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橘曙覽翁の志操を想ふ 

 道の先輩である盛兄が骨折をきたし紀州某郡に入院され、お見舞ひがてら同郡某村に宿泊。
 目下兄は安靜療養の甲斐ありて順調に囘復してをるとの由、一ト先づ安心である。
 然るに兄、入院中一意專心、先人の書物をば讀み漁つてをられる樣子にして、面會するにつけ一時間、時には二時間も意見を述べられる始末、まことに精神旺盛にして氣力は健在なり。その姿勢にはただゝゞ感服せざる可からざるものである。

 野生も日頃の怠惰を反省させられ、偶には當日乘も更新せんことには、と久しぶりに書くを試みるものである。尤も、既に一年半も停止してをる日乘なれば、愈々閑古鳥も鳴き疲れるころであらうので、ブランクを取り戻すにも丁度良いといふものだ。

 而して兄の堅固なる志に觸發された野生としては、こゝで橘曙覽翁の哥を掲げたい。これでも野生、些かも微志を閑却したつもりはないのであるが、何せ處理能力乏しきがゆゑ日頃の雜務を言ひ譯に、反省す可きことがら決して少なくないのであるから。曙覽翁の哥を掲げて、今日の反省をより深きものとするものである。

 曙覽翁は越前國のひと。清貧を旨とし志至高たる翁を聘せんと春嶽公は、侍臣中根雪江を遣ひて出仕を命じたるも翁はこれを固辭。曙覽翁は清貧にしてその生涯を貫いたのであつた。『獨樂吟』の哥を拜するに翁の貧苦、思ひ至れるものあらむ。


○橘曙覽翁の哥(『獨樂吟』所收)

 たのしみは 錢なくなりて わび居るに
    人の來りて 錢くれし時

 たのしみは 雪ふるよさり 酒の糟
    あぶり食ひて 火にあたる時

 たのしみは 木の芽にやして 大きなる
    饅頭を一つ ほほばりしとき

                    


 然り乍ら翁、一ト度び敬神尊皇の志を吐露するに於て、その熱心、激甚なるものありとす。

   高山彦九郎正之
 大御門 そのかたむきて 橋の上に
    うなじ突きけむ 眞心たふと


   をりにふれて
 吹く風の 目にこそ見えね 神々は
    この天地に 神つまります


 國汚す 奴あらばと 太刀拔きて 
    仇にもあらぬ 壁に物いふ

 たのしみは 鈴屋大人の 後に生れ
    その御諭を うくる思ふ時




○正岡子規、明治卅二年三月廿四日『曙覽の歌』に曰く、
「余は思ふ、曙覽の貧は一般文人の貧よりも更に貧にして、貧曙覽が安心の度は一般貧文人の安心よりも更に堅固なりと。けだし彼に不平なきにあらざるも、その不平は國體の上に於ける大不平にして、衣食住に關する小不平にあらず」と。

 皇政復古の偉業成る(慶應三年十二月九日)、その約十个月後の慶應四年八月廿八日、越前福井三橋の志濃夫廼舍にて曙曙覽翁は五十七年の生涯の幕を閉ぢた。
 一年に滿たざると雖も、新代を迎へる榮に浴した翁の慶び如何許りかあらむ。


 天皇の 大御使と 聞くからに
    はるかに拜む 膝折り伏せて

# by sousiu | 2016-01-19 23:47 | 先人顯彰

曰く「保守の定義とは」

『伝統と革新』(「たちばな出版」發行)十六號を讀む。
「国難と維新運動」と題する各氏の論文が特集されてあつた。

 福田邦宏兄、同書に曰く、
「どの国にも歴史伝統文化はあるだらう。それが長期か短期か、優れてゐるかゐないかにかかはらずである。それを一言で表すならば『国体』であり『国振り』である。そしてこれを擁護せしめんとする志望や考へを『保守』と呼ぶのである。

 然らば、日本に於いての『国体』とは、天皇を中軸とした歴史伝統文化であることから、日本の保守派とは、敬神・崇祖・尊皇の念篤くなければならない。神武帝建国の以前、つまり神代より完成されたる吾が国体があることからも、前記した定義に疑義を挟む余地はあるまい」と。


