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縣居門 その十三。油谷倭文子刀自 

 本日は、獄中同志をはじめ、書簡を綴ること一日。
 字の汚いことは野生の大きな劣等感とする一つだ。ペンダコは成長しても、野生の字は決して上達しない。出來得べくんば習字をならひに行きたいと思つてゐる。


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◎油谷倭文子刀自(縣門三才女)


○『國學者傳記集成』(明治卅七年八月廿五日「大日本圖書」發行)所收。

油谷 倭文子 [シヅコ]

生歿
(生) 二三九三年  中御門  享保一八年
(沒) 二四一二年  桃  園  寶暦二年七月一八日 
(年) 二〇

住所
江戸京橋弓町、(墓)深川本誓寺


●『慶長以來 國學家略傳』に曰く、
『倭文子は、江戸京橋弓町、伊勢屋平右衞門の女(むすめ)なり。家世々武門の身なりしが、祖父の代に商賈となりぬ。倭文子は享保十八年を以て生る。幼より、世の童女に秀拔して、才氣超越、容貌端麗にして、閉月羞花の美あり』と。

●『近世三十六家集略傳 卷の上』に曰く、
『倭文子は其先は伊勢の國人なりしが、祖父江戸に出て住り。倭文子、幼より文雅[みやび]を好む。父の家ゆたか(豐か)なりしかば、深窗にして文事[みやび]を學ばしむ。特[こと]に歌文章を好みて學ばん事を請ふに依て、父これを許す。しかして賀茂眞淵翁の門に入しめ、學ぶに爲人(人となり)怜悧穎悟にして、よく師の教を授、世人[よのひと]に超越[うちこえた]り。且、温順柔和にして、父母によく仕事[つかへな]し、朋友[ともがら]によく交り、家に出入[いでいり]する奴婢[しもべ]に至るまで、よく愛憐す。故に人これを賢少女[さかしをとめ]と稱す。父母頻りに愛して掌中[たなごころ]の金玉とす。且、花顏[かんばせ]嬋[いと]娟[うるはし]かる美少女[をとめ]なり

 又た曰く、
『十五歳にして或侯の女夫人[おくがた]に仕ふ。十八歳にして家に歸り、母と共に上野の國、伊香保[いかほ]の温泉[いでゆ]に行(いく)。この時いかほの紀行あり。其文体の妙たるや、絶て處女[をとめ]の作意にあらず。專門の學士[はかせ]たりとも、又およばざるの風致[おもむき]ありて、寛弘の古昔[いにしへ]上東門院の女房、比すべくなど人稱す。其奇才、實に見るべし。縣門の三才女の一なり

 又た曰く、
『惜ひかな、年二十にして寶暦二年壬申七月病て終る。臨死(死に臨みて)父母に先だつことを悲しみ、父母の意を慰むとて歌を作て曰
きりのはの、こよなとひとは、いふめれど、しばしばかりや、いそぐなるらむ
遠近の文人墨客、これを嘆惜[なげきおしみ]て歌文章の金玉をつらねし追悼す。縣居翁、墓碑の銘文を作り、且長歌二首を作りてこれを惜悲[おしかなし]む。父母其悲痛に不堪、故に平生處女[をとめが]作るところの歌文詞の遺稿を輯[あつ]めて卷となし、文布と名称して刊刻し世に流布せしむ』と。
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●縣居大人『倭文子をかなしめる歌』(『賀茂翁家集』卷之二「長歌」所收)に曰く、
ちゝのみの、父にもあらす、はゝそばの、母ならなくに、なく子なす、われをしたひて、いつくしみ、おもひつる兒は、初秋の、露に匂へる、眞萩原、ころもするとや、まねくなる、尾花とふとや、鹿子じもの、ひとりいでたち、うらぶれて、野べにい[去]にきと、聞しより、日にけにまてど、うつた[偏]へに、こともきこえず、ちゝならぬ、われとやとはぬ、はゝならぬ、身とてやうとき、こひしきものを。

初風の、吹うらかへす、秋の野の、荷のうら葉の、うとぶれて、いにしその子は、はぎ見にと、行やはしつる、霧わくと、まどひやはせし、うつし身は、かなしきかもよ、かへりこぬ、道に過ぬと、家人の、告つるものを、おいらくは、おほしきことを、ひたふるに、おもふがまゝに、わするべき、わざならぬをも、たつきりの、まどひけらしな、まとひつゝ、あらばあらまし、なにすとか、まさかをしりて、さらゝゝに、ににひものごと[新喪如]も、なげきしぬらむ。

萩か花、見れば悲しな、逝し人、かへらぬ野へに、匂ふと思へば
あらきする、にひもの秋は、立霧の、思ひ惑ひて、過しだにせじ
』と。


●「倭文子刀自墓碑銘」(『賀茂翁家集』卷之四『倭文子か墓の石にかきつけたる』所收)
をみなあり。名をばしづ子といふ。しづ子はいにしへのしづりにあらずして、心のみやびいにしへにもとづけり。しづ子はいにしへのしづりにあらずして、すがたのまぐはしさ、いまにすぐれたり。其たゞに心のみやびのみなるにあらず、ふみにも歌にもいにしへなり。其すがたのまぐはしかるのみにあらず、したしきにもうときにもにきびたり。しつこ[倭文子]はしつ子[賤兒]にあらずして、父はゝにつかふるには家のしづ兒[賤兒]なせり。中々にそのしづこ[賤婢]をかへり見るには、はたしづ[賤]とせざらまくせり。いはんや、せにしたがひ、またうからやからをしたしむをや。かれその家のにきぶることもうつはたのごとく、やがてしる、いにしへのしつりは、今のよきゝぬにまされることを、またうなゐはなりの時より、ふみをかゝまく思ひて、ことを父母にまをせり。父母うつくしとおもひて、われにつぐ。われもとつはたおらむことをろしへて、まだあまたとしならぬに、いにしへのあやをおることをさとりき。其かけるものは、伊香保の記[ふみ]、ともがきにおくりこたへたる文など、ともにかりはたなりけり。いふならく、いにしへのしづはた帶たれしかまさりなんや。あはれかなしきかもや、年の名は寶の暦の二のとし。秋の風はじめておこる時に、はたちといふよはひにて身まかりぬ。まかるとき歌よみせり。これもまだ、たゞに父母をなごさんするこゝろのみなり。そのよめる歌

人の世に、先だつ事の、なかりせば、桐の一葉も、ちらずやあらまし

と。(※原本は眞名にて書けり。句讀點は野生によるものとす)



 <油谷倭文子刀自の主なる著書>
    文布
    伊香保紀行
    倭文子歌集
     仝  遺集

by sousiu | 2013-04-27 00:33 | 先人顯彰

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