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柳子新論抄  「守業第十」 

 やうやく第十まで、來た。
 若しも、途中で休息や道草をせなんだらば、今週中には『柳氏新論』から解放され・・・いや、完了する。名殘惜しき哉。

 竊かに望まむとすることは、「河原の抄録や解説なぞアテにならんので、自分で拜讀してみよう」と試みる御仁の一人でも二人でもをられることに他ならない。野生の微衷は、則はち、以て之より它無し。(←大貳先生風)
 かくなれば、野生の骨折りも、木川選手より贈られたる「腱鞘炎知らず」も、寔に甲斐多きものとして之を幸ひとするものである。
 然も、日教組教育による患者がこの稚拙な日乘をみて、若しも、山縣大貳先生や「柳子新論」の名をば覺え親しまれたとしたならば、それ丈を以てして野生の幸甚は至大と謂はねばなるまい。




●山縣大貳先生、『柳子新論』「守業第十」に曰く、
『柳子曰く、夫れ民の業に居るや、父子相承け、世世變ぜず、各々其の土に安んじ、各々其の事を治むるは、先王の治なり。是れを以て上古の民は、能く其の道を知り、而して其の業に力めたり。
 食は此を以て足り、器は此を以て堅く、財は此を以て通じ、之を用ふる者は損無く、之を爲(つく)る者は乏しからず』、(※改行は、野生による。下記然り)


 守業、即はち、職業の世襲を以て先王の治なりとなし、先づは理想を述べたもの。

 知られるとほり、江戸時代では、身分は原則として、代へることが出來なかつた。
 そして同一身分内に於ても、格式や家格は大概、生得的なものであつた。世襲制度が社會を構成してゐたのだ。
 世襲の贊否はともかく、長所を擧げれば、家督の相續者は、子供の時分より親の業を見習ひ、或は教はつてゐるが故に、よく之に通じてゐる。農家の子供が成人となる頃には既に一人前であり、漁師の子然り、鍛冶屋の子然り、所謂る凡ゆる分野の英才教育が、各家庭で夫々行はれてをり、日本の産業、技術は進歩せる可き理由があるのである。これが守業だ。

 だが。



●大貳先生の曰く、
季世は則はち然らず。士の祿は、農の利に如かず。農の利は、工商の富に如かず。工商は巫醫に如かず。巫醫は浮屠に如かず。而して俳優倡伎は、別に一封彊を得、幾何外道は、更らに一乾坤を開く。
即はち民の汲汲乎たる、孰か能く其の業に循(したが)ひて、而して其の事を守る者ぞ。利を逐ひて走り、欲に隨ひて變じ、昨は耒耜を荷(にな)(※「耒耜」は農具の名。「耒耜を荷ふ」は、農業に從事する義のこと)、今は則はち販鬻し、朝には鑪鎛(「金」+博の右側=はく)を執り(※「鑪はくを執る」とは工業に從事する義、夕には則はち咒詛し、■ (「曷」+「鳥」=かつ。雉に似たる野鳥の意。色黒褐にして尾、長し。侵す者あらば直ちにたゝかひ、死ぬまで止まず。故に其の尾は、古、武人の冠の飾とする)冠の士、忽ち倡優の態を羨み、息心の侶、或は耶蘇の教を奉ず。彼れは其れ庸夫、固より是非の辨を知らず、亦た奚ぞ其の邪正を問ふに遑あらんや。此に居れば則はち危ふく、彼に入れば則はち安し。此を爲せば則はち窮し、彼を爲せば則はち達す。利を見て進み、害を見て退くは、衆人の情なり。即はち今の俗吏、何を以てか能く禁ぜん』、


 こゝでは、現實の問題を取り上げ、職業間の利害の差が甚しく、稼業を捨てゝ、或は轉業の多きを指摘してゐる。
 「從來の職業に從事して居れば、生活は窮乏し不安であるが、轉業すると裕福になり生活も樂になる」と考へる人々の増加に齒止めが掛けられないのである。

 世襲制度が社會を構成してゐたと前述した。畢竟、世襲制度が幕府を支へてゐたのである。
 その幕府は上から使役する末端の役人まで生産力を有さない。生産者、勞働者からの徴集に依存してゐる。
 職の名分が正されずば、勞多くして益少き職域が極端なる人工不足となるは必然だ。そは主なるものとして、農業だ。
 同時に、濡れ手に粟、一攫千金を夢見る不埒者も續出するは火を見るよりも明らかだ。事實、この後に所謂る「田沼時代」が到來することを先日述べたが、濡れ手に粟を目論む徒は、上、田沼意次ひとりに非ず。民間では平賀源内ら所謂る山師が隆起する。この場合の山師とは、單に金山とか、銀山とか、銅山とか、鐵山とか握る秤りでなく、凡ゆる利用厚生の道に關與し、而、發明し、金を稼ぐ者だ。つまり、才覺がモノを云ふ時代が開かれようとしてゐた。如何でか農民、重い年貢を課せられ、夏畦の愧づるに足らざると懷ふ可し矣。




