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夏去らむ 

 本日は、阿形充規先生はじめ大日本朱光会諸賢に招かれ、群馬縣の桐生市へ。
 他團體の諸先輩諸兄も既に到着してをり、樂しき時間を過ごした。
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 この集まりに誘つていたゞくやうになつて五年目。
 毎年々々この時期に開かれるこの會合に參加すると、夏も終はるのだと實感する。
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 「同血社電腦瓦版」では、昨年から「溪流憂國談義」と勿體ぶつて之を題しアツプしたが、能く々ゝ思ひかへしてみれば果たして誰れが憂國してゐたのか、ちと思ひ出すに苦しまねばならない。平成版北一輝(風)の近藤君あたりはその面相からして少し憂國的だが、あとはみな總じて憂國的ではない。
 ↓↓↓(※寫眞左。近ちやん)
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 ス○ベな話しや大の大人が就活(婚活含ム)するの話しなどで盛り上がつた。若しかすると我々は、遂に『玉鉾百首』に掲げられたる
 やす國の やすらけき代に うまれ來て やすけくてあれば 物思もなし
 といふ域にまで達觀したのかも知れない。をはり。

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    ↑↑↑ウオーリーを探せならぬ「河原を探せ」
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by sousiu | 2013-08-30 22:49 | 報告

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その六 

●佐々木高成先生『辯辯道書』上卷に曰く、

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=22

神道の文字、我書になき事はその筈なり。凡て三部の本記に何の尊、何の神のとあり。其神の行ふ所は皆、道にして神道なり。神の字に心つかざる故、かくのごとくの妄言あり。其上、我國開闢より人王の初迄は、他邦の道、入來(いり-きた)る事なければ皆神の道にして、分て神道と稱すべき事なし。後世儒佛の二教入來て、外國の道を學ぶもの中古より多きゆへ、他道へ對して神道の名あり。漢土に聖道といふがごとし。況や辯道者、所謂易の觀の卦(け)の説は、今世増穗老人(ます-ほ-らう-じん)の八部の書の中にいへる天地一般の神なり。我國の他邦と境を異にし、形體の神明降化の地においては神とさすこと格々(かくゝゝ)の子細あり。寒暑往來、陰陽消長の徳をさして天の神道といひ、聖人則天道治天下(※聖人は天道に則り、天下を治むる)を指(さし)て、其徳を神明にすといへるは、一通り天地一般の神の上にては聞へたるやうなれどもいまだ盡ざる所あり。 ~畧~

 易の本文に齋戒して其徳を神明にすとあり。是異邦の聖人といへども、齋戒の道を以て徳を神明にす。心を神明の舍(しや)といひ心を靈臺といふ。皆吾國秡(はらひ)の徳に似たり。朱子、論語丘が祈る事久しの章の註に、侮過遷善、以祈神之佑(※過ちを悔いて善に遷り、以て神の佑を祈る)とある。是神教三種大秡の意なり。かやうの事も察せずして、かたくなに儒計(※じゆ-ばかり)を尊んで、重むずべき我國の道を知らず、足もとを見ずして淵に落入とは曲學者が事をいふべし。其上我神教に四化の神といふことあり。他邦には曾て知らざる事なり。天地一般の神をいふときは造化(あめのしわざ)神といへり。又、氣化(いきのしわざ)の神といふ時は諾冊の二尊を始め、形體の父母なく、天地を父母として此國へ化生御座(まし-ます)の御神也。又、身化(みのしわざ)の御神といふは一女三男の神の類にして胎中より生給ふ御神なり。又、心の化(しわざ)の御神は住江の三天九神、日神の三女、大己貴の大三輪、是亦心化なり。神代卷の中、此四つの分別を以てそれゞゝに御神徳をわかつ事なり。

