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人心・思想の亂れる麻の如し、さればこそ、神國日本への確信を。

●壽永三年二月、源頼朝公、後白河法皇の近臣刑部卿泰經公に送るの意見書に曰く、
我朝ハ神國也。往古(ノ)神領、相違無ク、其外、今度始テ又各新加せらるゝ歟。就中、去ル此鹿島大明神御上洛ノ由、風聞出來ノ後、賊徒追討、神戮空しからざる者歟

●延元四年、源親房公、『神皇正統記』卷一に曰く、
大日本者神國也。天祖始て基を開き、日神長く統を傳へ給ふ。我國のみ此事有り。異朝には其類无し。此故に神國と云ふ也

●文明十二年七月、一條兼良公、『樵談治要』に曰く、
我國は神國也。天つち開けて後、天神七代、地神五代あひつぎ給ひて、よろづのことわざをはじめ給へり

●天正十九年七月廿五日、豐臣秀吉公、印度國副王に與ふる書翰に曰く、
夫れ、吾が朝は神國也。神は心也、森羅萬象一心を出でず。神に非ざれば其の靈生せず、神に非ざれば其の道成らず』(原文ハ漢文)

●慶長十七年六月附、徳川家康公、濃毘數般(ノビスパン)國主に答ふる書翰に曰く、
抑も吾が邦は神國なり。開闢より以來、神を敬ひ佛を尊ぶ。佛と神と垂跡同じくして別なし。君臣忠義の道、霸國交盟の約を堅くし渝變する無き者、皆、誓ふに神を以て信の證となす』(原文ハ漢文)

○又た、慶長十八年十二月、同公、「耶蘇教禁制」に曰く、
夫れ日本は、元是れ神國也。陰陽測られざる、之を名づけて神と謂ふ。聖の聖たる、靈の靈たる、誰れか尊崇せざらんや』(原文ハ漢文)

●正保三年二月一日、徳川義直公(敬公)、『神祇寶典』に曰く、
夫れ、本朝は神靈の挺生して棲舍する所なり。故に神國と推稱し、其の寶を神器と號す。其の大寶を守る、則はち曰く、神皇と。其の征伐する、則はち曰く、神兵と。其の由りて行ふ所、則はち曰く、神道と』(原文ハ漢文↓↓序文)
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103263574-001.pdf

●林道春、『本朝神社考』に曰く、
夫レ本朝ハ神國也。神武帝、天ニ繼ギテ極ヲ建テシ已來、相續キ相承ケテ、皇緒絶えず、王道惟(これ)ニ弘マル。是レ我ガ天神ノ授クル所ノ道也』(原文ハ漢文↓↓右頁)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0000302OSH&C_CODE=FJ.896.3&IMG_SIZE=&IMG_NO=3

●寛文八年、匹田以正翁、「神風記」卷一に曰く、
葦原ノ國は、太古より神のまします國なれば、國、もとより神の國。民、もとより神の苗裔也

●寛文九年十一月廿七日、山鹿素行翁、『中朝事實』に曰く、
唯中國(日本のこと)開闢より人皇に至る、二百萬歳に垂んとし、人皇より今日に迄び、二千三百歳を過ぐ。而して天神の皇統違はず』(原文ハ漢文)

●文政八年三月、會澤安翁、『新論』上に曰く、
『謹で按ずるに、 神州は太陽の出づる所、元氣の始まる所、天日の嗣、世々宸極を御し、終古易らず、固に、太陽の元首にして、萬國の綱紀なり』(原文ハ漢文)




 以上、限が無いのでこのへんにしておくが、驚く可きは、慕夏思想の權化とも云ふ可き羅山(林道春)でさへも、(他意あるにせよ)日本が神國であることをハツキリ認めてゐる。
 家康にしても然り。屈折してゐるが爲めか、あまり大したことは云うてゐないが、一應は神國であることを認めてゐる(因みに申すまでもなく、天地開闢當時には佛など存さない。日本に於ての佛教徒は、單なる客人の如きだ)。
 腦裏の奧底で異國の魔説に支配されてゐるのか、今日、多くある日本の保守派から、日本乃はち神國といつた主張が滅多に聞かれぬは、賣國思想の持ち主であつた羅山にも及ばぬといふ感あり、何とも頼りなき思ひに驅られると云へば些か過ぎたる言か。

