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「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その四  

 承前。


●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く(※、■平七)、
されば天の命、鬼神のしわざは何の理何の故といふ事を、聖人も知りたまはず。只畏れて敬ふより外のことなく候。 ~※純の言の引用なり~

 天の命と云ふは、既にいへる如く皆聖人の寓言にて、更に畏ろしきものにては無きを、神の御所爲(み-し-わざ)は可畏しともかしこく、聖人は更にも云はず、掛けまくもかしこけれど現御身(うつし-み-み)ながら神にまします 天皇にも、神の御所爲は何の故、何の理と云ふことなく、其御あらび給ふ折はしも、ひた畏れにおそれ給ひ、ひた敬ひに敬ひ給ひて、かしこみ和め奉るより外なく、甚(いと)も々ゝゝかしこく尊きは神の御所爲になんある』と。




●曰く(※、■平八)、
今の世に神道と申し候は、佛法に儒者の道を加入して建立したるものにて候。此建立は眞言宗の佛法渡りて後の事と見え候。吉田家の先代卜部兼迄も(※愚案、「より」の誤記なるべし)世に弘まり候と見え候云々。 ~※純の言の引用なり~

 爰に吉田家の神道を破りていへること共、大概は當れり。然れ共、かゝる淺まなる附會の説をとらへて、皇國上古よりの大道を混じ議するは、例の掻撫(かい-なで)に古書を讀て、後世に作りかまへたる妄説の雜書共に、すがりていへるからの謬りなり。人の説にのみ據りて、己が意をもて濟すことなきは、己が眼をもて書をよまず、人の眼を借りて書をよむと云ふ物也。何ぞ己が眼をもて古書をよみ、己が意を以て濟さゞりけん。すべて世の人、我が好む所にのみ執着して、我が道の外なるをば人の談(かた)るをきゝ、或は其よりの書をば片ばし讀て、ひたぶるに廢せんとす。謂(おも)ふに、こは學問者(もの-まなぶ-もの)の甚(いた)く禁(いまし)むべきわざなり。  ~略~

 まづ神道と云ふに、五つ六つの差別あり。今其よしを委曲(つばらか)にいはん。
 一つは周易に謂ふ所の假に設ていへる空名の神道。此ことは既に云へり。
 一つは法師どもの謂ふところの神道。本地垂迹などゝ云ひて、譬へば 天照大御神を本地は大日如來と云ひ、八幡宮の本地は彌陀、稲荷の本地は十一面觀世音などいへる類、すべて其の謂ふ所の妄りなること、是に准(なぞら)へて知るべし。
 一つは吉田家にとなふる處の神道。其趣は純がいへるごとく、外には佛法と敵するがごとくにて神道の名目をかり、佛道を本として作れるものなり。
 一つは出口延佳、山崎垂加などが神人唯一と稱ふる所の神道。是(こ)は吉田家の神道を本として作りたるものにて、何れも宋儒の學を大いに學びたる人々なれば、彼の佛めける事をば、うるさがりて大概は除きたれども、なほまた理説を取り込み、彼の小さき理に迷へる漢意(から-こゝろ)に神代には奇怪(あやし)きことのみ多かることをあかず思ひてや。今よりして見れば奇と思はるゝ古事を、みな今の事理にかなふさまに説成し、造化の神、氣化の神、身化の神、心化の神などの様に更になき名目をさへ杜撰して、其さしつかゆる處に至りては、曲言の文など云ひて、實に火を水と云ひなしたる妄説どもなり。

 なほ委く云はゞ法師どもの云ふ處の神道にも、眞言僧の説と法華僧の説とも差(たがひ)あり。理學者流の神道にも、三つ四つにも別るべけれど、さのみは餘りくだゝゞしければ、爰にはもらしぬ。何れも書紀の神代の卷を、正意と立たるものなり。その後、桂秋齊と云ふ者いで、此者才學の聞え有て專ら古實の學をとなへ、大に兩部唯一の説を難破して、古書の名をぬすみて、妄りに僞本を作り、其僞本を證として古を解るやう、いとゝゝ妄説にして渠が著書ども更に用ふべきものなく、兩部唯一の徒(ともがら)は佛意漢意に惑へるの誤りなれば、其罪あさきを、此秋齊などは實に憎むべきが中の、にくむべき嗚呼の者になん有ける。

 さて 皇國大古よりの神道は、更に彼等が云ふごとき狂言(たわれ-ごと)と等並(ひとし-なみ)にあらず。前にもいへる如く、神道と云ふ稱こそ、後の世に負せたれども、其道は天地の初發(はじめ)に生(な)りませる 皇神等(すめ-かみ-たち)の始め給ひて、更に他國々(あたし-くに)の道のごとく、人知の私に成れるものにてはなく、天孫邇々藝(あめ-みま-に-に-ぎ)命の御天降(み-あ-もり)の時、天照大御神、三種(み-くさ)の神寶(かん-たから)を授賜ひ、~略~  此御國を治らしめ給ひ寶祚之隆當與天攘無窮(※あまつひつぎのさかえまさんこと、まさにあめつちきはまりなかるべし)と詔(のりたま)ひし神勅のまにゝゝ、皇統は常磐(とこ-いは)に榮えまして動き給ふ事なく、三種の神寶を宮中に齋(いつ)き賜ひて、天皇朝夕に尊崇ましゝゝ、~略~ 天皇御自(てん-わう-み-みづから)神祇を祭り給ひ、御政事則御神事、御神事則御政事にて、[今のごとく御神事と朝廷の御政事と斯別れしは、いと後の世のことなり。今をもて古を思ひあやまることなかれ]何事も遠津神代に定まりし古事のまゝに守り賜ひて、さかしらを加へ給ふことなく、諸の臣等(おみ-たち)までも其本つ職を世々に守り來て、奉仕ひまつり、君と臣と互(かたみ)に和らぎむつまじく、[政の字にマツリゴトと云ふ訓あるも、神を祭祀るよりいへる言と、臣等の 天皇に奉仕まつることゝを兼ねたる二つの意ありて委くは爰に盡しがたし]天の下の御民の行ひも直く正しく、少しのをしへ説(ごと)も無りしか共、いと隱(おだやか)に治りしなり。[後世になりて教の書めけるもの、これかれあるはみな漢土を學びたる狂わざぞかし]是は道の純一なるが故にて、儒佛の道渡り來てより、世の中に漸々(ややゝゝ)に邪智奸佞の者いで來て、天の下は漸(やゝ)漢國の如く亂れがはしきことも出來にける。古をよく學べるものは誰も知れる事也。抑々學問を爲(す)る者の、我が古をも知らず々ゝゞ、うかゝゝと有らんと云ひもて行けば、我が先祖は如何なる人ともしらずあると同じことにて、世に口惜しきわざにあらずや』と。



 以前に斷つてあつたが、この『呵妄書』は篤胤先生の處女作といふべき書にして。この書を以て篤胤先生の思想信仰の全てではないことは云ふまでもあるまい。固よりこれより後の遠大なる思想的探究、信仰的追及の成果は『呵妄書』を以て圖る可きではないのである。

