時代は無い、と考へてうたがはないからである。

 日本人は明治時代の開國政策以降、急速度に流れる時代のなかを生きた。新らしき時代に於て、對外に於ける鎖國から開國、對内に於ける政治制度の刷新には充分愼重に歩を進める可きが穩當であつたにも拘らず、國内外の迫りくる事情がそれを許さなかつた。
 その爲め、時にその意志に拘らず、或は意志に反して、時代に流されるあるの感さへ少なくなかつた。
 明治以降の、實に奔流よりも速い時勢の推移も敗戰を經て六十年を過ぎ、漸く落ち着きつゝある。何故ならば國際社會の舞臺に於て日本は現在、半獨立國家としての機能しか有してをらず、好ましからぬことではあるけれども、完全に自立してゐない分だけ(皮肉を籠めていへば)氣樂な立場にあつたわけだ。北朝鮮が經營の爲めに腐心を抱き、日々せはしき状況より脱せられないことゝ比較すれば能く分かる。
 已むを得ず、かくなる立場に立たされた爲めに、日本は戰後、經濟活動を最優先として力を傾けることが出來た。それが良かつたのか惡かつたのか、功罪兩つながらあると思ふがこゝでは問はない。復興が成し遂げられ、それ以上を望み「金滿大國」などと揶揄されながらも經濟大國の地歩を占めたが、これまた頓挫した。
 そろそろ、明治以降の激流から、少し冷靜になる期間が必要であると思ふ。明治以降のせはしき状況に迫られ、つひ忘れてしまつたものを再び取り戻さねばなるまい。即はち「日本的大自覺」だ。それには「國學」が必要だ。

 開國にも功罪の兩つが存した。罪の最たる可きは、御一新以前に存在し得なかつた儒佛以外の多くの思想が流入してしまつたことだ。野生は今日直ぐ樣これらを追放せよ、とまで云ふではない。但し、かれらの流入により動搖してしまつた日本人の大自覺を取り戻す必要があるとは云ふ。

 これに關して、以下、大川周明博士の好例を擧げたいと思ふ。些か長文となるが、閑暇ある御方の御一讀を賜はりたい。


●大川周明博士、『日本的言行』(昭和五年十一月廿日「文録社」發行)「太宰春臺と本居宣長」に曰く、
『異邦崇拜は今日の日本に於ても甚しくある。而もキリストを崇拜し、マルクスを崇拜し、レニンを崇拜し、ガンデイを崇拜する當今の日本人と雖ども、恐らく太宰春臺が徹底して堯舜を崇拜せるには比ぶべくもないと思はれます。ひとり春臺のみならず、徳川時代の儒者は、若干の例外を除けば、概ね春臺と五十歩百歩の支那崇拜者であつたのであります。
 是くの如き時に當り、賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤等の國學者が、一代の中華心醉に宣戰して、日本思想の闡明、日本精神の確立に心碎けることは、吾等をして雄風を今日に仰がしめるものであります。わけても異邦崇拜のこゝろ、深く國民の魂に巣くひつゝある今の世に、日本主義を奉じて屹立せんほどの者は、常に感激の泉を此等先賢の精神に汲むのことを忘れてはなりませぬ

『(本居宣長大人の)警告は移して直ちに今日の歐米心醉者に加へられるべきものであります。徳川時代に學問と言へば漢學のことなりし如く、今日に於ては横文字のみが眞理の庫を開く鍵なるかの如く考へる者が居る。歐米の事とさへ言へば、巴里の横町の小料理屋の話までが、誇るべき知識とされて居る。而して神武紀元何年なるかを知らなくとも、些かの恥ともされて居ない。西洋の社會史は研究されるけれど、日本社會史の研究は少數專門家の手に委ねて顧みようともしない。社會の進化乃至改造を論ずる者も、西洋の社會と日本の社會との異同をさへ明かにせんとせず、直ちに西歐學者の唱ふる原理を日本にも適用せんとする。マルクスの思想を眞理なりとして、之を立證するために引用し來るものは總て西洋の歴史であります。試みに「マルクスの原則に從つて日本史を説明せよ」と設問すれば、日本の歴史は之を知らずと答へて平然たる爲態であります。外交上の論議に於ても、例へば米國の邦人移民排斥を論ずるに當り、ひたすら同胞の米國に於ける行動の非を擧げて、米國の立法にの止むを得ざるを辯護する學者が少なくありませぬ。まことに「皇國をばよその國の如くもてなさんとする」者であります。吾等は斷乎として此の主客顛倒を改めねばなりませぬ。而して總て日本的に思ひ且行はねばならぬと存じます』と。


 かく述べる大川周明博士をして、若年乃至壯年は、樣々な信仰及び思想を彷徨うたのであつた。博士の魂の遍歴を、順を追うて窺つてみよう。
●大川周明博士、『日本精神研究』(昭和十四年十一月廿五日「明治書房」發行)に曰く、
『精神多年の遍歴の後、予は再び吾が魂の故郷に復り、日本精神其者のうちに、初めて予の求めて長く得ざりし莊嚴なるものあるを見た』

 曰く、
『吾が心の至深處に沸き、徐ろに全我を潤ほし去れる要求に動かされ、予の若き魂は、其の一切の矛盾と撞着と熱情とを抱きつゝ、みだりに先賢古聖を思慕し、彼等の辿れる登高の一路を予もまた辿りて、親ら精神的高嶺の絶巓を摩すべく、實に踴躍して郷關を辭した』

