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贈從三位 賀茂眞淵大人 その十一。 『國意考』その九 

 先頃、懇意にさせていたゞいてゐる後藤健一兄より連絡あり。當日乘の感想にはじまり、いきおひ、復古神道や神佛習合に話題が進み、些かの意見交換を行なつた。過日は深夜にまで及び、「幸福実現党」に就て意見を交換した。
 後藤兄は彦根で「維新青年同盟」を主宰してゐる。兄も又た「尊皇」に就て常、考究する志ある一人だ。
 神道に對する考へ方に就て人それゞゝ異同がある。歴史の變遷を鑑みれば、それも又た已むを得ぬと考へる可きか。尤も、かうした議論が發展してこそ、隱れたるものが現はれる場合もあり、生まれるものもあり。兔角戰後日本人は、神道や國學に關して無關心に過ぎたことを猛省す可きであらう。たとへ占領期間に於ける事情があつたにせよ、だ。
 取り敢へず、色々な議論が出でくる可きは已むを得まい。江戸時代も然りであつた。國學に於ける、宣長論に批評を加へた橘守部翁など、頗る興味のそゝられるものがある。(守部翁とその思想は、別の機會に記すであらう)
 さりながら、自分勝手な、何ら根據を有し得ない尊皇論には困つたものだ。マスコミに登場する、如何にも 皇室尊崇を嘯く文化人や賣文屋の手合ひなど、ほとゝゝ困つた存在である。我れらは彼の如き「知らざるの罪」(尤も彼れらは確信犯かも知れぬが)をゆめ犯すことなきやう、そこで先人の學恩を慕ふのである。今日、破れ靴を捨つるが如く扱はれたる「國學」であるが、おほいに見直される時期であると思ふ。
 兔に角、後藤兄ほか陣營内では、行動することも大事だけれども尊皇の眞心を固めることも大事、と考へる人が増えて來たやうに思ふ。野生も又た、その一人であるし、これからもさうあらねばならない。

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承前。
●賀茂眞淵大人、『國意考』に曰く、
○是らは、古への歌の意(こゝろ)詞(ことば)を、あげつろふ(論ふ)まゝに、人はたゞ、歌の言とのみ思ふらむや。其いへるごとく、古への心詞なり。古の歌もて、古の心詞をしり、それを推(おし)て、古への世の有樣をしりて、より、おしさかのぼらしめて、神代のことをもおもふべし。さるを下れる世に、神世の常のことを、言(いふ)人多きが、そを聞(きけ)ば、萬にかまへて、心深く、神代のことを、目の前にみるがごとくいひて、且つばらに、人のこゝろの、おきて成さまに、と(執)りな(成)せり。いでや、然(しか)いふ人の、いかにして、さは甚(はなはだし)ぎや。さもこそ、ふ(古)りにしこと、よく知(しり)つらむとおもひて、それがかける物などを、見聞(みきゝ)ものするに、古へのことは、一つも知(しり)侍らざるなり。然るを、古への人の代をしらで、いとのきて(※遙るかに遠かりて、の意也)、神代のことをば、知べきものかは、こはかの唐國の文ども、すこし見て、それが下れる世に、宋てふ代ありていとゞせばき儒の道を、またゝゝ狹く、理りもて、いひつのれるを、うらや(羨)みて、ひそかに、こゝの神代のことに、うつ(移)したるものなりけり。さる故に、ふつに文みぬ人は、さもこそとおもふを、少しも、やまとの文、唐の文しれる人は、おも(思)ひそ(添)へたることを知て、笑(わらふ)ぞかし。そもゝゝ、かしこ(彼處)にも、いと上つ代には、何のことか有(あり)し。其後に人のつくりしことゞも(事ども)なれば、こゝにも、作り侍るべきことゝおもふにや。人の心もて、作れることは、違ふこと多(おほき)ぞかし。かしこに、ものしれる人の、作りしてふをみるに、天地の心に、かな(叶)はねば、其道、用ひ侍る世は、なかりしなり。よりて、老子てふ人の、天地のまにゝゝ、いはれしことこそ、天が下の道には叶ひ侍るめれ。そをみるに、かしこも、ただ古へは、直かりけり。こゝも、只なほかることは、右にいふ歌の心のごとし。古へは只詞も少く、ことも少し。こと少く、心直き時は、むつかしき教は、用なきことなり。教へねども、直ければこと(事)ゆく(行く)なり。それが中に、人の心は、さまゞゝなれば、わろ(惡)きこと有(ある)を、わろきわざ(業)も、直き心よりすれば、かく(隱)れず。かくれねば、大なることにいたらず。たゞ其一同の亂にて、やむのみ(止む而已)。よりて、古へとても、よき人のをしへ(教)なきにはあらねど、かろ(輕)く少しのことにて足(たり)ぬ。たゞ唐國は、心わろき國なれば、深く教てしも、おもて(表)はよ(善)き樣にて、終(つひ)に大なるわろごと(惡事)して、世をみだ(亂)せり。此國は、もとより、人の直き國にて、少しの教をも、よく守り侍るに、はた天地のまにまに、おこなふこと故に、をしへ(教)ずして宜きなり。さるを唐國の道き(來)たりて、人の心わろ(惡)くなり下れば、唐國にに(似)たるほどのをしへ(教)をいふといへど、さる教は、朝に聞て、夕は忘れゆくものなり。我國の、むかし(昔)のさま(樣)はしか(然)らず。只天地に隨(したがひ)て、すべらぎ(天皇)は日月なり。臣は星なり。おみ(臣)のほしとして、日月を守れば、今もみ(見)るごと、星の日月をおほ(被)ふことなし。されば天津日月星の、古へより傳ふる如く、此すべら(皇)日月も、後の星と、むかしより傳へてかはらず、世の中平らかに治れり。さるをやつこ(奴)の出(いで)て、すべらぎの、おとろ(衰)へ玉ふまにまに、傳へこ(來)し臣もおとろへり。此心をお(推)して、神代の卷を言(いふ)べし。そをおさ(治)むには、古の歌もて、古への心詞を知るが上に、はやう(早う)擧(あげ)たる文どもをよくみよ(見よ)かし』と。