 とは云へ當時に於ける論爭として、吾人は一讀の價値を充分認めなければならない。
 今囘はこれまでとして、次囘へ繋げる。

 天候不順、水難襲來。どなた樣も御用心を。
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by sousiu | 2013-07-28 23:08 | 報告

神奈川有志の會參加 

 昨日廿五日は、瑞穂塾の伊藤満先輩が幹事となり「神奈川有志の會」が行なはれ、參加。

 いつものことながら、この會は先輩諸兄、熱氣あり。近況報告、情報交換といふよりも、今後の展望などに就ておほいに語るところがあつた。
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 伊藤先輩のお世話で會場となつたこの店は、何やら巷で有名な店であるとか。
 何で有名なのか失念したが、音樂關係では知る人ぞ識るマニアツクな店。けれ共、昭和生まれの野生にはわからん。苦笑。
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 冗談はさて措き、店主は以前に先輩の御紹介を賜はつたことがあり、聊か驚いた。久々の再會であると同時に、感じの良い方で(何でも伊藤先輩の同級生だとか)、店の雰圍氣よし、料理よし。伊藤先輩がこれほど幹事に向いてゐる人だとは思はなかつたほどだ。
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 次囘の幹事は大日本勝魂社の春木會長であるといふ。幹事のお手竝拜見だ。
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by sousiu | 2013-07-26 01:53 | 報告

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その三  

 佐々木高成先生から戻り、篤胤先生の『呵妄書』の續きだ。

 流れとしては、先づ、批判されるべき太宰春臺の『辯道書』を一定のところまで進ませ、追ひかけてゆくやうに『呵妄書』と『辯辯道書』を進めてゆく。追ひ付いたらば又た、『辯道書』を進めてゆく。
 『呵妄書』に於ける『辯道書』批判は細部に亘つてゐるので、どうしても『呵妄書』の字數が多くなつてゆくだらう。

 讀み易いやうに、春臺の部分は青字、篤胤及び高成先生の言には赤字を用ゐた。これでも野生なりに少しは氣を遣うてゐるつもりである。
 一應斷つておくが、句讀點及び改行、米印は野生によるものだ。


~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~


●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く(※、■平四)、
『聖人以神道設教(※聖人は神道を以て教へを設く)とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受て行ひ候云々。凡何事にも鬼神を敬ふ事を先とせしは、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候。 ~※純の言の引用なり~

 聖人以神道設教の七字をとけるやう、爰には祖宗の命を受て行ふと云ひ、又、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候など云ひて、實に神を敬ひ氣にて少しは道に叶へるさまに聞ゆるを、次には庶民は愚昧なるものなれば、鬼神を假て教導すと云ひ、又は民を導くには必上帝神明を稱して號令を出され候など云ふは、一紙一表の中にして忽に齟齬せり。然れ共、聖人の道の意は次に云へる趣ぞ。其意を得たる説ざまに有りける。[其よしは次に委く云ふ]

 さて爰に聖人の道は、何事にも天を奉じと云へるは然る事にて、漢國人の俗(ならはし)として、何事にも天の命とか云ひて、天は賞罰正しく心も有るものゝ如く、いみじく可畏きことに云ふことなれども、天は諸(もろゝゝ)の天津神等の坐ます御國にて、[かく云ふを聞て、漢意の人、耳なれずとて不審ることなかれ]更に心など有るものにてはなく[天則不言而信などいへるも、大いなる空言にして、漢國にても少し見解あるものは、天命など云ふをば□□りぬ]彼の天命など云ふは、皆古への聖人の云ひ出したる言にて、所謂寓言なるをや。[この事も末にいへり]また祖宗の命を受けて、行ふと云ふも然る事にて、皇國にこそあれ漢國などには、更に無きこと也。たまゝゝ書經[説命の上]に夢帝賚予良弼と云ふ事、見えたれ共、是も史記の頭注に據るに殷人は、鬼神を尊む風俗故、武丁(ぶ-てい)夢に托して傳説を擧げたるものなり。[外にもかゝる類まれには見ゆれど大概右の類なるべし]逆臣どもの君を亡し、國を奪ふ時などに、天の命を受たり。祖宗の命を受たりなどと云ふは、皆かこつけの空言なり。また天地山川社稷宗廟の祭を重んじと云へるも、社稷宗廟の祭などは、先祖を祭るにて、是とさして祭るもの有れば、然ることなれども、天地山川などを祭るは 皇國にては、正しき傳説有りて山ノ神も川ノ神も御名なでも、つぶさに傳はりて祭るなれば、正しきを西戎國にては傳説なく、たゞ心もなき天地山川を祭るにて、譬へばいたづらに其座ます宮殿を祭るが如く、いはゆる虚祭と云ふものなん有りける』と。


●曰く(※、平五)
又士君子は義理を知て行ひ候得ども、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假て教導せざれば、其心一定しがたく、聖人是を知しめして、およそ民を導くには、必上帝神明を稱して號令を出され候。 ~※純の言の引用にて以下略す~

 爰に士君子と有るは、庶民と對へていへるを思ふに、彼(か)の成徳の人とやらんを云ふにてはなく、たゞ官(つかさ)高く威(いきほひ)ある人を云ふと見ゆれば理きこえず。譬(たとへ)位たかき人にても、いと愚昧にて、義理の分らぬ人もあり。又、庶民といへども、いとさかしく義理に明なる者もあり。賢(さかし)と愚(おろか)なるは、人々の生質にこそあれ、いかで貴賤の故ならんや。譬へば漢國などにても、王と有るものゝ愚昧にして臣(やつこ)の爲に、國を奪はるゝも有、また奴ながらも、王の國を奪へるごとき、かしこきものもあるにあらずや。然れば人の賢愚は貴賤によるべからず。是のみは當らぬ説なれ共、此條にいへること共皆よく當れり。

 然れ共未(いまだ)くはしからず。まづ天命と云ふは、書經舜典に有扈氏云々。天用勦絶其命。今予惟恭行之罰。また秦誓に皇天震怒命我文考。肅將天威。また湯誓に夏氏有罪。予畏上帝。不敢不正など有る類、すべて西戎籍(からぶみ)にかゝることをいへる、みな純が云る如く、假に天命上帝皇天などを稱して號令を出し、民の心を一定せしめ、罪有る者を伐ち、或は逆臣共の君を弑して、國を奪ひ取らん爲に、愚民を欺き催促せるものなり。また可笑き(をかし-き)は武王が語に、商罪貫盈。天命誅之。予弗順天。厥罪惟鈞など云へるは、欲深き者の途に落てある財(たから)を拾ひて、獨祝して是神の賜はるところなり。今、是を拾はずんば、返て神の憎しみを受べしなど、獨免して私せるがごとく、いと心ばへの似たることなり。是等にても天命と云ひ上帝など云ふは、皆聖人の作り設と云る寓言なる事をさとるべし。~略~』


