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「國學」に就て。その二 

●鈴屋 本居宣長大人『宇比山蹈』(寛政十年)に曰く、
世に物まなびのすぢしなゞゝ有て云々、物學びとは、皇朝の學問をいふ。そもゝゝむかしより、たゞ學問とのみいへば、漢學のことなる故に、その學と分むために、皇國の事の學をば、和學或は國學などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也。みづからの國のことなれば、皇國の學をこそ、たゞ學問とはいひて、漢學をこそ、分て漢學といふべきことなれ。それももし漢學のこととまじへいひて、まぎるゝところにては、皇朝學などはいひもすべきを、うちまかせてつねに、和學國學などいふは、皇國を外(よそ)にしたるいひやう也もろこし朝鮮於蘭陀などの異國よりこそ、さやうにもいふべきことなれ。みづから吾國のことを、然いふべきよしなし。すべてもろこしは、外の國にて、かの國の事は、何事もみな外の國の事なれば、その心をもて、漢某(かんなに)唐某(たうなに)といふべく、皇國の事は、内の事なれば、分て國の名をいふべきにはあらざるを、昔より世の中おしなべて、漢學をむねとするならひなるによりて、萬づの事をいふに、たゞかのもろこしを、みづからの國のごとく、内にして、皇國をば、返りて外にするは、ことのこゝろたがひて、いみしきひがごと也。此事は、山跡魂をかたむる一端なる故に、まづいふなり』と。

 鈴屋大人は、「和學」や「國學」などと殊更らに云ふは宜しからぬと云ふ。漢學は、よその國の學問であるから、「漢學」と呼んでも結構であるが、皇國の學問をば一々「國學」などといふは、皇國を外にして見てゐる證である、と。

 ところで野生は近年、年號を記する際、一々「皇紀」と記することに遲疑するものだ。皇國の民が紀元を記すに、殊更ら「皇紀」と記す必要があらうか。
 それを別言すれば、耶蘇暦を愛用とまで云はずんば、常用されることをどこかで認めてゐることにつながり、他國人に向けて「皇紀」と記すのであれば兔も角、日本人同士に於ては「紀元二千六百七十三年」或は單に「二千六百七十三年」だけで充分なのである。皇國に於て紀元は一つあるのみ。二つとあらう筈は無いからだ。元號を愛用すればそれで宜い。殊更に神武紀元を使用したいのであれば、紀元で宜いのだ。寧ろ、「2013年」と耶蘇歴で表記せねばならぬ場合にこそ面倒臭いが「西暦2013年」さなくは「基督紀元2013年」と一々記する可きである。その面倒が厭ならば、そんな耶蘇暦など使用せずとも宜いのだ。

 上記の抄録から多少脱線したが、鈴屋大人は大和魂を固める爲めにも、殊更ら「國學」と稱するは僻事であるといふ。これは全くその通りであり、考へさせられる一文である。
 但し、語彙に貧困な野生としては、已むなく、今暫くの間はこの「國學」といふ言葉を使はざるを得ない。

 さて。先哲の遺文を拜讀してみると、なるほど、「國學」なる言葉は古へから使はれてゐた言葉ではない。

 たとへば荷田春滿大人の著作として有名な『創學校啓』は、草稿(享保十三年九月)があり、後に刊本(寛政十年)が廣く流布されるのであるが、この草稿と刊本には、屡々文字の異同あるを見逃せない。
 同じ書でありながら草稿と刊本とを見比べてみれば、草稿「倭學校」→刊本「國學校」、「皇倭之學」→「皇國之學」、「古學」→「古道」、「倭學」→「國學」、「倭語」→「古語」、「古學」→「國學」など、明らかに使用されてゐる文字の相違が散見されるのである。
 蓋し、刊行するに際して、後學の士が修正をなしたものであらう。こゝで注目す可きは、草稿に於てその全文を通じ、「國學」なる文字が見當らないことである。當時は未だ「國學」なる言葉が無かつたか、或は不通であつたか、兔も角春滿大人は專ら、「古學」「倭學」「國家之學」「皇倭之學」と書いてゐる。(參考文獻『荷田東麻呂創學校啓文』)
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    ↑↑↑山田孝雄氏著『荷田東麻呂創學校啓文』昭和十五年十二月十五日『寶文館』發行


 鈴屋大人は『宇比山蹈』にてこれを「和學」「國學」ならぬ「古學」とし、古學に就て、かく述べる。
●仝
古學の輩の、古學とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も、古書によりて、その本を考へ、上代の事を、つまびらかに明らむる學問也。此學問、ちかき世に始まれり。契沖ほふし、歌書に限りてはあれど、此道すぢを開きそめたり。此人をぞ、此まなびのはじめの祖(おや)ともいひつべき。次にいさゝかおくれて羽倉の大人、荷田の東麻呂の宿禰と申せしは、歌書なみならず、すべての古書にわたりて、此こゝろばへを立ち給へりき。かくてわが師あがたゐの大人、この羽倉の大人の教をつぎ給ひ、東國に下り江戸に在て、さかりに此學を唱へ給へるよりぞ、世にはあまねくひろまりにける。大かた奈良の朝よりしてあなたの古への、もろゝゝの事のさまを、こまかに精(くは)しく考へしりて、手にもとるばかりになりぬるは、もはら此大人の、此古學のをしへの功にぞ有ける』と。

