「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十 

 今日は野生の可愛がつてゐる蛇(假名・如意棒ならぬ「によい坊」)に食餌を與へんとするの際、噛みつかれてしまつた。
 どうやら蛇は、地球上で最高の進化を遂げてゐるらしく(出典、ナシヨナルジオグラフイツク。苦笑)、毒蛇ではないものゝ、餌やりの時、手に向かつてこられたら殆ど避けることが出來ない。然も一瞬噛まれた丈でも出血が少なくないので、その度びにニヨイ坊を破門にするか否か苦惱するのである。それにしても凄まじき攻撃力だ。

 さういへば維新青年同盟・後藤會長の携帶電話の待ち受け畫面は、何と曾てニヨイ坊に噛まれた際に怪我した野生の指であるさうだ。
 ゴトケン兄は野生が慕つてゐる士のひとりである。求道の志と向學の念に溢れ、人格・情熱・探究心など何ら申し分のあるは無し。一點、壁紙のセンスを除いては。
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   ↑↑↑今朝のによい坊(假名)。彼れ(性別は分からんが、おそらく♂)に禮節を教へるは、相模川で砂金を探し出すに等しき難事だ。


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●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、

『さて佛道と儒道との違(ちがひ)めを論ずること甚だながし。辯道者いふまでもなく佛氏は心を尊んで靈覺を觀るを大悟とす。~中略~  

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 しかるに曲學者ながゝゞしく佛經の事を説て、當時の世間僧戒行を破り、色婬に墮落し、名聞を願ひ、財利に迷ふ事辯道者がいふまでもなく、釋迦佛五々百歳の後、五濁亂慢(ご-じよく-らん-まん)の時、僧の戒行つたなからんことは頓にいふ(※マヽ)て置きたれば今更いふに及ばず、又僧と成ては身に糞衣(ふん-ゑ)を着、口に馬麥(め-ばく)を食し、樹下石上に宿する事、増蘇老人が小社探等にいふてあれば、口眞似するやうに見えてをかし。神道を議難せん梯に佛教の事を論ずる事、無用の辨をなんぞつい(マヽ)やすや。儒佛の邪正は程氏跡斷(てい-し-せき-だん)の説にて、その理、菽麥氷炭(しゆく-ばく-ひよう-たん)を別つがごとし。~以下略~』と。

 高成大人も、自身の視點から佛教に斧鉞を加へる。
 されど前記したるの如く、佛教批判は他日に記すであらうので、こゝでは略す。



 續けて曰く、
『辯道者の文に、惣(※總)じて天地開闢の初に、人の生ずる所は久しき池に魚の生じ、腐たる物に虫の生ずるがごとく、自然の氣化にて生じたるものに候(※純が文の引用なり)といふより、先王の禮を犯しては人にあらずと思ひて愼しみ守れば情欲是に制せられて放逸する事を得ず候といふまでを述て、作者の意大綱を摘でいふべし』

 辯道者(太宰純)が云ふ聖人の主張に對する、高成大人の反駁が始まつた。


 曰く、
惣じて天地開闢といふ。惣じての語、萬國に通じていへるものなり。異邦も本邦も同意にして、氣化を以て人の生ずる事、水中に虫のわくがごとく、貴賤上下の品もわかれず、皆同輩なるを平民といひ、皆同輩にてかたちは人なれども禽獣に異ならずといひ、その中に賢き人生れて人倫の道ををしへ、君臣上下の分を立るが盤古燧人(ばん-こ-すい-じん)などゝいひ、そのゝち伏羲(ふつ-ぎ)神農(しん-のう)黄帝(くわう-てい)といふも皆其通りなりと。吾國も開闢の初より、良(※やゝ)久しくかくのごとくといふ意をひそかにふくみとけり。是等の邪説を打破んがため、上に一々神代の事蹟を述て、これを評じて其意を著明す』


