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『鬼神新論』より學ぶ 

●新井君美(號、白石)『鬼神論』上卷に曰く、
「鬼神のこと、まことにいひ難し。たゞいふことのかたき(※難き)のみにあらず。聞(※きく)ことまたかたし。たゞきくことのかたきのみにあらず。信ずる事またかたし。信ずることの難き事は、これしることのかたきにぞよれる。さればよく信じて後によく聞とし、よく知りて後によく信ずとす。よくしらん人にあらずして、いかでかよくいふことを得べき。いふ事まことにかたしとこそいふべけれ」と。

●孔子の曰く、
「季路(※子路のこと)問事鬼神、子曰、未能事人、焉能事鬼。曰敢問死、曰未知生、焉知死」(『論語』「先進第十一の十二)
○書き下し文「季路、鬼神に事(つか)へむことを問ふ。子曰く、未だ人に事ふる能はず、焉んぞ能く鬼に事へむ。曰く、敢へて死を問ふ。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らむ」


  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 


●平田篤胤大人『鬼神新論』(文化二年草稿、文政三年補足)に曰く、
「さてまた、誰(たれし)も天と鬼神をば、別に論ふ事にて、こは■(※ウ冠+呆=實)に然すべきわざなれど、其の霊威ありて奇異(くしび)なるは同じ事にて、其を相通して、廣く鬼神と云へる事、次に挙げたる中庸の文に、鬼神之徳其盛矣乎云々(※鬼神の徳、それ盛んなるや、云々)と云ひ、左傳にも、鬼神非人■(※上に同じ。じつ)親、惟徳是依、故書曰、皇天無親、惟徳是輔(※鬼神は人の實に親しむに非ず、これ徳のみこれ依るなり。故に書に曰く、皇天親無し、これ徳のみこれ輔けなり)など云へる類多くあり。是みな天地の神を廣く鬼神と云へり。よし然らでも、此には天も鬼神も、■(仝、實)物なる事を曉(さと)さむとの業なれば、一ツに云ふなり。また天にしては神と云ひ、地にしては祇と云ひ、人にしては鬼といふと云ひ、また神はなり、鬼はなりなど云ふ類の、甚(いと)うるさきまでに説の多かれども、都(すべ)て取らず。おしなべて、此には只に鬼神と云ふなり」(本文四丁裏)(漢字表記は氣吹廼屋塾藏版に從ふ。文中下線は原文のマヽ)

 篤胤大人は、世の中の萬事は天神地祇の作用せる御所爲であると説く。曰く、
世ノ中の事は、すべて天神地祇の、奇妙(くしび)なり御所行(み-しわざ)に洩たる事なく、別(こと)に迅雷風烈などは、神の荒(あら)びにして、いとも可畏(かしこ)く、何の故、なにの理に依て、かゝるとも、測り難きに依て、畏れ敬ひたるなるべし」(九丁表)

 曰く、
「さて傳説(つたへ-ごと)なくては、天ツ神の、世ノ中の万の事を主宰(つかさど)り給ふ事、また人の存亡禍福、みな神の御所爲にて、■(仝、實)には、人ノ力に及び難しと云ふ事は、容易(たやすく)は知りがたき事ゆゑ、孔子も、五十而知天命(※五十にして天命を知る)と云へり。[この語を以ても、孔子の天命といへるは、餘(ほか)の戎人(から-びと)どもの、天命々々と云ふとは、大きに異にして、更に託言にはあらぬ事を悟るべし]」(十四丁表)

 曰く、
「赤縣(か-ら)人は、左(と)いふも、右(かく)云ふも、正■(仝、實)の傳説を知らざる故の僻説なれば、まづは難(とが)むるにも足らねども。皇國の學問者(もの-まなぶ-ひと)にして、此ノ故を知らず、西戎人(か-ら-びと)と等竝(ひとし-なみ)に、をさなき説のみ、云ひ居るなどは、甚も口をしき事なりかし。偖また世に有りとある事ども、摠(すべ)て天神地祇の御靈に洩(もれ)たる事なければ、誰しも人も、能々齋(いつ)き祀るべき事論ひなし。[この事は、我が師(※本居宣長大人のこと)の書(ふみ)どもに、委曲に云ひ置れたり]これ則孔子の本意なり。赤縣にては、後ノ世となるがまにゝゝ、神祇を祀るにも、さかしらのみ先として、神の御土をも、彼ノ小理をもて、推(おさ)むとすれど、其は甚(いみ)じき非事(ひが-ごと)なり」(二十一丁表)


