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「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 その十四 

 去る五月十二日、日本誠龍社・貴田會長に半ば騙され半ば脅かされ連れて行かれた田植ゑの稻が收獲され、我が宅に送られて來た。
◆◆◆五月十二日 農業體驗・・・田植ゑ編 於栃木縣小川市
 ふむふむ。我れながら中々上出來、…のやうな氣がする。※迂闊にも田植ゑは殆ど休憩してしまつたので偉さうには云へぬのだ。
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・・・稻に就て、柳田國男氏の『稻の日本史』から是非とも引用すべき一文あり、探さうとしたところ遂に野生の身長に及ばむとする紙の山が崩れおちた。また今度だ!怒。

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●佐々木高成先生『辯辯道書』下卷に曰く、
『~前略~ 吾州に道なき事を謂て、日本に道といふことなき證據は、仁義禮樂孝悌の文字に和訓なく候、凡日本に元來有る事には必和訓有之候、和訓なきは日本に元來此事なき故にて候、と。是等の事不知文盲の説、笑ひをだも失ふ。先(※まづ)仁にはいつくしむと訓して此訓習(よみ-ならはし)あり、義はよろしと訓し、禮はうやまひと訓し、樂は鳴音(なる-おと)と訓す。神代卷上に、册尊崩御の後、葬於紀伊國熊野有馬村(※紀伊國熊野の有馬村にかくしまつる)、花の時には花を以て祭り、又、用鼓吹幡旗舞而祭矣(※つゝみふえ旗を用ひて舞ひて祭る)とあり、是吾國樂の起りなり。鼓吹(つゝみふえ)は天の靈幡、旗は地の靈、舞は人の靈にて、天地人和合の樂なり。其後岩戸の前にて鈿女命手に持茅纏盾(※茅纏盾を持)てと有より、火處燒覆槽置(ほ-どころ-やき-うけ-ところ-かし)と云迄は後世神樂の故縁なり、何ぞ禮樂なしといふや。
 又孝は親に事(つかふ)ると訓し、悌(てい)は兄にしたがふと訓す。上略して孝をつかふると訓し、悌をしたがふと訓ず。たとひ和訓なくもなんぞ道の障あらんや。辯道者が重むずる所の書經等にも仁義禮智の連綿の文字なし。しからば仁義禮智なしといはんや。書經にも限らず詩禮易春秋にも見えず、又論語にも見えず、孟子に至つて始て仁義禮智、外より鑠(しやく)するにあらずといふ言見えたり。堯舜の時には天下に道なきゆゑ、仁義禮智といふことなきや。しかれば儒學の一大缺事なり。吾國仁義禮樂孝悌和訓なし、故に道なしとは堯舜孔子への差合ならん。況や吾國和訓あり、又仁義禮智吾國に合ていはゞ、玉、鉾、鏡の徳なり。此三つの神器は至極の習有て、天子讓位即位の受授の大事にして、我國の堅、天下の大道なり。表向一通りをいへば神皇正統記に智仁勇の三つにたとへて、玉は仁、鉾は勇、鏡は智なり。別に重き口決あり、外に柱と云、玄櫛と云、嚢と云、浮橋と云、龍雷と云、土金と云、その人ををしゆるの次第、階級ことゞゝくそなはれり、彼れが淺陋の學の智る所にあらず。

 次に 人皇四十代の頃までは、天子も兄弟叔姪夫婦に成玉ひ候、その間に異國と通路して、中華の聖人の道此國に行はれて、天下の萬事皆中華を學び候。夫より此國の人禮義を知り、人倫の道を覺悟して禽獣の行をなさず、今の世のいやしき輩までも禮義に背くものを見ては、畜類の如くに思ひ候は聖人の教の及べるにて候。日本の今の世を見るに、中華の書に及ばずといへども、天下は全く聖人の道にて治り候と存る、と。是等の事も曲學者尊信の異國の無道不義をおしかくして、日本の紀綱の正しきを云かすめんとする謀慮。異國は七國の時分より彌人倫の道明かならず。楚公、齊公の類、兄弟夫婦となり、又唐の玄宗弟の妃を奪ひ妻とせられし事、全く畜類同然の行ひなり。我惡をかくし、人の善を覆はんとは宇宙第一の曲者なり』と。

 曰く、
『定めて叔姪夫婦に成給ふとは 神武帝の事成べし。玉依姫は海神の娘、そのうへ是には重々の子細あり。辯道者未だ神の門戸をだもうかゞはず、宮中の美は何ぞ見る事を得んや、笑ふべし。その上吾國人道の正しき事、允恭天皇二十四年夏六月、御膳(み-にへ)の羹汁(あつ-もの)凝以作氷(※凝りて氷となる)、天皇異之卜其所由(※天皇あやしみて其の所由をうらなはしむ)、卜者曰(※うらべの者曰く)、有内亂(※うちのつみあり)蓋親親相姧(左「女」+「女」、右「干」=奸=たはけ、※蓋しはらから相奸るか)、時有人曰(※時に人ありて曰く)、木梨輕太子(※き-なし-かるの-たい-し)、奸同母妹輕大娘皇女(※同母妹輕大娘皇女を奸けたまへり)。因以推問焉(※因つて以て推問ふに)、辭既實也(※こと既にまこと也)、太子は爲是儲君不得罪(※太子は是れ儲君たり罪するを得ず)、則流輕大娘皇女於伊豫(※則はち輕大娘皇女を伊豫に流す)とあり。これら神國の奇事恐るべし。異邦千萬人の不義有りとも聖人の道に損もなし、汚(けがれ)もなし、況や吾國一二の不義有りとも、神道において少も々ゝ障りなし、よくゝゝ思慮すべし。儒は天理自然の道、主公無我にあらずんば會得しがたかるべし。曲學者固滯にして國書を見ることなく、偏執我異遂に神明の罪人とならん』と。

by sousiu | 2013-10-07 00:55 | 大義論爭

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