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昭和十一年「二二六事件」 その三 愚案。 

 橋本徹馬氏は、『天皇と叛乱将校』のなかで、かう述べてゐる。曰く、
『私は叛亂將校達が、多くの點において納得の行かぬ取扱ひを受けながら、なほ最後に係官に頼んで宮城遙拜所をつくつてもらひ、
天皇陛下萬歳
 を奉唱して死んだ心境を思ふと、誠に彼らのために涙なきをえぬ
のである。
 彼らがあの期におよんでなほ 陛下の萬歳を奉唱したのは「自分達が採つた手段は如何に間違つてゐたにせよ、自分達の奮起した動機が、立國の本義に照らし、わが國體を護らんとする一念にあつたことは、やがて 陛下に御理解を願ふ時が必ずある」と確信し、かつ「自分達の死が、日本國の上下の反省の材料となつて、國運が榮えるやうに」と祈つてのことであると思ふ。

 もし當時の軍首腦部や重臣達が、彼らのこの心事をくはしく 天皇に奏上して、その御理解をえてゐないとするならば、その人達も帝國憲法と軍人への勅諭に照らして、當然處罰せらるべき人達ではあるまいか。
 將校達者として處刑したことは、わが上層部があれほどの事件を名何んの反省の材料ともせず、ただ不逞の徒の許すべからざる暴擧として、一方的な憎しみだけで處刑したことを意味するのであるが、それでよいのであらうか。
 たとへば、叛亂將校達を憤激せしめた統制派の人々は、天皇の御名において叛亂將校達を銃殺し終れば、あとは自分達が全く勝ち誇つた氣分で、軍部を指導してよいものであつたか。
 また、たとへば西園寺元老、牧野重臣、岡田首相、鈴木侍從長らの命拾ひをした人達は、これも自分達の側には何の怠慢も、不明もなかつたものとして、その後の長壽を誇つてよいものであつたらうか。
 叛亂將校を極刑に處したのはよい。ただその代りには彼らがわが國政の運用上に關し、死をもつてなしたる直諫は、十分に生かしてやるだけの各種の處置が、絶對に必要であつたと思ふ』と。

 又た曰く、
率直にいへば、叛亂將校達を叛逆者として處刑したとき、大元帥陛下の帥い給ふ 皇軍(すなはち 天皇の軍隊)はすでに亡んだのである。
 彼らを銃殺のために撃つたあの銃聲は、實は 皇軍精神の崩壞を知らしめる響であつたのである。
 しかも、その銃には菊の御紋章が入つてゐるのである。大元帥陛下の御紋章が入つてゐる銃で、刑死の瞬間まで尊皇絶對を信念とした人々を、極度の憎しみで射殺したのである。この深刻なる不祥事の國運におよぼす惡影響を思うて、戰慄せざる者は神經の痲痺者であらう。

 それはまた同時に一般人にたいしても「爾後日本を萬邦無比の國體などと考へる者は、不逞の徒であるぞ」といふ斷案が下つたことをも意味した』と。


 橋本徹馬氏は、この事件の裁き方をみて既に 遺憾ながら、皇軍は名のみとなり下がつたことを痛罵してゐる。
 この文章の後に、
『日本は明治以來幾度か戰爭を遂行した。さうしてそのたびごとに宣戰の詔勅にあるごとく、
「天佑を保有し」
 えた。しかし、今度の戰爭には、天佑は敵國側にあつて、日本の側にはなかつた。それは日本が科學の力において不足であつたのみならず「天佑を保有する」資格なき、侵略國になりさがつてゐたからである

 と述べてゐる。

 最後の一句が氣に掛かる御仁多からうと思ふ。しかし保守も反日も、是非の別こそありけれ、嘗ての戰爭に於て「侵略戰爭」といふ一句に眩惑、さなければ神經過敏となり過ぎてやしまいか。嘗ての大東亞戰爭を「侵略か否か」でその眞意義を知らうとするばかりでは、迂闊にも大切なことを見失つてしまふと危惧すること、果して野生の杞憂なのであらうか、奈何。