 野生は竊かに、松陰先生を尊敬すると申す者が、終末思想に支配される有樣をみて、寔に滑稽と思はざるを得ないのである。松陰先生の内なる信念を知らずして、一體何を以て尊敬してゐるといふのであるか。
●安政六年、吉田松陰先生、「堀江克之助に與ふる書」に曰く、
神勅相違なければ、日本は未だ亡びず。日本、未だ亡びざれば、正氣、重ねて發生の時は、必ずある也。只今の時勢に頓着するは、神勅を疑ふの罪、輕からざる』と。

 愚案。刻下に最も要せらるゝ可きは、神國に對する確信である。
 野生は必ずしも己れ乃至は國民の權利が侵害されるに對して無頓着たれ、と云ふでない。けれ共、それ以上に、それよりも遙るかに神州の清潔が涜されること、天業の遂行を妨碍せむとする輩の跋扈することを懼れる可きと思ふのである。

 今日、吾人が頭上に漂へる暗雲は少々ならず、かりそめにも國の前途を憂はざる者はないだらう。
 されど、權利の奪還乃至護持を訴へんが爲めの絶叫では日本は動じない。皇國の眞相を明らかにせんと欲する赤心によつて動ずるのである。
 強ひて云へば、日本を滅ぼしてはならぬといふ迂闊にも終末思想に憑依された怯懦者と、皇業を翼贊せんとする立志者との違ひであり、その差は正さに千里の懸隔あると云はねばなるまい。


●明和六年、賀茂眞淵先生、『國意考』に曰く、
『凡ソ世の中は、あら山荒野の有か、自ら道の出來るがごとく、こゝも自ら 神代の道のひろごりて、おのづから國につけたる道のさかえは 皇いよゝゝさかえまさんものを

●安政二年六月、紀維貞先生、『國基』に曰く、
『我が 皇朝 天祖 天孫、國紀を基としてより、以て今日に至る。皇統連綿として、高きこと山の如く、重きこと地の如く、長く天地と、窮極あることなし』と。


 近年に於て時流の速度は加速してゐる。來たる年も來たる年も「反共」「反ロ」或は「反米」と、たゞ「反」それ丈を云へば足る時代は終はつて既に久しいのだ。
 時局を追うても追うても、陸續として頭痛の種は發芽する。
 國難を前にして、恰も國内は亂れる麻の如し。國民が一致團結せずんば、何うして將來、之を乘り越えられるであらう。
 では、皇國に於て、國民の一致團結が可能となるに、果して現在何を缺いてゐるのであるか。

 以爲らく、幕末に於ける時代の趨勢は、今日の速度の比では無かつたであらう。
 勤皇の志士が、それでもブレなかつた唯一と云はずんば第一の理由は、神國に對する確信であつたと野生は信じて疑はないのである。

●文政七年、平田篤胤先生、『古道大意』上卷に曰く、
『扠、世間ノ人ガ、誰モ々ゝ此國ヲサシテ、神國々々と云ヒ、マタ我々ハ、神ノ御末ジヤ、ナドト言マスガ、實ニ是ハ世間ノ人ノ申ス通リニ、違ヒモ無イコトデ、我御國ハ、天神ノ殊ナル御惠ニ依テ、神ノ御生ナサレテ、萬ノ外國トハ、天地懸隔ナ違ヒデ、引比ベニハナラヌ、結構ナ有難イ國デ、尤神國ニ相違ナク、又、我々賤ノ男シヅメメニ至ルマデモ、神ノ御末ニチガイ無イデ厶(厶=ござる)。デハ有レドモ、惜イコトニハ、其神國、マタ神ノ御末ナル所以ノ本ヲ、知ンデ居ル人ガ多イデ厶。夫デハ一向ムチヤクチヤデ、折角神國ニ生レテ、神ノ御末ジヤト云センモ、ナイト申モノデ厶』と。

●天保七年、中林成昌先生、『知命記』に曰く、
『我 皇國は、天地の初より、人倫正しく、君臣上下の分、明かなること日月の如し。故に、神跡盡く則とるべし。茫然しるべからざる漢土の開闢と、同じさまに心得るは、道理にくらきの甚きなり。今にいたりて、君臣正しく、人心清明なるは、一に上世 神明の化育によりてしかる所なり。されば、皇國は神代を主として道を立て、教をなすべし。舍人親王の書紀、竝古事記、舊事紀につきて、神代以來の道をはかり察スべきことなり』と。

by sousiu | 2012-09-03 06:35 | 先哲寶文

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