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柳子新論抄  「文武第五」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「文武第五」に曰く、
『柳子曰く、政の關東に移るや、鄙人其の威を奪ひ、陪臣其の權を專らにす。爾來五百有餘年人、唯だ武を尚ぶを知りて、文を尚ぶを知らず。文を尚ばざるの弊は、禮樂並に壞れ、士は其の鄙倍に勝へず。武を尚ぶの弊は、刑罰孤行し、民は其の苛刻に勝へず。俗吏は乃はち謂ふ、文を用ふるの迂なるは、武に任ずるの急なるに如かず、禮を爲すの難きは、刑を爲すの易きに如かず、古、何ぞ以て稽(かんがふ)るに足らん、道何ぞ以て學ぶに足らんや、と。是れ特に蠻夷の言なるのみ殊に知らず、文事有る者は、必ず武備有り、禮樂の教、強禦も當たること無き(※下記參照)は、古の簡に率(したが)ひ、道の易きに由ればなることを』、


 上記は、眞つ向から幕府の尚武卑文主義を批判したものである。
◎徳富蘇峰翁曰く、
(※大貳先生のこと)の尚文主義は、決して文弱主義ではなく、既に尚文と云へば、尚武は自から其の中に在るものと認定してゐた而して現代(※勿論、この「現代」は「明和」の當時を云ふ)の所謂る尚武主義なるものは、其名は尚武なるも、其實の甚だ之に副はざるを見て、痛罵してゐる』と。(「近世日本國民史」第廿二卷)


 上記冒頭『政(まつりごと)の關東に移るや(※原文「政之移于關東也」)』とは、云ふまでもなく、源頼朝の武家政治創始を指す。
 餘談であるが、本稿は開幕より、『爾來五百有餘年』とある。ところで頼朝の開幕は建久三年(紀元一八五二年、耶蘇暦1192年)だ。※シツコイやうであるが、野生は紀元一八四五年、耶蘇暦1185年を開幕とする今日の説には承服出來ない。
 「柳氏新論」は、古人に假託した、大貳先生の著述であることは既に述べた。それを訴へる文章は、同書の跋に記載されてあるのだが、そこには柳子新論をして、『意(おもふ)に、中葉以降の作か』『織田氏の時に在るか』と、トボケてゐる。されど、「織田氏の時」が事實であれば、本能寺に於ける信長公の死は天正十年、紀元二二四二年、耶蘇暦1582年であるから、約三百九十年となり、五百有餘年とする記述は辻褄が合はない。
 頼朝開幕に、五百有餘年を加算すれば、まがふことなく、寶暦の時代となり、畢竟、大貳先生の著述であることは明白となるのである。大貳先生のうつかりか、將た又た故意か。故意ならば、敢へて自著であることを仄めかしたのであるか、それとも、同書の主旨と關係が存するのであるか。ともかく是れ又た興味の盡きぬ一節ではある。

 『古、何ぞ以て稽(かんがふ)るに足らん、道何ぞ以て學ぶに足らんや、と(※原文「古何足以稽。道何足以學也」)』とは、今日の役人の通弊でもある。「稽古」「學道」を輕視し、現状維持、繼續主義に心奪はるゝは役人の、所謂る職業病だ。

 ※『禮樂の教、強禦も當たること無き(※原文「禮樂之教、強禦無當)』とは、「禮は身を愼む所以であり、樂は心を和らげる所以のこと。禮樂之教に對しては、如何に惡強くして善を禦ぐ者も、遂に之を阻むことは出來ない」の意。