 契沖大人に就ては後ちに記するであらうけれども、兔も角、鈴屋大人は契沖大人が歌書の學究を通じて古學の先鞭をつけ、東麻呂(春滿)大人が更らにこれを發展的に弘めたとしてゐる。これを文中にある「あがたゐ」、つまり縣居 賀茂眞淵大人が繼ぎ、縣居大人を師と仰ぐ鈴屋大人によつてより深められたるは疑ふべからざる事實である。
 後に鈴屋大人の門人となる吹氣廼舍 平田篤胤大人あらはれ。荷田春滿、賀茂眞淵、本居宣長、平田篤胤をして今日「國學四大人」と稱せられるのである。


 では一體、今日所謂る「國學」と呼ばれるものはいつのころからその建設が試みられたのであらうか。鈴屋大人は「此學問、ちかき世に始まれり」と述べてゐる。

 樣々な意見があると思ふが、こゝでは國學院大學の教授でもあつた竹岡勝也氏の論より抄録したい。
●竹岡勝也氏、『日本精神叢書四十六、創學校啓-國學の建設』(昭和十五年九月八日、教學局編纂、内閣印刷局發行)に曰く、
『國學の主張が漸く明瞭に現れて來たのは、眞淵以降の事であつたが、眞淵の國學は荷田春滿に出で、春滿に創學校啓があつて、國學の建設に先覺としての地位を示して居る事は、注目されなければならなかつた。併しながら、この春滿の國學は一朝にして成立したものではなかつた。一方には彼に先立つて萬葉研究に一つの時期を劃して居る契沖があり、中世神道の流れを汲み新に勃興の機運に際會して居る流派の神道があり、殊に儒者の祖國運動・復古運動は直接國學の創設を刺戟するものあり、中にも垂加神道を創始しその晩年寧ろこの神道に移つたとも云はれる山崎闇齋及びその門弟の間からは日本精神獨立の主張が現れ、これが國學の建設に重大な作用を及ぼしたと云ふ事も考へられなければならなかつた。國學建設の時期を明確に決定する事は困難であるが、かくの如き風潮に促され、和學は次第に古學となり、古學は更に古道學としての性格を示して來るのであつて、この古道學としての國學の發達を導く關係に於て、國學の建設なる言葉を使用する事が許されるとするならば、その建設に與つて居るものは矢張り契沖・春滿・眞淵等であり、宣長や篤胤の國學は已にこの時に胚胎されて居ると云はねばならない』と。

 而して竹岡氏、その原因に就て探るに、曰く、
國學の發達を導く直接の關係をなすものは、中世以來繼續されて來て居る古語古文學の研究であつた。即ち一般に學問が衰微したと稱せられる中世の社會に於て、兔に角注目せらるべきものに古語古文學の研究があり、しかもこの古語古文學の研究には二つの中心があつた事が見られるであらう。一つは古今・萬葉・伊勢・源氏と云はれる中にあつても特に平安朝文學を對象とする和學の發達であり、次は寧ろ神道意識に促されその間から現れて來て居る古事記・日本書紀の研究であつた
 武家の勃興に伴ふ平安末期の社會の動搖は、我が國の歴史に一つの時期を劃するに足る出來事であつた。その結果武家の幕府が開設せられ、武家意識は著しくこの時代の文化に作用して來るのであるが、その反面に於て京都には尚朝廷が存續せられ、朝廷を中心とする公家社會がこゝに殘されて來て居ると云ふ事は、矢張り中世文化の性格を考へる上に、閑却される事の出來ない關係であつた。そして中世和學と稱せられるものは、先づこの公家社會に擡頭して來て居る事が見られるのであつた。固よりこの時代の公家は、平安朝貴族ではあり得なかつた。併しながら平安朝文化の傳統は、兔に角彼等の間に繼續されて來て居る。換言すれば彼等の文化の源泉は平安朝に求められ、この意味に於て、平安朝は彼等の心の故郷であり、しかもそれはこの世に再現せらるべくもない彼岸の世界として、常に彼等の夢相を誘ふ處の理想世界でなければならなかつた。彼等はかくの如き意味に於て平安朝文化を仰ぎ見たのであつた。~中略~