 少し長文となるが、以爲らく高成大人の、本書に於て最も筆に力の籠められたる要處であると信じ、これを抄録したいと思ふ。

 曰く、
曲學者が貴ぶ西土(せい-ど)は、風氣偏濁、陰陽過不及の下國なれば、開闢にかぎらず後々までも禽獣同然の國なり。吾神州は開闢するとすなはち二尊氣化し玉ひて夫婦婚姻の道を正し、人倫の本を明かにし、父子君臣の道、赫々然(かく-かく-ぜん)たる事、神典に見えたる通り疑ふべきなし。忝も天照大神、高天原に即位御座て彝倫(い-りん)の道を明にし、万民にをしへ、その補佐として神高皇産靈尊攝政し、兒屋、大玉二神これに繼(つぎ)給ふ。五穀成就耕作の道を保食(うけ-もち)の神に月讀尊をつかはされてこれを習はしめ玉ふ。蠶(かひこ)をいとゞること、五穀を作る事、其道を得て國用豐饒なり。稻八束穗に莫て日神の叡慮明彩(えい-りよ-うるは)しく、天邑君(あめの-むら-きみ)をさだめ玉ふ。これ後世の大庄屋等の類なり。かくのごとく神代より人事の教法、明かに備りたること神典に著(いちじる)し。然るに辯道者、聖人の教へ情欲を斥るといひ、書經の殷の湯王の以義制事(※義を以て事を制し)、以禮制心(※禮を以て心を制す)といふ事を肝心とせり。凡て學者の受用を論ずる時は、曲學者が得經の論語に博文約禮(はく-ぶん-やく-れい)といひ、又、克己復禮と宣ひ、又、子貢問有一言而可以終身行之者乎(※子貢問ふ、一言にして以て身を終はるまで之を行なふ可き者有りや)、子曰、其恕乎、己所不欲勿施於人(※子曰く、それ恕なるか、己の欲せざる所を人に施すなかれ)。是等を擧ずして遠き書經の文を擧るは、陰に宋儒の理學を嘲らんと欲するの私意なり。神道を難ずるの片手に宋儒を廢せんとする事、濫吹(らん-すい)笑ふべし。辯道者が古學といふを辨ずべき事、車載斗量なりといへども、吾道に與(あづか)らざれば、しばらく赦(ゆる)置而已(おく-の-み)。
 吾神教己を脩め人を治るの大道を説述べし。
 元來、吾邦は神明降居の本國ゆゑ、風土潔く陰陽中和の國なり、故に磤(※石+殷)馭盧島(※おのころじま)といふ。おのころは自凝(みづから-こり)しまるの訓にして中央に位し、日月もこれによりて運行の度をたがへず、四時もこれに依て流行の道もとらず、故に此國の人も、天地の中氣の中の粹氣を受て彝倫正し、其精義は神道を學び、其傳を受に非んば知るべからず。予、枉妄義に述る通り、外國は陰陽過不及の國なり。南蠻西戎は陽勝て陰不足なり。南國は寛柔にして教へ、無道にむくひざるを以て道とす。西戎は六度滿行を修し、廣大慈悲波忍羅蜜等を以て最上とす。北狄の風は剛強果斷を專らとし、金革を衽(しきね)にし、白刃を踏を以てよしとす。是皆陰陽の過不及なり。
 吾國は人おのづから寡欲にして漢土天竺の多欲無道なるには似ず、吾國も外國の道入り來て漸神代の古風を失ひ、人王三四十代の此より人の風異邦へ流れ、博文あるものは反て智辯巧に流れて上世淳素の道を失ふ。佛法隆(さかん)に行はれて朝廷の政日神の遺戒に背き給ふ故、遠島へ徙(うつさ)れ給ふこと、今世より是を見ても血涙を流す。

 保元平治より以來は父子相爭ひ、兄弟相戰ふ。宛も漢土天竺の風俗となる事といふべし。近頃栗山氏(※栗山濳鋒翁のこと)、是を患て保健大記を作れり。谷氏(※谷秦山翁のこと)が打聞を合せ見ば其理明なるべし。今も上世身を脩るの法を勉は上の政を一毫も背かず、當今の天子を直に日神と尊び、當時將軍を八幡大神の武徳と崇め、攝政家を春日大明神と信じ、何事も上の掟に背ず、吾心も天御中主の分靈と仰ぎ、汚穢不淨の邪念起れば直にはらひすて、猶又神力をいのりて、今日より後、罪止云罪者(※つみ-と-いふ-つみ-は)あらじものぞと、祓所(※はらひ-ど)の八百万神へはらひ給ひ、きよめてたまはれと祈り申すまでなり。故に上世より中古まで法式條目といふ事もなく、おのづから天下國家安(やすらか)に治りて百姓其所を得、種子命國の大祓を掌り給ふことを見るべし。

 畢竟天地のたつも誠、日月の照すも誠、四時の行るゝも誠、君々たり、父々たり、子々たり、夫々たり、婦々たり、兄々たり、弟々たり、友々たり。是の誠の境界に入れば、外より責たむるに及ばずして自然に道行る。これ神國最上の教なり。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02010&IMG_SIZE=&IMG_NO=39』と。(改行及び※は野生による)

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# by sousiu | 2013-10-01 07:31 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その九 