●大貳先生の曰く、仝、
『且つ夫れ文武は、譬へば、猶ほ權衡のごときなり。一昂一低、治亂乃はち知られ、一重一輕、盛衰乃はち見(あら)はる。奚ぞ以て偏廢す可けんや。是の故に、文武の天下に於けるや、一張一弛、剛柔迭(たがひ)に擧り、一動一靜、強弱並行はる。而る後に能く四海を平均し、民其の樂を樂しみ、其の利を利とし、人今に到るまで徳を稱せざるは無きなり。 ~中略~
即はち今の人、生れて一經をも執らざる者、寐ねて思ひ、寤めて思ふとも、焉んぞ其の然るを知らんや。知らずして之を言ふは、妄に非ざれば、則はち狂、固より齒牙に掛くるに足らざるなり。然りと雖も、天下の民、■(轉記不可)々として其の鄙に勝(た)へず、恟々として其の刻に勝へざる者をば、吾れ奚ぞ坐して之を視るに忍びんや。身を殺して仁を成すは、君子の辭せざる所なり。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『この段、文武の偏廢すべからざるを説く。こゝに大貳先生の立場が明らかである。この章に強調せられる尚文主義は、決して文弱主義ではなく、又、武を以て直ちに殺伐野蠻を意味するとなすのものではない。文武一途を原理的立場とし、江戸時代が尚武に偏したことを非難したもの』と。

 鳥巣通明翁も、又た、蘇峰翁と同じ意見だ。



●大貳先生の曰く、仝、
『夫れ官の文武を分つは、其の相兼ぬ可からざるを以てなり。譬へば、牛と馬との如きなり。馬の能く遠きに致し、牛の能く重きに任ずるは、性、蓋し然りと爲す。若し、馬をして重きに任じ、牛をして遠きに致さしめんか、皆、其の堪へざる所なり。今、夫(か)の文に任ずる者は、學ぶ所は詩書禮樂なり。故に其の人と爲りや、温柔敦厚にして、慣れて以て徳と爲る。之を大にしては則はち卿相、之を小にして則はち府吏、蓋し其の能なり。假に其れをして堅を被り鋭を執り、師旅(※軍隊編制の名稱)の間に在らしむるも、亦た焉んぞ賁育の功を見(しめ)さんや。若し、其れ武に任ずる者は、執る所は矛楯鈇(金+夫=ふ)鉞(※をのと、まさかり)なり。故に其の人と爲りや、威猛精烈にして、習ひて以て性と爲る。之を大にしては則はち將帥、之を小にして則はち騎卒、蓋し其の當なり。假に其れをして纓を結び紳を垂れ、俎豆の事を行はしむるも、亦た、焉んで游夏の容を見(しめ)さんや。~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『先づ、官職上、文武兼ねる能はざるを説く。但し、それは吾々の修養の問題とは別である。文事有る者は、必ず武備あり。あくまでも文武兼備を目指し、文官は尚武の精神を忘れず、武官は求道の志を捨てゝはならぬ。武人道を求めざる時、兵は文字通り兇器となり、文官、尚武の氣象を缺く時、惰弱用ふ可からざるに至る事、今日(※昭和十四年)我々の周圍に見る通りである』と。




●大貳先生の曰く、仝、
『昔は、將門關東に割據、純友(すみとも)南海に救應、尊號を強僭し、暴虐數州を傾けしとき、秀郷奮然として師を率ゐれば、則はち兇賊遁逃、叛臣首を授けぬ。惡路王(※陸奧の賊首)と稱して、東夷を劫略し、窺窬(上「穴」+下「兪」=ゆ、窺窬=きゆ、覬覦に同意)神器に及びしとき、坂君(※坂上田村麻呂)、兵を提(ひつさ)げ、遽然として東海に向へば、則はち群盜伏竄して、頑寇魂を失へり。夫れ此の二人の者は、生れて山野海島の間に在りて、日に其の勇を養ひ、月に其の智を長じ、完聚其の道を得、指麾其の法に由れり。故に、能く大敵を制して、功は海内に此なく、千歳威猛を稱し、百世驍勇を稱す。是れ古の能く武に任ぜし者なり。況んや此の二人の時に當りては、尚武の俗未だ起らず、軍閥の諸將の如き、上は兵部の制を奉じ、下は郡國の令を承けしに、尚ほ且つ勇悍精鋭にして、紀律あり、節制あり、之をして征伐の事に赴かしむれば、則はち一擧にして枯を振ふが如し。豈に其れ文事有る者は必ず武備あり、禮樂の教、強禦も當ることなきを以てに非ずや。是れに由りて之を觀れば、今の所謂る尚武なるものも、亦た特(ひとり)虚語妄説なるのみ。文武の以て相無かる可からざること其れ然らずや。其れ然らずや』、