 ところで昔の歌の詞などを彼れ此れ説明すると、歌などといふものは實際の生活に何ら供するところがない。歌を詠まずとも人の生活や社會は發展するのであるから、要するに歌の詞を究めるなどといふことは、單に歌の穿鑿に過ぎず、暇な人がやれば宜い、とこのやうに歌を輕視する人が少なくない。
 だがそれは間違ひである。
 昔の歌を學んでみると、昔の人の心持ちや生活態度、有樣が自づと明らかになつてくる。曾て我れらの先祖がどのやうに日々を暮らしてゐたか、どのやうな國であつたのかを知ることは無益ではなく、寧ろ大切なことなのである。
 さうなると、古への日本は如何に素晴しかつたのか、如何に尊貴に滿ちてゐたか解るやうになるのである。更らにそれ以前に遡つてみれば、神代の有樣も、大體かういふものであつたらう、と解つてくるのである。我れらが國體は、神代から既に始まつてをり、この根本から能く知らねば、今日、國の將來を迷はず誤たず、どの樣に發展させていけば宜いのか、その方針も立たぬ譯である。よつて古への歌を學ぶことも、今日、歌を詠ずることも國の爲めにも將來の爲めにも大事なことなのである。
 近頃、神代の研究をしたやうに吹聽する人もあるが、さういふ人の著書をみると、まるで眼前に見てきたかのやうに説明する人がある。そしてそれら研究の成果として、あれこれ世の中に役に立つよう教へを申してをる。その議論が餘りにも詳細であるから、讀んだ人は、どうもこれは立派な人だ、凄い本だ、と思つてしまふ。なるほど、一讀すれば確かに精しく記されてゐる。併しながら後世の考へで古へを推し量つたものが多く、本當の古への世の有樣といふものは一つも知らないやうである。今より千年二千年を知らぬのに、それよりも遙るかに遠い神代の事など解る筈がない。要するにさういふ研究家は、支那の本ばかりを讀んで、支那人の研究の仕方を以て應用し、日本の古へや神代のことを論じてゐるのだ。
 抑も支那では、昔から物事を研究するに理論を以てした。後に宋の時代となつて、程子などが出で、何でも理窟を付けて説明するやうになつたので、元々狹い儒教の道が一層狹いものとなつて、孔子の云つたことでも、孟子の云つたことでも、理窟を以て説明し、却つてその本當の意味が遠ざかつてしまつたのである。かうした考へ方を日本でも羨んで、理窟好きになつてしまつたのは寔に愚ろかなことである。この手法を以て我れらが神代はかうであつた、かういふ教へだ、と一々説明を試みるのは、全く支那にかぶれた者のすることなのだ。
 日本の神代は決してさういふものなのではない。あまり學問をしない人らが、理窟張つたかうした書を讀むと、これは實に研究が深い、なるほど斯う解釋して教訓とするのかと勘違ひして持て囃すが、少しなりとも本當に日本の古へを研究したり、一通り支那の事を調べた人であるならば、全く日本と支那の、所謂る國民性が異なることが解る。その異なる支那の研究の態度を以て、我が神代を究明せむといふのは、全く見當違ひとして笑ふほかはないのである。
 抑も、支那の昔に聖賢の道があつたと云ふけれども、その又た以前には、何があつたのであらうか。
 たとひ理窟好きの支那であつても、昔は極めて簡單素朴であつて、制度や文物も煩はしくなかつたに違ひない。後々になつて色々の理窟を發明し、これを解釋する人らが出て、説明する人も出たのである。だが、得てして人間の心が勝手に作つた道や考へ方など、間違つてゐることがあり、寧ろ多い場合があることは世の中の有樣をみれば能く解るのである。支那は物知りが多くなつて理窟上手となつたけれども、それは天地自然の道などではないから、たゞ空理空論を弄ぶだけで、實際の應用と云ふものは殆ど出來ない状態ではないか。
 支那の昔には老子(所謂る「道教」を創立させた人物として知られる)といふ人があつたが、この老子は、天地自然の道に戻らなければならぬ、といふやうなことを云つてゐる。これが却つて本當に人間の生活にはよく一致してゐるのだ。老子の云ふ通り、昔は眞つ直ぐな人間だけであつたが段々凡ての事が煩はしくなつた爲めに人間同士が欺き合ふやうになつた。老子のこの思想を考へると、支那も古への人間は眞つ直ぐであつた筈なのだ。