 餘談となるが、以下に篤胤大人の、獨特の神觀があらはれてゐる。善神であつても或る者にとつては惡事を齎す結果となり、又たその逆として惡神であつても時として善事を齎すことがあるといふものだ。つまり神の御所爲は人智の到底及ぶ可からざるもの。これをば、佛心やら儒道やらの目もて見るは誤りである、と。乃はち下にみよ。曰く、
「とにかくに神の御事は、彼の佛菩薩聖賢など云ふ物の例を以ては云ふべからず。善神の御所爲には、邪なる事は、つゆも有るまじき事ぞと、理をもて思ふは、儒佛の習氣(ならひ)なり。神はたゞ尋常(よのつね)の人の上にて心得べし。勝(すぐ)れて善き人とても、時(をり)によりては怒(いか)る事あり。怒りては人のため善からぬ事も、必無きに非ず。又あしき人とても、希(まれ)には善事も混ることにて、一概には定めがたきが如し」(二十六丁裏)
 これは鈴屋大人の見解(『答問録』など)と異にしてゐるものであり、注目を要するところである。

 曰く、
「さて又赤縣には、正しき古傳説なきが故に、孔子ばかりの人も、世には善惡の神在(まし)て、其ノ御所行のまにゝゝ、吉事凶事互に往替る、最(いと)も奇(くす)しき道理(ことわり)ある事を、辨へざる事あり。故爰に、其ノ由を論ひ諭さむとす」(十五丁表)

 曰く、
「抑(そもゝゝ)世には、大禍津日神と、大直毘神おはしまし、又一向(ひたすら)に枉事(まが-わざ)なす枉神(まが-かみ)も在て、各(おのゝゝ)その御所業いたく違へり。其はまづ大禍津日ノ神と稱(まを)すは、亦ノ名は八十枉津日神(や-そ-まが-つ-ひの-かみ)とも、大屋毘古神(おほ-や-び-この-かみ)とも稱(まを)して、此は汚穢(きたな)き事を惡(きら)ひ給ふ御靈の神なるに因(より)て、世に穢らはしき事ある時は、甚(いた)く怒り給ひ、荒び給ふ時は、直毘ノ神の御力にも及ばざる事有りて、世に太(いみ)じき枉事をも爲し給ふ。甚(いと)健(たけ)き大神に坐せり。然れども又常には、大き御功徳を爲し給ひ、又の御名を瀬織津比咩神(せ-おり-つ-ひ-めの-かみ)とも申して、祓戸神(はらひ-どの-かみ)におはし坐て、世の禍事罪穢を祓ひ幸へ給ふ、よき神に坐せり。穴かしこ。惡き神には坐まさず。[然るを鈴ノ屋ノ大人は、此ノ神ハ一向(ひた-ぶる)の惡神に坐まして、世の惡事は、悉く此ノ神の掌(しり)給ふ事と、説き給へりしは、下に云ふ枉神と混一に思ハれしにて、其考への未タ委からざりしなり]」(十五丁裏、十六丁表)と。


 閑話休題。續いて大人は、當然の如く死後の魂の存在に就て説く。曰く、
「まづ人は、生(いき)て有りし時の情(こゝろ)も、死て神靈と成りての情(こゝろ)も、違ふ事は有るまじければ、生(いき)たる時の情もて、神靈となりての情を測るべし」(三十三丁裏)

 曰く、
「然れば人の生(うま)るゝ始のこと、死て後の理などを、推慮(おし-はかり)に云ふは、甚(いと)も益なき事なれば、只に古傳説を守りて、人の生るゝ事は、天津神の奇妙(くすしく-たへ)なる産靈(むすび)の御靈に依て、父母の生なして、死(しぬ)れば其ノ靈、永く幽界(かくりよ)に歸(おもむ)き居るを、人これを祭れば、來り歆(※音+欠=うく)る事と、在(あり)の侭(まゝ)に心得居りて、強(あながち)に其ノ上を穿鑿(たづね)でも有るべき物なり。其は此ノ上の所は、人の智(さとり)もては、■(實)に測り叵(匚+口=がた)く、知りがたき事なればなり」(四十二丁表)

 又た曰く、
骨肉は朽(くち)て土と成れども、其ノ靈は永く存(のこ)りて、かく幽冥より、現人(うつし-ひと)の所爲(しわざ)を、よく見聞居るをや」(四十二丁裏)