 篤胤先生の所謂る支那の天命、實體なきを云ふ。續けていはく、


『天道天命と云ふを、實事として迷へる人は、論(あげつら)ひのかぎりに有らねど、是を聖人の寓言と云ふ事をさとりては、書經などを讀む毎に、胸わろく思はず、拳を握る計りの事多し。純がこの條(くだり)にいへる樣、返す返すも當れる釋ざまになんある』と。


●曰く(※、平六)
近世理學者流の説に云々。皆神道を知らざるものにて候。 ~※純の言の引用なり~

 爰に理學者を呵(しか)りて、聖人の民を治る術にて假に鬼神を説くと云ふは、皆神道を知らぬ者にて候と云ふは、前の條に鬼神をかりて教導すると云ひ、上帝神明を稱して號令を出すといへるとは、表裏の異説にして自語相違、更に一人の説と思はれず。彼、唯我獨尊と高ぶれる男の言語にさも似たり。初學の人はさこそ惑ふべし。然れども、一條の文につきて云ふべし。まづ理學者をのみ、むげに神を知らぬ者のごとくいへれども、然云ふ人もいかで眞の神を知らん。知らざる故にこそ種々(くさ-ぐさ)僻説もいへるなれ。是(こ)はいはゆる五十歩にして百歩を笑ふとか云ふ類にぞ有ける』と。





                                                    ~續く。
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by sousiu | 2013-07-25 12:27 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その二 

餘談であるが先般、かういふ話しがあつた。

 寄稿させていたゞいてゐた文章に誤字であつたかと心配になつた箇所あり。ネツトで確認してみたところ、どうやらやはり誤字であつたやうで、早速編集部に訂正を依頼した。
 ところが野生の日頃親しくさせていたゞいてゐる某兄が、御製集ほか確認してくださつたところ、當初が正しく、インターネツトでおほく書かれてある御製が誤記であるとのこと。兄曰く、以爲らく、はじめにどなたかが誤つて書いたところ、それを參考にした人が又た誤記のまゝ掲載し、それが遂に拡がつてしまつたのではあるまいか、と。

 インターネツトによる情報の怖いところである。誰れしも簡單に發表出來る爲め、公開された情報には自づと眞僞の二つが生じてしまふのだ。「便利」になることは宜しい。しかし簡易に調べられる爲め、これからの世代が「調べる」といふことの大切さを、決して安易に思はないで欲しいと思ふ。簡易と安易は違ふのだ。

 であるからして、こと先人の玉文に頼つてばかりゐる野生の場合、聊か煩はしいやうではあるが、一々出典を明らかにしてゐるのである。固より、野生が文章の入力に間違へてしまへば元も子もないので、これでも愼重に入力してはゐるつもりだ。(時折、備中處士さんから誤記を指摘されるが・・・汗顏)

 ところで古書を譯した本や活字の復刻本はどうかと云へば、これさへ少なからず注意をおかねばならない。これから記すべき『辯辯道書』も、少なからず活字本との違ひが目立つ。差しさはりの無い誤記ならば兎も角、前後の内容が繋がらなくなつてしまふほどの誤記には困つたものである。甚だしいものになると、已に書名が誤つてゐるものさへある。

 然るに江戸時代などの古書の場合、板本を根據とするのが理想であり、目下、インターネツトで公開してゐるものも少なくないので大助かりだ。この點に就いて云へばネツト普及の恩惠として素直に喜びたいところである。

辯辯道書、板本↓↓↓↓
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=3

辯辯道書、活字版↓↓↓↓(※青字部分、これだけの誤記があつた)
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もう一册の活字版↓↓↓↓(こちらは書名そのものを誤認して記してゐる)
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 よつて辯辯道書は上記urlを典據とし抄録する。野生同樣の深刻なる閑人あらば、野生の入力間違ひを探してほしい。


 また、如上、「辯辯道書」は、篤胤先生の「呵妄書」同樣、「辯道書」を痛烈に批判してゐるものであるが、その批判すべき主旨は兩者必ずしも一致してゐるわけではない。寧ろ、中には懸隔の大なる意見も珍しくないのである。これは學統の相違、延いては儒者と國學者の根本的な見解の相違である。繰り返すが野生は敢へて、どこまでも日本的立場に立つて「辯道書」に斧鉞を加へんとするこの兩者の主張を選んだのである。能く々ゝ注意をはらうて御一讀されたし。



~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~



●佐々木高成先生『辯辯道書』冒頭に憤慨して曰く、
『今年(※元文二年)正月の末、日本書紀の卷の第三、神日本磐余彦天皇の紀を講じ終りて後、諸生各(おのゝゝ)敬拜して問(とふ)ていへらく、頃日(この-ごろ)東武より歸坂せし醫師、辯道書といへる書を携へ來りしを、各熟覽仕(おのおの-じゆく-らん-せ)しに、塩土師の日頃の教とは、參商(しん-しやう)矛盾し、宛(あたか)も水火の相尅(さう-こく)するがごとし。吾國に道なき事を論じて儒教に偏黨(へん-たう)し、無體無理の辯、僕(やつがれ)ごとき碌々たる小子といへども、是等(これ-ら)の邪説にまよふことなし。然れども神教を知らず、吾國の事に踈々(うと-うと)しく、一筋に西土の儒教を信ずるの輩、此邪書を見ば、これに混乱せられて一盲衆盲を導の災おこらば、吾道の荊■(艸冠+棘=けい-きよく)秦蕪(しん-ぶ)甚しかるべし。師是を辯し給はゞ天下後世への賜(たまもの)なるべし。この辯道書を熟覽して批辯を下したまふことを願ふ處也と。予、その書を開き一周覽して書を地に投て大息す。嗚呼、是等の邪書、識者のまどふべきにあらず。然れども事の害をなすの起りは毫厘に差(たがひ)て千里に謬(あやま)る。實(まこと)に万里の堤蟻(つつみ-あり)の穴より崩れ、原野のひろき石火より燒く。所謂、不裁毫末尋斧柯(※毫末を裁(たた)ずして斧柯を尋ねず)と。よつて予、これを批辯するのみ』と。