 他邦において造化、氣化、形化の説ありといへども、吾國四化の説の詳なるがごときこと更になし。尤、周公旦の禮書に天神、地祇、人鬼の三つを立て、大宗師、大説師等の官あつて鬼神に事(つかへまつ)れる事有り。辯道者我神國の神を祭る事を巫覡(ふ-げき)の業とおとし、天下國家を治るの大道にあらずといへるは狂妄はなはだし。往昔(その-むかし)神代天照大神、天児屋命をして、天下國家を治るの政を執(とら)しめ、又天神地祇を祭るの大宗師を兼て行はせ玉ふ。上の文にも述たる通り不此等(※ふ-び-と)の御子孫は今の五摂家、天下の政務を執り給ふ。卜部は神祇の官領となり、大中臣は伊勢の祭主となり給ふ。是児屋命の御子孫にして、古人の祭政の二つを御子孫へ分て一代不缺の相承となる事、仰(あふぎ)てもあまり有り、萬國に比類なきの神國、日神の勅言綿々として万古に盡(つき)ず。難有事(※ありがたきこと)にあらずや。それを異邦の眞似をして神に事ふるの官を設けたる巫覡といひなし、大道にあらずとはいかなる妄言ぞや。曲學者が著述の書をみるに、子思、孟子より誤り起り、宋に至てその毒甚しく、佛意を以て儒教に合す。唯孔子一人を執るべしといへり。しからば論語の文をば背く事あるまじ。論語に出門如見大賓使民如承大祭(※門を出でては大賓を見るが如くし、民を使ふには大祭に承へまつるが如くす)とある。是孔子、祭りを愼で神に事るの心を民に用ひよといふ事なり。是も児屋命の祭政を一人して執行ひ玉ふの御心に叶ふ教なり。本心にかへり、神敵國敵の罰を蒙らざる樣に悔悟すべし』(上卷終はり)と。



●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=27

『又、辯道書に、今の神道は佛意を借り、佛語を取て潤色したるものなり。本神道といふ事なきゆへ後人の附會なりと、都(※すべ)て佛語を合せて神道にいふ心の神明は佛家にいふ如來の事にて、唯心の彌陀本覺の如來して候などゝいひ、根の國、底の國といふは死して後の事をいふにて候。内外清淨、六根清淨などいふ事は、佛家に煩腦を除て菩提を求る道にて候、ことに六根清淨といふ事は法華經に出たるを、神道家に其名目を竊(※ぬすみ)て教を立たるものにて候などと、いろゝゝ神佛一致のやうに書なせり。是亦水火、氷炭のごときの誤り、有智のものへは辯ずるに及ばねとも、東西を辨へざる蒙昧の者のために今、爰に辨ず。

 先(※まづ)心の神明を本覺の如來彌陀といふ事大に不當の僻論なり。彼佛道に暗きゆへ、經文の意(こゝろ)をもあやまれり。唯心の淨土、己身の彌陀は淨家三部の得經(ゑ-きやう)の中、雙觀經の文なり。是は理を以て念佛を解するの説にて、彌陀佛は三部の中觀無量壽經に委しく見えて、法藏菩薩十劫の間思惟し玉ふて正覺を遂げ彌陀佛となり、西方に淨土を構へ安樂國といふ。人々佛性を具ふるゆへ、心を淨土とし、身を彌陀とす。去此不遠(こ-し-ふ-をん)の文字にて其意を見る。又吾自己の神明は天御中主の分靈(わけ-みたま)なり。佛といふ事、佛は覺にして煩腦塵砂の無明(む-めう)盡(つき)て本覺の如々たるものをさしていふ。吾神教は無明煩腦といふて嫌ふものさらになし。今日の歡び、怒り、歎き、哀み、是直に神心にして、其事々々に應じて正直質素の御柱立と、怒るべきものをいかるが、神心無明を以て怒るにあらず。惡を戒しめ、邪(よこしま)を罰するは是、曲玉の御徳なり。哀しむべきを哀しみ、悦ぶべきを悦ぶ、則神心なり。それを引つけて佛教と同じ樣にいへるは方蓋圓作の差(たが)ひ也。

 又、根國底國を佛教にいへる迷途(めい-と)地獄のやうにいひなすも大なる差(たが)ひ也。高間原の事は神代卷中臣秡等の神經に明々たり。根國底國も中臣秡及び伊勢五部の書の中に見ゆ。是佛家にいへる中有迷途(ちう-う-めい-ど)の沙汰とは天地懸隔のたがひ也。我所謂根國底國は此国土にあり、天地の外に有(ある)にあらず。神道生死の理を知らず、餘所(よ-そ)目より垣(かき)のぞきするゆへ、曾て室中の事を知らず、想像億度の妄言笑を千歳にのこすのみ。此事は前に所謂八部の書の中にくはしく、清明なるものは其神魄天に昇て、神明となる。邪曲無道のものは其神魂靈ならずして、降て幽谷山野に迷ひ畜身の胎中にも入る。此説を見ば辯道者甚だ笑ふべけれども、彼生死の實理を知らず、今試(いま-こゝろみ)に曲學者に問(とは)ん。