 而して、稀に所謂る輪廻と呼ばれることがらありしを説く。曰く、
佛者の謂(いは)ゆる、輪廻やうの事も、希々(まれゝゝ)には■(實)に有る事なり。其ノ故は、何なる故に依て然りとも、更に知り難き事なり。此は神の幽冥(か-み)なる御所爲なればなり。然るを儒者の、絶て無き事なりと云ふは偏(かたくな)なり。また佛者の、此レを竝(なべ)て然りと云ふも、いよゝゝ僻言なり。■(實)には、輪廻といふ説は、釋迦法師の、民を導くとて、甚(いと)稀にある事を種として、造れる説なり。天竺の人、いかに愚なりとて、更に徴(しるし)なき事は、信(うく)まじければなり。佛法に云へる説ども、大概はこの類にて、彼ノいはゆる、僞(いつはり)を讐(う)らむと欲して、眞を假(か)る、と云ふの所爲(しわざ)なり」(四十八丁表)と。

 つまり、釋迦や法師などのいふ輪廻は、極く稀にある事實を素材として、民を導く爲めに「全てさうである」と利用したに他ならないことを指すのである。逆に儒者達の「絶對に無い」といふ説も又た偏つたものであると指摘する。
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 因みに篤胤大人の著したこの『鬼神新論』は大人、齡卅になるかならないかといふ頃である。それまでの大人の學問に對する熱情の成果たるはさることながら、以爲らくそれを倍して猶ほあまりあるほどの情熱的信仰心あつたればこそだ。然るに野生は思ふ、「敬神尊皇」てふ重き言葉を輕々にスローガン化して滿足す可きではない、と。

 今日はこゝまでだ。

# by sousiu | 2013-10-27 08:59 | 先哲寶文

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 番外  

 『辯道書』に關して聊か長くなつてしまつた爲め、讀み手は嘸ぞ難儀したことであらう。

 篤胤大人の『呵妄書』を寫し終へればそれで全ておしまひとしたのでは余りにも不親切過ぎると感じた野生は、小林健三氏の文章より抄出し、これをお復習ひせむとする。
 讀み易きやう、小林氏の意見を太字、春臺の意見である『辯道書』を緑字、篤胤大人の反論である『呵妄書』を青字とする。
 くどいやうであるが、本當にこれでおしまひとするので、閑暇のあるお方はもう少し、お付き合ひ下さりますやう、冀ふ。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

●小林健三氏、『垂加神道の研究』(昭和十五年十二月廿六日「至文堂」發行)所收

■■■ 『辯道書』からみる太宰春臺の思想(神道否定論)に就て ■■■
徂徠學派の神道否定説は、徂徠に發し、太宰純に至つて展開した。
 先づ徂徠は太平策の中に神道を論じて、

「神道と云ふことは卜部兼倶が作れることにて、上代に其沙汰なきことなり」
 といつてゐる。太宰純の辯道書はこれを更に詳細に述べたものである』と。

 太宰春臺は荻生徂徠の思想的影響を濃厚にしたる學者の一人であることはいふまでもない。ま、この場で徂徠をも登場させてしまつてはややこしくなるので今は語る可きではない。

『~中略~ そこで進んで(※純=春臺は)神道否定の根據を説いて曰く、
「凡そ今の人、神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是れ一つの道と心得候事、大なる謬りにて候。神道は本聖人の道の中に有之候。周易に、觀天之神道。而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)。聖人以神道設教。而天下服矣と有之、神道といふこと始めて此の文に見え候。天之神道とは、日月星辰、風雨霜露、寒暑晝夜の類の如き、凡そ天地の間に有る事の人力の所爲にあらざるは、皆、神の所爲にて、萬物の造化、是れより起こり、是れを以て成就するを天の神道と申し候。聖人以神道設教とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受けて行なひ候。されば古の先王天下を治めたまふに、天地山川、社稷宗廟の祭を重んじ、祷祠祭祀して鬼神につかへ、民の爲に年を祈り、災を禳ひ、卜筮して疑を決するが如き、凡そ何事にも鬼神を敬ふことを先とし候は、人事を盡くしたる上には、鬼神の助を得て其の事を成就せん爲にて候。又た士君子は義理を知りて行なひ候へ共、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假りて教導せざれば其の心一定しがたく候。聖人是れを知ろしめして、およそ民を導くには必ず 上帝神明を稱して號令を出され候。是れ聖人の神道にて候。聖人以神道設教とは是れを申し候。近世理學者流の説に、君子は理りを明らめて鬼神に惑ふ事無しといひて、一向に鬼神を破り、或は聖人の民を治める術にて、假りに鬼神を説くといふは皆神道を知らざる者にて候。君子三畏の第一に、畏天命と孔子の仰せられ候も、天命は天の神道にて、人智を以て測られぬ故に、君子是れを畏るゝにて候。周易の繋辭に、陰陽不測之謂神といひ、説卦に、神也者妙萬物而爲言者也といふ。皆鬼神の妙にして測られぬことを説かれ候。されば天の命、鬼神のしわざは何の理り、何の故といふことを聖人も知りたまはず、只畏れて敬ふより外のこと無く候。下民を教へたまふも此の心にて、少しも民を欺き、方便して鬼神をいひ立てるにては無く候。此の義は理學者の知る所にあらず候、よくゝゝ御勘辨候て御得心あるべく候。然れば神道は實に聖人の道の中に籠り居り候。聖人の道の外に、別に神道とて一つの道あるにてはなく候」(※「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」序、參照)
 純によれば神道は吾國の道にあらず、支那聖人の教の中に含有されてゐる、といふのである』と。