 今日、保守系と呼ばれる雜誌乃至言論が頭を擡げつゝある。
 日乘でも度々ふれてきたが、かうした時代の潮流に對して、諸手を擧げて歡迎する能はざる理由は、實に國體觀念が乏しきことである。國體觀念が乏しいといふことは、つまり日本がナニモノであるか不明瞭であるといふことに他ならず、國體論なき國家の改造論は維新とは名ばかりの革命へ繋がりかねぬ危險を孕んでゐるのである。

 軍隊や憲法、延いては國家のあり方が議論される刻下の世情あつて、權利擁護に固執する保守派ではなく、國體闡明に立脚した保守派の擡頭を鶴首待望するものである。

曰く「保守の定義とは」_f0226095_20473380.jpg

 


 
 

# by sousiu | 2014-07-18 20:48 | その他

國學關連の書に就て。 

 ゴトケン賢兄はじめ、諸兄から日乘の更新が停滯してゐることのお叱りを受ける。殊にゴトケン兄よりコメントが入つてをり、迂闊にも氣付くのが遲れ、時機を失し、放置してしまつた。
 加へてゴトケン兄より時々いたゞくメールも返信せずじまひ。しかしこれは兄に係はらず、どなたにでもさうだ。
 どうもメールは馴染めない。況や携帶電話のメールに於てをや、だ。それでも兄、地震や颱風襲來ともなると、必ず「大丈夫か」とメールを下さる。本道に有難く、兄の懷の深さに感謝してゐる。


 さて。そのゴトケン賢兄も目下、國學に興味をお持ちであるといふ。
 野生のまはりでも國學に關心を寄せる人士が少なくないが、時折尋ねられることは、「お薦めの本は何か」といふことだ。
 固より野生も勉強中の身。然も入口にあるに過ぎない。よつて野生の推薦する書籍が的を得てゐるか否か甚だ疑はしきものだ。
 たゞ一應、野生には野生の勉強の仕方がある。
 明治御一新の起爆劑の一つでもあつた『國學』の、その發展や成長の過程を先づ一通り通讀し、そのうへで野生が氣になつた人物、興味を覺えた書籍などをチヱツクしておき、改めてその著述や書籍を讀む。またそのなかで氣になつた人物や書籍名が出てくるので、再び之を繙く。人、或はかうした進め方を亞流と罵るかも知れないが、野生の場合、この繰り返しが國學に對する親しみをより増させたのは事實だ。因みに野生は『日本の古本屋』から殆ど入手してゐる。

 然るにこの場合、國學の成立と發展の過程を識ることが出來る。清原貞雄先生著『國學發達史』、久松潛一博士著『國學』、傳記學會『國學者研究』などゝゞ、この日乘でも、おほく活用させていたゞいた。
 たゞ讀めば宜いといふわけでは無いといふ御指摘は御尤もだ。謂はゞかうした作業は入口であつて、前記したるがごとく、こゝから自分の學問や思想の「師」を見付けなくてはならない。單に有名な國學者だから、埋もれ木に終はつてゐるから、といふ後世の評判によつて選擇するやうでは、一向に自分のものとならないであらうこと、至極當然だ。

 よつて冒頭の御質問に答へるべく、今囘の更新に至つた。繰り返すが淺學なる野生の答へなど、アテにならない。些か長文となるが久松博士の言を掲げ、國學に關心を持つ人士の、書籍購入の際參考に資していたゞければ幸ひである。


●久松潛一博士『國學と玉だすき』(昭和十五年九月八日「文部省教學局」編纂)に云へらく、
「~國學の學問的性格の成長と推移をたどることが國學史の考察となり、同時に國學史と國文學との關係を見ることにもなるのであるが、なほ從來國學史の扱はれた態度方法を見ると種々の態度が見られる。既に平田篤胤に於てはそれまでに完成した國學の史的考察を古道大意玉だすきに於て概觀的に行つて居るのであつて、國學史の先驅的意味を見出すのであるが、次いで清宮秀堅の古學小傳(安政四年成り、明治十九年刊)は國學史の規模を整へたものである。何れも大體に於て國學者の列傳的な扱方をして居ると見られる。これにも二つの傾向があつて、一は國學者のあらゆる人物を網羅的に列傳する態度で大川茂雄・南茂樹兩氏の國學者傳記集成(明治三十七年)はその最も著しい業績である。一は國學者の中その代表者とすべき春滿・眞淵・宣長・篤胤を中心として考察し、その他をそれらの代表者の門流として一括して、考察する態度であるが、國學史の扱方としては後者が最も多く行はれて居るのである」