 一昨日は「時對協」定例會。
 議題は『西洋型民主主義』に就て。上京した宮城縣の鈴木達也兄から提起された議題だ。
 野生は遲刻した爲め一部の意見しか聽くことが出來なかつたが、盛義一先輩の熱の籠つた意見あり、到着以前の活氣あつたことが自づと知られるのである。毎度のことながら熱氣だけは賣るほどあるのが時對協だ。
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     ↑↑↑↑熱辯をふるふ盛先輩。話はそれるが野生はいつも同じ服だ。


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○太宰春臺、『辯道書』(享保廿年)に曰く、
『中華にて周の代の末に、墨翟(羽+隹=てき。※ぼく-てき=墨子のこと)が道盛に行はれて、孔子の道と並ぶほどになりし故に、其世には孔墨、儒墨と稱し候。其後墨氏の道廢れて、漢の代に黄老の道興り候。黄老といふは老子の道にて候を、其道を尊くせんとて古の黄帝を祖として黄老の道と申候。東漢の時より佛法中華に入て世に弘なりし故に、それより後は孔子の道に、釋老の道を並べて儒佛道と稱し候。道といふは老子の教を道教といふによりて儒佛道と申候。此三つを三教と申候』と。

 支那にて老子、孔子、墨子などが登場し、やがて佛教が輸入されたことを説明してゐる。


 續けて曰く、
『我國には道教は行はれず、近來神道世に行はれて是を我國の道と思ひ、此神道は巫祝の傳ふる所にて、極て小き道なることを人知らず、儒は唐土の道、佛は天竺の道、神は日本の道なれば、此三道は鼎の三足の如く同等にして、偏廢すべからざる事と心得候は、口をしき事にて候。佛道は釋迦の教にて候。釋迦は天竺摩竭陀國の淨飯王といふ王の太子にて、幼き時は悉達と申候。耶輸多羅といふ女人を妻として、羅睺(目+候=ご)羅(※らごら=釋迦の子)といふ子をもたれ候が、年十九にて發心出家して道を學ばれ候。國王の太子にて王位を繼べき人なるが是を厭ひ、父母をも妻子をも棄て、出家遁世せられたる意は、人間に居ることを桎桔の如くに思ひて、身一つを自任にせんとおもひ、浮世の情欲を病苦の如く思ひて、是を離れて心一つを安樂にせんとおもひ付たる物にて候。出家とは父母の家を出て山林に入り、身を浮世流水の如くにするを申候。釋迦の道を學ぶ者を僧と申候。釋迦の道は國王の位を棄て、身一つになりたる道なれば、此道を修する者は士農工商の業をなさず候。上に君なく下に臣なければ君臣といふこと無く候。男女の交はり無ければ夫婦といふことなく候。父母なければ兄弟も無く候。世を離れて人間の交はり無ければ朋友といふことなく候。士農工商の業をなさゞれば、衣食を得べき樣なき故に、乞食を業とし候。乞食とはすなはち只今の乞丐人の如く、食を人に餬て命をつなぐにて候。僧は家なく、食物をも作らぬ掟なる故に昔の僧は鉢を持出て辻に立候へば、其邊の人家より殘飯を持來りて鉢に入れ候。又施食の志ありて新しき食物を施す者も有之候。鉢中の食物、其日の命をつなぐほどなれば、それより歸りて其食を食して、明日又その如く出候。衣服も作りて着る事は無く候。天竺の人は清淨を好み、不淨を惡むが故に、凡病人、死人、産婦の着たる物、又は火に燒け、水に濡れ、其外何にても汚るゝ事有たる衣服をば持出て、糞壤に棄る習なり。僧たる者は人の糞壤に棄たる衣服、布帛を拾ひ取て、歸りて皂角水に洗ひ淨めて、錦繍、綾羅、布帛の嫌なく、種々の物を綴り集て袈裟に作る、是を糞雜衣(ふん-ざふ-え)とも、納衣(なふ-え)とも申候。人の棄たる物にて主なき物なる故に、僧の衣服には是を最上第一の法服と定候 ~下略~ 』と。

 この一節は佛僧、延いては佛道を批判するものだ。
 だがしかし佛道批判を掲げむとするのであれば、野生は太宰春臺の持論ではなく、篤胤大人の『出定笑語』を紹介するであらう。だがしかし、それは後日のことゝせねばならない。