 そして曰く、
『~中略~ (純によれば)かくの如く神道は巫祝の神祇祭祀のことではなく、當代に神道と稱するものは佛見によりしものである。從て國家としてこの巫祝の道のみを神道と心得て學ぶことは誤りである。かくて結論として純は次の如く斷定した。
「總じて今の神道といふは、唯一三元といへども皆佛道に本づきて杜撰したる事なる故に、外には佛道と敵するやうにて、内は一致にて候。今の神道の如くなる事、中古までは無き事なる故に、昔の記録、假名草紙の中にも見えず候。是にて聖徳太子の時、神道いまだ有らざりし事を御得心あるべく候。左に申候如く、神道といふ文字は周易に出候て、聖人の道の中の一義にて候を、今の中には巫祝の道を神道と心得候て、王公大人より士農工商に至るまで、是を好み學ぶ者多く候は大なる誤にて、以ての外の僻事と存候。巫祝の道は只、鬼神の給事するのみにて、吾人の身を修め、家を治め、國を治め、天下を治むる道にあらず候へば、巫祝にあらざる者は知らずして、少も事かけず候間、士君子の學ぶべき事にあらずと思しめさるべく候」(※「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」その五、參照)
「日本には元來道といふこと無く候。近き此神道を説く者いかめしく、我國の道とて高妙なる樣に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候」(※その十三、參照)
 太宰純の神道否定論はこゝに至つて極まるのである』と。


■■■ 『辯道書』及び太宰春臺の思想に反論する『呵妄書』 ■■■

 曰く、
『辯道書の神道否定論に憤激して堂々の論を發表したのは平田篤胤であつた。呵妄書一卷(享和三年。時に二十八歳)は單に太宰氏に對する駁論たるのみならず、本居の神觀をうけて復古神道の立場を闡明した大著である。篤胤の出發點たる意義はこゝに存する。

 次に吾々は兩者の學説を比較して、神道研究の態度を明かにしようと思ふ。
 辯道書に
「神武天皇より三十代欽明天皇の頃までは本朝に道といふ事未有らず、萬事うひゝゝ敷候處に云々」とあるが、篤胤は一應之れを認めた上で激しくたゝくのである。曰く、
「往昔より 皇國の學をもとなへて神典をも説教へし、百識者等西戎國に嚴重なるをしへの道有ことをうらやみ 皇國の古にもさる教の道有りとていふは、皆僻言なる中に、太宰純獨 皇國の古には、道なかりしことを云ひ顯して是を辯ず。實に卓見とも云ふべきか」(※その一、參照)

 吾國上代に支那と對立的なる道徳的な教があつたのではないとするのである。
 然らば神道は吾國の教ではなかつたのであるか。太宰純は明かに神道の獨立的存在を否定して「凡今の人神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是を一つの道と心得候事大なる謬にて候」と斷じてゐる。之に對して篤胤は僞物と眞物との區別すべきを論じていふ。

「神道は吾が國の大道にして、天皇の天の下を治め給ふ道なれば、儒佛の道とならべ云ふまでもなく、掛まくも可畏けれど、上 天皇をはじめ奉り下萬民に至るまで、儒佛を廢てたゞ一向に神道を信じ尊まん事、更に謬りにあらず。純が世に在しほどまでは未唯一兩部の輩のみにして眞の道を説くものある事なく、神道といへば錫杖をふり或は鈴をならし大祓詞[俗に中臣祓といふは誤なり]を唱へ其外あやしきわざをのみ目なれし時なれば、爰に神道といへるも專夫れらをさして云へるにて、實に神道を知りて云るにあらねば、深くとがむべきにあらずといへども、此書を讀る人々の 皇國の道は、實にかゝることよと思ひて謬らんことの長息はしければ辨ふるなり。次々に云ふを見て、眞ノ道は俗人の思ふところとは、大に異なることをさとるべし」

