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八十年前は昔なるか。 

 昨日は就寢前に、行地社の『月刊日本』を拜讀。
 行地社は、大正十三年に大川周明博士他により結成された團體だ。

 恰度八十年前の機關紙であるが、現代の我々が讀んで充分頷ける、と云ふよりも參考になるものがある。
 主張は時代を反映させる。斯く世相を一顧せば、實にこの八十年といふ期間は、その間に大戰があつたにせよ、皮肉にも大きな變化があつたとは云へないのではないだらうか。

 もう少し云へば歴史上に於て、八十年とは正に一瞬であるのかも識れない。建國から六十二年しか經つてゐない中華人民共和國の人からみれば悔しいことだらうが、悠久の歴史を有する日本では、正に光陰の如くあるのかも識れない。


 その一瞬の中の一瞬といふ時間を與へられた我々が戰ひ、先輩から我々、我々から後輩、とそれを續けて、而してほんの刹那の、どういふ譯か巧い具合ひに機會を得た時の同人が、維新囘天の實を擧ぐ光榮に浴することが出來るのだ。羨ましき哉、正さに、その者は時代に選ばれたのだ。でもその者も、バトンを渡す先人があつたればこそ、その好機を逃すことなく存分力を發輝することが出來るのだ。かくも一大好機に際して焉んぞ身を惜しまん。幕末は、功成ると成らざるとに關はらず、死せると死せざるとに關はらず、その瞬間中の瞬間に遭遇し、先人は斯くも戰ひ、そして今猶ほ輝いてゐるのだ。
 そして又たこの百數十年、我れらが先進や先輩はみな、その一瞬中の一瞬に遭遇せぬかと、胸踊らせ、日々、求學求道を怠らず鐵心殉皇の志を研磨され過ごせられたに違ひない。次に神界の發動せられる秋が何時なのか野生には分からない。だが役立たずと雖も野生はその好機に是非、惠まれてみたいものだと思ふ。

 かう考へながら、いつの間にかぐつすり寢てしまつた。


 さて。少々長文となるが、つまり氣になつた所を以下に抄録したい。紙面上の掲載順ではないが、この順番で掲げるが讀み易いと思ふ。


●渾大防終吉氏『月刊 日本』第七十一號(昭和六年二月一日「行地社」發行)「國難打開の基調」項に曰く、
『~予は思想善導に盡瘁せらるゝ人々に多謝し、敬意を表すると同時に借問する。今日百弊の總根元たる衆愚政治の議會制度、舶來社會共産主義を釀造する處の資本主義的經濟制度、人心より敬神・敬上・守徳の心を失はしめ、蔑神・下剋上・輕徳の心を養成せしむる處の教育制度を廢止せずして、思想を善導するの途あるかと。予は斷言す、思想善導家等が現に爲しつゝあるが如き方法手段は、唯だ徒に舶來無政府主義及社會共産主義者の跳梁を助くる而已にて、斷じて思想を善導し能はずと
 嗚呼國人「誠」の心を眠りより覺ませよ、爾等の魂の衷に押込め居れる「誠」の心を甦らしめて、大に活動せしめよ。爾等の「誠」の心は必ず三千年間傳統の國風に從はざる限り今日の國難を打開し能はざる事を教へん。議會制度や資本主義的經濟や、智的萬能教育を撤廢せざる限り、今日の國難は斷じて消滅せざる事を教へん。今日の急勢は白色の諸氏が爲しつゝある處の、破屋に突張棒をして、其潰倒を防がんとするが如き姑息手段を止めて、寧ろ其破屋を倒し新に堅固なる家屋を建設するの賢なる事を教へん
「誠」を喚起せよ、「誠」を把握せよ、「誠」を守るは我國祖の令にして三千年間傳統の國是である。速かに西洋模倣の智的技巧を止めて、國祖の令に從はざれば、如來なる方法手段を講ずるも、國難は依然として消滅せぬであらう。今日の國難打開の途は、實に此「誠」の字を基調とするにある事を知れ』と。

●坂本箕山氏、「敬神尊皇」項(仝)に曰く、
『我等は、我等の祖先が受けし 皇恩、我等自身が受けつゝある 皇恩、我等の子孫が受くべき 皇恩。過去現在未來を一貫して被れる 天皇の恩に對し奉り、感恩報謝の誠意を捧げずして居られるべき。固より單に重れる恩を被れるがために感謝の念からのみ尊皇の誠を致すばかりではない。 ~中略~ 我等の 天皇は、天壤と共に悠久に彌榮えまします、生命の具體的根據にてあらせ給ふので、天皇を 皇神の御心のまゝに、有り難く懷かしみ思ひ奉り、無理屈無條件に仰ぎ尊び「何事のおはしますかは知らねども 忝なさに涙こぼるゝ」の信仰にて、一身を捧げ輔翼し奉るべきが尊皇の本質である。 ~中略~ 思想善導の運動は、先づ此の敬神尊皇の精神の鼓吹から出發し、全國民大衆に呼び掛けて、善處に導かねばなるまいと思ふ』と。

而して、大川周明博士の、卷頭言「局部と全局」(仝)に曰く、
●『人間には誰しも良心がある。良心があるから道徳的向上の念願がある。教化團體の或ものは、坂に難儀する荷車の後押しをしたり、途上の石ころを拾ひのけたり、紙屑を始末したりすることを、如何にも立派な道徳的行爲であるかの如く教へ込む。それ位のことなら誰でも出來るし、またそれが立派な善事であるならといふので、多くの青年が其の團體に加入し、安價に良心を滿足させて、當人だけは天晴れ聖人君子になつた積りで居るが、其實此事あるがために、却つて眞個の道徳的向上の歩みが止まつてしまふ。
 私は是と同樣の傾向を、多くの改造團體に於て見る。少しく氣概のある人間ならば、此儘に見ては居れぬ世の中である。血氣盛んな青年が改造を覺悟して奮起するのに何の不思議もない。また其の意氣があればこそ、國運が伸張して行くのである。唯だ憾むらくは、改造戰線の勇士が、或は巡査と喧嘩をしたり、或は工場で資本家と戰つたり、或は地主に反抗したりして、その都度改造のための戰鬪的精神に、一時的の滿足を與へて居るために、その戰線は殆ど前進せず、いつも同じ處に足踏みをして居るかたちである。いはゞ局部の戰爭に沒頭して、大局が却つて留守になつて居る有樣である。吾々は最も此點に注意しなければならぬ。吾々の期する所は、全局の改造であり、而して之に役立つことに全力を傾倒しなければならぬ』と。


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by sousiu | 2011-09-27 08:32 | 小論愚案

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