 曰く、
『 凡天下國家は聖人の道を捨ては一日も治まらず候。天子より庶人まで是を離れては一日も立申さず候。佛法はいかほど向上に廣大に説候ても、畢竟一心を治て獨身を自在に、安樂にするのみの道にて、天下國家を治むる道にあらず。僧はいかほどの學問、いかほどの知慧ありても、天下國家の政にあづかることを得ず、却て天下の法制を受け、士民の末に列する者にて候。聖人の道はすなはち天道にて、天地の間に行はれずしてかなはざる道にて候を、只佛者の高遠なる事をいふを聞しめして、儒者の道と同等に御心得候さへ御誤にて候に、儒者の道より上なる樣に御心得候はゞ、天道に背きたまふと申にて有べく候。

 儒者の道は聖人の道にて候。聖人の道は聖人の聞きたまへる道にて候得共、天地自然の道かくあらで叶はぬことを知しめして、かく定置たまひし故に、是すなはち天地の道にて、聖人少も私意を加へたまふことは無く候。道を開くといふは、道なき野山に始(※初、乎)て道を開く樣なる物にて候。譬へば日本の名山に、昔役小角(えんの-せう-かく)が道を開たりといふを、今の人其道を履て其山に往來し候。別に近き道も有り、易き樣なる道も候へども、其近き道、易き道を行候へば、何かは知らずよからぬ事有て害にあひ候。只昔の達人の開たる道を行候へば、迂遠なる樣なれ共、危きこと無く、迷ふことも無く、安隱に往來し候。何故ぞなれば役小角は天性の靈智にて、山路を知り、後人の爲に宜き道を開置たる故にて候。聖人も其如く聰明睿智を以て天智萬物の理を知て、天下の爲に常行不易の道を開たまひ候。惣じて天地開闢の初に人の生ずる所は、久しき池に魚の生じ、腐たる物に蟲の生ずるが如く、自然の氣化にて生じたる者にて候、さる故に其時の人は貴賤上下の品も分れず、皆同輩にて候、是を平民と申候。形は人にて候へども心は禽獣に異ならず、男女一處にこぞり居て日を送り候。其内に衣食の求め無くて叶はざる故に、誰教るともなく、人々天性の智慧にて、飢を助け、寒さを禦ぐ計略をなし候。然るに人の性さまゞゝにて、賢き者あり、愚なる者あり、強き者あり、弱き者あり。賢き者は能く飢寒を免れ、愚なる者は飢寒を免るゝことあたはず。強き者は弱き者の衣食を奪ひ、弱き者は強き者に衣食を奪はる。是より平民の中に爭鬪といふこと出來候。此時幾億萬人の中に聰明睿智とて、神妙なる智慧の人生れ出て、彼愚なる者に衣食の道を教へ、爭鬪する者をばそれゞゝに教訓して暴虐をなさざらしむ。

 是より其邊の人漸々に歸服して、何にても分別にあたはぬ事をば持出て尋問ひ、爭鬪する者は其事を告訴て裁斷を乞求む。其體今の世に郷里の子弟たる者、其所の父兄長老に從ふが如し。かやうに近邊の人歸服すれば、其化漸々に遠きに及で遠方の人も歸服する故に、いつとなく諸人こぞりて君長と仰ぎ奉る。上古の盤古燧人などいふは是にて候。其後伏羲、神農、黄帝といふも亦聰明睿智、仁徳の至れる人にて天下の君となりたなふ。自己より高ぶりて民の君長となり給へるにては無く候。此聰明睿智、仁徳の至れる人を聖人と申候。此聖人上に立て天下の人に仰がれたまふを天子と稱し、大君と申候へば、天下の人はみな臣にて候。是君臣の始にて候。上に大君あれば、下にも亦大小それゞゝに君長を立て其下を治しむ、皆君臣の道にて候』と(改行は野生による)。


 佛道批判に轉じて儒者の道を説きたるもの。つまり聖人の道である。吾人はこの鹿爪らしく力説する春臺のこの一節にも又た注目を要さねばなるまい。
 さて人、かくなる『辯道書』の一文に首肯する者である乎、首肯せざるもの乎。而、後者であれば何と反論するべき。
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# by sousiu | 2013-09-30 06:08 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その八 

 昨日は「神奈川有志の会」懇親會に參加。
 今囘は大日本勝魂社諸兄が幹事となつて行はれたのであるが、迚も美味しい料理ばかりで、決められた會費では足りなかつたのではないか、と思ふほどであつた。極樂極樂…あ、髪長用語だつた。失敬。
 次囘の幹事は菊水國防連合だ。樂しみである。笑。
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 ところで昨日の會合では、和心塾の石田勇樹君などから神道的自覺に就ての意見が多々あり。實に頼母敷い限りである。


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 前囘記事に續き、~~「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その五~~の太宰春臺著『辯道書』に對する篤胤先生の反駁を下記す。