 博士は先づ、基督教を信奉した。曰く、
『此路の嶮難は、之を蹈破したるもの等しく知る。そは深き疑あり、長き悶あり、多くの涙がある。予は小禍に頓挫し、微憂に懊惱して、救を基督に求めたこともある。何者を以てしても赦さるべくもなしと信じたる道徳的苦惱を感じたる時、而して其爲に心遲れ眼闇みて、向上の氣力盡き果てんとしたる時、基督予に來りて懇ろに教へた――「如何に微かなりとも汝の心裡に尚ほ一脈の光さへあれば、如何に困憊しても汝の精神に高きを思慕する心が聊かでもあれば、而して最後の教の叫びを擧げさへすれば、神は汝の爲に其の餘燼をして炎々と燃え立たしめ、沈み行く夕陽を轉じて新しき生命の曙たらしめる」と。予は此教に力を得て、幾多の難關を事もなく過ぎた。此時に當りて予は思つた、基督の神こそは、予の爲に寂しき時は友、傷く時は母、過つ時は師、弱き時は父、是くの如き高貴なる先達は他に求めて斷じて得られないと。
 後に至りて、予は予が其時に猶太人から與へられた丁度其ものを、法然親鸞の宗教に於て見た。遠くは印度の世親、近くは南北朝の曇鷲・道綽の淨土思想を繼ぎ、之を鮮明なる一個の宗教たらしめたる善導の信仰が、滅後五百年にして一朝法然上人の宿願を滿足せしむるや、機縁忽ち熟して日東さながら一個の淨土教國となり、南無阿彌陀佛の稱名はいろはより先に耳馴れたるものなりしに拘らず、却つて先づ基督によつて教へられたと云ふことは、予の魂が夙く故郷を出でて遍歴の旅路に出たからである』と。

 而、博士は敬天思想をも尊んだ。曰く、
『而して更に後には、儒教の見えざる根柢となりて、孔孟以來一貫脈々たる天の信仰其者に、また實に神往禁じ難い宗教意識の潛めるを見た。また其源を上代日本の信仰に發し、儒教佛教と共に國民精神の裡に鎔造化育せられ、武士の魂によつて百練千磨せられたる士道――道義と宗教とを渾一したる實踐的規範其者に於て、眞に莊嚴偉烈なる信仰を見た』と。

 然るに博士はこれらに絶望をみる。而して博士は博士を絶望せしめたる、その因を探した。曰く、
『登山半ばにして予は越しかたを振返り、山の麓に遑々如として奔馳する多くの人々あるを見た。而して彼等が更に精神的高嶺を仰ぎもせず、從つて向上登高の志なきを悲しんだ。予は其の重大なる原因が、彼等の貧苦に在るを見、彼等の貧苦の重大なる原因が、制度の缺陷に在るを見た。予は教會の牧師が壇上より肉に死して靈に活きよと説教しつゝある間に、予の背後より醵金箱が順次に廻り來るを見て、如何にして斯かる矛盾に平然たり得るかと怪しんだ』と。

 而して、博士はマルクスを仰いだ。曰く、
『予は總じて物質を偏輕する道徳の虚僞に憤を發した。名手は鈍刀を揮つて銕尚ほ斷つ可し、而も是れ凡夫の企及すべき所ではない。現代に於ける黄金の萬能は、動かすべくもなき事實であり、宗教と言はず政治と言はず文藝と言はず、世にある總てが黄金の爲に左右されるのを目の當り見て居る者に、財寶を卑むべしと教へたところで、何の效果を期待し得るか。仁義五常の道を蹈めと人に迫る者、世の悖徳亂倫を嘆く者は多い。さりながら彼等が言ふ通りの路を進めば、忽ち貧苦の淵に陷るか、又は奸譎なる小人の乘ずる所とならねばならぬ。かくて予は社會制度の根本的改造を必要とし、實にマルクスを仰いで吾師とした』

 次いで博士は古代のギリシヤに傾倒した。曰く、
『予の魂は、或時はまた希臘の古へに旅して、プラトンと共に住んだ。予はプラトンが、皎々たる善の理想を仰ぎつゝ、之を「國家」に實現せんと勇み立てる姿に於て、基督とマルクスとを一身に兼ねたる偉人を見出だせる如く感じた。彼の國家理想を知り得たる時、予は基督もマルクスも最早吾師に非ずと思つた。
 プラトンの國家は、吾等の精神の情欲に相當する農工商、意志に相當する武士、理性に相當する統治者の三者より成る。農工商は國家の經濟的基礎をなし、其の健全なる基礎の上に、國民は安らかに善の理想を辿り行く、武士は、外・劍を執つて外敵を防ぎ、内・統治者の命令を奉じて國家の安寧に任ずる。彼等は武を練りて有事の日に備へるのみならず、心を哲學に潛めて其魂を鍛え(※マヽ)、一點私利私欲の念を抱かず、全我を擧げて公に奉ぜねばならぬ。而して統治者は、理性の體現者として、善と理想に從つて國家を統率する任務を帶ぶ。彼等は渾身の力を擧げて精神至高の努力に從ひ、實在常住の理想たる善の理念を把握せねばならぬ。其の選ばれて治者となれば、願はしき事としてに非ず國家の爲の必然の義務として主權を帶び、任滿つれば去つてまた哲學的思索に沈潛する。
 予はプラトンの國家論を讀んで、若年漢學者の塾に在りし頃、漠然と揣摩したる「王道は文を以て始まる」の深意が、初めて明瞭に會得せられたる如く感じて堪え(※マヽ)なかつた。而して予は後に儒教殊に「大學」の中に、プラトンと同一なる思想の流れを見、更に熊澤蕃山・横井小楠の思想が、其の據つて立つ所の根本精神に於て、全く符節を合するが如くなるを見た』と。

 更らに博士はアメリカの思想家やドイツの神祕主義者に釘付けとなつた。曰く、
『登山者が淋漓たる血汗を流せる後、岩角に腰下して四邊の絶景に我を忘れる時ある如く、予の魂も亦屡々同樣の歡喜を味はつた。
 予の魂は先づヱマソンに惹付けられ、ヱマソンより獨逸の神祕主義者に惹付けられた。予は彼等と共に住む間に、一切の個人を貫く一個の心あるを知り、此心の源頭に溯れば、古賢の思索せる處を思索し、古聖の感じたる處を感じ、時と處との如何を問はず、苟くも人間界の事、總じて了解せられざるなきを知つた。千の森は一個の檞(「木」+「解」=かしは、柏)の實の裡に在るが如く、一個の人間は一切を藏するを知つた。個人は實に宇宙に普遍なる心が一人に體現したるもの、從つて普遍なる心の一切の屬性は、個人の裡に在る』と。

