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「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 番外  

 『辯道書』に關して聊か長くなつてしまつた爲め、讀み手は嘸ぞ難儀したことであらう。

 篤胤大人の『呵妄書』を寫し終へればそれで全ておしまひとしたのでは余りにも不親切過ぎると感じた野生は、小林健三氏の文章より抄出し、これをお復習ひせむとする。
 讀み易きやう、小林氏の意見を太字、春臺の意見である『辯道書』を緑字、篤胤大人の反論である『呵妄書』を青字とする。
 くどいやうであるが、本當にこれでおしまひとするので、閑暇のあるお方はもう少し、お付き合ひ下さりますやう、冀ふ。

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●小林健三氏、『垂加神道の研究』(昭和十五年十二月廿六日「至文堂」發行)所收

■■■ 『辯道書』からみる太宰春臺の思想(神道否定論)に就て ■■■
徂徠學派の神道否定説は、徂徠に發し、太宰純に至つて展開した。
 先づ徂徠は太平策の中に神道を論じて、

「神道と云ふことは卜部兼倶が作れることにて、上代に其沙汰なきことなり」
 といつてゐる。太宰純の辯道書はこれを更に詳細に述べたものである』と。

 太宰春臺は荻生徂徠の思想的影響を濃厚にしたる學者の一人であることはいふまでもない。ま、この場で徂徠をも登場させてしまつてはややこしくなるので今は語る可きではない。

『~中略~ そこで進んで(※純=春臺は)神道否定の根據を説いて曰く、
「凡そ今の人、神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是れ一つの道と心得候事、大なる謬りにて候。神道は本聖人の道の中に有之候。周易に、觀天之神道。而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)。聖人以神道設教。而天下服矣と有之、神道といふこと始めて此の文に見え候。天之神道とは、日月星辰、風雨霜露、寒暑晝夜の類の如き、凡そ天地の間に有る事の人力の所爲にあらざるは、皆、神の所爲にて、萬物の造化、是れより起こり、是れを以て成就するを天の神道と申し候。聖人以神道設教とは、聖人の道は何事も天を奉じ、祖宗の命を受けて行なひ候。されば古の先王天下を治めたまふに、天地山川、社稷宗廟の祭を重んじ、祷祠祭祀して鬼神につかへ、民の爲に年を祈り、災を禳ひ、卜筮して疑を決するが如き、凡そ何事にも鬼神を敬ふことを先とし候は、人事を盡くしたる上には、鬼神の助を得て其の事を成就せん爲にて候。又た士君子は義理を知りて行なひ候へ共、庶民は愚昧なる者にて、萬事に疑慮おほき故に、鬼神を假りて教導せざれば其の心一定しがたく候。聖人是れを知ろしめして、およそ民を導くには必ず 上帝神明を稱して號令を出され候。是れ聖人の神道にて候。聖人以神道設教とは是れを申し候。近世理學者流の説に、君子は理りを明らめて鬼神に惑ふ事無しといひて、一向に鬼神を破り、或は聖人の民を治める術にて、假りに鬼神を説くといふは皆神道を知らざる者にて候。君子三畏の第一に、畏天命と孔子の仰せられ候も、天命は天の神道にて、人智を以て測られぬ故に、君子是れを畏るゝにて候。周易の繋辭に、陰陽不測之謂神といひ、説卦に、神也者妙萬物而爲言者也といふ。皆鬼神の妙にして測られぬことを説かれ候。されば天の命、鬼神のしわざは何の理り、何の故といふことを聖人も知りたまはず、只畏れて敬ふより外のこと無く候。下民を教へたまふも此の心にて、少しも民を欺き、方便して鬼神をいひ立てるにては無く候。此の義は理學者の知る所にあらず候、よくゝゝ御勘辨候て御得心あるべく候。然れば神道は實に聖人の道の中に籠り居り候。聖人の道の外に、別に神道とて一つの道あるにてはなく候」(※「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」序、參照)
 純によれば神道は吾國の道にあらず、支那聖人の教の中に含有されてゐる、といふのである』と。

 そして曰く、
『~中略~ (純によれば)かくの如く神道は巫祝の神祇祭祀のことではなく、當代に神道と稱するものは佛見によりしものである。從て國家としてこの巫祝の道のみを神道と心得て學ぶことは誤りである。かくて結論として純は次の如く斷定した。
「總じて今の神道といふは、唯一三元といへども皆佛道に本づきて杜撰したる事なる故に、外には佛道と敵するやうにて、内は一致にて候。今の神道の如くなる事、中古までは無き事なる故に、昔の記録、假名草紙の中にも見えず候。是にて聖徳太子の時、神道いまだ有らざりし事を御得心あるべく候。左に申候如く、神道といふ文字は周易に出候て、聖人の道の中の一義にて候を、今の中には巫祝の道を神道と心得候て、王公大人より士農工商に至るまで、是を好み學ぶ者多く候は大なる誤にて、以ての外の僻事と存候。巫祝の道は只、鬼神の給事するのみにて、吾人の身を修め、家を治め、國を治め、天下を治むる道にあらず候へば、巫祝にあらざる者は知らずして、少も事かけず候間、士君子の學ぶべき事にあらずと思しめさるべく候」(※「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」その五、參照)
「日本には元來道といふこと無く候。近き此神道を説く者いかめしく、我國の道とて高妙なる樣に申候へ共、皆後世にいひ出したる虚談妄説にて候」(※その十三、參照)
 太宰純の神道否定論はこゝに至つて極まるのである』と。