●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
今の人神道を學びて、不淨なる家の内に神壇を作り、不淨なる衣服を着し、不淨なる供具を献じ云々。今の神道家にいふ所の神明は、佛家にいふ如來にて候。 ~※純が文の引用なり~

 神は敬して遠ざくとかと云ふは漢國のさたなり。
 皇國は神の生成し賜へる御國にして、神の立賜へる道なれば、漢土とはすべて異なること論ひなく、天の下の人神胤ならざるは少く神國の人ならさるはなし。然れば妄説の佛學空理をもて、作り立たる西戎國聖人の道をはじめ、穢汚(きたな)き外國の教どもを廢(すて)て、まづ 皇國の古を學びて 皇國の神の尊くまします故を知り、清々しき眞心もて慇(ねんごろ)に神を敬ひ近付て、よく祭るぞ 皇國の道なり。其故は前にも云へる如く、朝廷には神事をば御政の第一と定め賜ひて、天の下を始め給ふ御事(み-わざ)の本なれば、其の大御心を心とする臣等(をみ-たち)天の下の百姓(おほみ-たから)に至るまで、己が家々の祖神、其外他(あだ)し神々をも齋(い つ)き祀りて、眞心に仕奉(つかへ-まつ)るぞ、此大御國の遠津神代よりして古をしぬび、遠つ祖を慕ふ孝心のあつき御國俗(み-くに-ぶり)なればぞかし』と。

 このあたりは神代派を提唱する下山君の、涎を垂らして喜びさうな一文だ。
 固より吾人のゆめ忘れる可からざる心掛けであらねばならない。
◎順徳天皇、承久年間『禁祕抄』(卷之上)に宣はく
『凡そ禁中の作法、先づ神事、後に他事』と。↓↓↓
 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_02478/i04_02478_0040/i04_02478_0040.html
 全國民は肝膽に銘ず可し矣。焉んぞ 禁裏に於いてのみならん。
 起床して先づ神棚を拜するは必ずしもひとり神道家だけに非ず。おほくの國民が古今に亘り自然と身に付いた習ひである。


 篤胤先生の曰く、
『さて朝暮に神を祭り亂心する者もありと純がいへる、實に然ることも有るべし。眞の神を知らずして、佛菩薩のごとく思ひ奉りて、其上神のいたく忌み嫌ひ給ふ佛經の句を摘取り、祝詞に擬(なづら)へて杜撰したるもの[六根清淨の祓ひなどいふ類]をば法師どもの佛經を誦する如く、神の御前に數篇となへなどして汚し奉ればなり。また普通の神道者流の云ふ處の神明は、如何にも法師どもの云ふ如來めけることにていと忌はし。然れども此輩はみな己々が好むかたに執着して、佛を好める輩は、佛説を出ることあたはず。性理を學べるものは、此理と云ふものをのみ牽強して、外に妙(たへ)なる理(ことわり)の有るをも知らず、皆始に學べる垣内に迷ひて外あることを知らずし て拘泥(なづめ)るものなり。彼の聖人の道にのみ迷へるものゝ、何事も聖人のいへるをばよしとして、其糟粕をのみ舐(ねぶ)りて其垣内を出ること能はず。周易の神道と我が國の神道とを、附會せるものなど、みな同日の談(ものがたり)にて、彼の蒼繩窓に觸るとは云ふ類なり。されば兩部唯一の徒も、其の好む處に迷へる不明は、憐れむべきことなれ共、腐儒者(くされ-ず-さ)の輩我が國の事をば知りもせず、漫りにわろくいはんとする無頼なる者よりは、附會ながらも我が國の道と云ひ成して稱へんとするは、皇國を尊くせんとての眞心わざなれば、まだしも殊勝なる志なり。我は純が輩よりは惡しと思はずなん』と。

 當時の神道は兩部神道、唯一神道など、神佛習合であつたり、神佛儒の三教が一體となつてをり、篤胤大人のやうに隨神の道を追及せむとする人らにとつては甚だおもしろからざるものがあつた。よつて大人らの信念と相容れない既存の學者、神道家との對立は當時に於いて決して少々ではなく、筆戰激しきものがあつたのである。さりながら大和心を堅固とする爲めには大人らの試みは必要不可缺であり、その成果がのちの明治中興の偉業へ導くに多く與かつて力があつた。