 而して太宰純の神道觀の根柢は周易の「觀天之神道、而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)、聖人以神道設教、而天下服矣」にあつたことは上に述べた通りであるが、之が儒家神道の中心概念でもあつた。故に之を打破ることは神道史上深甚の意義を有するものである。この點篤胤は明快に辨拆していふ。
「太宰のみならず、すべて儒家者流のいはゆる神道は、如何にも周易[上象傳大觀の章]に見えて、爰にいへるごときことを神道といへり。然れども 皇國の道をも本聖人の道の中にありと云ひて、同事に思ひたるは神道と書る文字に拘泥る大いなる僻言なり。今其よしを委曲にいはん。まづ 皇國の道に云ふ神と、周易の神道に神とさすものとは、いたく異なり。其故は周易に神と云は純が云へるごとく、天地の間にあらゆる事どもの人力にあらずして、自に行るゝ其靈妙なる處を神の所以として神道とはいへるなり。然れども實に神と云ふ者有りとていへるにあらず。たゞ其妙なる處をさして假に設ていへる號のみなり。[周易繁辭に陰陽不測之謂神といひ、説卦に神也者妙萬物而爲言者也]其よしは人の云ふを待ずして儒書よむ人は、皆よく知れることなり。また 皇國の道に云ふ神は、古事記書紀の神代の御卷に見えたる、天地の諸の神々にて、[また鳥獣草木山海其餘も尋常ならず、可畏ものを神と云ることあり。委くは吾翁の古事記傳に見えたり]假に設けていへる號に非ず。其神々のはじめ給へる道故、神道とは云ふなり。[古へに通ぜざる人はかく云ふを聞てもまづ疑ふべし]道の體を神妙とほめていへるにては無きなり。 ~中略~ 古へより百の識者等のみな古へを解誤れるは、かゝる事に心付ず、古意古言をば尋んものとも思はず。たゞ漢説の理と文字とのさだめをのみ旨として迷へるが故に、眞の處を曉り得ざりしなり。純が周易の神道と 皇國の神道とを同じことなりと云へるも、皆、文字に泥めるが故なり。[すべて 皇國の古は文字によらずして解ざればさとりがたし]すべて少しにても似寄たることあれば、強て西土を本なりと云ひて、いはゆる牽強附會を云ふは、普通の神道者と西戎書籍にのみなづめる儒者どもの癖なるぞかし」

 これは非常なる卓見であるが、更に一段と這般の道理を闡明して餘す所ないのは次の論定である。太宰純は周易の神道の内容を説明して「聖人の道は何事も天を奉じ祖宗の命を受て行ひ候云々、凡何事にも鬼神を敬ふ事を先とせしは人事を盡したる上には鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候」といつたが、之をその根柢に於いて粉碎したのは左の言である。篤胤の曰く、
「聖人以神道設教の七字をとけるやう、爰には祖宗の命を受て行ふと云ひ、又、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候など云ひて、實に神を敬ひ氣にて少しは道に叶へるさまに聞ゆるを、次には庶民は愚昧なるものなれば、鬼神を假て教導すと云ひ、又は民を導くには必上帝神明を稱して號令を出され候など云ふは、一紙一表の中にして忽に齟齬せり。然れ共、聖人の道の意は次に云へる趣ぞ。其意を得たる説ざまに有りける。
 さて爰に聖人の道は、何事にも天を奉じと云へるは然る事にて、漢國人の俗として、何事にも天の命とか云ひて、天は賞罰正しく心も有るものゝ如く、いみじく可畏きことに云ふことなれども、天は諸の天津神等の坐ます御國にて、[かく云ふを聞て、漢意の人、耳なれずとて不審ることなかれ]更に心など有るものにてはなく[天則不言而信などいへるも、大いなる空言にして、漢國にても少し見解あるものは、天命など云ふをば□□りぬ]彼の天命など云ふは、皆古への聖人の云ひ出したる言にて、所謂寓言なるをや。[この事も末にいへり]また祖宗の命を受けて、行ふと云ふも然る事にて、皇國にこそあれ漢國などには、更に無きこと也。たまゝゝ書經[説命の上]に夢帝賚予良弼と云ふ事、見えたれ共、是も史記の頭注に據るに殷人は、鬼神を尊む風俗故、武丁夢に托して傳説を擧げたるものなり。[外にもかゝる類まれには見ゆれど大概右の類なるべし]逆臣どもの君を亡し、國を奪ふ時などに、天の命を受たり。祖宗の命を受たりなどと云ふは、皆かこつけの空言なり。また天地山川社稷宗廟の祭を重んじと云へるも、社稷宗廟の祭などは、先祖を祭るにて、是とさして祭るもの有れば、然ることなれども、天地山川などを祭るは 皇國にては、正しき傳説有りて山ノ神も川ノ神も御名なでも、つぶさに傳はりて祭るなれば、正しきを西戎國にては傳説なく、たゞ心もなき天地山川を祭るにて、譬へばいたづらに其座ます宮殿を祭るが如く、いはゆる虚祭と云ふものなん有りける」
(※その三、參照)