 而して曰く、
『さり乍ら、此の道理は、既に陸象山・王陽明が道破して居た。しびれを切らしつゝ昔教はつた孟子の中にも、萬物我れに備はると書かれて居たのである。而して斯かる心裡の風光は、蘇東坡が殆ど歌ひ盡して居た。今にして思ふ、日本在來の思想信仰と縁遠かりし歐米思想、予の祖父などは言ふにも及ばず、父すらも其名を知るまじき亞米利加人や獨逸人の思想が、千年以來日本精神に浸透せる儒教思想よりも、一層以前に予の魂を動かしたのは、思想其者に非ず唯だ其の表現の清新巧緻なるに心惹かれたる故であると。
 而も此點に於て、禪門幾多の文藝が、實に花は蜀江の綿を織りて予の來るのを待つて居た。唐宋六百五十年に亙る禪門の詩文は、此種のものとして恐らく世界に比類なき文献と言はねばならぬ。中古以來吾國に弘通[ぐつう]したる以後、諸多の高僧知識が遺したる語録乃至頌古も、其の思想の深奧、文字の清新、表現の自在、氣韻の溌溂に於て、ヱマソン其他に比して些の遜色ない。乍併(※しかしながら)予の是を知つたのは後のことである』と。

 然るに今度はイタリアの哲學者、博學者に惹かれた。曰く、
『予の魂は美しき伊太利を訪ひ、わけてもダンテとダヰンチに惹付けられた。ダンテが、基督に叛けるユダと共に、シーザーに叛けるブルータスを地獄のどん底に投げ入れ、此世の王國と靈の王國とを等しく重んじて、基督とシーザーとを同功とし、ユダとブルータスとを同罪とせる思想、又は彼れの雄渾なる世界帝國建設の理想は、深刻なる暗示を予に與へた。~中略~
 または往くとして可ならざるなきダヰンチの、絢爛にして豐麗なる天才は、予をして人間精神の偉大複雜なるに驚嘆せしめ、自家の心裡、また一朝にして百花繚亂の春に遇へるが如く感ぜしめられた。そのころ東京帝國大學文科大學に泰東巧藝史を講じ、予も亦其の聽講生の一人たりし岡倉覺三師、明治年間を通じて異類の天才なりし師の風格に、ダヰンチの俤ありとして獨り喜んだこともある』と。

 さらに博士の魂はオランダを遊歴した。曰く、
『予の魂はまた和蘭に往きて「聖なる破門のスピノザ」を訪ひ、其の「倫理」を熟讀して、ゲーテと共に「かほどまで明かに此の世界を見し事なし」と思つたこともあつた。去つて近代獨逸を遍歴しては、偉大なる哲學者の群、林の如く聳ゆるを見、崇敬にも近き心を抱いて彼等の書に就いた。わけてもヘーゲルとフイフテとは最も深甚なる感激を予に與へた。予は實に日本に思想なしと思つたことさへある』と。

 やがて心は印度を放浪した。曰く、
『予の魂はまた幾年となく印度を遍歴した。殊に聖薄伽梵歌の思想信仰は、予に取りて今日尚ほ神聖なるものである。予はアンニ・ベサントが梵英對譯して出版せる掌に隱れるほどの小册を、肌身離さず持ち歩いた時代もあつた。而して其の薄伽梵歌が、予に下の如く教へたのである――「假令劣機にてもあれ、自己の本然を盡すは、巧に他の本然に倣ふに優る。自己の本然に死するは善い、他の本然に倣ふは恐るべくある」と。
 予は當初この教訓を個人の上のみ解して居た。道徳は模倣を許さずと云ふ倫理的原則、カントによつて其の精細なる論理を闡明せられたる此の原則が、逸早く此の古典に於て確立されて居たことは、予の最も會心事とせる處であつた。然るに其の後に至り、これまで專ら内にのみ向けられたりし予の眼が、漸く外にも向けられ初め(※マヽ)、政治的現象に深甚なる關心を覺へ(※マヽ)るやうになつてから、予は此の原則が個人の上のみならず、實に國民の上にも同樣に適用せられねばならぬことを切實に感じた。予をして多年の精神的遍歴より、再び魂の故郷に歸來せしめたるものは、他なし此の自覺である』と。

 大川周明博士の魂は、つひに 皇國に歸來した。曰く、
『此時より以來、予の魂は專ら祖國を跋渉した。而して其の名山大川に初めて全我の滿足を得た。げに假令劣機にてもあれ自己の本然を盡すは、巧に他の本然を倣ふに優る。如何に況んや日本の本然が、啻に劣機に非ざるのみならず、實に森嚴雄渾なるを知りたる以上、予は勇躍して予の全心身を日本其者の爲に献げねばならぬと感ぜざるを得なかつた』と。

 こゝに云ふ「自己の本然を盡すは、巧に他の本然を倣ふに優る」の「自己」とは、云ふまでもなく日本的自覺のことを差してゐる。「予は實に日本に思想なしと思つたことさへある」とまで思ひ遲疑しなかつた大川博士が日本的大自覺を抱いたとき、その信仰と思想は、これまで仰慕した凡ゆる國々の思想を遙かに凌駕してゐたことを識るのである。
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●『日本的言行』に曰く、
試みに問ふ、いづれの處にか櫻に非ず、梅に非ず、牡丹に非ざる「花」があるか。花は一個の理念としては存在する。而も此の理念は、必ずや櫻・桃・梅・菊等の特殊の花として咲き出づることによつて、初めて實在となるのである。それ故に梅花は、梅花として咲く以外に、決して花たることが出來ない。梅花として咲くことによつて、花の理念が初めて實現せられ、花の花たる所以が發揮される。こは正しく人間の場合に於ても同然である。
 拒むべくもなき事實として、一切の人間は必ず孰れかの國家又は民族の一員として生れて來る。日本人に非ず、支那人に非ず、米國人にも非ざる「人間」は、實在としては決して存在しない。そは唯だ一個の理念として存在するだけであり、而して此の理念は必ず民族又は國民として實現される。故に日本人は日本人として、米國人は米國人として、それゞゝの面目を發揮することが、取りも直さず人間の面目を發揮することゝなる。從つて眞個の國民となりてこそ、初めて眞個の人間となり得る道理である。此の順序を誤るのは抽象的論議より來る顛倒の見である。吾等日本國に生れたる者は、第一に日本人であらねばならぬ
』と。


