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・・・・で、義公。  

 林道春の曰く、
『論に曰く、東山の僧、圓月(字は中巖、中正子と號す、剏めて妙喜庵を建つ)嘗て日本紀を修む。朝議協はずして果さず。遂に其書をやく。余、竊かに圓月の意を惟ひ、諸書を按ずるに、日本を以て呉の太伯の後となす。夫れ太伯荊蠻に逃れ、髮をたち身を文し、交龍と共に居る。其子孫筑紫に來たる、想ふに必ず時人以て神となさん。是れ天孫日向高千穗峰に降るの謂ひ乎』
『想ふに其れ大己貴、長髓彦は、我邦古昔の酋長にして、神武は代はつて立つ者か、嗚呼姫子の孫子、本支百世、萬世に至つて君と爲るべし。亦た盛ならずや。彼れ強大の呉、越に滅ぼされると雖も、而も我邦の寶祚は、天地と與に窮りなし。余是に於て、愈々太伯の至徳たるを信ずるなり。設し圓月をして復び生れしむるも、余の言を何とか謂はんや』と。

 恐る可き哉、道春は先に名を記した愚僧、中巖圓月による皇祖泰伯説の信服者だ。然も徳川幕府初期に於て、この説は國中を驅け巡り、世人を信じて疑はせなかつた。況んや幕府の御用學者どもに於てをや。
 されど圓月は吉野朝時代にのみあるものではない。最近では小澤一郎の如く、騎馬民族云々と兔角、魔説を國内外に廣告する徒輩がある。固より道春もひとり安土桃山の時代に生を享くるものではない。そして、日星のごとき臣下の分があることも識らぬ御用學者は、江戸時代ばかりに逞しくするものではない。




 昨日は時對協定例會があつた。その後の懇親會に於て、期せずして、小田昇氏より、中巖圓月の話題が出された。大阪の志賀氏より、髮長に就て同志の忌憚なき意見を乞ふとの申し出があつたことが因となしたのである。
 小田氏は自稱、病人だ。憂國病を患つてゐるといふ。廣島縣より上京した國信氏と病人同士、肝膽相照らすものがあつたか、終始、崎門學に就て議論を重ねてゐた。鳥取縣の中上氏にあつては、神代の話題。
 健全且つ極めて常識人の野生はと云へば、久々に參加された平澤次郎翁の隣で、翁による苦言の集中砲火を浴びてゐた。翁の出費を少しでも抑へんと獻策したことにも御説教。韓非の「韓非子」も、平澤翁の「酒」には全く齒が立たないとみえる。固より酩酊した翁の折角の苦言も、野生の耳にかゝつては右から左だ。これが、健全且つ常識人の應對だ。
 何にせよ、時對協の懇親會は上記が如く、病人による熱辯と泥醉先生による御説教と醉拳。十數名の懇親會參加者があつたが、この空氣のなか、たれ一人としてAKB48の話題を出すの勇者はなかつた。心ゆくまで可愛い後輩に説教を浴びせて滿足し、併せて、自らを病人であると告白し些かも憚らぬ時對協會員は、今後時對協の門戸を叩く者が、おそらくさうはをるまいことを承知しておかなければなるまい。



 ところで道春は幕府の命により、彼れの三男坊である春齋と修史編纂事業に著手、寛文十年、「本朝通鑑」を完成させた。
 水戸の義公、この折り、登城。休所に入るの時、執政某に本朝通鑑をもたせ一讀す。
 この時の樣子を安藤爲章翁の「年山紀聞」(文化元年)から識らむとするに、曰く、
時に公(義公のこと)一、二卷(本朝通鑑のこと)を電覽ましましければ、天朝の始祖は、呉の太伯の胤なるよし書きたるに、大に驚かせ給ひて曰く、抑も是は如何なる狂惑の所爲ぞや、唐土の史、後漢書以下に、天朝を姫姓のよししるしたるは、往昔亡命のもの、あるひは、文盲の輩など、彼處に渡りて、杜撰の物語せしを、彼方のものは、眞にさなんと意得て書き傳へたるなり。天朝には自ら日本紀、古事記等の正史あり。それに反きて、外策妄傳によりて、神皇の統を涜さんとす。甚だ悲しむ可し。昔、後醍醐帝の御時にや、魔僧ありて、此の流の説を書きしをも、制禁ましまして、其の書を焚き捨てられしとかや承る。かの厩戸皇子のころは、學問未熟ありしかど、日出處天子、日歿處皇帝と書きて、同等に抗行せられしぞかし。呉太伯の裔と云へば、神州の大寶長く外國の附膺を免かれ難たからん。されば此の書は、醜を萬代に殘す事と云ふべし。早く林氏に命じて、此の魔説を削り、正史の儘に、改正す可きなり。さは侍らぬかと給へば、尾紀の二公にも、うなづかせ玉ひ、執政の人々も、御確論に感伏せられ、梓行を止められ侍りぬ』と。

 あゝ、痛快なる哉、痛快なる哉。これにて本朝通鑑の出版は中止となつた(しかれども大正時代に至り、刊行をみる)。

 固より義公と云へば「大日本史」編纂といふ一大事業を發起した稀代の偉物であり、それ、啻に水戸のみならず、皇國中興の大恩人である。然も義公の本道の偉大は、大日本史編纂の一事にみるべからず。水戸が徳川御三家の一であるにも關はらず、猛烈なる 尊皇忠義の臣であつたことに他ならない。
●蘇峰 徳富猪一郎翁曰く、
『何れにしても光圀の一喝(上記のこと)は、日本國史の、主要なる大問題を解決して、餘りありと云ふも、過言ではなかつた。爾來我が 皇祖を以て、呉の泰伯とし、若しくは夏の少康とするが如きは、消滅し去つた』と。


 圓月も道春も御用學者も現代に栖息、氾濫する。無論、政財官界内部もこの例外とせない。野生は只管らに義公の如きひとりの出現を懇祈せずんば已まず。

by sousiu | 2012-01-13 13:50 | 日々所感

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