 舌端火を吐き、眞に堂々たる意見であつて、太宰純の議論は、こゝに鐵鎚を下されて完全に敗北したのである』と。


 書籍名が『垂加神道の研究』としながらも、篤胤大人の『呵妄書』に就て少なからず書かれてあつたので、“まとめ”として之を抄出した。
「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 番外  _f0226095_22341826.jpg

 次囘の「大義論爭」、乞ふ、御期待。




※※※※※※ 追伸 ※※※※※※

 今日は抃喜せざる可からざるの吉報がある。
 もつこすゞきだ君が、熊本の有志と一心戮力、熊本市に『神風連の』から『神風連の』へと改名せしめるやう再三再四に亘りて申し出るや、その衷情漸く市の意に達し、今度び正しく書き換へられるに至つた。
 てつきり彼れは今ごろ警視廳に逮捕拘留されてゐるとばかり思うてゐたが、相變はらず肥後圀で活躍してゐたのだなア・・・。千兩千兩(←井上井月翁風に)。↓↓↓↓

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 實に芽出度き哉。雀躍たる思ひを抑へきれない。う~~~む・・・・・、かういふ時、井月のごとくお酒が飲めたらなア・・・。ま、兎に角、まづは青汁で乾杯だ。

# by sousiu | 2013-10-24 22:21 | 大義論爭

「辯道書」と「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十九 終はり  

 遂にこのシリーズも今囘もて終はりだ。
 途中で何度、止めようと思うたか。そんな時、秋風之舍主人の顏がチラ付き、誰れも讀んでゐないだらうといふ孤獨に耐へながら(あ、いや。少なくとも下山といふ病人、元へ、變人の學生がをつた歟)こゝまで來た。
「大義論爭」は初めての試みであつたので、聊か進行に戸惑ひ無理があつたことは認めねばなるまい。けれ共、何となく要領も掴みかけてきたので、次囘はも少しマシになるのではないかと思ふ。次々囘はもつとマシになるだらう。ま、長い目で見守つていたゞきたい。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

 承前。

●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』に曰く、
『さて又前に申たる純が説の堯舜の道に非れば、世に立事能はず候とある、其文の續きに、されば中華の古代も日本の今の世も、天下はいつも堯舜の道にて治り候云々。諸子百家を悦び、或は佛道、或は神道を好むは、其國家の亂るゝ端にて、譬へば病なき人の妄に吐下攻撃の藥を服するが如くなるべく候とある。

 此中華の古代と限つて云たは、いとをかしきことだ。堯舜が道は、西土にては古代に計り益ありて、後代には益なき道で有うか。夫を大中至正の道とは何ごとだ。~中略~ 堯舜が道を功あるさまに云はうとのみすれども、さすがに彼の國の世世に聖人の道と云を用ひて治つたることなく、亂りがはしきを思へば、古今に渉つて大中至正の道とうけばりては、云ひかねたと見える。然も有るべきことだ。未くはしくは考へ通(わた)さゞれども、漢土の世々に五十年とよく治まりたることは有るまいとぞ思ふ。漢土の古代は治つたと云も覺束なく、況て其後の事は上に段々に云やうの如くなるものを、今何國(いづ-く)に用ひたりとも、何の益が有らう。強て歡び好むときは、たゞ國家の亂れる端にて、譬へば病なき人のみだりに吐下攻撃の藥を服するが如く、更に益なきのみにあらず、終には廢人となることあり。よくゝゝ心すべき事でござる』と。


 また曰く、
『譬(※たとへ)如何ほどすぐれたる人にても、稀(まれ)々には誤りなきには有らねども、純は第一に大本立ざる學文故に、僻言のみ多いでござる』と。

 今日の良くわからん自稱保守派言論人などは論外とするも。吹氣廼舍大人のこの一節は、古今に通じて學者なり思想家なり經世家、延いては政治家の聽き逃がす可からざる一節だ。