 孔子を祭る事、數千年聖徳宇内に滿て北狄西戎の國もこれを祭る心魂精神なくんば、祭る事虚禮虚僞なり。其靈ありといはゞ、おのづから根國底國あるべし。孔子精氣物をなし、遊魂變をなすと、此語も伊藤氏が古學にては孔子の語にあらずといふ。辯道者も雷同なるべし。是を僞といはゞ、孔子などを祭り、皇天后土(くわう-てん-こう-ど)を祭るは、人を化惑(だます)の教か、此いひわけ一に極めよ』と。
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by sousiu | 2013-08-29 02:20 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その五 

 『辯道書』對『呵妄書』、同じく『辯辯道書』を並行して記さうと試みたものゝ、間が空いてしまへば、どこまで抄録して、どのやうに進めてゆかうと考へてゐたのか、すつかり忘れてしまつた。抑々當時跋扈した慕夏主義の經世家と、之に對峙する國學者、崎門の學者の三書併行といふ企劃そのものに無理があつたのかも知れない。

 嘲笑つてくれ!!と云ひたいところであるのだが、固より野生の場合、ブラツク企業に働いてゐる譯で無し(わかるかな?)、閑人には閑人の取り柄あることを明らかにしておく必要があるので仕方なく、このまゝ筆を進めねばなるまい。

 え?わかり易く整理して書いてくれ、となん。・・・さういふ意地惡な請求をされますと、野生は再び一个月ほど更新をサボつてしまふことになりますぞ。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

 さて。佐々木高成、平田篤胤兩翁の批判も追ひついてしまつたので、再び『辯道書』の抄録に作業を戻さねばなるまい。
 篤胤翁の『呵妄書』にも度々散見されるが、必ずしも春臺、無學の徒といふものでもない。中には研學の成果無いでもない。
 但しそれ惜しむらくは、やはり慕夏思想が彼れの根底に存することにある。之によつて折角の學究も、歪んだ觀念となつて凝り固まらせてしまふのである。かくなる者をば經世家と認めてしまふ世の、不幸不吉たるは以て知る可し矣。噫、さりながらこの病ひ、ひとり春臺のみ感染するにあらず、たゞに江戸時代のみ流行するにあらず。吾人はかの病を患ふことなきやう、兎角時勢に焦り流されるの如き近視眼・短見者に偏ることなく、皇國住人たるの思想、乃はち勤皇の誠意を固めること、これを思想・學問の基礎と致さずんば能はず。基礎無き、若しくは基礎の脆き上に建てたる家屋やビルなぞ脆弱至極たること以て知る可き也。固より人の安住する可からざること、説明するまでも無し。

※煩を避けむが爲め、前囘まで付した(■佐一)(■平二)などは省くことゝした。
 又た、改行を成るべく多用してみた。讀み易きやうにとこれでも工夫した積もりだ。お付き合ひいたゞくやう、伏して冀ふ。


承前。
○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『今の神道に神事の行ひ、祈祷加持などの法を傳授して眞言宗の阿闍梨護摩師の如くなる業を教るは是巫祝の道にて、神道の肝要にては無く候。巫祝といふは鬼神に給事する者にて、國家に有らで叶はぬ者なる故に、周禮の春官に、大祝、小祝、喪祝、甸祝、詛祝、司巫、男巫、女巫の官ありて、鬼神の事を主司す。