●大貳先生の曰く、仝、
『且つや大邑通都の如きは、邸第官舍、甍を連ね城を繞(めぐ)り、飛閣天に接す。
卿相居り、侯伯朝し、駟を結び、騎を連ね、絡繹として斷えず、轂撃肩摩、襟袂幕を爲す。俳優、雜劇、舞妓、侲(人偏+「辰」=ち)子の屬より、以て使熊、狙工、支離、盲聾の徒に至るまで、視る者、堵墻の如く。巫覡の符章、浮屠の念誦、乞ふ者踵を接し、求むる者趾を累ね、糈(「米」+「胥」=しよ)を賽すること土の如し。之を居するものは貢せず、之を賣る者は征せず。異服を之れ譏せず、異言を之れ察せず。
市は波斯の觀を縱にし、府は金帛の美を積み、茶肆酒肆は簷(のき)を接し、地に青草無きもの數十里。是れを以て天下の民、郷を去り國を去り、競ひて之に歸する者、猶ほ蟻の羶に著くが如く、日に其の數を知らず。則はち人、益々多くして、士、益々狹く、城闕の外、率歩一人容れず。是れ皆、末を逐ひ、利を侔(つと)むるの徒のみ。
耕職して本を務むるの民に至りては、則はち掃然として聞ゆる無し。是の故に都下の衣食を給する、日に鉅萬を盡くし、金を餐とし、玉を薪とし、猶ほ且つ以て慊らずと爲す。乃はち關外四野の民、輸運千里、力を盡くし財を竭くし、行役數歳、田は蕪(ぶ)し、野は荒れ、夫は其の鋤を廢し、婦は其の機を罷め、唯だ末をこれ逐ひ、唯だ利をこれ求む。亦た何ぞ其の妻孥を恤(あはれ)むに暇あらんや。
古人言へる有り、曰く、一夫耕さざれば、天下に其の饑を受くるものあらん、一婦織らずんば、天下に其の寒を受くるものあらん、と。乃はち窮民の無聊なる者、或は異術を挾(さしはさ)みて、愚人を眩惑し、或は憤怒激發して(※下記參照)、正長を劫掠し、甚しきは則はち壘を踰(こ)え城に登り、其の主に逼り訴ふる者有り。亦た皆、之を爲せば則はち得、爲さゞれば則はち失ふが故のみ』、


 ○内容の解説に曰く、
『都市の發展に伴ふ人口の都市集中の傾向が、農民の場合には、轉業を意味する農村、それと關連し相表裏する田畑荒廢、及び百姓一揆等の農村問題を惹起することを述べた』、


 事實、當時の江戸は、世界的大都市であつた。
 鎖國政策下にあつて、世界的大都市とは、可笑しな謂ひであるが、こは、人口に於てである。
 當時、江戸の人口は、盛時に於て、百三十から百四十萬人を算へたと云はれる。歐州に於て最大都市と稱せられた倫敦が、西暦1700年前後(元祿九年頃、寶暦九年の當時から數へて約六十年前)で五十萬乃至七十萬人、西暦1801年(享和元年、寶暦九年の當時から四十年後)では約八十六萬五千人であつたと云ふかのだから、如何に江戸が盛況を極めてゐたか分明である。因みに京都は、江戸中期に人口五十萬を越え、大阪は安永八年に人口四十萬五千であつたと云ふ。

 大貳先生は、人口の都市集中の原因が、都會の繁華、享樂生活の誘惑に見出してゐる。
 その實態は、大半が地方農家からの轉住だ。それはつまり、田舍の過疎化を促進することだ。田畑の荒廢は、食の不安定を促すばかりでなく、前記したる如く、米穀を以て通貨同樣と見做したる社會では、深刻も激甚ならざるを得ない。

◎本居宣長大人、『玉くしげ別本』(天明七年)に曰く、
『百姓は困窮年々に募り、未進積り々ゝて、竟に家絶へ、田地荒れば、其田地の年貢を村中へ負する故に、餘の百姓も又堪がたきやうになり、或は困窮にたへかねて農業をすてゝ、江戸大阪城下々々抔へ移りて商人となる者も次第に多く、子供多ければ、一人は詮方もなく百姓に立さすれども、殘りはおほく町人の方へ奉公に出して、竟に町人になりなどする程に、いづれの村にても、百姓の竈は段々にすくなく成て、田地荒れ、郷中次第に衰微す』と。