 これ啻に大川周明博士その人ひとりのみを特例とするでなく、民族總じて斯くあらねばならず、又た、有志の立志獻身如何によつては斯くなるものと信じていさゝかも疑はない。乃はち、天竺崇拜、唐國崇拜、天國崇拜、西洋崇拜、而、個人崇拜、權利崇拜、黄金崇拜などの錯覺、醉夢、動搖より目覺め、魂 皇國の許へ歸らんことである。その爲めにも、固有にして神聖たるの思想と信仰を學び、且つ、傳へてゆかねばならぬのである。
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by sousiu | 2013-05-07 02:03 | 先人顯彰

久々に日乘らしき日乘をば。

 本日は、下山青年と宮城に遙拜。休日であり、陽氣も良いことから、大勢の人達が宮城を拜してゐた。
 下山青年も高山彦九郎先生を崇拜する一人、謹んで遙拜してゐた。齡廿一、今後の彼れの成長が樂しみと思ふのは野生ひとりではあるまい。
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              ↑↑↑↑下山青年。彼れもまた「三條の會」の同人である。


 その後は靖國神社を參拜。木川青年とも合流した。
 その後、敬神に就て何かと我々三人が御教示いたゞいてゐる某先生のところへ御挨拶に伺ふ。奇しくも話題は安倍氏の「天皇陛下萬歳」から始まり、西南の役にまで及んだ。う~~む、中々勉強させられた。


 その後は歌舞伎町へ。阿形充規先生、正氣塾・若島和美副長の御二方に我々三人を交へていたゞき、計五人で運動談義。
 兩先生から今後の運動の展望に就て、數々の良きお話しを賜はつた。

 で、たゞいま歸宅。今日も一日、是れ 皇日。
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by sousiu | 2013-05-03 23:50 | 報告

贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿三。明和六年己丑神無月晦日 

 本日は、晴天。氣分良く起きてみれば、例の伊勢の下山君から、居留守を見破つた借金の取立て人かの如き着信の嵐。
 寢てゐる間に崩れてゐた本の山を片付け、屆いた「芳論新報」の配送作業を行なひ、而、下山青年は今、野生の隣にゐる。汗顏。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


 賀茂眞淵大人に關して記事を始めて約二个月だ。まだゝゞ書き足りず、且つ學ばねばならぬことも澤山あるのだが、取り敢へず、本日で一旦、擱筆しようと思うてゐる。
 眞淵大人は、明和六年十月卅日、おん年七十三にて瞑せられた。清宮秀堅翁の『古學小傳』上卷(安政四年)では、
『明和六年己丑/七三/  二月、語意考成。自跋アリ。宣長、西村某ガ請ニヨリ序ヲカク。○山問文神代卷刻成。○十月晦日身マカリヌ』
 とある。最晩年である明和六年にも出版を重ねてゐたのであるからして、その生涯は將さに學問、研究、發表であつたと謂ふ可きである。否、之に加へて、子弟、後進の教導にも餘念が無かつた。大人の生涯を通じたその成績は、既述したる門下の偉才によつて明らかである。



●『岡部家譜考證』(村田春海翁)「翁の歿年の事」に曰く、
『翁の年を、家譜に七十四とあるは、後人の翁の事を書きそへたる時の誤なり。翁は明和六年十月晦日に終はられて、年は七十三にてなむありし。これは春海など、をさなきときより常に翁の年の事、いはるゝをば、聞きしりたることにて、まがふべくもあらねど、世移りなば、うたがふ人もありぬべければ、今ここにくはしくいふべし。翁のよまれたる萬葉集に、手づから考とも、書きくはへられたる本の奧書に、所々年をしるされたり』と。

●清水濱臣翁『泊洦(山水+百)筆話』に曰く
『縣居翁一世の年譜行状は、別にくはしくかむがへしるさんの心ざしあればいはじ。家集は、吾師の筆記し置き給へる岡部家譜考證一卷ありて、いとくはし。墓は武藏國荏原郡品川驛東海寺地内、少林院の山上にあり。翁東都に下られてより、南郭先生といとしたしくむつびかはされつゝ、詩を先生に學ばれしに、先生は國學を翁にとはれて、互によき學びがたきにおはせしかば、先生の墓所も、此寺なるちなみに、翁も墓地をこゝにしめおかれしとぞ。墓石の正面には、芳宜園[千蔭]の書にて、賀茂縣主大人墓とあり。近來芳宜園、織錦家、兩氏相はかりて、年毎の九月はつる日、此おくつきにまうでゝ、人々と共に歌よむことゝせられしより、年ごとにまうでつゝ、今も其流をしたふ人々は、その日をさだめてまうづる事になむ。翁の正忌十月晦日なれど、菊紅葉もをかしきをりとて、九月晦日に御はかまうでとさだめられしなりけり。享和元年、芳宜園のあるじ此墓側にあらたに碑文をしるし、石にゑりて建てられたり。[此碑文は芳宜園家集に出でたれば、こゝに略せり]其をり、吾師のかく碑文たてられし事をよろこびて、よまれし長歌あり。[これも吾師の家集に入りて上木に及びぬれば、こゝに略せり]』と。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


●小野古道翁 (『近葉菅根集』卷十「雜部五」文化十一年七月、清水濱臣翁編、所收)
『 賀茂のうしをかなしむうた    古道

はしきやし、あが師の君を、しのぶれば、畏こきかもよ、いそのかみ、古き宮ぶり、したひつゝ、人をもさとし、みづからも、水ゆく川の、よどみなく、み空ゆく日の、やむごなく、學びしくれば、おのづから、心ひらけて、人みなの、言葉の花も、ならの葉の、名におふ宮の、いにしへに、さきかへりてぞ、にほふなる、さあるが中に、うつせみの、世のはかなきは、玉の緒の、ながくもがなと、祈れども、神もうけずて、いかなれば、此曉の、霧ときえけむ
      さだめなき、世とはしりつゝ、思ふこと、とはではなかなく、過しつる哉      』