●曰く(※、■佐二)、
『伏て以(おもんみ)るに神國に生れ、神國の養ひをうけ、神國の教を得て、今日を立ながら、それに神恩をおもはずして、吾國に道あり教あることをも辨(わきま)へず、國神の罪人となりて、狄人(てき-じん)戎者(じう-しや)となること、あはれむべし。先吾國道の大根元は、神代卷に見えたるがごとし。彼舊事紀を始として、僞書のやうにいひなせども、日中を暗夜と云よりも愚なり。我國神代より傳へたる道は、廣成が古語拾遺の自序に書たる通り、おのゝゝくちずからとなへ(※口づから唱へ)覺え、正直質素の道を守る。又書に傳へ來たる所の神典も、入鹿が乱に悉く燒失す。たとへば異邦秦火に普く聖經の燒失たるがごとし。依て家々に傳へ、彼所(かな-た)此所(こな-た)に渉りたる所の口決(く-けつ)又は傳書等を厩戸の皇子、勅をうけて撰し玉ふが舊事紀なり。古事記は安麿、勅を受て是を編(あ)み、日本書紀は一品舍人親王詔命を受て是を著述し給ふ。此事歴代の帝王傳へ來らせ給ふ處の眞書にして、其紛(まぎれ)なきこと歴々焉(れき-れき-えん)として天下周(あまね)く知る所なり。作者(※太宰純のことなり)三部の神典の妙理を見ず、剰へ曲学者が家の儒經にもくらし。孔子以前を古學と談じ、此書の中にも理学者流などといへるは程朱の道を学ぶ者をおとしての詞なり。辨道者が古學の井蛙(せい-あ)の見(けん)にては、程朱は大海のごときの道徳なれば、見ること叶はざるも然り。予、儒學に黨するにあらねども、曲學者儒者たるを以て是を論ず。朱子は孔子以來の一人にて、顏曽(がん-そう)と肩をならぶるの大賢なり。此儀談ずべき事多端なれども我道に与(あづか)らざることなれば爰に略す。忝(かたじけなく)も吾國は天地日月の神靈直(じき)に降化御座(まし-まし)、又、胎生(たい-しやうし給ふ。天地中正の道、吾國)に極りて其徳、磤(石+殷)馭■(石+盧)嶋(おの-こ-ろ-しま)の國号に備(そなは)る。辨道者が称して西土を中華といふは、あちらこちらの取ちがへなり。天照大神の勅言に、豊葦原中國(とよ-あし-はら-なかつ-くに)とのたまふ。是其證據なり。神代卷は、垂加(すゐ-か)靈社(れい-しやの)日記にして載道(みちを-のする)ものなりと、是千古の格言にして、近世神書を發明するの師といへども及ばざる所也。道は一門のみ。其道天地に充滿して無外無内(ほか-なく-うち-なし)、道あらざる事なし。これを明(あきらか)にするは我國上古の神人なり。其神光の余り外國へ及ぶものなり。吾國の教(をしへ)天地人物自然の道あり、自然の教あり、自然の神性あり』と。


●曰く、
辨道者等が古學は古學にはあらずして固學なるべし。眞正の古學といふものは程朱の學なり。孔孟程朱(こう-まう-てい-しゆ)其揆(その-き)一也。次に神代卷に、故(かれ)曰(いはく)、開闢之初といふより、乾道獨化(あめの-みち-ひとり-なる)。所以成此純男(この-ゆへに-この-をとこの-かぎりと-なる)といふまでは、吾國の万國にすぐれたる事にて、昭々明々たるの明文なり。一物(ひとつの-もの)は國常立(くに-とこ-たち)、吾國常盤(とき-は)堅盤(かき-は)に繁榮豐饒となるの神徳、寶祚(あまつひつぎ)の太祖なり。國常(くに-とこしへ)に立(たつ)の證據は、開闢以來、外國(とつ-くに)の夷(ゑびす)より吾國を犯すことあたはず。神代の昔、三韓(かん)蝦夷(ゑ-ぞ)吾國に敵すといへども、素尊(そ-そん)五十猛(い-そ-たける)、又は武甕槌(たけ-みか-づち)、經津主(ふ-つ-ぬし)の二神等降伏し給ふによつて忽(たちまち)に退聽す。其後三國の時、呉の孫權兵船を催し吾國を犯すといへども、神助に依て即時に敗北す。近世元の世祖周く四海を併呑し、又兵船數千艘を起し、十萬の人數を以て吾國に敵す。當時伊勢、加茂、春日へ奉幣あつて、伊勢内外宮及び加茂、春日等の大社より神風起て、十萬人の賊船殘らずくだけやぶれて存命のもの纔(わづか)に三人。此事吾國書に見えたるのみにあらず、通鑑綱目續篇(つ-がん-かう-もく-ぞく-へん)に委曲に述てあり。世祖重て日本を攻ることを止(やむ)。是(これ)國(くに)常(とこしへ)に立(たつ)の效(しるし)なり。曲學者が称美する中華は、天建(てん-たち)地建(ち-たち)といへども人道立(たゝ)ず、乱臣賊子の無道多し。 ~畧~』と。


●曰く(※、■佐一)、
異邦は天地開闢より纔十人余りの聖人世に出(いで)て、孝弟(かう-てい)忠信(ちう-しん)人倫(じん-りん)の道を教ゆといふども、有名無實にして其道行はれず、秦(しん)漢(かん)の世より今、清(しん)の世に至まで治乱興廢の實歴史を以て見れば掌を指(さす)がごとし。曲學者いへるとは裏表にて、吾國は開闢より人倫の道たつ。異邦は辨道者にいへるごとく、古(いにしへ)は禽獣同前の人にて、父子(ふ-し)夫婦(ふう-ふ)となり、兄弟婬(いん)を犯す。それを聖人をしへて人倫の道、明(あきらか)なりと。なるほど異國は風土(ふう-ど)惡敷(あ-しき)の下國なれば左(さ)もあるべし』と。
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by sousiu | 2013-07-23 13:47 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その一 

●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊。『平田篤胤全集 卷二』明治四十四年六月廿日「一致堂書店」發行、所收)冒頭に曰く、
『辯道書にいはく、  神武天皇より三十代欽明天皇の頃までは本朝に道といふ事未だ有らず、萬事うひゝゝ敷候處に、三十二代用明天皇の 皇子に厩戸といふ聖明の人生れたまひ云々、文明の化を施したまひ候。 ~※純が文の引用なり~

 往昔(いにしへ)より 皇國(み-くに)の學をもとなへて神典をも説教へし、百(もゝ)識者等西戎(か-ら)國に嚴重(おごそか)なるをしへの道有ことをうらやみ 皇國の古にもさる教の道有りとていふは、皆僻言(ひが-ごと)なる中に、太宰純獨(ひとり) 皇國の古には、道なかりしことを云ひ顯して是を辯ず。實に卓見とも云ふべきか。然れども此人、いたく西土の道に拘泥(なづめ)る心に道なきは、いと惡しきことよと僻心得(ひが-こゝろ-え)して、漢土に道有ることをたけき事に云ひて 皇國をいひ貶(おと)さんとする心よりいへる説(こと)なれば、是も倶(とも)に僻言(ひが-ごと)をのがれず。殊に此人、皇國の書籍(ふ-み)をば、掻撫(かい-なで)に少し計り讀ていへる言なれば、書中 皇國の古をいへる、すべて輕卒(う-き)たる事のみにて甚々(いと-いと)稚(をさ)なく、更に云ふにも足らぬものなるを、然る故をも知らで其書をいたく信じ居る人も多かれば、今其人々の爲にとて云ふなり』と。