 余談となるが、先日の講演で、拙くも孫武の「彼れを知り、己れを知れば百戰して殆ふからず」の一節を引用した。當時の學者らは「彼れ(漢土)を崇め、己れ(皇國)を卑しめる」ものであつたし、今日の自稱保守派らは「敵(彼れらのいふところの支那・南北朝鮮、或は米國)を知り詳しくあるも、己れ(日本)に就ては然程知らうとはしない」ものである。然るに彼れらは「神州不滅」たる 皇國の大眞相をうたがひ、あやしみ、「日本は滅びる」なぞと平然とうそぶくことをやつてのけるのだ。兵法に從へば假りに百戰するも乃はちあやふきものであつて、これをば野生は嘆かざるを得ないのである。かういつた妖言や魔説をバラ撒かれることは、皇國の偉大を確信して聊かも疑はない吾人にとつてはた迷惑なことこの上ない。譯知り貌で「松下村塾」を語つてみせる自稱保守派文化人は、吉田松陰先生の曰く、「(※天壤無窮の)神勅相違なければ日本未だ亡びず。日本未だ亡びざれば正氣重て發生の時は必ずある也。只今の時勢に頓着するは神勅を疑ふの罪輕からざる也」との言に耳を澄ます可し。皇國(自國)に對する絶對的確信あらざる 皇國の保守派なぞ、凡そ國益保守にせよ國土奪還にせよ主權恢復にもせよ、その主張は長年に亘りて猶ほ空しくある而已矣。
 何にせよ、基礎なき上に積み重ねられた見識なぞ、皇國に害こそあれども何らの益を齎すものでもない。況やその基礎が太宰の如き慕夏に於てをや。


 又た曰く、・・・個人的には注目す可き一節だ。(個人的な拘はりから下線を引く)
『宋儒の學を唱ふる儒者をば、聖人の旨に違つたといひ、口を極(きはめ)て呵つたなれども、彼宋儒流の輩といへども、大概は純が如き僞儒者にてはなく、春秋の意を守りて、我が國を尊み山崎闇齋淺見絅齋などの云つた説には、いとも勇ましく猛く雄々しき 皇國魂の言も多いでござる。夫は純が[淺見安正(※絅齋先生のこと)の説に云々]學風は是らと表裏にて、もしや昔元の世祖が如く 皇朝を襲ひ奉らうとて、西戎より攻來ることも有るならば、中華の天子に射向はんこと、東夷として有るまじきことぞなどいひ觸て、歸命投化とこゝろ得、甲(かぶと)を脱て西戎の膝下に屈(かゞ)まり、國を賣らんとするものは、かやうの儒者で有ると思ふ。かゝるものをば、佛者すら獅子身中の蟲と號(なづけ)て甚も々ゝ憎む事でござる。~中略~ 人、學ばざれば道を知らずなどいふ言も有れど、學文も純がことく學では、大に國の害となることで、更に學文もなき農夫山賤の類は、一向に我が國の尊き物なる事を思つて外に餘念なき物でござる』と。

 結論に曰く、
『かゝる穢汚(きたなき)心の有りながら、己れ道を得たり氣に、一向に孔子を信じ候。孔子も我に印可して下されなど申たは、餘りに押の強い事でござる。純がごときものに印可する孔子ならば、更に好人とは云はれまい。是は或漢籍に欲讐僞者、必假眞と云た如く、みな愚人を誘はうとての、たばかりごとぢや。實に孔子を信ずることならば、其教をこそ守るべき事有に、更に其意とは異にして、今の世の賊僧どもの、己が道の五戒をば更に持あたはずして、漫りに釋迦を尊み顏すると同じことなり。憎むべし々ゝゞゝ。

 此書の論どものなかに、まゝ春臺が意をしばらくたすけて、論へることもあり。また俗(よ)に耳なれたることのまにゝゝ、論ひなせるも少からぬは、こは心ありてなり。讀ん人其こゝろして見わかち給へねかしとぞ。

享和三年癸亥十月
     眞菅館のあるじ
           平篤胤』と。


 をはり。おやすみなさい。

# by sousiu | 2013-10-23 04:11 | 大義論爭

講演してきました。 

 昨日は、むさしの倶楽部主催の「皇國復古中興の集ひ」で愚論を呈した。

 阿形先生をはじめ仙臺の日本革新党・平澤暁男さんほか、諸先輩や國士館の學生諸君まで。愚にも付かぬ卑見に天候惡しきなか御參集くださつた方々には寔に申譯ない氣持ちで一杯である。