●岡廼舍 栗田土滿翁 ( 仝 )
『 岡部大人の、吾嬬にてみまかり給ふときゝける時、    土滿

湊べに、舟はよるとふ、ありそべに、みるはよるとふ、いかさまに、思ひよりてか、父のみの、父にもあらぬを、父のごと、めぐまひ給ひ、祚葉の、母ならなくに、母のごと、したひなづかひ、萬代に、かくしもかもと、思ひしを、思ふかひなく、うつせみの、世の事しげみ、むら肝の、心にもあらず、足曳の、山をもへなり、みなきろふ、川さへへなり、なぐるさの、とほそぎをれど、さねかづら、後もあはむと、大舟に、おもひたのみて、荒玉の、月もへゆけば、璞玉の、年もきえゆき、神無月、しぐれと共に、もみぢ葉の、君はすぎぬと、玉鉾の、道ゆく人の、およづれを、我にやつぐる、まが言を、我やきゝつる、梓弓、おとも聞えず、玉づさの、使もこねば、せむすべの、たづきもしらに、ぬえ鳥の、うらなきしつゝ、うまごりの、あやにかなしみ、よるはも、夜のあくる極み、ひるはも、日のくるゝまで、鳥がなく、あづまの空を、くまもおちず、見つゝぞしぬ、おも父のごと』

●五十槻園 荒木田久老翁 ( 仝 )
『 賀茂のあがたゐぬしの身まかり給ひぬと聞きて、    正恭

鳥がなく、東の國の、武藏野の、大城がもとは、春花の、いざ榮ゆれば、久方の、天ともいはむ、雲井なす、たとほき國ゆ、石橋の、まぢかき里ゆ、八百萬、千萬人の、いりつどひ、いばみむれ居て、うま人は、うま人さびし、いやつこはも、やつこともどち、なすわざの、みやびもあるを、幾ものゝ、手ぶりもあるを、水沫まく、眞淵のをぢは、上つ代の、かみらの道に、村肝の、心をそみ、いそのかみ、古き宮ごとを、口からに、となへもしつゝ、あぢさはふ、晝よるわかず、ひたぶるに、思ひまかして、たなうらに、とりえしことは、ふみでもち、文にあやなし、世の人に、傳へまくせり、かくしありて年もきえゆき、久方の、月日もへなば、いさをしの、ほにあらはれて、言さやぐ、からになづめる、うつし世の、うつし心も、古へに、かへらひぬらむと、大舟の、思ひ頼みて、高山の、仰ぎしをぢは、神無月、しぐるゝ雲に、いつしかも、いかくりたまひ、きえ霜の、はやく消えぬと、玉づさの、使のいへば、いはむすべ、せむすべしらず、なく涙、ひさめとふりて、衣手は、ひづちにひぢぬ、あれだにも、かくあるものを、啼子なす、つきまとはして、朝にけに、むつびし人は、旗薄うながふしつゝ、いかさまに、い歎くらむと、出る日の、東に向ひ、照る月の、空にしぬべば、玉かづら、かげにみえつゝ、うらもなく、わすらえかねて、いよゝ悲しも
      大空に、あふぎしをぢは、いつしかも、雲がくりぬと、きくがかなしさ      』

●茅生庵 楫取魚彦翁 及 鈴屋 本居宣長翁 ( 仝 )
『 會 縣居 慕 賀茂大人 歌     魚彦

春はも、花くはし、櫻のめて、秋はも、さにつらふ、もみぢをみると、人さはに、來入をり、うたによひ、さかゑらきし、あそばひし、あがたゐの君、まさでかなし、そのあがたゐあはれ

 和 魚彦 歌     宣長

あがたゐに、人さはにきいりをり、いりをりて、酒みつぐ日も、君かめの、こほしけまくは、うべなゝゝゝ、さぶしけむよ、そのあがたゐ

 此ついでにかの大人をしぬぶ哥

神風の、伊勢のうみに、よる浪の、とこよの浪の、とこしへに、かくしもかなと、はろはろに、をろがみて、わがたのみ、つかへまつりし、賀茂のうし、そのうしはや』


●芳宜園 加藤千蔭翁(享和二年刊『朮花[うけらがはな]』)
『縣居大人、みうせまして、三十ぢまり三とせになりたまひける神無月の晦日に、竹芝のおくつきのもとに、つどひて、ふるきを思ひてよめる歌、竝短歌     千蔭

四方山の、まもりにすとふ、梓弓、末の中頃、いそのかみ、ふりにし世々の、手ぶりをば、忘れいにつゝ、もとつ世に、引きもかへさず、あまた年、經にける事を、ますらをの、弓末ふりおこし、いそしくも、思ひおこして、菅の根の、めもころゝゝに、さとはせる、世の人皆を、わがうしの、道びき給ひ、弓弦なす、たゞ一すぢに、すなほなる、すめら御國の、古ことを、傳へたまへれ、新玉の、年もへなくに、古への、學の道に、村ぎもの、心をよする、人さはに、成にけるかも、かくしつゝ、五百千々の世に、天傳ふ、日のたて日のぬき、くまもおちず、行きたらはして、古へに、立かへる世を、松が根の、遠く久しく、竹芝の、いそ山寺の、おくつきを、あふがざらめや、梓弓、もとの世しのぶ、ますらをのとも
      今よりの、千歳の後に、よの人の、しき忍ぶべき、おくつき所      』


●鈴屋 本居宣長翁 (『鈴屋集』卷六、本居春庭翁編、所收)
『 縣居大人の御前にのみ申せる詞     宣長

さまゞゝ、萬葉集にいぶかしきくさゞゝ、かきつらねて、つぎゝゞにとひあきらめ、又のりながゞ、つたなき心に、おふけなく思ひえたる事どもをも、かつゞゝかきまじへて、よきあしきことわり給へと、こひ申せる、をぢゝゞの中に、いとよきさまにしひたることゞも、これかれまじれり。今より後、かくざまのことは、つゝしみてよと、深くいさめ給ふみことを、かゞふりて、いともゝゝゝかしこみ、はぢ思ふが中に、かの集の卷のつぎゝゞ、かりごものみだれてあるを、淺茅原、つばらつばらに、わきため正し給へる、うしの御心にたがひて、これはた、おのがおもほしきまにゝゝ、ことざまにしも論ひさだめて、こゝろみに、見せ奉りし事はしも、いま思へば、いとゐやなく、かしこきわざになも有ける。かれ今のみの詞をさゝげて、かしこまりまをすことを、たひらけくきこしめさへ。又うたがはしき事は、猶はらぬちに、つみたくはひおきて、ひらく時をしまつべきものぞと、をしへ給へる、まことに然はあれども、しかうたがひつゝのみあらむに、おろかなる心は、いつかもはるく時あらまし。然るに今大人のみさかりに、上つ代の道をとなへます世に、生れあひて、雲ばなれそきをる身は、御むしろのはしつ方にも、えさもらはぬものから、其人かずには、かずまへられ奉りて、心ばかりは、朝よひさらず、御許にゆきかひつゝ、百重山、かさなる道の長手はあれど、玉づさのたよりにつけては、とひ申す事どもを、いさゝかもかくさふことなく、菅の根の、ねもころにをしへ給ひ、さとし給へば、しぬばしきいにしへの事は、ますみの鏡にむかへらむごとくに、たまぢはふ神の御世まで、のこるくまなくなも有ける。かゝるさきはひをしもえてしあれば、おろかなる心に、つもるうたがひは、おのづから、ひらけむよを、まつべきにしあらずと思へば、かつゞゝもおもひよれるすぢは、さらに心にのこすことなく、おもほしきまにゝゝ、まをしこゝろみ、あげつらふになも。そが中には、しひたるも、ひがめるもおほかるべけれど、本よりすみぞめのくらき心には、それはた、えしもわきまへしらねば、よきもあしきも、たゞ明らけきうしのことわりをまちてこそと、ひたぶるにうちたのみてなも。かれいまゆくさきも、なほさるふしのあらむには、しかおもほしなだらめて、罪おかしあやまてらむをも、神直日大なほびに、見直したまへと、かしこみかしこみまをす      』