 此諸官は天子の宗廟社稷以下の祭祀、其外國家の大禮に皆それゞゝの職事ありて其役を務候(※つとめ候)。此輩は只專鬼神に給事し、祭祀祈禳を行ふのみにて、別に其道あるを其家に相傳するにて候。周の代の巫祝の所作は、如何なる禮といふことを、今考ふべき樣は無く候へども、大略今の世の阿闍梨、陰陽師、禰宜、神主、山伏などの所作に似たる物にて有べく候。昔と今と時を異にし、異國と本朝と境を隔つる故に、其儀式名目は、かはるべく候へ共、其所作はさのみ大に異なること有まじく候。子細は人情物理、古今同然なる故に候。此巫祝の道は君子の道とは別なる物にて、君子よりこれを見れば、兒戲の如くなる事も、怪しき事も、おかしき事も有之候へ共、國家の害にならぬ事は其まゝに捨置て、神事の類をば彼等に任せんとて、古の聖帝、明王も是を用たまひて百官の列に入られ候。後世に及で、人を牲(いけにへ)にする樣の事起り候へば、西門豹が如き者さへ是を治候。況や先王の時左樣の事は無く候。然れば巫祝には別に一種の道ありて、常の道にあらず候を、常の人これを學び候て、何の用に立候はんや。今の人、神道を學びて、不淨なる家の内に神壇を作り、不淨なる衣服を着し、不淨なる供具を献じて朝暮に神を祭り、巫祝の如くの行ひをなして、鬼神に褻れ鬼神を瀆して、終には亂心する者有之候。今の神道家にいふ所の神明は、佛家にいふ如來にて候。心の神明といふは佛家にいふ唯心の彌陀本覺の如來にて候。

 根の國底の國といふは、死して後の事をいふにて候。内外清淨、六根清淨などいふ事は、佛家に煩腦を除て菩提を求る道にて候。總じて今の神道といふは、唯一三元といへども皆佛道に本づきて杜撰したる事なる故に、外には佛道と敵するやうにて、内は一致にて候。今の神道の如くなる事、中古までは無き事なる故に、昔の記録、假名草紙の中にも見えず候。是にて聖徳太子の時、神道いまだ有らざりし事を御得心あるべく候。左に申候如く、神道といふ文字は周易に出候て、聖人の道の中の一義にて候を、今の中には巫祝の道を神道と心得候て、王公大人より士農工商に至るまで、是を好み學ぶ者多く候は大なる誤にて、以ての外の僻事と存候。巫祝の道は只、鬼神の給事するのみにて、吾人の身を修め、家を治め、國を治め、天下を治むる道にあらず候へば、巫祝にあらざる者は知らずして、少も事かけず候間、士君子の學ぶべき事にあらずと思しめさるべく候』と。(以下、一旦閣筆す)


 敢へて『辯道書』には、赤字や太字を省かうと思ふ。有志諸兄の炯眼を以て先づ御一讀いたゞき、その上で高成、篤胤翁の御一文に接してみるはうが一興の價値あると思うた爲めだ。
 それにしても。淺見と云はんか偏狹と云はんか、當時に名を馳せたる學者をして本當に斯くの如く考へ、信じてゐたのだとするならば、これらを相手取り、且つ 皇國を復古中興へと導いた我れらの先學偉才の苦勞も並大抵のものでは無かつたに相違ない。
 さてゝゝ、兩翁の筆碎如何なるものぞ。
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by sousiu | 2013-08-28 22:02 | 大義論爭

宅は無事解放されました。 

 またゝゝ更新が滞つてしまつた。
 既記十五日から客人が入れ替はり立ち替はり來泊、今日は十日ぶりで一人となつた。さらば獨語は更新せねばならない。明日以降、再び「呵妄書」などを更新してゆく積りである。

 どうやら野生は、女性が近付かぬかはりに變人が寄り付くやうで。伊勢紀伊周遊から下山君が背後靈の如くついて來て、不覺にも昨日まで拙宅は籠城、否、占據されてゐた次第である。泪。

 昨日は大東神社へ赴き、大東塾十四烈士中央墓碑の墓前祭及び直會に參加。
 貴田氏、下山君ほか有志と影山家、相原修命の奥津城などを參拜する。
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 昨日今日と横濱は比較的過ごし易い。さうかと思へば水難を被る地域もある。みなさま、くれゞゝも御用心御專一に。
 
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by sousiu | 2013-08-26 19:28 | 報告

九段の杜で。 

 本日は、午前中から一同で靖國神社へ。盛道烈士會及び大日本剣山塾諸兄と合流した。
 山川裕克君ほか諸兄とも合流し、皆でつゝしみて黙祷を奉り、玉音放送を拜した。
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 その後、靖國會一同で昇殿參拜を。
 待ち時間では、はからずも大行社・丸川仁先輩とお會ひし、昨日の時對協で談ぜられた議論を總括された。拜聽するに、靖國神社に對する日本人の節操に關するお話しで、竊かにその内容は我が意見として盗用させていたゞかうかと思うてゐる。