 日本も人々が御互ひに信じ合つて眞つ直ぐであつた古き宜き時代があつて、之は前きに云つた通り、當時の人々の詠んだ歌の心に存してゐる。古へは詞も少なく、事も少なかつた。事も少なく、人々の心が眞つ直ぐであれば小難しい教へなんか要らない。抑も人の心が眞つ直ぐでさへあれば、教へなんか無くても何事もすらゝゝ上手に運ばれて行くのである。勿論、人の心はみな同じではないので惡い事をしてしまふ人もゐる。だがもし惡い事をしても惡い業を働いてしまつても、心は眞つ直ぐであるから、現在のやうに一々正當化したり隱蔽するやうなことも無かつた。隱蔽しないのであるから、直き心を持つ人々の中では、他の者らに諭され互ひに戒めるので、大事にはならない。それ故に萬が一、國が亂れることがあつても、極く短い間の亂れで濟み、後世のやうに亂が擴大されたり、長期間に亙るといふやうなことは無かつたのである。
 無論、昔にも立派な人もあつて、人を教へ導くこともあつたけれども、たとひ大勢の人を導くにせよ、人々が直き心であつたので極く簡單な教へで足りたのである。だが支那は元來(素朴であつたにせよ)心の惡い人が多い國であるから、その惡い心を正しくするにはチョットやソツとの簡單な教へでは到底效果が上がらない。それだから、一々深くまで道理や理窟を以て教へねばならず、支那の聖賢の教へは複雜化したのである。その教へが大變に貴いと支那人は云ふけれども、逆言すれば、それだけ支那人は心がネヂケてゐるといふ證據に他ならぬ。支那の聖賢の書物は表面の文字だけ見れば立派だが、事實に於て世が亂れてゐるばかりであることは、前にも述べた通りである。
 大體、日本は、心の直き人が多い國であるから、少しの教へでも能く守るのである。然もその言動も、天地自然の道に能く一致してゐるので、教へずとも、大凡大丈夫なのである。然るに支那から儒教が來て、人の心が徐々に惡しくなつてしまつた。それをば知らず支那が教へや道の本などと云ふ者がをるけれども、さう云つてゐる本人すら多くが朝に聞いて夕に忘れてゐる。たゞ理窟を弄ぶことが好きなだけなのだ。
 昔の日本人はこんな風では無かつた。天地自然の道に隨つて、天皇は日月なり、臣下は星なり、と素直に考へた。その星が日月を守り、天地の全てが支障なく常に順行する如く、我れら臣下も星であり、日月を仰ぎ奉るところの君を翼贊して、天皇の思召しに從ひ萬事は順行すると考へ、而、順行したのである。星の方が多いからと云つて日月を輕んじたり、或は星が勢力を得て日月を導かむと考へたりすることが無いやうに、臣下が 天皇の御威光を遮るといふやうなことは昔には決してあり得なかつたのである。天地自然の道は素晴しく、之を忘れなければ、日月と星の關係が千萬年を經ても一向變はらないことゝ同樣に、君臣の關係も少しも變はることない。天皇と臣下の間が斯くの如くであるから、これに從うて臣として 君を冒すとか、下から上へ凌がうとするといふやうな企ても發生することなく、總じて世の中は圓滿にして平らけく、國も治まるものなのである。
 嗚呼、支那の教へが傳達され、この教へに擒となる輩も多くなり、君臣の心持ちが崩れつゝある。臣下の分を辨へぬ者らが出で、これに付き從ふ家來も又た、それを知らず識らず學んでしまひ自分の主へ宜からぬ心持ちを抱く。これが延々と續き、擴がり、結局は支那のやうに力や理窟がモノを云ふ世の中となつてしまふ。要するに支那風の複雜な生活樣式や思考を傳來させたことが根本的な誤りだつたのである。それであるから曾ての直き心を持つた眞の日本人に戻らうといふ考へで、神代のことを研究するのである。その爲めには、昔の歌を以て昔の詞をしり、これを頼りに昔の慣はしや價値觀を知らねばならないのである。

by sousiu | 2013-03-31 14:48 | 先哲寶文

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