●本居大平翁 (『藤垣内集』卷三、藤垣内集翁著、所收) 
『 賀茂眞淵大人の像によみてかける歌     太平

古ことの、學のわざを、はし弓の、始めいざなひ、諸人を、教へましける、縣居の、大人の功は、鳥がなく、東の國に、名かゞせる、富士の高ねの、天そそり、高きが如く、彌高に、あふぎかしこみ、しぬびまつらむ
      ふるごとの、まなびの親と、よろづ世に、いひつぎゆかむ、縣居の大人      』


●佐々木信綱博士『賀茂翁百五十年祭を迎へて』(大正七年十月)
『今や、前古未曾有の世界的大戰爭も、漸う終を告げようとしてゐる。社會すべての方面にわたつて、戰爭諸々の變動が生ずべきことは、今日より想像するに難くない。その新しい形勢に際して處してゆくべき我が國將來の時局の重大であるべき事は、固より想像するに難くない。
 國家の將來に關するこれらの大きな複雜な問題に就いて論及しようといふのは、固より吾人の目的でない。併し、ここに考へざるを得ない一事は、國民の間に、更に新たなる國家的自覺の生ずべきであらうし、また生ぜしめなければならないといふことである。しかしこれとともに、特に述べたいことは、我等が祖國の研究といふことが、この期に臨んで當に興るべきであるといふことである。しかしてこの研究こそは、上記の自覺の基礎とならなければならぬものである。
 かく考へてくると、吾人として特に想起せざるを得ないのは、吾人の先輩たる江戸時代の國學者の事業である。契沖春滿に興り、眞淵宣長篤胤等と繼承したこれらの學者の國學上の功績に就いては、こと新らしく述べるまでもないが、それらが實に祖國に對する學問上の立派な研究であつて、この研究にもとづいた自覺が、明治の維新の源となり、やがて今日の盛代の基となつたことは、吾人の忘れてはならぬことである。吾人は、今日に於いて、實にこれらの先輩の精神を發揮するの大いに必要なるを感ぜざるを得ないのである。
 しかして今年今月は、特にこの先輩中でも最も強い光を放つた一人なる縣居賀茂眞淵翁の百五十年に當るのである。眞淵翁の透徹した識見と、凜乎たる意氣とが、その學問と相俟つて後人を激勵し感奮せしむるものの多いことは、その著作の一篇をだに讀まば、何人も感得し得べきところである。しかしてこの、眞淵翁の人格と學識とが、宣長をも生み、篤胤をも生んだのである。その更に、新たなる力となつて、新たなる祖國の研究に一大刺激を與ふべきことは、いふまでもない。かく考へ來れば、今次の百五十年祭は、決して尠少ならざる意義を有すると言はねばならぬ。
 翁の五十年祭は、今より百年の昔なる文政元年に、翁の終焉の地たる江戸、及び郷里なる濱松に於いて行はれた。江戸では、翁の學統を承けた清水濱臣、高田與清等が、品川東海寺なる少林院で、追悼の會を催した。濱松では翁の養家の梅谷家を祭場として、門弟内山眞龍を主とし、宣長門下の遠江の學者等が事に當り、歌會の催しもあつた。この時の結果として、後年岡部郷の賀茂神社の境内に、縣居靈社が建設された。斯くの如く五十年祭は相應に盛んではあつたが、なほ郷士的性質を帶びたものであつた。濱松に於ける百年祭は、更に注意すべきものがあつた。そは前々年から計畫されて居たが、恰も慶應戊辰の年に當つたので、鳥羽伏見の戰報にうながされて、遠州の國學者及び土豪等が、翁の靈社の前に盟を結んで、報國隊を組織して國事に盡くした。かくて百年祭は、當時の時勢にふさはしい別なる形式を以て營まれた觀をなした。  
 今や眞淵は、固より郷土的の人物でなく、實に國家的偉人である。しかして吾が國は昔の日本でなく、世界の日本である。この國家的偉人をば、廣く國民と共に記念したい』と。
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by sousiu | 2013-05-02 18:36 | 先人顯彰

贈從三位 賀茂眞淵大人 その廿二。松坂の一夜 

 賀茂眞淵大人と本居宣長大人の會見は、後の國學發達に寄與せしめること大であつた。
 この模樣は、佐々木信綱博士の筆にお委せするが賢明であらうと思ふ。
 全文を掲げむが爲め、長文となるが、大體を知る上に於て有益となるであらうから、御一讀を請ふ次第である。

