2013年 03月 17日
昨日は「歌道講座」な氣分
紀の國の 鄙の山里 朝來れば
しきりに鳴ける 春告鳥の聲
前囘までの賀茂眞淵大人の記事は「國意考」を通じて、その三その四と續いてゆくのであるが、その國意考は、“或る人”との問答形式で筆が進められてゐる。その文頭は「或る人の、我は歌やうの小さきことを、心とはし侍らず。世の中を治めむずる唐國の道をこそといふ」と書き始められる。
説明すれば、「或る人が、眞淵大人に對して、貴方は歌を詠むことを主としてゐるが、自分は歌を詠むなんて小さいことをするものではない。世の中を治めむとする事の方が餘程大切なので、その爲めには支那の儒教を學びその道を修めることが大事なのである」と眞淵大人に説いたといふことだ。
之に對して眞淵大人は「おのれたゞ笑ひてこたへず」と。
これ以上書くと、次囘の記事とならぬので、今日のところは控へねばならない。
○小林一郎氏、『皇國精神講座 第十一輯 神皇正統記下』(昭和十八年三月十五日「平凡社」發行)に曰く、
『歌といふものは自分の誠心を表すものであるから、眞に良き歌を詠まうと思へば、自分が優れたものでなければならぬ。人を離れて歌といふものはないのでありますから、さういふやうに歌を小さいものと思ふのは一種の誤解であります』と。
眞由美先生も再三再四、我れらに諭し示されてゐることだ。
直會では、現代短歌とのことに就て眞由美先生や諸先輩から御高説を賜ふ。
同窓の福田邦宏防共新聞社主幹は、今囘二囘目の參加であるが、芽出度く「人」に選ばれた。
序でながら申せば、福田大兄は、前囘「歌道講座」に參加して、眞由美先生の御講義を受けてからといふもの、歌ばかりを詠む日々であるとか。
確かに過日、共に紀伊國へ向かふ折にも、確か二三首を詠んでゐた。以謂らく、これまで既に五六十首は詠んでゐるものと思はれる。
然も今度び「人」に選ばれるに及んでは、今後、野生の歌に關する知つたか振りも通用しなくなる恐れがある。野生の得意顏してゐられる期限も、愈々近付きつゝある。
○詠 福田邦宏兄
吾子育ち 時の流れは はやかりき 消えゆく虹の さみしさに似て
いにしへの 都にたてば 風薫る 千年の歴史 今に学ばん
○詠 近藤勝博兄
人里を 離れ辺りを 見渡せば 吹きさる風の 音もさやけし
山間に 霧立つ景色 眺むれば いつしか雲に なりて行くらし
by sousiu | 2013-03-17 17:30 | 報告