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「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その三  

 佐々木高成先生から戻り、篤胤先生の『呵妄書』の續きだ。

 流れとしては、先づ、批判されるべき太宰春臺の『辯道書』を一定のところまで進ませ、追ひかけてゆくやうに『呵妄書』と『辯辯道書』を進めてゆく。追ひ付いたらば又た、『辯道書』を進めてゆく。
 『呵妄書』に於ける『辯道書』批判は細部に亘つてゐるので、どうしても『呵妄書』の字數が多くなつてゆくだらう。

 讀み易いやうに、春臺の部分は青字、篤胤及び高成先生の言には赤字を用ゐた。これでも野生なりに少しは氣を遣うてゐるつもりである。
 一應斷つておくが、句讀點及び改行、米印は野生によるものだ。


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●大壑 平田篤胤先生『呵妄書』(享和三年癸亥十月刊)に曰く(※、■平四)、
『聖人以神道設教(※聖人は神道を以て教へを設く)とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受て行ひ候云々。凡何事にも鬼神を敬ふ事を先とせしは、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候。 ~※純の言の引用なり~

 聖人以神道設教の七字をとけるやう、爰には祖宗の命を受て行ふと云ひ、又、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候など云ひて、實に神を敬ひ氣にて少しは道に叶へるさまに聞ゆるを、次には庶民は愚昧なるものなれば、鬼神を假て教導すと云ひ、又は民を導くには必上帝神明を稱して號令を出され候など云ふは、一紙一表の中にして忽に齟齬せり。然れ共、聖人の道の意は次に云へる趣ぞ。其意を得たる説ざまに有りける。[其よしは次に委く云ふ]

 さて爰に聖人の道は、何事にも天を奉じと云へるは然る事にて、漢國人の俗(ならはし)として、何事にも天の命とか云ひて、天は賞罰正しく心も有るものゝ如く、いみじく可畏きことに云ふことなれども、天は諸(もろゝゝ)の天津神等の坐ます御國にて、[かく云ふを聞て、漢意の人、耳なれずとて不審ることなかれ]更に心など有るものにてはなく[天則不言而信などいへるも、大いなる空言にして、漢國にても少し見解あるものは、天命など云ふをば□□りぬ]彼の天命など云ふは、皆古への聖人の云ひ出したる言にて、所謂寓言なるをや。[この事も末にいへり]また祖宗の命を受けて、行ふと云ふも然る事にて、皇國にこそあれ漢國などには、更に無きこと也。たまゝゝ書經[説命の上]に夢帝賚予良弼と云ふ事、見えたれ共、是も史記の頭注に據るに殷人は、鬼神を尊む風俗故、武丁(ぶ-てい)夢に托して傳説を擧げたるものなり。[外にもかゝる類まれには見ゆれど大概右の類なるべし]逆臣どもの君を亡し、國を奪ふ時などに、天の命を受たり。祖宗の命を受たりなどと云ふは、皆かこつけの空言なり。また天地山川社稷宗廟の祭を重んじと云へるも、社稷宗廟の祭などは、先祖を祭るにて、是とさして祭るもの有れば、然ることなれども、天地山川などを祭るは 皇國にては、正しき傳説有りて山ノ神も川ノ神も御名なでも、つぶさに傳はりて祭るなれば、正しきを西戎國にては傳説なく、たゞ心もなき天地山川を祭るにて、譬へばいたづらに其座ます宮殿を祭るが如く、いはゆる虚祭と云ふものなん有りける』と。


●曰く(※、平五)
又士君子は義理を知て行ひ候得ども、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假て教導せざれば、其心一定しがたく、聖人是を知しめして、およそ民を導くには、必上帝神明を稱して號令を出され候。 ~※純の言の引用にて以下略す~

 爰に士君子と有るは、庶民と對へていへるを思ふに、彼(か)の成徳の人とやらんを云ふにてはなく、たゞ官(つかさ)高く威(いきほひ)ある人を云ふと見ゆれば理きこえず。譬(たとへ)位たかき人にても、いと愚昧にて、義理の分らぬ人もあり。又、庶民といへども、いとさかしく義理に明なる者もあり。賢(さかし)と愚(おろか)なるは、人々の生質にこそあれ、いかで貴賤の故ならんや。譬へば漢國などにても、王と有るものゝ愚昧にして臣(やつこ)の爲に、國を奪はるゝも有、また奴ながらも、王の國を奪へるごとき、かしこきものもあるにあらずや。然れば人の賢愚は貴賤によるべからず。是のみは當らぬ説なれ共、此條にいへること共皆よく當れり。

 然れ共未(いまだ)くはしからず。まづ天命と云ふは、書經舜典に有扈氏云々。天用勦絶其命。今予惟恭行之罰。また秦誓に皇天震怒命我文考。肅將天威。また湯誓に夏氏有罪。予畏上帝。不敢不正など有る類、すべて西戎籍(からぶみ)にかゝることをいへる、みな純が云る如く、假に天命上帝皇天などを稱して號令を出し、民の心を一定せしめ、罪有る者を伐ち、或は逆臣共の君を弑して、國を奪ひ取らん爲に、愚民を欺き催促せるものなり。また可笑き(をかし-き)は武王が語に、商罪貫盈。天命誅之。予弗順天。厥罪惟鈞など云へるは、欲深き者の途に落てある財(たから)を拾ひて、獨祝して是神の賜はるところなり。今、是を拾はずんば、返て神の憎しみを受べしなど、獨免して私せるがごとく、いと心ばへの似たることなり。是等にても天命と云ひ上帝など云ふは、皆聖人の作り設と云る寓言なる事をさとるべし。~略~』


 篤胤先生の所謂る支那の天命、實體なきを云ふ。續けていはく、


『天道天命と云ふを、實事として迷へる人は、論(あげつら)ひのかぎりに有らねど、是を聖人の寓言と云ふ事をさとりては、書經などを讀む毎に、胸わろく思はず、拳を握る計りの事多し。純がこの條(くだり)にいへる樣、返す返すも當れる釋ざまになんある』と。


●曰く(※、平六)
近世理學者流の説に云々。皆神道を知らざるものにて候。 ~※純の言の引用なり~

 爰に理學者を呵(しか)りて、聖人の民を治る術にて假に鬼神を説くと云ふは、皆神道を知らぬ者にて候と云ふは、前の條に鬼神をかりて教導すると云ひ、上帝神明を稱して號令を出すといへるとは、表裏の異説にして自語相違、更に一人の説と思はれず。彼、唯我獨尊と高ぶれる男の言語にさも似たり。初學の人はさこそ惑ふべし。然れども、一條の文につきて云ふべし。まづ理學者をのみ、むげに神を知らぬ者のごとくいへれども、然云ふ人もいかで眞の神を知らん。知らざる故にこそ種々(くさ-ぐさ)僻説もいへるなれ。是(こ)はいはゆる五十歩にして百歩を笑ふとか云ふ類にぞ有ける』と。





                                                    ~續く。

by sousiu | 2013-07-25 12:27 | 大義論爭

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