●佐々木信綱博士『松坂の一夜』(昭和九年十二月二日「弘文社」發行『賀茂眞淵と本居宣長』所收)
『時は夏の半、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひつれてゆくお伊勢參りの群も、春さきほどには騷がしからぬ伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舖柏屋兵助の店先に「御免」といつて腰をかけさせたのは、魚町の小兒科醫で年の若い本居舜庵であつた。醫師を業とはして居るものゝ、名を宣長というて皇國學の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧主[とくい]であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ殘念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、先ほどお立よりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここに」といつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は「何でも田安樣の御用で、山城から大和とお廻りになつて、歸途[かへり]に參宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫[むくみ]が出たとやらで御逗留、今朝はまうおよろしいとのことで御出立の途中を、何か古い本はないかと暫らくお休みになつて、參宮にお出かけになりました」。舜庵、「それは殘念なことである。どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の樣子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、平生町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて次の宿なる垣鼻[かいばな]村のさきまで行つたが、どうもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて來た。
 數日の後、岡部衞士は神宮の參拜をすませ、二見が浦から鳥羽の日和見山に遊んで、夕暮に再び、松坂なる新上屋に宿つた。もし歸りにまた泊られることがあつたならば、どうかすぐ知らせて貰ひたいと頼んでおいた舜庵は、夜に入つて新上屋からの使を得た。樹敬寺の塔頭なる嶺松院の歌會にいつて、今しも歸つて來た彼は、取るものも取あへず旅宿を訪うた。同行の弟子の村田春郷は廿五、その弟の春海は十八の若盛で、早くも別室にくつろいでをつた。衞士は、ほの暗い行燈の下に舜庵を引見した。
 賀茂縣主眞淵通稱岡部衞士は、當年六十七歳、その大著なる冠辭考、萬葉考なども既に成り、將軍有徳公の第二子田安中納言宗武の國學の師として、その名嘖々たる一世の老大家である。年老いたれども頬豐かなるこの老學者に相對せる本居舜庵は、眉宇の間にほとばしつて居る才氣を、温和な性格が包んでをる三十四歳の壯年。しかも彼は廿三歳にして京都に遊學し、醫術を學び、廿八歳にして松坂に歸り醫を業として居たが、京都で學んだのは啻に醫術のみでなくして、契沖の著書を讀破し國學の蘊蓄も深かつたのである。
 舜庵は長い間欽慕して居た身の、ゆくりなき對面を喜んで、かねて志して居る古事記の注釋に就いてその計畫を語つた。老學者は若人の言を靜かに聞いて、懇ろにその意見を語つた。「自分ももとより神典を解き明らめたいとは思つてゐたが、それにはまづ漢意を清く離れて古へのまことの意を尋ね得ねばならぬ。古への意を得るには、古への言を得た上でなければならぬ。古への言を得るには萬葉をよく明らめねばならぬ。それゆゑ自分は專ら萬葉を明らめて居た間に、既にかく年老いて、殘りの齡いくばくも無く、神典を説くまでにいたることを得ない。御身は年も若くゆくさきが長いから、怠らず勤めさへすれば必ず成し遂げられるであらう。しかし世の學問に志す者は、とかく低いところを經ないで、すぐに高い處へ登らうとする弊がある。それで低いところをさへ得る事が出來ぬのである。此むねを忘れずに心にしめて、まづ低いところをよく固めておいて、さて高いところに登るがよい」と諭した。
 夏の夜はまだきに更けやすく、家々の門[かど]のみな閉ざされ果てた深夜に、老學者の言に感激して面ほてつた若人は、さらでも今朝から曇り日の、闇夜の道のいづこを踏むともおぼえず、中町の通を西に折れ、魚町の東側なる我が家のくぐり戸を入つた。隣家なる桶利の主人は律儀者で、いつも遲くまで夜なべをしてをる。今夜もとんゝゝと桶の箍をいれて居る。時にはかしましいと思ふ折もあるが、今夜の彼の耳には、何の音も響かなかつた。
 舜庵は、その後江戸に便を求め、翌十四年の正月、村田傳藏の仲介で名簿[みやうぶ]をさゝげ、うけひごとをしるして、縣居の門人録に名を列ぬる一人となつた。爾來松坂と江戸との間、飛脚の往來に、彼は問ひ此[これ]は答へた。門人とはいへ、あおの相會うたことは纔かに一度、ただ一夜の物語に過ぎなかつたのである。
 今を去る百五十餘年前、寶暦十三年五月二十五日の夜、伊勢國飯高郡松坂中町なる新上屋の行燈は、その光の下に語つた老學者と若人とを照らした。しかも其ほの暗い燈火は、吾が國學史の上に、不滅の光を放つて居るのである。

 附言   余幼くて松坂に在りし頃、柏屋の老主人より聞ける談話に、本居翁の日記、玉かつまの數節等をあざなひて、この小篇をものしつ。縣居翁より鈴屋翁に贈られし書状によれば、當夜宣長と同行せし者[尾張屋太右衞門]ありしものゝ如くなれど、ここには省きつ。
     以下、「和泉和麿の宣長評」まで十篇は、大正六年四月以前の執筆にかかる』
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 次に、大人を訪ひたる、鈴屋大人御本人からお訊きせねばなるまい。

●鈴屋 本居宣長大人『玉勝間』(寛政五年起筆)卷二「おのれあがたゐの大人の教をうけしやう」に曰く、
『宣長、縣居大人にあひ奉りしは、此里に一夜やどり給へりしをり、一度のみなりき。その後はたゞしばゝゞ、書かよはしきこえてぞ、物はとひあきらめたりける。そのたびゝゞ、給へりし御こたへのふみども、いとおほくつもりにたりしを、ひとつもちらさで、いつきもたりけるを、せちに人のこひもとむるまゝに、ひとつふたつと、とらせけるほどに、今はのこりすくなくなんなりぬる。云々』と。

●  仝  「あがたゐのうしの御さとし言」に曰く、
『宣長、三十あまりなりしほど、縣居大人のをしへを、うけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむとのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは、われも、もとより、神の神典[ミフミ]をとかむとおもふ心ざしあるを、そはまづ、からごゝろを清くはなれて、古のまことの意をたづねえずばあるべからず。しかるに、そのいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず。古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ。さるゆゑに、吾はまづ、もはら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでに、いたることえざるを、いましは、年さかりにて、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし。たゞし世中の物まなぶともがらを見るに、皆ひきゝ所を經ずて、まだきに高きところにのぼらんとする程に、ひきゝところをだにうることあたはず。まして高き所は、うべきやうなければ、みなひがことのみすめり。此むねをわすれず、心にしめて、まづひきゝところより、よくかためおきてこそ、たかきところには、のぼるべきわざなれ。わがいまだ、神の御ふみをえとかざるは、もはら此ゆゑぞ。ゆめしなをこえて、まだきに高き所をな、のぞみそと、いとねんごろになん、いましめさとし給ひたりし。此御さとし言の、いとたふとくおぼえけるまゝに、いよゝゝ、萬葉集に心をそめて、深く考へ、くりかへし問たゞして、いにしへのこゝろ詞をさとりえて見れば、まことに世の物しり人といふものゝ、神の御ふみ説る趣は、皆あらぬ漢意のみにして、さらにまことの意ばえ、えぬものになむ有ける』と。