●曰く、
『書中、皇國の古へをいへる、餘りに稚(をさな)きを見れば、若(もし)くは書紀をば讀ずして後の世の法師どもが、聖徳太子をば佛法最初とかいひて、いみじく尊げに、僞り作れる書どもの種々有るを讀て、夫れ等に據りて云へるにあらじか。又、聖徳太子の官職を定め、衣服を制し給へることなど云ひて、本朝に於て厩戸の功は制作の聖とも云ふべき人にて候など云ひて、聖徳太子の爲始(し-はじ)め給へるがごとくいへるも甚(いた)く違へり。すべて陋識(らふ-しき)なる學者には、まゝ 皇朝の古へには、官職も何も無かりし如く思ふ者も有れど、是は書紀の 推古 孝徳の御卷などを惡くこゝろ得(え)過(あや)まりたるものにして、更に云ふにも足らぬこと也。かゝる輩はこの御代々々の頃までは、朝夕の御食(み-け)をはじめ何事も 天皇御自爲賜(み-みづから-し-たま)へることゝ覺えたるなるべし。いとゝゝ文盲なることなり』と。


●曰く(※、■平一)、
近頃舊事本紀といふ書を太子の著述とて珍重する人有之候。其書を見候に近世の人の僞作なる事證據明白に候。 ~※純が文の引用なり~

 是(こ)は呵(しか)るとには有らねども、爰に僞書なりといへる舊事本紀は、今の世にある十卷のを云へるにあらず。七十二卷ありて一名を大成經ともいふものゝことなり。然云ふ故は、近頃と云ひまた近世の人の僞作なりと云へるにて知られたり。今も行はるゝ十卷の舊事本紀も後世人の僞り輯(あつめ)たるものなれど、中昔の僞書にして本朝月令[此書は延喜の中頃に勅撰の書なり]はじめ近世迄も大かたの物知人等、みな惑て是を引證し、八百年來の僞書にて、中々純が輩の僞書と云ふことを知らるべき書にあらっず始て僞書のよしいへるは桂秋齊なり。舊事本紀僞書明證考と云ふ書一卷を著して是を辨じたり。是より縣居翁[賀茂眞淵大人、書中みな同じ]または伊勢貞丈大人など僞書の由云れたり』と。


●曰く(※、■平二)
凡今の人神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是を一つの道と心得候事大なる謬にて候。 ~※純が文の引用なり~

 神道は吾が國の大道にして、天皇の天の下を治め給ふ道なれば、儒佛の道とならべ云ふまでもなく、掛(かけ)まくも可畏(か-しこ)けれど、上 天皇をはじめ奉り下萬民に至るまで、儒佛を廢(すて)てたゞ一向(ひたすら)に神道を信じ尊まん事、更に謬(あやま)りにあらず。純が世に在(あり)しほどまでは未唯一(ゆひ-いつ)兩部の輩のみにして眞(まこと)の道を説くものある事なく、神道といへば錫杖をふり或は鈴をならし大祓詞[俗に中臣祓といふは誤なり]を唱へ其外あやしきわざをのみ目(め)なれし時なれば、爰に神道といへるも專(もつぱら)夫れらをさして云へるにて、實に神道を知りて云るにあらねば、深くとがむべきにあらずといへども、此書を讀(よめ)る人々の 皇國の道は、實にかゝることよと思ひて謬らんことの長息はしければ辨ふるなり。次々に云ふを見て、眞ノ道は俗(よの)人の思ふところとは、大に異なることをさとるべし』と。


●曰く、(※、■平三)
神道は本聖人の道の中に有之候。 ~略~ ~※純が文の引用なり~

 太宰のみならず、すべて儒家者流のいはゆる神道は、如何にも周易[上象傳大觀の章]に見えて、爰にいへるごときことを神道といへり。然れども 皇國の道をも本聖人の道の中にありと云ひて、同事に思ひたるは神道と書る文字に拘泥(なづめ)る大いなる僻言なり。今其よしを委曲(つばらか)にいはん。まづ 皇國の道に云ふ神と、周易の神道に神とさすものとは、いたく異なり。其故は周易に神と云は純が云へるごとく、天地の間にあらゆる事どもの人力にあらずして、自(おのづから)に行るゝ其靈妙なる處を神の所以(しわざ)として神道とはいへるなり。然れども實に神と云ふ者有りとていへるにあらず。たゞ其妙なる處をさして假に設ていへる號(な)のみなり。[周易繁辭に陰陽不測之謂神といひ、説卦に神也者妙萬物而爲言者也]其よしは人の云ふを待(また)ずして儒書よむ人は、皆よく知れることなり。また 皇國の道に云ふ神は、古事記書紀の神代の御卷に見えたる、天地の諸(もろゝゝ)の神々にて、[また鳥獣草木山海其餘も尋常ならず、可畏ものを神と云ることあり。委くは吾翁の古事記傳に見えたり]假に設けていへる號に非ず。其神々のはじめ給へる道故、神道とは云ふなり。[古へに通ぜざる人はかく云ふを聞てもまづ疑ふべし]道の體を神妙(あやし)とほめていへるにては無きなり。 ~畧~

 古へより百(もゝ)の識者等(ものしり-びと-たち)のみな古へを解誤(とき-あやま)れるは、かゝる事に心付ず、古意古言をば尋んものとも思はず。たゞ漢説(から-ごと)の理と文字とのさだめをのみ旨として迷へるが故に、眞(まこと)の處を曉(さと)り得ざりしなり。純が周易の神道と 皇國の神道とを同じことなりと云へるも、皆、文字に泥(なづ)めるが故なり。[すべて 皇國の古は文字によらずして解ざればさとりがたし]すべて少しにても似寄(に-より)たることあれば、強て西土(から-くに)を本なりと云ひて、いはゆる牽強附會を云ふは、普通の神道者と西戎書籍(からぶみ)にのみなづめる儒者どもの癖なるぞかし』と。

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by sousiu | 2013-07-22 23:36 | 大義論爭

哥道講座へ行つてまゐりました。 

 昨日は不二歌道會の歌道講座が行なはれた。
 所謂る右翼團體と呼ばれるものに所屬する者として皇道日報からは福田主幹が、大行社の木川青年及び仲村女史が、弊社からは野生と島田が參加した。

 野生は過日、庄内の清河神社へ參拜したことを詠んでみた。

  眞晝間の 暑さ忘るゝ そよ風の
   こゝちよきかな 清河の杜

  さきがけて すめらぎの道 ゆきたまふ
   志の魂拜し うれしかりけり

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 その後は歌舞伎甼へ向かひ、阿形充規先生の膝下に參ずる。
 遲くまで御高話を賜ふ。今後の展望などに就て。


 又た愈々、「九段塾」に拙稿を呈することゝなつた。
 諸賢皆樣の手嚴しき御指摘を賜はる能ふれば幸ひである。↓↓↓
       http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t44/l50
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by sousiu | 2013-07-21 18:16 | 報告

短氣はやはり損氣なのだなア・・・。 

 前囘の記事を更新し終へた後、我がパソコンが到頭クラツシユしてしまつた。
 異樣に重くなつたので、ビジー状態を待つことなく、電源ボタンで強制終了したのが運の盡きた瞬間だ。
 再起動すると、覺えてもをらぬ「パスワード」を入力せよ、といふ畫面が出る。五十通りくらゐ試みるが入力したパスワードは全て不可。それ以上、畫面は進まず結局起動しないのだ。