■■■ 『辯道書』及び太宰春臺の思想に反論する『呵妄書』 ■■■

 曰く、
『辯道書の神道否定論に憤激して堂々の論を發表したのは平田篤胤であつた。呵妄書一卷(享和三年。時に二十八歳)は單に太宰氏に對する駁論たるのみならず、本居の神觀をうけて復古神道の立場を闡明した大著である。篤胤の出發點たる意義はこゝに存する。

 次に吾々は兩者の學説を比較して、神道研究の態度を明かにしようと思ふ。
 辯道書に
「神武天皇より三十代欽明天皇の頃までは本朝に道といふ事未有らず、萬事うひゝゝ敷候處に云々」とあるが、篤胤は一應之れを認めた上で激しくたゝくのである。曰く、
「往昔より 皇國の學をもとなへて神典をも説教へし、百識者等西戎國に嚴重なるをしへの道有ことをうらやみ 皇國の古にもさる教の道有りとていふは、皆僻言なる中に、太宰純獨 皇國の古には、道なかりしことを云ひ顯して是を辯ず。實に卓見とも云ふべきか」(※その一、參照)

 吾國上代に支那と對立的なる道徳的な教があつたのではないとするのである。
 然らば神道は吾國の教ではなかつたのであるか。太宰純は明かに神道の獨立的存在を否定して「凡今の人神道を我國の道と思ひ、儒佛道とならべて是を一つの道と心得候事大なる謬にて候」と斷じてゐる。之に對して篤胤は僞物と眞物との區別すべきを論じていふ。

「神道は吾が國の大道にして、天皇の天の下を治め給ふ道なれば、儒佛の道とならべ云ふまでもなく、掛まくも可畏けれど、上 天皇をはじめ奉り下萬民に至るまで、儒佛を廢てたゞ一向に神道を信じ尊まん事、更に謬りにあらず。純が世に在しほどまでは未唯一兩部の輩のみにして眞の道を説くものある事なく、神道といへば錫杖をふり或は鈴をならし大祓詞[俗に中臣祓といふは誤なり]を唱へ其外あやしきわざをのみ目なれし時なれば、爰に神道といへるも專夫れらをさして云へるにて、實に神道を知りて云るにあらねば、深くとがむべきにあらずといへども、此書を讀る人々の 皇國の道は、實にかゝることよと思ひて謬らんことの長息はしければ辨ふるなり。次々に云ふを見て、眞ノ道は俗人の思ふところとは、大に異なることをさとるべし」

 而して太宰純の神道觀の根柢は周易の「觀天之神道、而四時不忒(「弋」+「心」=たが、不忒=たがはず)、聖人以神道設教、而天下服矣」にあつたことは上に述べた通りであるが、之が儒家神道の中心概念でもあつた。故に之を打破ることは神道史上深甚の意義を有するものである。この點篤胤は明快に辨拆していふ。
「太宰のみならず、すべて儒家者流のいはゆる神道は、如何にも周易[上象傳大觀の章]に見えて、爰にいへるごときことを神道といへり。然れども 皇國の道をも本聖人の道の中にありと云ひて、同事に思ひたるは神道と書る文字に拘泥る大いなる僻言なり。今其よしを委曲にいはん。まづ 皇國の道に云ふ神と、周易の神道に神とさすものとは、いたく異なり。其故は周易に神と云は純が云へるごとく、天地の間にあらゆる事どもの人力にあらずして、自に行るゝ其靈妙なる處を神の所以として神道とはいへるなり。然れども實に神と云ふ者有りとていへるにあらず。たゞ其妙なる處をさして假に設ていへる號のみなり。[周易繁辭に陰陽不測之謂神といひ、説卦に神也者妙萬物而爲言者也]其よしは人の云ふを待ずして儒書よむ人は、皆よく知れることなり。また 皇國の道に云ふ神は、古事記書紀の神代の御卷に見えたる、天地の諸の神々にて、[また鳥獣草木山海其餘も尋常ならず、可畏ものを神と云ることあり。委くは吾翁の古事記傳に見えたり]假に設けていへる號に非ず。其神々のはじめ給へる道故、神道とは云ふなり。[古へに通ぜざる人はかく云ふを聞てもまづ疑ふべし]道の體を神妙とほめていへるにては無きなり。 ~中略~ 古へより百の識者等のみな古へを解誤れるは、かゝる事に心付ず、古意古言をば尋んものとも思はず。たゞ漢説の理と文字とのさだめをのみ旨として迷へるが故に、眞の處を曉り得ざりしなり。純が周易の神道と 皇國の神道とを同じことなりと云へるも、皆、文字に泥めるが故なり。[すべて 皇國の古は文字によらずして解ざればさとりがたし]すべて少しにても似寄たることあれば、強て西土を本なりと云ひて、いはゆる牽強附會を云ふは、普通の神道者と西戎書籍にのみなづめる儒者どもの癖なるぞかし」