 これは古今にしてゆめ忘れる可からざるの金言だ。固より我れらもしかと銘記す可き戒言だ。
 何事も理解せず、固まらぬまゝにして「敬神尊皇」てふスローガン、熟語さへ世人に訴へ出れば良とする、果して之を啓蒙と云ふ可きであらうか。先づ、己れの勤王、殉皇の精神を固めること、これが大切であり、必須たる可きことがらであるのだ。


●  仝  「師の説になづまざる事」に曰く、
『おのれ古典[イニシヘブミ]をとくに。師の説とたがへること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことゝ思ふ人おほかめれど、これすなはち、わが師の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出來たらんには、かならずしも、師の説にたがふとて、なはばかりそとなむ、教へられし。こはいとたふときをしへにて、わが師のよにすぐれ給へる一つなり。大かた、古をかむがふる事、さらに、ひとり二人の力もて、ことゞゝくあきらめつくすべくもあらず。又よき人の説ならんからに、多くの中には、誤もなどかなからむ。必わろきこともまじらではえあらず。そのおのが心には、今はいにしへのこゝろ、ことゞゝく明らかなり。これをおきては、あるべくもあらずと、思ひ定めたることも、おもひの外に、又人のことなるよきかむがへも、いでくるわざなり。あまたの手を經るまにゝゝ、さきゞゝの考のうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎゝゞにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならず、なづみ守るべきにもあらず。よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふがひなきわざなり。又おのが師などの、わろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者、その説にまどひて、長くよきをしるごなし。師の説なりとして、わろきをしりながらいはず、つゝみかくして、よざまにつくろひをらんは、たゞ師をのみ尊とみて、道をば思はざるなり。云々』と。

 縣居大人は、鈴屋大人に學問の方向のみならず、その姿勢に就ても教ふること多大であつた。
 その主なる一つとしては、我が説に誤りあらばそれを師の説であるから面目を穢すまいとして無理強ひして肯定するでなく、その誤りを天下後世に傳へよ、といふものであつた。
 「ルカによる福音書」(第六章四十節)には『弟子は師に勝るものではない。しかし誰れでも十分に修行を積めば、その師のやうになれる』と書かれてあるが、我が國學の先達は、弟子に「師を越えよ」と申してをるのだ。
 この度量の廣さ、志の高さが後の國學者に活力を與へ、又た、國學は大いに進歩發展を遂げることが出來たのである。
 然もこの發想は啻に學問のみに對して云ふでなく、廣汎なる、道に生くるべき後進に對して云ふ可きことばだと野生は思ふ。
 而して縣居門の鈴屋大人、いかでか己れの門人に我が説を泥むやう諭すべき。

●  仝  「わがをしへ子にいましめおくやう」に曰く、
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむがへのいできたらむには、かならず、わが説にな、なづみそ。わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ。すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし』と。


 最後に、鈴屋門の氣吹廼舍大人の言を抄録す。

●大壑 平田篤胤大人『玉襷』卷の九に曰く、
『(前文省略)江戸より上れりし人の、近き頃出たりとて、冠辭考といふ書を見せたるにぞ。縣居の大人の御名をも始めて知りける。かくて其ふみ、始めに、一とわたり見しには、更に思ひもかけぬ事のみにして、餘り事とほく異しきやうに覺えて、更に信ずる心は有らざりしかど、猶あるやう有べしと思ひて、立ちかへり、今一とたび見れば、まれゝゝには、實に然もやと覺ゆるふしゞゝも出來ければ、又立ちかへり見るに、いよゝゝげにと覺ゆること多くなりて、見るたびに、信ずる心の出來つゝ、終に古ぶりの心ことばの、實にさる事を悟りぬ。かくて後に思ひくらぶれば、彼の契冲が萬葉の説は、なほ未だしき説のみぞ多かりける。己が歌學びの有しやう、大かたかくの如くなりき』と。

●  仝、
『偖、また道の學びは、まづ始めより、神書といふすぢの物、古き近き、これやかれと讀みつるを、二十ばかりの程より、わきて心ざしありしかど、取りたてゝ、わざと學ぶ事は無りしに、京に上りては、わざとも學ばんと、志は進みぬるを、かの契冲が歌よみの説に准へて、皇國の古への意を思ふに、世に神道者といふ者の説く趣きは、みな甚く違へりと、早く悟りぬれば、師と頼むべき人も無りし程に、吾いかで、古へのまことの旨を、考へ出むと思ふ心ざし、深かりしに合せて、かの冠辭考を得て、かへすゞゝゝ讀み味はふほどに、いよゝゝ心ざし深くなりつゝ、此の大人をしたふ心、日にそへて、切なりしに、一と年此うし、田安の殿の仰せ事をうけ賜はり給ひて、此いせの國より、大和山城など、こゝかしこと、尋ねめぐられし事の有しをり、此の松坂の里にも、二日三日、とゞまり給へりしを、然ること露しらで、後にきゝて、いみじく口惜かりしを、歸るさにも、また一と夜、やどり給へるを伺ひ待て、いとゝゝ嬉しく、急ぎ宿りにまうでゝ、始めて見え奉りたりき。偖つひに名簿を奉りて、教をうけ賜はる事には成たりきかし、とあり。かくて、其の始めて見給ひし時に、古事記の注釋を物せむと、思せる志しを述られけるに、縣居の大人の諭し給へる御語は、既に上に記せるが如し(※上=前文は省略)。なほ玉がつまに、おのれ縣居の大人の教を受しやう、師の説に泥まざる事。などある條々、また鈴屋集なる、縣居の大人の御前にのみ申せる詞。とあるなどを見て、縣居の大人に教を受られたる趣と見るべし』と。
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by sousiu | 2013-05-01 19:06 | 先人顯彰