 然るに昨日は二、三時間フテ寢して晝からパソコンシヨツプだ。どうやら修理には日數もお金もかかるといふので已む無く斷念。データは取り出してもらはねばならないのだが、これも完全に凡て取り出せるかわからぬとのこと。住所録、これまでの原稿、寫眞、資料、書類關係、書き進めてゐた原稿など、失すれば泣きたくなるものだらけだ。
 くはへて昨日更新後、朝まで掛かつて抄録した記事の續きも消えてしまつた。

 更らに困つたことはWindowsXPは既に無く、店員の勸められ8を購入させられたことだ。たゞでさへ機械の苦手な野生、8など譯がわからん。

 この不滿をば、どうやつて解消してやらうか。大久保にでも行つて、不滿や不平の權化の如き連中の仲間にでも入れてもらはうかしら。呵々。


 以上の理由から、野生のメールアドレス、douketusha@ever.ocn.ne.jpは目下見ることが出來ないので、御用の方は、can2667@ozzio.jpまで。
 
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by sousiu | 2013-07-19 12:54 | 日々所感

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 序 

◎皆川淇園翁、『日本諸家人物志』(寛政十二年三月改刻)に曰く、
太宰春臺
諱ハ純、字ハ徳夫、俗稱弥右衞門、紫芝園ト号ス。本姓ハ平手氏ナリ。太宰、謙翁ニ養レテ太宰氏ヲ冒ス。信州ノ人ナリ。初メ中野撝謙ニ性理ノ學ヲキク。徂徠、復古ヲ唱ルニ及ンテ、就テ業ヲ受テ徂徠ノ説ヲ主張シテ書、數部ヲ著ス。晩年、古文辭ヲ喜バズ、ヤヽ見識、徂徠ノ右ニ出ルコトアリ。
~略~ 卒スル年六十八』と。

◎徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第廿卷 ~元祿享保中間時代~』(大正十五年二月十七日「民友社」發行)に曰く、
當時は固より幕府全盛時代で、誰一人將軍が、事實上に於ける、日本の統治者であるを、否定するものはなかつた。されば學者の中には、名實共に然かせんことを希うたものは、決して少くなかつた。中には彼等自身に、斯く信じ、斯く言ひ、斯く行うたるものさへあつた。例せば、太宰春臺の著と稱する、三王外記などには、將軍を稱するに王を以てし憲王は即ち綱吉、文王は即ち家宣、章王は即ち家繼 ― 日本全國の統治者であることを表現し、天皇を稱するに、山城天皇を以てし、單なる山城なる一地方の部分的の君主であるかの如く唱へてゐる。而して其の勅使を稱するに、聘使を以てし、將軍と 天皇とを、對立のものとしてゐる』と。


 かくも征夷大將軍が「國王」である、と力説し已まぬ當時に於ける儒者・經世家の大家たる春臺は、享保廿年『辯道書』を上梓し、その反響頗る大であつた。

 ところがこの『辯道書』を巡り、草莽の學士が黙過座視するに忍ぶ能はず。これに斧鉞を下したらむと、筆劍を取るに到つた。

 主なる一人は大壑平田篤胤先生だ。當時篤胤大人は織瀬刀自を迎へて三年目、苦學を續ける傍ら享和三年、長男常太郎、突然の夭折(享和二年五月廿日生)の不幸事に遇ひながら、大人の處女作と云ふ可き『呵妄書』を世に呈し、之に筆誅を加へた。
 他の主なる一人は佐々木高成翁だ。佐々木翁は山崎闇齋先生を師事する、崎門三傑の最硬派たる淺見安正先生の系譜に連なる一人だ。翁、忿懣やる方なきことこの上なく、春臺の『辯道書』に抗じて『辯辯道書』を著し世に之を呈した。


 以下、略しつゝこの『辯道書』を掲載し、併せて『呵妄書』及び『辯辯道書』を抄録してゆくことゝする。茲でこの二書を撰んだのは、『呵妄書』と『辯辯道書』に於ても、必ずしも見解が一致してゐるものでなく、當然ながら生ずるべき筈の國學者と儒者との見解の相違が少なくない。それゞゝの立場から彼の惡書を迎撃せむとしたる、その相違も又た後學の一助として戴ければ幸ひである。

 又た、『辯道書』本文に青色及び(■)を付けたものは、二人に批判されるべき主なる箇所だ。「平」は篤胤先生のことなり、「佐」は高成先生なり。諸賢また、批判する可き立場として一考しつゝ本文を御一讀賜はるならば尚ほ野生の幸ひとす可きものなり。
 猶ほ、文中に「純」とあるは「春臺」その人のこと也。

※※又た、「辯道書」本文は主に候文なり。苦手な人は、下記サイトが懇切叮嚀に説明してあるので御參考にされたし。↓↓↓
http://homepage1.nifty.com/~petronius/kana/saurahu.html


  * * * * * * * * * *

○太宰春臺、『辯道書』の冒頭に曰く、
『儒佛神道の同異、度々面上に論辯候所、大略御領解候へども、其の事、繁多にて、逐一御記憶なりがたく、再三御工夫候へば、又た御疑惑起こり候て御難義に候間、純、平日論辯候趣を、委しく紙上に書紀候て御目に懸候へとの御所望、其の意を得候』と。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『聖徳太子の言に、儒佛神道は鼎の三足の如くなる物と有之候由、此の事甚だ心得がたく候。鼎の三足と申すは一つを缺れぬ事の喩にて候。太子は佛者にて候へば佛道を重く思ひたまひ、儒道と對せられ候は、さる事にて候。神道を一つの道に立る事は後世に起こり候て、太子の時に無き事にて候。然るに神道を以て儒佛の二道にならべて、三道は鼎の三足の如く天下に無くて叶はぬ物とし給ふ事信じがたく候。

 先本朝の古を考へ候に、神武天皇より三十代欽明天皇の此までは、本朝に道といふ事未だ有らず(■佐一)、萬事うひゝゝしく候處に、三十二代用明天皇の皇子に、厩戸といふ聰明の人生れたまひ、書を讀み學問し給ひて、三十四代推古天皇の時、攝政の位に居たまひ、官職を定め、衣服を制し、禮樂を興して國を治め、民を導き文明の化を天下に施したまひ候。本朝に於て廏戸の功は制作の聖ともいふべき人にて候。されば聖徳太子と諡せられたるも虚名にあらず候。然れ共、太子の學問佛に精しく、儒に粗く候故、釋氏(※釋迦のこと)道をば深く知りて好まれ候へども、中華の聖人の道をば未だ明らめ給はずと見え候。其上述作の書も多くは傳はらず候へば、後世其の是非を申しがたく候。今の世に太子の説とて申しならし候事は、多分後の人の誣罔杜撰にて信じがたく候。近比ろ、舊事本紀といふ書を太子の著述とて珍重する人有之候。其の書を見候に近世の人の僞作なる事、證據明白に候(■平一■佐二)。  ~略~ 前に申し候如く、儒佛神道を鼎足に譬へ候事も、決して太子の言にてあるまじく候。若し實に太子の言にて候はゞ、太子の妄説にて候。~略~