「芳賀博士の國學史概論(明治三十三年刊)や藤岡博士の國學史(明治三十四年ー五年講義)、野村八良博士の國學全史等にしても主としてこの態度をとつて居られるのである。しかし進んで國學者の系統を追うて、研究する態度に對して、國學を横斷的に扱つた研究も見られるのである。河野博士の國學の研究(昭和七年五月)や芳賀博士の「日本文獻學」の如きは國學を體系的に扱つて居られるのである。この列傳的と體系的との考察はむしろ國學史概論との相違と見るべきであらう」

「更にかういふ列傳的と體系的との兩者を通じて、更に別の觀點から見る時、種々の扱方の相違が見られるのである。即ち一は神道學的な立場からする國學史の研究であつて、河野博士の國學の研究や、清原貞雄博士の國學發達史(昭和二年)の如きは、かういふ立場にたつて居ると見られる。こゝでは國學史は復古神道史といふ如き形相を示して居るのである。一は國史もしくは日本文化史的な立場にたつ扱方である。竹岡勝也氏の「近世史の發展と國學者の運動」(昭和二年九月)の如きはその著しきものであり、伊東多三郎氏の「國學の史的考察」(昭和七年二月)の如きもさういふ立場にたつて居るのである。一は國文學研究史もしくは國文學研究法的な扱方であつて、芳賀博士の國學史概論もさういふ傾向が著しく見られたのであるが、特に「日本文獻學」(明治四十年講義・昭和三年刊)は國文學研究法の立場から國學を日本文獻學として理解されて居るのである。この傾向は芳賀博士が明治三十五年頃独逸から歸られてから独逸の文獻學との比較の上から「國學とは何ぞや」といふ論文を書かれて以來、芳賀博士の一貫した態度であつたのである(この點は一人の國學者の研究ではあるが村岡典嗣氏の「本居宣長」も大體さういふ態度をとられて居るのである)。藤岡博士の國學史や野村博士の國學全史は國文學研究史としての性質を有して居るが一面には文化史的研究の一面をも備へて居るのである。

 以上は國學史が神道學や國史學や國文學の各分野から扱はれて居るために、それゞゝの立場からの色彩が濃厚となつて來るのであるが、また國學史が是等の種々の分野を學問的領域の中に併せ有して居るためでもあると見られるのである」と。


 

# by sousiu | 2014-07-17 19:47 | 良書紹介

御無沙汰してをります。笑 

 御無沙汰に過ぎて照れるのですが、久々に更新してみます。

 といふのも本日、青思会・鹿島先生より連絡あり。アルコールも入つてゐないであらう時間にも係はらず、苦情の内容であつた。
 平身低頭、謝罪し、ことなきを得たものゝ(逆らつたり言ひ譯すると更らに事態は惡化の一途を辿る)、電話の切り際にこの日乘が更新されてゐないことにまで御言及され。次囘は野生が生まれつきジヤニーズ系の顏であることにまでイチヤモン付けられたら面倒至極なので、この最後の御苦言にも從ひ、再度更新を決意した次第である。

 この半年間更新をサボり、實におほくの方々から御心配の聲を賜はつた。態々電話を下さつた方もあり、電話に出ると「なんだ、生きてたのか、・・・殘念」と何が何だか分からぬが、落胆された御仁もあつた。吁
 かう見えても河原、未だ世捨て人にはなりきれてをらぬやうで、これでも最近はそれなりに忙しい日々を過ごしてゐたのである。
 以前ほど運動には參加してゐない。然れ共、腐つても河原、人間性も微志も信念も思想も、加へて節操も方針も、些かも變節することなく、今日猶ほ已然のまゝであると自認してゐる。