 續けて曰く、
今の世には、巫祝の道を神道と心得候て、王公大人より、士農工商に至るまで是を好み云々。巫祝にあらざる者は、知らずして少しも事かけず候。 ~※ 仝~

 今の世に、兩部唯一の輩の唱ふる巫祝めける事を、眞の神道と心得て、人々學ぶは大なる誤りといへるは、人通り然ることゝも聞ゆれども、己謂(おも)ふに、聖人の道を學て、純が輩のごとく無頼ならんよりは返(かへり)て彼輩こそたのもしからめ。其故は彼の輩の其云ふ處は妄説なれ共、一向(ひたすら)に 皇朝をかしこみ神を尊み、露ばかりも我が國をあしざまに云はんなどの心はなく、更に聖人の道をうまくさとれりとて、ほこる嗚呼(を-こ)人の汚き意の類にあらず。されば彼の學をする輩をも、然のみ叱るべきことにはあらず。また巫祝の道は鬼神に給仕するのみにて、吾れ人の知らずとも事かけぬことなりといへるも、一通り然る事と聞ゆれども、前にも云へる如く、皇國の御巫祝部は、漢國の巫祝と、淨き上にも淨きを好む我が國の巫祝とを、同じ事に思ひ混(まじ)へて僻言を云は、既に事かけたるおとにあらずや。何事も學びてのちに用なきは廢(すつ)るに安きわざなれば、及んかぎりは學びて、其止る處にとゞまり度わざぞかし』と。


 篤胤大人の反駁も、前記『辯道書』に追ひ付いた。次囘は再び、『辯道書』の續きだ。
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# by sousiu | 2013-09-27 23:25 | 大義論爭

「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その七 

 「男はつらいよ」の寅次郎氏の如く、和歌山やら大阪やら京都やらと放浪し、又たしても『辯道書』に關する記事が滯つてしまつた。

 シブケン氏による「うひまなびのともがら」の「うひ山ぶみを読む」も再開したやうだし、野生も負けじと再開せねばならぬ。
 さういへば秋風之舍・シブケン主人とは、過日紀伊で初めて面交を果たした。彼れとは實に十年以上も前から心交は重ねられてゐたのだが、案外(呵々)、野生の想像を裏切り色男であつた。

 さうゝゝ。シブケンと云へば、一昨日、彦根にてゴトケン氏と面交を果たした。ゴトケンとは後藤健一兄のこと。ゴトケン兄は滋賀縣で活發に運動を展開する一人だ。兄とも心交は長かつたが、面交は初めてであり、想像を超えた強面であつた。

 ん?滋賀??さうゝゝ、滋賀と云へば、京都行きでは大阪の紅葉屋主人・志賀君に大層お世話になつた。・・・あゝさうか、かうして著しく脱線するから『辯道書』は先に進まないのだ。


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※間が空き、何のことだか分からなくなつた方もをられる(當然でせう。蒙御免)であらうので、太宰春臺著『辯道書』の進行具合を下に記す。↓↓↓
http://sousiu.exblog.jp/20289146/

 承前。
●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く、
巫祝といふは、鬼神に給事する者にて、國家に有らで叶はぬ者なる故に、周禮の春官に云々。周の代の巫祝の所作は、如何なる禮といふ事を今考ふべき樣はなく候云々。 ~※純が文の引用なり~

 今の世に神社に仕奉(つかへ-まつ)る御巫祝部など、今よりして見れば、如何にも西戎國(からくに)の巫祝の體に大略は似たるものゝ如くなれども、是(こ)は萬に漢國ざまを用ひ給ふことになりて後のことにて、右にもいへる如く、古へは然らず。天皇御自神祇を祭り給ひて、天の下を治め給ひ、神事に預るは臣等といへども、みな官(つかさ)たかき臣等にて有りしなり。後世御政と御神事と斯別れは爲(し)けれど、職員令に神祇令をもて首章とし、延喜式五十卷のうち十卷は神祇式にて、此篇をもて初篇と成し給へるにても、古へは神事を重んじ給へることを知るべし。

 漢國にても 皇國の古へほどには有らざりけめど、殷の代などまでは神をば尊みしを、周の代と成りて、彼の周公旦と云ふさがしら男が、殷人の鬼神を尊むがすきたりとて、己が賢(さかしら)をあらはさん爲、神を輕しめないがしろにして、その仕る巫祝をも王道のいと片端となして、賤しめたることなれど、いと好からぬことなり。すべて何事にも己新しきことを爲(し)出(いだ)して、夫(そ)をたけきことにするは、彼國人のならはし也と、吾翁のいはれき。神は尊むが上にも尊みて其眞心の至らぬを省つゝ、いつき祭るべきことにこそあれ、いかで過ぎたりと云ふことの有らん。されど是(こ)は例の體もなき空名の神をまつることなれば、しか蔑(ないがしろ)に思ふことゝ成れるも、自然の故になんある。道に志しあるきはの人は、ゆめ戎人(から-びと)のさかしらにならひて、神を蔑にな思ひ奉(まつり)そ。