 これは非常なる卓見であるが、更に一段と這般の道理を闡明して餘す所ないのは次の論定である。太宰純は周易の神道の内容を説明して「聖人の道は何事も天を奉じ祖宗の命を受て行ひ候云々、凡何事にも鬼神を敬ふ事を先とせしは人事を盡したる上には鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候」といつたが、之をその根柢に於いて粉碎したのは左の言である。篤胤の曰く、
「聖人以神道設教の七字をとけるやう、爰には祖宗の命を受て行ふと云ひ、又、人事を盡したる上には、鬼神の助を得て其事を成就せん爲にて候など云ひて、實に神を敬ひ氣にて少しは道に叶へるさまに聞ゆるを、次には庶民は愚昧なるものなれば、鬼神を假て教導すと云ひ、又は民を導くには必上帝神明を稱して號令を出され候など云ふは、一紙一表の中にして忽に齟齬せり。然れ共、聖人の道の意は次に云へる趣ぞ。其意を得たる説ざまに有りける。
 さて爰に聖人の道は、何事にも天を奉じと云へるは然る事にて、漢國人の俗として、何事にも天の命とか云ひて、天は賞罰正しく心も有るものゝ如く、いみじく可畏きことに云ふことなれども、天は諸の天津神等の坐ます御國にて、[かく云ふを聞て、漢意の人、耳なれずとて不審ることなかれ]更に心など有るものにてはなく[天則不言而信などいへるも、大いなる空言にして、漢國にても少し見解あるものは、天命など云ふをば□□りぬ]彼の天命など云ふは、皆古への聖人の云ひ出したる言にて、所謂寓言なるをや。[この事も末にいへり]また祖宗の命を受けて、行ふと云ふも然る事にて、皇國にこそあれ漢國などには、更に無きこと也。たまゝゝ書經[説命の上]に夢帝賚予良弼と云ふ事、見えたれ共、是も史記の頭注に據るに殷人は、鬼神を尊む風俗故、武丁夢に托して傳説を擧げたるものなり。[外にもかゝる類まれには見ゆれど大概右の類なるべし]逆臣どもの君を亡し、國を奪ふ時などに、天の命を受たり。祖宗の命を受たりなどと云ふは、皆かこつけの空言なり。また天地山川社稷宗廟の祭を重んじと云へるも、社稷宗廟の祭などは、先祖を祭るにて、是とさして祭るもの有れば、然ることなれども、天地山川などを祭るは 皇國にては、正しき傳説有りて山ノ神も川ノ神も御名なでも、つぶさに傳はりて祭るなれば、正しきを西戎國にては傳説なく、たゞ心もなき天地山川を祭るにて、譬へばいたづらに其座ます宮殿を祭るが如く、いはゆる虚祭と云ふものなん有りける」
(※その三、參照)

 舌端火を吐き、眞に堂々たる意見であつて、太宰純の議論は、こゝに鐵鎚を下されて完全に敗北したのである』と。


 書籍名が『垂加神道の研究』としながらも、篤胤大人の『呵妄書』に就て少なからず書かれてあつたので、“まとめ”として之を抄出した。
「辯道書」と、「呵妄書」及び「辯辯道書」 番外  _f0226095_22341826.jpg

 次囘の「大義論爭」、乞ふ、御期待。




※※※※※※ 追伸 ※※※※※※

 今日は抃喜せざる可からざるの吉報がある。
 もつこすゞきだ君が、熊本の有志と一心戮力、熊本市に『神風連の』から『神風連の』へと改名せしめるやう再三再四に亘りて申し出るや、その衷情漸く市の意に達し、今度び正しく書き換へられるに至つた。
 てつきり彼れは今ごろ警視廳に逮捕拘留されてゐるとばかり思うてゐたが、相變はらず肥後圀で活躍してゐたのだなア・・・。千兩千兩(←井上井月翁風に)。↓↓↓↓

◆◆◆ もっこすのための熊本愛郷新聞 ◆◆◆ 「乱」から「変」へ。記載変更!!
http://gendousha.exblog.jp/21341980/

◆◆◆ 熊本市のホームページ ◆◆◆
http://www.manyou-kumamoto.jp/contents.cfm?id=462

 實に芽出度き哉。雀躍たる思ひを抑へきれない。う~~~む・・・・・、かういふ時、井月のごとくお酒が飲めたらなア・・・。ま、兎に角、まづは青汁で乾杯だ。

by sousiu | 2013-10-24 22:21 | 大義論爭

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