 凡そ今の人、神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是れ一つの道と心得候事、大なる謬りにて候(■平二)神道は本聖人の道の中に有之候(■平三)。周易に、觀天之神道。而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)。聖人以神道設教。而天下服矣と有之、神道といふこと始めて此の文に見え候。天之神道とは、日月星辰、風雨霜露、寒暑晝夜の類の如き、凡そ天地の間に有る事の人力の所爲にあらざるは、皆、神の所爲にて、萬物の造化、是れより起こり、是れを以て成就するを天の神道と申し候。聖人以神道設教とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受けて行なひ候。されば古の先王天下を治めたまふに、天地山川、社稷宗廟の祭を重んじ、祷祠祭祀して鬼神につかへ、民の爲に年を祈り、災を禳ひ、卜筮して疑を決するが如き、凡そ何事にも鬼神を敬ふことを先とし候は、人事を盡くしたる上には、鬼神の助を得て其の事を成就せん爲にて候(■平四)又た士君子は義理を知りて行なひ候へ共、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假りて教導せざれば其の心一定しがたく候。聖人是れを知ろしめして、およそ民を導くには必ず 上帝神明を稱して號令を出され候。是れ聖人の神道にて候。聖人以神道設教とは是れを申し候(■平五)近世理學者流の説に、君子は理りを明らめて鬼神に惑ふ事無しといひて、一向に鬼神を破り、或は聖人の民を治める術にて、假りに鬼神を説くといふは皆神道を知らざる者にて候(■平六)。君子三畏の第一に、畏天命と孔子の仰せられ候も、天命は天の神道にて、人智を以て測られぬ故に、君子是れを畏るゝにて候。周易の繋辭に、陰陽不測之謂神といひ、説卦に、神也者妙萬物而爲言者也といふ。皆鬼神の妙にして測られぬことを説かれ候。されば天の命、鬼神のしわざは何の理り、何の故といふことを聖人も知りたまはず、只畏れて敬ふより外のこと無く候(■平七)。下民を教へたまふも此の心にて、少しも民を欺き、方便して鬼神をいひ立てるにては無く候。此の義は理學者の知る所にあらず候、よくゝゝ御勘辨候て御得心あるべく候。然れば神道は實に聖人の道の中に籠り居り候。聖人の道の外に、別に神道とて一つの道あるにてはなく候。今の世に神道と申し候は、佛法に儒者の道を加入して建立したる物にて候。此の建立は眞言宗の佛法渡りて後の事と見え候。吉田家の先代卜部兼倶より世に弘まり候と見え候(■平八)。兼倶は神職の家にて、佛道に種々の事あるを見て羨ましく思ひ、本朝の巫祝の道の淺まなるを媿(「女」+「鬼」=はぢ)て、七八分の佛法に、二三分の儒道を配劑して、一種の道を造り出し候。いはゆる牽強博會と申す物にて候。聖徳太子の時に決して有まじき事と申し候は是れにて候。此の道、太子の時に有べき事にあらず候』と。(以下、一旦閣筆す)

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                ↑↑↑↑太宰春臺


  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 


 記事の締め括りに、兩先生の著述に就て、それゞゝ先人の筆をお藉りし之を紹介しておかねばなるまい。

◆◆呵妄書
◇伊藤永之介氏『傳記文庫 平田篤胤』(昭和十八年四月十五日「偕成社」發行)年譜に記すに、
『太宰春臺の「辯道書」にわが國體をけがす言辭の多いのを見て大いに憤つて「呵妄書」を書く。これ最初の著述なり』と。

◇文化元年三月、源朝風翁、『呵妄書』序に曰く、
『これの呵妄書はよ、我友平篤胤、かの漢學者太宰純が著せる辯道書の、いともすべなく、こちたきみだりごとゞもを、世人のさとるよなく、さることゝしも、思ひをれるもあるなどを、うれひなげかして、そをわきまへ、ことわりかゝせる書になもある、はやくより論らへる書どもゝ、これかれ有めれど、皆いまだしきまなびのともの、なまさがしらにおほゝしく、あげつらへるのみにして、中々にめとゝむべうもあらざりけるを、今はさるなほゝゝしきたぐひにはあらで、なにくれといとこまやかに、わきまへことわりてものせられつるは、こよなうめでたく、まこと、からやまとの書ども、うまらによみあきらめでは、いかでかうはと、になくたふとくおむかしくこそ。さるはすべての論どものをゝしきに、人その心をもえずて、ひたぶるに、あらそひごゝろとな思ひそよ。そのあげつらひのおごそかなるは、彼書のみだりごとゞもの、けやけかるによれゝばぞかし。抑かくつばらかに、ものせられしことのいそしさを、うづなひめづるあまりに、卷のはじめにそのよし書付ぬるは、文化元年三月』と。


◆◆辯辯道書
◇國學院大學教授、佐伯有義先生『大日本文庫 神道篇 垂加神道 下』(昭和十二年一月廿九日「春陽堂書店」發行)に曰く、
『辯辯道書は二卷あり、佐々木高成の著で、享保二十年(紀元二三九五)太宰春臺の著せる辯道書に對する辨駁である。元文二年(紀元二三九七)正月江戸より歸つた人が、春臺の辯道書を携へて來たのを讀んで憤慨し、此の辨駁を作つたのである。春臺は徂徠の門人で古學派に屬する儒者であるが、辯道書を著して世に儒佛神道は鼎の三足の如しと稱するも、鼎は一足を缺けば立つことが出來ぬが、神道や佛道が無くても儒道だにあらば、人倫は明かに國家は治まる、神道は易に天の神道を觀れば四時にたがはず、聖人神道を以て教を設けて天下服すとあるのが、神道といふことの文に見えた始めで、神道は聖人の道の中に存し、我が國は上古には道といふものは無かつた。今日の神道は吉田兼倶などが佛教を加味して造つたものであると放言して居る。著者之を見て大に憤り、之を辯難抗撃したものが此の書である。佐々木氏は垂加派の神道家で、儒學は淺見絅齋の門人で朱氏學である。それ故に殊更に憤慨して、此の書を著したのである』と。