 ○内容の解説に曰く、
『翻つて、武家政治以前に例をとり(※わざゝゞ夫れ以前に例を擧げることで武家政治否定の意が看取される)、秀郷や、田村麻呂等「能ク武ニ任ゼシ」例をひきて推獎し、當代の所謂尚武主義を痛罵するのである』、
『文武の以て相無かる可からざること其れ然らずや(※原文「文武之不可以相無也、不其然乎」)』、これが本章立論の根據である』と。




●大貳先生の曰く、仝、
『仲尼の言に曰く、之を道びくに政を以てし、之を齊(とゝの)ふるに刑を以てすれば、民は免れて恥づること無し、と。今の天下の如きは豈に特(ひとり)民をのみ然りと爲さんや。乃はち卿大夫士に至りても、亦た唯だ免れんことを之を求め、而して曲從阿諛、一に海内の俗と爲り、廉恥の心は爾然たり。又た安(いづく)んぞ君子の朝に齒(よはひ)せん。嗟(あゝ)。夫れ此の如きか。之を要するに皆、武を尚びて文を尚ばざるの弊のみ』と。(「文武第五」完)


 最後に孔子の言をひきて、文武跛行の弊を指摘し、本章を結んでゐる。
 「仲尼の言」云々、とは、「論語爲政第二」のこと。

 ○内容の解説に曰く、
『江戸時代の政治が法律の末に走り、權力を以て制せんとして、國民の道義心を養ふことを閑却した結果、孔子の所謂、民免れて耻無きのみにとゞまらず、爲政者自身も亦、法網をくゞつて耻づるなきに立到つたことを慨したものである。然もこの慨嘆は、ひとり、今より二百年前寶暦の時代にとゞまらぬこと自明であらう』と。



 野生は、この「文武第五」が好き・・・「好き」と云うたら、頗る輕薄になつてしまふ乎、反省・・・、なのである。
 「求學求道」とは云ひながら、「求學」と「求道」は別の代物に非ず。剖つ可からざるものだ。
 則はち、「求學」ありて、「求道」である。「求學」即、「求道」なのだ。畢竟、「求學」なくして「求道」は無い。
 野生は、何遍も云ふが、若かりしころ、勉強が嫌ひで嫌ひで、向學心など一毛ほども無かつたのである。これは野生の學生時代を知る者は萬承知してゐることである。
 だがしかし、この世界の住人として末席を汚すやうになつてから、歳月を重ねるにあたり、にはかに、道の途次に在るといふ自覺が芽生え始め、學ぶことの大切さを嫌といふほど思ひ知らされた。一所懸命となれば壁に突き當たる。越えて更らに進めば、亦たその先に壁がある。これを都度、越えるには、見識が必要だ。見識は、その凡てと云はざるまでも、結局學の有無に大きく影響されてしまふ。
 固より、求道者としての姿勢も、多くの先輩や先進の背中を見て、今も尚ほ學習してゐる。
 阿形先生も、御高齡でありながら、今猶ほ、各所勉強會や講演會に參加なされ、決して學ぶことを疎かとしてゐない。

 固より、本章で大貳先生は、文武不岐の重要性を政治に於て説かれた。
 今日、軍備必須を説く者は、愈々以て大貳先生に教はるところ大とせねばならぬ。
 武人の道を求めざる時、兵は忽ち兇器となる、といふは、全くその通りだ。曾て野生は、某團體への寄稿に、「赤子に拳銃を持たせたら、誰れがこれに近付くことが出來るの乎」と記した。盲目者、或は理想を知らぬ、將た又た人道の未だ教はらざる者の扱ふ兵器は、總じて兇器ならざるを得ないのである。

 然も、吾人は個々人に於てもこれを訓示とす可きを必要とする。況んや道の途次に在る者に於てをや。
 匹夫の勇者は、一日の時間があれば誰れでもなることが出來る。されど大觀者は、斯く容易ならぬものではない。求學即求道。羅馬は一日にして成らず、だ。

by sousiu | 2012-05-03 17:23 | 良書紹介

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