 吉田松陰先生『東北遊日記』に於て曰く、
「有志の士、時平らかなれば則はち書を讀み道を學び。經國の大計を論じ。古今の得失を議す。一旦變起らば、則はち戎馬の間に從ひ、敵を料(はか)り交を締(むす)び。長策を建てゝ國家を利す。是れ平生の志なり。然り、而して、天下の形勢に茫乎たらば、何を以て之を得んや」(原文は漢文。松下村塾藏書版)と。
 今日が平生であると看做すか、危急變事目前と見做すか、人それゞゝだ。然るに野生は未だ平生にあるとするの側だ。而して、平成の平生も 皇恩に浴するが爲めの結果だ。よつて必要以上の組織論や戎馬(※この場合は戰陣の意)を構成せんとするでなく、今は平生の志を研磨するあるのみ矣。

 無事、鹿島先生によるイヂメの標的から外れる能ふれば、また更新も保留となるやも知れないけれども、とにかく長い目で見守つてください。




 

# by sousiu | 2014-06-06 20:13 | 報告

なんぞ國つ神に背き他神を敬せむや 

 大國隆正大人は文化三年、弱冠十五歳にして平田篤胤大人の門に入り、更らに昌平黌に入り儒學をも學んだ。

 隆正大人、時に文化六年(十八歳)、孝經の一句、
 「不愛其親而愛他人者、謂之悖徳。不敬其親而敬他人者、謂之悖禮」
 (※その親を愛せずして他人を愛する者、これを悖徳と謂ふ。その親を敬はずして他人を敬する者、これを悖禮と謂ふ)[孝優劣章、第十二]
 に悟るものあり。乃はち、我、皇國に生まれ、皇學を修めずして漢籍をのみ學習するは悖學といふべきなるを。
 隆正大人は弱冠十八歳にして昌平黌舍長を命ぜられたといふから、その學力學識が如何に群を拔いてゐたのかを容易に察せらるゝのである。されど上記したるが如く、大に思ふところありし故、翌七年、昌平黌を去つた。

 かくなれば身、皇國といふにもせよ神州といふにもせよ、日本に生まれながら神道を知らずして外つ國の教を信仰するは所謂る悖教といふことか。

 このことに就ては、いつであつたか、彦根の後藤健一兄より電話あり、少々の意見交換をしたことがあつた。以下に先人の言を借りて説明したい。

●平田篤胤大人『鬼神新論』(文化二年草稿、文政三年補足)に曰く、
「また佛は蕃神なれば、祭るべき謂(いはれ)なしとて、疾(にく)み厭ひ廃(すて)むとする人の有るも、偏(かたくな)にして、眞の神の道を知らざるものなり。凡(すべ)て世の中の事は善も惡きも、本(もと)は神の御所業(み-し-わざ)によれる事にて、佛道の行はれ、佛神の參渡(まゐ-わた)りて、其を祭る風俗(ならはし)となりたるも、本は神の御心に因れるにて、則、公(おほやけ)ざまにも立置るゝ事なれば、是も廣(ひろ)けき神の道の中の一ノ道なり。かくて、佛すなはち神なれば、時世に祭る風俗のほどゝゞに、禮(ゐや)び饗(あへ)しらひ、また由縁ありて、心の向はむ人は、祭もし祈言(のり-ごと)をせむも、咎むべき事には非ずかし」と。

 佛は蕃神であるから祭る可き理由はないと憎み嫌うて廃せむとするは偏つてをり、眞の神の道を知らないものであるといふ。篤胤大人によれば善惡は神の御所業によることであつて、さらば佛道が起こり、海を越えて 皇國に渡り入り、それを祭る風習が生じたのも、これ神の御心である。すなはち、公にも佛教を立てゝをられることであるから、これも非常に廣い神の道のなかの一つの道である、と。

 一讀するに篤胤大人の言として意外に思はれる方もをられるかも知れない。大人のことを指して當時の廃佛毀釋の巨魁のやうに語る人があるが、そは大人を表層的に知る者の見方として、或は先入觀から來る誤解として野生はこれらの意見に首肯しない。かと云うて大人は神佛習合の立場を取るものでもない。以爲らく、それは神と神力への絶對的なる確信であり、信頼あつたればこそ闡かれた見解に他ならない。