 諸先輩は野生よりも大人なので、萬が一にも質疑應答の場で野生のごとき徒なぞをいぢめたりしないだらうが、向かう見ずの若き青年らは注意すべきだ。こと大行社・木川選手、護國鐵拳隊・成美選手などは要注意人物だ。にくらしい質問をしてこないとも限らないので、なるべく話しを長引かせ、質疑應答の時間は無しとなつた。我れながら良き奇策を思ひ付いたものだ。
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 その後の懇親會ではみなさん大いに盛り上がつてゐた。寧ろ、視界に於て見る限り、講演會で野生が卑見を語つてゐる時よりも皆が皆、熱くなつてゐた感じだ。ま、いいけどね。ふん。
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 さういへば今囘の講演會の仕掛け人は盛道烈士會の盛會長であるといふ。盛先輩は如上野生の奇策を見破つたか、次囘また講演をやれ、と仰せだ。二度目ともなると流石に奇策も通用しない。・・・盛會長とは日頃親しくさせていたゞいてゐるはずなのに、知らず何か失禮でもしたかしら?

 

 主催者である「むさしの倶楽部」貴田主、御多忙に關はらずお越し下さつた阿形先生、國粹青年隊・吉岡會長、大行社・丸川本部長などの持論や主張は皆、頗る參考となる可きものであつた。かうした諸先輩あつて、この世界はこれからもつと面白くなつてゆくのだらう。

# by sousiu | 2013-10-21 19:31 | 報告

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十八 

 近畿地方を遊學及び遊説(苦笑)して周つてゐた間、記事を更新出來ずにあつた。
 迂闊にも數日間、放つておくと、何處まで進んだのかわからなくなる。御來車いたゞく皆樣では猶更のことであらう。
『呵妄書』も、もうぢき終はりだ。一氣に完了したいところであるが、少々熱つぽいので、今日は少しだけ進めて擱筆したい。
 颱風と共に歸つてきたのが良くなかつた。寒暖の差が甚だしい折柄、皆樣も御自愛御用心を。

  ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

○平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
『純また申たには、偏屈なる儒者は、諸氏百家を異端邪説と名づけて、其書を讀ざる故に、其道を知らず。一概に取べき處なき樣に存候云々。畢竟諸子百家も、佛道も、神道も堯舜の道を戴かざれば、世に立こと能はず候と申た。

 偏屈なる儒者のみならず、その偏屈ならぬとほこれる純も、堯舜が道の外なるをば、みな左道なりと云へるにあらずや。是名こそ異(かは)れ、同く異端邪説と名づけたるものなり。其書を讀ざる故に、其道を知らずなど云へれども、其見たりとほこる人も、見ぬものと同く、斯偏屈なることをのみ云ふは、返りて見ぬ人こそましならめ。總ての道を堯舜が道を戴ざれば、世に立こと能はずなど云たは、實に大笑に堪たることだ。
[然れども此書に斯云ふかと思へば、またほかの著書には、凡禮義には定れる體なしとも、其世に居ては其世の禮義をかたく守るを君子とするとも云へりしは、更に見識定らず醉人の心地す。されど、今は姑く此書によりて云ふ]

~略~ 國々の禮各異なり。然れども其敬の心をあらはすは同じことなり。必しも堯舜が教の如ならざれば、道にかなはぬなどと思ふは、更に云ふにも足らぬ狹見なり。世に漢學に迷へる者どもが、彼の國の書どもに、中華は萬國の師なりなどゝ戎人(から-びと)の狹き心より、云出た漫言(みだり-ごと)を聞て、如何にも然ることと心得、漢國の教に有らざれば、諸事を爲し得ぬごとく一向(ひたすら)に思ふ様子だが、甚しき愚なり。から國の教と云ものは、我が 皇國の正しき上より見れば、知れたることをことゞゝしくをしへたるものだ』と。

 又た曰く、
『禽獣すら烏に反哺の孝あり、雁に兄弟の義があり、狼に父子の親あり、又蟲にも蜂蟻などには、君臣の義もありなど云ふことどもの、漢籍にも何くれと見えて有る。是等も堯舜が道の及んだと云もので有うか。人として堯舜が教に有らざれば道を知らずと云ふのは、國に對し先祖に對し、禽獣にも劣つたる不法者と云ふべし。純など則これでござる』と。


 おやすみなさい。ごほん。

# by sousiu | 2013-10-17 20:36 | 大義論爭