 愚案。戰前に對する盲目的な讚美者と盲目的な中傷者(所謂る好戰主義者と唯平和主義者)はまるで腹背の關係に酷似してゐると云はざるを得ない。
 この意味に於ても、二二六事件を檢證することは刻下の大事であるのだ。戰前戰中に於ける體制の盲目的讚美者は、青年將校の衷情を、恰も弊れ靴を棄つるが如く扱つた統制派をば是とすることゝなり。反對に戰前の盲目的な體制批判者はこれを非とするわけであるから、彼れらによつて今猶ほ暗黒を彷徨ふ尊皇赤誠の士をば如何に考へればよいのであるか。
 橋本氏によれば、青年將校達を叛逆者として銃殺せしめた段階で、皇軍は有名無實となつた、と云つてゐる。ならばそれ以降、戰後までの間に於ける 國家の指導部を、手放しに讚美し或は批判するは早計であるまいか。要するに野生は全部と云へぬのであれば少なくとも一部の指導者に、全て過誤と云はずとも少なくとも不足してゐたものはあつたのではないかと惧れる。それは承詔必謹だ。
 つまり、尊皇心なき軍國主義を如何に考へるかといふことだ。それ、今日の世論に照らしてみても、今後の世論を形成する際に於いてみても、頗る考へねばならぬ重要事でなければならない。

 野生は、機ある毎に述べてゐるが、戰前囘歸を以て足れりとしない。戰後史觀の脱却で諒などと思うてゐないのである。敗戰にも神意あり。これを熟慮することなく戰前を無條件で肯定するは、復轍を蹈むに過ぎず、そは、より危險なことなのである。よつて大東亞戰爭を盲目的に美化してゐるわけでもない。眞に聖戰であつたならば何故に 神州が敗れたのであるか、何故に元寇の國難の如く或いは黒船襲來によつて出來した國難の時の如く、神風は吹かなかつたのか、野生にはさつぱり分らぬのである。さりとて反日左翼のいふやうに、あの戰爭を批判する氣には猶ほなれぬ。本當にあの戰爭を肯定し、美化するといふことは、正の部分も負の部分も省察し、將來に之を活かし、民族の事蹟として大東亞戰爭の眞意義を見出せばそれで宜いのだ。

 戰爭なぞ所詮當事國はどちらも聖戰だと思うてゐるわけだし、今これを論じても今尚ほ戰勝國の時間のなかで時が刻まれてゐる以上、所詮は負け犬の遠吠えと見られるまでだ。如何にそれを猛々しく云ふにせよ、繰返すにせよ、そんなことで戰前戰後史觀が超克出來るとは思へない。
 とは云へ、假に、たとへば萬々が一、大東亞戰爭が惡であつたとし、世界中の非難を受けねばならなかつたものだとしても、それでも我れら日本人だけは英靈や先人を冒涜する資格が無いことを忘れてはならぬ。それを識らず他國に阿り、徒らに英靈を冒涜するは、無責任の極みであり、僞善の最たるものである。たとへば街中の人々が我が父母に嫌疑を掛けたとしても、自分だけは父母を信じる心を決して失つてはならない。いづれにせよ、あの戰爭が是であつたか非であつたかの判斷は、冷靜なる後世の世界中の識者が下すであらう(その時、日本が若しも100㌫の評價を得られないにせよ、批判を大に上廻る評價を得ると信じてゐるが)。我れらは先人を確りと信じてゐれば、將來の判斷にもつと餘裕が持てる筈である。今日我れらが省察す可きは、大東亞戰爭の是是非非よりも、もつと肝心なこと、果して名實伴はれる 皇軍であつたのか否かでありたい。云ひきつてしまへば、戰爭の本質に就てあれこれ口角沫を飛ばして論爭を繰り返す前に、當時の 皇國の内情に就て考へる可きだと思ふのである。


 戰前を、いや、詳らかに云へば御一新後を點檢し總括す可き餘地は充分あるのであり、これを疎かとして、戰前戰後史觀の域より出ることは不可能である。況んや、神州の面目を恢復するに於てをや、だ。


 ・・・・結局、廿六日までに全てを書き上げることは出來なかつた。汗。
 そのうち、戰前に就て、卑見を述べてみたいと思ふ。今日は慌てたことに加へ既に眠くて、駄文とならざるを得なく、誤解を招くかとも思ふが、ま、それも仕方ない。今日のところはこれ位にして、眼と手を休めたい。
 おやすみなさい。

by sousiu | 2013-02-27 01:29 | 小論愚案

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