 然るに曰く、
「然れど眞の道の趣を覐(※見+メ+メ=さと)りたらむ人は、皇國には、天地(あめ-つち)の初發(はじめ)の時よりの、正き傳説ありて、神々の尊く畏く、恩頼(みたまの-ふゆ)の忝き事を知りて、齋(いつ)き祭り、なほまた其ノ家々に就て、各々先祖氏神など、祭リ來れる神靈ありて、家のため身の爲の、幸ひを祈る事なれば、其を除て、外蕃(とつ-くに)の佛神などに、ひたすら心の向きて、尊み忝むべきに非ず。此は欽明紀の議に、何背國神敬他神也(※なんぞ國つ神に背き他神を敬せむや)とあるぞ。正しき道の理に叶ふべきと云へり」と。

 譯せば、しかしながら、眞の道の趣旨を悟つた人は、皇國には天地の開けた時から正しき傳説があつて、神々の尊きことを知つてゐる故に身を清めて祭り、或はその家々に就てそれぞれの先祖や氏神などを祭つてきた神靈あり、家内安全や無病息災を祈る奉つてきたものなれば、それを止め、外國の蕃佛などを一心に敬ひ、ありがたがく思ふ可きではない、と戒める。

 
 神佛の話しになり、まゝ耳にする意見がある。「神道を崇拝することに異論は無いが、我が家は代々、●●宗である。先祖の敬つてきたものを疎かにするわけにはいかない」との苦情だ。先祖の崇めてきたものだから、といふ心情は察せられる。だがしかし、吾人が先祖は二代、五代、十代を遡り突然生命を得たものではない。遥るか古へから連續したるものなのである。而して遥るか古へに佛や耶蘇の道や教なぞは無かつたのである。それらは輸入せられて興り、どこかで何代か前の先祖が、それまでの先祖の信仰を止めて今日の◎◎宗へと變節したのである。先祖崇拝の念はゆめ忘れる可からざるの重大事であるが、それは數代前までの域とするものではない筈である。「何背國神敬他神也」は往昔の當時にのみ向けられた戒め言ではない。


●京都報本學舍、大國隆正大人『教の説』に曰く、
「おのれつねにいふ。音は萬國同しくて言語は萬國おなしからず。道は萬國同しくて教は萬國同しからす。天竺にておこれる佛教は幽冥を旨として顯露にことそきたり。唐土にておこれる儒教は顯露に局(※あた)りて幽冥をかたらす。この日本の教は幽顯分界を旨として、天地の始をは幽冥にてとき、今日の事業は幽冥をはなれて 朝家に服事す」と。
 佛教は專ら幽界を事とし、儒教は專ら顯界を事とするが、神道は顯幽兩界を一貫するをいふ。

●大國隆正大人、天保十三年五月『報本學舍記』に曰く、
「~畧~ そもゝゝ我 天皇は、この國かぎりの 天皇にてはおはしまさず、ことば通はねど、船はかよふべき邦もろゝゝの 天皇にておはしますなり。そのゆゑよし、朝廷のみふみにも、しるしおかせたまひ、世中にもいひつたへて、上代には、うたがふ人のなかりしを、今世はこのくにの人すら、よくも知らず。しりてもうたがひてすごすなるは、中昔より、外國々(とつ-くに-ぐに)のをしへの雲、世にはびこりて、しばしくもれる故にぞありける。この本の光を世にあらはすものまなびを、幽忠といふべくこそ。わが父母の、おやのおやととめゆけば、その本は、産靈の神におはします。この神、あめつちをつくりなしたまへるとき、人をものにすぐれて、かしこく正しくつくりたまひ、よろづの物、皆人のために用ゐらるべくつくりおき給へる神ばかり。人とうまれたる身の、いかゞは思はであるべき。いかゞは報いせでありぬべき。その神わざを考へさとるもの學びを幽孝といふべくなん。かくいへばとて、顯忠顯孝をおろそかにな思ひひがめそ。かへすがへすも、顯忠顯孝を常のしわざとつとめはげみて、そのいとまのひまに、幽忠幽孝のすぢにかなへるものまなびを爲すべきなり。まことや、唐土天竺、その外、西のくにゞゝにていひといひ、つくりと作るものも、こともわざもみな、わがむすびの神のみしわざにもれぬは、正しからぬをばしりぞけ、正しきをとり用ゐ、みくにの爲になすべきなり。おのれこのすぢのこと、をしふるところを、本に報ゆるまなびのやと名づけたれば、わが教へにしたがふ若人たち、おろそかに思ひてな怠りそ」と。

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# by sousiu | 2013-10-31 07:37 | 先哲寶文