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上社御柱祭 二日

 四月三日 宮澤會長の御世話により「横谷温泉旅館」に宿泊。
 景色もよく空氣がおいしい。

 六時起床。風呂へ入り、朝食。八時には國英會・中澤憲治副長が迎へに來て呉れ、今日はいよゝゝ、「木落と」しが行はれる。テレビで報道されることで知る人も多い。

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 ところで上社の御柱には總て前後に、『メドでこ』と呼ばれるV字の柱が建てられてゐる。こゝに氏子がしがみ付き、おんべを振る。下の寫眞がそれである。

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「木落とし」では、坂の上から御柱を落とすのであるが、まゝこの「メドてこ」が外れ、怪我人はおろか、死者まで出るといふ。一目「木落とし」を見ようと全國から觀光客が、中央本線・茅野驛近くのこゝに集まる。
 宮澤會長の御世話により、我々は、最初の本宮一之御柱「木落とし」を見る機會に惠まれた。

 十時丁度になると、氏子の掛け聲と見物人の響めきが高まり、御柱が動き出した。
 十七メートルにも達する巨木が坂を滑り落ちた。
 今囘は坂を盛つて高さと勾配を加へたことも幸ひしたか、御柱は一氣に下まで到着した。
 メドでこは壞れることもなく、氏子も亦た無事であつた。正に壓卷であつた。滿場大拍手。

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 危險を伴ひ乍らも平安時代から受け繼がれてゐるこの御柱祭。
この後、幅四十メートルの宮川を越える『川越え』、『里曳き』を經て、『建御柱』で終はり、再び七年後を待つことゝなる。下社御柱祭は一週間後。

 我々は木落としを拜見し、國英會諸兄と共に諏訪大社を參拜。

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 奧山の大木 里に下りて 神となるー、



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 信州の素晴しさに魅了されつゝ、歸路へ向つた。


 今の度び、多大にも御世話になつた國英會・宮澤會長、中澤副長はじめ諸兄、そして關係者皆樣に幾重にも御禮を申上げたい。百拜敬拍手

# by sousiu | 2010-04-03 21:20 | 日々所感

上社御柱祭 初日

 四月二日 早朝六時、産土神社參拜後、四名の門下生と共に長野縣へ向ふ。

 長野で活躍する「政治結社 國英會」の御招きを賜はり、
七年に一度行はれるてふ『上社御柱祭』を見學する爲めである。

 午前十時に長野縣へ到着。國英會諸兄に出迎へられ、宮澤會長の邸宅に御邪魔した。

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『御柱祭』は日本三大奇祭の一つに數へられる。
 その起源は古く、諏訪大社の式年造營御柱大祭として、一千二百年以上も前から行はれてゐるといふ。


 八ヶ岳に育つ十六本の樅の巨木(重さ十二、三トン)を山から曳き出し、各地域毎に分擔して、建御名方神(タケミナカタノカミ)と妃神八坂刀賣神(ヤサカトメノカミ)を御祀する上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮へ四本づゝ御神木を運ぶのである。道中には、民家を通り、亦た『木落とし』は怪我人が續發することでも有名だ。これを『山出し』と呼び、三日間行はれる。

 この日は上社御柱祭の「山出し」初日。御神木は、茅野市にある國英會・宮澤會長の自宅前を通過することから、この日御誘ひいたゞいた次第である。

 宮澤夫妻はじめ國英會諸兄の溢れるばかりの御饗しを賜はり乍ら、午後ニ時ころか、一本目の御柱が現はれた。一團約一千人ゐるさうで、邸宅前の道路は一變、そら賑やかな樣相となつた。
 この祭が行はれる週の三日間は三連休にする會社が多く、諏訪地方擧つての一大行事であるさうな。
 老若男女は地域の法被を纏ひ、聲をはり上げて御柱を曳いてゐる。その活氣に、見てゐる小生も血沸き心躍る思ひに至つたのである。

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                  ※宮澤會長宅二階より撮影

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                  ※玄關より撮影

# by sousiu | 2010-04-03 19:09 | 日々所感

朝日新聞「淺沼事件50年 檢證と美化」を讀みて想ふ

 小生が師と欽募する阿形充規先生より屡賜はる話がある。
『果して今、殺すに價する者があるか。この樣な時代だからこそ、有爲な青年は直情徑行を謹み、克己求道に勵む可し矣』と。

 然り。小生は其の價値に相當する大惡奸を探すこと能はぬ。
 だが同時に、相手側の彼らも、我が陣營から梁川星巖・梅田定明・池内陶所・賴三樹三郎、そして吉田松陰・橋本景岳諸先生、そのいづれかの一人を探すこと能はぬであらう。