◇元文二年丁巳端午日、留守友信翁、『書辯辯道書 後』に曰く、
『物壞(やぶる)れば則蟲育(いく)し、木朽れば則蠧(と)生ず。人少ければ則禽獸繁く、氣衰ふれば則邪沴入る。世の異端邪説あるや亦た然り。文教宜しきを失してより而下(この-かた)、老佛の説、肆(ほしいまゝ)に行はれて遏(とゞ)むべからず。近世、伊藤荻生二氏、專ら儒を以て世に鳴る。老佛を闢(ひら)き聖學を隆んにす、是なることは則ち是也。然して其の經(けい)を治るや、傳會(ふ-くわい)して以て之を文(かざ)り、穿鑿して以て之に逆ふ。栩々然(くゝ-ぜん)として自ら聖人の室に入ると謂ふ。而して其轍砥柱(てつ-し-ちう)の杪(せう)を望んで背馳(はくち)するを知らざるなり。頃(このごろ)荻生氏の徒、辯道書を著し、掌靜翁(しやう-せい-をう)人の需(もとめ)に應じて之を辯ず。曰く、敢て辯を好むに非ず。深く我國古先神王の道を謗議し、且つ漢土の聖學に於て、亦記問詞藻を以て主本と爲し、操存省察を以て鄙陋と爲す、其害又復(また)甚しき者あり。友信因て辯道を讀み、卷を掩て浩歎す。嗚呼、智を暴(あらは)して世に耀かし、遂に規矩を離れて、恣睢(“唯”の右側が「目」=じ-すい)に到り、罪を神聖に獲(う)る。悲しむべきのみ。蓋し耳目口鼻四支百骸、各其の用を一にして、之を統ぶる者は心なり、其心虚明の頃(あひだ)、事物の來る、是々非々明かならざるなき也、少(しばらく)すれば昏(くら)し、久しければ怠る、此(これ)形氣の私(わたくし)之に溺るゝ也。人能く諸(これ)を本心に反求し、猛省して私累を擺脱すれば、天下の理を得、是に於て仁義行はれ、人道立つ。蓋し古聖賢の人を教ふる、千變萬化、人の心上に就て之を説く、故に曰く、學問の道他無し、其の放心を求むるのみ。若し求めざれば心に管攝なく顛倒眩瞀(上左「矛」+上右「攵」+下「目」=ばう。げん-ばう)す。安(いづく)んぞ能く知る所あり行ふ所あらんや。彼以爲らく、心上全く功夫無し、情中に炎(さかん)にして、人欲鬪進すと云へども、徳の累(うれひ)と爲る無き也。徒らに禮以て貌(かたち)を飾れば、則徳を成すと。是れ何ぞ■(獸偏+彌=び)猴をして周公の服を衣せしめ、獸に非ざるなり聖人なりと曰ふに異ならんや。辯書既に其の巣穴を擣(う)ち、其の病根を砭(石+乏=へん)するもの、精確詳的なり。或は曰く彼の喋々たる瑣議浪説、譬へば尺霧の天に障るも、其の大を虧かざるが如し。何ぞ必しも齒牙に挂けんや。曰く豪傑の士、固より辯を待たず、特に其の庸俗を惑す尤も劇(はなはだ)しきを悼む。後人をして流に沿て源を求め、是非炳然として知る可らじめんとす。此れ辯を作る所以なり。然れば則ち此の篇の世に行はるゝ、亦安んぞ梨棗(り-きう)の冤を含むを得んや』と。




 
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by sousiu | 2013-07-18 03:09 | 大義論爭

御無沙汰です(^^;) 

 久し振りの更新である。

 實は前囘來、久しく筆を進むる能はざることに些かの理由あり。
 前囘の主旨は、熱情の若者たる伊勢の下山青年に向けて記したものであるが、續きを書かむとしたるにその折、安請け合ひしたる寄稿の内容に困つてそれに書いてしまつたのである。「不二」及び「芳論新報」は、下山青年の許にも屆いてをり、加へて彼れ、先般の時對協定例會後、拙宅へ三泊四日したものなれば、微志の意見交換するに充分時間あり。然るに筆も停止してしまつた次第である。
 かくも面白からぬ内容の日乘を、お見捨てなさることなく御訪問下さる方には私事にて中斷し、全く面目も無いのであるが、ま、抑も日乘とは私事の上のこと、御高恕いたゞきたし。今後も鋭意拙筆を振つてまゐりますので何卒、御見守りくださらむことを。幾重にも御頼み申す次第である。

 さてゝゝ。その下山君であるが、「芳論新報」ほか、文章奉皇にも餘念なく、ことに 皇國に佛法は要らぬとの信念もて佛魔退散の氣勢を常、擧げてゐる。
 對佛に就て枝葉は兔も角も、大體に於て野生も同意である。たゞ野生は彼れの如く、朝起きて夜寢て、而して夢にまで佛魔退散を叫ぶ者ではない。本人もにはかに自覺してゐるやうではあるが、健康者か病人かどちらであるか、と問はれゝば彼れはまがふことなく病者の類ひであらう。間を取つても半病人だ。まアそれが彼れの個性であると云へば個性である爲め、それを大事にして欲しい。大勢集るとヘイトスピーチを發しながら、獨りでは自ら毆り合ひひとつせぬ御仁と比べれば、その信念、霄壤に齊しき差あると云ふも可なり。
 彼れの將さに螳螂の斧もて牛車に立ち向かはむとする、その意氣諒なり矣。及ばずながら野生も錆付いた斧を揮はずんば能はず。

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 あまりにも前囘の記事と無縁であるのも宜しからぬので、僅かながら細い一絲の繋がりは持たせねばなるまい。

 曩に記したやうに、徳川三百年の泰平に於て、國學者や尊皇儒者などは文弱に流され臆病の風に吹かれ徒らに幾星霜も惰眠を貪つてゐたわけではない。嘉永年間より慌たゞしくなりたる時代の趨勢の如く、拔刀し筒から火を放つやうなことは無かりしも、決して思想戰、信仰戰を放棄したるものではなかつた。鬪爭、焉んぞ、武器彈丸を用ふるのみにあらんや。寧ろ思想戰、宗教戰爭といふ意味に於ては、盲人の看做す所謂る武器彈丸無き「泰平無事」の時代こそ激烈なれ。

 よつて淺學なるも、次囘より先人の筆戰を紹介致したく之を試みるものである。

 今日を顧み、戰はむとする有志、その意氣こそ高らかなれ、果して今日は武器彈丸を用ひる可き秋にあらんか、否か。
●元祿十四年、徳川光圀公、『桃源遺事』に曰く、
功名を立てむがために、治世に亂をおもふは、治平の奸賊也』と。

 若し現代これ尊皇家に運動が要求されるとするならば、銃器の扱ひを習ひ武器の蒐集に奔るよりも、先達が孤獨(否、孤高と云ふ可き歟)と彈壓に耐へながらも克苦精勵、大和魂を固むる爲め敬神好學にひたすら殉じた遺志を繼承す可きであると思ふが果して奈何。
 敬神好學の、萬端整ひたるが故に、いざ時代の將さに拓かれむとする折柄、人士は尊皇尚武となる能うたことを決して閑却してはならない。而して思想戰も宗教戰も、確固不拔たる信念と之を裏付ける見識、その見識を構成したる學問あらずんば、已んぬるかな、憐れむべきかな、忽ち對手に打ち負かされてしまふものなるぞ。

 上手に抄録出來るか否か、一抹の不安あれども、頑張りますので、請ふ御期待。





 
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by sousiu | 2013-07-17 17:50 | その他