 さて、周の代の巫祝の所作は、如何なる體と考ふべきやうは無れども、大略今の世の阿闍梨、陰陽師、禰宜、神主、神子、山伏などの所作に似たる者ならんといへる。是いたく違へること也。周の代の巫祝は周禮[春官]に考ふるに、大祝小祝の官、もろゝゝの神祇祭祠の事を主り、また喪事をも預かりつかさどるよし云へり。生(いき)たると死(しゝ)たると、清淨(きよき)と穢汚(きたな)きとの差別なくして、皇國の意より見れば、いともいとも穢らはしき國俗(くに-ぶり)なり。皇國のは禰宜神主はさらにもいはず、兩部とか云ひて神と佛とを掌る阿闍梨、或は山伏すら神事と喪事などの別は、いと嚴重(おごそか)にして更に々ゝおなじからぬを、などてかく菽麥をわかつことあたはざるや。知りもせぬ事まで知り顏に呼はりて、漫りに辨説すれども、己が任とするところの經書にさへ、昧(くら)くして是等の差別(けぢめ)をも辨へず、皇國の古などを論(あげつら)はんは、いともをこなわるわざにあらずや』と。(改行は野生による)


 篤胤大人の辛辣なる筆劍は純(春臺のこと)に向かうてなほも續く。

 曰く、
『純は吾が國の事をば知らずして知り貌に云るを、今の俗(よ)にこれとは異にして、をかしき一種の學者と名のり、吾が國のことを問れてもしらずと云ひて恥とも思はず。西戎國の事を問ふに、しらぬことまでを知り貌に言ふこそをかしけれ。もし君の命を承りて、西土人と應對すること有らんに、戎人の吾が國の事を問はゞ、我は自の國の事はしらず。されどそなたの國の事はよくしれりと云ひたらば、戎人は己が國のことをしらぬ痴人よとて、手を打ていたく笑ふべし。是、大いなる國の辱なり』と。

 この一節は今日の吾人をして背筋を伸ばして拜讀すべからざる可からざるのもの。
 「保守派の時代」と呼ばれる一方、自ら 日本に就てくはしくあらぬ始末では、某評論家の云つた現代保守派への苦言と失望も強ち過言ではあるまい。
 而して、偶、日本に就て詳しいかと思へば、それ啻に近代日本の政治やら經濟やらに留まり。日本則 皇國といふことの無理解と云はずんば理解不足であることが憾まれる。微細なところまで申せば英語や支那の言葉の讀み書きが出來て、僅か六十年前の日本の假名が讀めぬとは果たして如何なものか。

 太宰春臺は經世家として一應、當時に名を馳せた一學者だ。彼れをして篤胤大人の認めざる、それ乃はち、日本の眞相に昧きことを以てす。續けて曰く、
『孔子も己を行ふに恥あり。四方に使して君命を辱しめざるを士と云ふべしといへるにあらずや。然れ共、辱しらぬ者は恥とも思ふまじ。この者共に、吾が國の事をいかで學ばぬにかと問へば、假字文のみ多くて俗なりと云り。これ如何なる俗意ぞや。すべて漢籍のみ讀むものは未乳くさき小兒輩に至るまでも、わづかに大學論語やうのから書を讀と、はや我が國のことを學び、我が國の書を讀などは俗なりと云ひてほこる。其上を行て彼の左國史漢やうの物を見かぢれるものなどは、なほさら高ぶり、我が國をば外國のごとく心得、西戎國を我が國の如く思ひて、かの君などゝ云ふ者のかまへをなし、何か人を眼下に見下し、少しのことにも經書などを引出て、漫りにほこらひ貌して、吾が國をあしざまに云ふなど、いとゝゝ胸わろし』と。