 小生に最も云ひ得ることであるが拔刀する可くの側も、そして斬られる可くの側も、一言にして述べるならば、皆々小者になつたてふことである。

 どちらが先に出現しても良いと思ふ。一方が登場すれば必然と、片方も誕生する。それもて維新の招來大ならん、と。換言すれば、どちらかの出現なくして維新は始動する能はぬと云へるのであるまいか。
 即今の日本にドラマを求めるのであれば、そは、餘りにも役者不足であることを認識せねばなるまい。
斯くなれば、これからも、ゆつくりゝゝゝと、我が日本の内外には亂脈が重なり、深まること想像するに易し。

 栂尾の明惠上人が興味深いことを申してをる。曰く
今日の世上、大惡の人物がをらないといふことが、この亂世の治らぬ原因である』と。

# by sousiu | 2010-04-01 03:15 | 小論愚案

日本精神練磨に精進を

 起床、産土神社參拜、豆乳を購入。快晴。
 昨日は慌たゞしく、更新する能はず。

 戰後體制と訣別せよー。尤もなる主張である。
之を達成可能たらしめるに、非難し一刀兩斷す可きあるは何ぞ。

 そこで具體的なる疑問があるを呈す。
 我が日本國民は「戰後體制」の犧牲者であるの乎?或いは加害者であるとまでは云はねど共謀者であるの乎?

 思ふに非難される可きは、その「戰後體制」のみ而已ではあるまい。


 蘇峰徳富猪一郎翁曰く
『併しかく云へば、徳川幕府は日本國民に、大なる不幸と詛(のろ)ひとを與へたのみかと云ふに、決して然らず。凡そ今日に於ける、善にせよ惡にせよ、日本人氣質(かたぎ)なるものは、この二百五十年の間に養成せられた。徳川氏が日本精神を製造したとは云はぬが、これを鍛錬し、これを陶冶し、これを今日の状態に至らしめた。約して云へば武士道がそれである。我等は或る意味に於ては、この二百五十年間の一大訓練に向つて、徳川幕府に感謝すべき、若干の理由の存在する事を忘れてはならぬ』)※文中括弧()は小生による。


『即ち感謝すべき材料の一二を擧ぐれば、日本人に遵法的精神を盛んならしめたる事。秩序を重んずる事を知らせたる事。信義を守る事を知らせたる事。廉潔を重んずべき事を知らせたる事。艱苦缺乏に耐ふべき習慣を養成したる事。忠孝の大義を一般に普及せしめたる事等である。併し悲しい哉今日では、この我等の祖先が養ひ來りたる、日本人氣質なるものは、何處に飛び去つたか。恰かも紛失したる現状である』(『勝利者の悲哀』昭和廿七年九月十日「大日本雄辯會講談社」發行)と。


 我らは蘇峰翁の「徳川幕府」を「戰後體制」に置き替へて、現代を考へる可きである。
 自民黨から民主黨政權に至れる戰後體制にあつて、その批判に明け暮れるばかりでは、埒の空かぬは自明であらう。左樣な時代であるからこそ、理想を掲げ、國學を發展し、我が精神を鍛へねばならぬのである。


 前囘のコメントに續投するやうであるが、民主黨體制打倒の幟旗を掲げると共に、自身の内にも日本精神練成の幟旗を掲げたい。

# by sousiu | 2010-03-30 18:43 | 小論愚案

3・28 民主黨に物申す神奈川縣大會

 本日は、同志先輩と共に「民主黨に物申す神奈川縣大會」を行なつた。
天候が危ぶまれたが、ついぞ解散まで雨に降られることなく行進を遂げること適つた。

 とは云へ昨日の陽氣が嘘であるかのやうに、強い寒風に見舞はれた。
それでも馳せ參じて呉れた同志諸先輩は、その數350名。

 大會挨拶で瑞穗塾々長・伊藤滿先輩が「參加者全員が主催者であり呼び掛け人であり云々」と。
正に其の通りであると思ふ。三澤浩一先輩もよく云ふ「“參加して呉れて有難う”とは云ひませぬ。何故ならば誰れ彼れの爲めの運動ではないのだから」と。

一人々々の意識の結晶體が「集會」や「デモ行進」てふ現象に繋がつてゐるだけである。


 三月廿二日、『維新といふを、政治體制の變革と考へるは愚かである』と云うた。
さう斷言することにいさゝかも小生は躊躇しない。
 だが、默過すると云ふことゝは別論であることは云ふまでもない。
『國體明徴』の大義のもと、これを阻まむとする民主黨政權と、その政策を、木つ端微塵に粉碎する可く350のかひなは天をも貫かむばかりであつた。


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# by sousiu | 2010-03-28 21:57 | 報告