 靖國神社に對する造詣が深められてゆくことは素晴らしいことだ。有志が互ひに見識を養つてゆく、尤も運動といふカテゴリーにははいらないかも知れない地味なことであるが、理にせよ非にせよ、靖國神社を政爭の具にしたがる「運動」よりも遙かに大事なことであると知る。
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by sousiu | 2013-08-15 20:19 | 報告

時對協定例會 

 本日は、かしこくも 先帝による御英斷の日だ。「御英斷の日」といふと、山より高く、海より深き叡慮を奉戴せぬ反日の徒輩から苦言を投ぜられるかも知れないが、我れらの淺慮なる視點と意見はさておき、又た個人の望むと望まざる、好むと好まざるとにかゝはらず、先帝による聖斷の日だ。而して、祖父母による、「叡慮を奉戴した日」でもある。

 先ほど行はれた時對協定例會は、おほくの有志で部屋を埋め、この「八月十五日」と「靖國神社」に就て議論頗る熱く。野生の卑見は一考に與するべきもので無きにせよ、皆々の意見は終始興味深く拜聽することができた。

 過日、野生が毎月紙面を汚してゐる『芳論新報』來月號分として、不足ながらも「昭和廿年八月十五日」に就ての愚論を脱稿した。若し『芳論新報』を目にする機會あらば御一讀賜はり、御苦言なり御叱責を頂戴したいと冀ふ。

 時對協には今月より、群馬縣を據點とする亜細亜史観研究会の工藤純代表が加はつた。オブザーバーとして、栃木縣を據點とする郷守會・國松兄も參加した。

 諸兄の意見は活氣あり、またよく勉強してゐるものだと感心せざるを得ない。うつかり野生、記憶が曖昧なまゝ年號や、先人の名前を間違へやうものならば、即座に指摘されてしまふ。笑止。
 顧みれば時代も變化してきたものだ。
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 人間生涯勉強だ、とは聞きなれた言葉であるが、況や道に殉ぜんとするの人に於てをや、だ。
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by sousiu | 2013-08-15 00:36 | 報告

納涼 

 花火大會を見學致しをりさうらふ。於石川縣金澤驛前。
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by sousiu | 2013-08-03 21:24 | その他

もつこすゞきだ君 

 原道社主、熊本愛郷新聞編輯長、鈴木田舜護君より書簡及び雜誌「紙の爆弾」が屆く。
 今月號の「紙の爆弾」に、彼れ鈴木田君が執筆してゐると聞き、是非拜讀を、と思つたが、何やら怪しい雜誌なので、買ふに躊躇つてゐたところを送つていたゞいたものだ。深謝。


 もつこすゞきだ君の曰く、
『私は、皇室の彌榮は即ち國民の繁榮であり、皇室に對する不敬は即ち日本に對する宣戰布告であると考へてゐる』(『紙の爆弾』平成廿五年八月號「鹿砦社」發行)と。
 若さと情熱が溢れるやうな文章だ。野生のやうにオヂサンともなると、かうした文章を書ける若者を羨ましく思へる。

 曰く、
『これは、理屈や個人的希望ではなく、神の國「日本」に生まれ育ち自然に感じるやうになつたことだ。そんな私が、中井の不敬な言動を許せるはずがなかつた』と。
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 平成廿二年十二月、當時衆議院議員であつた中井洽に對し、鈴木田君が血判状を送付した件に關する記述だ。彼れらしく、眞つ直ぐで道に對する純眞な姿勢が十分に傳はつてくるものだ。

■■■ 參考http://sousiu.exblog.jp/15244534/

 彼れもつこすは、目下、神國の面目を如何に發揮せんとするか、舊態依然の運動而已にとらはれず試行錯誤を繰り返し、新らたな運動を展開するひとりだ。
 ◆◆もつこすのための熊本愛郷新聞  

 左翼の好むやうな雜誌に、斯くのごとき彼れの文章が掲載されることは寔に大歡迎である。
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 既に發賣されてゐるものなので、御興味のある方は御一讀されたし。
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by sousiu | 2013-08-02 23:36 | 報告