 餘談であるが、篤胤大人は決して他國の學問などを排外せむとする狹見の持ち主などではない。

○大壑先生、『入學問答』(文化十年正月)に曰く、
『  問テ曰、御國の學問を致し候へば、外國の事をば、學ばずとも宜シく御座候や。

   答テ曰。随分に御學びなさるべく候。凡て、世の古學者流、儒者、佛者の、吾道をのみ狹く域(かぎ)りて、他を知らざる管見をば、笑ひ居リ候へども、吾もまた、吾が古學をのみ知りて、固陋なる事を顧みず。それ故、わが聞知らぬ、外國説を聞ては、驚き惑ふ者も、間々これ有り。身方より見るに、心苦しく候ゆゑ、拙子(※「私」の意)が弟子を教授いたし候には、その倭心を堅固に致し候上にては、手の及ぶ限り、他をも能く學び候やうにと誨(さと)し候事に御座候。其故は、凡て外國々(とつ-くに-ぐに)の説、また他の道々の意(こゝろ)をも、能く尋ね此考いたし候はでは、我が道の實に尊き事を知らざるにて候へばなり。外の道々をも、よく知り候上にて、信じ候こそ、實に知りて信ずると申す物に候なり拙子は、右の心得に候ゆゑに、他の道々の意及び其説くをも、及ばむ限りは、明らめむと致し候事に候。されば、儒學、佛學、蘭學に依らず、何にても他の道々を御精究なさるべく候』と。

 つまり、日本を學習しただけでは未だ不充分である。他の國々の道や意をも學び、而、はじめて解し得る日本のあるを悟るべし、と。さりながらそれには先づ、大和こゝろを固めることを必須とす。
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 嗚呼、憾むべし矣。大和たましひの軟弱なるを以て、政治を弄ぶ政治家ばかりとなつたが爲め、成る可くして今日の日本は成つた。これを憤慨する國民各自の、大和たましひは果たして奈何。

       續く。



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# by sousiu | 2013-09-25 22:15 | 大義論爭

災難男、發つ。 

 昨日、もつこすゞき田君が熊本へ歸つていつた。
 以前、彼れが熊本から自轉車で拙宅を訪れた際、奇しくも東日本大震災が襲來した。今でも鮮明に覺えてゐるが、平成廿三年三月十一日十四時四十六分、突如地震が發生し、只事で無いと氣付いた野生は揺れが收まると共に家の外へ。外へ出ると玄關先で鈴木田君が「こんにちは」と挨拶してきたのである。
 嘘のやうな話しであるが本當である。それから野生は人に對して彼れを説明するに、雨男ならぬ「地震男」である、と。

 而、今度び彼れが連れて來たのは颱風十八號であつた。
 弊社電腦瓦版に掲載してある通り、我々一行は十四日から和歌山へ行つたのであるが、數十年に一度てふ規模の大型颱風が襲來。宿泊先付近では深夜にも係はらず、けたゝましき警報サイレンが僻村内に鳴り響いた。
 鈴木田君と靈的國防隊・下山隊長の二人は我々の宿泊先から廿キロは離れてゐるであらう深山で無謀の野宿をしてゐる最中であつた。そこには半徑數キロの範圍に人家が全く無い。携帶電話の電波など一切屆かない。當然乍ら避難所も遠いのだ。危險この上ないことから、救出しに行かうと山川裕克救助隊々員、同・志賀智仁氏、同・シブケン氏、撮影隊々長・河原は現場に急行。ダム放流のサイレンにたぢろぐことなく奥山へ向かつた。

 深夜のサイレンと、車の通行が無くなつた主要道路(・・・と云つても標識すら無い道路なのだが)と道路脇に點燈された赤色燈を目の当たりにしながらダム方向に進むのは、さすがに緊張を要する(その道路は川に併行してゐる)。救助隊三名+撮影隊長を支へるものは泣きべそをかいてゐるであらう二人を救助せねばならぬといふ使命感、たゞそれだけであつた。
 雨足が強まるころ、やうやく現場に到着して眞暗闇の山の麓付近で無事、二人を發見した。彼れらは泣いて「ありがたう」と我れら救助隊+撮影隊に飛びついてくるに違ひない。誰れもがさう思うてゐた。


 彼れら二人は電氣も瓦斯も無い森の中で、焚火をしながら日本酒の盃を傾け、スルメを片手に譯の分からん話題で意氣投合し、且つ、深山にたつた二人で維新囘天の氣勢を擧げてゐたやうで、我れらを見て泣くどころか、何しに來たのかと云はむばかり。恰も寶暦八年五月廿九日、鴨川洪水に於ける三本木の酒宴を催した公卿の氣分であつたに違ひない。譯を話して車に乘せても二人はペチヤクチヤ高笑ひをやめない。下山青年、赤ら顏で曰く「(鈴木田氏と自分は)VIP待遇ですね」と。
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 鈴木田君が來ると、いつも何かしら危險なことに卷き込まれてしまふ。彼れは地震男では無い。災難男なのだ。

 かくして災難男は昨日、發つた。さりながら流石は災難男。難は今日も彼れに付いてまはつてゐるやうだ。↓↓↓↓
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/nnn?a=20130919-00000044-nnn-soci

http://www.news24.jp/articles/2013/09/19/07236584.html
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# by sousiu | 2013-09-19 22:24 | 報告