 次は古事記・日本書紀の研究であるが、これは平安朝研究とは多少その趣を異にして居る。中世は一面神道哲學の興起した時代であつて、外官神官の間だからは神道五部書及びこの五部書を典據とした伊勢神道の發達が現れ、これが一つの權威をなして、この時代の神道思想が導かれて來ると云ふ關係が見られる。殊に吉田神道は、古來古典研究の一つの傳統を持つた吉田家の内部から、矢張り伊勢神道の影響の下に、一派の神道として發達して來たものであつて、中世末期に至つて著しくその社會的勢力を擴大して來た。その他佛教の内部からはまた佛教各宗の神道が擡頭して來る等、神道の哲學的な發達は、兔に角この時代に於ける注目せらるべき現象であつたと云はれなければならなかつた。その性質から云ふならば、固より是等の神道は我が國古典の神道であるとは云はれなかつた。或は佛教と習合し、或は佛教或は道家の思想と結合し、煩瑣であつてしかも雜駁である事を免れなかつたのであるが、兔に角それが神道であるためには、古典の神々にそれゞゝの地位を與へなければならなかつた。これに依つて古典に對する新なる注意が喚起せられ、古典研究の一つの契機がこゝに胚胎されたと云ふ關係を見逃す事は出來なかつたのである。そしてこの古典研究が漸く平安朝研究と相接觸し、和學の發達に就いて新なる豫想を示して來て居るのも矢張りこの時代であつた。~以下略~』と。

 これを踏まへて、中世「和學」と、近世「國學」の持つ性質に就て三つに大別されるとする。曰く、
一つは研究の對象であつて、中世和學にあつてはその對象は主として平安朝文學であり、神代紀の研究がその次に位すると云ふ状態であつたのであるが、近世に至つて新に注意を集め、寧ろその研究がこゝに集中されて來たとも云はれる地位に置かれたものは萬葉であつた。即ち平安朝文學と神代紀との中間に置かれる萬葉であつて、しかもこの萬葉の研究を階梯として、次に古事記の研究に導かれて來て居る事は注目されなければならなかつた
 契沖、春滿、眞淵の諸大人は、萬葉の研究に專心され、次いで宣長大人は古事記の研究に偉大なる功勞あることは周知の事實だ。

『次に擧げられるものは文學論の問題である。即ち中世の文學論は、一般文化現象と共に、甚しく佛教的である事を免れなかつた。 ~中略~ 狂言綺語である源氏の物語を、げにゞゝしく書き連ねた罪業に依つて紫式部は地獄に墜ちたと稱せられ、時にはまた紫式部は觀音の權化であつて、この源氏に依つて人生の無常を悟らしめ、之を弄ぶ物を佛道に導く事をその目的とするものだと解せられる等、彼等の夢想がかけられて居るこの源氏と雖も、佛教的文學論の批判の外に置かれる事は出來なかつたのである。然るに近世に至つて、物語に對するかくの如き解釋は、儒教的な勸善懲惡論と共に、再び國學者の批判の對象とされなければならなかった
 國學が發達するにつれ、復古神道はおほいに唱道されるに至つた。二月廿二日に記述した、「その立場の上に明確に日本的立場を以て純粹日本的なるものを闡明しようとする學問」がつまりこれだ。

『次に今一つの問題は、近世國學に至つて、古語の研究がその面目を一新し、著しく科學的な性格を加へて來たと云ふ事にあつた。中世和學と雖も、古語の研究を無視するものでなかつたに相違ないが、その方法に於て、未だ學問以前の状態に置かれて居たと云はれなければならないものがあつた。然るに近世國學に於ては、國語の語法に注目し、廣くその用例を古典に求め、古語の解釋と云ふ新なる學問の分野がこの近代的な方法に照らされる事に依つて、こゝに無盡藏とも云はるべき問題を示して來たのであつた。そして學問的な立場から云ふならば、國學の立脚する處は寧ろこの分野にあつたとも云はれるのである』と。

 このやうに、竹岡氏は、中世にあつては「和學」とし、近世にあつては「國學」と呼び、その相違を分析した。
 竹岡氏、續けて曰く、
和學が中世から近世に到達するためには、かくの如き性格の轉換を行はなければならなかつた。併しながらこの轉換が行はれた事は、直ちに近世國學の性格が完成された事を意味するものとは見られなかつた。國學は更に古道學として發達し、古道學として完成しなければならない使命を持つて居る。それは中世和學に於ける神道的要素を發揚する事としても見られるであらう』と。



 ところで野生の未見の友人に秋風之舍といふ三重縣在住の若者がある。
 以前、とある御縁によつて書翰の交換を繰り返すやうになり今日に至る。その時、彼れは未だ学生であつたかと記憶する。かく考へれば、筆の交はりを始めてから、かれこれ十二、三年。これで未見といふのも、また凄いことだ。
 秋風之舍主人、最近では求學求道を專らとしてゐるとのこと。↓↓↓↓
              ◆◆うひまなびのともがら◆◆  http://yaplog.jp/akikazenoya/

 関西方面に於ける若手の行動右翼として注目された彼れが、道に目覺めて只管ら學究の日々を送るといふのも、また、時代の移り變はりと申す可き乎、將た又た時代の要請と見做す可き乎。

 未見の有志に敬意を表しつゝ、謹みて左のリンクへ登録させていたゞきます。→→→

by sousiu | 2013-03-01 17:22 | 先哲寶文

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