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在朝に、勤皇家存せんことを期待す。   

 從一位、勳一等、伯爵、青山田中光顯といふ人があつた。
 文久二年、天晴れ、土佐藩に於ける俗論黨の筆頭・吉田元吉を誅した勤皇の人、那須信吾重民先生の甥。田中伯はこれに先立つ文久元年、瑞山武市半兵太先生の「土佐勤王黨」に連名、血判す、當時十九歳。

 以降、田中伯は、土佐勤王黨として活躍。やがて脱藩し、長州に於ける勤皇討幕の志士と交誼を深める。
 高杉東行、久坂義助、平井隈山、品川彌二郎諸先生と上洛した將軍家茂公襲撃を企て、未遂に終はるも「暴發組」として其の名を轟かせた。ほどなくして中岡愼太郎先生の「陸援隊」に參加。同隊では實質上、副將の地位にあり、中岡先生が賊徒による兇刃に斃れて後、陸援隊を總監す。
 慶應三年、維新大號令が發せられるや、直ぐ樣、高野山に錦旗を翻へし、占據に成功、囘天維新の達成を江湖に宣傳した。

 維新三傑とも深く交はり、明治の御宇以降は、必然として維新政府に加はり、貢獻するところ大なり。初代内閣書記官長、警視總監、學習院々長、宮内大臣などを歴任。然もその地位、名譽に甘んぜず、只管ら、尊皇の念一途に、皇國の御爲め一身を捧げられた。
 刀劍會の設立。古書、古文書の收集、保全、編纂、寄贈。靖國神社遊就館の設立。勤皇家の顯彰、及び贈位の御沙汰を奏請。東宮御所御造營。御歴代御陵墓五百有餘の歴拜。枚擧に遑なきその功勞も、無念至極、恰も戰後の今にして埋もれ木に匿するが如く世人に識らされぬことを、伯御自身の本意は兎も角、野生は遺憾千萬この上もなく思ふものである。故に野生は、卑見淺學を承知で今後も機を伺ひ、日乘でこれを特筆大書するであらう。

●蘇峰 徳富猪一郎翁、大正十四年五月廿六日『國民新聞』紙上にて田中光顯伯を語る、曰く、
『何を申しても維新以前の志士として、現存の一人は伯だ。先帝陛下に咫尺して、其の信寵を忝くしたる一人は伯だ。伯は維新史、明治史に取りては、倔竟の資料の貯藏者であり、且つ伯自身資料其物である』と。




●元宮内省書記官・栗原廣太氏『宮内大臣としての田中伯』(昭和四年『伯爵 田中青山』田中伯傳記刊行會發行)に曰く、
『私は露骨に話をすると、田中伯爵のやうな性格の人は世間から誤解され易いと思ふ。といふのは伯は直情徑行の人である。天眞爛漫の人である。即ち俗にいふ一本調子の人であつて、驅引もなければ細工もなく、思つたことは腹藏なく言ひ、仕(し)たい事は遠慮なくするといふのだから、その性格を知らぬ人は傲慢だとか、不遜だとかまた無遠慮だとか言つて誤解の念を抱くが、併し親しく伯に接近する者は、其の性格に頗る尚ぶべきものを認めるのである。斯くの如きは一面からいへば短所であるが、私は寧ろ之を常人の企て及ばざる長所として多大の敬意を拂ふのである。
▲眼中首相なし  私は素より伯の人物を批評する資格はないから、今多年伯に親炙して、自分で見聞したことをお話しよう。年月は確かな記憶はないが、桂公が總理大臣であつた時、一日首相官邸から、少し相談したい用件があるから來て貰ひたいといふ電話が掛つて來た。スルト伯は夫(それ)に對し差支へがあつて行けないといふ返事をして置ながら、私等左右の者に向ひ「自分は總理大臣の部下に在る者ではない、宮内大臣は内閣の外に獨立してをるものであつて 陛下を除いては他より何等の命令を受ける筈はない、自分は素より個人として桂公に對しては滿幅の敬意を表してをるが、苟くも宮内大臣としての職に在る以上、其の權威を保つことは 陛下に對して努めねばならぬ。若し桂公にして用事があるなら自身で來るが良い、呼附けられて行くのは職務に對して承知する事が出來ないから斷わつたのだ」と、説明されたから、私なども成程と感心して居ると、間もなく桂公もあの通りの如才ない方だから、伯の意中を諒せられたものか、再び電話を掛けて來て「お出を願ふ事が都合が惡ければ、此方から伺ふから御退出を姑らく見合せておいて貰ひたい」と申越したのに對し、伯は「イヤ、お出を願ふのは恐縮だから、此方から伺ふ」と言つた儘、直ちに車を命じて桂首相を訪問された。
▲職務に忠實  私抔は其の時同じく此方から出向いて行くものなら、始めに電話を掛けて來た時、行つたら良ささうなものだのに老人といふものは餘計な手數を掛けるものだと思つてをると、翌日伯は役所に出られて、吾々に向ひ前日の話をなし「來いといつて行くのは其の命令に從ふ譯で職務上の權威に關するが、此方から任意に訪問するのは毫も權威に係はらないのみならず、先方に對して敬意を表する所以である」と説明されたのを聞いて、私なども始めて伯の精神の在る所を諒解したものだ。此樣なことは誠に小さい例であるが、是に依るも伯が如何に職務の上に秩序を重んじ、且つ如何に公私の別を立つることに嚴なるかを知らるゝのである。一事は萬事である』と。※括弧及び振り假名は野生による。
在朝に、勤皇家存せんことを期待す。   _f0226095_1714852.jpg

          ※寫眞。八十七歳の伯爵 田中青山翁

 愚案。宮内省は、敗戰後の昭和廿二年、宮内府と名實共に變ぜられ、機構の縮小を餘儀なくせらた。同廿四年、宮内廳となり、現在は内閣府の一外局に過ぎない。
 環境廳が環境省となり、防衞廳が防衞省となるも、未だ宮内廳はあくまでも廳なのである。固より斯くなる事態を惹起せしめたのは、戰後の占領政策、日本國憲法に因あること申すまでもない。かねてより、防衞廳を防衞省にといふ聲が一部保守派層の間で盛んとなり、その昇格に歡喜した者尠くない。より日本の國防力を鐵壁の如くと願ふその所志に不平を漏らす積もりは毛頭ないが、對外的對策にばかりに目を奪はれ戰後體制を修正せんと力むるも、對内的に戰後制度を放置しては、戰後體制の脱却も片手落ちと云はざるを得ず、眞個たる實現は覺束ない。東行高杉晉作先生曰く、『國を滅ぼすは外患にあらず内憂にあり』と。

 政府が率先垂範、國民を鋭意善導し、この戰後體制を超克する能はずんば、おそれおほくも、九重に直言せんとする輩や、署名運動なぞを企む者どもが増幅、増長するや必定。口惜しき哉、宮中を忽せとし、ひとりの田中青山伯を認めぬ戰後體制を憾むある而已矣。

by sousiu | 2011-11-29 16:28 | 小論愚案

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