 男子は田を耕し天下の食物を生産し、女子は機織、衣服の生産に力むる可きであるのに、都市の風に感染して、勤勞をやめ、商工に專心し、利益を追及したのである。
 今日に於ても、亦た、同日の論とせねばならない。

 ※「或は憤怒激發して(原文「或憤怒激發」)」
 所謂る百姓一揆の強訴、越訴を云ふ。
 強訴とは、徒黨を組み、暴力によつて武士を脅迫し、或は村役人、富豪等に暴力を行使してその主張を貫徹せむとしたもの。
 越訴とは、當時に於ける訴訟及び訴願に關する手續きをふめば大半は途中で握りつぶされてしまつたので、已むなく自己の領主家老に、或は將軍幕府要路に、或は他頷の領主へ訴願するもの。


 因みに、百姓一揆に關しては。「革命性」如何が論據の對象となつてゐるが、鳥巣通明氏によれば、農民は彼等を抑壓してゐる社會制度が動かす可からざるものであるとする奴隸的屈從を斷乎として抛棄したが、社會變革の明確な目標を有したのではなく、これは極度の生活の不安による絶望的な爆發と見る可きである、としてゐる。

 いづれにせよ、社會の紊亂は極度に達せむとしつゝあつた。
 そは、理想を得せしめむが爲めの騷動ではなく、困窮より救はれむが爲めの騷動であつたことを鑑みれば、極度に達せんとしつゝあることに疑ひを挾む餘地はない。




●大貳先生の曰く、仝、
今の俗吏の如きは、生まれて輦轂の下に在り、唯だ此の富み足れるをのみ見て、未だ彼れの窮乏を知らず。輙(すな)はち曰く、古今の盛世なり、天下の美士なり、と。
 殊に、陰陽泰否變易居らずして、此に益すれば則はち彼れに損するは、天地の至理なるを知らず。
一旦、不測の難有りて、旌旗目を掩ひ、金鼓耳を駭(おどろ)かし、矛戟前に當り、矢石後に接し、騎卒並び奮ひて、水火之に乘ぜんか、其の將に何の謀に出でんとするかを知らざるなり。 ~中略~
況んや士人の使ふところなる奴隸輿夫の賤しき者は、亡命無頼、恩無く義無く、或は刀鋸の餘に出でゝ、傭力して口を糊し、寄寓して生を爲す者なれば、尚ほ何ぞ其の曲解を爲すえお望まむや。此を以て緩急に使ふ可しと爲すは、亦た愚の甚しきにあらずや。是れ皆、一時の小利を見て、後患を慮らず、人窮し民憂へて、禍根を培養するもののみ』、



 人口の都市集中、僻邑擴大の弊を禦ぐ施策もなき幕府であるが、動亂の兆が既に萌してゐるにも關はらず、有效策無きばかりか、おのれ特權階級であることに驕り、事態の深刻さを全く理解してゐないことを語つてゐる。
 幕吏の不知、況んや農民の困窮をや、だ。
 得てして、今日のエリートやキヤリアと稱される者らも然りだ。學歴、階級あれども、畢竟、總じて無智無能のひとだ。




●大貳先生の曰く、仝、
故に古の天下を治ろしめし者は、務めて其の利を平にし、務めて其の窮を贍(すく)ひ、廣く四國に及ぼし、推して四表に達し、而る後に民は其の土に安んじ、人は其の業を專らにせり。
是れを以て、世は長(とこしな)へに清平にして、國は日に富庶なりき。
書に曰く、偏すること無く、黨すること無くして、王道は蕩々たり、黨すること無く偏すること無くして、王道は平々たり、と。
民を治むるを之れ蕩と謂ひ、國を治むる之れ平と謂ふは、豈に偏すること無く、黨すること無きの謂にあらずや。
今の政を爲す者は其れ蕩々を爲すか、其れ平々を爲すか』と。(「守業第十」完)


 ○内容の解説に曰く、
『當代の社會が、表面平穩にして然もふかく危機を藏するを論じた後をうけ、その打開策を述べて、本章を結んでゐる』。

 この段は、はからずも八十年後、天保八年の「大鹽の擧」の豫言となつてゐる。大鹽中齋公の擧の鎭定に當つた役人の態度その他に就て、劍客、齋藤彌九郎が、藤田東湖先生に報告した記録によれば、その實情は「柳氏新論」に云へるところと全く同じである。吾人は大貳先生の識見に驚嘆せざる能はざるものである。

 而して、愈々、「柳子新論」も殘すところ三である。

by sousiu | 2012-05-09 10:33 | 良書紹介

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